未来社会の道しるべ

新しい社会を切り開く視点の提供

京アニ放火事件の死者数はなぜ明治以後最悪になったのか

タイトルの答えは簡単で、放火だったからです。

私の小学校の先生がこんな話をしていた記憶があります。

地震も、火災さえ起きなければ、そう怖くはない」※

日本史上最大の死者数を出したのは1923年の関東大震災で、約10万人です。死因の9割は津波や建物崩壊ではなく、火災です。関東大震災より40倍もエネルギーの大きい2011年の東日本大震災は、約2万しか死者が出ていません。死因の9割は津波で、火災による死者は1%程度です。単純な比較はできませんが、関東大震災の教訓から、地震による火災予防がされていたため、関東大震災の5分の1の死者数で済んだ側面はあったはずです。

被災者数では関東大震災に匹敵すると思われる1995年の阪神淡路大震災の死者数は約6千人です。関東大震災より桁外れに低く済んだ原因は、火災が小規模に抑えられたことも大きいでしょう。

火災犯罪だと死者数が多くなるのは、36名殺人の京アニ放火事件に限りません。戦後最悪の火災死者数118人を出した1972年の千日デパート火災の原因は、電気工事関係者のタバコの不始末だったとの説が最有力です。刑事裁判では「原因不明」として不起訴になりましたが、もし起訴されていたら、当事者は京アニ放火事件の3倍もの死者を出した凶悪犯人として、間違いなく死刑になっていたでしょう。

他にも、2001年の歌舞伎町雑居ビル火災は44人が死亡し、犯人は特定できませんでしたが、放火説が最有力です。また、2021年の大阪精神科クリニック放火事件は犯人を含む死者数が27で、京アニ放火事件に次いで戦後2番目に死者数の多い犯罪となりました。

相模原障害者施設殺傷事件の原因は謎のまま終わるのか」の記事で、「19人と数において戦後最悪の殺人事件」と私は書いていますが、これは間違いです。書いている途中で、京アニ放火事件の死者数が多いことに私は気づきましたが、放火事件は「死者数が極端に多くなる」特殊な例であるとして、無視することにしました。なお、相模原障害者施設殺傷事件以前に、日本で死者数が最も多い刑事事件は、2008年に16人の死者を出した大阪個室ビデオ店放火事件で、やはり放火になります。

「最も重い罪は、放火罪だ。殺人より重い。放火は無差別に人を殺すから、絶対にしてはいけない」

これも私の小学校の先生の言葉です。実際のところ、日本の刑法で最も重い罪は外患誘致罪なので、間違いでした。ただし、放火が多数の命を簡単に奪いやすいことは事実です。「放火は無差別に人を殺すから、絶対にしてはいけない」は間違いではなかったと思います。

さらに書きます。言うまでもありませんが、火災とは比較にならないほどの大量殺人になる事件は戦争です。通常、戦争は犯罪になりませんが、普遍的価値観からすれば、人による最も恐ろしい犯罪です。また、火災と同等かそれ以上に殺人者数が多くなるのが、貰い子殺人事件です。1948年に発覚した寿産院事件は、警察調査で死者84人(起訴されたのは27名)と、京アニ放火事件の2倍以上です。1913年の愛知貰い子殺人事件では、200~300人もの幼児が殺害されています。貰い子殺人事件も、比較対象外としていました。

 

※日本の歴史上で3番目に死者数が多い地震は、1896年の明治三陸地震で、東日本大震災同様に約2万人と見積もられ、死因のほとんどは津波と推定されています。これからすれば「地震も、火災さえ起きなければ、そう怖くはない」は津波を無視しているので、間違っているとは思います。

「大地震連鎖と富士山大噴火」と「国債デフォルト」よりも被害が明らかに大きくなる日本のリスク

前回の記事の続きです。

「大地震の連鎖と富士山大噴火」と「国債デフォルト」の被害規模の比較は難しいですが、それ以上に悲惨な状況になる危機を今現在の日本が抱えていることを知っているでしょうか。この問いに日本人の多くが即答できないのなら、それは日本の教育やマスコミの失敗ではないでしょうか。

もちろん、答えは原子力発電所の壊滅的メルトダウンです。

東日本大震災の「最悪のシナリオ」は次のようなものでした。福島第一原発で「全職員が避難する」(「『東京電力全面撤退は誤報である』は誤報である」に書いたようにこれは誤解があります)ほどの状況になれば、当然なら福島第二原発の職員も避難せざるを得ないので、福島にある10基もの原発には何万年も人類が近づけなくなります。東京都心部を含む半径250㎞では防護服を着ないといけないので、事実上、まともな生活はできません。福島原発からそう遠くない、茨城県の東海、東海第二の2基の原発宮城県の女川の3基の原発、さらには新潟県柏崎刈羽の7基の原発も放棄することになるでしょう。柏崎刈羽の7基の原発放棄は、滋賀県の2基の原発放棄にもつながり、福井県若狭湾に集中する13器の原発も放棄することになります。そうなると、常識的に考えて、静岡県にある浜岡の5基の原発も放棄せざるを得ません。つまり、東北地方のほとんど、関東地方、関西地方、近畿地方が全滅し、1万年以上、人が住めなくなります。さらに悪い想定、たとえば日本全ての原発メルトダウンすれば、北海道の一部と沖縄くらいしか、日本人の移住区域は残されません。

繰り返しますが、北海道と西日本だけで日本人が生きていく可能性は、2011年の福島原発事故当時、吉田所長を含めた現場職員首脳部、菅直人首相も含めた日本政府首脳部が本気で心配していた事態です。かつ、今でも福島原発事故で「そうなる可能性があった」「なぜそうならなかったのか不明」と言われる事態です。

もちろん、メルトダウンが起こる原因は、大地震以外でもありえます。軍事的には、北朝鮮のミサイルが一番ありえるでしょうか。また、中国とアメリカの核戦争が起きれば、普通に考えて中国は日本の原発を核ミサイルで狙うので、すぐに日本が滅亡するに違いありません。誰だって、日本を本気で潰すつもりなら、日本の原発を狙います。

このように、日本中の原発は、大地震群発と富士山大噴火、国債デフォルトをしのぐ、文句なしの日本にとって最大最悪のリスク因子です。

原発を考慮に入れた時点で、日本の安全保障問題を考えるのがバカらしくなるくらい、原発は日本の究極のリスク因子です。「日本の安全保障を議論したいなら、日本の原発を全て廃炉にしてからにしましょう」という意見を誰も言わないことは、私にとって長年の日本の謎の一つです。

なぜ今日起きてもおかしくない国債デフォルトが起きた時の準備をしないのか

2023年12月15日の朝日新聞の記事の抜粋です。

「国会が開いているにもかかわらず、国会審議がいらない予備費で経費をまかなう事例が相次いでいる。政府が2020~21年度に使い道を決めたコロナ予備費約14兆円のうち4割超が国会開会中の決定だった。政府は緊急性を強調するが、決定から1カ月以上も使われなかったものが3分の2を占める。予備費ではなく、審議が必要な補正予算で対応できたとみられ、国会軽視との批判は免れない」

財政が緩みっ放しの日本も、国会で審議されない予算が数兆円も現れており、末期症状が出てきた気がします。とはいえ、日本の財政危機は「末期症状を呈している」「待ったなしだ」「危険水域を越えた」「今日国債デフォルトが起きてもおかしくない」といった切羽詰まった表現を、バブル崩壊から35年間も聞き続けています。私も含めて、ほとんどの日本人はとっくの昔に慣れてしまっているはずです。

前回までの一連の記事にからめていえば、日本の国債デフォルトの警告は、大地震警告と似ているところがあります。「今日、東京に大地震が起きてもおかしくない」ことは誰でも知っていますが、現実に大地震のために東京を今日逃げ出している人はいないように、「今日、国債デフォルトが起きてもおかしくない」ことは誰でも知っていますが、現実に国債デフォルトのために日本円を今日全く持っていない人はいないはずです。

ただし、両者の重要な違いは、大地震が起きた時にどうすべきかについて行政やマスコミで何回も議論され、莫大な予算もかけて準備されているのですが、国債デフォルトが起きた時にどうすべきかについて行政やマスコミで全く議論されておらず、当然、準備も全くされていない点です。

こうなると、国債デフォルトが大地震よりも日本にとって被害が大きくなると断言したくなりますが、必ずしもそうとも言い切れないと考えます。2001年のアルゼンチン、2015年のギリシアなど、国債デフォルトに陥った国は世界史上、何例もありますが、なんだかんだ、そこまでのパニックは生じておらず、だましだまし、経済を回しているからです。

一方、首都直下型地震は、東海地震東南海地震、南海地震を誘発する可能性があり、さらには富士山の大噴火も誘発する可能性があると地震学者たちは大真面目に予測しています。三大都市圏を直撃するような大地震が連鎖し、富士山まで大噴火すると、この世の終わりのようですが、科学的に十分ありえることは教養ある日本人は全員知っています。

「大地震の連鎖と富士山大噴火」と「国債デフォルト」の被害規模の比較は難しいでしょう。

それにしても、「ここまで増えた国債はどうやっても返せるわけがない。だから、国債デフォルトは必ず起こる」「今日、国債デフォルトが起こってもおかしくない」「国債デフォルトが起こったら日本中がパニックになる」ことを日本人の誰もが知っていながら、国債デフォルトが起きた時の準備を国家としてすべき(個人資産の海外持ち出し禁止など)、と提言する日本人はなぜ(私以外に)一人もいないのでしょうか。私にとって、長年の日本の謎の一つです。

なお、日本の国債デフォルト発生前にすべき準備として、私は「日本が国債デフォルトする前に金銭取引を完全公開しておくべき理由」に書いています。

日本の危機に関して言えば、私にとって、長年の日本の謎が他にもあるので、次の記事に書きます。

東日本大震災は誰も予知していなかったのか

2008年の世界金融危機の時、多くの人はこう考えました。

デリバティブなどの訳の分からない金融商品がのさばっていたから、巨大な経済バブルが発生した」

私も、ほぼ同意見です。サブプライムローンという住宅の借金を債権に変えるなど、誰でもおかしいとすぐ分かるのですが、あまりに複雑(≒デリバティブ)にされて、本質が隠されていたのです。

ウォール街の物理学者」(ジェイムズ・オーウェン・ウェザーオール著、早川書房)という本があります。単純にいえば、この本は2008年の世界金融危機の時に複雑化されすぎたデリバティブを生んだ数学者や物理学者批判に対して、100年以上の歴史を振り返り、数学者や物理学者がいかに金融業界に貢献してきたかを示しています。

この本の中で最も興味深かったのは第7章です。株価の暴落、雪崩、てんかん発作、労働者のストライキ地震、銀行の取り付け騒ぎ、政治革命など、多くの臨界現象には共通点があります。全て負荷がかかりつづけた結果として起こりますが、正確にいつ起きるかは誰にも分かりません。上記の中で、雪崩は比較的予測しやすいでしょうが、労働者のストライキは、個別の条件が違いすぎるので、予測は極めて難しいでしょう。それらに共通点もありますが、相違点もあるので、共通の数学で考えるのはどこかに無理があるはずですが、その臨界現象の理論を確立したディディエ・ソネットという物理学者は、1997年のアジア通貨危機を正確に予測し、株の空売りで儲けたそうです。

他にも、2008年の金融危機も正確に予測していた物理学者も紹介されています。つまり、「世の中の多くの数学が金融危機を予測できなかったのは事実だが、数学を駆使して金融危機を正確に予測していた物理学者もいる。だから、数学が悪いわけではない」と言いたいのでしょう。

興味深いのは、上記のソネットが1997年に空売りする前にこう考えていたことです。

「今、アジア通貨危機が起こると言っても誰も信用してくれないだろう。世の中で使われている分析手法では、どこにもおかしな動きはないからだ。しかし、発生後に言っても、やはり誰も信じてくれないだろう。何千人もの学者や投資家が危機を予測していたと言い張るからだ」

そのため、ソネットは株を空売りしただけでなく、アジア通貨危機が起こる予測を(なぜか)特許庁に送って、証拠としたそうです。

これを読んで思ったのは、「地震学をつくった男・大森房吉」(上山明博著、青土社)で、「日本地震学会は東日本大震災を全く予知できなかった」と断定されていることです。本当でしょうか。株価の暴落と同様、東日本大震災が2011年に起こることを予知していた地震学者も少しはいたのではないでしょうか。もし予知していた学者を知っていたら、下のコメント欄に証拠とともに書いてもらえると嬉しいです。

ところで、日本には大地震同様に、近いうちに必ず起こる災害として、国債デフォルトがあります。大地震国債デフォルトには共通点もありますが、重要な相違点もあります。それについて、次の記事で論じます。

地震予測は役に立たない

地震学をつくった男・大森房吉」(上山明博著、青土社)によると、「かつて国民の多くから敬愛され、世界の人びとから『地震学の父』と称揚され、1916年には日本人初のノーベル賞候補となった大森は、1923年の関東大震災を予知できなかったため、『無能な地震学者』と罵られ、その責任と非難を一身に背負ったまま震災から2か月後に急逝した」そうです。

私の知識でも、この文に間違いを指摘できます。wikipediaの「日本人のノーベル賞受賞者」にあるように、1901年の第1回から北里柴三郎野口英世などがノーベル賞候補になっているはずです。本では「大森は世界に誇るべき偉大な地震学者なのか、それとも関東大震災を予知できなかった無能な地震学者だったのか」と両極端な二者択一になっていますが、普通に考えて、その2つの事実を持つ人物との評価が妥当でしょう。それまで音速程度と漠然と考えられていた地震波(P波とS派)の伝達速度を統計的に求めて、初期微動継続時間の長さから震源地までの距離を推測する大森公式は、日本の中学理科の教科書に必ず載っている金字塔です。

生存中の大森は日本だけでなく世界の地震学を牽引していました。1906年4月にサンフランシスコで大地震が起きた後、余震が続き、さらなる大地震の前触れではないかと恐れる地元の人々に対して、「今後2,30年間は激震が起こることはない。今度の震災はペルーおよびチリにあると予想される」と現地調査していた大森が発言しました。地元紙にはその大森発言が大森の写真付きで、大きく報道され、地元民の心の安定に寄与しています。さらに同年8月17日、チリ沖でマグニチュード8.6の大地震が起きて、世界中の人たちが大森の予想が当たったことに度肝を抜かれます。

今では考えられないことですが、当時、地震報道は、大森のいる東大の地震学研究所がマスコミ発表≒公式発表していました。現在のように気象庁(当時は中央気象台)が地震のマスコミ発表するようになったのは、大森の部下にしてライバルの今村が教授を退官した1931年からです。

この今村明恒は、大森の人生の話になると、必ずセットで出てくる人物です。以下、上記の本を読む前に私が把握していた大森と今村のライバル関係について、簡単に記します。

1915年、今のwikipediaにも載っていないマグニチュード6.0の地震が関東で起こり、その後も余震が続き、大地震の前触れではないか、という噂が東京中に沸き起こります。それに対して東大地震助教授の今村が「関東にはいつ大地震がきてもおかしくない。通常は万に一つだが、今回の地震群を考慮すれば、100に一つくらいには注意すべき」と新聞で発表し、教授の大森の逆鱗に触れます。大森は今回の地震群が大地震の前震ではないと断言し、市中の人たちに無用な心配を煽った、と今村を強く叱責したそうです。大森の予想通り、1915年に大地震は起きず、今村は研究室内でも世間からも「大ぼら吹き」の誹りを受けます。今村はいずれ関東に大地震が起きると確信していたので、「自分が死んだ後に関東に大地震があったら、自分の墓標に『関東に大地震あり』と刻んでくれ」との遺言を残していたほどです。しかし、その遺言は実行されませんでした。今村が生きている1923年に、今村の予言通りに関東大震災が発生したからです。

今後数十年間は関東に大地震が起きないと確信していた大森は、関東大震災発生時、オーストラリアの学会に出席していました。東京で大地震が発生したと知り、大慌てで日本に戻り、「今度の震災につき自分は重大な責任を感じている。叱責されても仕方ない」と今村に語り、失意と悔悟のうちに2か月後に亡くなります。大森の後、「関東大震災を予知した天才」である今村が当然のように地震学の教授に就任します。

このような私の知識は、本を読んで、単純すぎることを知りました。1915年の今村の発言も、生涯を通じた大森の発言も、科学的には間違っていません。今村の新聞での発言も、上記の物語では今村に反論した大森の新聞での発言も、関東で大地震がいずれ起こると認め、そのための準備が必要と当たり前のことを述べている点で一致しています。両者が論争していたとは、新聞を読むだけではまず分かりません。おそらく、当時の東京の大衆も、東大地震学の教授と助教授が論争しているとは知らなかったはずです。1915年に大地震が起こらなかったので、地震学会という小さい世界では、今村が大ぼら吹きと批判されたでしょうが、一般大衆は今村の予想がはずれたとは考えなかったはずです。今村は100に1で大地震が起こると言っているので、100に99の大地震なしの方になったのなら、むしろ当たっているからです。さらに、大森が関東大震災を予知できなかったとの通説も間違っている、と上記の本は強調しています。大森は関東大震災の直前に、発生時期はともかく、関東での大地震を予想していた証拠を、その証拠を見つけた経緯と労力まで示して、詳述しています。実際に読めば明らかなのですが、この本は「大森は関東大震災を予想していた」「大森は無能でない」ことを証明するためだけに書かれたようなものです。

また、大森も今村も大地震が発生する正確な年月日までは予知できない、という点でも一致していました。

関東大震災の正確な発生日まで予知できなかったのは当然でしょう。現在の科学でさえ、予知できていません。

大森時代を含めて、世界で初めての地震学会設立以来、日本は地震学を先導してきました。地震の前兆現象をとらえるために全地球衛生測位システム(GNSS)や地殻岩石歪計(strainmeter)など、さまざまな計測機器を日本列島全域に設置して、世界に他に例のないほどの地震観測システムの構築を行っています。

国土地理院によるGEONET防災科学技術研究所によるHi-net、総理府地震調査研究推進本部によるKik-netなど、さまざまな機関で毎年およそ100億円を上回る予算が割かれ、2011年までに3千億円以上の巨費を投じています。全ては地震予知と防災対策のためです。

しかし、日本の観測史上最大のマグニチュード9.0の東日本大震災を、日本の地震学者たちは予知できませんでした。地震学者が想定していた前兆すべりなどのプレート境界面で起こる顕著な前兆現象を、上記の世界最高の観測網がなに一つとらえられなかったからです。

本によると、2012年9月25日のイタリアの裁判が、日本の地震学者たちに大震災に匹敵するほどの衝撃を与えています。2009年に起きたイタリアの群発地震が起きている際、十分な検討をすることもなく、必要な警報を出すことを怠ったために309人が死亡し、6万人以上もの被災者を出した罪で、イタリア地震委員会の7人全員に禁固6年の有罪判決が下ったのです(二審で、証拠不十分として6人に無罪、1人に執行猶予つき禁固2年の有罪判決となる)。

その判決から1か月もしない2012年10月17日、日本地震学会会長は「地震予知は困難」と公式に発表します。「地震予知を行うことを前提に永年にわたって潤沢な研究予算を得てきた当の地震学者が、地震予知の可能性をみずから否定することは、科学者としての責任を放棄し、国民の期待を裏切ることに他ならない」と本は書いています。

地震学会はその後、「地震予知決定論的予知)」という言葉は使わず、「地震予測(確率論的予測)」のみ使っているそうです。

私も、その地震学会の見解に同意します。地震が正確にいつ起こるかは予想が極めて難しい(不可能とまでは断定しません)が、確率的には予想できるのでしょう。つまり、大森と今村の地震論争の時代と、そう変わっていません。

確率的な地震予測くらいなら、莫大な予算を使わなくても、難しい学問を習得しなくても、簡単にできます。地震が頻発する日本で、大地震が発生する確率が高いのは、プレートテクトニクス学説のない大森・今村時代から、日本人なら誰でも分かっていました。学者たちが考えに考え抜いて、30年以内に90%の確率で大地震が起きると言っても、あまりに期間が長いので、実生活ではほとんど役に立ちません。有用であるためには、せめて1年以内にすべきです。しかし、東日本大震災ほどの大地震すら、日本地震学会は1日前にも予知できませんでした。もちろん、2024年の能登半島地震も、1日前に予知できていません。

それが現在の科学の限界だ、と多くの日本人は知るべきだと考えます。

本には、日本地震学会が2009年に編纂した「地震学の今を問う」にある大木聖子東大地震学研究所の1049人の無作為のインターネット調査を載せています。「あなたが地震研究にもっとも期待することはなんですか」の答えの1位は52.2%「地震予知」で、2位20.8%の「住んでいる地域の被害予想」に大差をつけています。

こんな結果が出る時点で、地震学会の失敗だと考えます。「地震予知は困難」と地震学会が発表したのは、イタリアの有罪判決に影響を受けたにせよ、妥当だったと私は考えます。「地震予知は困難」と一般の周知させることは、地震学会の重要な使命の一つだと考えます。さらにいえば、「現代の科学では、地震予測はほとんど役に立たない。地震予測のための莫大な予算も不要だ」も地震学会が周知させるべきと考えます。

最後に、日本地震学会が「地震予知が困難」と発表する前の民間企業のテレビCMを貼っておきます。

www.youtube.com

東日本大震災は誰も予知していなかったのか」に続きます。

日本で大地震が起こった時に最も心配すべきこと

正月の能登半島地震の報道で、ある弁護士が震災被害の証拠を示すための写真や動画を撮るべきことを言った後、最も被災者に伝えたい内容として、こう述べました。

地震に対する経済的支援は十二分に出ます。日本には災害を救済するための支援制度が数えきれないほどあります。だから、身体と心の健康面を最優先してください」

「ネットや電話連絡がつかない人が多く、安否不明者が多い」との地元だけでいい報道をわざわざ全国に流すことが多い現在、これは将来を見据えた本質を突いた意見だと考えます。

身体はともかく、心の健康面は社会性を含むので、広い意味を持ちます。災害被害に注目しすぎること、被災地復興にこだわりすぎて他地域で生きる手段を考えなくなること、災害で被害者意識を持ちすぎること、その後の生き方について視野を狭くすることなども含むのなら、私も心の健康面を最優先することに賛成です。

私は2つの大学を卒業しています。2つ目の大学の同級生に、私と同様の30代の人が何名かいました。そのうちの一人が福島県出身で、「東日本大震災補助金で大学に通えているので、Aさん(私のこと)のように奨学金借りなくていいんですよね」と言って、驚きました。「震災の被害はどれくらいだったのか」「今は福島に住んでいないのに、なぜもらえるのか」「いくらもらえるのか」「いつまでもらえるのか」などの質問をしようとしましたが、あまりに失礼な質問であり、向こうも明らかに答えたがらなかったので、詳しいことはなにも分かりませんでした。

2011年の東日本大震災は、2万人以上の死者が出て、被害額で日本史上最悪だったと内閣府が発表しています。それほどの大震災でも、「そこまでもらっていいのか」と受け取る側が思うほどに補助金が出たことは、私の経験した上記の一例以外でも、知っています。もちろん、補助金が不十分だったと憤慨している人が多くいることも知っています。

2024年の能登半島地震の被災者総数は、東日本大震災と比べて、桁外れに小さいです。この程度の被害者数であれば、上記の弁護士が言うように「経済的支援が十二分に出る」のは間違いありません。そのことを多くの国民が知るべきで、「能登半島地震被害よりもお金を回すべき問題が日本に山積している」こともマスコミは報道すべきです。

こんなことを私が書きたくなったのは、1月4日と5日の私の仕事経験からです。私は病院に勤務する医療従事者なのですが、外来患者は誰も、能登半島地震の話題など触れませんでした。自分のことで精一杯だからでしょう。唯一の例外が、患者として外来通院している60代の医師でした。

地震の報道を観ると、私の病気のことなど小さい問題だと思えてきますね」

地震の報道を観ると、この程度で日本中が同情してくれるのなら、私の住む地域に地震が起きてほしいと思えてきますね)と返す度胸は私にありませんでした。

地震については、次の「地震予測は役に立たない」でさらに考察します。

全共闘運動が日本会議を生んだ

前回の記事の続きです。

全共闘運動が最も影響を与えたのは、なんと左翼ではなく、右翼との解釈があります。左翼は民衆運動が活発で、右翼は暴力団体運動が活発なのは、西洋でも東洋でも日本でも同じです。しかし、現在、右翼でも日本会議在特会などの、民衆運動団体が多く存在します。この右翼の民衆運動が活発になったのは、1970年前後に全共闘新左翼の民衆運動が社会運動にまで発展してからのようです。この時代、左翼の存在感の大きさに右翼は危機感を持ちました。右翼≒黒い街宣車で大音量≒反社会勢力と連想されるようでは、民衆の支持は得られないと考えたのです。

以後、左翼をまねて、右翼の民衆運動が活発化し、ついに日本会議は「陰で日本を操る宗教カルト集団」と海外メディアで紹介される勢力にまでなりました。

この辺り、大正時代の護憲運動などの民衆社会運動に右翼の北一輝大川周明が影響を受けて、昭和初期の一般人や若手将校による暗殺多発の思想的背景につながったことと似ている気がします。

もし全共闘運動が日本会議につながっているのなら、「全共闘運動はムダだった」では済みません。悪い影響を与えたことになり、ムダよりもひどいからです。

そうであるなら、ますます全共闘世代、つまり団塊世代が莫大な借金を残して死ぬ、いわゆる逃げ切りは許されなくなります。

空想内全共闘の終わり

前回の記事の続きです。

私が大学時代、新左翼運動に参加しなかった最大の理由は、インターネットの炎上です。大学時代に、新左翼についてのHPを立ち上げ、ネット上で議論したら、ものの見事に炎上したのです(当時は炎上という言葉もなかったですが)。議論は建設的でも生産的でも全くなく、批判すること、論破することが目的となってしまいました。私は精神が疲弊して、すぐにHPを閉鎖しました。「話し合いで物事は解決しない」とは、高校時代の先生や親との話し合いで、嫌というほど知っていたはずなのに、またも同じ失敗をして、深く後悔し、反省しました。全共闘も、こんな議論で失敗したのだろう、とも思い至りました。

私が新左翼運動に参加しなかったもう一つの理由は、オウム真理教の失敗にあります。オウム真理教によるサリン事件後、オウムに一流大学の真面目な学生が多く加入して、過激化していったことから、新左翼連合赤軍事件との類似性が指摘されていました。知性の高い若者が社会の弊害に気づくのは古今東西同じでしょう。その現状打破の熱意の受け皿として、高度経済成長期には新左翼がありましたが、連合赤軍の失敗により、新左翼は受け皿として不適切となりました。代わりに受け皿の一つになったのが、オウム真理教を代表とする新興宗教だったようです。

私がオウム真理教やその他の宗教に惹かれたことはほぼないのですが、そういった時代の流れがあることは知っていました。新興宗教よりも前の新左翼に加わっても、時代に置いていかれるだけなのは明らかなので、参加する気にはなれなかったのです。

とどのつまり、私は全共闘運動に全く参加できないまま、2年ほど、調べに調べただけで終わりました。当初は全共闘への期待しかなかったものの、成功も失敗も経験せずに、勝手に失望して、頭の中だけで終わりました。終わった後、「どうせ日本はダメだ」「どうせ自分もダメだ」という虚無感が強くなったのは間違いありません。憧れの西洋に行ってもダメという気持ちも強くなりました。

もし全共闘時代に私が大学生だったら、理想主義的な私はやはり全共闘に参加していたでしょう。セクトに入っていたかもしれませんし、ノンセクトラディカルとしてセクトに属さない闘士になっていたかもしれません。しかし、意思の弱い私なので、いずれ意義の少ない論争に疲れて、1年もしないうちに活動から降りただろう、と推測します。

全共闘運動が残したものを「全共闘運動が日本会議を生んだ」で論じます。

全共闘とはなんだったのか

前回の記事の続きです。

私の出身大学でも、1990年代後半に、わずかですが、新左翼グループが残っていました。全共闘運動に尋常でない興味を持っていた私は、当然、その新左翼グループに加わることも考えましたが、躊躇していました。

最大の理由はインターネットの炎上ですが、それは「空想内全共闘の終わり」で記します。

もう一つの大きな理由は、やはり共産主義です。ソ連崩壊後に大学に入った私にとって、共産主義は明らかに失敗した過去の思想でした。大学当局や日本政治に反対運動を起こすのは同意できますが、共産主義には同意できませんでした。

計画経済がうまくいかないことは、理論がどうこうよりも、歴史が証明していました。民主集中制が独裁を生むことも、共産国家の秘密主義も、非効率な国営企業や福祉政策も、全て私は反対でした。このブログを読めば分かる通り、大学生くらいから私は「税金のムダ」が口癖で、共産党が福祉重視で、場合によっては自民党以上にバラ巻き政策を提唱することも反対でした。まして、共産党を「日和見」と批判し、日本共産党以上の「左翼」を自称する新左翼に参加する気になれなかったのです。

立花隆は「日本共産党の研究」(立花隆著、講談社文庫)で、戦前の非合法共産党が同士内のリンチ殺人によって自滅したことを、「連合赤軍事件の同士内のリンチ殺人で新左翼運動が自滅していたことと似ている」と書いています。やはり、共産主義は20世紀を大混乱に陥れた非現実主義思想だった側面はあるでしょう。

私が全共闘について調べれば調べるほど、当初の情熱はいつしか冷めて、失望に変わっていきました。

「なぜ全共闘学生はもっと建設的な議論ができなかったのだろう」

「なぜ自分が参加したい学生運動を続けてくれなかったのだろう」

日本に大変革が必要なのは、全共闘時代も今も変わりありません。いえ、公平に考えて、右肩上がりの全共闘時代より、右肩下がりの今の方が大変革の必要性が遥かに高くなっています。その大変革を起こすために、既存政党はあてになりません。まさに、今こそ日本に革命が必要なのに、それを生み出せる意思を最も強く持つ学生たちの社会変革運動が全く盛り上がっていません。

全共闘があれだけ暴れたのに、結局、大学も、日本も、なにも変わらなかったじゃないか」

またも「東大落城」(佐々淳行著、文藝春秋)からの引用です。

東大の安田講堂は1969年の機動隊突入後、しばらく「開かずの間」で、立入禁止でした。ほとぼりが冷め、修理が終わり、ようやく入学式が行われるようになったバブルの絶頂期、あろうことか、ウェディングドレスを着た新入生の女が「東大と結婚します」とテレビのインタビューで答える事件がありました。佐々は20年前の東大紛争で安田講堂に一晩たてこもった女学生を思い出したそうです。長い髪を切り、汚い作業服で、風呂にも入らず、夜通しでおにぎりを作り続けたと述べた女子学生。テレビに映るバカ丸出しの東大生。両者のあまりの違いにショックを受けました。

もう一つ、佐々がショックを受けた事件が記されています。朝まで生テレビという夜通し議論する番組で、元全共闘学生のおじさんたちと、現役大学生のチャラい若者たちが出演していました。元全共闘の闘志たちは年甲斐もなく政治理念を熱っぽく語りますが、若者たちはそれには正面から応えず、女と遊ぶことが大切と述べ、議論は全くかみ合いません。ついに若者たちが「あなたたちが学生運動で失敗したせいで、僕たちが苦労しているんじゃないか。僕たちの批判よりも、自分たちを批判すべきじゃないんですか」と言うに及んで、心の琴線に触れられた元全共闘のおじさんたちは、理性を失くし、泣きそうな顔で、絶叫しはじめます。全共闘学生たちの敵だった佐々ですが、全共闘学生たちとは多く接しており、その気持ちは痛いほど分かったので、見るに堪えられなくなり、テレビを消したそうです。

全共闘運動とはなんだったのか」との問いは、「文化大革命とはなんだったのか」との問いと同じく、得られる教訓はあるように思います。第二次世界大戦中、一億総玉砕してでも守ろうとした「国体護持とはなんだったのか」から得られる教訓とほぼ同じかもしれませんが。

空想内全共闘の終わり」に続きます。

全共闘の思想的敗北

前回の記事の続きです。

全共闘は思想的にも負けていたと私は考えています。当時の大学や自民党に問題が多くあったのは事実です。だから、大学当局や政治に反抗するのは確実に正当性があります。しかし、それにしても「この要求は横暴だ」「その理屈は飛躍しすぎだ」「ベトナムの平和が目的なら、大学で議論しても仕方ない」という点が、全共闘学生運動)側に多すぎでした。

大学当局と全共闘の話し合いも、学生による大学教職員のつるし上げになることが普通でした。あれでは建設的な議論など不可能です。全共闘運動は(よりにもよって文革中の)毛沢東を理想とすることが多かったように、全共闘の思想的敗因は「文化大革命 の思想的敗因と似ているように考えます。

「平和」「学生自治」「議論による解決」などの理念は素晴らしいのですが、個別具体的な話になると、全共闘内でも議論百出で、まとまらないことが多々あり、結局、威勢のいい過激な意見が通ることも少なくありませんでした。

私の個人的な経験から述べます。よど号グループが「そして、最後に確認しよう。我々はあしたのジョーである」という言葉を残したのは、体育会系が思想的に嫌いな私には同意できませんでした。さらに、1990年代の朝日新聞に「全共闘系の学生と、そうでない学生たちは一緒に同窓会を開けなかった」という記事がありましたが、元全共闘学生たちが同窓会を開く時点で、私は失望しました。また、「帝大解体」と学歴社会に反対していたはずなのに、山本義隆含む多くの元東大全共闘の闘士たちが学歴社会を先導している予備校講師になっていたことも違和感がありました。「全共闘白書」(全共闘白書編集委員会編、新潮社)に、元日大全共闘代表の秋田明大はアンケートで全共闘運動を「アホらしい」と書いていますが、私もそれに同意するようになってきました。

一方で、大学当局には優秀な人もいました。特によく挙げられるのは、東大紛争時に東大総長になった加藤一郎です。全共闘側の代表である山本義隆は「知性の反乱」(山本義隆著、前衛社)で加藤の前任の大河内一男はクソミソに批判していますが、加藤は批判していません。

東大安田講堂に攻め込んだ警察官による「東大落城」(佐々淳行著、文藝春秋)からの引用です。

ある時、警察の佐々と加藤が雑談していると、総長に気づいた学生集団が加藤を呼びつけ、議論に加わるよう要求してきます。佐々の制止を無視して、加藤が学生集団の中に入ると、いつものような総長つるし上げが始まります。暴力事件が起こるのではないか、とハラハラしている佐々をよそに、加藤は冷静に理路整然と学生たちの議論に応じます。最後には、やはり、「帰れ! 帰れ!」のシュプレヒコールとともに、加藤が学生集団から追い出され、一人とぼとぼ佐々の元に戻ってきます。佐々が「総長に向かって、帰れ、とは呆れますね」と言うと、加藤はなに食わぬ顔で「いや、あれは最近の学生言葉で、さようなら、という意味なんですよ」と答えたそうです。

加藤は総長に選ばれた理由を問われると、必ず「東大には学部に順番がありまして、法学部が1番なんですよね。前総長が辞職したので、一番の学部である法学部長だった私が総長になったのです」と説明しましたが、100%嘘です。この東大紛争を切り抜けられるのは、加藤しかいない、と誰もが考えたからこそ、加藤を選んでいます。加藤もそれを知らないはずがないのに、死ぬまでとぼけ続けました。

国会開設の詔以後の1880年代の自由民権運動は、実質的に日本政治を変えなかったものの、その後の日本の民主主義に思想的にはつながるところがあります。しかし、全共闘運動は、実質的に日本政治を変えていないのは言うまでもなく、その後の日本の思想にもなんら良い影響を与えていないと断定していいでしょう。その最大の理由は、全共闘の思想が浅はかだったから、質が低かったから、目的のために反抗しているよりも反抗そのものが目的と化したからだと私は考えています。2000年頃に、全共闘側の文書を読めば読むほど、その気持ちは強くなる一方でした。

次の記事で、私が学生運動に加わらなかった理由について述べます。

全共闘はなぜ失敗したのか

前回の記事の続きです。

日大紛争の1968年9月30日は一つの到達点ではありますが、その1ヶ月前くらいから全共闘側の道徳違反が目立ち始めています。私が大学生だった2000年頃に文献だけを頼りにしても、特に全共闘側が我田引水なので、本質がつかみづらかったです。今のwikipediaの「日大紛争」に要点がまとめられていると思います。

当初は民主的な学生運動が正当性を持ち、一般学生や市民からも支持を得ていたのに、そのうち暴力化、セクト化が進み(中核や革マルなどの党派勢力が増してきて)、正当性を失い、一般学生や市民からの指示を失い、学生運動が沈静化していくのが、日大紛争を含めた、当時の大学紛争の流れです。

より大きな視点で考えます。明治時代から、教養ある大学生たちが共産主義に傾倒する流れがありました。特に最も教養ある学生たちが集まる東京大学は「アカの巣窟」とも呼ばれるほど、戦前から学生運動を主導していました。1960年の安保闘争までは、一部例外はあるものの、新左翼反代々木系)も含めて、学生運動は東大主導だったと考えていいでしょう。しかし、60年安保闘争以後は、全国の各大学で学生運動が活発化し、セクト(党派)化も進みました。特にそれが顕著になったのが、1968年と1969年に全盛期を迎える「全共闘時代」で、この頃に学生運動は日本中で盛り上がり、1880年代前半の自由民権運動さながらの社会運動になります。

全共闘は1970年の日米安全保障条約改定時期に全盛期を迎えるはずでした。しかし、1970年に入る頃には、学生運動は一般学生や市民の支持を失いつつあり、警察側は準備万端でした。70年安保闘争は60年安保闘争と比べて小規模の反対運動しか起こせず、条約締結後に内閣が総辞職することもなく、大したニュースにもなりませんでした。

その後も、全共闘運動あるいは学生運動は「沖縄返還」「成田空港の強制建設」などを理由にそれなりに続きますが、1972年の連合赤軍あさま山荘事件で、とどめをされます。あさま山荘事件そのものではなく、その事件直前に山岳キャンプ内での同士内での連続リンチ殺人が明らかになって、左翼も含めた多くの学生と市民の支持を失いました。なんと29名の連合赤軍メンバー中12名もが、仲間内のリンチによって命を落としていたのです。敵は大学当局や保守系政治家だったはずなのに、なぜ同じ志を持った仲間を殺したのか、と多くの人は失望しました。

なお、上にはあさま山荘事件が「とどめ」と書きましたが、新左翼セクト同士の内ゲバは、その後に最悪期を迎えます。だから、1970年代を通じて学生運動はある程度続き、暴力化とセクト化もさらに進み、1990年代に「学生運動」が「学生」から孤立してしまうまで衰退していきます。全共闘の失敗理由は自滅と総括できるかもしれません。

全共闘の思想的敗北」について、次の記事でさらに論じます。

全共闘の熱狂

「日本で理性的な反抗があった」

「不良どもによる道徳にもとる反抗ではない」

「学力の高い一流大学の学生たちが民衆運動として反抗していた時代があった」

私の大学時代の勉強の半分は、全共闘の自己研究に費やされたと言っても過言でないでしょう。とりわけ、東大安田講堂で陥落直前の「解放放送」の次の言葉は脳裏に焼き付きました。

「我々の闘いは勝利だった。全国の学生、市民、労働者の皆さん、我々の闘いは決して終わったのではなく、我々に代わって闘う同志の諸君が、解放講堂から時計台放送を真に再開する日まで、一時この放送を中止します」※

大学図書館で1970年前後の新聞縮刷版を調べてみると、学生運動について載っていない日はありません。大学紛争がなかった大学などないと言ってよく、特に有名大学なら一つの例外なく、学生運動が盛り上がっていました。

特に私の魂を揺さぶったのは、日大闘争です。日大は今も昔も右翼系大学で、古田会頭(学長や理事長ではなく、会頭という特有の役職が日大のトップでした)自らが学生運動を潰して、それを公に自慢する体たらくでした。それに疑問を持った学生たちが右翼学生たちの暴力に抗しながら、1968年9月30日の全学集会(大衆団交)を実現させ、見事、独裁者古田会頭の辞任を引き出しました。しかし、その翌日、当時の佐藤首相が政治介入し、この決定を覆します。絵に書いたような大学自治への政治介入です。

「やっと自分と理念を共有する人たちを見つけた」

「こんな学生運動に参加したかった」

私はそう思いましたが、どうしても次のような疑問が出てきました。

なぜ全共闘運動が失敗したのだろうか

次の記事に続きます。

 

※ 今の私なら、「こんな詩的な言葉はヤラセだろう」とまず考えます。実際、この言葉が録音されたテープを聞いたことは一度もありません。しかし、当時は「安田講堂で解放放送を再開してほしい。いや、なんなら俺が再開してやる」と本気で思っていました。

全共闘という日本の黄金時代

「日本人がデモするなど想像できない」

日本に何年も住んでいる外国人から、こう言われたことが私は一度ならず、あります。日本人は体制に従順で、周りと同じように行動し、ルールはどんな理由があっても守らなければならず、年上や先生や上司への発言は、その内容がなんであれ「口答え」と見なされ道徳的にも許されない、と外国人たちは考えていました。

私も中高生の頃、このような日本に失望、あるいは絶望していました。1990年代当時、日本にも反抗する若者は多くいましたが、倫理観の崩壊した不良(ヤンキー)どもでした。私とは全く合わず、むしろ私が最も嫌う連中です。「良識な大人」が「反抗する若者」を厳しくするのは当然で、むしろ、もっと厳しくするべきだと私は信じていました。「反抗する若者」だが、「反抗する正当な理由がある若者」と私が考えられえる人など、私の周りに、私以外に一人もいませんでした。

それがうぬぼれ、自己満足、自分勝手、自己中心であることは、いくらプライドの高い私でも分かりました。というより、周りから言われ続け、ほぼ強制的に認めさせられました。周りからどんなに批判されても、自分が正しいと思ったことを貫き通すなど、本では理想と推奨されていても、日本では無理でした。少なくとも、能力も意思も伴わない私には無理でした。

だからこそ、全共闘という時代があり、「造反有理(違反をする者には理由がある、という意味の毛沢東の言葉)」「帝大解体」と東京大学の門に大きく書かれていた時代があると知り、私は人生で後にも先にもないほど知的に興奮しました。

全共闘の熱狂」に続きます。

国スポ(国体)を東京に固定する提案

前回の記事の続きです。

オリンピックを東京に固定する提案は、国民スポーツ大会(旧称:国民体育大会)を東京に固定する提案を元にしている気がします。国スポ東京固定案は、20年ほど前から、私も何度も聞いています。

国スポを東京に固定すべき最大の理由は、オリンピックと同じで、開催費用の節約および競技施設の有効利用です。国スポは開催県が毎年違うので、毎年開催県に約200億円もの費用がかかっています。人口100万人未満の県が1億2千万のスポーツ大会の競技場を全て揃えるなど、バカげています。競技数も増え続けているのに、過疎に苦しむ県が、開催後、全ての国スポ競技場の有効利用などできるわけがありません。

もう一つの理由は、開催都道府県の勝利至上主義です。1964年の新潟国体以来、ほぼ毎年、開催県が男女ともに総合優勝しています。なぜなら、地元以外の有力選手を県職員や学校教員、教育委員会職員として開催県が積極採用するからです。国スポなど、テレビや新聞でもろくに取り上げないイベントなのに、こんなくだらない手法で税金が使われて、なんの価値もない総合優勝の獲得にどの開催県も50年以上もこだわっています。

おそらく、多くの人は国スポのこんな問題点に関心がないのではないでしょうか。その最大の理由は、マスコミが見て見ぬ振りをしているから、と推測します。私が上記の問題を知ったのも、出身県で国体が開催されてからです。田舎なのに国体優勝したと聞いて、「ありえない!」と私が感想をもらし、上記のインチキを教えられた、というお決まりのパターンです。インチキを知った全員が「国体は毎年東京ですればいい」の意見で一致しました。

オリンピックを東京に固定する提案は国際的に難しいかもしれませんが、国スポを東京に固定する提案は、日本のマスコミが本気になれば、すぐ実現するのではないでしょうか。

オリンピックを東京に固定する提案

今朝の朝日新聞に「オリンピック開催地を毎回東京にすればいい」との意見が載っていて、「よくぞ言ってくれた」と感心しました。朝日新聞らしくない斬新なアイデアですが、元読売新聞記者で作家の堂場瞬一の意見でした。

この案の最大のメリットは開催費用の節約、および競技施設の有効利用です。現状だと開催地をいつも変えるので、開催のたびに巨大な競技施設を世界中に造っていますが、明らかにムダです。1か所にすれば、この現状のオリンピックの最大の問題点が大幅に改善します。

次のメリットは、堂場の言うように日本の「高校野球の全国大会=甲子園」というイメージが固定しているように、「夏のオリンピック=東京」というイメージが固定し、東京のイメージアップにつながることです。

もう一つのメリットは、日本の「おもてなし」で世界中のスポーツ選手や観客が満足することだ、と堂場は主張しています。

ただし、当然ながら、デメリットはあります。

日本にとって最大のデメリットは、毎回、オリンピック開催費用で莫大な赤字が出ることでしょう。上で経費節約が最大のメリットと書きましたが、それでも、現状のようなオリンピックでは、東京に固定しても、開催するたびに赤字になります。「国際オリンピック委員会や加盟各国からの援助も期待できる」と堂場は楽観的に書いていますが、もし私が加盟各国の代表なら「開催したい都市は他にもある。援助がほしいのなら、援助なしでも開催したい都市にお願いする」と考えます。

まさにこの点について、「オリンピック開催地を東京に固定する」案を日本人全員が考えるべきだと私には思えます。

「オリンピックの開催地は固定すべきだが、それを東京にしたいか」

何%の人がこれに賛同するのか、知りたいです。なお、関西大学の宮本勝浩名誉教授の試算によると、東京オリンピックパラリンピック組織委員会、東京都、国の赤字の合計額は約2兆3713億円です。こちらのHPによると、日本国民は1万375円の負担、東京都民は11万7212円の負担です。

私の意見を述べます。毎回東京開催となれば、上に書いた通り、大規模な新設競技場もほぼなくなり、経費は大幅に節約できるので、赤字1兆2千億円くらいに圧縮できるはずです(あるいは、それくらいのオリンピック規模になるよう交渉すべきです)。オリンピック開催のため、4年間でそれくらいの募金は日本中や世界中から集められる可能性はあると考えるので、毎回、東京開催の案はあっていいと思います。

もちろん、私はオリンピック募金に1円も払うつもりもなく、日本の公金がオリンピックに1円でも費やされるのは大反対ですが、募金でオリンピックが東京で開催されることまで反対するつもりはありません。だから、「もし募金が十分集まらなければ公金が投入される」という条件なら、反対です。「もし募金が十分集まらなければ、その分、規模を縮小する」という条件なら、賛成するかもしれません。

国スポを東京に固定する提案」に続きます。