未来社会の道しるべ

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法曹界への2つの失望

「〇〇の常識は世間の非常識」

自虐表現として、よく用いられる言葉です。医療関係者の私も院長に「病院の常識は世間の非常識」と言ったことがあります。

残念ながら、高い社会道徳が要求される「政治家」にも上記の言葉が使われるのは、周知の通りです。今回注目したいのは「法曹界の常識は世間の非常識」という問題です。

「道徳違反の行為の一部が法律違反になる」という考えがあります。普通に考えて、その通りですし、そうあるべきようにも思います。だから、法曹界の道徳は世間一般の道徳よりも質の高いものであるべきなのですが、そうなっていない実例を「私は真犯人を知っている」(文藝春秋編集部編、文春文庫)から示していきます。

司法試験合格者の中で、最も優秀な者が裁判官になり、次に優秀な者が検察官になり、それ以外が弁護士になる傾向は、このブログを読む方なら知っているでしょう。ごく一部のエリートである司法試験合格者の中でも、さらに優秀な検察官が、ここまで低い道徳観なのか、道徳観以前に常識もないのか、と失望することが「大阪地検特捜部主任検事証拠改ざん事件」でありました。厚労省局長である村木厚子の冤罪事件でもあります。

村木を最初に取り調べた遠藤祐介検事は「私は倉沢さんに会っていません。『凛の会』は知りません」との調書を作成して、村木に確認を求めました。村木は「そこまで断定していません。会っているのに私が忘れてしまっている可能性までは否定していません」と必死に抗議しましたが、遠藤検事は「あなたの記憶についての調書なんですから、これでいいいんです。また思い出したら、その時に別の調書を作りますから」と訂正してくれませんでした。押し切られる形で、村木は調書にサインをしています。

以下、村木の感想です。

「調書の中で一つでも事実に反することが分かれば、私(村木)は嘘をついているという実績が作られてしまいます。罠にはめられているような気がして、弘中弁護士にも相談しました。(略)

弘中先生は『みんなが嘘をついているわけじゃない。検事が自分の好きな調書をまず作ってしまう。そこから交渉が始まるんだ。調書とはそういうものだ』って。

どんなに説明しても、結局検事さんが書きたいことしか書いてもらえない。いくら詳しく喋っても、それが調書になるわけではないんです。話した中から、検事さんが取りたい部分だけがつまみ出されて調書になる。そこから、どれだけ訂正してもらえるかの交渉が始まるんです。なので、いくらやりとりをしても自分が言いたいこととはかけ離れたものにしかなりません。がんばって交渉して、なんとかかんとか『少なくとも嘘はない』というところまで、たどり着く、という感じです。(略)

遠藤検事から『執行猶予がつけば大した罪ではない』と言われた時に、『有罪でも執行猶予なら大したことないなんて、とんでもない』と泣いて抗議しました。その後の取り調べをした國井検事にも同じことを言われました。実は、元検事の弁護士さんからも言われたことがあります」

この部分でも「法曹界の常識は世間の非常識」が如実に現れていますが、まだ続きます。

「遠藤検事の取り調べは10日で終わりました。その最後の日、すでに作ってあった長い否認調書を持ち込んで、私に見せたんですよ。読んでみたら、他人の悪口がいっぱい書いてあるんです。特に上村さんや倉沢さんについて。『10日間、これだけ誠実に取り調べに対応してきたのに、まとめの調書でこれか』と思い、憤慨して『サインできません』と突っ返しました。遠藤検事が『どうしてダメなんですか。立派な否認調書だと思いますよ』と怪訝そうな顔をするので、『私はこんなこと言いましたか。これは、私と全然人格が違う人の調書です』と抗議したんです。そうしたら、遠藤検事はーきっと正直な人なのでしょうー「これは検事の作文です。筆が滑ったことはあるかもしれません」と認め、パソコンに向かって直し始めました。それで、私がとんでもないと思ったところはきれいに消えたんですが、一ヶ所だけ、倉沢さんについて「いい加減」という言葉は残っていました。遠藤検事は『村木さんは1回、こう言ったでしょう?』と、ここだけは譲らない。確かに、倉沢さんは事実と違うことを言われていました。でも、その場面を自分で見ているわけではなく、会った記憶もないので、『倉沢さんがいい加減っていうのは、事実なんだろうか、私の憶測なんだろうか』ってかなり悩みました。結局、その表現は残りましたが……。それで、できあがった調書にサインしようとしたら、遠藤検事はその前に上司のところに見せに行くんですよ。『最初のやつと、だいぶニュアンスが変わっちゃったから』とか言って。ちょっとして、オーケーが出たということで、サインをしましたけれど、これだけ1対1の真剣勝負で作った調書なのに、いちいち上司の決裁を受けなければならないのか、と思いました」

この世間の常識から乖離した遠藤検事は、しかし、村木にとってまだマシな検事でした。次の國井検事は村木にとって「全然気持ちが通じない」「思い込みがとても激しい」「何を考えているのか全然分からない」「話は最後まで全くかみ合わなかった」相手でした。

思い込みの激しさの例として、「キャリアとノンキャリアは常に対立していて、ノンキャリアの人たちは汚い仕事ばかりさせられて、それが嫌でたまらない」「役所は議員案件に弱い」などが挙げられています。後者について、「証明書の類は、民間の人だろうが、議員さんだろうが、やることは同じなんですよ」と村木が説明しても、「そんはずはない」と國井検事は言い張ります。「議員から頼まれたからやるんであって、そうでなければやるはずがない」と國井は本気で述べたそうです。「法務省検察庁では、そういう仕事のやり方をしているのでしょうか」と村木が邪推したのも当然でしょう。

他の思い込みも書かれています。

「議員が紹介してくる団体はろくな所ではないとも思い込みもありました。ろくでもない団体だから議員の紹介が必要、という発想なんです。私の経験だと、それは全くの誤解です。特に、議員が小さい団体を紹介してくる時は、『いいことをやっているけど、公的な応援がなにもなくて苦労しているので、なにか救える制度はないか』という問い合わせが多いんです。民主党市民運動系の人がいるから、そういうことが多かった。でも、いくら説明しても分かってもらえない。押収された私の手帳や業務日誌には、議員からの依頼事項やそれをどう処理したかも全部書いてあるんです。与党の大物議員から『ここに補助金をつけてくれ』と言われて断ったことなんかが、いっぱい書いてあります。なのに、野党の政治家からのお願いを無理してもやらなきゃならないはずがない。普通に考えれば分かりそうなものです。(略)

そんな調子でしたので、國井検事の取り調べは、調書を1本も作ることなく終わりました」

國井検事の独特な(異常な)思考形式の例は他にも書かれています。

國井「上村さんは一生懸命正直に話してくれる。僕は上村さんが嘘をついているとは思えない。上村さんって真面目な人ですよね」

村木「そうですね」

國井「上司から言われてやったことで、彼が追い詰められたら可哀そうですよね」

村木「もしそうだったら、可哀そうですね」

このやりとりの後、國井検事はこんな調書を読み上げました。

「私は今回のことに大変責任を感じております。私の指示がきっかけでこういうことが起こってしまいました。上村さんはとても真面目な人で、自分から悪いことをやるような人ではありません」

当然、村木はびっくりして、サインしませんでした。

國井検事は「真実はなんなのかは結局分からない。いろんな人たちの真実を重ねて、一番たくさん重なり合っている所が真実と決めるしかない」と村木に言ったそうです。國井によると「村木が嘘をついているか、他の人全員が嘘をついているか」なので、上の理論から「村木の言うことが間違っている」が導かれてしまいます。まるで小学生が言うような屁理屈です。もちろん、裁判所はこの國井理論を退けています。

それにしても、いくなんでも、ここまでバカで非常識で道徳観の低い遠藤や國井が日本最難関の資格試験に合格して、その中でもエリートの検事になれたことが不思議でなりません。一体、司法試験とは、なんの目的で、なんの能力を調べるために課されているのでしょうか。

残念ながら、遠藤や國井は村木の冤罪事件を起こした後も、検事を続けられて、現在も公職に就いています。

村木の記述を読むと、法曹界あるいは日本の法体系全体に失望してしまうほど、ひどい検事だと感じます。

村木はこうも書いています。

「事実に反する供述調書(村木に不利な内容)にサインした人たちを恨んだりはしていません。取り調べは、玄人と素人が一緒にリングに上がっているようなもので、調べられる側にとってはあまりに分が悪い戦いなんですね。私自身も、自分にとって不本意な調書にサインしたこともあります。それに、マスコミであれだけの情報を流されれば、事件はそういう構図なのかなと思い込んでしまったり、そういう構図の中で嘘つきと思われたくなったり、という防衛本能はどうしても働くので」

そこまで「分が悪い戦い」であったのに、村木が裁判で戦えたのは「気持ちが折れない」「健康で体力が続く」「いい弁護団に恵まれる」「自分の生活と弁護費用をまかなえる経済力がある」「家族の理解と協力を得られる」という5つの条件が揃ったからだ、と述べています。

「5つの条件が揃う幸運に恵まれないと戦えないんです」とまで村木は書いていますが、そんな5つの条件が揃わないと(検察との刑事裁判に)戦えないのなら、大多数の人は検察とは戦えません。事実、日本の検察は刑事裁判での勝率99%以上なのですから、村木の言う通りなのかもしれません。しかし、刑事裁判は国家の正義が明らかにされる場なのですから、「気持ちの折れやすい人」「病気で体力もない人」「いい弁護団に恵まれない人」「大した貯金のない人」「家族の理解と協力を得られない人」であっても、容疑者に正義があるなら、検察に勝てる制度にすべきことに、誰も異論はないはずです。もし村木の言う通りであるなら、日本の正義に失望せざるを得ません。