未来社会の道しるべ

新しい社会を切り開く視点の提供

恵まれた難民たち

前回の記事の続きです。情報源は「アフリカの難民キャンプで暮らす」(小股直彦著、こぶな書店)になります。

難民「なあ、俺って、リベリアに帰った方がいいのかな?」

著者「帰りたいのか?」

難民「いや、そうじゃないけど……。でも、UNHCRやガーナ政府はそうした方がいいって言うから……。どう思う?」

著者が調査中、何度もリベリア難民と交わした会話です。

2003年にリベリア内戦が終結した後、ブジュブラムの住民はUNHCRとガーナ政府の双方から本国に帰還することを強く推奨されました。UNHCRは2004年から2007年に大規模な「リベリア難民本国帰還推進プロジェクト」を実施し、難民たちにあの手この手で帰国を促しました。しかし、盛大なキャンペーンのかいなく、2004年当時のブジュブラムの人口4万人のうち、2007年までに帰国したのは1万人程度でした。

大々的な帰国プロジェクトが失敗に終わったUNHCRはガーナ定住に焦点を定めますが、ガーナ政府は難色を示します。リベリア難民に対する人道支援の「おこぼれ」はもはや期待できないとガーナ政府は理解していたからです。「UNHCRが提案してきたガーナ定住案は難民の『押し売り』だ」と厳しく批判します。ガーナ難民局とUNHCRは2007年に何度も会合を持ちましたが、議論は平行線をたどりました。

その最中、前回の記事で書いた2008年2月から3月のブジュブラムでのガーナ定住政策反対デモが発生します。これに憤慨したガーナ政府は、デモに参加した難民を逮捕勾留しただけでなく、ガーナに滞在する全てのリベリア難民に対して国外退去を命じます。ガーナの内務大臣は「恩知らずのリベリア難民は即刻リベリアに帰れ」と吠えて、同時に「近日中にブジュブラムキャンプを閉鎖する。それでも帰国しない難民たちは、国内に別の収容施設を設けて、そこで管理する」と声明を発します(結局、このブジュブラムキャンプ閉鎖は実施されませんでした)。

ブジュブラムキャンプを持て余していたUNHCRも、この流れに便乗します。2007年に終了したばかりの本国帰還推進プロジェクトを再開し、本来300ドル程度かかる送迎サービスを無料支援し、追加で一人あたり100ドルの給付(それまでのプロジェクトでは5ドル)を約束し、再三にわたってリベリア難民たちに帰国を促しました。

上記の本に、難民キャンプで結婚し、6才の子どもがいる三十代半ばの夫婦の話があります。この本国帰還キャンペーンに妻は乗り気でした。しかし、普段は妻の言いなりの夫が「今回の本国帰還キャンペーン終了後、残った難民には先進国移住の機会が与えられるかもしれないって話もあるんだ」と言って、反対したのです。現在は「難民」という被害者だから先進国に行ける機会があるが、リベリアに帰国して難民でなくなると、その機会が消滅すると夫は考えていたのです。この反論に妻が激怒します。

「あなた! まだそんな夢みたいなこと言っているの! 先進国移住なんて可能性はないってUNHCRもはっきり言っているわ! 私たちはガーナ人じゃないんだから、何年もこの国にいること自体がおかしいのよ! かりに苦しむとしても、私は自分の国で苦しむ方がまだ納得がいくわ!」

もともと、ブジュブラムのあるゴモア地区は、ガーナでも最も貧しい所でした。そのため、難民キャンプ設立により、人口は一気に増え、国際支援の波及効果にもあずかり、当初、ガーナ人はキャンプ難民たちと極めて友好な関係を築いていました。難民キャンプ設立以前は皆無であった学校や水道が設置され、地元民にも開放されました。キャンプ周辺の地価が高騰し、その恩恵を享受した地主は枚挙にいとまがないそうです。

しかし、難民の滞在が長期化し、1990年代後半から国連からの経済支援が削減されるにしたがい、現地住民の難民に対する寛大さもしぼんできて、2000年代半ばになると、「難民キャンプの経済事情」に書いたような両者間の暴力事件も散見されるようになります。

もちろん、母国に帰ったら、殺される可能性のあるリベリア難民もブジュブラムにはいます。その代表がGAPにいる元兵士たちです。しかし、それは母国で残虐行為をしたからで自業自得です。さっさと帰国して、罪を償うべきであり、そんな理由での帰国拒否は認められません。

難しいのは、リベリアで殺されそうになって、あるいは親戚が虐殺されたのを目の前で見て、精神的な理由で帰国できないと主張する難民でしょう。精神科医が診断すればいいと考えるかもしれませんが、精神科医は警察のような捜査権はないので、患者の主張が事実かどうかの裏付けはとれません。結局、本人の主張だけでPTSDかどうかの診断が決まり、帰国できる人とそうでない人が分かれてしまいがちです。客観性が乏しいので、これも認めにくくなります。

52才の戦争未亡人、ナンシーの話が本に載っています。夫はリベリア元大統領の縁戚にあたり、政府の要職にも就いていたため、内戦中は真っ先に反乱軍の兵士の標的となりました。目の前で夫と三才に満たない末っ子を惨殺されたナンシーは、反政府軍の兵士たちに輪姦され、生き残った長女だけを連れてリベリアを脱出しました。

「こうして文章にするとわずか数行に収まってしまうが、私は、ナンシーが途切れ途切れに語った仔細を、ここに書くことはできない。反政府軍の兵士が、彼女の家族に対していかに残虐な行為をはたらいたか。それはまさに酸鼻を極める内容で、『人間が果たしてそこまで人に対して残忍になれるものなのか』と私は言葉を失った」

そう著者は書いています。著者はその悲劇を聞いた直後にもかかわらず、不用意に「リベリアに帰還する予定はないのですか?」と尋ねました。ナンシーの表情は見る見る暗くなり、静かだが断固とした口調で、「私は何があってもあの国には帰らない」と答えました。

「私の夫と子どもを殺した奴らは今、リベリアの軍隊や警察で働いているのよ。リベリアは小さな国だから、私たちが帰国したらすぐに連中の耳に入る。あいつらは絶対に娘と私を狩りにくるわ」

インタビューが終わりに近づく頃、ナンシーが突然「しゃっくり」のような症状を見せ、「ヒック、ヒック」としばらく発せられた後、「ウアー!」と絶叫しました。彼女は椅子から床に倒れ込み、「長年、身体の奥に無理矢理閉じ込められていた膨大な量の悲しみが、堰を切って噴出したような、凄まじい泣き方」をしました。

ナンシーが号泣した夜、著者は「もっと慎重に質問するべきだった」「難民たちの持つ過去の強烈な経験も聞き慣れてしまっていた」などと反省したようです。

しかし、これを読んでも、「ここまで苦しんだナンシーには先進国移住させて、恵まれた福祉を与えるべきだ」と私は確信できません。

リベリア内戦の前、大統領の縁戚として、ナンシーはこの上なく恵まれた生活をしていた可能性が高いでしょう。その恵まれた生活は、大多数の恵まれない生活を送る庶民を搾取することで実現できていた側面はあるはずです。それをナンシーも自覚しているからこそ、平和になったはずのリベリアでも帰国したくない、と言っているのかもしれません。

こういった事情を全て考慮すると、2003年の停戦合意ができた時点で、リベリア難民は帰国すべき、と国連やガーナ政府が判断したのは妥当と考えます。

UNHCRのベテランのガーナ人スタッフは「水道やトイレを有料にしてから、難民に経済な自立精神が芽生え、援助に頼らず、自活していこうと大きなインセンティブになった」と誇らしげに語ったそうです。しかし、著者の知る限り、これら生存に必要な基本サービスの有料化の評判は難民の間で最悪でした。

この問題も全体として考えれば、難民が不平を言う資格はないでしょう。どんな高福祉国家であっても、水やトイレは有料です。自己負担無料の国はありますが、税金かなにかで負担しているだけで、本質的に無料なわけがありません。

2009年にUNHCRはリベリア難民の希望者に電気工事、石工、左官、縫製、コンピュータ、理容業などの分野で6ヶ月にわたる職業訓練プログラムを提供したそうです。しかし、訓練を受けた多くの人はその職業技術を活かせる仕事に就けませんでした。リベリア人がガーナで働くことは、制度の面でも、言語の面でも、金銭の面でも(開業資金を借りられないなど)、難しいからです。受講したリベリア難民は「トレーニングは受けたが、経済的に力がついたわけではない」と不平を言っており、著者は「訓練プログラムの根本的な弱点」を指摘している、と書いています。

しかし、それも全体として見れば、国際支援で職業訓練を受けられた難民たちに、不平を言う資格は一切ないでしょう。著者は「ガーナ」では職業技術を活かした仕事を得られないと批判していますが、UNHCRとしてはその職業技術を「リベリア」での仕事に活かしてほしいと考えていたはずです。著者の批判は的外れとしか思えません。

問題の本質として、ブジュブラムのリベリア人難民キャンプが、母国リベリアより豊かになってしまったことがあります。つまり、国際援助が過剰だったのです。難民キャンプが母国より豊かなら、難民が母国に帰りたがらないのは必然です。このブジュブラムの反省は、国際社会やUNHCRが記録し、広報すべきでしょう。

2008年4月から2009年4月まで続いたUNHCRのキャンペーンでも、帰国したブジュブラムの難民はキャンプ人口の4割の1万人です。ガーナ政府から「恩知らず」と罵倒され、「キャンプを閉鎖する」と脅されて、帰国の交通費に追加して300ドル与えると言われても、過半数は母国よりも難民キャンプを選んだのです。

次の記事に続きます。