未来社会の道しるべ

新しい社会を切り開く視点の提供

江戸時代の識字率は低かった

江戸時代の日本は寺子屋が普及しており、識字率も7割と世界最高でした。この教育力の高さこそ、非西洋国で日本だけが帝国主義国の仲間入りできた理由です。

上記の説は、1970年代頃から誕生した俗説だと知っている日本人は、2025年だと、まだ少数派ではないでしょうか。私も先週まで、上記の俗説を信じていた多数派でした。

実際には、自分の名前すら書けない人が下記の通り、明治時代に入っても鹿児島県では多数派でした。近江商人の歴史があるからか、滋賀県の男子だと自著率は9割ほどですが、滋賀県でも女子になると江戸時代は自分の名前すら書けない者が多数派だったようです。

この記事の根拠は「識字能力・識字率の歴史的推移――日本の経験」(斉藤泰雄)という論文になります。

日本の識字率の高さが間違いだとしたなら、なぜ日本だけが非西洋国でいち早く産業革命を成し遂げて、第一次世界大戦後には4つの常任理事国の一つに選ばれたのか、という疑問が出てきます。

一つの答えは「非西洋国で最も早く大規模に、先進の西洋文明の長所を取り入れたから」になるはずです。

ただし、「西洋文明を取り入れようとした国は他にも多くあったが、なぜ日本だけがそれを19世紀後半に迅速に実現できたのか」という疑問は残ります。

「日本人は合理的に考えるから」「日本人は伝統よりも実利を重視したから」などの理由が考えられるでしょうが、この仮説の根拠はありませんし、こんな仮説の正誤の証明は難しいでしょう。

その疑問と並んで、それ以上に現代の日本人にとって重要な疑問は次になるはずです。

明治維新期、他国の長所を世界最速で取り入れた日本人たちが、令和時代の今、既得権益を守ることに必死で、世界で最も変化しない国にまで落ちぶれてしまったのはなぜなのでしょうか。

フェミニストだから女性に嫌われる

「母恋い放浪記」(西村滋著、主婦の友社)という著者の少年時代の自伝を読んでいて同情してしまうのは、西村は女性に優しいくせに、女性から嫌われていることです。西村は当時としては偏差値100を越えている、現在でも偏差値70を越えていると思うほど、フェミニストです。
継母や、お世話になっている友人の母の家事を西村は当たり前のように手伝っています。友人の母は帰宅してみると、西村が家事を全て終わらせていて、なにもすることがなかったこともあったようです。
そこまで少年の西村が家事を担ってあげているのに、継母にも友人の母にも全く好かれていない、むしろ嫌われています。
(男のくせに家事なんかして。私の家事に不満があるの?)
当時であれば、家事をする男性に対して、ほとんどの女性はそう感じたはずです。
継母も友人の母も西村に対して「如才ない」と裏で言っていたことが書かれています。
「如才ない」は「気が利いていて手抜かりがない」という意味で、私などは一生に一度も使ったことがない言葉です。約100年前も日常用語でなく、意味がぼかされた言葉だったのでしょう。本来なら誉め言葉のはずが、継母も友人の母も「如才ない」を明らかに西村の批判として使っていて、それを知った西村の傷ついた心情が赤裸々に本で語られています。
西村は戦災孤児を助ける施設でリーダー格の補導員として活躍し、同じ施設で働いていた看護師と結婚しています。その結婚相手について「雨にも負けて風にも負けて」(西村滋著、主婦の友社)にはほぼなにも書かれていないので、その女性が西村の女性に対する優しさや倫理観を理解できたかは分かりません。
ただし、西村の先進的すぎる女性観を理解できる人など、男女問わず、当時はまずいなかったはずです。私の予想では、西村の結婚相手は家事を手伝ってくれる男性を単純に高く評価したから、あるいは「戦災孤児に対する献身的な働きからすれば、彼が優しいことは間違いない。彼の考えはよく理解できないけど、彼を信じて、彼に着いていこう」と、ある意味で家父長的に西村に従ったから、結婚生活もうまくいったのではないか、という気がします。

フェミニストだから女に嫌われることは、今でも珍しくないと断言しておきます。その理由はこれまでの記事に書いてある通りですが、あえて書くなら「女性がそれを望んでいないから」です。

人の心を持たない弁護士や裁判官

信頼できる弁護士を探すため、初対面の弁護士と私の会話です。

私「パワハラ冤罪にしろ、離婚裁判にしろ、弁護士の書く文章が、人間の書いたものと思えません。相手への思いやりが微塵も感じられません。私の書く文章には、相手側と泥試合をするつもりはない、争いがある場合に一方が全面的に正しいことはほぼない、といった内容を何度も書いています。私が元妻に暴力を振るわれた(警察に提出した)被害届の調書でも、警察は『A(元妻の名前)』と呼び捨てで書いていましたが、私が元妻をAと呼んだことは一度もないと批判して、『Aさん』と書き直させました。被害届によって、元妻を否定することが目的ではなく、元妻に反省させることが目的だからです。警察はまだ仕方ないにしても、弁護士や裁判官が関わっているのに、争いや問題が悪化するのはなぜなんですか?」

弁護士「裁判とは、そういうもの(相手を一方的に批判するもの)だからです。私も相手側にそう思わせているはずです」

私「だとしたら、裁判なんて、社会にない方がいいじゃないですか! 弁護士が問題を悪化させるだけなら、弁護士も要らないじゃないですか! なんで、あなたは弁護士をしているんですか! 医者が社会を良くすると信じているから、私は医者として働いています。あるいは、そのような医者になるように私はいつも努力しています。あなたは違うんですか! もし違うのなら、今すぐ、この国から出ていってもらえませんか!」

こちらの落ち度は全く認めず、相手を一方的に批判して、相手の心をいくらでも傷つけて、相手の敵愾心を煽ってもかまわない、と法律や公文書にあるのなら、誰かそれを教えてくれませんか。

お金の問題はお金だけの問題ではない

法律上の結婚必勝法・男編」からの一連の記事で書き散らした不正義な裁判について多くの人と語り合い、いろいろ分かったことがあります。

「おまえ、金の問題と言いながら、さっきから、金以外の不満ばかり言っていることに気づいているか?」という弟の言葉には一番気づきが多かったように思います。

そう言われても私は「いや、お金の問題だろ。これが月23万円じゃなくて、月2万3千円だったら、不満も10分の1だよ。子どもたちの公文代金として払ってやるよ、と思って、控訴していなかったかもしれない」と反論しました。

弟「だから、そういうことだよ。公文代金だと納得できるんだろ?」

私「そうだな」

弟「元妻が金持ちの実家で暮らしていなかったら、さらに納得できるだろ?」

私「それは間違いない。段違いだ」

弟「元妻がおまえみたいな不幸な人生送っていたら、もっと納得できるだろ?」

私「不幸な人生というか、不幸でも努力している人生だったら、もちろんだな」

弟「そういった重要な問題を裁判だと全く考慮していないから、腹立っているんだろ?」

私「その通りだ」

弟「だから、金だけの問題じゃない。元妻の弁護士と、裁判官が誠実な態度をとっていただけで、同じ月23万円の判決でも、腹立たしさは半減したと思うぞ」

私「……確かに、そうだな。半分どころか、もっと減っていたかもしれない」

話す内容よりも、話し方で印象は大きくかわる「メラビアンの法則」が私の人間観の柱のくせに、今回の件にからめて考えていませんでした。セカンドレイプと似ている問題です。

「私が罰せられることはかまわない。しかし、私が理解されないことは我慢できない」

反省していた犯罪者を開き直らせた検察の不正義」前後の一連の記事で書いたテーマで、それらの記事は閲覧数が特に多くなっています。

弟「それに、殺すなんて、おまえ、アホかあ? 殺したら、相手はそれで終わりで、おまえがさらに苦しむだけだぞ。殺したいんじゃないだろ、苦しめたいんだろ。おまえの今の生き地獄以上の生き地獄を味わわせてやればいいじゃないか」

言われてみれば、それも当たり前のことでした。

The doctors are taught by patients.

I talked with my little brother at a cafe last week, and people sitting around us changed seats and stayed away. The reason was simple. I continued to explain for 5 hours why I have to kill those evil people.

5 hours on one topic?

The doctor Kawasaki, who discovered Kawasaki disease, said, “The doctors are taught by patients.” He was right. I was taught a lot of reasons to justify intents to murder by my psychiatric patients.

My little brother asked me, “Did anyone among your patients commit a murder?”

I answered, “None while I was seeing them.”

 

To continue on the next page.

境界知能で精神病院に40年間住む女性

その女性患者さんは、私が初めて会った時は60代半ばでしたが、見た目は70代半ばくらいに見えました。ただし、かつては美人だったのだろう、という面影はありました。

主病名は双極性障害躁うつ病)となって、長年、バルプロ酸という気分安定薬躁うつ病の薬)を使っていました。私も前医からのバルプロ酸を継続していたのですが、3ヶ月に1回の血液検査で毎回、汎血球減少であることが気になり、担当になってから半年目くらいにバルプロ酸を止めて、ラモトリギンに変更すると、汎血球減少がウソのように治ってしまい、前医たちの推定30年間のバルプロ酸継続使用、つまりは30年間の医療ミスに呆れました。この汎血球減少治癒に合わせて、体重も30㎏台前半だったのが、40㎏台前半と10㎏程度上昇し、体力も回復しました。

この患者さんが始めて入院したのは20代半ばです。そこから入退院を繰り返し、20代で結婚、出産、離婚を経て、30才くらいからは同じ病院に入院し続けます。「精神病院の女性長期入院患者さん」に書いたように、長期入院開始の前には、自身の子どもは親戚に育てられており、以後、本人は子どもと1度も会っていないはずです。私も本人から子どもの話は一度も聞いたことがありません。

この患者さんの病歴として特徴的なのは、双極性障害躁うつ病)の診断根拠が書かれていないことでした。病歴、というか入院した理由としては「家事をろくにしない」「子育てを放棄する」「仕事やアルバイトはすぐ止める」「すると言ったことをしない」「約束を守らない」でした。どれも精神疾患の症状というより、本人の能力や性格の問題です。

実際のところ、60代半ばからの本人に私は4年間毎週診察していましたが、本人の精神疾患を疑ったことは、一度もありません。むしろ「この人、本当は精神疾患でないのに精神病院に40年近くも暮らしているんじゃないのか」とずっと思っていました。なお、「この人に精神疾患はないだろう」と私が考えていた長期入院患者さんは他にもいました。

精神疾患でないのに、なぜ精神病院に何十年も入院しているのでしょうか?

その答えは「家族が手に負えないから」「一人暮らしもできないから」です。

(でも、精神疾患がないなら、精神病院に入院できないでしょう?)

そう思われるでしょうが、「精神科詐欺」にも書いた通り、精神科の診断は全てあいまいです。特に双極性障害なんて、その気になれば、ほとんど全ての人に診断できます。気分の波なんて誰にでもありますから。「家事をろくにしない」「子育てを放棄する」母に対して、怒らない父や親戚はいません。当然、家族ケンカになり、ケンカになれば感情も爆発します。こうなれば、なおさら双極性障害があてはまってしまいます。

おそらく、最初に本人を精神科に連れてきた人はこう思っていたのではないでしょうか。

(なんでこの女、自分でするって言ったことをしないの? 誰でもできる簡単なことだよ? できないことをやってほしいんじゃないよ? やらないと怒られると分かっているのに、なんでやらないの? どう考えても病気だよ)

この女性長期入院患者さんに限っていえば、それは精神疾患ではなく、知的障害に近かったと思います。高校卒業していたので知的障害ではなかったのでしょうが、IQ70~85の境界知能が本人の正しい診断だったと思います。

だから、本来、この患者さんが暮らすべき場所は精神病院ではなく、境界知能の方たちのためのグループホーム(施設)でした。しかし、40年前は境界知能という言葉すら普及しておらず、まして境界知能の方たちのためのグループホームもほぼなかったはずです。だから、双極性障害として精神病院が40年間ほども受け入れることになってしまったのでしょう。

この患者さんで忘れられないエピソードが、汎血球減少が治り体重が10㎏くらい増えた頃に起こした自殺未遂です。洗剤を飲んで自殺しようとしたので、隔離室に入れられました。翌日、私が診察して、本人が冷静さを示し、反省していると述べるので、すぐに隔離解除を命じました。

汎血球減少が治り、健康を取り戻したはずなのに、なぜ突然自殺しようとしたのでしょうか。

その答えは「健康になり、思考力も向上したので、情けない自分の人生を考える能力も回復し、自殺したくなった」だと私は判断しています。

だから、自殺未遂した翌日からラモトリギンは100㎎から最大量の200㎎に増量しました。病状を抑えるために増量したのではありません。上記の通り、そもそも本人に精神疾患はないと私は判断していますから。薬を増やした理由は、本人に自分の人生を深く振り返らせないためです。精神科のほぼ全ての薬は思考力を落とす副作用があります。もっとも、ラモトリギンはその副作用が小さい安全な薬ではあります。

もしそれでも自殺未遂を繰り返すなら、もっと思考力を落とす薬に私は変えていたでしょうが、それ以後、本人が自殺未遂をすることは一度もなかったので、薬はそのままとしました。

自殺未遂はあったものの、本人は私を含めた職員のほぼ全員に好かれる明るい性格でした。病状も安定していたので(より正確には病気ですらなかったので)、病院から徒歩3分くらいの場所にあるコンビニによく買い物に行っていました。このように近くのコンビニくらいまでの短時間なら、病状の安定している患者さんに外出を認めている精神病院はよくあります。

彼女について、自殺未遂の次によく覚えているエピソードは、若い男性看護師さんの電話番号を聞いていたことです。私がナースステーションでカルテ入力していると、彼女がナースステーションの開いた扉にもたれかかり、こう言ってきたのです。

本人「〇〇さ~ん、今日こそ、電話番号教えてよ~」

看護師「え~。困るな~。僕、好きな人いるからさあ」

本人「好きな人ってことは彼女じゃないんでしょ?」

看護師「まあ、そうだけど」

本人「じゃあ、いいじゃん。ねえ、教えて~」

本人はいつも20才以上年下の私に敬語を使っていました。まさか、男性看護師に対してナンパごっこしているとは、その時まで知りませんでした。

それにしても男性看護師の電話番号なんか聞いて、どうしたいのでしょうか。病院から看護師宅に電話するつもりなんでしょうか。本人は本当にそんなことしたいのでしょうか。

いえ、多分、本当に電話したいのではないでしょう。人生の半分以上を精神病院で暮らすことになりましたが、人間なので恋愛欲はあります。恋愛相手は男性医師でも良かったのかもしれませんが、堅物な私だと不適切と判断されたのでしょう。そこで、より話やすい男性看護師と恋愛ごっこをしていた、と推測しています。

このように精神病院の長期入院患者さんが同じ入院患者さんや病院職員に恋愛ごっこ、あるいは本当の恋愛に陥ってしまうことは珍しくありません。ある若い女性看護師に恋をして、自殺まで考えてしまった男性長期入院患者さんは「先生、殺してください」に書きました。

精神病院の女性長期入院患者さん

私は精神科医なので、精神病院で30年や40年以上も過ごしている患者さんに100名くらいは会っています。なお、日本以外の国では、1960年代以降、人権的および財政的な観点から10年以上の長期入院をほぼ認めていません。

長期入院患者のほとんどは統合失調症です。統合失調症はだいたいにおいて成年になってから、つまり20代以降に発症します。1960年代に抗精神病薬統合失調症の薬)が使われるようになってからは、医学的に長期入院する必要性はほぼなくなったのですが、日本だけは、人生のほとんどを精神病院だけで過ごしている患者さんが10万人ほどもいます。なお、日本全体の精神科入院患者数は約30万人で、どちらも世界最高です。

統合失調症の男女比だと男子が少し多いとされていますが、長期入院患者さんに限定すれば男性は女性の1.5~2倍います。なぜ長期入院患者で男性が多いかといえば、統合失調症に限りませんが、ほぼ全ての精神疾患は男性の方が重症だからです。

その少数派の長期入院の女性患者さんに注目すると、その過半数で結婚歴があり、かつ、子どもがいることに驚きます。長期入院の男性患者さんの8割は、子どもはおろか、結婚すらしていない、できないのと対照的です。

子どもがいる女性長期入院患者さんの8割くらいは、子どもの話を一切しません。カルテ記録にも書いていなかったりすると、1年以上も毎週診察していたのに、私がその女性患者さんに子どもがいることを知らなかった、というケースがいくつもありました。

お母さんが精神病院に長期入院しているのなら、その子どもたちは一体どうなっているのでしょうか。

長期入院するほどの精神疾患になると、相手側から一方的に離婚することが認められています。だから、相手側(父側)に子どもの親権が認められ、父側が親戚の助けを借りながら、育てている場合もあります。ただし、離婚時には母が精神病を発症していなかったり、発症していても長期入院までしていない頃だったり、なにより父側も子どもを育てる能力がなかったりするため、母側に子どもたちの親権が認められるケースが多かったです。そうなると、長期入院している母の代わりに、母の親戚が患者の子どもを育てる必要が出てきます。

母の親戚が母の子を育てているのなら、患者である母も子どもに会いたがりそうなものですが、そんな女性長期入院患者さんに会ったことは、少なくとも私は一度もありませんでした。父側に子どもの親権をとられた母同様、子どもの話は一切せず、もちろん、会いたいとも言いません。子どもが母に会いたい、と精神病院まで来た、という話も全くありませんでした。

なぜでしょうか?

それぞれ事情が違うのですが、私が担当した女性長期入院患者さんに限定していえば、患者である母と、母の子を育てる(あるいは育てた)親戚との関係が疎遠であることが一番の原因でした。おそらく子育てを引き受けた時、「これから、この子はウチの子だと思って育てていくから」「あなたに子どもがいたことはもう忘れて」と患者さんに厳しく伝えていた、と思われます。もっとも、重度の統合失調症なので、そう言われたとしても、十分理解できたとは思えない女性長期入院患者さんも、それなりにいました。だから、「自分に子どもがいることを思い出さないようにしよう」という女性長期入院患者さんもいれば、「自分に子どもがいることを忘れたとしか思えない」という女性長期入院患者さんもいました。厳密にいえば、どちらの要素も持っていそうな女性長期入院患者さんがほとんどでした。

また、だいたいにおいて、患者である母が子どもと引き離された時期は子どもがまだ幼い頃なので、母と子の関係が悪くて、母と子が会わない、というケースは稀でした。

なお、私の担当する女性長期入院患者さんに子どもがいる、と私が知った時の会話はだいたい以下の通りです。

私(男性)「え! 〇〇さん、子どもいたんですか! もう1年以上も毎週診察室で会話していますが、子どもの話なんて1回もしたことありませんよ。子どものことについて、本人はどう思っているんでしょうか?」

相談員(女性)「うーん。私も聞いたことないので、分かりませんが、辛い思い出なので、思い出さないようにしているんじゃないでしょうか」

私「でも、子どもはどう思っているんですか? これまで会いに来たことあるんですか?」

相談員「いえ、私が担当になって10年たちますけど、1回もありません」

私「子どもを育てた親戚は?」

相談員「それはちょくちょく来ていますよ。その時、本人の子どもの話をすることもあるんじゃないですか」

私「どんな話をするんですか?」

相談員「立ち会っていないので、それは分かりません。もしかしたら、子どもの話を全くしていないのかもしれませんし」

私「やっぱり子どもが母についてどう思っているか気になるんですが……。実のお母さんがこの精神病院で長期入院していることは、知っているんですよね?」

相談員「それも分からないですね。子どもを育てた親戚に聞いてみますか?」

私「いや、まあ、病状とはあまり関係ないと思うので、そこまではいいですけど……。むしろ、変に突っつくと、病状悪化する可能性もありますしね」

相談員「はい。私もあまり触れない方がいいと思います」

このやり取りをした女性長期入院患者の一人について、次の記事に書きます。私が生涯忘れることのない患者さんの一人です。

倫(徳、善、愛、悪)、知(理、正)、心(欲、金、愛、嫌)、法(政)、力(兵、義)、食(老、病、死)

現代社会で、人を動かすものは倫、知、心、法、力、食の順だと考えます。人が動かざるを得ない順と言ってもいいかもしれません。同時に、人として大切なものの順とも言えます。

( )内にはほぼ同じ意味の漢字も付け加えています。「倫と悪が同じ」とは意味不明なので、この解説文も必ず一緒に読んでもらうようお願いします。下記の解説文を読まないと誤解が生じ、これを権威とするなら、悪用もされてしまいます。

 

倫(倫理)と徳(道徳)はほぼ同じ意味のはずです。どちらの漢字を使ってもいいのですが、私の印象だと「徳」は大衆意思で決まるもの、伝統的に守っているものであり、「倫」は普遍的なもの、自分を律するものなので、倫を代表させています。善もほぼ同じ意味です。

愛は、倫理の根源的なものだと私は考えています。自然界において、倫理なんて存在しません。人間社会があるから、倫理が存在します。その人間社会から、なにをもとに倫理が存在しているのでしょうか。その答えは一つではありません。幸せ、金、物、数、環境、能力、健康、運など、倫理を作り上げる多くの要素の中で、最も大切な要素は愛だと私は推測します。この「愛」は「仁」や「情」と置き換えてもいいかもしれません。

ここで理想とされる「愛」は、エーリッヒ・フロムが定義する「愛」が一番近いです。「愛する」ことは「配慮、応答、尊重、理解」をともないます。決して「利己的」ではなく、人は簡単に人を愛せるものではないことを知るべきです。

悪はもちろん、倫理の対義語です。悪を憎む心が、倫理と同じ意味になるという趣旨です。愛よりも、悪を憎む心の方が人を動かすものになると私は考えます。だから、悪を憎む心の危険性も知っておくべきです。全ての悪人に同情の余地があることは知らなければなりません。

 

3番目の心(感情)よりも2番目の知(理論)で人は動きます。というより、人は心で納得できなくても、理論で正しいと導かれたら、社会の中の一人として動かざるを得ません。

もう一つ重要なことは、この理論よりも、倫理が人を動かす、という点です。理論は万能ではありません。どんなに理論的に正しくても、心が納得しなければ、人は動かないこともありえます。しかし、倫理は理論や感情を超越して重要になり、人を動かします。

たとえば、一般に、子育てで最も重視されるものはなんでしょうか。「感情に振り回されない理性的な思考を身に着けてほしい」「世界で通用する感性を持ってほしい」など、いろいろあるでしょうが、「他人のために生きることが自分の生きがいになってほしい」などの倫理的な生き方を最も強く親は望むはずです。それは子どもに対してだけでなく、どんな他人に対しても、自分に対しても、理想の人間の姿だからです。

 

言うまでもなく、心も人を動かします。どんな時代であれ、まず感情により動物は動き、感情のままに生きていたら好ましくないので理性で制御されます。人間を動かす感情は欲と呼べるでしょう。その欲の中でも、社会で特に強いものが金銭欲と愛情欲だと思います。お金と愛情は、どんな人にとっても重要です。

しかし、個人の人生で、莫大なお金が必要でないと知ることも極めて重要です。たとえば、現代日本で、年収1千万円もあれば、4人家族でも十分贅沢できます。子どものいない夫婦なら年収600万円もいりません。子どものいない世帯に対しての累進課税はもっと強めるべきです。

愛は唯一、上の中で2回使った漢字です。愛は極めて価値のある心の動きです。既に説明した通り、倫理の根源として愛が存在するくらいです。

それにもかかわらず、特に男性の女性に対する愛情は、性欲(悪いもの)と同一視されすぎていて、少子化など、社会的に大きすぎる弊害が出てしまっています。21世紀前半の日本に生きたせいで、この弊害に人類史上最大に苦しめられた男性の一人として、私はこの害を特に強調しておきます。

嫌いという感情は、しばしば、好きという感情以上に人を動かしてしまいます。人間は愚かなのか、上記の通り同情の余地が全くない悪人は存在しないにもかかわらず、誰からも嫌われる人は存在してしまいます。嫌う心の危険性も人は知らなければいけません。

 

法は問答無用で人が従わなければいけないもの、と多くの人が考えています。しかし、現実に全ての法律を厳密に守っている人などいません。そもそも人は法を漠然としか知らないので、法に常に従っているわけでもありません。法が間違っていることもあります。法を決める政治も同様に間違います。「完全な中立などありえない」でも批判したように、難しい思考も放棄して、できるだけ政治と関わらず生きていきたいと考えている人は、特に日本で多いです。

法は常に従わなければならないと考えている警察や弁護士や裁判官がいたら、人として大切なところが欠けていると考えていいでしょう。

 

力(兵)を食よりも重要としているとはなにごとか、とお叱りを受けるかもしれません。孔子は信、食、兵の順で政治において重要だと主張しています。しかし、個人として、社会全体として、人を動かす上で、力は現実的に必要になるでしょう。力が不要となる未来を期待しています。

国家の暴力機関として、軍隊(兵)や警察があります。軍隊も警察もない社会が理想ですが、現在までのところ、軍隊はともかく、警察がない国家は実現できていません。また、ナチスドイツや戦時中の日本やソ連の横暴が、力なしで、話し合いだけで止められなかったのも歴史的事実です。ガンジーの非暴力でさえ、非協力と不服従が伴っています。ガンジーは非力だったわけではなく、力強く抵抗していました。

悪と戦うため、正義を元にした力は許容されるべきです。「どちらに正義があるかは決められない」と信じ切っている人は「『あらゆる思想の正誤は絶対的に決められない』とは絶対的に決められない」などの記事を読んでください。

 

食も人が生きるために重要です。同様に、老、病、死を避けるために人は動きます。しかし、社会福祉が発達して以後、特に世界の平均寿命が70才を越える現在、これらはそれほど人を動かす動機になっていないと私は考えます。どんなに医学が発達しても、老、病、死は避けられません。「人間は死んだら、なにもできない」と医者は死を避けようと患者さんにやたらと強要しますが、単に生き延びることよりも大切な価値がいくらでもあることを忘れています。

上記の通り、法が万能と勘違いしている弁護士、検察官、裁判官は社会から排除されるべきように、命がなによりも大切と勘違いしている医者は社会から排除されるべきです。

僕はキミに殺されたかった

前回の記事の続きです。

(世の中から理不尽な扱いばかり受けたせいで自殺する人は毎年日本に1万人以上いるのに、なぜその人たちのほとんどは誰かを殺して、世の中に復讐した後に自殺しないんだろう)

私だったら、そうします。むしろ、そうでないと私は自殺できません。そう思うこともよくあります。逆にいえば、そう思わないこともあります。世界がくだらないと思っているのは自分だから、くだらない自分さえこの世界から消えてしまえばいい、と思うこともあります。

「人間、生きたいように生きれないように、死にたいように死ねない」

これは私がある患者さんから言われて、他の患者さんたち100名以上に伝えてきた言葉です。

ただし、例外もあります。自殺と安楽死です。自殺と安楽死は死ぬ時と死に方を自分の意思で選べます。

もっとも、正しくは、納得のできる病死をする人も多くいれば、事実上、自殺や安楽死に追い込まれている人も多くいます。あるいは、それが世間の一般的な見解かもしれません。

ピンピンコロリが実現できない理由は医者にある」からの一連の記事や「命の選別は間違っているのか」からの一連の記事で書いたように、私は安楽死賛成派です。苦しむ前に死にたい、幸せなうちに死にたい、と考える人は珍しくないはずです。いえ、むしろ、どんな人だって考えることではないのでしょうか。

では、理想の死に方とはなんでしょうか。

ロミオとジュリエット」をはじめ、恋愛フィクションには心中ものが古今東西に定番として存在します。

自殺したい日は毎日だったので特別な日ではありませんでした。20代の男性なんて、みんなそうじゃないんですか?」からの一連の記事で私が長く語った「おやすみプンプン」(浅野いにお著、小学館)も、広義の心中ものです。

その主人公がヒロインの自殺後のモノローグでこう言います。

「僕はキミに殺されたかった」

私はもともと恋愛脳で、ある女性のおかげでそれがさらに増したので、この気持ちはとてもよく分かります。心中は私の理想ではありません。愛する女性に殺されて人生を終えられることほど、納得のいく死に方はないように思います。それに共感できない人は、僕を本当に理解することはできないでしょう。

だから、ついこの間まで、僕を殺してくれる女性を探していました。そのうちに「そんな女いるわけがない」「そんなマンガみたいなこと起きるわけない」「僕が殺されたいと思う女などいない。そんな高すぎるプライドを持つほど自分はダメになった」現実に向き合わざるを得なくなりました。もっとも、探す前から見つけられるとは、ほとんど思っていませんでした。

私がいつか必ず死ぬことは生まれた頃から知っていますが、いつ死ぬか、どうやって死ぬかは分からないままです。もし今日、自殺したとしたなら、「誰にも本当には理解されないまま、なにもかもうまくいかない、殺される価値もないほど、つまらない人生だったな」と最後に思うでしょう。

葬式よりもするべきこと

私が生まれてから現在まで理解できないの一つです。

(なぜ自分の葬式代を残して死ぬ人がいるのか。その葬式代は残された者に使ってもらい、葬式はしないでほしい、と伝えるべきではないのか)

自分の死後に行われる葬式は、自分にとってはどうでもいい問題です。葬式は死んだ人のためには全くならず、残された者たちが残された者たちのために行う儀式です。これは人類誕生以来、普遍的な真実です。

ネアンデルタール人も埋葬を行っていたようですが、僕らはホモサピエンスで、科学革命も産業革命も200年以上も前に達成しました。いいかげん、葬式なんて意味ないこと、止めませんか。

(なぜ葬式なんてするんだろう)

物心ついた頃には、そんな疑問があったように思います。現在まで、それは私にとって解けない謎のままです。当然ながら、私は自分の葬式の心配をしたことは一度もありません。

死に関して、他にも解けない謎の一つを次に書きます。

先生、殺してください

精神科なので「死にたい」と言う患者さんは毎日のように来ます。しかし、「殺してください」と言った患者さんは10名もいません。安楽死を希望しているわけです。

その患者さんは4年間毎週診察して、「殺してください」を100回くらい言ってきました。1回の診察で10回くらい言ったこともあります。私にとって一生忘れられない患者さんです。

統合失調症の患者さんで50年近く、その精神病院で入院していました。私が担当する頃には認知能力もかなり低下しており、「肉は食べたくない、肉は食べたくない、肉は食べたくない……」と同じ言葉を繰り返すこともたまにありました。

「先生、殺してください」は本人がなんらかの理由で落ち込んでいる時に言います。そう言う前に、高確率で「みっちゃんと結婚させてください」とお願いされました。

「みっちゃん」とは30年ほど前、その精神病院に勤めていた看護師さんで、その患者さんがずっと片思いしていたそうです。2人の仲がどの程度良かったかは知りませんが、特に事件があったというカルテ記録はなかったので、患者と看護師の関係のまま終わったと思います。

「みっちゃん」は20年以上前にその精神病院を辞めています。「みっちゃん」を知っている職員は、その精神病院にも数えるほどしかおらず、私も写真すら見たことがありません。その患者さんは統合失調症による認知力低下なのか、現実を直視したくないのか、「みっちゃん」がとっくの昔の病院からいなくなり、既におばさんになっていることを認めませんでした。

「みっちゃんと会いたい」「みっちゃんとつきあいたい」「みっちゃんと結婚したい」

「みっちゃんってどんな女性だったんですか?」

そう私が聞いても、まともな返答はしません。悲しそうな表情で「みっちゃんと結婚したい、みっちゃんと結婚したい……」と繰り返すだけです。

「みっちゃんと結婚できるといいですね」

私がそう言うと、「先生、結婚させて」と言ってきたりします。

「それはみっちゃんにお願いしてください」

「じゃあ、会わせて」

「それは難しいようです」

「……じゃあ、殺して。注射で」

「…………」

「先生、殺して」

「……それくらい辛いんですね」

お互い、無言になります。そこから先、どんなに話題を変えても、「先生、殺して」としか言いません。

その患者さんは人生のほとんどを精神病院で過ごしました。病気のせいもあり、院内に友だちがいないだけでなく、他の患者さんと話すこともほぼありません。卓球や体操などのレクリエーションに参加することもなく、笑っているところなんて一度も見たことがありません。生涯で最愛の女性と会うことも、つきあうことも、まして結婚することもできません。失恋の傷心に耐えているだけの人生です。

死にたくなるのも当然でしょう。そんな人生を送りたい人間なんているわけありません。この国の精神医療は、こんな患者さんを何万人生んでしまったのでしょうか。

死ぬべき理由はなくても死にたい気持ちはある

自分の人生を振り返ってみる。

医学部に入ってからで考えれば今回は最大の挫折だが、医学部に入る前までと比べたら、大した挫折ではない。あの頃だって自殺しなかったんだから、今、自殺するのはおかしい。

 

患者さんたちを考えてみる。

精神科医になってからは、死ぬほど悩んでいる人たちに、上から目線で偉そうなことを100回以上言ったものだ。

「恵まれない人が、不幸なまま死んでいくのは一人の人間として耐えられません。自殺はしないでほしいです」

「くだらない奴のせいで、自分までくだらない奴になるべきではありません」

「簡単に気持ちが分かると言うつもりはありませんが、僕は分かりたいと思っています」

私も真剣に言っていたし、患者さんたちも真剣に聞いてくれていた。

私の現在のくだらない事件のせいで自殺したら、患者さんにウソをついていたことにもなりえる。自殺はできない。

 

元妻のクズ弁護士、離婚関連のクズ裁判官二人、パワハラ冤罪に関わったクズ医師たち、クズ薬剤師たち、クズ弁護士は嫌でも思い出す。

ここで自殺したら、こんなクズどもに負けたことになる。自殺してはいけない。

 

そう考えているのに、なぜ私は毎日、毎日、こんなにも強く自殺したいと感じてしまうのか。

完乱と十牛図

悟りを開く10段階を表した十牛図です。解釈は「禅画を読む」(影山純夫著、淡交社)を引用していします。

1,尋牛。仏性の象徴である牛を見つけようと発心したが、牛は見つからないという状況。

2,見跡。経や教えによって仏性を求めようとするが、分別の世界からはまだ逃れられない。

3,見牛。行においてその牛を身上に実地に見た境位。

4,得牛。牛を捉まえたとしても、それを飼いならすのは難しく、時には姿をくらます。

 

あらら。10段階の4番目で、もう目的の牛を捕まえてしまいました。

5,牧牛。本性を得たならばそこから真実の世界が広がるので、捉まえた牛を放さぬように押さえておくことが必要。慣れてくれば牛は素直に従うようにもなる。

 

おいおい。既に悟りを得ちゃいましたよ。まだ半分です。ここからなぜ続くんですか。

6,騎牛帰家。心の平安が得られれば、牛飼いと牛は一体となり、牛を御する必要もない。

 

5との違いがよく分かりません。この段階、必要だったんでしょうか。

7,忘牛存人。家に戻ってくれば、牛を捉まえてきたことを忘れ、牛も忘れる。

 

ちょっと! 牛忘れてどうするんですか。なんのために捕まえたんですか? 訳分かりません。

8,人牛倶忘。牛を捉まえようとした理由を忘れ、捉まえた牛を忘れ、捉まえたことも忘れる。忘れるということもなくなる世界。

 

ついに真っ白になっちゃいました。無我の境地を目指す仏教らしいですね。あれ? でも、ここからさらに2段階も残っています。普通に考えたら、これを最後にすべきでしょう。

9,返本還源。何もない清浄無垢の世界からは、ありのままの世界が目に入る。

 

無為自然でしょうか。でも、ただの自然なら、牛捕まえなくても、見えますよ。というか、十牛図と言いながら、途中から牛がどうでもよくなっています。

10,入鄽垂手。悟りを開いたとしても、そこに止まっていては無益。再び世俗の世界に入り、人々に安らぎを与え、悟りへ導く必要がある。

 

大乗仏教は悟りを開いたら、それを広めることに価値を見いだしますからね。それは分かるにしても、悟りを開いた自分がなぜデブっているんですか。仙人みたいに霞食って生きていたはずなので、痩せてないとおかしいでしょう。

 

十牛図」を初めて読んだ時、私は20代後半だったと思いますが、その感想は上記の通りです。また「これが悟りを開くまでに順番に通る道と思わないし、10が最終到達点とも思わないが、悟りを開くまでにこの10段階を通ることは理解できる」あるいは「人生、こんなものだよな。悟りを開いていない自分でも、既に全部通っている気がする」とも考えました。

 

私の人生は、現在も含めて、十牛図の1~4を繰り返しています。同時に、大学生から家庭教師のバイトをしていたので、悟りを開いていないのに10の「教育」もしています。

世の中には牛(技能)が無数にあると考えると、十牛図はより納得できます。一つの技能を習得しても(5の段階に達したとしても)、他にも習得すべき技能はいくらでもあります(別の視点では1~4の段階にあります)。一部は5~10の段階に達していても、ほとんどは1~4の段階なので、気分としては1~4を繰り返しています。

そして、習得した技能はいつか自分のものとなり(6の段階になり)、その技能を忘れたり(7の段階)、無我の境地に達したり(8の段階)、その技能によって世界の見方が変わったり(9の段階)、その能力を他の方に教育したり(10の段階)します。

悟りに至るまでの段階をたった10枚の絵で表現することはできないでしょう。とはいえ、強いて絵で表現したら、上のような10段階になるのも理解できなくはありません。

人生においてゴールは、別の観点でのスタートになります。悟りを得てもゴールではなく、無我の境地になっても、自然をあるがままに受け入れても、ゴールではありません。自分では悟りを得たつもりで、他の多くの人にも権威にも認められても、実際はまだまだ先があります。

私が「完乱(perfect chaos)」という造語を考えついたのも、この十牛図について考えていた時だったと思います。十牛図に訳分からないと思う一方で、妙に納得もしていました。

完乱

一心不乱という言葉があります。全く心が乱れていない状態のことです。

その逆でありながら、同様に素晴らしい状態が「完乱」です。乱れているが、それが完全な状態のことです。

私の造語で、英語にすればperfect chaosであり、意味はこちらが分かりやすいかもしれません。

一心不乱は現実的に不可能なように、完乱も不可能な状態かもしれません。

私の考えでは、一心不乱は理想の状態ではなく、完乱こそが理想の状態です。なぜなら、自然や社会が万物流転で諸行無常である以上、自然や社会の中で生きる人が一心不乱で理想の状態にならないからです。「上善は水のごとし」のように、流動性や柔軟性ががあってこそ理想の状態になるはずです。

次の記事で「十牛図」を元に、完乱について、さらに解説します。

風俗嬢はキャバクラ嬢よりマシである

精神科医である私の患者さんには風俗嬢とキャバクラ嬢(ホステス)もいます。現役もいれば、以前そうだった女性もいます。もちろん、秘密にしている女性も多いでしょうから、患者さんの夜職経験を全て把握しているわけではありません。

ここ3ヶ月ほどで、あることに気づきました。元風俗嬢で客と結婚した女性患者さんは全員、離婚していなかったのですが、元ホステスの患者さんは全員、離婚経験がありました。ひどい元ホステスになると、6回も離婚していました。4回離婚した元ホステスの女性患者さんは、うち1回は結婚後に相手がゲイだと分かり、「20年以上前の当時でもゲイを差別するな、と相手側の家族からさんざん言われた。今だったら、離婚はもっと大変だったと思う」と語っていました。そんな波瀾万丈な話を聞いていると、「嫌われ松子の一生」を思い出してしまいます。

母数10程度なのでエビデンスになりませんが、あえてタイトルのように断定しました。なぜ風俗嬢はキャバクラ嬢よりまともな人生を送れているのでしょうか。

それは「さよならコンカフェ」に書いたように、キャバクラ嬢は男からの搾取の度合いがひどいからです。風俗嬢は対価に見合った肉体労働をしていると言えるかもしれませんが、キャバクラ嬢は対価に見合った労働は100%していません。反省しない性格も、風俗嬢よりキャバクラ嬢がひどかったように思います。

こんな世界に足を踏み入れたら、キャバクラ時代の自分の価値観を全否定しない限り、普通の世界で生きるのは極めて難しいでしょう。たとえ夫が受け入れても、夫以外の人が受け入れません。