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マニュアル・スカベンジャーを推奨するヒンドゥー僧侶の一例

1950年代頃まで、日本の高学歴の青年たちは難しい哲学の本を肌身離さず持っていたそうです。私の記憶が正しければ、藤子・F・不二雄も、級友たちはみんなそうしていたと書き残していました。「教養本のすすめ その1」からの記事に書いた私のように、哲学書は生涯通じて役立つ教養を与えてくれると多くの青年たちが考えていたからのようです。

死体の前で金を騙される」に書いたように、インド旅行者のバイブル「地球の歩き方インド」では「インドは物質的には貧しいかもしれないが、豊かな精神世界が広がっている」と書かれています。「高野秀行の文才をねたむ」で紹介した「怪魚ウモッカ格闘記」(高野秀行著、集英社文庫)にも、お金や仕事よりも神学の勉強に生きがいを感じるインド人が出てきます。

ヒンドゥー教では、学生期、家住期、林住期、遊行期の四住期があります。このうち林住期と遊行期、つまり四つのうち二つもが俗世から離れて、物質的な豊かさよりも精神的な豊かさを重視しています。

インド人が精神世界を重視する側面があることまで否定しませんが、「インドで人生観が変わった」の経験があるため、どうしてもインドの宗教には胡散臭さを強く感じます。

「13億人のトイレ」(佐藤大介著、角川新書)にも、胡散臭いヒンドゥー教の僧侶が出てきます。村の結婚式や葬式を取り仕切り、著作もあり、テレビにも出演しているらしいババ・カランヨギ・マハラジュという49才の男です。

自宅兼寺院の応接室のテーブルのガラスの下に各国の紙幣があり、「カネは大事ですよ。カネで買える物は人間にとって大切なものが多いのです」と、宗教家なのに最初からカネを肯定したそうです。トイレの本の取材なので、トイレについて聞くと、僧侶は目をつぶって深呼吸してから、自信たっぷりにこう喋りました。

「トイレで排泄物を水に流せば目の前から消えるけれど、それは水を汚し、土を汚すことになります。水洗は便利なシステムかもしれませんが、聖なるものではありません。野外で用を足せば、太陽の暑さによって肥料になり、微生物が分解して姿を消します。しかし、水洗は乾燥できず、いつまでも汚いものとして残るのです」

野外排泄は簡単に覗かれて、強姦の被害にあいやすいため女性に不評で、インド政府は廃止しようとしていますが、それと真逆の意見です。どこの世界でも、宗教家は保守的なようです。著者が「野外排泄は、女性にとって危険ではないですか」と尋ねると、紅茶を運んできた僧侶の妻が「野外だと歩くことで健康になりますよ。1日に何度も行けないので、それがプレッシャーになって、一度で多く出るようになるのです」と、斬新な意見を披露しました。それを満足そうに聞いていた僧侶がさらにつけ加えます。

「体から出たものは、もう体内に戻るものではありません。それらは聖なるものではなく、不浄で衛生的ではないものなのです。ですから、台所や家の近くに置くべきではありません。まして、水の中に置いてもいけません」

つまり、野外排泄で、しかも水洗式でない乾式トイレを設置するのが正しいと主張するのか、と著者が問うと、「その通りです」と僧侶は満足気な笑みを見せました。その僧侶は乾式トイレを勧めていましたが、「不浄なもの」を処理する気持ちは微塵もなさそうでした。そういった作業は、ダリット(不可触民)たちが担うのを当然とする考えがにじみ出ていました。

「彼らが汚く、差別されて然るべき存在というわけではありません。社会がそのように区別していただけで、彼らも喜んでそうした仕事をしていたのです。私のような僧もいれば金持ちもいるのと同じで、そうした仕事をする人がいる、ということです」

そうなると、人間には職業選択の自由がなくなるではないか、という疑問を著者が述べます。僧侶は正面から答えずに、「みんなそれぞれやるべき仕事があり、それに従うべきなのです」という持論を展開しました。

インドでよくある理屈です。「カーストは認めても、差別を認めない」はガンディーも主張したことで、今でもヒンドゥー教徒の大多数はこの見解のようです。しかし、私を含め多くの外国人は、その両立が不可能だと考えています。

この僧侶は「ヒンドゥー教は科学的に証明されたものを教えているので、最も正しいのです」とも語ったそうです。同時に、「逆に最も危ないのはイスラムです。間違っている者は殺せ、というのがその教えなのですから」とも付け加えました。

インドの国旗は、ヒンドゥー教を示すサフラン(オレンジと黄に近い色)、イスラム教を示す緑、シク教などその他の宗教を示す白で構成されています。このような特定の宗教に偏らない「世俗主義」を、この僧侶は堕落したものと考えていたようです。

「黒砂糖を買う人が減って、安い白砂糖がよく売れるようになっても、いずれは健康にいいからと黒砂糖に戻っていきます。それと同じで、トイレも水洗から乾式や野外に戻っていくのです」

そう僧侶が自信たっぷりに述べた後、小用に行きたくなった著者がトイレの場所をたずねると、すぐ隣の部屋を示されました。驚いたことに、そこには水洗トイレがありました。用を済ませてトイレを出ると、僧侶は著者の言いたいことを察し、「どんなものか、使ってみないと分からないでしょう」と無愛想に話したそうです。