「枢密院」(望月雅士著、講談社現代新書)を読んでの感想です。
枢密院といえば「胡散臭い」「頑迷固陋」「陰謀」といった世論が、現在および、その存在中からつきまとっています。1902年、まだ枢密院誕生してから13年の時点で、伊藤博文が総理大臣だった時の「遺物」と中江兆民が枢密院を批判しています。
戦前の日本は衆議院と貴族院と枢密院の三院制だった、という見解があります。このうち国民が選べるのは衆議院だけです。貴族院は定数250~400名で議事録が公開されていますが、枢密院は定数わずか二十数名で議事録が非公開です。枢密院は他国に同様の機関がなく、伊藤博文が欧州留学中にシュタインの講義に出てきた参事院を元に「発明」したようです。上記の著者は「枢密院のために、日本の政治は多元化し、また複雑化した。もし枢密院がなければ、近代日本の政治はどれほどシンプルであったか」と嘆いています。
中江兆民が批判した通り、明治憲法の起草時に政治対立がなければ、特に1887年に条約改正についての藩閥内の対立と民権派の反政府運動がなければ、「政府と議会の対立を解決するための」枢密院が生まれなかったかもしれません。つまり、一時的な政局で、「憲法の番人」と自称する複雑怪奇な機関(枢密院)が生まれてしまった可能性があるのです。上記の本では「もしその歴史的条件(1887年の政局)が異なれば、枢密院は存在しなかっただろうし、近代日本はまた別の道をたどったに違いない」と確信調で書いています。
1889年に枢密院ができた直後、1890年に帝国議会が始まる前に、山県有朋によって枢密院形骸化が計画されています。さらに帝国議会が始まると、明治天皇は枢密院にろくに出席しなくなり、顧問官(枢密院のメンバー)のモチベーション低下も著しくなります。枢密院を作った当の伊藤でさえ、第二次内閣時代、日清講和条約や遼東半島還付条約について枢密院を無視しています。発足直後から数年で、天皇も伊藤も山県もその他の有力政治家も枢密院に疑問を感じていたのです。
確かに、枢密院が若槻内閣を総辞職に追い込んだりした例はありますが、その誕生から終焉までの枢密院の歴史を書いた上記の本を読む限り、政治に大した影響は与えていません。上記の著者の見解とは異なり、たとえ枢密院がなかったとしても、近代日本は同じ道をたどったように私は考えます。
そんな不要な枢密院ですが、顧問官の最大の魅力は給与の高さにあると本に書かれています。1892年に伊藤が枢密院顧問官を「閑職」と呼ぶほど仕事がなかったのに、年俸は各省大臣に匹敵しています。「枢密院顧問官に就くと、亡くなるまで在任するケースが多いのは、就任時の年齢が高いことともに、この給与の高さに理由がある」そうです。枢密院がなければ、近代日本の税金が少しは有効に使えたようです。
そんな税金の無駄でしかない、老害政治家のガス抜きの場でしかない枢密院なのに、有力政治家から一般国民まで煙たがっていたにもかかわらず、枢密院は戦後の日本国憲法制定まで約60年間も残ってしまいました。何度か枢密院をなくそうという案は出ていますが、明治憲法改正の必要性があるため、結局、日本国憲法成立、つまり日本史上最大の敗戦まで実現しませんでした。
敗戦後、多くの日本人が新憲法案を作りましたが、そのほとんどは枢密院の記述なし、つまりほとんどの日本人は枢密院を廃止すべきとしか考えていませんでした。
日本人の上から下まで不要と考えているのに、なぜか継続されている機関や制度は現在も多く残っています。あまりに多いので、そういった機関や制度は「枢密院」と代名詞で呼んでみてはどうでしょうか。