未来社会の道しるべ

新しい社会を切り開く視点の提供

ベーシックインカムよりも国民所得税を導入すべき

「つくられた格差」(エマニュエル・サエズ、ガブリエル・ズックマン著、光文社)は、累進課税こそ社会正義との考えで貫かれています。私もそれに異論は一切ありません。極端に貧しい者と極端に富める者もいない社会は、有史以来、人類普遍の理想だと私は信じています。

どういうわけか、ジニ係数が最も小さい、つまり、その理想に最も近い北欧諸国では、消費税が主となっています。しかし、「なぜ増税と言ったら消費税の話になっているのか」にも書いた通り、消費税は逆進性が強くなります。普通に考えれば、極端に貧しい者も極端に富める者も少なくするためには、所得の累進課税が妥当になるはずです。上記の本でも、それを何度も繰り返し主張しています。

その理想の税制として国民所得税を提案しています。国民所得税は、全ての所得に課税します。「『法人税はゼロがいい』理論は間違っている」で考察した労働所得や資本所得(インカムゲインキャピタルゲインも含む)の全てであり、公的法人や非営利組織が生み出す所得も含みます。当然、富裕層に集中する貯蓄にも適用されます。また、国民所得税は管理を簡単にするため、所得の種類によらず均一に累進税率を採用し、いかなる控除も提供しません。

ところで、国民所得(≒GDP)は労働所得と企業利益と利子所得を合わせたものです。だから、国民所得に課税すれば、理論上GDPの100%に近い課税基盤を持つことになります。

たとえば、労働所得に対する国民所得税は、雇用主が管理・納付します(現在の日本の源泉徴収のシステムです)。営利企業、非営利企業、政府いずれであれ、雇用主はすべて、あらゆる被雇用者の総労働コストに応じて税金を支払います。

さらに、家族経営のレストランから巨大企業まで、全ての企業はその利益に対して国民所得税を支払います。課税基盤となるのは利益の総額であり、適用除外は一切ありません。資本資産の損耗を反映するため減価償却は行うものの、いかなる税の支払いも控除されません。

以上の労働所得と企業利益はアメリカで、現在すでに法人税や事業税の申告書で報告されているそうです。私は会計に詳しくありませんが、日本もそうだと推測します。

国民所得税は利子所得にも、他の所得と均一の累進税率を課します。企業が融資や債券に対して支払う利子は企業利益から差し引かれ、その利子を受け取る貸し手に課税されます。貸し手が企業の場合、受け取る利子はすでに企業利益に含まれています。そのため課税基盤に追加されるのは、個人や非営利組織が受け取る利子のみであり、管理が煩雑になりません。個人や非営利組織が受け取る外国の配当も、外国から受け取る他の所得同様、国民所得税の課税対象になります。

このようにすれば、あらゆる所得源に一度だけ課税することになるため、国内の配当や年金所得、社会保障給付や失業給付などの移転所得に課税する必要はなくなります(配当は、すでに課税されている企業利益に含まれます。年金所得になる積立金は、すでに課税されている労働所得に含まれます)。国民所得税は、所得階層の最下層に多い、移転所得で生活している人々に負担をかけません。このため国民所得税は消費税よりも遥かに累進性が強くなります。

なお、理論上はGDPの100%の課税基盤を持ちますが、現実には「従業員が帳簿外の賃金を受け取る」「自営業者が現金で支払いを受ける」といった非公式経済は違法であるものの、把握できません。本によれば、こうした脱税活動により、GDPの7%ほど課税基盤は縮小するそうです。

そうだとしても、この国民所得税は、制度が簡単で理解しやすく、多くの人たちを納得させやすい、理想的な税だと私は考えます。国民所得税の説明には、300ページ近くある上記の本のうち、わずか2ページしか費やしていません。それくらい単純な税です。

これと好対照なのはベーシックインカムでしょう。制度が簡単で理解しやすい点では同じですが、ベーシックインカムが貧富の差を極限まで拡大する税制なのに対して、国民所得税は貧富の差を極限まで縮小する税制です。換言すれば、ベーシックインカムは富裕者にとって都合よく、国民所得税は貧乏人を救う税制です。

アメリカで会計士や経済学者や政治家やその他の富裕層がトリクルダウン理論法人税ゼロ理想論というトンデモ説を普及させて富める者がさらに富める社会にしているように、ヨーロッパではベーシックインカムというトンデモ説を普及させて富める者がさらに富める社会にしているのかもしれません。なお、ベーシックインカムがいかにメチャクチャな説かは「ベーシックインカムの賛否は現在のバカ発見器である」で既に述べています。

上記の本や今回の一連の私の記事が広く読まれ、日本でもできるだけ早く国民所得税が導入されることを願っています。

トリクルダウン理論が間違っている証拠

このブログを読むような方なら、「富める者が富めば、貧しい者にも自然に富がこぼれ落ち、経済全体が良くなる」というトリクルダウン理論は知っているでしょう。これが間違っていることは、次のグラフで一目瞭然です。

「つくられた格差」(エマニュエル・サエズ、ガブリエル・ズックマン著、光文社)の中で、上は私が最も衝撃を受けたグラフです。アメリカの下層50%は、1970年からの約50年間、平均所得がほとんど変わっていないのです。この間にアメリカ全体での一人当たりGDPは10倍以上になっているにもかかわらず!

では、アメリカの10倍まで増えたGDPは一体誰の懐に入っていたのでしょうか。理論的にも現実にも、富裕層になります。下のように、戦後からレーガン政権までの1980年まで、アメリカ人の所得は上位から下位まで平均の2%の成長率を維持していました。上位1%だけは成長率1%だったようです。

しかし、1980年以降、所得の成長率は下位から上位にかけて急カーブを描くようになり、平均の1.4%を下回る者が9割となります。さらには、上位になればなるほど所得成長率が異常に高くなる、という地獄社会になってしまいます。

本には、こんなデータも紹介されています。2018年、アメリカの成人一人あたりのGDP(≒国民所得)は7万5千ドルです(成人一人あたりなので、国民一人あたりより高くなります)。一方、所得の下層50%の成人一人あたりのGDPは1万8500ドルと、平均の4分の1です。この1万8500ドルは、あらゆる所得の合計であり、税引前であり、雇用主が民間保険会社に払う金銭(つまり本人の手に入らない金銭)も含まれています。「読者がいま目にした数字は、決して間違いではない。所得のもっとも幅広い概念であるGDPを、そこから何も除外することなく、成人の人口で平均している」とまで書いています。アメリカ人である著者にとっても衝撃を受けるほど、ひどい数字なのでしょう。

トリクルダウン理論がここ50年くらいのアメリカでは完全に通用していないことは十分に示せたと思います。次の記事に、上記の本で、理想とされる税制について示します。

なぜ累進課税は後退しているのか

ソ連が崩壊した頃から、多くの先進国は自由競争を重視し、富裕者へ課税率を下げ、貧富の差が拡大しています。当時から現在まで、ほとんどの先進国は民主主義国家です。古今東西全ての社会で、富裕者は一部で、大多数の一般人は富裕ではありません。だとしたら、富裕者への課税率を下げる税制改革は、一人一票の普通選挙制が実施されている民主主義国家なら、多数決で否決されるはずです。しかし、現実に日本を含む多くの先進国で、ここ30年ほど富裕者への課税率が下がる、つまり累進課税が後退しています。なぜでしょうか。

その理由は一つではありませんし、国によっても異なるでしょう。ただし、アメリカに関しては、「つくられた格差」(エマニュエル・サエズ、ガブリエル・ズックマン著、光文社)によると、租税回避産業の存在が大きいようです。

租税回避産業には四大会計事務所が当然のように関わっており、それ以外も含めて、アメリカだけで25万人も従事しています。彼らは自分たちの存在基盤であるタックスヘイブンへの規制に大反対で、そのためのロビー活動にも多大な費用を投じています。この産業は租税競争(≒法人税を下げる競争)がいいことだと主張するロビー活動までしています。法人税ゼロ理想仮説や、トリクルダウンという経済専門用語が世界中のマスコミにやたらと出てくるのも、このアメリカの租税回避産業のロビー活動によって生まれたのかもしれません。

ところで、タックスヘイブンを黙認し、法人税を下げようとするなど、いかにもアメリカらしい、と私は考えてしまいましたが、必ずしもそうではありません。累進税率がアメリカで世界最高であった時代が20世紀の半分近くも占めていた事実が本に書かれています。

世界史上最悪の不況と世界史上最悪の戦争を乗り越えたルーズベルト所得税の限界最高税率を94%、世界史上最悪まで上げました。ルーズベルトが1942年4月27日に議会に送った調書からの抜粋です。

低所得者と超高所得者の差を縮めなければならない。アメリカのいかなる市民も、年間2万5千ドル以上の税引後所得を持つべきではない」

この主張通り、ルーズベルトは限界税率を100%まで上げたかったようですが、連邦議会はさすがに100%はやりすぎだとして、最高税率94%で妥協しました。なお、当時の2万5千ドルは現在の100万ドル以上に相当するので、この最高税率を課された超富裕層は納税者の0.01%未満に過ぎません。

あのアメリカで、1930年代から1980年代まで、所得税の限界最高税率は80~90%に設定されていました。必然的に、この時代、アメリカの貧富の差は過去にも未来にもないほど縮小していました。しかし、1981年にレーガンが大統領になると、「高い税率はアメリカ的でない」「課税は窃盗」などの説がまかり通り、現在まで続く「租税回避のビックバン」が起こります。

さらに1986年、最高限界税率が28%と、先進国で最低水準まで下がる税制改革が決まりました。この税制改革は、大衆の間でさほど人気ではありませんでしたが、政治エリートや知的エリートからは自らの莫大な富をさらに増やせるので、絶大な支持を得ていました。テッド・ケネディアル・ゴアジョン・ケリージョー・バイデンなどの民主党議員もみな、心から賛成票を投じています。

本によると、現在、この税制改革は格差を拡大する大きな要因になったと広く認識されています。それでも、この改革に関わった人はみな、いまだに肯定的にとらえているそうです。アメリカの大学の経済学者たちも、この改革の利点を吹聴することを職業上の義務と見なしているかのようだ、と書かれています。

金持ちの政治家がこの改革を歓迎するのは当然でしょう。しかし、民主主義社会であれば、金持ちでない一般大衆の支持がなければ、政治家は選挙で負けます。なぜ金持ち優遇政策に心から賛成する政治家たちを、アメリカ人は支持したのでしょうか。

共産主義が失敗した思想的理由」に書いたように、下層大衆ほど保守的だからかもしれません。あるいは、「ポピュリスト支持者の本当の敵であるグローバリズムの弊害の解決方法」に書いたように、下層大衆は本当の敵を見誤っていたのかもしれません。

もしくは、「富める者が富めば、貧しい者にも自然に富がこぼれ落ち、経済全体が良くなる」とのトンデモ説、いわゆるトリクルダウン理論を一般大衆が半信半疑ながら容認していたのかもしれません。このトリクルダウン理論が少なくとも1980年以後のアメリカでは完全に間違っていることを次の記事で示します。

この記事の最後に、上記の本の言葉を載せておきます。

「このような不公平な税制は私たちが選んだのだ。もちろん、結果を熟知して選んだのではなかったのだろう。私たちが選んだ政治家に騙されたと感じている人もいるかもしれない。しかし、とにかく選んだことには変わりない」

「法人税を失くせ」は「金持ちの脱税を認めろ」とほぼ同義である

「つくられた格差」(エマニュエル・サエズ、ガブリエル・ズックマン著、光文社)によると、いつの時代であれ、法人税の主な存在理由は租税回避の防止にありました。法人税が個人所得税と同時に生まれた理由も、そこにあります。

資本を持たない被雇用者は個人所得税がかかりますが、資本(日本だと有限会社であっても300万円の資金は必要)を持つ富裕層は会社を設立して、所得のうち貯蓄に回す分を個人から会社の留保分に全て移転すれば、貯蓄分の個人所得は免除され、法人税だけ払えばいいことになります。ほぼ全ての国では、個人所得税法人税より高いので、簡単な節税です。もし法人税がゼロなら、消費税以外に税金はかからないようにできたりします。ここまでで十分すぎるほど富裕層優遇ですが、もっとひどい例が南米のチリにあります。個人の食事、衣服、余暇費用でさえ、会社の支出として事実上認められており(チリでも違法であるが、ほとんど取り締まれていない)、消費税すら払っていないそうです。こうなると、富裕層から税は徴収できなくなり、貧しい者たちだけが富める者たちに納税する封建身分社会と同じになります。

だから、「法人税を失くせ」は「金持ちの脱税を認めろ」とほぼ同義だと私はタイトルで提唱しました。実際、「経済学的に法人税はゼロがいい」理論を提唱している者たちは、ほぼ例外なく、金持ちでした。

法人税ゼロ理想論者はよく「法人税は安くしないと、企業が国外に逃げてしまう。現に、アメリカの大企業の多くは法人税の安い国(タックスヘイブン)に逃げているではないか」と訴えます。この主張はどこが間違っているのでしょうか。

根本的な観点が間違っています。上記の主張への反論は、私であっても、本であっても同じで、「法人税の安い国に逃げるのは社会道徳として好ましくないので、取り締まるべきだ」になります。タックスヘイブンでの税金逃れは、戦争と並んで、現代社会の巨悪の一つです。ろくに金を持たない貧乏人はタックスヘイブンでの税金逃れなどできないに、富める者たちだけが自国の税金から逃れる制度を許してもいい、と本気で考えているなら、そんな人こそ非国民と罵倒されるべきです。しかし、現実には、「ポピュリスト支持者の本当の敵であるグローバリズムの弊害の解決方法」に書いたように、税金逃れを公の場で自慢する人物(トランプ)が愛国者たちに熱狂的に支持されて、大統領になってしまう事件が起きています。バカの極みです。

なお、このように言うと、「徴税権は国家主権に関わるので、他国が干渉できるわけがない。他国に高い法人税を強制することなど、国際法上、絶対に許されない」と反駁されることがあります。

確かに、タックスヘイブンを全面的に解決するとなると、法人税率を一定にするなどの国際協力は重要になります。しかし、徴税権に触れずとも、解決する方法はあります。

タックスヘイブンについての本を読むと、必ず書いてあることですが、タックスヘイブン問題の本質は、法人税ゼロではなく、情報を機密にしていることです。どれだけの利益が計上されているか、情報公開していません。もっと書けば、調べてもいません。法人税がゼロであるため、調査するための財源がないからです。

現在、多国籍企業は会計士に頼みさえすれば、利益を各国にほぼ自由に割り振ることが可能で、そのために法人税率がゼロのタックスヘイブンに利益のほとんどを計上させています。この各国への利益配分額さえ分かれば、問題はほとんど解決します。そして、そのデータは既に存在しています。

まだパナマ文書も公開されていない2015年に、OECDの税源浸食と利益移転(BEPS)プロジェクトとして、大企業には国別の利益や納税額の報告が義務づけられることが決まりました。このため、国ごとにどれだけ所得を得たのかを、アップルは本社のあるアメリカ政府に、ロレアルはフランス政府に、フィアットはイタリア政府に既に報告するようになっています。

これにより、本社のある政府が、自国の法人税の不足分を他の全ての国で課す(矯正税)ことが可能です。たとえば、アメリカの法人税が25%で、アイルランド法人税が5%で、バミューダ諸島法人税が0%だとします。アップル社のアイルランドで計上された利益の5%はアイルランド政府が徴収し、さらに利益の20%をアメリカ政府が徴収します。また、アップル社のバミューダ諸島で計上された利益の25%はアメリカ政府が徴収して、バミューダ政府は税金を全く徴収しません。これは国際条約に一切抵触しない上、タックスヘイブンの国に協力を求めなくても構いません。BEPSプロジェクトのおかげで、データも既にあるので、今すぐ実行できます。

こうなると、本社をタックスヘイブンに移転する国が出てくるのではないか、と思われるかもしれません。確かに、そのような企業は既に存在していますが、既に本社の国籍の規制も存在しています。タックスヘイブンの存在が世界中のほぼ全ての富裕層に知られているにもかかわらず、世界の大企業2000社のうち、アイルランドに本社があるのは18社、シンガポールに本社があるのは13社、ルクセンブルクに本社があるのは7社、バミューダ諸島に本社があるのは4社だけです。半分の1000社はアメリカかEUに本社があり、それ以外の大半も中国、日本、韓国などのG20諸国に本社があります。どの国であれ、他の国に税金を奪われたくないので、簡単に本社を移転させない規制があるからです。

矯正税が導入されれば、タックスヘイブン問題は一気に解決に向かうでしょう。タックスヘイブンの節税分が本国での矯正税で完全に相殺されてしまうのなら、タックスヘイブンに利益を計上する理由がありません。むしろ、会計士に払う高額な事務手数料の分、不利益になります。G20の経済大国は、例外なく、タックスヘイブンに税金を奪われているので、このようなタックスヘイブンへの規制は歓迎されるはずです。

しかし、パナマ文書タックスヘイブンの不正が世間に知れ渡って6年も経過しているのに、このような矯正税は導入されていません。それどころか、BEPSプロジェクト以後も、租税競争は続き、法人税は下げられ、富裕者優遇税制は悪化しています。なぜでしょうか。

その理由を次の記事で考察します。

「法人税はゼロがいい」理論は間違っている

法人税がゼロでいい」理論の誤りをこの記事と次の記事で示します。この記事では、「(法人税を含む)資本所得の税率はゼロがいい」理論の誤りを示します。根拠は全て「つくられた格差」(エマニュエル・サエズ、ガブリエル・ズックマン著、光文社)です。

経済学的には、所得を生む主体は労働と資本の2つしかありません。労働が所得を生むことは誰でも理解できるでしょう。所得を生む資本とは、賃料を得られる土地建物、利子を生む貯金、配当金を出している株券、価値が上がる希少絵画などです。だから、資本さえ所有していれば、労働なしでも所得、つまり収入が得られてしまいます。労働なしで金銭を得るなど、社会的には好ましくないので、資本税は労働税より高くあるべきです。

普通ならそう考えると思いますが、なんと資本所得に対する最適な税率はゼロである、という理論が1970年代から1980年代に発展しました。企業利益、利子、配当、キャピタルゲイン、家賃、居住用財産、事業用財産、不動産、遺産に対する税はすべて廃止し、その代わりに労働所得税や消費税を増やすべきだという説です。そうすれば、財産が全くなく、資本所得など一銭もない貧困層の税引前所得も増え、万人の利益になる、という理論です。この理論にはさまざまなバリエーションがあり、そのなかには資本所得にもある程度課税したほうがいい、とするものもあります。

上記の本には、こんな記述があります。

アメリカの税法の専門家に、資本所得に課税すべきかどうか聞いてみるといい。『課税すべきでないと経済学者が証明している』と主張する専門家があまりに多いことに驚くに違いない。実際、筆者はそれを経験している」

この理論の根拠は、資本の供給(国民が毎年貯蓄にまわす所得の割合および外国からの純資本流入量)は税引後利益率の変化にきわめて敏感に反応するという見解です。そのため、わずかに課税するだけでも、長期的には多大な資本の蓄積が失われます。資本は労働者の生産性を高めます(?)。したがって、資本に課税すれば、賃金が落ち込みます(?)。経済学ではこれを、資本税はすべて労働に転嫁されると言うそうです。同様に、法人に課税すれば、工場が外国に移転します。あるいは資本資産の購入を控えるため、資本の蓄積は減り、それとともに賃金も下がります(?)。経済学ではこれを、法人税は労働者に帰着すると言うそうです。

経済学をろくに知らないせいか、私には理解に苦しむ理論なのですが、経済学をよく知っている世界中の学者はこの理論に納得しているそうです。

ところで、私は医療従事者です。医療では、論より証拠が基本です。「理論上は効く薬」であることが証明されても(そんなことは証明しようがないので、証明されたと言う時点で間違っていますが)、現に人間に投与して効いていなければ、薬として認められません。医学の基本中の基本の原理です。

経済学も論より証拠です。ノーベル賞受賞者の経済学者がどんなに緻密な理論を築き上げても、現実の経済現象がその理論通りになっていなければ、その理論は誤りです。

では、現実のアメリカ資本所得の税率と国民貯蓄率(民間貯蓄と政府貯蓄)のグラフを見ると、次のようになっています。なお、国内投資は、国民貯蓄率から海外の純貯蓄を引いたものですが、海外の純貯蓄はきわめて少ないため、ほとんど国民貯蓄と変わらないそうです。

過去100年のアメリカの歴史を遡ってみると、資本所得の税率と国民貯蓄率(≒国内投資)は直接の相関関係はありません。大恐慌から第二次大戦までを除けば、国民貯蓄率(≒国内投資)はほぼ10%前後で推移しています。1980年代以降に注目すれば、むしろ、資本所得の税率が下がるほど、国民貯蓄率(≒国内投資)は減る、という上記の理論の正反対のことが起きています。なお、19世紀まで貯蓄データのあるフランス、ドイツ、イギリスでも、資本課税と国民貯蓄率の相関関係は見られないそうです。

本では、資本課税と資本蓄積(国民貯蓄率)に相関関係がみられないのは、「資本蓄積は税制以外の多くの要因の影響を受けるからである。むしろ、資本蓄積に与える税制の影響は軽微である」と述べています。そんな理論はともかく、事実として、資本課税を下げても、資本蓄積は増えていません。だから、「資本所得に課税すると、労働者の賃金が落ち込む」理論は、その根拠からして間違っています。事実、アメリカ全体の一人当たり国民所得(≒GDP)が1970年から10倍に増えたのに、下位50%のアメリカ人の一人当たり国民所得はほとんど増えていなかった衝撃的なデータを「トリクルダウン理論が間違っている証拠」の記事で示します。

次に、戦争と並んで、現代社会のバカの極みと、私が2度もこのブログで批判しているタックスヘイブン問題について論じて、「法人税はゼロがいい」理論の間違いをさらに証明します。

なぜ増税と言ったら消費税の話になっているのか

「つくられた格差」(エマニュエル・サエズ、ガブリエル・ズックマン著、光文社)は私の長年の疑問に答えを出してくれた素晴らしい本でした。

極端に貧しい者もおらず、極端に富める者もいない社会は、誰もが理想とするはずです。1990年頃の日本は、見方によっては今以上に重い問題を抱えていたものの、現在より貧富の差が明らかに少なかった点で、素晴らしい社会でした。日本より高い税金の北欧国家と並ぶほど貧富の差がなかった自由経済国家だったからこそ、1990年頃の日本が世界から尊敬されていたと私は考えています。

それでは、平成30年間で、なぜ日本の貧富の差はここまで広がってしまったのでしょうか。その理由は一つでありません。「日本式長時間労働は年功序列賃金制度により一般化した」に書いたように、年齢が上の人ほど多くなっているのに、年功序列賃金制度を変えなかったことは大きな理由の一つです。もう一つの大きな理由は、やはり税制にあります。昭和の時代に当たり前だった累進所得税を軽くして、消費税を重くしたからです。

今の若い人は知らないでしょうが、消費税が導入された1989年頃、反対理由で一番大きかったのは逆進性が高くなるからです。逆進性とは聞きなれない言葉だと思いますが、簡単にいえば「収入の少ない者ほど税負担率が高くなること」です。たとえば、10倍収入が多くなっても、10倍消費する人はあまりいません。それまでの消費で生活できていたのですから、よほどの贅沢でもしない限り、増えた収入の多くは貯金や投資に回します。冷蔵庫、洗濯機、テレビなどの生活を楽にする画期的な発明品がどんどん普及していた時代ならともかく、生活家電が普及した後の時代なら特にそうです。一方で、収入が少ない人たちは、文化的で最低限の生活をするために必要な消費はしなければなりません。だから、消費全般に一律に税負担を求めると、どうしても収入の少ない者ほど税を負担することになります。

1990年の衆院選社会党が大勝した理由は、貧しい人ほど税負担が重くなる消費税に日本人の多くが反対だったからです。私は既に生まれていたので、当時、「貧しい者から多くの税をとる消費税は不公平だ」と何度も訴えられたことをよく覚えています。余談ですが、2009年、私が元小学校校長のある日本人に中国で老後を過ごす選択をした理由を聞いたら、「日本は消費税を始めて、累進所得税を軽くしたから」と言われたので、驚いたことがあります。

最近の日本は消費税に慣れてしまったのか、「逆進性が高いから」消費税増税反対という声がほとんど、あるいは全く聞かれなくなったように私は感じています。「破滅的な財政赤字だから増税しなければならない」「不況なのに、これ以上の増税は無理だ」といった議論はよくされています。この増税の議論は暗黙の了解のうちに「消費税」を上げるかどうかの話となっていたりします。消費税以外にも所得税法人税相続税、固定資産税など多くの税が存在しているのに、あまり議論されていません。なぜ増税の議論になると、ほぼ毎回、消費税だけになるのでしょうか。これは私の中で、20年ほど解けていない日本の謎の一つです。

財政健全化のため、私も増税には賛成します。ただし、貧富の差を縮小するためでなければ意味がないと考えています。だから、逆進性の高い消費増税には、原則反対です。大賛成なのは累進所得税増税法人税増税相続税増税です。

こう書くと、必ず「法人税を増やすと、企業が法人税の安い国に移転するので、日本の税収はむしろ減る。結果、収入の少ない人にとっても不利益になる」と反論する人が出てきます。直観的には明らかにおかしいのに、理論的に「法人税減税は貧しい者にも利益になる」説を展開する人がいます。どこの屁理屈野郎だと思うかもしれませんが、アメリカでMBAを取得した大学教授が大真面目に主張していたりします。

上記の本を読んで、それが無理もない、と分かりました。本によると、法人税は少なければ少ないほどいい、究極的にはゼロが理想であるとの仮説が「世界中の経済学の大学院で教えられている規範的な理論」となっているのです。

しかし、論より証拠で、現実には法人税率が少ないほど、貧しい人の税負担が重くなり、所得も少なくなることが本で示されています。「法人税はゼロがいい」理論が間違っていることを次からの2つの記事で示します。

経済縮小時代を迎える韓国と日本

韓国の不動産バブルが崩壊しはじめました。ここ10年ほどの韓国の地価の値上がりは異常で「まるでバブル時代の日本のようだ」と何度も言われ、いずれバブルが崩壊すると多くの経済専門家が指摘していたのに、「不動産価値が上がって資産が倍増した」などと能天気に喜ぶ韓国の一般人が少なくなかったのも、日本のバブル時代と同じでした。

もっとも、現在、世界的に注目されているのは韓国の不動産バブル崩壊ではなく、近いうちに始まる日本の不動産バブル崩壊でもなく、中国の不動産バブル崩壊です。バブル崩壊の規模が韓国と日本を合わせたものの数倍に及ぶからです。

中国の不動産バブル崩壊がどれくらいの悪影響を世界経済に及ぼすのかは私には予想不可能ですが、それでも中国経済は成長し続けると予想しています。その理由は、一人当たりのGDPで中国は日本や韓国と比べて低いので成長の余地があり、中国の就労人口がまだしばらく増えていくからです。

一方で、今回の韓国の不動産バブル崩壊が、1990年頃の日本の不動産バブル崩壊同様に、韓国衰退の始まりになる可能性は高いはずです。

バブル期まで日本には土地神話があり、地価は上がり続けると信じている日本人が多くいました。韓国も建国以来現在まで、一時的な小さな下落はあっても、基本的に地価は上昇し続けてしまいました。GDPが拡大したこともあり、今回の韓国土地神話崩壊により吹き飛ぶバブルの損害額は、四半世紀前のアジア通貨危機IMF危機)の損害額を越えるでしょう。これがどの程度の不況を韓国にもたらすかは私には予想不可能ですが、その不況を乗り越えても、これから韓国の存在感が世界で縮小していくことは避けられないと私は予想しています。中国と異なり、韓国の一人当たりGDPは日本に追いついて成長の余地がほとんどない上、韓国の就労人口は減少していく一方だからです。

私にとって不思議なのは「現在の韓国の不動産バブルは、1980年代後半の日本の不動産バブルのようだ」と予想する人は少なくないのに、「1990年のバブル崩壊が日本の停滞期と衰退期の始まりだったように、今回のバブル崩壊が韓国の停滞期と衰退期の始まりである」と予想する人がいないことです。

そういえば、1990年に株価が暴落し始めた頃、これから日本は衰退に向かい、世界経済全体での日本の割合が減少していく一方である、と正確に予想していた人はあまりいませんでした。バブル後の日本が高齢者増加で経済の足を引っ張ることは予想できても、科学技術、特にIT分野で世界に遅れ、生産性の低さで苦しむと予想することは難しかったからかもしれません。

それと比べると、韓国の不動産バブル崩壊は既に始まっていますし、人口減少も北朝鮮が崩壊しない限り必然なので、これからの韓国経済の停滞と衰退は予想しやすいように思います。

他国の衰退を予想するのは失礼なので誰もしないのかもしれませんが、日本(経済)の衰退も止められないので、韓国は日本と同じ問題を抱える仲間です。平成の30年間に日本は衰退を食い止めようと、さらに傷を深めてしまう失敗を何度も犯してきましたが、韓国も衰退を食い止めようとあがくに違いありません。日本が失敗経験とわずかな成功経験を韓国に適切に伝えれば、同じように韓国も自身の経験を日本に伝えてくれるはずです。

たとえば、韓国も少子化対策に「130兆ウォンも費やしたのに、全く効果がなく、解決する兆しもない」(文在寅大統領の演説)ので、既に無駄な努力をしてきています。その少子化対策費用の詳細を知れば、日本も大いに参考になるはずです。「未婚税と少子税と子ども補助金」や「養子移民政策」といった人権に抵触する解決策も、韓国が仲間になってくれるなら世界で議論できるでしょう。

叩いてホコリの出ない人などいない

タイトルの言葉は、私の人生で会った人の中で最も清廉潔白な人に言われました。

「だから、Aさんみたいにお上と戦うのはよくない」

それが言いたいことでした。Aさんは反権力思考が強い人物で、なにかとあれば公的機関と対立していました。そのせいで手続き上の公的な不備を嫌がらせのように追及され、Aさんの営業はうまくいっていませんでした。

上の発言に、叩かなくてもホコリだらけの自分が「そうですね」と同意したことを覚えています。

私が「叩くと出るホコリ」の危険性を強く意識したのは、2002年の「辻元清美秘書給与流用事件」です。鈴木宗男を「疑惑の総合商社」と罵倒して、政治腐敗を憎む日本人たちの溜飲を下げていた「正義の味方」である辻元が、こんな微罪で議員辞職まで追い込まれたことに、失望しました。確かに法律違反ではありますが、他の多くの議員もしていたことです。「あのうるさい女をなんとかしろ! 叩いてホコリの出ない人などいない!」との指示で、辻元の微罪を探したとしか思えません。

鈴木宗男の巨悪の前では、こんなホコリ、無視すべきだろう!)

私はそう心の中で叫んでいました。同じような感想を持った人は少なくないと思うのですが、辻元を擁護する声が大きくなることはなく、まして政治を動かすこともなく、現実に辻元は議員辞職させられています。

私の理想とするIT社会、全ての金銭取引がネット公開され、全ての人の位置情報が過去にさかのぼってネット公開される社会について反対する人は、「叩くと出てくるホコリ」に怯えているのかもしれません。

上記の通り、私は叩かなくてもホコリだらけの上、叩かれるとホコリがいつまでも出てしまいます。そういう意味では、私も情報公開社会に抵抗がないわけではありません。

しかし、私以外の人の情報も公開されるとなると、抵抗はほとんどありません。総合して考えて、私が他の人より後ろめたくないことくらい、ある程度社会を知ると、分かるからです。

あらゆることが公開されると、融通が利かない社会になることは間違いありません。「ルール上はそうだが、この場合はそれだと不都合なので、今回はルールを無視すべき」「そんなルール知らなかった。知らないことまで自分の責任なのか」という事例は世の中に山のようにあるのに、情報公開社会になると、それらがルール違反と社会全体に公開されてしまいます。そんなデメリットは確かにありますが、そのメリットにも注目すべきです。

情報公開社会になれば、「このルールを現実に守っている人は日本全体で〇%に過ぎない」「このルールを知っている人は×%に過ぎない」といった統計もすぐに取得できます。「このルールの認識率はあまりに低いので、まずは広報に務めればいい。それまでこのルールは厳密に適用しない」「このルールはあるが、△の場合は無視していいことにする」などの対策で問題は解決するはずです。

現在、「そんなルール、守っていない奴はいっぱいいるじゃないか」と言っても、権力者に「そうなんですか。それなら証拠を見せてください」と言われると、「証拠と言われても……」と従わざるを得ないのですが、情報公開社会になると「ネットで調べてみればすぐに分かる」と言い返すことができます。

日本の全ての法律を完全に守れている大人など、日本に一人もいないでしょう。法律上、全ての日本人はその気になれば微罪で捕まえることができてしまう制度になっています。それは明らかにおかしいです。

「叩かれると出るホコリ」に怯えて、権力者に従う社会は、やはり道徳的に好ましくありません。「叩かれると出るホコリ」があると全ての人がまず知って、小悪の人でも巨悪を指摘できる社会にしていくべきでしょう。

日本の犯罪報道は警察が作っている

「子どもを車内に置き去りにして、亡くなる事件なんて昔からいっぱいあったのに、なぜ最近になってニュースになっているの?」

妻に質問されました。犯罪報道に限らず、これは日本の報道の本質を突く質問で、全ての日本人がこの答えを知っておくべきです。実際は、知らない人が大半なので、煽情的な犯罪報道で無知蒙昧な大衆が世論を作ってしまいます。

車内置き去り幼児死亡事件は、大衆車が普及してから一貫して日本中で発生し続けています。ニュースにならないだけで、高度経済成長期から現在まで、毎年、毎月、あるいは毎週、日本のどこかで発生していたに違いありません。悪質な主婦のパチンコ中の車内置き去り幼児死亡事件は、20年ほど前からニュースになっていましたが、そうではないケアレスミスによる車内置き去り幼児死亡事件は発生しているのに、ニュースになりませんでした。なぜでしょうか。

その理由はタイトル通り、「日本の犯罪報道は警察が作っている」からです。犯罪報道に限らず、マスコミ報道は全て公的機関が作っています。共犯者は記者クラブです。

記者クラブは日本の大手公的機関(財務省、外務省などの中央省庁、東京都庁、神奈川県庁などの地方自治体など)にほぼ全てに存在しています。大手公的機関の全ての発表は、記者クラブの場を通して報道されます。記者クラブに所属しない記者は、記者クラブの場(≒公式発表の場)に入ることすら許されません。記者クラブは中央省庁なら朝日新聞、読売新聞、毎日新聞日経新聞産経新聞共同通信時事通信NHK日本テレビ、TBS、フジテレビ、テレビ朝日テレビ東京くらいに限定されます。地方自治体なら、これらに各地方の新聞社、放送局が加わります。文藝春秋の記者、講談社の記者、タイムズなどの海外記者、フリーの記者は大手公的機関の発表を直接聞くことはできません。

日本だと大手新聞社の一面トップや大手放送局の最初のニュースが揃うことが珍しくありません。ひどい場合には、使っている写真や映像、解説や表現方法まで一致してしまいます。これは同じ記者クラブで同じ発表を同時に全ての大手マスコミの記者が聞いているためです。

記者クラブでは、必然的に、公的機関とマスコミの癒着が発生しています。ほぼ全ての大手公的機関は記者クラブ専用の部屋を公費で造ってあげており、維持費も公費です。いろいろな事情で大手公的機関が報道規制を敷くこともありますが、その真相を記者クラブの記者たちだけには非公開で説明しているのに、「オフレコ」という名目で大手マスコミが真相を知っていながら報道しないことも珍しくありません。

記者クラブは日本の公的情報の独占機関です。ネットメディアが一般になって、アメリカなどで大手新聞社が経営危機に陥っているのに、なぜ日本の大手新聞社は大きなリストラもせずに生き残っているのか、という疑問はよく言われますが、その大きな理由、あるいは最大の理由に記者クラブ制度があることは間違いありません。海外ではネットメディアの記者でも既存の大手マスコミの記者と対等に公的機関の発表の場に入ることができますが、日本で公的機関の発表の場(≒記者クラブ)に入れるのは日本の大手新聞社と大手テレビ局の記者だけで、ネットメディアの記者など入口から覗くことすら許されません。日本の大手公的機関の発表は、ネットメディアであろうと、大手マスコミを介して(≒記者クラブを介して)でしか入手できません。

話を犯罪報道に戻します。大手マスコミが全ての犯罪情報を独自に入手しているわけではありません。古今東西、犯罪情報が集まるのは警察になります。だから、犯罪情報を手に入れたいマスコミ各社は、各都道府県にある警察署の記者クラブに毎日、出入りします。警察署の記者クラブで発表される犯罪情報だけが、大手マスコミに流れます。逆に言えば、警察署の記者クラブで発表されなければ、大手マスコミは犯罪の存在すら把握できません。マスコミで報道されなければ、一般人は犯罪を知る方法がありません。

日本で殺人で亡くなる者は毎年250人ほどいますが、それらが全て報道されていれば、日本の新聞記事やテレビ報道はほぼ毎日新しい殺人事件を扱わなければならないはずですが、現実にはそうなっていません。ほとんどの殺人事件は報道すらろくにされていないのです。殺人以外にも上記の車内置き去り幼児死亡事件など、注目すべきだった重大事件は日本に無数にあったのですが、マスコミ報道されることはありませんでした。

たとえば、日本で最も大量に犯罪を起こすヤクザ関係の犯罪情報は、殺人事件も含めて、ほとんど報道されません。警察が記者クラブで全く発表していないか、軽く発表しているかのどちらかのためでしょう。殺人事件でも、複数殺人でもなければ、大抵は報道されません。

1名の殺人事件なのになぜ大手マスコミが一斉に報道したのか、殺人事件でもないのになぜ社会面トップで報道しているのかについて、どのマスコミも説明していません。上記の車内置き去り乳児死亡事件が朝日新聞の社会面トップで報道されたのは、去年から、バス置き去り園児死亡事件が注目されるようになったからだ、と推測できます。しかし、他の多くの犯罪報道については、「なぜこの犯罪だけ大きく報道されているのか」について私にも推測できないことが多いです。もちろん、県警が記者クラブで大きく発表したからに違いないのですが、「他にも殺人事件はあるのに、なぜこの殺人事件だけ」といった本質的な疑問があります。

マスコミのあるべき姿として、「介護殺人は日本で毎年〇件発生しているが、この介護殺人だけ警察が大きく発表する理由が不明である。その理由を記者会見で質問したが、明確な答えは得られなかった」という報道もしなければならないのですが、そんな報道を見たり聞いたりした記憶はありません。ほとんどのマスコミ報道は、ただの公的機関の拡声器の役割しか果たしていません。上の例でいえば、「介護殺人は日本で〇件発生している」という情報すらろくに提供せず、感情的な報道ばかりすることが少なくありません。こんな犯罪報道で作られる世論に価値などないことは、十分認識すべきでしょう。

日本財政の粉飾の詳細は公開されなければならない

確たる証拠もないのに書くので、陰謀論になってしまいますが、あえて断定します。

日本財政は粉飾されています。遅くとも1990年代にバブルが崩壊した頃からは粉飾されていると私は推定しています。「亡国予算」(北沢栄著、実業之日本社)を読んで、一般会計の2倍の規模の特別会計があることを知ってからは、粉飾は確信しています。財政破綻した多くの国で粉飾決算が行われていたのですから、ここまで深刻な財政赤字に陥っている日本がしていないはずはないと考えます。日本中の地方自治体の財政も、もちろん粉飾されているはずです。

このように日本財政が粉飾されていることを私は99%確信していますが、将来、日本の財政が破綻し、ハイパーインフレ預金封鎖などが起こった時、粉飾の事実やその詳細が公表されない恐れも十分あると私は予想しています。

財政破綻するまでの粉飾決算隠しは許すとしても、財政破綻した後には将来の教訓とするため、粉飾決算は絶対に公開されなければなりません。財政破綻前の今のうちから警告しておきます。

日本はどうやって人口減少・経済縮小社会を迎えるのか

東芝の悲劇」を読んで、私が一番感じていたのは前回の記事で論じた「経営者の資質」などではなく、「日本はこのまま上手く衰退していけるのだろうか」でした。日本企業の「お公家さん」である東芝でさえ、引き際にここまで無様な醜態をさらしました。日本全体が衰退する今後、どのような醜態をさらすのか不安になりました。

第二次大戦はその代表例でしょうが、日本は引き際が苦手です。「人口減少の深刻さ」に書いたように、日本経済はこれから確実に衰退していきます。衰退は不可避だと日本人全員が認識して、どうやって衰退させていくかを議論すべき時にとっくに来ているのですが、「日本経済はこれから縮小していく」「人口減なのだから、地方は切り捨てざるを得ない」という必然の未来すら、ほとんどの日本人はろくに考えていません。政治家もマスコミも学者も見て見ぬふりをしています。中には「資源の少ない日本でサステナブルな社会にするなら、人口は〇千万人くらいでちょうどいい」と、まるで好ましい未来を迎えるかのようなピンボケした意見を言う学者までいます。

1億2千万の社会を半分未満まで縮小することは、日露戦争満州事変や日支事変で死んだ何万、何十万の英霊を無駄にして、1931年~1941年に中国から完全撤兵するほど難しいことを誰も認識していないのでしょうか。1930年代の日本人全員がその50年前、100年前の非文明的な生活を受け入れられたなら、どんな不況だって乗り越えられたでしょうが、現実には誰もそんな道を選びたがりませんでした。あるいは選べませんでした。

このままだと、東芝ウェスティングハウスを高値で買収したような一発逆転を日本が狙って、さらに傷を深めることになるに違いありません。いえ、既に何度も地方再生などと逆転を狙って予算がつぎ込まれ、ほぼ全て失敗しています。

もういいかげん、「都会から50kmも離れた人口5000人未満の村に電気、水道、ガス、交通、教育、医療を全て安価で維持することなどできるわけがない」という事実は公表すべきでしょう。少なくとも、それぞれの集落の各インフラ維持費がいくらかは公表すべきです。

天才経営者などいない

東芝の悲劇」(大鹿靖明著、幻冬舎文庫)は素晴らしい本でした。「日本人である前に人間である」に書いたように、ほとんどの日本人ジャーナリストは取材相手に接する間に取材相手に取り込まれて、偏った見解を報道するのが一般的ですが、著者は取材相手を批判的に検証しています。

東芝の歴代社長のうち、西田や佐々木がパワハラ系で論外であったことはどの本でも書かれていますが、在任期間中、ソニーの出井と並んで有能とマスコミにもてはやされた西室がいかに経営で失敗していたかも赤裸々に示しています。もちろん、出井がソニーを傾けたことも周知の事実として扱っています。

同著者は「堕ちた翼ドキュメントJAL倒産」(大鹿靖明著、朝日新聞出版)でも、稲盛和夫礼賛一辺倒の中、稲盛よりも先に「JAL再生タスクフォース」の方が好ましい再生計画を立てていたことを明らかにしています。稲盛が古い価値観で自身への過剰な礼賛を受け入れる経営者だったことは、このブログを読むほどの人なら知っているでしょうが、著者は自身が賞賛している5名のJAL再生タスクフォース(中心人物は富山和彦)についても、「計画を立てただけで実際はなにもしていないのに1ヶ月間で10億円もの報酬を受け取っている」と批判をしているのはさすがです。

なお、「東芝の悲劇」で、「日立の古川、ソニーの中鉢と平井、日本航空の西松、東京電力の清水など、傍流からの抜擢人事は、こと日本の大企業においては成功しない。実力者の腰巾着に過ぎない凡庸・愚鈍の人であり、そもそも将の器ではないのだ」と著者は批判しています。私はこの中の「将の器」という言葉に違和感があります。

この例に限らないのですが、「昔と違って今の日本には名経営者がいなくなった」という言葉はよく見かけます。しかし、これは「昔と違って今の日本企業(あるいは日本経済)は成長の余地がなくなった」が本質を捉えた表現になるはずです。日本に名経営者がいなくなったのは、経営者の能力が昔と比べて落ちたのではないと私は考えています。パナソニック松下幸之助ダイエーの中内㓛などは、典型的な独裁者タイプで、間違っても「将の器」などなかったのですが、日本の高度経済成長の時流に乗ったので、経営的には大成功してしまい、「名経営者」と崇める人が今もいます。ソニー盛田昭夫も日本絶頂期の1990年頃に世界中から「名経営者」と賞賛されましたが、現在の価値観でいえば、相当に保守的であることは、少し調べれば分かるはずです。

東芝と言えば土光敏夫の「再建」が有名で、土光は「名経営者」との認識が現在まで一般的です。そのせいか、土光が会長を務めた第二次臨時行政調査会は「素晴らしい臨調だった」との認識が、朝日新聞にまで載っていました。しかし、これは明らかな間違いで、第二次臨時行政調査会の失敗は土光自身も認めています。1984年までの赤字国債ゼロも、3K赤字(コメ、国鉄、健康保険)の解消も、国鉄赤字以外は、実現されていません。確かに、その後の臨調は形だけ行っているだけにしか見えず、第二臨調ほどの改革は一度も行われていませんが、第二臨調ですら抜本的な改革とはほど遠いものでした。

話を名経営者に戻します。どの時代、どの社会であっても、「名経営者だったから企業が成長したのではなく、企業が成長したから名経営者になれた」が一番実態に近いと私は考えています。さらに書けば、企業が成長したのも、ほとんどは時流に乗ったから、その企業の従業員全体の能力が高かったから、あるいは、単に運がよかったからで、経営者の能力が高いとは限らないと私は考えています。もちろん、これは日本企業に限らず、世界中の名経営者にも言えることです。アップルとマイクロソフトが成長したのは、スティーブ・ジョブズビル・ゲイツが有能だったからだと私は全く思っていません。ジョブズについては既にその性格の問題が伝記で証明されています。アップルやマイクロソフトが成長したのは、主には時流に乗ったから、あるいは、アップルやマイクロソフトの従業員全体の能力が高かったからであり、経営者の能力が高かったからでは必ずしもない、と私は考えています。

「将の器」なるものは将以外の要因で決まってしまう要素が大きく、AさんがB組織の将なら適切でも、C組織の将なら不適切ということもよくあります。まして、普遍的な「将の器」などは存在しません。「将の器」という概念は考える価値があまりないと私は思います。

東芝の例でいえば西室、岡村、西田、佐々木はそれぞれ長所と短所があり、土光と比べて、極端に能力が低かったわけではないと私は考えます。東芝、あるいは日本の電機メーカーが凋落したのは、中国などの新興国が台頭したことが最大の要因です。大規模な解雇か業務転換は必要不可欠だったでしょうが、大規模な解雇は日本の法律上難しく、大規模な業務転換は従業員に多大な負荷をかけ、現実的ではありません。つまり、1990年以降、誰が東芝の経営者であっても、土光が経営者であっても、遠からず経営赤字になるにことがほぼ決まっていました。

もちろん、いずれ赤字になるからといって、ウェスティングハウス原発事業)を6000億円で買収し、2011年の原発事故後も公文書偽造までして原発造設計画を変えなかったことなどについては、東芝の赤字と混迷を増しただけなので、経営責任は問われるべきとは考えます。

福田孝行と門田隆将の死刑観の違い

前回までの記事の続きです。

「福田君を殺して何になる」(増田美智子著、インシデンツ)で、福田自身は次のような刑罰を提案しています。

「たとえば、『無期懲役+死刑』とか。(仮釈放がない)終身刑もあってもいい。拘置所の間は労役がないけど、まずは刑務所に入って働いて、その働きを見て、死刑にするかどうかを決めてもいいんじゃないかと思う。あるいは、懲役刑を終えても、まだ足りないと思うならさらに懲役年数を長くするとか」

裁判で定まった懲役刑を終えても、さらに長くする案は傾聴に値すると考えます。特に、光市母子殺害事件では、理性的には認めがたい「強姦の計画性」を、福田を死刑にしたいがためだけに、認めてしまっています。そこまでしなくても、素直に「強姦の計画性」は認めらないとして、場合によっては殺人罪ではなく傷害致死罪として、懲役15年でも懲役中の態度によって、さらに延長して事実上の終身刑にすればいいと考えます。

これは福田の件に限りません。どんな犯罪の刑罰に対しても懲役刑の延長は適用されるべきと私は考えます。たとえ懲役1年であったとしても、延長を繰り返して、50年以上懲役となり、事実上の終身刑になることもあっていいと私は考えます。

懲役刑の期間は原則、犯罪の種類によって決まっています。一方、懲罰の最大の目的、あるいは最高の結果は更生であるはずです。しかし、更生にいたるまでの期間は、個人差が大きすぎて、犯罪の種類では決まりません。だから、どんな犯罪であれ、懲役の実刑を受けた者は、更生されたと認められない限り、社会に出すべきでないと私は考えます。

もちろん、こうなると、なにをもって更生したと考えるのかなどの問題は出てきます。懲役年数を伸ばす権限を刑務所職員に与えると、「アブグレイブ刑務所における捕虜虐待」のような事件が多発する可能性は高いです。社会で最も人権を軽視されている受刑者の人権がさらに軽視されることがないよう、十分な監視機構は必要不可欠です。また、懲役時に更生を促すために、刑務所の抜本的な改革、制度や職員や設備を大きく変える必要は出てきます。

懲役延長が濫用されないように、あるいは受刑者が社会に出ていいか判断するために、懲役刑を延長すべきかどうか、どれくらいの期間の延長なのかの裁判が改めてあっていいと思います。裁判までいかなくても、本人や被害関係者や第三者も含めた釈放決定議論機関はあっていいはずです。

「付属池田小事件はどうすれば防げたか」の記事に書くように、附属池田小事件で心神喪失者等医療観察法が成立しましたが、これは原因が正しく捉えられていないために対策が的外れになった代表例だと私は考えています。医療観察法が以前からあれば付属池田小事件は起きなかった、と関係者の誰も考えていないはずです。むしろ、上記のように懲役刑の延長制度があれば、誰がどう考えても更生していない宅間守のような人物は事実上の終身刑になっていたはずで、そうであるなら付属池田小事件も起きませんでした。

話を光市母子殺害事件に戻します。「なぜ君は絶望と闘えたのか」(門田隆将著、新潮文庫)の著者の門田は一貫して死刑賛成論者です。「人を殺めた人間がその命で罪を償うという当たり前のこと」とまで書いています。もしそうなら、第二次大戦中の日本人は中国人を筆頭にアジア全体で1千万から2千万人も殺しています。第二次大戦で日本人は多く見積もっても400万人しか死んでいないので、門田の理論なら、あと6百万人から1千6百万人も日本人は死ななければならなくなります。アジア人の復讐心を満たすために、その時の日本人をそれほど大量に死刑にすることが正義だと門田は考えているのでしょうか。私は復讐心による大量死刑が正義だと全く思いません。死刑にするよりも、反省し、謝罪し、生きて償うべきだと考えています。

門田の本では、「死刑存置派の最大の論客となった」本村洋が2002年1月の日本テレビスーパーテレビ情報最前線」の企画で、アメリカの死刑囚と対談した話が載っています。当然、最も真摯に反省している(ように見える)死刑囚と本村が対話し、本村は「あなたが、すごく事件に対して真摯に反省していることを感じます」とまで述べています。

それでも「人を殺した人間は、どれだけ更生しても死刑という罰を受けるべきだ、という本村の考えに変わりはない」そうです。その理由として、この本で何度も書かれていることが「死刑があるからこそ、犯罪者は罪と向き合える」というものであるので、呆れてしまいます。

この主張は科学的に間違っています。死刑を受けたからこそ、犯罪者が真摯に反省できるなど、通常ありません。事実はその正反対で「加害者なのに心は被害者」のように、ほとんどの死刑囚は自分の判決に納得できていません。「反省していた犯罪者を開き直らせた検察の不正義」に書いたように、死刑になったからこそ、反省しないと堂々と宣言する者までいます。ほとんどの被告は判決前までは情状酌量を求めて、反省の態度を示すでしょうが、死刑判決となると、自身の主張が受け入れらなかったことに納得できず、反省の態度など示さなくなるはずです。

ここで議論しても仕方ないので、死刑になったからこそ反省できた死刑囚が何割いるのか、統計をとってください。主観的評価でも客観的評価でも構いません。すぐに結論は明らかになるでしょう。

この例にあるように、門田の思考は「福田は死刑にすべき」という復讐心(門田は事件前に被害者となんの関わりもないので、復讐心を抱く時点で筋違いなのですが)が異常に強く、理性を放棄しすぎています。新供述が旧供述より事実に近いことは理性的に明らかなのに、「ドラえもん」「魔界転生」「母胎回帰ストーリー」などの荒唐無稽な言説にまどわされて、いまだに福田が嘘を並べたと信じ切っています。だからこそ、この犯罪の本質が見えず、福田の本性も見えず、福田と面会したら、福田が真摯に反省していることを「厳然たる事実」と述べ(何度も書いていますが、私は福田が十分に反省しているとは考えません)、あっさり福田の味方のような言動をして、「簡単に犯人の味方になってしまった被害者側のジャーナリスト」と私ごときに批判されたりするのです。

私に言わせれば、門田は人間観も社会観も浅すぎます。こんな奴に犯罪報道する正当性はないと考えます。

光市母子殺害事件はどう処理すべきだったのか

前回までの記事の続きです。

本題から逸れて総論になりますが、私も日本の刑法の厳罰化には賛成であることをここで述べておきます。ただし、「死刑よりも反省し、被害者に償うべき」と考えているので、死刑はなくすべきと考えています。

少しでも「厳罰化」について調べた人なら知っているでしょうが、「他国と比べて日本の刑罰が軽い」と言われる時、論点となっているのは死刑ではありません。ほとんどの先進国は死刑を既に廃止しており、死刑に注目されると、むしろ「他国と比べて日本の刑罰は重い」になってしまいます。厳罰化で論点になるのは、懲役刑です。日本だと有期懲役だと最長で30年しかないこと、無期懲役でも30年ほどで仮釈放(刑務所から出て一般社会に戻れる)となる場合があること、終身刑がないこと(実質的な終身刑はある)、などが問題視されています。アメリカなどでは複数殺人になると、懲役200年以上などがありえます。服役後の模範的な態度で懲役年数が短くなったくらいでは、事実上の終身刑が覆られないほどの長期刑です。

光市母子殺害事件の一連の記事の結論として、福田は少なくとも2009年の時点で、再犯しない程度に反省している、と私は考えません。暴力性と女性観の点で、大きな問題があると考えます。2名の殺人犯であることを考えると、極刑には賛成します。ただし、福田が将来にわたって、反省できないと断定するのは行き過ぎだろうと推測します。本来の問題点を指摘して、反省を促すべきと考えます。

また、裁判で新供述が嘘だと断定されたのは不公平、もっと言えば、許されない不正義だと考えます。「光市母子殺害事件での罵倒報道批判」にも書いたように、極刑であろうと、被告の主張が理性的に妥当であれば、それは適切に認めるべきだからです。そこを屁理屈で捻じ曲げたられたら、被告は裁判を恨むだけでなく、犯罪そのものも反省しなくなってしまいます。被告が再犯する確率を高めますし、たとえ死刑であっても、この社会の理不尽さを憎みながら人生を終えてしまうでしょう。それが本人および社会にとって好ましくはないはずです。

ここまで書いてきたように、検察は「生きて償いなさい」と自白を迫りながら、死刑を求刑したり、検察の捏造を疑わせる福田の不謹慎な手紙を公開したりするなど、正義に反する行為を何度もしています。福田の性格を考えれば、検察の強圧的な誘導で、自白調書ができた可能性は濃厚です。他の証拠と矛盾がいくつも生じているのに、「強姦の計画性はある」とこじつけたいがために、自白調書を原則事実と認めるのは、かなり無理があります。判決は死刑でもいいので、「ただし、強姦の計画性を認めるのは難しい。自白調書が他の証拠と矛盾するところが多いのは事実である。精神的に幼い18才時の被告が、初めて出会った警察や検察の誘導により、自白調書が作成された可能性は高い」と理性的に認めるべきです。

私が考える福田への妥当な刑罰は、やはり懲役刑です。何年の懲役が妥当かは判断が難しいですが、他の犯罪の刑罰と比較すれば懲役30年くらいになるでしょう。ただし、福田の懲役が何年であっても、福田が十分に更生していなければ、懲役期間が延長されるべきと私は考えます。次の記事に書くように、私は懲役がたとえ1年であっても、受刑者が更生していなければ、延長されるべきだと考えています。そうすれば、今回の事件のように、理性的に考えれば強姦の計画性が認められないのに、罰を重くするためだけに、事実を捻じ曲げることもなくなります。

福田が更生すれば、つまり福田の暴力性や爆発性や女性観が矯正されたと科学的に証明できれば、仮釈放してもいいと思います。もっとも、そんなことが科学的に証明できるエビデンスは現状ありません。そのエビデンスがないままなら、あるいはエビデンスがあっても福田がその条件を満たさないなら、終身刑が妥当だと考えます。

光市母子殺害事件犯人は嘘をついているのか

前回までの記事の主張と同じですが、別の観点から考察します。

「強姦目的ではなく、優しくしてもらいたいという甘えの気持ちで抱きついた」「(乳児を殺そうとしたのではなく)泣き止ますために首に蝶々結びしただけ」「乳児を押し入れに入れたのは(漫画の登場人物である)ドラえもんに助けてもらおうと思ったから」「死後に姦淫をしたのは小説『魔界転生』に復活の儀式と書いてあったから」

この荒唐無稽な話が出てきた時、誰もが驚きました。最初にこの話を聞いた弁護団も、全員、唖然としたそうです。これをそのまま裁判で主張すべきかどうかの議論も弁護団内であったようですが、福田の強い要望もあり、主張されました。

光市母子殺害事件での罵倒報道批判」に書いた通り、この荒唐無稽な主張はマスコミで何度も取り上げられ、そのほとんどで被告人である福田の嘘に違いない、と報道されました。主任弁護人の安田が代表的な死刑廃止論者だったので、「死刑を避けるために、安田が創作して、福田に言わせた」という批判までありました。

普通に考えて、こんなバカげた話を、弁護士が考えつくとは思えません。また、光市母子殺害事件を調べた人なら、真偽はともかく、福田なら上記のようなことを言いそうだとは知っているでしょう。

福田が犯行時にどのような気持ちでいたかは、福田にしか分かりません。より正確には、過去のことなので、福田ですら、正確には分かりません。そんなことは自明の理です。

しかしながら、実際の裁判では、「死後に姦淫をしたのは小説『魔界転生』に復活の儀式と書いてあったから」については、「魔界転生」の記述と大きく異なることから、嘘だと否定されています。また、これが嘘だから、他の発言も嘘に違いないとまで判定されています。

福田の虚勢を張る人間性を考えれば、「魔界転生」をろくに読んでいないのに、「魔界転生」の復活の儀式と言ってしまった可能性は十分あるでしょう。本来なら、裁判で嘘と認定されないように、弁護団は「魔界転生」について調べ、福田の虚勢を見抜き、単に「復活の儀式」とだけ福田に述べさせるべきだったのですが、そこまでの時間の余裕がなかったようです。

真実はともかくとして、上告後に行った新供述を「福田が真実だと考えている」ことは、嘘だとは思えません。つまり、殺人罪を避けるため、福田が故意に嘘を言ったとは考えられません。

なお、「福田君を殺して何になる」(増田美智子著、インシデンツ)には、中学・高校の同級生が福田の新供述をウソと思うと述べた後、こう言っています。

 

「けど、ウソだとすれば、タカ君(福田のこと)が考えたウソじゃない。タカ君はすぐバレてしまうような瞬間的なウソはよくついていたけど、きちんと順序立てたストーリー性のあるウソは考えつけない子でした。新供述は『どうして、こうなった』という流れがあるから、タカ君につくり出せるとは思えない」

 

その通りで、福田が一人で新供述を作り出したわけではありません。福田の知性は極めて低く、8年も前の事件を理路整然と語れるほどの能力はありません。自身の自白調書を読みながら、かつ、弁護団の助力を多大に得ながら、作り上げたのが新供述です。理路整然とした部分が弁護士の創作というなら分かりますが、荒唐無稽な部分が弁護士の創作と考えるのは無理があります。

そもそも、新供述では、上記の荒唐無稽な話が論点になっていたわけではありません。「光市母子殺害事件での罵倒報道批判」に書いた通り、論点は「強姦に計画性はなかった」「自白調書は他の事実と一致しない点が多い」「これは殺人ではなく、傷害致死である」でした。

判決では「自白調書は他の事実と一致しない点が多い」の一部が認められたものの、上記の「魔界転生」の例のように、弁護側の主張の枝葉末節な矛盾を指摘し、「強姦に計画性はなかった」「これは殺人ではなく、傷害致死である」の2点は否定されてしまいました。

しかし、これまでの記事に示した通り、強姦の計画性を認めるのは無理があります。

殺人と傷害致死の違いは、殺人の意図があったかどうかですが、これはかなり曖昧な判定で、私自身はこの二つを同一にして広く情状酌量として区別すべきと考えているので、このブログでは論じません。

一方、弁護団の主張にブレがあったのは事実です。このブレがあったので、判決でも「〇〇が否定されると、××と言い出した。発言の信憑性を疑わざるを得ない」という批判がそこかしこに出てきます。こうなった理由は、弁護団の検証不足もありますし、そもそも福田の発言がブレまくっていたこともあります。増田の本でも、「(本来の被害者である死者へ謝罪すべきなので)今生きている人に謝罪するのは抵抗がある」と言った1週間後に、「(死んだ人に償いはできないので)今生きている人に償いをしたい」と平然と言っていた事実が書かれています。以前の記事にも書いたように、過去も現在も、福田は理論的に矛盾する発言を量産しています。

帝銀事件の平沢貞通、とは言い過ぎかもしれませんが、福田の弁護はそれに近いほど、難しかったと思います。別の観点からいえば、理性的に考えれば、帝銀事件で平沢が犯人でないのは明らかであったのに、平沢の虚言癖がひどすぎたため、平沢を有罪にする判決文の作成は容易だったように、理性的に考えれば、光市母子殺害事件は死刑にするほどの罪ではなかったのに、福田(弁護側)の発言があまりにブレたために、死刑の判決文の作成は容易だったのではないでしょうか。

そういった全てを考慮すれば、福田が新供述で故意に嘘を言ったことはないと私は推定します。また、全てを調べたら、旧供述(自白調書)より、新供述がより真実に近いことは、普通の理性的思考の持主なら、分かると思います。もちろん、裁判官も分かっていたはずですが、上告後以降の裁判官は福田の死刑を目的に、屁理屈を並べることになりました。