未来社会の道しるべ

新しい社会を切り開く視点の提供

ホステス文化があるから日本は少子化が進んだ

ホステス文化が世界でどれほど広がっているのか、私はよく知りません。売春が世界中にあることは知っていますが、女が男の隣に座って酒をねだる店は日本以外にもあるのでしょうか。私の知る限り、カナダにはなかったか、少なくとも日本と比べるとカナダはないに等しかったです。

私はホステスのいる店に行ったことが一度もないので、そもそもホステス文化をよく知りませんが、このホステス文化があるからこそ、女は男に金をねだり、男は女に金を与える習慣が増長された側面はあるはずです。「福田和子事件」(大下英冶著、新風舎文庫)や「連続殺人犯」(小野一光著、文春文庫)を読んでいて、そんなことを思いました。

私に彼女がなかなかできなかったのは、やはり私がケチだったことは大きいでしょう。この本によれば10万円、20万円もあっさり使うホステス文化が存在していたら、食費や書籍代を100円、200円でもケチる私に彼女ができるわけがないと思ってしまいます。

日本にホステス、元ホステスは山のようにいます。現役でも50~100万人程度、経験者を含めたらその数倍はいるはずです。看護師や教員や保育士よりも多く、女性の職種人口としたら最多ではないでしょうか。「世の中にヤクザの人っていっぱいいるじゃないですか?」と言う女は、まずそういう人です(私も2人は会っています)。風俗業には必ずヤクザが介入しているため、そんな誤解を持ってしまいます。

10万円、20万円もポンポン浪費する社会で生きていたら、確実に、金銭感覚はおかしくなります。それに関わる女や男はもちろんですが、ホステスの話を聞く女友だちも悪影響を受けます。だから、若者の平均賃金の下がっている現在は、結婚が少なくなり、少子化が進んでしまいます。

日本の少子化対策を本気で推進したいのなら、性行為あるいはそれに類似する行為業の禁止は黙認しておくとしても、女が男に金をねだる仕事、ホステス業は違法にすべきです(もちろん、ホスト業も禁止にします)。既に取り締まっているのかもしれませんが、本当に厳しく取り締まって、壊滅させるべきだと考えます。

ここまで浅い日本人の人間観

前回の記事でも書きましたが、「連続殺人犯」(小野一光著、文春文庫)を読んで、日本人の浅い人間観に絶望しました。

高橋裕子という2人の夫を殺して、保険金を着服した奴がいます。福田和子同様、甘やかされて育った女です。福田和子と違って美人で家が裕福であり、子どもの頃から周囲にチヤホヤされたので、福田和子以上に恵まれていたのに(恵まれていたので)、福田和子以上に浪費する生活を送っていました。

裕子はお互いの両親の反対を押し切って、1才上の慶応卒の男と結婚しますが、夫の実家の福島で生活しだすと「ズーズー弁が嫌だ」とくだらない理由で、子どもを祖父母にすら合わせなかったりしました。長男が出産後10日目に死亡したことを理由に、裕子の実家の福岡に引っ越して、夫は裕子の父の会社の専務として働きます。しかし、夫は慣れない場所と仕事でストレスが大きかったようで、酒とギャンブルに走り、会社の金を複数回着服して、お互いの両親に返済させたりしています。もっとも、裕子も自身の浪費癖のせいで、夫の両親に1千万以上は払わせているようです。裕子は30才で離婚しますが、その時は既に後に再婚する相手と交際中でした。交際相手の雄司は、当時結婚中で子どもも2人いて、しかも3人目が妻のお腹の中にいました。つまり裕子と雄司は不倫の関係なのですが、それでも別れずに再婚に向かって突き進む理由を後に裁判で聞かれて、裕子は「雄司さんを本当に好きになってしまったことと、(裕子の)二人の子どもの父になれる人だと思ったから」と証言したそうです。「そこには身重である雄司の妻への罪悪感は全くない」と本では断定しています。なぜ断定できるかといえば、事件発覚後に裕子が雄司の妻に嫌がらせの電話を頻繁にかけたことが明らかになっているからです。そして、この裕子が「本当に好きになった」雄司こそ、裕子が保険金目的で殺した1人目の夫です。

そこから先の裕子の悪行については書きませんが、裕子がおかしくなったのはこの頃からでないことは確実です。子どもの頃から外見だけはいいが、内面はおかしい奴だったのでしょう。それを育てたのは、両親であり、周囲の人たちであり、日本社会であったはずです。

著者がこの事件を週刊誌に執筆中、裕子の音大時代にアパートの隣の部屋に住んでいる夫婦から手紙が届いたそうです。

「彼女は悪女ですが、私たち夫婦は彼女のことをいまだに『高橋さん』と呼んでいるのです。この意味がおわかりでしょうか。素晴らしい女性だったからです。お互いに部屋を訪ねたりしていましたが、本当に感じのいい方でした。スナック時代の派手な写真が出ていましたが、印象はまったく違います。人目を惹く存在ではありましたが、別にブランド品で着飾ってたわけではなく、質素な物をセンス良く身に着けていました」

後に夫婦が引っ越した先にも裕子は遊びにきたそうです。

「きちんと手土産としてシュークリームを持ってきました。そして、生まればかりのうちの子を抱っこして、『かわいい、かわいい』って。言葉遣いもきれいだし、気取っているところもない。ほんとに素敵なお嬢さんだったんです。だからあの記事を読んで、彼女にもこんないい部分があったんだって、どうしてもお伝えしたくて……」

この手紙からも、彼女がいかに甘やかされていたかが分かるでしょう。まず、夫婦で住むようなアパートに大学生が住んでいる時点で、贅沢です(もちろん、それぞれ間取りは違っていた可能性はありますが)。大学生でセンスよく着飾って、言葉遣いもキレイなのなら、小さい頃から外見や礼儀重視の育て方をされたのでしょう。引っ越し先にまで裕子がわざわざ来たということは、裕子は相手夫婦が自分を歓迎してくれると確信しています。この夫婦も外見の良さだけで裕子をいい気分にさせてきたわけで、この連続殺人の罪の一部があります。こんな夫婦が裕子の周りにいたから、裕子は「自分は恵まれていて当然」という感覚を持ってしまい、何才になっても浪費癖を改めず、金のためには殺人も厭いませんでした。

しかし、著者はこの手紙を読んで、そうは感じなかったようです。「それもまた事実なのだろう」と「素直に納得した」そうです。この著者の受け取り方も私には強い違和感があります。

まず、上の記述のどこまでが事実だと著者は考えたのでしょうか。「彼女にもこんなにいい部分があった」ことでしょうか。もしそうなら、それは事実ではなく、意見であること、しかも道徳的には問題のある意見であることを著者は認識できているのでしょうか。私がこの手紙を読んで「素直に納得」することなど、ありえません。前回の記事に出てきた松井弁護士の行動同様、保険金目的で2人の夫を殺して、全く反省せずにスナックで知り合った男を脅迫して金をせびる悪行を知りながらも大学時代の行儀の良さから「素晴らしい女性」との感想をわざわざ手紙で知らせる夫婦には憤りを感じるだけです。

この夫婦や著者程度の倫理観の奴らが日本に多いからこそ、裕子のような外見だけはいいが内面は最悪の女に騙される人たちが日本にいっぱいいるからこそ、このような犯罪が起こったのだと確信します。

前回の記事と同じ主張を書きます。

「外見がいくらよかったとしても、内面まで正当化されるわけではない」こと、少なくとも「立ち居振る舞いや話し方(外見)がいくら素晴らしくても、道徳観(内面)がおかしい奴はいる」こと、最低でも「外見と内面を分けて考える」ことくらいは、いいかげん日本人もできるようになるべきです。

なぜ外見から内面まで判断してしまうのか

言葉は性格である」に書いたように、私は「性格(話し方や所作)」と「内面(自然観や社会観や人間観)」を明確に区別しています。「メラビアンの法則」にあるように、人間は外見や性格に騙されやすいのですが、とりわけ日本人はその傾向が強いです。「連続殺人犯」(小野一光著、文春文庫)を読んで、その失望をまた感じさせられました。

大牟田連続4人殺人事件の犯人のヤクザ一家には、二男の北村孝紘という死刑囚がいます。子どもの頃から不良で暴走族にも入った後、父の暴力団の一員になった筋金入りのワルです。「殺人がいけない理由を答えられない日本人」の金川真大のように、犯罪後も「蚊も人も同じだ。だから、殺した」などと述べており、死刑かどうかはともかく、二度と社会に出てくるべきでない奴だと私は確信します。

著者からすると孝紘は人懐っこい性格らしく、別れの時、直立不動で深々と頭を下げると、著者は切なさを感じたと書いています。犯罪現場の大牟田市街を見渡せる公園の高台にやってきて、「かつてはこの景色のなかに、被害者も加害者もいた。だが、前者は無念の死を与儀なくされ、後者はその咎により死を待つ身となった。つまり、幸せになった者はだれもいない」と書いています。

この文を読んだ時、正直、私は憤りを感じました。著者は被害者の遺族とも会っています。この事件でたまたま居合わせただけで殺された、最も理不尽な原因で殺された原純一の母です。事件から10年たった後も、「つい最近悲劇に遭遇したばかりのような憔悴した顔で語る」母に取材したのに、まるで被害者と加害者が対等であるような書き方です。

確かに、加害者が被害者の側面もあることはしばしばあります。むしろ、加害者の方が被害者以上の被害を受けており、可哀そうだ、とすら思う事件もあります。しかし、この事件に関しては、加害者側に一片の同情の余地もありません。被害者一家の3人も普段からヤクザの北村一家と付き合っている時点で、社会道徳的に好ましくないことは推測され、そんなヤクザの友だち一家の友だちである原純一も、半グレだったことは想像されます。だから、被害者側にも批判されるべきところもあるのかもしれませんが、だからといって、加害者側の極悪さが変わるわけではありません。殺した方と殺された方は、天と地の差があります。同列にする時点で、死者を冒涜しています。

本当に残念なことに、孝紘の極悪さを度外視して、人懐っこさに魅了された奴は著者以外にもいます。孝紘の国選弁護人の松井仁です。本来の国選弁護人の仕事の枠を越えて、雑誌記事のコピーの差し入れだとか、出版社を紹介してくれないかだとかの依頼に、わざわざ対応しているのです。しかも、孝紘が書いた80枚の刺青下絵画集「証」を制作し、その刺青下絵のTシャツまで作ってあげています。松井はイギリスの大学留学があり、国際取引や外国人事件の弁護を中心に取り組んできたほどの国際人でありながら、孝紘以上に救うべき人が日本に腐るほどいることに気づいていなかったようです。こんな愛嬌のいいだけの凶悪犯罪者には画集やTシャツを作ってあげるよりも、自分の罪に向き合うよう説教すべきです。孝紘にここまでしてあげる不正義に憤って、松井を殴った人が傷害罪で実刑になるのなら、それはこの国の刑法のどこかが間違っている証拠になるのではないでしょうか。

「外見がいくらよかったとしても、内面まで正当化されるわけではない」こと、少なくとも「立ち居振る舞いや話し方(外見)がいくら素晴らしくても、道徳観(内面)がおかしい奴はいる」こと、最低でも「外見と内面を分けて考える」ことくらいは、いいかげん日本人もできるようになるべきです。

なお、これができない日本人の代表格の一人に重松清がいます。上記の本の後書きで、重松は「かつてはこの景色のなかに、被害者も加害者もいた。だが、前者は無念の死を与儀なくされ、後者はその咎により死を待つ身となった。つまり、幸せになった者はだれもいない」の文に美しさを感じるそうです。私が憤りを感じる文に、重松はせつなさを感じてしまう道徳観の欠落した奴です。こんな道徳観の作家の小説が日本で600冊以上も出版されていることが情けないです。

同じ主張の記事を次に書きます。

軍事小国ロシアとコンピュータ技術

フィンランドNATOに加盟するとのニュースに接して衝撃を受けました。あれほどロシアを怖がっていた国が、あれほどロシアを刺激しないように金も労力も使っていた国が、ロシアが心底嫌がっているNATO加盟をするとは。大げさな表現になりますが、驚天動地です。

その教育力の高さでも有名なフィンランドは日本と比較にならないほど深謀遠慮をはたらかせます。あらゆる面を全て熟考して、ロシアを刺激するデメリットより、NATO加盟にメリットがあると判断したからこその決断のはずです。情報が限られる中、その真意を読み取っている人はフィンランドの政治や軍事の上層部のごく一部でしょうが、普通に考えれば、ロシアが軍事的に弱い国であることが、フィンランドが恐れるほどでないことが、今回のウクライナ戦争で発覚したと判断できます。

少なくとも第二次世界大戦まで、ロシアは世界最強の陸軍大国でした。ほぼ全ヨーロッパを支配したナポレオンもヒトラーもロシアの陸軍に負けて、それが自身の没落の最大の要因になっていました。まさか、ウクライナごときにロシアがこれほど情けない戦いをするとは、プーチンだけでなく、世界中のほとんどの人は予想していなかったはずです。

NATOは冷戦期に生まれた対ロシア軍事同盟です。NATOの拡大は、ロシアにとって歓迎できるわけがありません。それなのに、よりにもよって、ロシアの兄弟国ともいえるウクライナNATO加盟させるなど、ロシアに戦争しかけてくれ、と言っているようなものです。今回の戦争を挑発したのはウクライナである、とのロシアの指摘は一理あると私は考えていました。NATOの拡大は世界最多の核保有国ロシアを刺激するデメリットが大きいので、他の西洋諸国がなぜ許すのかも、私には謎でした。

冷戦時代から、フィンランドNATOに正式に加盟していないものの、非公式には加盟しているような国でした。ロシアに攻められたら困るので刺激はしたくないが、本当に攻められたときは他の西洋諸国に守ってもらいたいのなら、その方法が一番得だからです。ロシアを刺激しないために、本心を隠して、ロシア寄りのメッセージをフィンランドの政治家が出すことも珍しくありませんでした。自国民に嫌われてでも、フィンランドの安全保障のために、ロシアの味方をするほど、フィンランドはロシアを恐れていました。

それでも、フィンランドNATOに加盟したのですから、ロシアはもはや陸軍でも海軍でも空軍でも核兵器でも、フィンランドを攻められないとフィンランドが判断したのでしょう。核ミサイルが飛んできても、フィンランド領で炸裂する前に迎撃できるのか、あるいは、そもそも核ミサイルをフィンランドに向けて発射できないようなコンピュータハッキングができるのか、あるいはロシアの核兵器は古すぎてフィンランド領で爆発させられるものなどないのか、そんなところでしょう。

フィンランドは小国ですが、フィンランドの歴史をある程度知っている人なら、NATO加盟ニュースに、私のように、歴史が変わったことを感じたのではないでしょうか。今回のウクライナ戦争で、IT技術が国家経済だけでなく国家の軍事力にも大きな影響を与えていることが明らかになったはずです。プライバシー保護だとか、情報弱者の救済だとか、くだらない反対で社会全体のIT化を遅らせるのは、国家の安全保障をも脅かすことに、日本人も気づくべきではないでしょうか。

炎上から学べること

「炎上するバカさせるバカ」(中川淳一郎著、小学館新書)は大きいものから小さいものまで100以上のネット炎上事件が紹介されています。しかし、著者は学習能力が低かったのか、次のようなくだらないネットのプチ炎上事件を起こしたと白状しています。

ダイヤモンド・プリンセス号での許可なし撮影と情報発信で炎上した岩田健太郎が2021年8月に次のようにツイートしたそうです。

<とりあえず今は非常時なので、命と健康を優先させるべきです。少なくとも、一定の地域では。体育も友人関係もあとでいくらでも取り返せます、生きていれば>

もともとコロナ自粛に反対で、岩田も大嫌いだった著者は次のようにツイートします。

<そろそろ調子に乗るのやめてもらえませんか? いつまで「非常時」を言い続けて注目を浴び、信者から感謝される人生を続けたいのですか? あなたの個人的な快楽と承認欲求を満たす発言が、本当に社会全体をおかしくするのですが。日本人はバカが多いのであなたを信じるのです。批判にも向き合ってください>

岩田の反論ツイート。

<日本人がバカが多いとは必ずしも思いませんが、あなたのコメントがまったく的を射ていないのは事実です。この問題でぼくらが快感を得ていると信じ込んでいるなど、あなたの脳内にしかない空想世界です。調子に乗っているのはあなたです>

著者の反論ツイート。

<あなたが調子に乗っているだけです。本当にいい加減にしてください。あなたはダイヤモンド・プリンセスに数時間乗り込んで世界に「日本の恥部」を晒して悦に入ったかもしれませんが、その後、欧米各国よりも日本がマシだったことについてはだんまりを決め込む。それで今も恐怖を煽り続けています>

これにより、岩田は著者をブロックしたので、著者もブロック返しをしたそうです。このプチ炎上は、さらに延焼します。著者の義姉がこの論争に割って入ったのです。

<薬剤師をしている中川(著者)の親類です。新人だった頃、岩田先生の書籍で研修医の先生方と知識を高め合ったりしていました。中川氏はなんでこんな失礼なことを書いているのか。ちゃんと取材して述べているのか。恥ずかしいです。本当に申し訳ありません>

著者は義姉に反論し、縁を切る宣言をしたそうです。

こんなくだらないことで、義姉と絶縁していいのでしょうか。この国で。殺したいほど両親が嫌いで、親戚つきあいなど一切したくない、と考えている自分でも、ここまでどうでもいい問題で絶縁しようとは思いません。

確かに、コロナ自粛は大きな問題で、その影響は個人としても社会としても甚大です。しかし、一介の医師と一介のジャーナリストの議論で、しかもtwitter上の議論で、コロナ自粛に影響が出るわけがありません。どっちが圧勝しても、どっちが完敗を認めても、コロナ自粛の政策は一切変わりません。こんな議論に義姉との親戚つきあいを掛ける価値は全くありません。

西洋式討論術」に示したように、これは議論として成立していません。著者は岩田の「友人関係はあとでいくらでも取り戻せる(から自粛すべきだ)」という意見に反論したいのでしょうから、「友人関係はあとでいくらでも取り戻せない(から自粛すべきでない)」事実を述べるべきです。たとえば、著者は本で「50代の岩田氏と子どもや若者の2年間は同じなわけがない」「コロナ自粛のせいで日本人の出会いの機会が減少して、婚姻数も減った」と書いています。それらの事実で岩田に反論すべきだったのに、感情的になって岩田への人格攻撃をしています。岩田も岩田で、こんなくだらない人格攻撃にわざわざ反論しています。私が岩田なら、無視しています。義姉も著者をたしなめるなら、著者に直接連絡すればいいのに、なぜか公開ネット上で意見を発しています。

著者は結論として本にこう書いています。

<炎上はないに越したことはないが、ネットがある以上、炎上はついてまわる。それはそれで割り切って、現世での人間関係を皆さん大事にしてください>

だったら、上記のようなくだらない炎上で現世の親戚と絶縁しないでください、と誰もが思うでしょう。著者も頭の中でそれに気づいたのか、次のように続けています。

<ネットで現れる本音の感情は案外その人物の本音でもあるので、リトマス試験紙として縁を切るべき人間を見つけられるかもしれない>

これを書いていて、著者は上記のtwitterコロナ論争が「リトマス試験紙」ほどの明確な判断基準にならないことに気づかなかったのでしょうか。もちろん、義姉が岩田の意見に賛成なのは本音ですが、だからといって、それが絶縁の判断基準なのでしょうか。著者は日本のコロナ自粛賛成派の全員と縁を切る気なのでしょうか。

こちらのブログで何度も書いているように、私も著者同様にコロナ自粛反対派ですが、コロナ自粛賛成派と絶縁したいとまでは考えていません。というより、コロナ自粛賛成派といちいち絶縁していたら、社会生活が送れません。コロナ自粛賛成派の意見にも一理あることは私も認めていますし、コロナ自粛賛成派だからといって、その人の全てが否定されてはいけないことも私は知っています。

もし私が著者と同じような失敗で義姉と絶縁したのなら、「あの時は冷静さを欠いていました。謝って許してくれるのなら、いくらでも謝ります。ぜひとも仲直りしていただけないでしょうか?」と、人を介したりして、連絡するでしょう。もし義姉が話の通じる人なら、「あの時は公開のネット上で注意する前に、私に直接連絡いただきたかったです」くらいは、ほとぼりが冷めたら、伝えているかもしれません。

著者は「炎上するバカさせるバカ」「炎上はないに越したことはない」と書いていますが、私は必ずしもそうとは思いません。炎上するほど議論すべき時もありますし、知性の高い人が炎上したり、させたりすることもありますし、炎上から人が学べることもあるからです。

こんな高齢者の戯言を聞いていたら日本は終わりです

朝日新聞に上のようなひどい記事が載りました。私が特に腹立たしかったのは、「金払うから、代行してよ」と言うほどの金持ちでありながら、「弱者」を自称するところです。世界史上に存在しないほどの高齢者天国の日本にいながら、いけしゃあしゃあと弱者などとよく言えたものです。

これほどの文章を書ける時点で、この著者は認知症では全くありません。それどころか、そこらの中卒、高卒の若者よりも遥かに知力は高いはずです。高齢者だろうが、若者だろうが、新しいことを学ぶのはストレスです。それでも文明社会の豊かさを享受するためには、多少のストレスには耐えて、新しいことを学ぶ義務があります。これだけ知性の高い高齢者なら、たかがコンビニの支払いや郵送の手続きなど、容易に習得できるはずです。しかし、そんなわずかの努力もしたくないと新聞で愚痴をこぼしているのです。

なお、本当の認知症患者さんで、自力で買い物もできない人なら、日本だとヘルパーさんがコンビニでの買い物を代行してくれたりします。自己負担1~2割で! 月に15~35万円も! そんな国は日本以外にありません。

日本以上にIT化が進んだ中国ではスマホがなければ電車にも乗れませんが、中国の高齢者は順応しています。この著者は中国の高齢者ほどの努力もしないくせに、中国の高齢者以上に不平を言うのなら、中国の高齢者以下の生活をさせるべきであり、ベトナムミャンマーにでも国外追放してください。

これほどひどい記事が朝日新聞に載るのは、裏の意図があるような気もします。いくらなんでも朝日新聞が「こんな高齢者もいるから、IT化を進める時は税金を使ってでも救済措置をとりましょう」と本気で主張したいとは考えにくいからです。「これだけの文章を書けるくせに、ITについて1mmも学ぼうとしないワガママなババアがいます。しかも、そのワガママを堂々と新聞で主張することがいかにおかしいかも自覚していません。このババアに批判を殺到させてあげてください」という意図があるのではないか、という気がします。

だから、ここで批判させてもらいました。

福田和子はなぜ15年間も逃亡できたのか

日本人である前に人間である」に書いた法則、「取材相手に気を遣うあまり、いつの間にか取材相手に取り込まれてしまう」法則が「福田和子事件」(大下英冶著、新風舎文庫)にもあてはまってしまいます。「相手の気持ちを最優先する日本と道徳を最優先する西洋」なので、取材中に取材相手に気を遣うのは分かりますが、執筆の段階で社会道徳よりも取材相手を優先してしまうのは、私には謎です。その程度の倫理観、社会観の人が犯罪本を書いたら、犯罪を抑制するのではなく、犯罪を助長する本になってしまいます。

福田和子は虚栄心が強く、虚言癖があり、金持ちの男しか興味のない道徳観の欠落した女です。福田和子がそんな人になった最大の理由および責任はその母にあります。上記の本では、その母自身も「小さいときから意見もしたことない、叱ったこともない」「うちは貧乏だったから、おんなじ苦労を(娘の福田和子にも)分けるような育て方をすればよかったけどねえ」と自分の子育てに原因があったことを認めています。母の弟は「子どもにあんまり甘すぎる。店(スナック)がほしいといやあ、人が驚くような店を持たせた。車が欲しいといやあ、自分が運転せんでも娘に買うて与えた。養子にもらった婿には、羽織の紐でも、金の留めがついとるような豪華もんを与えた。時計でも、人が驚くようなもんを与えた。どういうこっちゃ。ちっとは苦労させい。ほっとけ!」と母を叱責したそうです。福田和子が離婚して、再婚した時にマイホームを買いましたが、その時も母が3百万円も与えようとしたので、このように母の弟が止めたのです。

それでも福田和子は平凡な主婦生活をわずか3ヶ月でやめて、またもホステスになって、そこで嫉妬した女を殺害し、15年もの逃亡生活が始まります。虚栄心の強い福田和子は、逃亡中も人目につかない仕事を一時的にしても、すぐに夜の街に戻ってきます。そもそも、母も元ホステスで、スナックを経営し、従業員のホステスに売春させていました。その従業員に性行為させる場所は子どもの福田和子もいる家でした。福田和子の犯した罪の原因は母にあるので、私の価値観では、母も保護観察などの対処を受けるべきです。

しかし、福田和子の反社会的性格が母によって形作られたことを知りながら(少なくとも、知る立場にいながら)、著者は母を「それゆえにこそ、母の和子への申し訳なさは、ひとしおであったのだろう」と擁護します。

「福田和子は美人とはいえないが、かわいらしい一面を持っていて、逃亡中も、つきあう男たちが、そろって彼女に結婚を申し込んでいる。分相応の自分の立場に甘んじていれば(ホステスなど人目につく仕事をしなければ)、こういう人生はなかったのだろうが、それができなかった。彼女の幼いときの孤独が、そういう歪みを育てたのかもしれない」

この文も、私には理解に苦しみます。福田和子は1才で両親が離婚しますが、5才に母は「仏さんみたいにいい人」と再婚しています。福田和子は小さい頃から「おませさんで髪をアップにし」ており、「家にはピアノがある」と平気で嘘を言う奴でした。中学生の時から男にこびて、当時の女子としては極めて珍しくタバコも吸っていたらしいので、孤独というほどの孤独を感じていたとは思えません。ませて、すぐに見栄をはるので、友だちにあまり信用されなかった、というのが実情に近いでしょう。福田和子がつつましい生活で我慢できなかったのは、幼い頃から甘やかされて育てられ、男から金を与えられることに生きがいを感じていたからでしょう。福田和子の人生を追って、著者がそんなことも分からず、「幼いときの孤独」が原因と、まるで福田和子も被害者であるような判断を下すのなら、頭がどうかしているとしか思えません。

福田和子が57才で脳梗塞で亡くなった時、著者は「福田和子の罪は罪だが、獄中で長く生きて、最後は少しでもシャバに出られ、子どもたちと過ごせる日があればよかったのに」という感想まで漏らしています。母の味方になるだけでなく、福田和子の味方にまでなってしまったようです。

著者のようなバカな男が日本中にいるからこそ、福田和子が15年間も逃亡できたことは間違いないように思います。私に言わせれば、著者も福田和子の犯罪、あるいは逃亡の罪の一端を担っています。

楠木正成忠君神話の矛盾を気にしない日本人

もう20年くらい前、皇居前広場を散歩していると、立派な武士の銅像が目に入りました。誰かと思って見てみたら、楠木正成だったので、なんとも言えない違和感に襲われました。現天皇北朝の子孫なのに、南朝に味方した楠木正成が、現在の皇居前広場に唯一の武士の銅像として立っているのです。私が違和感を持ったのは矛盾そのものよりも、この矛盾に多くの日本人が疑問を持っていないことにありました。

私が楠木正成について感じる最大の疑問です。楠木正成は忠君、つまり天皇への忠誠心を第一とした武士にどうしてなるのでしょうか。楠木正成は現天皇家を否定しようとした人物です。実際、死後200年くらいは天皇家の敵、朝敵とされていました。1559年に朝敵ではなくなったといっても「先祖である朝敵・正成の非を子孫が深く悔いたから」許されたという形式になっており、楠木正成に非があるとする汚名の返上にまでは至っていません。太平記には楠木正成は「7回生まれ変わっても人間として朝敵と戦いたい」と言ったとありますが、現天皇家の立場から考えれば、これは噴飯ものでしょう。楠木正成が朝敵と戦ったのではなく、その正反対で、楠木正成こそ現天皇家と戦った武士だからです。

それでは、なぜ楠木正成が忠君の鑑となってしまったのでしょうか。理由は単純です。Wikipediaにあるように、太平記にある「桜井の別れ」がまるで史実のように国語・修身・国史の教科書に載っていたからです。しかし、「桜井の別れ」を忠君の話として教科書に載せた人は、楠木正成が現天皇家と敵対し、現天皇家の傍系の味方であった矛盾に気づかなかったのでしょうか。また、この戦前教育を受けた多くの日本人は、その矛盾に疑問を持たなかったのでしょうか。さらに、戦前の皇国史観教育を受けなかった現在の日本人も、皇居に楠木正成銅像を見た多くの日本人も、私以外の日本人は誰一人、この矛盾に疑問を感じないのでしょうか。

楠木正成は現天皇家に敵対した歴史上の人物である。天皇家のために命を尽くした忠君の鑑となるのはおかしい」と誰も指摘しないことが、私には本当に謎です。この解釈が主流でないのなら理解できますが、この解釈が存在すらしないのは、私には理解不可能です。

日本の歴史はいつになったら神話ではなく事実に基づくのか」や「日本の歴史学会はいつになったら客観性を身に着けられるのか」や「幕末の稚拙な外交政策から日本は教訓を得ているのか」でも嘆いたことですが、日本の「史実」は本当にいいかげんです。教科書に100年以上も載っていた源頼朝足利尊氏などの肖像が実は別人であったと、21世紀になって明らかになっていますが、その理由が「家紋が違う」などという専門家なら一瞬で気づく程度のミスであるから、呆れてしまいます。

「桜井の別れ」も一読すれば史実でないこと、後からいくらでも話をおもしろおかしくできること、話を盛った可能性が高いことは、まともな知性の人なら分かります。これが歴史的事実として教科書に載っている時点で異常だと考えるべきです。それに気づかなかったとしても、「楠木正成は現天皇家の敵だったのだから、忠君の鑑にはならないのでは?」と誰も考えないのは異常です。

楠木正成神話の批判

楠木正成と聞いて、南北朝時代の武将と正しく答えられる日本人は現在、半数くらいではないでしょうか。歴史上の人物であることは分かったとしても、いつの時代の人物かはよく分からない人も珍しくないはずです。

南北朝時代は、源平合戦、戦国時代と同じく、日本各地で大小の合戦が行われた時代ですが、その三つの中で注目度は最も低いでしょう。小説や映像ドラマなど各種フィクションで取り扱われる量でいっても、源平合戦は戦国時代の10分の1程度で、南北朝時代源平合戦の10分の1程度ではないでしょうか。

私も楠木正成についてよく知るようになったのは20代も半ばになって、太平記の解説本などを読んでからです。そこでまず驚いたのは、楠木正成が日本史上で他に例がないほど有能な人物と書かれていることです。歴史上の人気者といえば、織田信長坂本龍馬などがいますが、それらの実像がフィクションと異なることは常識だと思います。しかし、楠木正成はフィクションで英雄であるだけでなく、実像も、つまり史実でも智・仁・勇の三徳兼備の日本史上最高の武将となっています。これは楠木正成神話を創設したと言える太平記の表現ですが、現在のwikipediaにあるように、古今軍理問答は源義朝源義経武田信玄上杉謙信などを差し置き、楠木正成を日本開闢以来の名将としていますし、垂加神道創始者である江戸初期の山崎闇斎楠木正成が日本最高の名将であることを前提としています。その最大の理由は、南朝寄りの太平記はもちろん、北朝寄りの梅松論でも楠木正成は賞賛されているからです。

軍事的な天才といえば、他に源平合戦源義経がいます。しかし、源義経の話は一ノ谷の戦いの逆落としといい、屋島の戦いの奇襲といい、壇ノ浦の戦いの八艘飛びといい、普通に考えて、嘘くさいです。その程度の少数の兵の活躍で、勝敗の大勢が決まるとも思えません。もし本当に大勢が決まったのなら、源平合戦の時代の合戦が集団戦ではなく、個人戦だったからでしょう。なんにせよ、源義経個人の戦闘能力は高かったのかもしれませんが、用兵能力がそれほど高かったとは思えません。また、史実として、源義経は兄の頼朝ほどの政治力はなく、日本中の武士を味方にする立場も能力もなく、後白河法皇に利用される致命的な失敗を犯しています。

一方、楠木正成は現在のwikipediaで「史実では刀を振るえば電撃戦を得意とし六波羅探題を震撼させた猛将であり(『楠木合戦注文』『道平公記』)、築城・籠城技術を発展させ軽歩兵・ゲリラ戦・情報戦・心理戦を戦に導入した革新的な軍事思想家であり(楠木流軍学の祖)、そして畿内にいながらにして日本列島の戦乱全体を俯瞰・左右した不世出の戦略家だった」とされ、「2000年前後以降は、何か一つの側面に縛られるような人間ではなく、武将・官僚・商人など、多面的な顔と才能を持つ人物であったことが明らかになってきている」と最大級の賛辞を書かれています。ここまで激賞されている日本史の人物はwikipediaで存在しないでしょう。まさに日本史上最高の武将です。

しかし、当然のことながら、欠点のない人間などいませんし、失敗しない人間もいません。端的にいえば、欠点のない人、失敗しない人と史実に残っているなら、その史実は嘘です。もっとも、史実だけに注目しても、楠木正成の欠点あるいは失敗を見つけられます。

第一に、楠木正成が味方した後醍醐天皇南朝)は史実として足利尊氏北朝)に負けています。楠木正成が本当に「日本列島の戦乱全体を俯瞰・左右した不世出の戦略家」なら、後醍醐天皇が勝つように補佐すべきでした。

また、太平記で藤島の戦いでの新田義貞の逝去を「犬死」とこき下ろしているのに、湊川の戦いでの楠木正成の逝去は「七生報国」の忠臣の行動だとされているのは、あまりに理不尽です。新田義貞後醍醐天皇を助けるために恥を忍んでも生き逃れるべきだったのなら、楠木正成だって湊川の戦いで命を落とすべきではなかったはずです。いえ、命を落とさないだけでなく、楠木正成が本当に「軽歩兵・ゲリラ戦・情報戦・心理戦を戦に導入した革新的な軍事思想家」だったなら、湊川の戦いで勝ってもよかったはずです。しかし、明らかな創作である「桜井の別れ」のせいか、過去から現在まで、湊川の戦いでの楠木正成の死に批判はあまりありません。

私がこのブログで楠木正成を批判したくなったのは、ノンフィクション、フィクション問わず、楠木正成は完全無欠の人物として賞賛されているからです。ネットを含めても、楠木正成の批判は一切見たことがありません。しかし、繰り返しになりますが、完全無欠の人なんてこの世に存在しません。

戦前教育で「桜井の別れ」は国語・修身・国史の教科書に必ず載っていた逸話であり、楠木正成は忠君の鑑とされて政治に利用されていました。戦後になり「桜井の別れ」を知る日本人は激減しましたが、楠木正成が完全無欠の天才との神話はまだ残っているようです。そんな神話が残っているなら、今後も楠木正成が政治や宗教に利用される危険性はあるので、楠木正成は失敗もしたし、欠点もあることくらいは日本人なら知っておくべきでしょう。

なお、私が楠木正成について最も書きたい内容は次の記事になります。

日本でマスクをはずせるのはいつの日か

新型コロナウイルスで亡くなった日本の小児はゼロである」にも書いたように、私はコロナ自粛当初からマスク着用には反対でした。日本では以前からマスク文化があったせいか、マスクのウイルス感染予防効果を疑ってすらいない人が大多数でしょう。だから、マスクの感染予防効果を疑っている私は日本で生きづらいです。

既に欧米ではマスク着用義務が終わり、誰もマスクをしなくなりました。

よくも悪くも日本以上に欧米を見習う韓国はオミクロン感染拡大中でも、自粛解除を広げていきました。しかし、その韓国でもマスク着用はいまだ継続しています。日本は欧米や韓国のような見解も勇気もなく、いまだ自粛が続き、当然、マスク着用も継続中です。

2009年に豚インフルエンザがカナダで流行した時に、豚インフルエンザが全く流行していない日本でマスク着用者が増えるニュースがカナダでも放送されて、「日本人はマスクにウイルス感染予防効果がないことを知らないのか」とカナダ人からバカにされた経験があります。実は、このブログにもその時の経験を書いていたのですが、新型コロナショックで、そのカナダでもマスクが義務化されたので、一度、その記述は消しました。「マスクにウイルス感染予防効果がない」が確固たる医学的事実という誤解が広まることを恐れたからです。

とはいえ、マスクのウイルス感染予防効果があるかどうかは、いまだ確定していません。感染予防効果を支持する研究結果もあるのですが、エビデンスレベルの高い研究ではまだ一度も示されていません。簡潔にまとまっている資料を下に示します。

WHO、ECDCの国際的な感染症機関がマスクのウイルス感染予防効果を疑問視しています。アメリカのCDCだけはマスクのウイルス感染予防効果を支持していますが、政治的な臭いを感じます。いずれにせよ、そのアメリカでもマスク着用義務は既に全州で解除されました。

「コロナ自粛を支持する日本人の方が多い」

「日本人はマスクに抵抗がない」

「百歩譲ってマスクに感染予防効果はないとしても、感染拡大させることは絶対ないから、しないよりはした方がいいに決まっている」

こんな発想しかできない人は気づかないでしょうが、相手の口元が見えないことは、間違いなく、いろいろな方面で害があります。「新型コロナウイルスで亡くなった日本の小児はゼロである」に書いたように幼児教育への害もありますし、少子化が(最大の)社会問題である日本なら、異性の魅力が減少する弊害も少なくないはずです。

欧米諸国は新型コロナ感染率や死亡率が減ったといっても、大抵の国は現在でも日本より多いです。そんな欧米でもマスク解除になったのですから、欧米より桁違いに感染率も死亡率も低かった日本は最初からマスクなしでもよかったはずです。まして、欧米もマスク解除した今なら、アジア諸国だけマスク着用を続ける理由はないはずです。

今回の世界中のコロナ騒動は、欧米諸国が外出禁止令や都市封鎖令まで出した影響が大きかったと私は考えています。アジア諸国は欧米より1桁も2桁も感染者数や死者数が少なかったのですから、理論上、欧米の10分の1、100分の1の感染対策でよかったはずです。

日本は欧米諸国のマネをして必要以上の感染対策をしてしまいました。だとしたら、欧米諸国が自粛解除したのですから、また欧米諸国のマネをして、日本も自粛解除してくれないでしょうか。不必要な時にマネて、必要な時にマネしないのはやめてほしいです。

あてにならない世界大学ランキング

世の中には簡単に比較できないものが多くあります。人数、面積などは客観性がまだありますが、売上や給与などになると統計基準によって結果が変わってきます。同じような理由で、国家の経済規模を示すGDP(GNPやGNIも同様)にも、問題があることは以前から指摘されています※。

もっとも、これらは通常、数値で表されるのでまだ比較しやすいでしょう。「教育力」「生徒たちの頭の良さ」「学術業績の高さ」になると、基本的に数値で表されないので、客観的な比較が給与やGDPよりも圧倒的に難しいことは間違いありません。「そんなものにランキングなどつけられない」と考える人も必ず一定割合いて、それが正しい側面も必ず存在します。

だから、「世界大学ランキング」はおかしいと批判される宿命を負っています。まして、世界大学ランキングでは不自然なほど英語圏の大学ばかり上位にいるので、「こんなくだらないランキングにこだわるべきでない」と非英語圏の国や大学は嘲笑すべきです。

しかし、2013年の日本の内閣府教育再生実行会議の第三次提言で「今後10年間で世界大学ランキングトップ100に10校以上をランクインさせる」という目標が掲げられてしまいました。そんな国家目標を立てるなら、「どの世界大学ランキングの上位を目指すのか」「その世界大学ランキングの評価は妥当なのか」を検討しなければならないはずなのですが、その検討をした形跡は見当たりません。

「オックスフォードからの警鐘」(苅谷剛彦著、中公新書ラクレ)は、世界大学ランキングがイギリスのために作られたことを証明している本です。世界大学ランキングはここ30年ほどの歴史しかなく、大抵はイギリスで作られています。最も頻繁に引用されるTimes Higher Education(THE:タイムズ・ハイヤー・エデュケーション)も、その例に漏れません。上記の本では、1999年のブレア首相の発言「教育・訓練の面でイギリスの海外輸出額は年間およそ80億ポンド(当時のレートで1兆5000億円)」を何度も引用しています。教育の海外輸出額とは意味不明な言葉ですが、「留学生などが国内外でイギリスに総額1兆5000億円もの教育費を支払ってくれている」という意味です。このブレア発言はさらに「今後、イギリスは海外留学先の第一の選択肢になるように長期的な戦略を立てることにした。2005年までに留学生を7万5千人増やす」と続きます。結果、THEの我田引水な大学ランキングを無批判に受け入れる低脳な外国人たち(主には中国人)はイギリスに引き寄せられ、2005年には目標を大幅に上回る11万8千人もの留学生増を達成したそうです。

イギリスは経済政策として留学生を積極的に受け入れており、その政策を熟知しているタイムズ社などがイギリスの大学のブランド力を高めるため、THEなどの大学ランキングを世界に積極的に広報してきました。本では、イギリスの国家マーケティング戦略に日本はまんまと巻き込まれていると指摘しています。

日本政府は上記の2013年の国家戦略に従って、大学ランキングで上位を目指すために、〇〇年までに留学生の割合を×%に増やすと日本の有名大学に目標を立てさせてしまいました。THEなどの大学ランキングでは必ず留学生の割合が評価基準に入っているからです。しかし、留学生の割合が評価基準に入っていれば、国際語になっている英語圏が有利になるのは当たり前です。「教育力を高める」「学生の質を高める」「学術業績を高める」ために留学生を増やすのなら分かりますが、「大学ランキングを高める」ために留学生を増やすのなら、くだらないです。そんな根本的な認識間違いを犯すほど、日本の文科省はバカだらけなのでしょうか。

学生の優秀さでいえば、受験戦争期の東京大学、改革開放政策後の精華大学、まだ大学数が少なかった頃のインド工科大学が、アメリカやイギリスの一流大学に勝っていた、あるいは勝っている、と私は考えています。しかし、THEなどの大学ランキングでは、上記の大学はアメリカやイギリスの多くの一流大学に負けています。その時点でおかしい、と考える人は私だけでなかったはずです。

世界大学ランキングが上記のようないいかげんなものであることは多くの日本人が知っておいていいでしょう。

 

※ あまり知られていないと思いますが、今から100年前は、GNPなどの国家の経済規模を示す客観的な数値はなかったようです。そのため、現在が好況なのか不況なのか、日本とアメリカの経済規模がどれほど違うのか、学者によって言うことが異なっていました。その意味で、GNPのような客観的な指標ができたのは社会全体にとって有益ではありました。

大学入試改革

全国共通習熟度順テスト」の捕捉になります。

基礎学力を問うセンター試験と比べると、東大の入試は明らかに難問奇問が多いです。高校までの標準課程を習熟した人たちならまず解けないが、名目上は標準課程の内容だけで解ける問題を出題するので、必然的に、難問奇問だらけになります。塾業界などの受験産業関係者は「東大の入試問題は良問である」となんの客観的な根拠も示さず言っていたりしますが、「ニッポン大学受験教」の信者の虚言だと考えていいでしょう。

一流大学入試の難問奇問を解く学力を養う時間があれば、大学の先取り学習をした方が本質的な知性の伸長に有効なことは、誰が考えても分かります。だから、欧米の大学のように、優秀な学生に飛び級を認めるべきです。現在も飛び級制度はありますが、日本政府は本気で導入する気などなく、事実上、存在しないに等しいですし、学生にも社会にも有効に活用されていません。

また、各大学の個別試験は廃止した方が効率的でしょう。現在、ほとんどの大学で個別の入学試験を作成していますが、その作成労力と採点労力をかけるほどの価値があるのか、誰も検証していません。「莫大な労力がかかる伝統行事なのに伝統的に検証なし」は日本らしいですが、その労力の一部を割いてでも検証すべきです。検証すれば、すぐに各大学の個別試験の結果も、大学入学共通試験の結果とほぼ正の相関があると示されるでしょう(既に予備校の統計でも示されています)。だとしたら、大学入学共通試験だけでいい、との結論にすぐなるはずです。上記の飛び級制度と合わせると、さらに効果的になるでしょう。

なお、欧米の大学で一般的な内申書(履歴書)、小論文、面接の重視については、「平田オリザの提言」に書いたように客観性がなくなってしまい、「学歴社会嫌いな私が学歴好きになった理由」に書いたように知性よりもコミュニケーション能力重視になってしまいがちな欠点は注目すべきだろう、と私は思います。主観的なコミュニケーション能力重視の選抜になるなら、本当の知性を客観的に測りやすい、大学個別試験の方がいいのではないか、とも私は考えます。もっとも、現状の大学個別試験については改革の余地があるでしょう。

志布志事件は日本のウォーターゲート事件である

このブログで何度も指摘している通り、日本の警察とマスコミの癒着はひどいです。「日本政治がオープンになるために」に書いたような政治家とマスコミの癒着は有名ですが、警察とマスコミの癒着はあまり知られていないのではないでしょうか。私の知る限り、政治家とマスコミはある程度の緊張関係はあり、またマスコミも緊張関係を作るべきとの意識はありますが、警察とマスコミにそんな緊張関係はありません。マスコミは犯罪取材時、頭をろくに使わずに、社会全体への拡声器役として警察に利用されています。

日本だと、警察の腐敗はなかなか表面に出てきません。当然、社会的に批判もされません。事実上、日本の警察は治外法権になっています。警察は法律、権力の実行機関です。つまりは、正義の実力機関です。その正義が間違っていたら、とんでもないことになることくらい、子どもでも分かります。必然的に、警察を社会全体で十分に監視しなければならないのに、肝心要のマスコミが警察と癒着しているのです。知っての通り(知らない人もいますが)、警察は組織としても、個人としても体育会系で保守的です。日本で必要な改革が進まない理由の一つは、警察の監視機構が働いていないこともあるでしょう。

「真実――新聞が警察に跪いた日」(高田昌幸著、角川書店)は、マスコミが警察の腐敗を取り上げたマスコミ史上の金字塔なのですが、残念ながら、その報道をした高田昌幸北海道新聞の辞職に追い込まれ、上記の本のサブタイトルまでが「新聞が警察に勝った日」ではなく、その逆になっています。日本社会の全体像、マスコミの全体像を把握している人なら、高田昌幸の功績がいかに偉大かは理解できるはずなのですが、現在に至るまで、高田昌幸の功績を賞賛する日本人はろくにいません(だから、私が何度もこのブログで賞賛しています)。

そんな日本社会の背景を理解しているなら、「虚罪―ドキュメント志布志事件」(朝日新聞志布志事件」取材班著、岩波書店)の素晴らしさが分かるはずです。警察が県議会議員の現金供与犯罪などをでっち上げた事件です。例によって、警察による自白の強要、数か月から1年以上にわたる長期勾留、違法な取り調べが行われています。

この報道を担当した朝日新聞鹿児島総局は「これで有罪(警察が正しいとの判決)だったらどうするのか」という批判に常に悩まされていたようです。しかし、「裁判官が間違うこともある」と理解し、いえ、もっと正確には「判決は裁判官の胸三寸で決まる」と本質を理解し、「有罪だったら、判決が間違っていると批判すればいい」と報道を続けたそうです。結果として、日本の裁判はそこまでおかしくなかったようで、無罪となります。

鹿児島県警がいかに異常な組織か、この本を読めば分かります。ただし、希望もあるのは、鹿児島県警の中に、朝日新聞鹿児島総局に内部通報していた「ディープスロート」がいたことです。ディープスロートとは、ウォーターゲート事件で内部通報していた人物の総称として使われた言葉ですが、日本のマスコミの実体を考慮すれば、志布志事件もこのウォーターゲート事件くらいに注目され、賞賛されてもいいでしょう。マスコミが警察批判する時、それがどれほど勇気のいることか、社会的に価値がどれほどあるかを全ての日本人が知るべきです。

ところで、「朝日新聞記者は相模原障害者施設殺傷事件の被害者たちを冒涜している」で私が批判した同じ新聞社によるものとは思えないほど、志布志事件は質の高い報道です。同じ新聞社の犯罪報道で、なぜこれほどの差が生じたのかは私には分かりません。

「ルポ児童相談所」を読んで

「ルポ児童相談所」(大久保真紀著、朝日新書)は素晴らしい本でした。これこそ朝日新聞記者がするべき報道です。「マザコン国家ニッポン」で私が批判した朝日新聞Eduはお受験冊子ではなく、こういった恵まれない子どもたちをテーマにした教育冊子にすべきでしょう。

児童相談所は、ほとんどの日本人が関わったことのない機関だと思います。医療職である私ですら、一度も関わったことがありません。新聞などで、虐待相談件数が2000年から2020年までで11.5倍、虐待摘発件数も10倍近くと、発展途上国人口爆発を上回る速度で増えていることを知るくらいです。

もちろん、世の中が豊かになって、少子化になっているのに、児童虐待が増えているわけがありません。昔の方が児童虐待は数も率も多く、程度もひどかったのですが、見逃されていたことは誰もが認めるはずです。

上記の本を読めば、児童相談所は社会にいかに必要か、その職員の仕事がいかに大変であるか、よく分かります。職員の仕事が大変なのは、本で何度も指摘されている通り、職員数が少ないことも原因ですが、制度の問題もあります。たとえば、子どもを一時保護しても、虐待した親の機嫌を損ねないように職員は対応しなければなりません。大抵のケースで、結局、子どもは親元に戻ることになるからです。子どもを助けるためには、親との協力が必要な制度になっているのです。

しかし、モンスターになった親にここまで真摯に対応していたら、ワーカー(社会福祉士)たちの心がもたない、というシーンが本で頻出します。極端なケースばかり紹介しているからだとしても、これはひどすぎます。「怒鳴るのなら、今日はお帰りください」「先ほどから同じ話ばかりしています。申し訳ありませんが、他の仕事もあるので、今日はお帰りください」と言える権限を職員に持たせるべきでしょう。児童相談所に限りませんが、親や客がモンスターと化した場合、具体的には怒鳴ったり、無理難題を言ってきたりする場合には、話を一方的に打ち切れて、すぐに対処が必要ならクレームを言われた方がその場で対処を決められる権限を認めるべきでしょう(もちろん、それが妥当かどうかについて不服申請および事後検証できる制度も必要になりますが)。

本で何度も指摘されている、一時保護所にいる子どもたちが学校に通えない制度は、即刻、修正しなければなりません。著者は15年以上も前から指摘しているのに、未だに実現していないようです。「親が学校に乗り込んできたら、学校側が対応に困る」「登校途中に子どもが虐待した親にさらわれるかもしれない」などと心配しているのかもしれませんが、「学校が親に子どもを渡さない」「親から再び子どもを保護して、親を留置場に送る」などと適切に対応すればいいだけです。無条件で子どもを勉強させない方がデメリットだといいかげん気づくべきです。というより、10年以上前に気づいて、制度変更しておかなければなりませんでした。

上記の本で私にとって興味深かったのは、2013年から2016年、名古屋市副市長として子どもの虐待問題に関わっていた岩城弁護士の話です。「一時保護する場合、一時保護所ではなく、中学校区ごとのグループホームで保護して、親への接近禁止命令をとる形にして、地域で子どもを育てなければいけない」 これは私の「子ども集団生活施設」ほど急進的ではありませんが、似たような発想です。親によって子どもの人生がメチャクチャにならないように、その子どもが大人になって周りに迷惑をかけないように、上記のようなグループホームは、たとえ税金がかかっても、作るべきだと私は考えます。もっとも、それが日本で実現するのは何年後、何十年後、あるいは百年後になるかもしれない、とも思います。

社会福祉士の大切さを認識していない現代

「現在の日本で最も足りていない職種はなんでしょうか?」

人によって上の質問の答えは変わってくるでしょう。介護士、保育士、プログラマー、3K仕事などがまず思いつくでしょうか。

しかし、100年後、あるいは200年後の人が現代を振り返ると、社会福祉士が圧倒的に不足していると考えるに違いありません。未来の世界では、社会福祉士は現代の10倍あるいは100倍くらいに増えているはずです。

問題の本質は、社会福祉士の不足そのものではなく、社会福祉士の重要性あるいは必要性を現代人が認識できていないこと、あるいは、社会福祉士を有効活用する制度になっていないことです。福祉制度を作ったら、困っている人が自動的に救われるわけではありません。福祉制度を運営させていくためには、多くの場合、困っている人に対する人的援助が必要になります。また、人的援助により福祉制度がより好ましく運営されていくことに、多くの現代人が気づくべきです。

このブログで何度も出てくる「家庭支援相談員」も社会福祉士の仕事になります。次の記事で出てくる児童相談所の職員も社会福祉士です。さらに、「高齢者以上に現役の社会的弱者にも個別事情に応じた人的援助を与えるべきである」にも書いたように、無職の人に就職を支援する社会福祉士、出所後の受刑者の社会復帰を支援する社会福祉士不登校やイジメや非行に対応する社会福祉士の予算は、桁違いに足りません。