未来社会の道しるべ

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「木を見て森を見ず」の失敗

前回の記事の続きです。

「完本福島第一原発メルトダウンまでの五十年」(烏賀陽弘道著、悠人書院)は2021年に発売されていますが、「完本」が前に着かない通常版は2016年に発売されamazonで絶賛されています。

通常版では「テレビ報道のカメラに収録されるために、すでに終わった会議をもう一度繰り返した」と菅直人首相(当時)を徹底して批判しています。この通常版を送ったところ、著者も「びっくりした」ことに、菅直人が著者との対談に応じました。菅元首相を前にすると、「私は決して菅さんを非難するつもりはないのです」と媚びへつらうので、呆れました。「日本人である前に人間である」で書いたような、取材相手に阿諛追従するジャーナリストの典型です。

それにしても、通常版では重箱の隅をつつくようなミスをいくつもあげつらって、菅を罵倒していたのに、菅を非難する意図はないとは、一体どの口が言っているんだ、と思ってしまいます。

この本では、政府の事故調査委員会ではほぼ無視されているECCS(緊急炉心冷却装置)とPBS(プラント事故挙動データシステム)に執着しています。ECCSについては前回の記事で論じました。

PBSSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)の補助として使われる原発事故予想ソフトです。SPEEDIは、現実の原発事故時の電源喪失により計器類が作動しなくなったため使用できませんでした。もしもの原発事故のために莫大な税金を投入してSPEEDIを作り上げたのに、肝心の原発事故の時に役立たずになるとは論外、と非難が殺到して、事故後、SPEEDIは使用しないことになり、当然、予算投入もしないことになりました。

一方、PBS電源喪失により計器類が作動しなくなっても、リアルタイムのデータがなくても、使用できます。まさにPBSSPEEDIが使えない時のためにあるシステムだったのに、原発事故では活用された形跡がない、PBSさえ活用すれば、住民の被爆は阻止できた、と2016年の通常版では、鬼の首をとったかのように著者は批判していました。

通常版出版後、著者は原子力安全・保安院の平岡次長(当時)とも2016年に3回対談できています。そこで、見事に著者は平岡に論破されています。

事実として、PBSは2011年の原発事故時に使われています。しかし、SPEEDIですら原発事故前から、それほど正確な予想ができないと事故訓練で分かっていました。リアルタイムのデータを利用しないPBSはリアルタイムのデータを利用するSPEEDIより、さらに不正確になります。PBSは3月11日の夕方に一度2号機の事故進展予想として使われていたものの、「参考程度」と平岡次長より示され、住民避難には使用されていません。なぜなら、PBSが22時50分炉心露出、23時50分燃料被膜管破損、24時50分燃料溶解とキレイに一時間ごとに進展していくと予想していたりするからです。正確に1時間ごとに事故が進展するわけがないことは素人でも分かるのに、平岡に指摘されるまで著者は気づかず、「(100億円もかけた)PBSの予想を参考程度と平岡次長が報告したので、政府首脳部もPBSの予想を重視しなかった」と通常版では平岡を罵倒していました。

著者の愚かさがよく分かるのが、なぜPBSを二号機だけに使ったのかと疑問に思っていることです。理由は単純で、3月11日の夕方から深夜にかけては、2号機が最も深刻だと考えられていたので、PBSで2号機の事故の進展を予想したのです。

PBSに執着する著者は菅に取材したときもPBSの結果を見せますが、「これは2号機の予想だよ」と菅に言われると、「そうです。2号機なんです。それが謎なんです。なぜ1号機、3号機がないのか分からない」と間抜けな返答をしています。それについて菅は「(実際は1号の方が危険だったが)きっと当時は2号が危ないと思ったのでしょう」と正解を言っています。

呆れ果てるのは、平岡との対談でPBSを2号機のみに使った理由を正しく指摘された後に、「菅総理の記憶は1号機と2号機を混同している」というタイトルまでつけて、菅のせいにしていることです。混乱しているのは著者であって、菅ではありません。著者は思考力の低いバカであるだけでなく、自分のミスを他人になすりつけるので、人間性にも問題があります。

情けないのは、著者が「日本では原発事故は起きないことになっていたので、それに対する準備もしなくてよくなった」と2016年発売の通常版では何度も主張していたのに、2021年発売の完本の結論で「ここで断言するが『日本では原発のシビア・アクシデントは起きないことになっていたので、それに対する準備もなかった』という俗説は虚偽である」とまで書いていることです。原発事故が起きないとの「原発神話」が日本を覆っていたため、原発事故の準備がろくにされていなかった側面は、多くの人が指摘しています。その弊害は「福島原発事故現場職員の被害者意識」で私も書いた通りです。それが「虚偽」だと「断言」までするのは、どう考えても行き過ぎです。第二次大戦時、「ニミッツマッカーサー、出てくりゃ、地獄に逆落とし」と罵倒していたのに、敗戦後にはマッカーサーを神のように崇めた日本人たちを思い出してしまいます。

ところで、原発事故のように「日本人は、一人ひとりは心優しく、善意にあふれた礼儀正しい人ばかりなのに、集団になると発狂したようなことをする」のはなぜか、と著者は根源的な問いを提示しています。そして、日本組織の「分業」が生む悪弊が原因と考えます。

「日本政府は巨大な官僚制度の迷宮」なので、原発事故に限らず、政府を取材するとき、ジャーナリストがまず調べなくてはならないのは「何省の何課が担当部署なのか」を見つけることです。著者のように35年も記者をしていると、「省庁にたらい回しされること」は「仕事のうち」になって驚かなくなるようです。

「私たちが政府の仕事と認識しているものは、数えきれないほどの無数の『専門』『担当』に細分化され、分業化されている。そして、横の連絡がほとんどない。『担当』が違うと、隣の省庁、いや下手をすると『隣の課』がなにをしているのか、お互いに知らない。分業という名の無数の『タコツボ』の集合体が日本の国家官僚システムである」

これは日本の組織の弊害の本質を突いているでしょう。その分野だけなら、完璧な正解ですが、全体として見たら、大失敗ということはよくあります。医療現場でいえば、専門医がよくやる失敗です。

日本人が陥りやすい間違った討論法」でも書いたように、二つ以上の問題を同時に真偽判定すると、問題がややこしくなります。しかし、現実に社会に存在する問題のほとんどは、医療問題も含めて、二つどころか、複数の問題と相互に関係しています。

たとえば、「この程度の骨折なら人工関節置換術をすべきである」「患者は手術を希望していない」「患者の金銭管理をしている息子は手術を希望している」「患者の生活能力は著しく低下しており、高齢なので、たとえ手術しても、歩行可能になる期間はわずかである」などの問題が同時に存在するのが、普通です。これの最適解は「場合による」としか言いようがありません。にもかかわらず、多くの日本の整形外科は外国と比較すると「この程度の骨折なら人工関節置換術をすべきである」に注目しすぎ、その他の要因を忘れて、非効率な医療費と医療労力が使われています。

いわゆる「木を見て森を見ず」の失敗は、日本で極めて多く、かつ失敗の度合いもひどい場合があります。特に2011年の原発事故では頻出します。本来であれば、専門化あるいは細分化されても、全ての関係者が全体像を掴むようにするべきです。

このように著者は日本の官僚機構の弊害を見事に指摘しています。

しかし、なにをトチ狂ったのか、原子力安全委員長の班目春樹東大工学部教授が、法律に従って菅主張に助言を与えたことを著者は批判しています。班目は原発が正常に作動している状態での専門家であり、事故を起こした原発の専門家ではない、という理由からです。「当時の政府・官僚は原子力工学原発事故防災が全く別ジャンルであることを知らなかったし、理解していなかった」「目の前でビルが燃えているのに、そのビルを設計した建築家を連れてきて『どうすればいいでしょう』とアドバイスを求めるようなものだ。だから、班目委員長の対応や応答は終始ちぐはぐなのである」と著者は批判しています。

著者はどこまでバカなのでしょうか。自身で到達した論理すら一貫していません。班目は原子力安全委員長なので、「私は事故時の責任者ではありません」「対応できません」と言うことは許されない地位です。この理屈なら、大地震発生時に緊急災害対策本部の部長が首相になっているのに、首相が「私は地震の専門家ではありません」「対応できません」と言っていいことになります。

本によると、班目より「原発事故」に詳しい専門家たちがいたようで、確かにその人たちも呼ぶべきだったかもしれませんが、だかといって原子力安全委員長の班目は「専門家ではないので、よく分からない」と口が裂けても言えないはずですし、事実、言っていません。

むしろ、原発事故の詳細な知識を原子力安全委員長である班目に事故前から十分に持たせておくことこそ、重要だったはずです。班目に限らず、寺坂保安院院長や平岡保安院はもちろん、末端の原発の現場職員にも、事故時に全体を見渡せる能力を持たせておくべきでした。「確かに、ここは修理すべきだけど、この根本問題が解決しないのなら、無意味だ」などは全職員が知っていないと、事故時に、その知識の周知で無駄な時間が発生するからです。

この本の帯には「たった一人の事故調査委員会」と著者は誇らしく書いています。しかし、「たった一人のプライドだけは高いバカ」である点は注意すべきでしょう。この本を読んで、「しょせん、たった一人の素人の自己調査委員会は、専門家の一言であっさり論破される。やっぱり素人は原発事故など調べようがない」と思う人が出てこないか心配です。前回の記事にも書いたように、原発事故についてはまだまだ調査不十分なところがあります。そこから将来の日本人が得られる教訓は、いくつもあるので、この本の著者のように意気消沈せずに、素人でも原発事故について調べるべきです。