未来社会の道しるべ

新しい社会を切り開く視点の提供

日本人初の宇宙飛行士が女性だったらよかったのに

日本人初の宇宙飛行士の秋山豊寛を知っている人は、おそらく私同様に40代以上の人でしょう。JAXAが日本中から募集して選んだエリートである毛利衛など3名が日本人初の宇宙飛行士になるはずでした。しかし、1986年のチャレンジャー号爆発事故で、NASAによる日本人宇宙飛行が延期となる間に、バブル景気にうかれたTBSが金にものをいわせて、1990年、突如、ソ連の宇宙船に社員の秋山を載せてしまいました。

秋山は自他ともに認める「普通のおじさん」でした。当時、TBSの看板報道番組のニュース23で司会の(やはり40代以上の日本人なら全員記憶している)筑紫哲也の休みの日、しばしば秋山が代理の司会を務めましたが、ひどいものでした。「普通のおじさん」とは、日本全体のおじさんの平均であり、ジャーナリストとしては普通ではなく、落第だったと私は確信しています。事実、秋山は日本史上に輝く栄誉を与えてくれたTBSを1995年には退職しています。

あの時、秋山を選択したことは、「普通のおじさんでも宇宙飛行士になれる」ことを証明した意義はあったかもしれません。それこそ、ZOZOの前澤友作が「宇宙飛行をするべきでない人でも宇宙飛行ができてしまう」ことを証明したように、です。しかし、どちらも「日本初(前澤の場合は民間人として)」の栄誉まで与えるべきではなかったと考えます。(特に前澤は)日本の宇宙開発史として消えない汚点を残してしまいました。

ところで、日本人初の宇宙飛行士が女性になる可能性が少しでもあったことを記憶している日本人は、現在、どれくらいいるのでしょうか。秋山と同じく、ソ連の宇宙船に乗る最終候補者に残った女性がいました。TBS社員の菊池涼子です。1994年に日本人女性初の宇宙飛行士となるエリート中のエリートの向井千秋とは比べ物にならない小粒の経歴で、向井より12才も年下、秋山より22才も年下で、当時26才です。

秋山が宇宙に行った時は、私もよく記憶しています。大ニュースで、日本中が秋山のことで盛り上がっていました。しかし、菊池のことは全く記憶していません。日本人初の宇宙飛行士の最終候補者2名中の一人が女性だったと知ったのは、菊池が2000年にTBSを退職した後、「宇宙を語る」(立花隆著、書籍情報社)を読んでからです。

立花隆の宇宙本といえば、1983年に出版された「宇宙からの帰還」(立花隆著、中央公論新社)というアメリカでもあまり実施されていない宇宙飛行士12名のインタビューを記録した本があります。その12名のアメリカ人宇宙飛行士と匹敵するほど、あるいはそれ以上に私の記憶に刻まれたのは「宇宙を語る」の菊池です。

立花との対話を読むだけで、さすが日本初の宇宙飛行士の最終候補者に残った女性だ、と思わせるほど頭の回転は速く、ユーモアのセンスもあると分かります。自分が選ばれなかったことに不平をあまり言わないので、寛容力も高いようです。立花との対話でふと気になったことがあると、「今度、テレシコワ(世界初の女性宇宙飛行士で、菊池は訓練中に友だちになる)に電話して聞いてみます」と気軽に答えることから、積極性もあります。「宇宙を語る」は、他にも毛利や向井などの実際に宇宙飛行士になれた者や、アーサー・C・クラーク河合隼雄司馬遼太郎などの作家・学者も出てきますが、向井との対話を除けば、駄文を残したとしか思えません。菊池との対話は大変面白く、向井との対話はそれに次ぎますが、それ以外の対話は読む価値はないでしょう。

菊池が日本人初の宇宙飛行士に選ばれなかったことが、私は残念でなりません。このブログで何度も書いている通り、「国際比較して日本だと女性が恵まれていない」は大きな誤解だと私は確信しています。もし菊池が選ばれていたなら、「日本で女性が恵まれていないはずがない。なぜなら、日本は世界で唯一、初めての宇宙飛行士として女性を選んだのだから」と私が言えました。

もし本当に菊池が選ばれていたら、世界初の女性宇宙飛行士のテレシコワが60年間も持っている女性の宇宙飛行士最年少記録も、菊池によって破られていました。それくらい価値ある記録を残せた菊池をなぜ選ばなかったのでしょうか。能力でいえば、秋山より菊池であったことは間違いないはずです。

私がこの記事を書くきっかけになったのは、「人生はそれでも続く」(読売新聞社会部「あれから」取材班著、新潮新書)で菊池が出てきたからです。そこで改めて、菊池がカメラマンであることを知りました(「宇宙との対話」にも書いていたのかもしれませんが、忘れていました)。秋山は入社2年目にはBBCに出向し、TBS屈指の国際ジャーナリストとしてアメリカのレーガン大統領にもインタビューをしています。実績では秋山に分があることは論を俟ちません。それでも(自分が選べたなら、菊池にしているのになあ)という気がしてなりません。

40代以下の日本人なら、おそらく菊池を知らないでしょうし、50代以上の日本人も「ジャーナリストでベテランの秋山をさしおいてカメラマンで26才の菊池が宇宙飛行士になる可能性など最初からなかった」と考えているのではないでしょうか。そういった日本人や、未来の日本人のために、ささやかですが、菊池涼子の記録をここに残しておきます。同時に、月面着陸したエリート中のエリートのアメリカ人と匹敵するほどの能力を持つ(と、ある日本人に20年間以上も信じさせる)若い優秀な女性が日本にもいたことをここに記録しておきます。

始まる前から失敗が約束された公費2兆円以上の半導体事業

今朝の朝日新聞を読んで、笑っていけないと思わないながらも笑ってしまう特集記事がありました。ラピダスとTSMCの新規半導体事業にどちらも1兆円以上も公費が投じられて、失敗するとほぼ断定されている記事です。

私は半導体の専門家ではありませんが、三菱の国産ジェットのように数百億円以上の莫大な国費が投じられた営利事業で、成功した例を記憶していないので、よくて成功率は10%だろうと予想しています。朝日新聞では、電機メーカーの半導体モリー事業を統合した「エルピーダメモリ」、液晶事業の「ジャパンディスプレイ」の失敗を例にして、今回も失敗する危険性を指摘しています。

微細加工研究所の湯之上所長はTSMC事業について「回路の原板の初期工程とパッケージングの後工程は台湾で行われるので、台湾有事の際、やはり日本で半導体は製造できない。これでは経済安保の強化にならない」と批判しています。湯之上は2021年の衆議院でも「経産省が出てきた時点でアウトだ」と発言したそうです。他人事では全くなく、自分や自分の子どもたちにツケを回す借金が2兆円規模で増える予想で、怒りの声をあげるべきなのですが、「もう日本はどうにもならない」という諦観が20年以上も私を支配しているせいか、笑ってしまいました。

同じく湯之上の考察です。

「失敗の本質は何か。官僚は自分が担当の2~3年の間に実績を上げてステップアップしたい。実績とはいくら予算を使ったかということで、それを勲章と考える。目に見える最も分かりやすい実績です。しかし、予算を使った後は異動してしまい、それが競争力に寄与したのか、誰も分析しない。反省もしない。どんちゃん騒ぐだけです。こうしたことは、もう繰り返してはいけないと思います」

「木を見て森を見ず」の失敗

前回の記事の続きです。

「完本福島第一原発メルトダウンまでの五十年」(烏賀陽弘道著、悠人書院)は2021年に発売されていますが、「完本」が前に着かない通常版は2016年に発売されamazonで絶賛されています。

通常版では「テレビ報道のカメラに収録されるために、すでに終わった会議をもう一度繰り返した」と菅直人首相(当時)を徹底して批判しています。この通常版を送ったところ、著者も「びっくりした」ことに、菅直人が著者との対談に応じました。菅元首相を前にすると、「私は決して菅さんを非難するつもりはないのです」と媚びへつらうので、呆れました。「日本人である前に人間である」で書いたような、取材相手に阿諛追従するジャーナリストの典型です。

それにしても、通常版では重箱の隅をつつくようなミスをいくつもあげつらって、菅を罵倒していたのに、菅を非難する意図はないとは、一体どの口が言っているんだ、と思ってしまいます。

この本では、政府の事故調査委員会ではほぼ無視されているECCS(緊急炉心冷却装置)とPBS(プラント事故挙動データシステム)に執着しています。ECCSについては前回の記事で論じました。

PBSSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)の補助として使われる原発事故予想ソフトです。SPEEDIは、現実の原発事故時の電源喪失により計器類が作動しなくなったため使用できませんでした。もしもの原発事故のために莫大な税金を投入してSPEEDIを作り上げたのに、肝心の原発事故の時に役立たずになるとは論外、と非難が殺到して、事故後、SPEEDIは使用しないことになり、当然、予算投入もしないことになりました。

一方、PBS電源喪失により計器類が作動しなくなっても、リアルタイムのデータがなくても、使用できます。まさにPBSSPEEDIが使えない時のためにあるシステムだったのに、原発事故では活用された形跡がない、PBSさえ活用すれば、住民の被爆は阻止できた、と2016年の通常版では、鬼の首をとったかのように著者は批判していました。

通常版出版後、著者は原子力安全・保安院の平岡次長(当時)とも2016年に3回対談できています。そこで、見事に著者は平岡に論破されています。

事実として、PBSは2011年の原発事故時に使われています。しかし、SPEEDIですら原発事故前から、それほど正確な予想ができないと事故訓練で分かっていました。リアルタイムのデータを利用しないPBSはリアルタイムのデータを利用するSPEEDIより、さらに不正確になります。PBSは3月11日の夕方に一度2号機の事故進展予想として使われていたものの、「参考程度」と平岡次長より示され、住民避難には使用されていません。なぜなら、PBSが22時50分炉心露出、23時50分燃料被膜管破損、24時50分燃料溶解とキレイに一時間ごとに進展していくと予想していたりするからです。正確に1時間ごとに事故が進展するわけがないことは素人でも分かるのに、平岡に指摘されるまで著者は気づかず、「(100億円もかけた)PBSの予想を参考程度と平岡次長が報告したので、政府首脳部もPBSの予想を重視しなかった」と通常版では平岡を罵倒していました。

著者の愚かさがよく分かるのが、なぜPBSを二号機だけに使ったのかと疑問に思っていることです。理由は単純で、3月11日の夕方から深夜にかけては、2号機が最も深刻だと考えられていたので、PBSで2号機の事故の進展を予想したのです。

PBSに執着する著者は菅に取材したときもPBSの結果を見せますが、「これは2号機の予想だよ」と菅に言われると、「そうです。2号機なんです。それが謎なんです。なぜ1号機、3号機がないのか分からない」と間抜けな返答をしています。それについて菅は「(実際は1号の方が危険だったが)きっと当時は2号が危ないと思ったのでしょう」と正解を言っています。

呆れ果てるのは、平岡との対談でPBSを2号機のみに使った理由を正しく指摘された後に、「菅総理の記憶は1号機と2号機を混同している」というタイトルまでつけて、菅のせいにしていることです。混乱しているのは著者であって、菅ではありません。著者は思考力の低いバカであるだけでなく、自分のミスを他人になすりつけるので、人間性にも問題があります。

情けないのは、著者が「日本では原発事故は起きないことになっていたので、それに対する準備もしなくてよくなった」と2016年発売の通常版では何度も主張していたのに、2021年発売の完本の結論で「ここで断言するが『日本では原発のシビア・アクシデントは起きないことになっていたので、それに対する準備もなかった』という俗説は虚偽である」とまで書いていることです。原発事故が起きないとの「原発神話」が日本を覆っていたため、原発事故の準備がろくにされていなかった側面は、多くの人が指摘しています。その弊害は「福島原発事故現場職員の被害者意識」で私も書いた通りです。それが「虚偽」だと「断言」までするのは、どう考えても行き過ぎです。第二次大戦時、「ニミッツマッカーサー、出てくりゃ、地獄に逆落とし」と罵倒していたのに、敗戦後にはマッカーサーを神のように崇めた日本人たちを思い出してしまいます。

ところで、原発事故のように「日本人は、一人ひとりは心優しく、善意にあふれた礼儀正しい人ばかりなのに、集団になると発狂したようなことをする」のはなぜか、と著者は根源的な問いを提示しています。そして、日本組織の「分業」が生む悪弊が原因と考えます。

「日本政府は巨大な官僚制度の迷宮」なので、原発事故に限らず、政府を取材するとき、ジャーナリストがまず調べなくてはならないのは「何省の何課が担当部署なのか」を見つけることです。著者のように35年も記者をしていると、「省庁にたらい回しされること」は「仕事のうち」になって驚かなくなるようです。

「私たちが政府の仕事と認識しているものは、数えきれないほどの無数の『専門』『担当』に細分化され、分業化されている。そして、横の連絡がほとんどない。『担当』が違うと、隣の省庁、いや下手をすると『隣の課』がなにをしているのか、お互いに知らない。分業という名の無数の『タコツボ』の集合体が日本の国家官僚システムである」

これは日本の組織の弊害の本質を突いているでしょう。その分野だけなら、完璧な正解ですが、全体として見たら、大失敗ということはよくあります。医療現場でいえば、専門医がよくやる失敗です。

日本人が陥りやすい間違った討論法」でも書いたように、二つ以上の問題を同時に真偽判定すると、問題がややこしくなります。しかし、現実に社会に存在する問題のほとんどは、医療問題も含めて、二つどころか、複数の問題と相互に関係しています。

たとえば、「この程度の骨折なら人工関節置換術をすべきである」「患者は手術を希望していない」「患者の金銭管理をしている息子は手術を希望している」「患者の生活能力は著しく低下しており、高齢なので、たとえ手術しても、歩行可能になる期間はわずかである」などの問題が同時に存在するのが、普通です。これの最適解は「場合による」としか言いようがありません。にもかかわらず、多くの日本の整形外科は外国と比較すると「この程度の骨折なら人工関節置換術をすべきである」に注目しすぎ、その他の要因を忘れて、非効率な医療費と医療労力が使われています。

いわゆる「木を見て森を見ず」の失敗は、日本で極めて多く、かつ失敗の度合いもひどい場合があります。特に2011年の原発事故では頻出します。本来であれば、専門化あるいは細分化されても、全ての関係者が全体像を掴むようにするべきです。

このように著者は日本の官僚機構の弊害を見事に指摘しています。

しかし、なにをトチ狂ったのか、原子力安全委員長の班目春樹東大工学部教授が、法律に従って菅主張に助言を与えたことを著者は批判しています。班目は原発が正常に作動している状態での専門家であり、事故を起こした原発の専門家ではない、という理由からです。「当時の政府・官僚は原子力工学原発事故防災が全く別ジャンルであることを知らなかったし、理解していなかった」「目の前でビルが燃えているのに、そのビルを設計した建築家を連れてきて『どうすればいいでしょう』とアドバイスを求めるようなものだ。だから、班目委員長の対応や応答は終始ちぐはぐなのである」と著者は批判しています。

著者はどこまでバカなのでしょうか。自身で到達した論理すら一貫していません。班目は原子力安全委員長なので、「私は事故時の責任者ではありません」「対応できません」と言うことは許されない地位です。この理屈なら、大地震発生時に緊急災害対策本部の部長が首相になっているのに、首相が「私は地震の専門家ではありません」「対応できません」と言っていいことになります。

本によると、班目より「原発事故」に詳しい専門家たちがいたようで、確かにその人たちも呼ぶべきだったかもしれませんが、だかといって原子力安全委員長の班目は「専門家ではないので、よく分からない」と口が裂けても言えないはずですし、事実、言っていません。

むしろ、原発事故の詳細な知識を原子力安全委員長である班目に事故前から十分に持たせておくことこそ、重要だったはずです。班目に限らず、寺坂保安院院長や平岡保安院はもちろん、末端の原発の現場職員にも、事故時に全体を見渡せる能力を持たせておくべきでした。「確かに、ここは修理すべきだけど、この根本問題が解決しないのなら、無意味だ」などは全職員が知っていないと、事故時に、その知識の周知で無駄な時間が発生するからです。

この本の帯には「たった一人の事故調査委員会」と著者は誇らしく書いています。しかし、「たった一人のプライドだけは高いバカ」である点は注意すべきでしょう。この本を読んで、「しょせん、たった一人の素人の自己調査委員会は、専門家の一言であっさり論破される。やっぱり素人は原発事故など調べようがない」と思う人が出てこないか心配です。前回の記事にも書いたように、原発事故についてはまだまだ調査不十分なところがあります。そこから将来の日本人が得られる教訓は、いくつもあるので、この本の著者のように意気消沈せずに、素人でも原発事故について調べるべきです。

原発事故調査は不十分である

「完本福島第一原発メルトダウンまでの五十年」(烏賀陽弘道著、悠人書院)は2つの意味を持つ本でした。一つは事故調査委員会でも注目されていないECCS(非常用炉心歴薬装置)の重要性を指摘している点です。もう一つは、著者の能力と内面に問題がありすぎるため、専門家に見事に論破され、本質を見誤っている点です。

まずは、この本の最高の美点であるECCSは、一号機のIC(非常用復水器)や二、三号機のRCIC(原子炉隔離時冷却系)より遥かに冷却性能が勝ります。たとえば、RCICの注水能力は1秒当たり0.038立法メートルですが、ECCSは0.315と約8倍です。ICに至っては、冷却機能はあるものの、水位を維持する機能がありません。本では、「家が火事なのに、目の前にある消防車を使わずに、消化器やバケツばかり使っているうちに、家が全焼してしまった」(著者はジャーナリストですが、本では、このような文学的表現が頻出します)と比喩で批判しています。

世界中でECCSに注目したのは著者だけで、事故調査委員会でも全く触れていないようです。これは確かに一理あり、原子力安全・保安院の平岡次長(当時)も2016年時の対談で「後付けではそういうこと(ECCSを使うべきだった)と言えるかもしれませんが……」と十分に反論できていません。ECCSを使うと原子炉の寿命が短くなることを恐れたのかもしれませんが、東海第二発電所では地震直後、津波到達前にECCSが使われているので、著者はECCSの問題をもっと追及すべきでしょう。しかし、次の記事に書くように、PBSの件で平岡に論破されてしまうと、鬼の首をとったと思っていた著者は恥ずかしくなったのか、ECCSの件をろくに追及できないまま、終わっています。

この本の後に出版された「失敗の本質」(NHKスペシャルメルトダウン』取材班著、講談社現代新書)でもICばかり注目して、ECCSは無視されていますが、ECCSさえ起動させていれば、ICなど無視できるので、NHKは本質を見誤っているとも言えます。

だから、この本は素晴らしい内容も書いてあるのですが、いかんせん、著者の能力の低さ、性格の悪さ、情けなさが目立つため、そこばかり注目してしまうかもしれません。

読んでいる途中で、こちらの記事で私が批判した「フェイクニュースの見分け方」(烏賀陽弘道著、新潮新書)の著者と気づきました。その記事に書いたように、意見を表明した人ではなく、意見そのもので判断すべき普遍的真理は変わりません。著者はどうしようもない奴ですが、だからといって、著者が注目したECCSの原発事故時の価値まで変わるわけではありません。

事故調査委員会の調査は黒川委員長自身が後継組織を作るべきと最終提言で述べるほど、十分ではありませんでした。だから、この本で著者と対談した菅直人が言っているように、事故調査委員会で不足している部分を、今後も調査報道すべきことは間違いありません。

一方、この本で事故調査委員会は、次のように罵倒されています。「質問も、吉田所長に『教えてもらう』という姿勢になったのが分かる」「あきらかに質問者は吉田所長に負けている」「この視点からも、事故調査委員会や報道はまったく検証をくわえない」「国会、政府事故調はどちらもこの角度を見落としている」「そのせいで一番肝心の『事故原因の究明』が不発のまま終わっている」

まるで事故調査委員会が、無能で道徳面でも許されない調査をしたかのような書き方です。しかし、上記の菅と平岡の対談で自身の見解の浅さを自覚した著者は「本書を読了された方はお気づきのように、私が会って取材した人たちは、誰もが職務に忠実かつ勤勉、職業意識の高い人たちだった」と180度方向転換していることです。

著者の呆れかえる手のひら返しについては、次の記事で論じます。

運命の五分間はなかった

太平洋戦争は、その名の通り太平洋が主戦場です。海軍が主役となる戦争であり、その海軍の主役は空母(飛行機を発着させる船)、つまり飛行機になりました。これを戦前から最も正しく予想していたのは、敗れた日本の山本五十六連合艦隊司令長官であり、その山本の真珠湾の空母奇襲により、アメリカ海軍は大敗北を喫しています。

ミッドウェー海戦は、日本の主力空母とアメリカの主力空母の戦争です。ミッドウェー海戦が太平洋戦争全体の分岐点になることは、戦う前から双方が予想していましたし、事実、そうなりました(もっとも、ミッドウェー海戦で日本が勝っても、軍事生産力の差から、いずれ日本が負けることは確実でした)。ミッドウェー海戦は現在の高校の日本史教科書はもちろん、世界史の教科書にも必ず出てくる世界史上の大決戦です。

ミッドウェー海戦での日本の直接の敗因は、「運命の五分間」であると海戦に参加していた第一航空艦隊参謀長の草鹿龍之介が「文藝春秋」に1949年に書いています。ミッドウェー海戦は、日本の主力空母4隻が全て沈没されました。ミッドウェー近くに日本の飛行場はないので、必然的に、空母に乗せていた主力飛行機も全て失いました。

ミッドウェー海戦で、日本の空母4隻に魚雷を撃とうとしているアメリカの飛行機は日本のゼロ戦が撃ち落としていましたが、突如上空から現れたアメリカの急降下爆撃機が、日本の空母4隻全てに爆弾を落としました。魚雷と異なり、爆弾は空母を含む船攻撃用ではなく地上攻撃用であり、破壊力はあまりないので、通常であれば、これは「損害軽微」で済みます。しかし、この時、日本の空母は魚雷を積んだ飛行機で満ち溢れていました。アメリカの飛行機の落した爆弾が日本の飛行機に積んである魚雷を誘爆し、さらに他の日本の飛行機の魚雷に誘爆することを繰り返し、最後には空母の弾薬庫まで爆発します。日本の4つの主力空母は全て、わずかなアメリカ軍の攻撃により生じた誘爆の連鎖により沈没します。

あと5分あれば、日本の空母から飛行機は全て飛びたてるはずでした。そうすれば、真珠湾のように、日本が圧勝したはずです。まさに悔やんでも悔やみきれない5分間です。

では、なぜこの運命の五分間が生じたのでしょうか。それは兵装転換です。ミッドウェー海戦は空母対空母の決戦なので、当初、日本の空母に載っている飛行機は、対戦艦用魚雷を積んでいました。しかし、ミッドウェー島の攻撃の必要性ありとの連絡があり、対戦艦用魚雷から地上攻撃用爆弾に兵装転換が行われます。この兵装転換は、すぐにはできません。飛行機を一台一台、甲板から船内に降ろして、数人が手順に従って魚雷から爆弾へと付け替えて、甲板に飛行機をあげます。全機の準備が整い、さあ、ミッドウェー島の爆撃だとなったところで、「いや、やっぱり敵空母がいる」との連絡があります。現場から不平の声は出たでしょうが、2度目の兵装転換、地上用爆弾から対戦艦用魚雷に付け替えます。この兵装転換が終わって、全機が出発体制になって飛び立つ「五分前」に、アメリカの急降下爆撃機が現れたのです。

だから、兵装転換さえなければ、日本はミッドウェー海戦で大敗しなかったのです。アメリカ海軍のミニッツ大将も空母部隊指揮官のスプルーアンス中将も運命の五分間があったことを認め、アメリカの勝利は「幸運だった」と述べています。

よく指摘されるのは、二度の兵装転換が珊瑚海海戦でも起きていたことです。珊瑚海海戦は、世界史上初めての空母対空母の戦いです(ミッドウェー海戦は史上二度目の空母対空母の戦いで、主力空母同士の戦いとしては世界初です)。珊瑚海海戦は戦術的には日本の勝利で、戦略的には日本の敗北でした(アメリカのニミッツ大将の言葉)。当時の日本は勝ったと思い込んでいたので、ろくに反省もせず、危機的な二度の兵装転換が起こったことも海軍内で周知されませんでした。そして、ミッドウェー海戦でも、二度の兵装転換が起きて、結果として、これが運命の五分間を生じさせ、日本史上最悪の敗戦に繋がりました。

この私も長年信じていた「運命の五分間」は俗説だったようです。「戦史叢書」(防衛研修所戦史室著、朝雲新聞社)によると「運命の五分間はなかった」が昔からはっきりしているそうです。アメリカ側の写真や日本側の命令時間から、アメリカの飛行機が空母を攻撃した時、日本の空母に飛行機が満載している事実はなく、兵装転換はまだ完了していないことも事実のようです。そもそも、兵装転換していなくても、ミッドウェー海戦は日本が負けた可能性が高い、という評価が今では一般的です。

それではなぜニミッツ大将などのアメリカ側も「運命の五分間」があると認めたのか、というと、「危機一髪のところで勝った」というストーリーの方がアメリカ側としても気分が良いため受け入れられたからではないか、と大木毅によって推測されています。

さらに書きます。「ミッドウェー海戦から嘘の大本営発表が始まった」も俗説だと、私もつい最近知りました。正確には「珊瑚海海戦から、大本営は嘘と分かっているのに戦勝と発表した」が正しい説です。珊瑚海海戦はお互いの損害を客観的に評価すれば、戦略的(大局的)にはもちろん、戦術的(局地的)にも日本が負けています。特に戦略的に負けたことは、海戦直後から日本ですら認識していました。珊瑚海海戦の指導者である井上成美中将は、同志だった山本五十六を含め、ほぼ全ての海軍指導部に批判され、最終的に昭和天皇から「井上は学者だから、戦は余りうまくない」と評されたほどです。

ただし、戦果について過大発表した意識はあっても、海軍を筆頭に日本全体が戦勝を信じようとしたせいで、珊瑚海海戦の失敗が十分に反省されなかったことは事実です。また、そのためにミッドウェー海戦の敗北が生じた側面までは否定できません。日本海軍司令部の驕慢がミッドウェー海戦の(最大の)敗因との見解は現在も有力です。

この記事を書きたくなったのは、「完本福島第一原発メルトダウンまでの五十年」(烏賀陽弘道著、悠人書院)という本を読んだからです。この本の著者は鬼の首をとったかのように事故調査委員会を批判していましたが、専門家の見事に論破され、著者(だけ)が注目するECCSの問題までおざなりになっています。

しかし、ミッドウェー海戦で運命の五分間がなかったからといって、「珊瑚海海戦で日本側が十分な反省をしていて、入念に準備していたら、ミッドウェー海戦で日本が勝っていた可能性」までは否定されません。

得意気に言っていた者が、一部の説が否定されただけで、全否定された気分になってしまうのはよくある間違いです。この無様な失敗を次から2つの記事で示します。

コロナ自粛は先進国の高齢者の残り数年の命を延ばし、発展途上国弱者の命より価値ある尊厳を踏みにじった

コロナ禍により開業医の収入は激減しました。初期に「あのクリニックでコロナが出た」などの風評被害があったり、新型コロナを警戒して患者が受診を控えたりしたからです。病院も収入が減りましたが、補助金が出ましたし、そもそも勤務医の給与は患者の多寡に関係ありません。私の周りでも「冗談ではなく、収入が半減した。この辺りの開業医はどこもそうだよ」という噂はよく聞きました。

しかし、そういった開業医が本当に苦しんだかといえば、そうとも限りません。なぜなら、もともとの年収が2千万円だったりするからです。2千万が1千万の収入になったからとしても、借金に追われてもいなければ、あるいは借金に追われていても、困らなかったようです。コロナ禍では、多くのレジャー関連施設が「不要不急」とみなされ休みになり、ろくに遊べないので、浪費もできませんでした。

結論として、コロナ禍の日本で本当に困ったのは、金持ちの開業医どもではなく、シングルマザー家庭などの弱者になったのは周知の事実でしょう。収入減少額では開業医がシングルマザー家庭より比較にならないほど大きいでしょうが、収入以外でも多くの問題を抱える(だから社会的な同情も得られにくい)シングルマザー家庭の方が、物価高騰など、わずかなつまずきでも、悲惨な状況に追い込まれやすいからです。

古今東西、経済衰退が最も悪影響を及ぼすのは、その被害額によらず、社会的弱者になるようです。国内で考えてもそうですが、国外で考えても同じでしょう。先進国のコロナ自粛による経済衰退が、先進国ではそれほど悪影響を及ぼさなかったのに、発展途上国では戦争などの大問題を起こしている気がしてなりません。

なぜミャンマーで2021年の軍事クーデターが起きて、今後ミャンマーはどうなるのか」にも書いたように、ミャンマーでアウンサン・スーチー政権が軍事クーデターで倒された大きな原因の一つ(もしくは最大の原因)は、コロナ禍により経済不況だと私は考えています。それまでも軍部が政治的にはなんのメリットもないのにスーチー政権を認めていたのは、経済が発展していたからです。しかし、コロナ禍により、ミャンマー経済は高度成長から一気にマイナス成長に陥ってしまい、スーチー政権は軍部に倒されました。コロナ禍さえなければ、スウェーデンのように自粛さえしていなければ、現在もスーチー政権は存続して、ミャンマーの5千万の人たちの自由と平等は今より遥かに守られていたはずです。

今朝の朝日新聞で、パキスタンがアフガン難民を強制帰国させている記事がありました。1979年に旧ソ連アフガニスタンに侵攻してから、パキスタンには100万人以上のアフガン難民がいて、パキスタンも黙認していましたが、ここに来て急にアフガン難民を強制帰国させるようになった大きな要因は、やはりコロナ禍による景気低迷と書かれています。

現在も続いているウクライナ戦争やガザ地区の戦争も、コロナ禍による景気低迷は影響しているはずです。

先進国の人たちが発展途上国でテロすることはまずないのに、発展途上国の人たちが先進国でテロすることが多いのは偶然ではありません。テロを起こした張本人は「正義」や「宗教」を理由としてあげますが、本質的な理由は経済、お金にあることはよく知られています。

コロナ禍の自粛で、日本を含む多くの先進国の高齢者の命は救えたかもしれませんが、自粛が必然的にもたらした経済停滞により、多くの発展途上国の人たちの命、あるいは命より大事な尊厳が奪われたようです。

カンボジアPKOの最大の失敗」などの記事でも示したように、日本は事後検証をとことんしない国ですが、今回のコロナ禍でも、その伝統は維持されています。また大規模な感染症が起きた時、医療機関はどう対処すべきかについての議論はよくされていますが、事後検証がろくに行われていないので、価値の低い観念的な議論にしかなっていないように考えます。医療機関がどう対応するかではなく、社会全体の自粛をどうすべきかの議論がほとんどないのも不思議です。

今回のコロナ禍では、国民全員にかつてないほどの自粛を3年ほども要請し、経済を著しく停滞させ、莫大な税金が投入されたので、そこまですべきだったのかについての議論は間違いなくしなければなりません。

その場合に「日本人全体にとってよかったのか」だけでなく、「(日本の自粛は)世界人類にとってよかったのか」の観点も入れるべきだと考えます。

あと数年しかない命と、これから何十年も生きる命は同等ではないはずです。「これがないなら死んだ方がマシ」という尊厳だって、ほぼ全ての人にあるでしょう。「病気を治すためだけに生きている人なんていない」は、医療者の間でしばしば使われる格言です。

こんな当たり前のことさえ、「命より大切なものがあるのか」についての反論として、日本であまり言われていないように考えるので、あえてここに書いておきます。

日本のマイノリティ弱者は若者男性のマジョリティである

いまだに「マイノリティ(少数派)である女性」という表現も見かけますが、女性の方が長生きするので、少子高齢化に悩む多くの先進国では女性の方がマジョリティ(多数派)です。必然的に、世界史上最高の高齢者率を誇る日本は何十年も前から、女性がマジョリティです。

従軍慰安婦問題などから、世界中の多くの人は、日本は女性の社会的地位が低いと考えています。世界経済フォーラムの出すジェンダー・ギャップ指数での日本の順位(2023年で146か国中125位)を、日本の女性の社会的地位が低い根拠として、朝日新聞は100回以上使っています。「介護職の多くを公務員化すべきである」にも書いたように、私はこの順位で女性の社会的地位が国際比較できない、と確信しています。フィリピン(同17位)やタイ(同73位)などに住んでいる日本人女性に「現地の女性の社会的地位が日本より高いと思いますか?(女性が尊重されていると思いますか?)」と聞いてみてください。確実にNoが多いはずです。アジアのほとんどの国は、女性への偏見・差別が日本より強く残っています。にもかかわらず、女性の就業率だけは日本より上なので、アジアのほとんど国の女性は、日本の女性より遥かに忙しい状況に追い込まれています。上の質問を「現地の女性が日本の女性より幸せだと思いますか?」に変えたら、9割以上がNoになるでしょう。

そもそも、女性の就業率の低さを帳消しにするほどの金銭メリットが日本の女性だけにあります。妻が家計管理する習慣です。妻が夫の収入を全てもらい、夫は妻の許可を得て、小遣いをもらっている制度です。最近は日本での妻の家計管理率は減ってきているようですが、多数派であることまでは変わっていません。特に、専業主婦家庭で妻の家計管理が多くなっています。

日本の男性はなんてかわいそうなんだと西洋男性に同情される」にも書いたように、この大前提を無視したまま、日本の女性の地位向上の議論はできません。しかし、朝日新聞を筆頭に、ほとんどの女性の地位向上運動は、この大前提には触れません。100年後の日本人には信じられないでしょうが、そんな空回り議論ばかり日本は続けているので、問題はなにも進展せず、少子化は進んで、日本人全員が困っています。

さらに、日本は、高齢者ほど多い人口構造なのに、高齢者天国になっているので、平成の30年間、平均給与は増えず、令和に入る頃からは減っています。今後、韓国や中国は日本以上の少子高齢化に苦しみますが、「老人医療費無料化」や「世界史上最高の介護保険」という日本の失敗は犯さないでしょうから、日本ほどの高齢者天国にはならず、文明の発展に合わせて、ある程度の経済発展はする可能性があります。

さらに「インセル問題と少子化」に示したように、日本は世界一のセックスレスです。女性はセックスしなくても問題ないでしょうが、男性、特に若者男性にとって、セックスできないのは、精神的負担が限りなく大きくなります。秋葉原通り魔事件は、その精神的負担によって起きた悲劇であると「『秋葉原通り魔事件の犯人の母の罪は取り返しがつかないものだったのか』また『犯人に彼女がいれば秋葉原通り魔事件は起こらなかったのか』」に示しています。

以上のことを考慮すれば、日本の少数派弱者の代表は大多数の若者男性になるはずです。もちろん、素晴らしい彼女がいたり、高給職に就いたりしている一部の勝ち組若者男性は除きます。

大多数の若者男性を社会的弱者として救う制度が、今の日本には必要なはずです。

なぜ日本だけ窓際職員が多いのか

前回の記事に書いたように、経済対策の補助金は、「基金」として支出され、独立行政法人や一般社団法人にピンハネされた後、民間の大企業でピンハネされ、分配される制度が確立しているようです。

その二段階ピンハネ事業のうち15%の29基金では、実質的に2022年になにもしていないことが今朝の朝日新聞に載っていました。

ただし、事業費としてはなにも支出していませんが、人件費や事務費といった基金を管理するための費用は29事業で年間約5億8千万円も支出しているそうです。高級官僚の天下り機関に、「実質的にほとんどなにもしていないのに、人件費だけ莫大にかかっている」と批判が殺到した問題と既視感があります。

日本には「窓際」や「妖精さん」と呼ばれる、ろくに働いていないのに、なぜか給料をもらっている人たちが何万人もいます。日本の法律では、解雇が事実上できないに近いからです。どうしても解雇したいなら、追い出し部屋に異動させるか、パワハラでもして自主的に退職させるしかありません。それはおかしいので、解雇しやすいように法律を改正して、「パワハラするくらいなら金を払ってクビにすべきである」と5年前から私は主張しています。

日本では民間企業ですら非効率な窓際がいるくらいなので、非効率の権化である公的機関には全職員が窓際という団体すらあります。上記の高級官僚の天下り機関です。しかも一つだけでなく、数十、数百もあり、あまつさえ、国が設置したはずなのに、国が管理しきれていなかったりします。大手マスコミも、政治家たちの小さい額の腐敗報道に熱を入れるより、このような官僚たちの巨大な税金流用の害をその額の差(おそらく数百、数千倍)に見合うほど時間を割いて報道すべきです。

上記の基金の問題は、高級官僚の天下り機関(特殊行政法人や一般社団法人)の職員だけでなく、民間企業の窓際社員を税金で養っている例です。こんな例があるから、普通の窓際社員が「確かに、俺は窓際だけど、税金で窓際になっている奴よりはマシだ」と考えてしまうのでしょう。日本が衰退していくわけです。

ガソリン価格減額補助金3兆円は博報堂が分配

国家支出で、つまり税金で、燃料油価格激変基金が3兆円もある、と今朝の朝日新聞で知り、驚きました。現在の日本の国家予算は110兆円程度で、年間3兆円以上の売上のある企業となると、日本に50ほどしかありません。利益が年間3兆円もある企業など、日本に一つもありません。それほどの大金が、ガソリン価格の値下げのために、1年半程度で使われているそうです。

経済産業省資源エネルギー庁のHPによると、「小売価格の高騰を避けるため」らしいです(一方で「価格を引き下げる制度ではありません」と書いているので、意味不明です)が、日本はデフレ脱却に20年以上も戦ってきたのですから、インフレを抑制することはないでしょう。それに、ガソリン値下げは車を持つ富裕者に恩恵があります。インフレで最も苦しむ貧困者へ補助金を出すのなら分かりますが、車を持つ富裕者に3兆円もの莫大な補助金を出す理由が分かりません。日本の年間の生活保護費の総額は約4兆円です。生活保護費のほぼ半分は医療扶助、つまり生活保護受給者の手に渡らない金なので、年間3兆円もあれば、生活保護受給者の手に入る金額を倍増できます。

しかも、その3兆円の公共事業を博報堂に丸投げしているのです。博報堂とは日本で2番手の広告代理店です。石油精製企業でもなく、石油輸入企業でもなく、ガソリンスタンド企業でもありません。新聞やテレビやネットの広告を作っている企業であり、はっきり言って、石油とは全く関係はありません。そんな企業がガソリンの値下げをどうやって実現できるのでしょうか。

結論を言えば、できるわけがありません。博報堂が、各ガソリンスタンド企業に3兆円の補助金を配って、実現させているのです。

当たり前ですが、本来、それは博報堂ではなく、公的機関の仕事です。不正受給がないように監督しなければならないからです。経済産業省が直接、各ガソリンスタンドに3兆円の補助金を配分すべきであり、博報堂が間に入るべきではありません。

しかし、現実には、経済産業省とガソリンスタンド企業の間に博報堂があり、さらに経済産業省博報堂の間に、全国石油協会という一般社団法人まであります。全国石油協会がなにをしているのかはよく知りませんが、経済産業省天下り機関であることは容易に想像できます。つまり、ガソリン値下げのための3兆円の税金は全国石油協会と博報堂ピンハネ(中抜き)されているわけです。

さらに、このような税金のピンハネ不正は、なにもガソリン値下げに限らないことが朝日新聞に示されています。中小企業等事業再構築促進の5800億円の補助金は、中小企業基盤整備機構という独立行政法人ピンハネされた後、竹中平蔵が会長を務めたパソナでもピンハネされて、各中小企業に分配されたようです。他、ワクチン生産体制強化の1000億円の補助金、リスキリングを通じたキャリアアップ支援事業の753億円の補助金、中小企業イノベーション創出推進の700億円の補助金でも、同様の2段階ピンハネが行われ、民間企業が配分しています。

2021年にコロナ対策の持続化給付金で社団法人が広告代理店最大手の電通に事業を丸投げした問題を契機に、10億円以上の事業について、「事業全体の企画・立案、根幹に関わる執行管理」の外注を禁止しました。しかし、経済産業省は「(補助金が)経由する社団法人や独立行政法人の業務は資金管理だから、それ以外の業務を外注しても、規定違反ではない」と説明し、早くも上記の「外注禁止」は骨抜きになっているそうです。

それにしても、民間企業が税金配分まで決めるなど、ありえませんし、あるべきでもありません。民間企業には、情報公開法や収賄罪は適用されないからです。

合法だから問題ないとするのではなく、もっと多くの国民が知るべき大問題だと考えたので、記事にしておきます。

密室政治・稟議制批判

私が高校生の時、天文部の予算会議に出席することがありました。出席者は天文部の部長の私と副部長、生徒会役員の2人の計4人です。天文部の年間予算額は既に書かれており、その根拠を私が聞くと、生徒会役員はあいまいな説明をしました。しばらく話してみて、その生徒会役員が天文部の予算を変更する決定権がないと分かってきました。会議というのは名ばかりで、実際は、生徒会役員が天文部にこの予算を了承してもらう説得の場でした。話すだけムダだと分かったので、「この予算を決めた人を連れてこい」という天文部副部長の捨て台詞を残して、その場を去りました。

これは一例ですが、会議で物事を決めず、密室で物事が決まる制度(稟議制※)が日本で蔓延しています。「日本改造計画」(小沢一郎著、講談社)などの多くの本では、実は国会も実質的な議論を行っていない儀式の場になっていると批判されています。NHK国会中継を見ても、与党が野党の愚痴を聞いて、説得しているだけで、結局は、与党案が賛成多数で可決されていると分かるはずです。

国会ですら議論されずに決まっているとなると、実質的な議論はどこで行われるかというと、与党内です。与党が自民党であれば政策部会と総務会という場で議論されますが、まず非公開です。テレビや新聞で、与党内の議論が報道されることはまずなく、たまに「与党有力者の話によると」と匿名情報として、マスコミに漏れる程度です。

これでは国民に政治の本質が見えません。誰がどういう理由で、こんな政策を提言しているのか、さっぱり分かりません。国会で議論できない理由はなんなのか、建前抜きに本音で議論したらどうなるのかも謎です。

日本と同じく議員内閣制のイギリスやフランスでは、国会は公開の議論の場です。日本のように密室政治が蔓延していません。

上記のように小沢一郎も国会の儀式化を批判していたので、小沢も所属した2009年の民主党政権誕生時には「党内事前審査制」を廃止しました。しかし、「日本の国会議員」(濱本真輔著、中央公論新社)によると、民主党政権でも、国会で議論する方式はうまく機能しなかったようで、結局、菅直人政権から党内事前審査制は復活したようです。

「日本の国会議員」では、どうして日本だと国会が議論の場にならないのか、党内事前審査制が必要なのか、考察していますが、制度以外の問題も大きいようです。「なぜ日本人は討論下手なのか」に書いたように、日本人全体の道徳観や社会観の低さも大きい理由だと私は推測します。

 

※私はこのような密室政治を稟議制とよく呼んでいますが、稟議制は密室政治を意味するとは限らないようです。

地方議会は失くしていい

前回の記事と同じく、「地方議員は必要か」(NHKスペシャル取材著、文春新書)を読んでの考察です。

地方議員のなり手不足は、昨今、新聞でもよく目にします。無選挙当選は3割の自治体でありますし、定数割れの自治体すらあります。公職選挙法で定員の6分の5以上の議員がいなければ議会は開けないので、定員10人の議員うち7人が引退表明していたのに、撤回せざるを得なくなった長野県小谷村の実話があります。

「だったら定員を減らせばいい。議員報酬が少なくて、なり手不足なら、議員定数を半減させれば、報酬も2倍に増やせる。あるいは、十分な議員報酬を出せる規模に市町村合併させればいい」

議員削減案や市町村合併案は、「なり手不足」「議員報酬不足」「議員のやり甲斐不足」の解決策になるはずです。本にはこの解決策を実行しない理由は書かれていませんが、もう一つの解決策として、議会をやめて総会にする方法が書かれています。

離島を除けば全国最少人口400名の高知県大川村(定数6)では、議員のなり手不足を心配し、議会をやめて「総会」の設置を検討しました。「町村総会」は地方自治法第94条で規定されています。あまりに少人数であれば、間接民主制の議会でなく、古代ギリシアのように直接民主制の総会にできるようです。

しかし、いざ総会を検討すると、どのように人を集めるのか、連絡や交通手段、採決の方法など、課題が次々に現れました。結局、大川村は発案から3ヶ月で、検討を中断します。議員定数を割るような地域では、直接民主制の総会すら現実的ではないようです。

だとしたら、現行法では無理ですが、議会も総会もしない案もあっていいはずです。実際、自己否定になる質問「議会は本当に必要かと思うときがある」に25%もの議員がyesと答えています。

私が地方議会を失くしていいと考える最大の根拠は、「日本は政治家より官僚が強い」の記事に書いたように、約9割の地方議会が1年間にただの一度も行政(役所)提案を否決していないことです(全日本人が知るべき事実なので、強調します)。

政治家よりも官僚が優秀であるなら、究極的には地方議会に限らず、国会ですら不要なのかもしれません。国会でも成立する法案の多くは内閣(官僚)発案ですから、莫大な国会議員の人件費や国政選挙の費用を考慮すれば、そんな意見もあっていいと考えます。

国会すらなくなれば、日本の民意は政治に反映されにくくなり、戦前のような非民主主義国家に逆戻りします。ただし、現在ですら、民意が政治に十分に反映されているかは疑問です。そんな疑問を持つ最大の根拠である日本政治の密室性(稟議制)について、次の記事で解説しておきます。

なお、国会を失くすには憲法改正が必要なので、実現可能性は低いでしょう。日本の全ての議会を失くすと日本の政治がどうなるかは私にも正確に予想できません。ただし、上記の理由から考慮には値すると考えます。

特に行政を追認しているだけの3万2千人もいる地方議員は全てか、9割失くす議論はあるべきでしょう。

日本は政治家より官僚が強い

タイトルは、このブログを読む人なら常識でしょう。たとえば、第二次安倍政権時の議員提出と内閣提出の法案の差です。

議員提案だとほとんど否決されていますが、内閣(実質は官僚)提案だとほとんど成立しています。もちろん、成立した法律数でも官僚が政治家に圧勝しています。

「行政は職員が何十年も務め、そして分野ごとに専門の人たちを配置している。一方、議員は4年に1回選挙があり、3分の1がコロコロと入れ替わったり、半分が替わったり。そういうことを考えると、(議員が)チェックするということは非常に難しいのではなかろうかと」

「日本だと政治家より官僚がなぜ強いのか」の質問で、上記のような答えがよく出てきます。ただし、これは国会議員ではなく、地方議員の発言です。「地方議員は必要か」(NHKスペシャル取材著、文春新書)に、富山県の元市議会議員の荒木泰行の発言として掲載されています。

官僚が政治家より強いのは、国や中央省庁に限った話ではありません。地方自治体でも、やはり官僚が政治家を圧倒しているようです。

上記の本によると、2018年の1年間に全国1788の地方議会で、行政側の提案を一度でも否決したことがある議会はたったの203議会です。約9割の地方議会は、ただの一度も行政提案を否決していないのです(私を含む多くの日本人がこの驚くべき事実を知らなかったと思うので、強調します)。

行政提案を修正させて可決させた例もあるとは思いますが、これでは次のような意見が出てくるのは避けられません。

「首長提案を丸のみして可決する光景が非常に多い。これでは議会の存在意義が問われる。市民から見ても議会不要論が出てくるのはある意味当然だ」(60代・男性県議)

地方議会は失くしていい」の記事に続きます。

里親になると月15万の収入

私は福祉について人並み以上に勉強しており、里親制度(親権を持たずに子どもを育てる制度)について知っているつもりでしたが、里親になると月15万円も補助金がもらえるとは知りませんでした。

児童養護施設施設長殺害事件」(大藪謙介、間野まりえ著、中公新書ラクレ)によると、「養育費約5~6万/月」がもらえると知っていた人は1.9%、「養育費とは別に里親手当9万円/月」を知っていた人は1.2%、「2ヶ月などの短期間でもできること」を知っていた人は2.6%です。これは里親になってみたい人たちに対する日本財団調査の認知度なので、一般の人たちだと、認知度はさらに下がるはずです。さらに、こちらのHPによると、医療費、幼稚園費、教材費、通学費、給食費(小学、中学)は全額公費、中学時代だけとはいえ塾費用と部活費用も全額公費、教材費とは別に学用品として小学生2000円/月、中学生4000円/月で高校生は特別育成費として公立2万円/月、私立3万円/月、入学金として小学生4万円、中学生5万円、高校生で6万円、修学旅行費は小学校で2万円、中学校で6万円、高校生11万円という大盤振舞です。県や市町村によって支給金額は多少異なり、ここ10~20年間ほどで里親への補助金は大幅に上昇したようです。ここまで大金だと、金銭目的で里親になる人も出てきそうで、そんな心配の声もネットにありますが、実体は、日本の里親普及率は他の先進国と比べて、極めて低いです。

厚生労働省「社会的養護の現状について2014年3月」によると、里親率はオーストラリア93.5%、アメリカ77%、イギリス71.7%、イタリア49.5%、韓国43.6%であるに対し、日本では14.8%です(ただし、2019年調査で最高の新潟市60.4%から最低の熊本県12.2%と大きく差がある)。日本で実親が育てられない子のほとんどは児童養護施設などで集団生活しています。しかし、集団生活している子よりも、里親や養子などで育てられた子の方が大学進学率は遥かに高く、犯罪率は遥かに低いと統計で分かっているので、国としては里親をできるだけ増やそうとしています。だからこそ、里親補助金も増額し続けているのでしょう。

なお、wikipediaの里親には「東京都では児童養育の経験があること、又は保健師、看護師、保育士等の資格を有していることなどの全ての項目を満たさなくては里親になれない」という情報がいまだにありますが、数年前に東京都も「児童養育の経験があること」や「保健師、看護師、保育士等の資格を有していること」なんてバカな規制は撤廃しています。

日本には女性の高齢結婚が増えていますし、男女とも未婚率も高くなっています。超高齢社会になって、金はあるが、やりがいを見つけられない高齢者も増えています。この記事を見るような人たちは子育てと教育能力もそこそこあると思うので、金銭目的でもいいので、里親になってみてはどうでしょうか。

マニュアル・スカベンジャーを推奨するヒンドゥー僧侶の一例

1950年代頃まで、日本の高学歴の青年たちは難しい哲学の本を肌身離さず持っていたそうです。私の記憶が正しければ、藤子・F・不二雄も、級友たちはみんなそうしていたと書き残していました。「教養本のすすめ その1」からの記事に書いた私のように、哲学書は生涯通じて役立つ教養を与えてくれると多くの青年たちが考えていたからのようです。

死体の前で金を騙される」に書いたように、インド旅行者のバイブル「地球の歩き方インド」では「インドは物質的には貧しいかもしれないが、豊かな精神世界が広がっている」と書かれています。「高野秀行の文才をねたむ」で紹介した「怪魚ウモッカ格闘記」(高野秀行著、集英社文庫)にも、お金や仕事よりも神学の勉強に生きがいを感じるインド人が出てきます。

ヒンドゥー教では、学生期、家住期、林住期、遊行期の四住期があります。このうち林住期と遊行期、つまり四つのうち二つもが俗世から離れて、物質的な豊かさよりも精神的な豊かさを重視しています。

インド人が精神世界を重視する側面があることまで否定しませんが、「インドで人生観が変わった」の経験があるため、どうしてもインドの宗教には胡散臭さを強く感じます。

「13億人のトイレ」(佐藤大介著、角川新書)にも、胡散臭いヒンドゥー教の僧侶が出てきます。村の結婚式や葬式を取り仕切り、著作もあり、テレビにも出演しているらしいババ・カランヨギ・マハラジュという49才の男です。

自宅兼寺院の応接室のテーブルのガラスの下に各国の紙幣があり、「カネは大事ですよ。カネで買える物は人間にとって大切なものが多いのです」と、宗教家なのに最初からカネを肯定したそうです。トイレの本の取材なので、トイレについて聞くと、僧侶は目をつぶって深呼吸してから、自信たっぷりにこう喋りました。

「トイレで排泄物を水に流せば目の前から消えるけれど、それは水を汚し、土を汚すことになります。水洗は便利なシステムかもしれませんが、聖なるものではありません。野外で用を足せば、太陽の暑さによって肥料になり、微生物が分解して姿を消します。しかし、水洗は乾燥できず、いつまでも汚いものとして残るのです」

野外排泄は簡単に覗かれて、強姦の被害にあいやすいため女性に不評で、インド政府は廃止しようとしていますが、それと真逆の意見です。どこの世界でも、宗教家は保守的なようです。著者が「野外排泄は、女性にとって危険ではないですか」と尋ねると、紅茶を運んできた僧侶の妻が「野外だと歩くことで健康になりますよ。1日に何度も行けないので、それがプレッシャーになって、一度で多く出るようになるのです」と、斬新な意見を披露しました。それを満足そうに聞いていた僧侶がさらにつけ加えます。

「体から出たものは、もう体内に戻るものではありません。それらは聖なるものではなく、不浄で衛生的ではないものなのです。ですから、台所や家の近くに置くべきではありません。まして、水の中に置いてもいけません」

つまり、野外排泄で、しかも水洗式でない乾式トイレを設置するのが正しいと主張するのか、と著者が問うと、「その通りです」と僧侶は満足気な笑みを見せました。その僧侶は乾式トイレを勧めていましたが、「不浄なもの」を処理する気持ちは微塵もなさそうでした。そういった作業は、ダリット(不可触民)たちが担うのを当然とする考えがにじみ出ていました。

「彼らが汚く、差別されて然るべき存在というわけではありません。社会がそのように区別していただけで、彼らも喜んでそうした仕事をしていたのです。私のような僧もいれば金持ちもいるのと同じで、そうした仕事をする人がいる、ということです」

そうなると、人間には職業選択の自由がなくなるではないか、という疑問を著者が述べます。僧侶は正面から答えずに、「みんなそれぞれやるべき仕事があり、それに従うべきなのです」という持論を展開しました。

インドでよくある理屈です。「カーストは認めても、差別を認めない」はガンディーも主張したことで、今でもヒンドゥー教徒の大多数はこの見解のようです。しかし、私を含め多くの外国人は、その両立が不可能だと考えています。

この僧侶は「ヒンドゥー教は科学的に証明されたものを教えているので、最も正しいのです」とも語ったそうです。同時に、「逆に最も危ないのはイスラムです。間違っている者は殺せ、というのがその教えなのですから」とも付け加えました。

インドの国旗は、ヒンドゥー教を示すサフラン(オレンジと黄に近い色)、イスラム教を示す緑、シク教などその他の宗教を示す白で構成されています。このような特定の宗教に偏らない「世俗主義」を、この僧侶は堕落したものと考えていたようです。

「黒砂糖を買う人が減って、安い白砂糖がよく売れるようになっても、いずれは健康にいいからと黒砂糖に戻っていきます。それと同じで、トイレも水洗から乾式や野外に戻っていくのです」

そう僧侶が自信たっぷりに述べた後、小用に行きたくなった著者がトイレの場所をたずねると、すぐ隣の部屋を示されました。驚いたことに、そこには水洗トイレがありました。用を済ませてトイレを出ると、僧侶は著者の言いたいことを察し、「どんなものか、使ってみないと分からないでしょう」と無愛想に話したそうです。

「IT先進国インド」の暗部

ビクトリア朝時代の全盛期の大英帝国のロンドンは、人類史上最高の富豪と人類史上最悪の貧困が同居していました。

人類史上最高の富豪は言い過ぎかもしれませんが、それ以前の貴族ではありえないほどの物質的な豊かさを手に入れられる面と、それ以後の税金や規制の多い法治国家ではありえないほどの富が一部に集中し、自由を手にしていた面はあるはずです。

人類史上最悪の貧困も言い過ぎかもしれませんが、排水溝のゴミ漁りを仕事にしていた少年がネズミの大群に食われて死ぬ事件は、それ以前や以後の人類の歴史でほとんど存在しないはずです。

そんな人類史上最悪の貧困の被害者少年と似たような仕事が、現在のインドに存在すると知りました。下水管の詰まりを直す仕事です。「13億人のトイレ」(佐藤大介著、角川新書)の日本人著者が鼻をつんざくほどの悪臭を放つ下水にも、「流れる量が少ないので、臭いもそうきつくありませんよ」とインドの下水掃除人は言いながら、マンホールを開けたそうです。手袋、マスク、ゴーグルもせず、裸足でマンホールの中に入り、雨季には首まで汚水につかって仕事をします。この下水掃除人は取材中、赤く充血した左目をやたらと気にして、何度もまばたきをして、決して清潔とは言えないタオルを何度も当てていました。当然ながら、インドの下水掃除の仕事に労災などの社会保障はありません。インドだと安い公立病院は大行列で、並べばその日は働けないので給料なしになり、下水掃除人の安い給料では私立病院の診察など不可能です。

上記の本によると、下水掃除人はインド全体で少なくとも30万人いると推測されています。死亡事故も頻発しているようで、本には書いていませんが、19世紀後半のロンドンのように、少年の死亡事故もあるのかもしれません。

インドで下水掃除人は、ほとんどダリット、つまりアウトカーストの不可触民が就業します。

本では、最もひどい仕事として、素手で排泄物を収集する仕事(マニュアル・スカベンジャー)が紹介されています。マニュアル・スカベンジャーのほとんどは女性ダリットで、インド全体で16万人程度いるようです。やはり手袋やマスクはしていません。1日で20から30件回って、1件につき月で50ルピー(80円)にも満たない収入しか得られません。著者が言うように、素手でトイレからウンチを取り出すなど、日本のブラック企業の比ではないほど、ひどい仕事内容です。

実は、インドではマニュアル・スカベンジャーは違法です。1993年に「マニュアル・スカベンジャーの雇用と乾式トイレ(水を使わないトイレ)設置禁止法」が施行されています2013年にはその強化法まで制定され、下水管や汚物処理タンクなどの手作業による清掃作業も禁止されています。

しかし、現実には今も数十万ものインド人がそれらの清掃作業に従事しています。インドを含む発展途上国ではよくある話ですが、法律が機能していないのです。

上記の2つの法律は連邦法です。各州の議会が批准しなければ効力は持ちません。州によっては「乾式トイレは既に廃止されていて、存在しない」と主張し、法律を批准しなかったりしたそうです。2013年に強化法が施行されても、実際に処罰されたケースは一件も報告されていない、と本にはあります。下水管の清掃作業で死亡事故が大きく報道されると、ダリットたちを中心に清掃労働者の抗議活動が起き、州政府がなんらかの対応をすると約束しますが、根本的な解決はなにも図られないままの状態が現在も続いています。