未来社会の道しるべ

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なぜ加藤智大は自殺ではなく殺人事件を起こしたのか

ネットで調べてみたところ、ほとんど(あるいは全く)考察されていない問題のようなので、あえてこのブログで考察してみます。

前回の記事にも書いたように、事件の2年前、2006年8月にも加藤は事件時と同じ状況になっていました。借金に追われ、仕事を辞めて、ネット掲示板で強い疎外感を味わい、自暴自棄になっていました。しかし、2006年時は自殺しようとしたものの、無差別殺人を実行しようとはしていません。なぜでしょうか。

人間の心理として、強いストレスにさらされると、悲しむか、怒ります。自分に対して情けなくなるか、他者に対して発散するかなので、真逆に思えるかもしれませんが、原因はどちらも強いストレスです。悲しむか、怒るかの反応違いは、単なる気まぐれで決まることもあります。偶然、たまたま悲しんだだけ、たまたま怒っただけなので、なぜその反応になったか考える価値があまりない場合もあります。

だから、加藤についていえば、2006年の段階で、無差別殺人を実行した可能性もありました。転職人生を繰り返していると、いずれ切羽詰まった状態になり、その時に自殺するか、殺人を犯すかは運次第、という側面もあったと思います。だからこそ、なぜ2006年では自殺で、なぜ2008年は無差別殺人なのかは、これまであまり考察されていなかったのかもしれません。

とはいえ、2006年と2008年の加藤の反応の差に、理由を見つけることは難しくありません。その違いを生んだ決定的な理由は、インターネットにあります。「秋葉原事件」(中島岳志著、朝日文庫)によると、2006年8月に加藤はネット掲示板にのめり込み、「本音で厳しいことを書いた」ところ、掲示板の仲間と一気に関係が険悪になり、掲示板から人がいなくなり、加藤はひどい自己嫌悪に陥ります(自分に対して悲しみます)。一方、秋葉原通り魔事件の直前の2008年5月、同じく加藤はネット掲示板にのめり込みますが、この時は掲示板になりすましが出て、管理人になりすましを排除するように要求しますが、受け入れられず、極度にイライラしています(他者に対して怒っています)。この程度の差で、自殺か無差別殺人の違いとなったのなら、本当にくだらないですが、人間の心理とはそんなものだと思います。

同時に、加藤のように切羽詰まった状態になっても、無差別殺人をせずに、自殺していった多くの方たちの心情も、加藤の心情に共感した者たちよりも多くの方たちが考えてあげてほしいです。

「秋葉原通り魔事件の犯人の母の罪は取り返しがつかないものだったのか」また「犯人に彼女がいれば秋葉原通り魔事件は起こらなかったのか」

前回の記事の続きです。

秋葉原通り魔事件が起こった直後、犯人である加藤智大の両親へのテレビインタビューが行われています。今でもyou tubeで観ることができますが、最初から泣いていてインタビューに全く答えてられなかった母は、「親の責任」について問われた時、崩れ落ちてしまいます。インタビューに答え終わった父が、起き上がることもできない母を持ち上げて、引きずりながら家に入るシーンが映されています。

加藤の母がそこまでショックを受けたのは、加藤の性格が歪んでしまった原因を作ったのは自分にあることを認識していたからでしょう。

もし私が凶悪殺人事件を起こして、同じようなインタビューが私の両親に行われたとしたら、同様のシーンがテレビ放映される気がしてなりません。

ただし、加藤の母に関してはよく分かりませんが、私の母が親の責任について問われたら、まずこんなことを思っていたに違いありません。

(確かに、私の育て方に問題はあったかもしれない。しかし、凶悪殺人犯を生むほどひどい育て方はしていない)

実際、似たようなことを私は母から何度も言われています。「子どもの頃の子育てに問題はあったかもしれないが、あなたが仕事辞めたのは子育てと関係ないでしょ」「弟は普通に生きているじゃない」「そんな昔のことは忘れたらいいじゃない。なんでいつまでも思い出すの」などです。もちろん、こんな母となら話せば話すほど、私の心の傷がえぐられていくのは目に見えているので、私はできるだけ話さないようにしています。

とはいえ、私の母も子育てに問題があることを少しでも認めている時点で、まだマシな毒親と思う人もいるでしょう。なお、加藤は私の母以上に、子育ての罪を認めていたようです。

加藤が自殺に失敗した後、2006年9月に3年ぶりに実家に戻ってくると、物心ついてから初めて母に抱きしめられ、「ごめんね」「よく帰ってきたね」と言われたそうです。私は40年間、父母から、ただの一度もそんな心のこもった言葉をかけてもらったことはありません(もっとも、私の父母はそんな言葉を言ったつもりになっていると思います)。

加藤は短大卒で職を転々として、その弟は高校を早々と中退して引きこもっていたので、母は自らの厳しすぎる教育に反省の念を抱いていました。加藤が自殺に失敗した1年ほど前、母は次男に「お前たちがこうなってしまったのは自分のせいだ」と話し、謝罪したそうです。

実家に帰ってきた加藤を母は温かく迎え、しばらく休むように加藤に伝えます。加藤が作った借金は全て母が清算しました。加藤は地元の友だちとの交流し、大型免許を取得し、運送会社に就職します。加藤が運送会社の仕事を終え、夕方4時頃に帰宅すると、母は夕食を作って待っていました。以前の家族の食卓では一切会話がなかったのですが、この頃の加藤は家族と談笑が続くよう努めたそうです。加藤が自分から母に語りかけるのは初めてであり、「自分も大人になった」と感じていました。加藤は「家族のやり直し」をしたいと考えていたそうです。

運送会社で加藤は10才以上も年上の藤川(仮名)と友だちになります。加藤は10年来の地元の友だちにも心のうちをあまり明かさなかったのに、この藤川に激怒されながら説教を受けて感銘した後、藤川にだけは本音を語るようになりました。その代表例として、ネットの掲示板に没頭していたことを藤川にだけは話していたことがあげられています。また藤川は加藤からmixiに誘われた唯一の人物です。

秋葉原事件」(中島岳志著、朝日文庫)の著者は、この藤川こそ加藤の犯罪を止められた人物と考え、「そんな藤川から、加藤は離れていった。なぜなんだ。どうして事件前に、藤川に電話一本できなかったのか。なぜ藤川との関係の大切さに気づかなかったんだ。気づいていたのに、気づかないふりをしたのか。それとも、気づいていたことを忘却したのか」とまで嘆いています。

藤川との関係が続いていたら、加藤が無差別殺人事件を起こさなかったとの著者の見解に、私も同意します。藤川との関係がなぜ切れたかは下に書いていきますが、ともかく、だからこそ、簡単に関係が切れてしまう私的支援ではなく、前回の記事に書いたように、本人が希望しても関係が切れない「家庭支援相談員」などによる公的支援が必要だと私は考えます。

2007年5月のゴールデンウィークのある日、父が突然、母と離婚することを加藤に告げます。加藤は父のいる実家から引っ越すことになり、7月に職場近くにアパートを借りて、一人暮らしを始めます。「秋葉原事件」(中島岳志著、朝日文庫)だけを読んでいれば見逃すかもしれませんが、この7月にようやく加藤が藤川と接近する「藤川の激怒しながらの説教事件」があったので、加藤が藤川と親密になってからの期間は同年10月までのわずか4ヶ月に過ぎません。9月中旬に加藤は仕事を辞めるので、藤川との実質的な付き合いはさらに短くなります。こんな短期間なので、加藤が藤川との関係性の大切さに気づかず、あっさり縁を切ってしまったのも無理はありません。

相変わらず、ネット掲示板に没頭していた加藤は、2007年9月に掲示板仲間にリアルで会うためのツアーを計画します。加藤は正直に遊ぶためと理由を述べて、2週間の休暇を会社に願い出ますが、会社は断りました。それを聞いた藤川は加藤にとってのネット掲示板の重要性を認識していたので、「遊びに行きたいのなら仕方ない。もしそうだとしても、会社に対しては『親戚の結婚式があるから休みがほしい』といった言い方があるだろう」と説教します。加藤は黙って聞いていましたが、「とにかくどうしても行きたいんです」と語ります。結局、会社は休みをくれず、そのツアーに強い執念を持っていた加藤は、あろうことか、会社を辞めます。この突然の辞職を藤川には伝えていません。この突然の辞職こそが、加藤が無差別殺人事件を起こすかどうかの最重要の分岐点となります。

ここから先は、世の女性の99%は理解できない話になるでしょう。特に、「友情と愛情とどっちが大事?」と考えるような女性には一生理解できないでしょう。

誰が考えても、この時、加藤はこの仕事を辞めるべきではありませんでした。しかし、加藤が適性のある運送会社を辞めて、信頼できる藤川との関係を切ってでも、このツアーに執心した主な理由は間違いなく「女性への渇望」です。この女性への渇望は、恋愛欲求と書いていいのかもしれませんが、そこから連想される程度の弱い欲求ではありません。アルコール依存症の人がアルコールを求める欲求に近く、自分の意思や理性で抑えることが困難なほどの強い欲求です。「男性の性欲」に書いたように、全ての男性は性依存症といえるほど、性欲が強いです。だとしたら、この「女性への渇望」は性欲と書くべきなのかもしれませんが、単なる性欲とも違います。事実、加藤は事件前に何回か風俗店で性欲を解消していますが、それでも「彼女がいない、ただこの一点で人生崩壊」と書いて、事件を起こしています。性欲を解消してくれる相手がいれば、青年男性の欲求不満が解消されるわけではありません。あくまで「彼女」がほしいのです。そういう意味では、「女性への渇望」は「彼女欲求」と書くべきかもしれませんが、そう書くと「彼氏欲求」と似たような印象を女性に与えそうです。彼氏がほしいという青年女性の欲望と、彼女がほしいという青年男性の欲望は、大きく違います。青年男子が彼女を欲しいと思う欲望の背景には、自分の意思では抑えられないほどの性欲があります。この男性の欲望を批判的に捉えるべきかどうかは、時と場合によって異なるでしょう。

話を戻します。仕事を辞めてまで実行したツアーで、やはり加藤は好きだった女性に振られました。9月26日に地元に戻ってきた時、加藤は自殺を考えていました。自殺を思いとどまったのも、やはり女性でした。ツアーで加藤を振ったばかりの女性が「20才になったら遊びに行くよ」とメールを送ってきたからです。しかし、加藤はその女性を19才と思っていたのですが、1ヶ月もしないうちに実は18才と知り、「そんな先の約束は分からない」とまた絶望し、またも自殺を考え始めます。

10月28日、加藤はもう一人のネット掲示板の女性と会うため、地元の青森から群馬まではるばる出かけます。加藤は女性を襲おうとしますが、女性の拒否で、襲えませんでした。加藤は「死ぬつもりでこっちに来た。死ぬ前に楽しい思い出を作りたかった」と正直に伝えると、最初は冗談だと思った女性も、次第に信じて、心配する気持ちが大きくなります。女性はとにかく考え直すように説得します。加藤はこのときに始めて、仕事を辞めたことを女性に打ち明け、何度も「ごめんなさい」と謝ります。女性は「本当に私に悪いと思っているんだったら、仕事をちゃんとして、また会いに来て」「そのとき、ワンピースでも買ってくれたら許してあげる」と語りかけます。とにかく、彼に生きるための目標があった方がいいと考えたそうです。加藤は「また来ます」と言って部屋を出て、以後、その部屋に戻ってくることはありませんでした。

加藤に襲われそうになった女性は、当時、つきあっている男性がいました。そのことを加藤には話していませんでしたが、加藤は別の掲示板でそれを知ります。加藤は「彼女は主人に逃げられ、精神的に仕事ができないかわいそうな状態だけれども、彼氏がいるから自分よりマシだ」とさらに別の掲示板に書きます。女性は加藤をたしなめることを書き込みますが、加藤はそのスレッドそのものを削除し、以後、二人は連絡を取り合っていません。

2007年11月、加藤は飛び込み自殺をするつもりでしたが、勘違いもあり、うまくいかず、半月も駐車場に停めた車の中で過ごします。不審に思った駐車場の管理人が警察官を呼んで、加藤は職務質問されます。加藤は正直に「自殺を考えている」と伝えました。

「ここで死んだら、駐車場の管理人に迷惑がかかる。死ぬのなら、誰にも迷惑にならない場所で勝手に死んでくれ」

私がこれまで接してきた警察官なら、こんなことを言いそうですが、奇跡的にこの時の警察官は親切だったようです。「君はがんばりすぎだから、肩の力を抜いたほうがいい」と言って、自殺をやめるように説得し、加藤は泣いたそうです。

駐車料金は33500円にもなりました。加藤に手持ちの金がなかったので、駐車場の管理人が立て替えてくれて、加藤は借用書を書きます。加藤はその日のうちに派遣会社に行き、派遣の登録を行います。

「加藤はこれを契機に立ち直った。生きよう、と思った」

そう「秋葉原事件」は書いていますが、これは間違いです。この後、加藤が地元に帰っていたら、とりあえず「立ち直った」と思います。しかし、2007年10月28日に自殺をするため自宅を飛び出してから秋葉原通り魔事件を起こすまで、加藤は両親とも地元の友だちとも、もちろん藤川とも一切連絡を断ったままです。駐車場での事件があった後も、青森の自宅には戻らず、派遣会社が紹介した静岡県裾野市の工場で働き、その近くのアパートで暮らします。青森のアパートは家賃を払わずに放置し、金融機関からの借金も、踏み倒したままでした。駐車場での事件の前後で、加藤が借金に追われ、適切な助言をくれそうな相手と連絡をとらない状況は変わらなかったのです。

加藤は12月末に手土産まで持参して駐車場の借金を返しましたが、工場の同僚には「いつまでいられるか分からないけど、いなくなるときは何も言わずに消えるから」と何度も語っていました。事実、掲示板でなりすましに荒らされ、作業服がないと職場の更衣室を自ら荒らして自己嫌悪に陥ると、加藤は「何も言わずに消えて」、突如秋葉原に現れ、無差別大量殺人を犯しています。

2007年11月から事件までの2008年6月まで、どうして加藤は地元に帰らなかったのでしょうか。2006年9月に母が加藤の借金を支払ったように、おそらく、今度も母は加藤の借金を支払ったのではないでしょうか。普通に考えれば、自殺や無差別殺人を犯すくらいなら、情けなくても、母あるいは父に頼った方がいいはずです。昔の厳しいだけの母だったなら、加藤が地元に帰りたがらなかったのは分かります。しかし、母が厳しい子育てについて謝り、加藤も母との「家族のやり直し」をしようと考えていたなら、母に頼ってもよかったはずです。なぜそれを考えなかったのでしょうか。

この重要な問題は「秋葉原事件」でも考察されていないので、推測になりますが、加藤は「その発想は浮かばなかった。今から考えれば、そうかもしれません」だったのではないかと思います。

これは他の問題についても言えます。「なぜ藤川に相談しなかったのか」も、それまで自分の心を誰にも打ち明けなかった加藤には、なかなか浮かばない発想だったのでしょう。ネット掲示板で知り合ったつまらない女性に会うために、自分に合っていた運送会社を辞めてしまいますが、これも裁判を行う時期になれば「今から考えれば、その仕事を辞めるべきでなかった」と考えたのではないでしょうか。

2007年9月に運送会社を辞めたことは、加藤が秋葉原通り魔事件になった重要な分岐点だと私は考えるので、さらに考察します。

なんと加藤は2007年8月に出会い系サイトで知り合った女性とリアルで会っており、自宅のアパートまで呼んでいます。加藤はこの女性を藤川に紹介し、藤川は「なんでこんなキレイな子をお前が連れてくるんだ」と加藤を冷やかしています。しかし、彼女が断ったのに、加藤が自宅アパートの合い鍵を彼女に渡した8月後半になると、二人の行き来は途絶えて、メールをする回数も減ります。彼女がメアドを変えると、加藤からの連絡は不可能になります。間違いなく、この女性との関係が続いていれば、加藤は仕事を辞めてまで、ツアーに行っていません。

また、加藤が運送会社の仕事を十分に気に入っていたら、ツアーに行くことはなかったでしょう。しかし、「秋葉原事件」に記録されているだけでも2回、加藤は運送会社の職場で怒鳴っています。藤川が仲裁に入り、事なきを得ていますが、その度に加藤は自己嫌悪に陥っていたはずです。また、加藤は既に何度も転職を繰り返しており、転職グセが着いていたことも見逃せません。さらに、加藤は友だち全員に「今から自殺する」と本気でメールを送るほど人生に絶望していた2006年9月から、まだ1年しかたっていませんでした。今までの人生や仕事で十分な幸せを感じていなかった加藤が、一発逆転を目指して、彼女を欲するために、仕事を辞めたのは無理もないと思います。

タイトルの問いに戻ります。

秋葉原通り魔事件の犯人の母の罪は取り返しがつかないものだったのか」の問いは、yesです。2006年9月に母が昔の子育てを反省して、加藤が作った借金を清算して、半年ほど夕飯を作ってあげて、加藤と和やかな会話をしていたとしても、まだ十分に償っていないほど、母の罪は重かったと私は考えます。その根拠は、母がそこまでしても、まだ加藤はささいな理由で仕事を辞めて、母に頼るべき時に母に頼らず、取り返しのつかない無差別大量殺人を犯したからです。もし母が加藤への子育ての罪を感じていたなら、2007年11月から2008年6月までの加藤の失踪期間に、母はなにがなんでも加藤を見つけ出し、加藤の心を癒してあげるべきでした。そこまでしなければならないほど、毒親の罪は重いです。毒親の後遺症は1年程度の癒しで治るものではありません。全ての毒親の罪が取り返しのつかないものではありませんが、加藤の場合は、不運もあり、取り返しがつきませんでした。毒親が罪を認めて、その償いをしようとしても、その償いにより子どもの心の傷が十分に癒される前に、子どもが取り返しのつかない自殺や犯罪を実行してしまうことはあります。このことを全ての親は知るべきだと思います。

「犯人に彼女がいれば秋葉原通り魔事件は起こらなかったのか」の問いは、やはりyesです。「秋葉原事件」の著者は、「彼女ができれば問題が解決するのか。そんなことはなかった」と断定していますが、それは間違いと断定できます。極端な話、どんな女性であっても、体重100㎏越えの女性であっても、バツイチ子持ちの女性であっても(上記の加藤が襲おうとした女性はこれに当てはまる)、メンヘラ女性であっても、関係の続いている彼女さえいれば、加藤は無差別殺人や自殺はしなかったでしょう。少なくとも、その実行前に加藤は彼女に相談したはずです。「秋葉原事件」の著者がこれに気づいていないのなら、性依存症でない珍しい男性であるか、モテ組男性かのどちらかだと考えます。

私もそうですが、不幸な男性ほど、彼女を欲しがります。これまでの不幸を帳消しにしてくれる一発逆転の解決策が「彼女」だからです。青年男性にとって、それほど彼女の効用は高いです。「Re:」で書いた私のように、加藤は彼女を作るために八方手を尽くして、出会い系サイトにまで本気になっていました。しかし、現代日本で「女であることは東大卒より価値があるのか」、加藤に彼女はできず、無差別殺人を起こしました。

秋葉原通り魔事件後、加藤に共感する人物は多く出ました。「秋葉原通り魔事件はどうすれば防げたのか」やこの記事を読めば分かる通り、私もその一人です。「秋葉原事件」の著者も「おそらく同時代に生きる私たちは、加藤の中にわずかでも自分の影を見てしまう。加藤の痛々しさと、自己の痛々しさがオーバーラップする部分があるに違いない。そして、自分の身の回りにいる彼・彼女の姿を、加藤の歩みの中に見るに違いない」と書いています。

彼女もいないまま自殺していく多くの日本の青年男子は、場合によっては、加藤のような無差別大量殺人犯になっていたと考えもいい、考えるべきだと私は思います。もし秋葉原通り魔事件と同様な事件を防ぎたいと思うのなら、毒親の問題、男性の女性への渇望の問題、転職を繰り返してしまう問題、借金に追われる問題などを理解した福祉職(私の提案する「家庭支援相談員」でなくても)と福祉制度が必要だと考えます。

秋葉原通り魔事件はどうすれば防げたのか

このブログで何度か書いていることですが、凶悪犯罪者の本を読むと、私は自分との共通点をよく見つけてしまうのですが、とりわけ加藤と私の共通点は多いです。母の教育が厳しすぎたこと、長男であること、弟よりも長男に厳しくしたことを親ですら認めていること、おねしょがなかなか治らなかったこと、県内の名門公立高校に進学していること、オタクであること、インターネットの掲示板で殺人を考えるほどイライラさせられたことは、私と全く同じです。ただし、加藤の母は「お前たち(加藤とその弟)がこうなってしまったのは自分のせいだ」と謝罪して、以後、加藤に対して十分に優しくしていますが、私の父母は全くそんなことはなく、現在に至るまで私の心の琴線に触れることばかりしてきます。

秋葉原事件」(中島岳志著、朝日文庫)には、犯罪の原因と考えられる要因を列挙してあります。

母の厳しすぎる教育と過度の介入、内面を見せることが苦手な性格、不満を言えず行動でアピールするパターン、キレやすい性格、突発的な暴力性、勉強の挫折、学歴へのコンプレックス、非モテ、外見、掲示板への没入、ベタのネタ化とネタのベタ化、承認欲求、借金、家族崩壊、職場放棄、地元からの逃亡、先輩や友人への裏切り、満たされない性欲、不安定就労、派遣切り、ニセ者(なりすまし)、荒らし、無視、孤独、不安……。

このうち根本的な要因をあげれば、最初の「母」になると考えます。母の教育により「内面を見せることが苦手な性格、不満を言えず行動でアピールするパターン、キレやすい性格、突発的な暴力性」といった性格ができ、その性格により「借金、職場放棄、地元からの逃亡」といった環境が生じると同時に、「掲示板への没入、ベタのネタ化とネタのベタ化、ニセ者、荒らし」といったネット上の問題も発生したからです。

秋葉原通り魔事件の犯人である加藤智大の母は、現在の言葉を使えば、毒親です。たとえば、母がキャベツを三つの皿に分けて盛りつけたところ、幼い加藤がそれを一つの皿にまとめると、母が激怒し、加藤の首の後ろを押さえつけて、窓から落とそうとしました。後に裁判で加藤は「抵抗しなければ落ちていたと思います」と語り、母もそのようなことがあった事実は認めています。

この母のとりわけ罪深いところは、怒る理由を説明しなかったことです。加藤が理由を聞いたり、抵抗したりすると、さらに叱責が続くため、加藤は叱られることにただ耐えるだけになっていました。この母の教育のせいで、加藤だけでなく、その弟も自身が怒る時にその理由を説明しない性格になったようです。加藤は嫌なことがあると、当てつけ行為を繰り返しますが、大抵の場合、当てつけ行為の意味は周囲の者たちに理解されていませんでした。

たとえば、10年来の友だちの谷村(仮名)は高校時代に突然、加藤に殴られたことがあります。谷村は加藤になぜ殴られたか全く分からず、二人の関係はしばらく気まずいものになりましたが、仲間の仲介により、関係は修復されます。加藤が殴った理由は「谷村にゲームにケチをつける言動があった」からなのですが、谷村がそれを知ったのは遥か後、なんと犯行後、加藤の担当弁護士を通じてです。

また、加藤が大学に行かなかった理由は、母が「北大に行かないなら車を買ってやらない」と言ったことに対する当てつけでした。さらに、整備士の資格を取るためだけにあるような中日本自動車短期大学で整備士の資格をとらずに卒業したのは、父が奨学金を振り込まないことに対する当てつけでした。このどちらの当てつけ行為においても、加藤は母にも父にもその理由を言っていません。このように加藤の当てつけ行為は、相手に理解されないことがほとんどであり、意味のない当てつけになっていますが、加藤は相手が理解しているかの確認すらしませんでした。恐ろしいことに、秋葉原通り魔事件も「インターネットで自分になりすました者や、その掲示板の管理人」への当てつけ行為でした。八つ当たりもいいところですが、加藤は7人もの死者、10人もの負傷者を出した事件の裁判でも、大真面目にそれが動機だったと語っています。

とはいえ、加藤はコミュニケーション能力の低いオタクではありません。小学校の頃から友だちは複数いて、それどころか、中学2年生に初めての彼女ができて、中学3年生にはその次の彼女までいました。中学生で彼女がいるなど、私の価値観でいえば、勝ち組男子です。犯行後に明かされたネット上のネガティブな書き込みばかりを読むと、典型的なコミュ障のオタクを想像してしまいますが、リアルな加藤はそれなりにコミュニケーションがとれて、どこの職場でも友だちができています。よくキレるという欠点があったので、加藤を苦手に思う者もいたでしょうが、小学校、中学校、高校、社会人と加藤の友だちでいた地元の友人も数名います。このような長期間の友だち、特に10年来の友だちなど、どう友だちの定義を広く見積もっても、私には一人もいません。

このように加藤と私の違う点もありますが、加藤が殺人犯になって、私がそうならなかった要因で、決定的だと思うのは「借金」になるでしょう。奨学金を除けば、私は借金を背負ったことはありません。借金さえなければ、加藤は殺人事件までは起こさなかった可能性が高いでしょう。

加藤は職場を何度も変えて、逃げるように住む場所まで変えていますが、これは他の凶悪殺人犯と共通しています。私が今思いついただけでも、連続射殺事件の永山則夫、福岡内妻一家4人殺害事件の秋好英明がいます。この3人とも「家庭支援相談員」のような福祉職が転職前から付き添っていれば、凶悪殺人犯にならなかったと思います。というのも、この3人ともほぼ全てのケースで、追い詰められていると誤解して、転職、引っ越ししているからです。誤解さえなえければ、あるいは適切な助言さえあれば、本人でさえ転職すべきでないこと、引っ越しすべきでないことは容易に理解できたはずです。

また同じ結論になってしまいますが、秋葉原通り魔事件を防ぐためには、社会の一人の取りこぼしも作らない「家庭支援相談員」が必要だったと私は考えます。これにより、加藤の転職や引っ越しを防げただけでなく、大元の毒親による子育ても防げたと考えるからです。

次の記事に続きます。

日本人は集団主義ではなく身内主義

1987年9月に後に重症心身障碍者と診断される娘を出産した母の「殺す親 殺される親」(児玉真美著、生活書院)からの抜粋です。

その小児科医は横柄な態度で、椅子にふんぞり返り、児玉が挨拶しても、返事もしませんでした。児玉の娘の脳波記録用紙を見て、「うっわあ。脳波はぐちゃぐちゃじゃあ!」「この子は、脳なんか、ないようなもんでえ」と目の前に座っている児玉をまるきり無視したまま言って、向かいの机で書類仕事をしていた若い医師に「おい、ちょっと、これ見てみいや」とCT画像を指さして、「ここも、ほれ、ここも萎縮しとる。ひどいもんじゃろうが。の?」と話しかけました。小児科医はしばしCT画像をあれこれ論評すると、やっと椅子を回して児玉の方を向きます。そして、奇妙な形に自分の身体を捻じ曲げて見せながら、「あんたーの。この子は将来、こんなふうに手足がねじれたまま固まってしまうんど」と言います。その目つきと口調は「どうな、恐ろしかろうが?」というものでしかなく、児玉はなぶりものにされている、と感じました。科学的な説明が出てくる気配は皆無でした。なおも将来どんな悲惨な状態になるかを演じてみせる小児科医の話を遮って、児玉が「ありがとうございました」と告げて、部屋を出ていきます。同じ日のうちに、京大文学部卒の児玉が病院長宛ての便箋11枚の抗議の手紙を書いたのは当然です。

数日後に医事課長から電話がかかってきて、医師と一緒に謝罪にうかがいたいと言われますが、児玉は顔も見たくない、書面で謝罪してほしいと突っぱねます。さらに数日後、「あまりに脳波所見が異常だったので、つい思った通りを口にして申し訳ありませんでした」という趣旨の手書きの謝罪文が小児科医より送られてきます。

児玉が驚いたことに、この小児科医は暴言医師として地元の親の間では有名な存在でした。親たちに浴びせられた様々な暴言のほかに、個人的に知り合ったセラピストからも仰天のエピソードを聞いたそうです。この医師はリハビリ学生の授業で「ダウン症」と板書して、「まあ、これは要するに、バカのことじゃ」と言い放ち、講義終了と同時に数人が教務課に抗議に言った伝説を残していたりしました。

知れば知るほど、なぜそんな小児科医が大病院の指導的な立場にいつづけられるのか、児玉は不思議でなりませんでした。ある医師は私の体験を聞くと、「外科医なんかだと、腕さえよければ人間性は問われないというのが医療の世界では常識みたいなものさ」と自説を展開し、「あの先生も決して悪い人じゃないんだよ。僕が学会で発表した時には、会場からなかなか良い試みだと褒めてくれたしね」と、随分的外れな感想をもらした。暴言に傷ついている母親を前にそのような反応をする医師も、児玉には理解不可能でした。

 

私は医療職に従事しているので、上記のような暴言医師が大病院なら一人くらいはいること、暴言医師が年功序列で出世してしまうこと、その暴言医師に疑問を持たない大多数の医師がいることを知っています。ただし、「医療の世界にはどうして無神経な人が多いのだろう」と当初嘆いていた児玉も、さまざまな医療体験をへて、そのような人はごく少数で、大半な医療職とは良好な信頼関係を築けるようになっています。確かに変な医師、倫理観の崩壊した医師が少なからずいるのは事実ですが、倫理観など全く要求されないような職場の人と比べれば、まだマシだと私の人生経験から言えます。

それでも残念なのは、児玉が言うように、そんな医師が解雇されないばかりか、そんな医師を擁護する医療職が多くいることでしょう。日本だとどこの職場でもそうですが、上司も部下も道徳などは要求されません。内輪のルールさえ従っていれば、社会全体の利益などはどうでもいいのです。私が社会全体の視点で語った時に、「なにを言っているか分からない」と日本人に反応されたのは、100回で足りないでしょう。医療職だろうが、司法職だろうが、場合によっては政治職であっても、社会全体の利益よりも内輪の利益が優先されがちです。

個人主義というより世界人間主義」に書いたように、「西洋は個人主義で日本は集団主義」という考えは間違っています。正しくは「西洋は普遍主義で日本は身内主義」でしょう。「日本人である前に人間である」でも嘆いたことですが、日本人こそ身内だけの小さい利益ではなく、人類全体の利益を考えてもらいたいです。

愛情と友情を比べないでもらえないでしょうか

バンクーバーで留学中のことだ。会話相手は私と同じく語学留学に来ている日本人女性である。私の移動時間の節約術に相手が感心したので、さらに時間効率について語った。

私「僕がルームシェアよりもホームステイを選択しているのは、食料を買う時間と食事を作る時間の節約です。これだけで少なく見積もって、1日1時間は英語の勉強時間を増やせますよ」

相手「確かに。みんな自由な時間を持ちたいとか言って、ルームシェアしていますけど、結局、自由な時間が減っていますよね」

私「そうですよ、ホントですよ」

いい調子だったので、ここで挑戦してみることにした。

私「ぜひどこかで食事でもしながら、これまでの留学体験などについてお話して、お互いの知識を広げませんか?」

相手の表情が一変して、急に見下したようにこう言った。

相手「ハハハ! その時間は無駄じゃないんですかあ?」

 

「友情と愛情のどっちが大事?」

私の人生で、この質問は女性以外から聞いたことがない。男にとっては、比べるまでもないからだ。私も彼女になる可能性のある女性との約束なら、よほど大切な友だちの約束よりも優先する。結婚したい女性となれば、生涯で最も大切な友人が瀕死の重体だろうが、なんの躊躇もなく女性と会うことを優先する。当然、もし私が瀕死の重体であったとして、大切な友人が私より彼女と会う約束を優先したとしても、私は一片の不満も持たない。

 

上記のバンクーバーで会った女性とはメアドの交換もできずに終わった。私が相手の言葉に怒って、その女性との会話を中断したから、メアドが交換できなかったのではない。なんとかその女性の気を引こうと必死で頑張ったが、うまくいかなかったのである。上のような(私にとって)極めて失礼な言葉を浴びせられても、私は全身全霊で怒りの感情を隠そうとしていた。その程度で怒っていては、とてもではないが、私に女性と交際できるチャンスなど巡ってこない。自分の努力の限界まで、プライドを捨てていたのである。それくらい、私の恋愛の優先順位は高かった。私の高すぎるプライドよりも、もっと高かった。

 

(女性はどうして結婚への優先順位がここまで低いのだろう?)

口では「結婚したい」と言っているのに、私が会ったほぼ全ての女性の結婚願望は、私の結婚願望の太陽のような大きさと比べると、米粒ほど小さいとしか思えなかった。もちろん、女性だから男性への警戒心を持っているだろうし、私と結婚したいと思う奇特な女性などいなかったこともあるだろう。それにしても、それを十二分に考慮したとしても、本当に結婚したいと思っているなら、そこまで簡単に私を振っていいのか、と思わずにはいられなかった。

 

「好みのタイプは?」と質問されたら、「相手に求めるよりも、相手の長所を見つけられる人になりたいです」と20才頃から結婚するまで私は答えていた。答えるだけでなく、本気でそう思っていた。私も子どもの頃は「髪の長い女性が好き」「優しい人が好き」「趣味が合う人が好き」などと言っていた。しかし、外見よりも内面が重要であるし、優しいの定義は自分の中でも曖昧であるし、趣味が合わなくても素敵だと思う女性はいくらでもいることに、20才になる頃には気づいていた。「好きなタイプ」の範囲に入らなくても、実際に自分が好きになる女性はいくらでもいる。自分が次に好きになる女性は、自分でも予想がつかない。周りの人を見ていても、さすがに30才になる頃には、男女ともに「好きなタイプは?」と聞かれて、上のような幼稚な返答をする人は、浅はかな人生を送っている奴だけだった。

「相手に求めるよりも、相手の長所を見つけたい」と私が本気で思っていた証拠に、私は女性に振られたことはあっても、振ったことはない。「この女と共同生活していくなんて無理だ」「本当にどうしようもない女だな」と思ってしまう相手だって、私から振ったことはない。1回か2回会っただけで相手の内面まで分かるわけがない、と私が知っていたからだ。次に会った時に、その女性の素晴らしい魅力に私が気づくかもしれない、と常に考えていたから、あるいは、考えようとしていたからだ。「可能性が低いなら、最初から断った方が親切」という考え方もあるが、私は基本的に同意できない。

とはいえ、正直に言えば、私も人生でたった1回だが、女性を振ったことがある。結婚の直前である。私より5才も年上の女性だった。私が出会ったときには、彼女は出産が難しい年齢だった。

「出産できること」が私の結婚の大前提条件である。これだけは譲れないほどの条件である。それでも、結婚を前提に、彼女と交際した。私自身が彼女と結婚したいと思って、交際していた。

どういうことか?

一つは、彼女は出産が難しい年齢であったが、出産が不可能な年齢ではなかったからだ。

しかし、それよりも遥かに重要な点は、「たとえ子どもがいなくても、彼女となら一生一緒に暮らしたい」と私が考えを変える可能性がゼロではなかったことだ。つまり、10年間以上死守してきた「子どもがほしい」という私の大事な願いであったとしても、女性のためなら、愛情のためなら、捨てることもある、と私は考えていた。それくらい、愛情の優先順位は高かった。

友だちよりも、家族よりも、仕事よりも、もちろん金よりも、自分の信念よりも、この世のありとあらゆるものよりも、女性もしくは結婚の優先順位は、私の中で高かった。

「そこまで高いと異常だ。そんなに結婚願望が強いから、返って引かれて、なかなか結婚できなかったんじゃないのか」

そう思われるに違いない。そんなことは私も十分承知していた。結婚願望の高さで女性に嫌われたら本末転倒なので、現実には女性との予定を優先しすぎることのないよう気をつけていた。それでも、あまりに高いので、その高さを見透かされて、女性に引かれていたことはあっただろう、とは私も思う。

 

「私よりそっち(仕事)を優先してください」

女性からこう言われて、私がショックを受けたことは10回以上はあるように思う。私の中で仕事と恋愛の優先順位など、天と地の差がある。仕事と家庭の重要度分配でいえば、「仕事0で家庭10だ」と結婚前から言っていた。やたらと倫理を重視しているわりに、医療職はもともと私が希望して就いた職業ではないので、今でも「仕事0で家庭10」の考えは変わっていない。

 

私と同じような恋愛観の人は、男性であれ、女性であれ、一体、世の中にどれくらいいるのだろう。結婚前に書きたかった内容だが、結婚後になってしまった。結婚後になっても、全くまとまりがないが、とりあえず、載せておく。

一夫多妻を禁止するのは大多数の男性のためである

結婚制度が社会に必要な理由」の捕捉記事になります。

世界史上、一夫多妻の存在する社会は多くありますが、一妻多夫の存在する社会はほとんどありません。なぜかを考えた人はいるでしょうか。

一番大きい理由は、やはり男性は同時に複数の女性を妊娠させることは可能ですが、女性は複数の男性の子を妊娠することはできません。昔読んだ生物学の本には、雌の数と繁殖数のグラフが載っていたことを記憶しています。繁殖数は雌の数だけで決まり、極端な話、雄は一匹でもいればいいからです。

そういったsexの問題でなく、genderの問題も含んではいますが、現在の日本で自由恋愛になれば、下の図のようになります。ネットで調べてみたら、同様の図が多く出てきたので、今の若者の間では常識になっているのかもしれません。

 

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「自由恋愛の規制」≒「結婚制度」が必要な理由、特に一夫一婦制が社会に必要な理由は、上記のような自由恋愛のいびつさを解消することもあるでしょう。もっと端的にいえば、自由恋愛からはじかれるモテない男子を救う効用があります。一夫多妻は男性にとって有利な制度だと勘違いしている人は女性に限らず男性にもいると思いますが、大間違いです。一夫一婦制は大多数の男性にとっては歓迎すべき制度だと自覚すべきです。

同時に、「浮気をする男」が道徳的に好ましくないことは社会常識になっているのですから、「モテる男を好きになる女」が道徳的に好ましくないことも、そろそろ社会常識になってくれないでしょうか。浮気する男は、それを受け入れる複数の女性がいるから、成立しています。昔は、売春する女が道徳的に好ましくない社会常識はありましたが、買春する男が道徳的に好ましくない社会常識はほとんどありませんでした。最近では、両者とも道徳的に好ましくないとの社会常識がほぼできています。だったら、「モテる男を好きになる女」は、その男が既婚であるだけでなく、未婚であったとしても、好ましくないとの社会常識ができてほしいです。

真犯人よりも私を罰した者を恨む

もし自分が犯してもない殺人で有罪になったとして、真犯人が名乗り出たとしたら、その真犯人に対してどう思いますか。

「ぶっ殺したい!」

それが普通の反応ではないでしょうか。しかし、「冤罪の軌跡」(井上安正著、新潮新書)によると、弘前大学教授夫人殺人事件では、冤罪被害者は真犯人が名乗り出た時、「感動しました」と言っています。なぜでしょうか。

大前提として、真犯人の滝谷福松が名乗り出た1971年の時点で、1949年の弘前大学教授夫人殺人事件は時効を迎え、裁判で懲役15年となった那須隆は仮出獄していました。滝谷が新たに罰せられる可能性はゼロでした。また那須仮出獄中なので、とりあえずは塀の外、一般社会で生活できています。だから、滝谷が「本当は自分が殺した。裁判は間違いだ」と名乗り出たのは、無実の罪で罰せられた那須の名誉回復のためでした。滝谷は国家から罰を受けないものの、正直に名乗り出ることによって過去に見逃されていた罪について、社会から新たに不名誉を被ることになります。それを覚悟して、自分の罪で他人が不名誉を被っているのを見るのは忍びないと思い、那須のために滝谷は正直に語りだしたのです。那須が滝谷に感謝するのは、そんな背景があります。

滝谷がありのままの真実を証言をしたのに、あろうことか、再審請求は一度却下されています。無実の者に自白を強要して、その自白を元に有罪にしたのに、真犯人の自白は嘘だと判断したのです。もし私が那須だったなら「真犯人が名乗り出ても間違いを認めないなら、どうすればいいんだ」と途方に暮れるでしょう。何事も冷静な那須の顔がみるみる紅潮して「意外だ! 全く意外だ!」と叫んだのは当然です。

もっとも、滝谷が嘘をつくメリットがある、と考えられる余地はありました。再審請求して無罪が確定したら、刑事補償が出ます。これは決して安い金額ではありません。たとえ、東電OL殺人事件で冤罪が確定したゴビンダは15年以上も収監されていたため、1日12500円として6800万円も受け取っています(冤罪が確定した後の話になりますが、この事件ではまだ刑事補償の額は1日3200円と少なく総額1500万円ほどでした)。さらに国家賠償法による賠償金の請求も可能です(実際にこの事件で認められた額は960万円)。関係者が口裏を合わせて、儲け話を企んだことも考えられます。ヤクザが関わる殺人事件では、「自分が真犯人だ」と嘘で名乗り出てくる者も間違いなくいるので、司法が警戒したのも無理はないかもしれません。

事態を好転させたのは、新証拠の出現ではなく、司法界で有名な1975年の白鳥判決です。再審開始の判定にも「疑わしきは被告人の利益に」の原則が適用される、との判決です。間違った判決が出ないために3回も裁判したのだから、新証拠が出たくらいで再審など開かないと頑なだった裁判所が変わったのです。最も端的にいえば、それまで新証拠によって誤判が生じる可能性が「100%」が求められたのに対して、「50%以上」に引き下げられたのです。この画期的判決によっていくつかの冤罪事件の再審が開始され、無罪が確定しましたが、弘前大学教授夫人殺人事件もその一つです。

再審は1976年に始まり、翌年には無罪が確定します。再審に深く関わった元検事は「(真犯人が名乗り出てから)再審開始までの5年間は、私にとって実に長い時間だった。本人家族にとっては、私の何倍も長かったはずだ」と再審裁判で語っています。その通りでしょう。

那須の母は再審が終わった後、「もう恨んではいない、今の生活を大事にしてほしい、と滝谷さんに伝えてください」と取材に答えています。おそらく、那須本人も同様の気持ちだったと思います。この時の那須の恨みは、真犯人よりも司法制度に向かっていたはずです。冤罪被害者が殺人の真犯人を恨まず、むしろ感謝までして、警察や検察たちを恨んでいるのです。日本の司法制度の欠点が生んだいびつな現象です。

無実の人を国家権力によって殺害した可能性がある

飯塚女児殺害事件は冤罪の可能性が高いです。日本の冤罪事件で多発する以下の要因が揃っているからです。

1,警察が見込み捜査をしていた

2,マスコミも見込み捜査が正しいとの前提で報道していた

3,足利事件で間違ったDNA鑑定した同一のメンバーがこの事件でもDNA鑑定を行っていた

4,既に十分に捜査したはずの車から1年以上経過して突如として新証拠が発見された

1について、ある新聞記者は「絞首刑」(青木理著、講談社文庫)でこう証言しています。

「今考えても異様な捜査でした。捜査員が久間(犯人とされた人物)の顔写真を持って聞き込みにあたったため、地元住民の間では『久間が犯人である』と周知の事実のようになっていたし、車での尾行はカーチェイスのような状況になって、久間と直接トラブルになったことが何度もあったようです。県警の幹部が地元のラジオ番組に出演して、明らかに久間を犯人視していることが分かるような発言をしたうえで『人の心があるなら出てこい』などと呼びかけたこともありました。精神的なプレッシャーをかけるのが狙いとしか思えないような捜査でした」

そう感じた新聞記者がいる一方で、警察が最も疑う久間が逮捕された時は次のように報道されています。

「執念の捜査実った」(毎日新聞

「身近に容疑者、やり切れぬ」(朝日新聞

久間が真犯人と断定しているような書き方です。しかし、さすがに1990年代であり、警察捜査に疑問を感じた記者もいたので、次のような記事もありました。

「捜査幹部は『ミクロの世界のものを対比し、一つひとつ積み上げた成果』と自信をのぞかせるが、どれも状況証拠の域を出ない」(読売新聞)

3のDNA鑑定を行った者たちは坂井活子のグループです。坂井は「でっちあげ血液鑑定人の古畑種基」と同じく「でっちあげDNA鑑定人の坂井活子」として歴史に名を刻みそうなほど間違ったDNA鑑定を量産してしまっています。

4も常識的に考えれば、ありえない発見です。久間は事件から半年後に新車購入のため、事件時に使用したと警察が推測している車を売却します。この車を警察は押収して、徹底的に捜査しますが、なにも出てきませんでした。かりに久間が犯人だとしても、証拠隠滅してから売るでしょうから、当然です。しかし、1年以上たった後に、微量の血痕と尿が突如として発見され、それが被害者の女児と一致するというのです。

1960年代までの冤罪事件と大きく違うのは、飯塚女児殺害事件だと容疑者が最後まで自白しなかった点です。警察や検察に対してだけでなく、久間は裁判でも死刑確定後でも死ぬ直前まで自白していません。

飯塚女児殺害事件では、検察側が証拠隠滅を図ったのではないか、と疑われるような時間経過があります。たとえば、足利事件でDNA鑑定の杜撰さが分かり、東京高裁が再鑑定を認めたのは2008年12月です。しかし、久間はその直前の2008年10月に処刑されています。同じく足利事件の冤罪発覚を受けて、古い方式で実施されたDAN鑑定の証拠品の保全を2009年6月に全国地検に通知します。しかし、2009年5月に飯塚女児殺害事件で保全すべき証拠品は「いずれも廃棄処分、あるいは還付済みであり、当庁には保管してありません」との福岡地検の通知が再審請求中の弁護士の元に届きます。足利事件のような再鑑定はしようと思っても、もうできないようです。

冤罪の可能性がある死刑はなかなか執行されないものですが、飯塚女児殺害事件では死刑確定してから、わずか2年で執行されています。この後、「取り返しのつかない不正義を日本は犯したのではないか」との疑念から、いくつもの冤罪を訴えるテレビ番組が放送され、本が出版されています。

拷問王の紅林麻雄を教祖にしてしまった日本

現在のwikipediaで拷問王として載っている紅林麻雄は検事総長賞など500もの表彰を受け、その全盛期には「国警の星」などと激賞されていました。当時から紅林は「証拠などなく勘で犯人だと分かった」とあってはならない理由で犯人を特定していたことを堂々と自慢していました。山崎兵八など、この捜査手法に危険性を感じた警察官もいたようですが、ほとんどの警察官は何百回も表彰された紅林の推理が正しいと信じ切っていました(山崎兵八は紅林の全盛期にただ一人、その異常性を告発した人物で、それがために退職させられ、精神障害者として運転免許証をとりあげられ、家族全員が村八分にされた悲劇の人物です)。もはや紅林教と言っていいほど非科学的な警察集団が静岡に存在していました(あるいは、存在しています)。紅林教団が冤罪事件を量産したのは必然でした。

大きな事件だけでも、幸浦事件、二俣事件、小島事件、島田事件で紅林は無実の者を拷問で自白させたことが分かっています。まだ裁判で確定していませんが、袴田事件も紅林の部下が起こした冤罪です。他の小さな事件も含めると、紅林教団が生じさせた冤罪は数十件になると推測します。

紅林はありとあらゆる拷問方法を思いつき、自らはそれを実行せず、部下にやらせていました。容疑者に焼火箸を耳や手にあてて、バケツに排泄物を垂れ流しにさせています。紅林が行ったのは取り調べの拷問だけでなく、自分の直観に合致しない容疑者の捜査妨害、自分の直観に合致する容疑者の証拠捏造も上記全ての事件で行われています。

そのうちに紅林の強引すぎる捜査手法とそれによる冤罪が明らかになり、紅林は世間からも警察内部からも非難され、警察を辞職します。その2ヶ月後、脳出血で55才で亡くなりました。

ここまで道徳に反する紅林が何百回も公的に表彰され、部下たちに盲目的に従われた事実が恐ろしいです。そして、紅林のような人物が今後日本に出てこないと自信を持って言えない自分が情けないです。

でっちあげ血液鑑定人の古畑種基

戦後の冤罪事件を調べたことのある人なら、古畑種基と次の記事で紹介する紅林麻雄は嫌でも記憶に残るでしょう。

日本の冤罪事件がどれほどあるか私は知りませんが、世間で知られるほどの冤罪事件になれば明治から数えても100に満たないでしょう。そのうち一人の人間が関われる数となると、せいぜい数件に過ぎないはずです。それにもかかわらず、古畑の誤りが引き起こした事件は裁判で後に無罪と認められた稀な例だけで4件に及びます。

古畑は法医学の天皇との異名を持つ人物で、血液型のA因子とB因子に対してO因子は劣性であることを証明しています。その業績の価値は私も認めますが、血液鑑定に関しては問題のある結果を続出させています。島田事件では「胸部のところに革皮様化があるから、これは死後の傷でない」と法医学的にありえない発言をして、「権力の犯罪」(高杉晋呉著、講談社文庫)によると、同じく島田事件の血液鑑定をした他の医師から「法医学の常識をふみ外した間違いです。医学生ならいざしらず、古畑先生がなぜこういう鑑定をされたのか」と疑問を持たれています。このように他の医師の血液鑑定と矛盾する鑑定結果を古畑は量産しており、財田川事件にいたっては以前の自身の鑑定とすら矛盾する鑑定を出しています。

普通に考えて、それまでの血液鑑定で血液の付着はわずかとなっているのに、古畑鑑定で突如として鮮明な血液付着が何個も発見されたとしたら、古畑鑑定の前、あるいは古畑鑑定の最中に新しく被害者の血液がつけられたとしか考えられない(弘前大学教授夫人殺人事件では裁判でそう判定されて冤罪が確定している)のに、その疑問を口に出さないばかりか、いくつもの裁判で検察側に必要以上に有利な証言をしています。この非科学的な鑑定について「権力の犯罪」では、古畑自身が検察謀略の一味であることを自供したようなものだ、とまで書いています。古畑が検察謀略の一味と断定はできないでしょうが、そう批判されても仕方ないほど、古畑は悪質な鑑定、悪質な発言を繰り返しています。

古畑鑑定により無実の人を何年も収監させている事実、それも1人でなく4人以上も収監させてきた罪を考えると、上記の学術業績も吹っ飛び、もはや極悪人として歴史に名を残すべきとしか私には思えません。こんな瑕疵鑑定を続出させる奴に、何度も鑑定させた検察あるいは公権力は今からでも謝罪すべきと私は考えます。

ここで恐ろしい事実をつけ加えておきます。古畑が関わった4つの冤罪事件、弘前大学教授夫人殺人事件、財田川事件、松山事件、島田事件で、全ての容疑者は犯人でなかったのに、自白させられています。そして、その自白の供述調書が最大の証拠となって、裁判で死刑判決をくだされていました。まさに「日本では自白が作られ」、「日本では検察が犯罪を作り出せる」の実例です。

余談です。多くの方が想像している通り、医学部は子どもの頃から勉強ばかりしてきた奴しか入れません。その中でも特に勉強しかできない奴が研究医になります。研究医とは、患者さんの診察や治療は全くせずに、研究ばかりしている医者のことです。もともと勉強しかできない奴の中でも、さらに勉強しかできない奴が就く仕事です。患者さんを含めた一般人と交流する機会がろくにないので、研究医はコミュニケーション障害の極地に到達します。上の古畑はその代表例でしょう。この問題を少しでも是正するためにも、海外のように、研究室内で教授にも自由に発言できる雰囲気を作る、それが作れないなら教授にさせないくらいの制度を作るべきでしょう。

狭山事件の非合理的な結論

前回の記事の続きです。

石川一雄は弁護士を全く信用せず、一方で、「10年で出す」と嘘をついた長谷部警部を信用していました。にわかに信じられないことですが、一審で死刑判決が出ても、長谷部警部からの手紙が来ていたせいか(もちろんその手紙には裁判の証拠になるので10年で出すとの言葉はありません)、実際は10年で出られると安心していました。拘置所職員も、死刑判決が出ても石川は全く動揺せず、むしろ朗らかだった、と後に裁判で証言しています。

一審で全く抗弁しなかった石川にとって控訴をする必要はないのですが、刑務所の仲間から「死刑判決を受けて控訴しないのはアタマがおかしい」と言われたのにカッとなって、判決翌日に控訴します。この時、石川は控訴の意味もよく分かっていなかったようです。

その1ヶ月半後に東京拘置所に石川は移監されます。ここで石川は兄に始めて面会し、兄にはアリバイがあることを知ります。石川が自白したもう一つの理由は、兄が真犯人であると長谷部警部に思い込まされたからです。さらにもう一つの理由は、長谷部警部に「おまえを生き埋めにしてもかまわない」と脅されていたからです。自分が生き埋めにされたり、兄が死刑になったりするくらいなら、既に犯した別件の本来の罰である10年で済むのなら、犯していない誘拐殺人についても自白した方が得と考えるのは理にかなっています。

東京拘置所に来た石川に、荻原佑介という石川と同じく被差別部落出身の怪しい右翼が何度も面会しに来ます。荻原は「一雄、頭を下げるな。胸を張れ」と法廷で無実を訴えるように石川を励まし、毎日のように石川の実家にも凄まじい爆音のバイクで来ます。荻原は酒臭く大声でわめき、そこらじゅうに唾を吐き散らして、石川の家族を辟易させています。しかし、インテリで紳士的な弁護士たちよりも、言い方の乱暴な熱血漢の右翼の方を石川は信頼しました。これが長谷部警部からの呪縛から解放されるための儀式だった、と「狭山事件の真実」(鎌田慧著、岩波現代文庫)には書いてあります。

控訴審が始まると、一転、石川は犯行を全面的に否認します。この頃から石川は警察から10年で出られると言われたことを弁護士たちにも話し始めます。石川の自白のカラクリが分かった弁護士は俄然張り切りましたが、なにを思ったか、石川は弁護団全員を解任します。

実は、弁護士たちは全員共産党系でした。石川の兄が同郷の共産党議員に頼んで、手配してもらった弁護士たちだったからです。右翼の荻原は共産党を蛇蝎のように嫌っていました。その荻原の情熱への義理立てとして、共産党系の弁護士たちを解任したのですが、有能な弁護士たちに無報酬で仕事をお願いしていた石川の兄が激怒して石川を翻意させ、なんとか同一の弁護士たちが再任されます。石川はどこまでも世間知らずでした。

後に石川が出版した「獄中日記」からの抜粋です。

「殺人犯にしたてられた経緯を苦しんで、苦しんだ末に理解し、警察の恐ろしさを知らされた時、そして、弁護団に抱いていた私の間違った考えが分かった時、私はこの独房の中で声をあげて泣きました。後から後からつのり来る悔しさにあふれる涙は止まらず、これほどまで見事に、警察のワナに陥ってしまった自分の無知を恨みます」

改めて調べてみると、石川の供述調書はおかしなところが多数ありました。

1,10名以上の警察が2時間以上もかけて2回石川家の家宅捜索をして、なにも見つからなかった後、誰もが気づきそうな石川家の入口の鴨居で突然、被害者の万年筆が見つかった

2,屋外で殺害された後、雨がかなり激しく降っていたのに、遺体の衣服は濡れていなかった

3,被害者の防水加工されていない腕時計が屋外で2ヶ月たった後に発見されたのに正常に動いていた

4,脅迫状を書いた用紙は妹のノートだった、と自供しているが、家宅捜索でもこのノートは出てこなかった

5,自供では扼殺(手で首を絞めて殺す)となっていたが、上田鑑定にて絞殺(ひもなどで締めて殺す)であることが分かっている

その他にも石川の供述調書が事実でない証拠はここに書ききれないほどあります。犯行当時は石川を極悪人に仕立て上げることだけに執心していたマスコミも手のひらを返して、石川を擁護しはじめます。

しかし、控訴審は石川を無期懲役減刑しただけでした。理論的にいえば、石川は犯行事実を全面的に否定したので、それを正しいとして無罪か、それを誤りとしての死刑かのどちらかしかありません。しかし、石川も弁護士たちも訴えていない情状酌量を裁判官は突如として持ち出し、無期懲役としました。「石川の供述調書が事実でない可能性が高いのだろうが、無実とするのはいきすぎなので、死刑ではなく無期懲役で我慢してもらおう」と裁判官の思考を上記の本では推量しています。私にとっても、それ以外の理由が考えられないほど、この判決は非合理的です。最高裁判所も、控訴審の判決を支持しました。結局、石川は31年7ヶ月も獄中で過ごすことになります。

石川は1994年に仮出獄して、その後に再審請求を3度行っています。石川は現在82才のはずですが、いまだ再審は開かれていません。

狭山事件での警察の許されざる嘘

これまでの記事にも書いたように、日本の冤罪事件は、容疑者の自白が異常に重視されて生まれているものが少なくありません。しかも、その自白が、検察や警察による身体的、精神的虐待によって生じていたりします。狭山事件では身体的および精神的虐待だけでなく、警察の卑怯すぎる嘘により、一人の無実の青年の人生が台無しになっています。

狭山事件については有罪を支持する本も出版されていますが、2010年出版の「狭山事件の真実」(鎌田慧著、岩波現代文庫)で有罪とする証拠は全て論破されていることは、普通の思考力のある人なら分かるでしょう。

wikipediaには今も脅迫状と石川の筆跡が似ている写真を載せていますが、これは証拠にはなりません。世界史上で最も有名な冤罪であるドレフェス事件でも筆跡鑑定が有力な証拠となっていましたが、筆跡鑑定がそれほど科学的でないことは既に証明されています。そもそも、石川は筆記能力があまりないのに、脅迫状を見ながら警察の命令で数十回も同じ文を書かされているので、そのうちのいくつかの文字が似てしまうのは当たり前です。これらを証拠として筆跡鑑定で一致すると裁判で判定されたことに石川は後に「怒りを禁じ得ません」と述べています。

狭山事件は、1963年5月1日から埼玉県で発生した誘拐殺人事件です。警察は人質と金の交換場所に張り込んでいたものの、現れた犯人を捕り逃してしまいます。同じ年の3月に東京の吉展ちゃん誘拐事件でも警察は誘拐犯の指定した場所に張り込んでいたものの、お金を奪取した犯人を捕り逃していたので、警察への批判は強まっていました。狭山事件の死体が発見された5月4日には、警察庁長官引責辞任しています。

狭山事件でも真犯人がなかなか捕まらないことに警察は苛立っていました。そう本にはありますが、「真犯人」の石川一雄が逮捕されたのは5月23日なので、事件発生からわずか3週間で警察は殺気立っていたようです。

この時点で石川だけが容疑者だったわけではありません。しかし、石川逮捕翌日の新聞各社は「ホッとした地元」「捜査の苦労実りそう」「目の前に(犯人が)いたとは……」「底知れぬ不気味な石川」「アリバイ工作の疑い濃い」と真犯人が捕まったかのような報道を繰り返しました。石川の逮捕容疑は窃盗、暴行、恐喝未遂であり、誘拐殺人容疑ではなかったのですが、最初から石川の取り調べは狭山事件についてばかりでした。つまり別件逮捕で違法なのですが、それについての指摘も非難も新聞各社は一切していません。

警察とマスコミがグルになって冤罪をでっちあげる構造は、残念ながら、ほぼ全ての冤罪事件で発生しています。

警察では当たり前のように石川に手錠をかけて、長時間の尋問をします。しかし、もともと「不良」であった石川は気性も荒く、警察に暴力を返すこともあったようで、簡単に自白しません。6月12日の東京高検との打ち合わせで、それまでの状況証拠(筆跡鑑定や足跡鑑定)では起訴は無理(裁判で有罪にできない)と判断されていました。6月13日に警察は別件で起訴して、引き続き狭山事件について石川を責め立てます。6月17日に勾留期限が切れ、石川は保釈されますが、その直後、留置場の門をくぐる前に強盗、強姦、殺人、死体遺棄で、つまり狭山事件の容疑者として再逮捕されます。

この再逮捕が石川に大きな勘違いを生じさせます。この時点で石川に3人の弁護士がついていて、6月18日に裁判所で勾留理由開示があると石川に知らせていました。しかし、石川は6月18日に正式な裁判が始まると勘違いしてしまい、再逮捕のため裁判が始まらなかったので(再逮捕のため裁判所に行かない可能性があることも弁護士は石川に伝えていたが、石川はそれを理解していなかった)、弁護士を信用しなくなったのです。このことを取り調べ中の警察や検察に告げると、「弁護士は嘘つきだからなあ」と石川に共感したそうです。もともとインテリの弁護士たちと、小学校もまともに通っていない石川は水と油であり、以後、控訴審開始まで石川は弁護士を全く信頼していませんでした。

再逮捕から3日後の6月20日、ついに石川は自白してしまいます。なぜ石川はしてもいない罪を自白してしまったのでしょうか。その最大の理由は、長谷部梅吉警視の「10年で出してやる」という嘘を石川が信じてしまったからです。既に認めている別件の犯罪でも10年は刑務所に入れられると警察に騙されていた石川にとって、これは渡りに船の提案でした。上記のような弁護士への不信感を逆手にとって、「(嘘をついても平気な弁護士と違って)警察は嘘をつくとクビになる。10年で出すと言えば、必ず10年で出してやる」と間違いなく長谷部は言ったと石川は後に裁判で証言しています。この10年で出す約束について、石川は警察と縁が切れるまで、執拗に確認したことを証言しています。

警察が刑を軽くしてやるから自白しろ、と嘘を言うのは、残念ながら日本の警察の常套手段です。石川はもちろんですが、ほとんどの一般人は刑事訴訟法などなにも知りません。まして、容疑者は一秒でも早く警察の強引な尋問から逃れたいと思っています。警察が量刑を決めるのではなく裁判所が決めることは少し考えると分かるとエリートは思うでしょうが、この嘘にひっかかった日本人は無数にいるはずです。このような警察の嘘は、身体的あるいは精神的虐待と同等かそれ以上に道徳的に許されないはずです。

次の記事に続きます。

反省していた犯罪者を開き直らせた検察の不正義

前回の記事の続きです。

熊谷男女4人殺傷事件の尾形が裁判後に開き直った最大の理由は、警察や検察や裁判官の不正義です。

日本では自白が作られる」に示した通り、本当に残念ですが、日本の検察は調書を捜査側の好きなように作成します。この事件で、尾形の調書の最後のページは署名以外、差し換えられたと尾形は主張しています。さらに、共犯のマキは「事実と違うことは分かっていたけど、無理やりサイン・指印された」と裁判で言っています。「絞首刑」(青木理著、講談社文庫)によると、尾形の言う通り、調書の差し換えは事実だろうと弁護人も考えていますし、私も事実と推定します。尾形の人間性や犯罪はともかく、正義を体現すべき警察や検察がこんな卑怯な手法を使うことは許されません。

尾形が我慢できない不正義はもう一つあります。

犯行時、泥酔状態だった尾形は二度精神鑑定を受けています。一度目は裁判所が認定した医師で、一人目殺害時の責任能力が著しく低下していたと判断しました。また、尾形は自分にとって不利になることも全て話しているため、その医師は調書よりも尾形の言うことの方が信用できると証言しています。

二度目の精神鑑定は検事が推薦した医師により行われます。この医師はろくに尾形から話を聞かず、調書を参考に鑑定書を作成しました。理性的に考えれば最初の鑑定が正しいことは明らかなのに、裁判官は二度目の鑑定を採用します。尾形の罰を重くしたいために、よりおかしな鑑定書が正しいと認定したのです。

刑事事件の精神鑑定がいかにいいかげんかは、これからの記事でも書いていくつもりです。

繰り返しになりますが、尾形は事件後、死刑も受け入れるつもりでしたし、反省もしていました。しかし、上記の2つの不正義に憤激し、「死ぬかわりに、反省もしない!」と考えを変えました。これは検察捜査および裁判の失敗と断定していいでしょう。

ところで、上記の「絞首刑」の記述には疑問を呈したい部分があります。尾形の犯罪の凶悪性を認める一方で、被害者たちがまるで善人かのように書かれていることです。しかし、尾形に殺された一人は風俗店の店長ですし、もう一人はそこで働く風俗嬢です。尾形に車で連れまわされた残り二人のうち、一人はやはり同じ店の風俗嬢で、もう一人は殺された風俗嬢の友だちで「飲食店勤務」だそうです。少なくとも私の価値観では、社会的に立派な人たちではありません。

生き残った女性二人は裁判で次のように訴えています。

「私はあなたにかけがえのない友だちを奪われた。あの子の代わりに私が死ねば良かったのかもと思った日もあります」

「あなたが死刑になったとしても亡くした者は返ってこないけど、死をもって罪を償う義務がある。人の人生をメチャクチャにして二人の将来を奪った。あなたの将来も奪われて当然です」

「傷が痛むたびに、思い出したくないのに、事件の時のことが、一コマ一コマ思い出されてしまいます。私は尾形がこの世にいる限り恨み続けるでしょう。私が望む刑は死刑だけです」

普通に考えれば分かると思いますが、これらは水商売の被害者たちから自然に出た言葉ではありません。90%くらい、検察の作文だと思われます。こんな表層的な言葉を裁判で並べられても、私だったらバカらしくなるだけかもしれません。

尾形の手紙からの抜粋です。

 

他の死刑囚を見ると、本当に殺人をやった人なのかと疑えるほど普通の人です。俺はぐれ始めてから、ヤクザやその他のアウトローを社会や少年院、刑務所で数多く見てきましたが、それらの人たちと比べてもかなり気の弱く大人しい印象です。

どのような事件を起こしたのか知りませんが、いろいろな理由により精神状態が乱れ、普段ならまともに判断できることができなかっただけなのだと思います。

だから、誰にでも死刑囚になる可能性はあると思います。

本当に心から反省している死刑囚を執行することで罪を償うことになるのでしょうか。罪を背負って生きていくことが、本当の意味での償いになるのではないでしょうか。

被害者や遺族の感情は、自分で犯人を殺したいと思うのが普通だと思います。しかし、それでは、やられたらやり返すという俺が生きて来た世界と同じです。

ほとんどの死刑囚は毎日反省し、被害者のことを真剣に考えています。そういう人たちを抵抗できないように縛りつけて殺すのは、死刑囚がやった殺人と同等か、それ以上に残酷な行為ではないのですか?

 

尾形の人間性は極めて悪く、その更生は難しく、犯した罪は重い、と私は考えています。死刑はともかくとして、尾形への極刑に私は賛成します。それはそれとして、尾形の意見には賛成したい部分もあります。

もう一つ尾形の手紙を紹介します。

 

一般の人は信じないと思うけど、今の刑事は事件のでっちあげも日常的にやっているし、ましては調書の改ざんなんて当たり前にやっているのです。

だけど無実を訴えても今の裁判では無罪になることはないし、たとえ無罪を勝ち取っても年月がかかりすぎるから、懲役に行った方が早く出られるので皆、我慢しているのです。

俺の殺人などは事実ですが、事件の内容はかなりでっち上げなのです。だから俺は100%無罪の死刑囚は何人もいると思っています。

 

あってはならないことですが、無実の死刑囚がいるのは事実です。再審で無実が認められたケースもあります。次の記事からは冤罪事件を取り上げます。

死刑よりも反省し、被害者に償うべきでないのか

下は熊谷男女4人殺傷事件で死刑が確定した尾形英紀の手紙で、「絞首刑」(青木理著、講談社文庫)からの抜粋です。

 

俺の考えでは死刑執行しても遺族は、ほんの少し気がすむか、すまないかの程度で何も変りませんし、償いにもなりません。俺個人の価値観からすれば、死んだ方が楽になれるのだから償いどころか責任逃れでしかありません。

だから俺は一審で弁護人が控訴したのを自分で取り下げたのです。死を受け入れる代わりに反省の心を捨て、被害者・遺族や自分の家族のことを考えるのを止めました。

なんて奴だと思うでしょうが、死刑判決で死をもって償えと言うのは、俺にとって反省する必要ないから死ね、ということです。人は将来があるからこそ、自分の行いを反省し、繰り返さないようにするのではないですか。将来のない死刑囚は反省など無意味です。

 

1977年生まれの尾形はサラリーマン家庭で育ちます。尾形はごく普通の少年だったと本では書いてありますが、学業成績は悪く、指導要録には「友に誘われると手悪さあり(小3)」「根気に欠け、分からないことでも投げ出してしまう(小6)」「友だちとの遊びの中で不正の行動に走りやすいところがある(小6)」と書かれています。私の感覚では、小学生から不良です。

当然、中学の後半からは不良行為に拍車がかかり、タバコやシンナーを吸い、バイクを盗み、同級生との金銭トラブルから傷害事件を起こしています。中学生のうちから暴力団関係者とも交友を深め、高校2年で退学した後は、地元の暴力団事務所に入り浸るようになります。

飲酒の上での傷害事件などを起こし、静岡と東京の少年院に2度にわたって入所しました。出所後は実家で暮らしますが、再び酒に酔って、暴行や恐喝未遂事件などを引き起こし、1998年に懲役1年6ヶ月、保護観察付き執行猶予5年の判決を受けています。

判決後の一時期、飲み屋で知り合った女性と結婚し、長女が誕生したため、暴力団から足を洗い、コピー機のトナー製造会社に派遣社員として真面目に勤務していたそうです。2年間はトラブルを起こすこともなかったので、保護司は2000年6月、保護観察の仮解除に踏み切ったそうです。私に言わせれば、暴力団とも交流のあった奴をわずか2年大人しくなったからといって、保護観察の仮解除をするとは甘すぎます。

事実、早くも2001年1月に尾形は酒に酔って暴行事件を起こします。執行猶予中だったので、懲役2年の実刑が科されます。

ある捜査県警者は後にこう語っています。「確かにもともと病的にカッとしやすいところはあるが、普段は極めて理性的な男だった。特に酒を飲んで興奮すると手がつけられないような状況になってしまうことがある。トナー製造会社勤務の頃、落ち着いた生活をしていたのは、職場がシフト制で酒を飲む機会が少なかったこともあるんじゃないだろうか」

もしそう考えたなら、尾形に断酒治療を受けさせるべきでした。

外見上、尾形が真面目だったことは事実なようで、2002年10月には仮出所が許されています。しかし、違法なゲーム喫茶で働きはじめ、再びヤクザ者との交流が深まります。2003年7月には自分でゲーム喫茶を開業し、客はヤクザばかりでした。

同じころ、児童自立支援施設を出たばかりの16才の少女マキを尾形がナンパして、マキと性交渉を重ねます。マキは風俗店で働いており、そこの店長とも交際していました。尾形は「マキは俺の女だから、ちょっかいだすな!」と店長を脅していました。

犯行前日、尾形はマキとラブホテルで過ごし、2~3時間しか寝ずに犯行当日を迎え、ゲーム喫茶で朝5時まで働き、自宅で500mlの缶ビール何本かと焼酎の水割りを4~5杯飲みます。その朝からマキは何度も尾形の携帯電話を鳴らし、結局、尾形は一睡もせずに近くのファミリーレストランでマキに昼食をおごることになります。そこでも尾形は生ビールのジョッキ4杯とウォッカのジョッキを飲んでいます。マキが風俗店店長の愚痴を語ると、「締めに行くか」と尾形はマキを連れて店長のアパートにいって、包丁で惨殺しました。同じアパートにいた3人の女性は尾形らの顔を見ていたので、「殺すしかない」と尾形は考え、車で3人を連れまわした末、首を絞めて、包丁を突き刺します。偶然ですが、うち2人はすぐに発見されたため、命は助かっています。

一審で尾形の国選弁護人を務めた山本宜成によると、事件直後、尾形は「信じてもらえないかもしれないけれど、反省という言葉しかない」と言っていました。裁判中でも、尾形は被害者や遺族への謝罪と反省の言葉を口にしていますし、死刑についても素直に受け入れると繰り返していました。それにもかかわらず、裁判後、尾形は「死刑になるから、もう反省しない!」と開き直っています。なぜでしょうか。

次の記事に続きます。

死刑により罪が償えるのか

前回の記事の続きです。

1979年~1983年の半田保険金殺人事件で、被害者の兄である原田は「死刑以外に考えられない」と一審で発言しています。原田には、弟の死後に保険金1400万円が支払われていました。しかし、犯人の長谷川の逮捕後、弟が交通事故死でなく殺されたと分かると、その1400万円を返却しろ、と保険会社から連絡がきます。そのうちの200万円は「弟の交通事故で大型トラックを失った被害者」の長谷川(実際は弟の殺人犯)に貸していたので、返ってきません。また弟の葬儀などでかなり金を使っていたので、心底から困り果てて、近隣の弁護士事務所を訪れましたが、安くない相談料を取られた末、有益な助言はもらえませんでした。町役場に相談しても、「対応できない」と素っ気なく言われるだけです。仕方なく保険会社に必死で事情を説明し、慣れぬ交渉の末に一部を免除してもらったものの、それでも不足していた分の工面に苦労します。

一方、平日に開かれる公判を欠かさず傍聴するため、原田は仕事を懸命にやりくりして、名古屋地裁に通い詰めます。しかし、バブル経済真っ盛りの多忙期に何度も有休申請する原田に職場の上司は露骨に嫌な顔をしてきます。公判前日のある夜に遅くまで残業していた際は、疲労のためか右手の薬指の先を機械に挟まれて切断してしまいます。誰もいない工場で止血し、自ら運転して病院に向かった時は、怒りと痛みと情けなさで泣きたくなったそうです。次から次に降りかかってくる不幸の全ての元凶は長谷川にある、と原田が考えたのも当然でしょう。

一審でも二審でも長谷川は死刑判決を受けます。原田は嬉しくともなんともなく「当然じゃないか」と思うだけでした。とはいえ、二審が終わってからの数年間は、原田にとって久しぶりに穏やかな時期となります。バブルも崩壊して、仕事の繁忙期は過ぎ、控訴審後は公判通いをする必要もありません。原田は昔からの趣味だった考古学や古墳の探索に時間を割く余裕も出てきたそうです。

原田の元には長谷川から手紙が何通も届き続けていました。最初は開封する気もならず、ゴミ箱に投げ捨てていましたが、1990年頃になると、一通りは目を通すようになります。手紙には毎回、謝罪の言葉がびっしりと書き連ねられていました。初公判の頃から心情が少しずつ変化しているのに、原田自身も気づいたそうです。自分でも理由が分からないようですが、原田から長谷川に返信を書くようになります。

1993年、ついに原田は拘置所の長谷川に面会までします。原田の面会がよほど嬉しかったので、長谷川は満面の笑みを浮かべて現れて、そして深々と頭を下げます。

「本当に……。本当に、申し訳ありませんでした。こんな愚かな人間のため、皆さんに迷惑をお掛けしてしまって……」

原田は拘置所という異質な雰囲気に気おされ、ほとんど言葉が出てきませんでした。ただ、長谷川が「本当にありがとうございます。これで私はいつでも喜んで死ねます」と言った時には、原田は思わず「そんなこと、言うなよ……」と返したそうです。

そんな原田と長谷川の拘留は、1995年に途絶えてしまいます。これまで「特例」として面会を認めてきたが、今後は一切認めないと拘置所幹部に告げられました。真の理由は不明ですが、名古屋拘置所の所長交代が大きな要因のようだ、と本には書いてあります。

面会不可の決定に、原田は納得できませんでした。少しずつでも対話を重ねることで、長谷川の心を感じ取り、自分の気持ちを徐々に伝えていけるとの確信を深めていたのです。同じころに、手紙のやりとりまで禁止されます。原田と長谷川の意思疎通は完全に閉ざされてしまいました。しかも、手紙の禁止の理由として、「原田さんが迷惑しているから」と拘置所側は長谷川に伝えていました。

理不尽な対応と事実と異なる連絡に憤った原田は拘置所に何回も面会を申し入れ、知り合いになった中日新聞に自身の気持ちを伝え、記事にしてもらいます。それでも拘置所の対応が変わらなかったので、実名でメディア取材に応じ、死刑廃止を訴える団体の集会でも、自らの主張を訴えました。

実名で行動を始めると、自宅に無言電話や嫌がらせの電話がかかってきて、妻は子どもを連れて、家を出ていきます。それでも、長谷川との面会を原田は諦められませんでした。2001年には法務大臣と面会し、長谷川の死刑を望んでいない気持ちと面会を求める心情をしたためた上申書を手渡ししています。さらには、弁護士の求めに応じて、長谷川の恩赦請求にまで協力します。しかし、2001年末、長谷川の死刑は執行され、長谷川と再び面会するために起こした原田の全ての行動は徒労に終わります。

長谷川の葬儀は、原田も参列しています。その時でも原田は長谷川を許す気持ちは全くなかったそうですが、原田の心中でたぎる憤怒の情は長谷川ではなく、法務省拘置所当局に向かっていました。

被害者感情を声高に主張するくせに、結局のところは被害者とその関係者の気持ちを少しもくみとってくれないではないか!」

「絞首刑」(青木理著、講談社文庫)で何度も書かれていることですが、死刑囚の面会を制限する法律は日本のどこにもありません。法務省拘置所、刑務官の裁量で、どうにでもできる問題です。

もちろん、面会を制限すべき死刑囚もいるとは思いますが、上記の例は、明らかに面会を許すべきです。これで面会を許さない理由が分かりません。「死刑囚に不必要な刺激を与えないため」という理由を拘置所側はよく述べますが、それは名目的な理由でしょう。実質的な理由は「上の命令だから」「伝統的にそうだから」であり、そこから先は思考停止しているのでしょう。「ルールの存在意義を日本人は考えるべきである」に書いたように、法律に定められているわけでもない習慣(ルール)に盲目的に従うバカはやはり日本に多いようです。

日本とアメリカの36州は主要先進国で死刑を残す最後の二ヶ国ですが、「絞首刑」(青木理著、講談社文庫)によると、透明性と情報公開度で、両国の差は途方もなく大きいそうです。

日本は執行前日に本人だけに通知されるのが普通なのに(当日通知もある)、アメリカでは執行日は30日以前に決定され、その情報は公開され、インターネットで執行日の検索まで可能です。日本は死刑確定後に普通なら面会不可ですが、アメリカでは本人が許せば誰でも面会可能です。ミズーリ州は、死刑囚との面会には施設職員の立ち合いすらありません。日本では執行の際、犯人家族や被害者遺族の立ち合いはありえませんが、アメリカでは犯人家族は被害者遺族は原則立ち合い、ジャーナリストが立ち合える場合さえあります。