未来社会の道しるべ

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日本人が陥りやすい間違った討論法

前回の記事の続きです。

失敗例1:「私はAだと思う」「いや、私はAでないと思う」「なにを言うかAだ」「絶対Aじゃない」「A以外ありえない」「Aこそ考えられない」……

これを繰り返していては、イタチごっこになってしまいます。「なぜAと思うか」あるいは「なぜAが間違いと思うのか」と聞いて、そこから矛盾点を突いた方が討論としては効果的でしょう。

 

失敗例2:「私はAだと思う」「いや、私はBだと思う」「CだからAなんだ」「DだからBなんだ」……

そもそも二つの異なる意見を同時に真偽判定していては、討論が複雑になります。討論では、一つの意見のみ真偽を判定すべきです。どうしても上のような議論をしたい場合、AでなければBという二項対立が成り立たなければなりません。具体的には、Aが「日銀はインフレ策をとるべきだ」でBが「日銀はデフレ策をとるべきだ」、あるいは、Aが「次のアメリカ大統領選では民主党候補が勝つだろう」でBが「次のアメリカ大統領選では共和党候補が勝つだろう」なら上のような討論でも構いません。(厳密にいえば「日銀はインフレでもデフレでもない物価安定策をとるべきだ」や「アメリカ大統領選で民主党共和党以外の候補者が勝つ」場合もありえますが、この程度の極めてまれな例外なら、許容範囲でしょう)

しかし、日本での討論を見ていると、明らかに二項対立でない場合で討論している時が少なくありません。たとえば、Aが「少子化対策により力を入れるべきだ」でBが「高齢者福祉を充実すべきだ」であったりします。これは二項対立ではありません。なぜなら「少子化対策により力を入れ」ながら「高齢者福祉を充実する」ことは可能だからです。どうしてもAに反論したいなら、「少子化対策は現状維持でいい。その労力は高齢者福祉に向けた方がよい」とすべきでしょう。

また、Aが「財政難の日本がオリンピックに莫大な財政を投じるべきでない」で、Bが「スポーツには大金を投じる価値がある」であったりもします。これも二項対立ではありません。なぜなら「オリンピックには莫大な財政を投じない」で「スポーツには大金を投じる」ことは可能だからです。オリンピックはスポーツの一部であり、オリンピックとスポーツは同じではありません。

このように一部のみ否定する、似たようなものを否定する、たとえ話で否定する、などで元の意見が完全に否定されている論理の錯綜は本当に多いです。日本人は十分に注意すべきだとよく思います。