前回の記事の続きです。情報源は「アフリカの難民キャンプで暮らす」(小股直彦著、こぶな書店)になります。
「難民キャンプの経済事情」で、難民キャンプ内の多くの職業を書きましたが、これほど多種多様な職業が難民キャンプで存在している例は少数です。特に、現金が全くないと本当に生きていけない難民キャンプはブジュブラムくらいのようです。
「キャンプでは何ひとつタダなものはない!」
ブジュブラムの難民たちから、著者が何度となく聞かされた言葉です。同じく難民たちから数えきれないほど著者にかけられた言葉が「ブジュブラム以外の難民キャンプでも、水やトイレが有料なのか?」という質問です。著者は12のアフリカの難民キャンプを訪れた経験がありますが、水やトイレまで料金を徴収している例はガーナのブジュブラムだけでした。
「難民キャンプでは、衣食住の全てが国際援助により無償で提供されていなければならない」
そんな発想は、当の難民自身を含めて、世界中の多くの人が持っています。確かに、「緊急援助」の段階では概ねその通りに実施されています。しかし、1年、2年と経過すると、国際援助の提供者である先進国の関心が薄れていきます。それにつれて支援の質と量は大幅に鈍化していきます。
「難民キャンプは一時的な避難所」「難民キャンプでの生活が年単位で長期化するのは好ましくない」「援助に慣れてしまえば、人間は堕落する」「難民キャンプの住人と地元民とのトラブルは必発である」「貧しい受入国が隣国の難民たちを養う義務は存在しない」「自国の問題は自国民だけで解決すべきだ」「母国が内戦中であっても、それは母国の責任であって、受入国の責任ではない」「本来なら、隣国への入国を拒否されて当然だった。一時的に違法入国を許可してもらっただけでも受入国に感謝しなければならない」
私のように難民支援について議論したことのある方なら、上記のような理屈は聞いたことがあるはずです。上記の理屈は難民条約に反する可能性もあるので、無条件で正しいとは言えませんが、無条件で間違っているとも言えない実情があります。
著者が調査した2008~2009年のブジュブラムでは、上記の理屈が正しいと国連や国際社会はほぼ断定していました。なぜでしょうか。
ブジュブラムの難民キャンプが発生した原因は、1989年のクリスマスクーデターに端を発するリベリア内戦になります。14年間続いたリベリア内戦で、約30万人の死者を出し、20万人以上が周辺国に難民として流れ込みました。だから、リベリア内戦中であれば、14年間という長期ではあるものの、ブジュブラムのリベリア難民を救う正当性は、とりあえず、ありました。
しかし、2003年に停戦合意が結ばれ、2005年の大統領選挙も一応、平和裏に行われました。2008年は停戦合意から5年後、民主選挙から数えても3年後です。
リベリアに平和が戻ったのですから、リベリア難民がガーナの難民キャンプに住む正当性は原則ありません。
しかも、ブジュブラムの多くのリベリア難民は、国際援助や海外送金により、母国リベリア(2017年の一人あたりGDP約3万円)より豊かなだけでなく、ガーナ(2017年の一人あたりGDP約16万円)よりも豊かな生活を送っている、と思われていました。平均的なガーナ人より豊かかどうかは不明ですが、「難民キャンプの経済事情」で書いたように、「骨折り損のくたびれ儲け」という見出しで、貧しい仕事の代表として書かれていた水販売業でさえ日給300円(年200日勤務なら約6万円)であることを考えると、ブジュブラム難民キャンプは母国リベリアより遥かに豊かだったことは間違いないでしょう。
当然ながら、ガーナ政府はリベリア難民が自国民から雇用を奪うことに強い警戒感を示していました。難民がガーナのキャンプ外で雇用を得る際は、ガーナ政府が発行する労働許可証の取得が義務づけられています。しかし、雇用主が申請してから労働許可証の取得まで8~10ヶ月もかかります。経済発展の著しいガーナで、雇用主がそんな長期間も待てるわけがなく、事実上、難民はガーナの公式の労働市場から締め出されています。
発展途上国なので、賄賂を渡せば、難民もマーケットで商売ができるのですが、同じ商品で同じ値段なら、ガーナ人はリベリア難民からではなく同じガーナ人から必ず買います。リベリア難民は国際支援で苦労せずに生活できていると多くのガーナ人は考えているので、リベリア難民から商品を買うことを避けます。
また、リベリア難民はガーナの銀行口座の開設ができません。銀行口座がなければ、借り入れも極めて難しくなります。結果、リベリア難民は元手が必要な利潤の高い商売を始めることができません。かつてはブジュブラムでもUNHCRが難民向けのマイクロファイナンス(少額融資)を行っていましたが、2003年の停戦合意以降は、本国帰還が最大の目的となったため、難民が長期間ガーナに根付くことになりかねない起業資金の貸し出しプログラムは全て閉鎖されました。
ガーナ人にとって極めて腹立たしいのは、リベリア難民のほぼ全員がガーナの現地語をろくに覚えないことでしょう。あまつさえ、リベリア難民たちはガーナ定住すら希望せず、先進国移住に異常なほどの熱意を燃やしています。著者が難民たちに現地語を覚えない理由を聞くと、「いずれアメリカ(リベリアの宗主国)に行くので、ガーナの言葉を覚えても仕方ない」と、素っ気なく答えられたそうです。ブジュブラムのリベリア難民は口をそろえて、ガーナ人がいかに排他的で冷たいかを滔々と著者に語ったそうです。これに著者は強い違和感を抱かずにはいられませんでした。
ブジュブラムのガーナ支配人はある時、著者にこう言いました。
「ここの難民たちは先進国移住のためならなんだってやる。リベリア大統領を暗殺したら、先進国に移住できると言われたら、本当に殺すだろうよ。あいつらは先進国移住に憑りつかれているんだ」
著者は難民キャンプで、ミニスカートで胸が見える服を着た若い女性3人組に突然話しかけられたことがあります。著者が日本から来たことを伝えても、日本がどこにあって、どんな国かも知らないほど教養がない女性たちです。まず聞いたのは、リベリアの公用語であり、彼女たちも話せる英語が日本で通じるかどうかです。通じないと分かると、日本への移住は難しいと判断したのか、アメリカの友人がいるのか、あるいはカナダやオーストラリアの友人がいるのか著者に聞きます。いると分かると、著者に友だちになりたい、著者の友だちにも興味がある、と吐息がかかるほど近づき、耳元でささやきました。さらに、会って3分しかたっていない著者の右手を両手で慈しむように握りしめました。彼女たちの目的が分かった著者が「僕の友だちは君たちの助けにはなれないと思う。ごめん」と言っても、彼女たちはわずかな可能性にかけて執拗に食い下がり、著者からメモとペンを取り上げ、自分の携帯番号を書いて、「今度来る時は必ず電話して。絶対に約束よ」と、またささやいたそうです。
著者がプライベートで最も長い時間を過ごしたエマーソン(男性)の話です。エマーソンはリベリア内戦中に父と生き別れ、現在も父は生死不明です。母と二人の妹とともに隣国のコートジボアールに逃れ生き抜きます。リベリア脱出から数年後の2000年に、先進国移住を目的に家族をコートジボアールに残したまま、ガーナのブジュブラムにやってきました。コートジボアールには正式な(?)難民キャンプがないので、先進国移住のためにはガーナに来なければならない、というのがリベリア難民で常識となっていたからです。当然、エマーソンの人生の第一目標は先進国移住になっており、著者がいくら質問しても、「お前も先進国出身なら分かるだろう。家族のためにも、絶対に先進国移住が必要なんだ!」としかいいませんでした。
「現実にどの程度の確率で先進国へ移住できるかは別問題だ。困窮する難民にとって、先進国での新しい生活を夢見ることは、目の前の食うや食わずの茨の日々を一瞬でも忘れさせてくれる『麻薬』でもあった」
そう著者は書いています。
インターネットカフェはブジュブラムでいつも繁盛している商売ですが、その大きな理由の一つはSNSを通じて、先進国にいるスポンサー探しができるからです。
ネットで知り合ったノルウェーの男性と結婚し、ノルウェー移住を叶えた35才女性の「シンデレラストーリー」は瞬く間にブジュブラムで広がりました。ネットでのスポンサー探しはブジュブラムで大ブームとなり、どうすればスポンサー探しに成功するかを助言するコンサルタント業まで複数登場します。過去にスポンサー獲得や海外からの金銭支援を勝ち取った「成功実績」をウリにして、「どのSNSが成功率が高いか」「どのようなプロフィールを載せるべきか」「どんな写真を掲載すべきか」「どのような返信をすべきか」などのノウハウを有料で教えてくれるそうです。
著者の近所に住むサミュエルの先進国移住の夢物語が載っています。
サミュエルの父とその弟である叔父は、長年、土地の相続問題をめぐり、激しく対立していました。土地問題がサミュエルの父に有利に終わることを恐れた叔父は、2003年のある夜、反政府軍に紛れて、父を殺します。サミュエルと弟は激しい物音で寝室から自宅を抜け出し、ガーナ行きの船に乗って、なんとか命拾いしていました。サミュエルの叔父は、今も罪に問われることなく、リベリアで生活しています。
そんなサミュエルが、ある早朝、興奮気味に著者の携帯に電話してきます。ネットでのスポンサー探しで、オーストラリア人の50代女性がサミュエルの話に同情して、オーストラリアに迎え入れるかもしれないと言って、当座の生活費用として200ドルを送金してくれたからです。「聴いているのかよ! 送金だけじゃなくて、オーストラリアに移住できるかもしれない! 俺にもようやく運が向いてきたんだよ!」とサミュエルは早朝にもかかわらず、叫んでいました。本によると、50代のオーストラリア女性は真剣であったようで、先進国移住に必要な手続きを全て請け負ってくれました。サミュエル兄弟はガーナのオーストラリア大使館で面接を受けた後、著者に向かって親指を立て、「好感触」と言いました。まさに夢見心地だったのでしょう。しかし、3ヶ月後、審査結果はビザ不許可でした。既にリベリアが内戦状態ではなく、政治的な理由よりも個人的な理由で帰国しづらいことが不許可の理由だろう、と著者は推測しています。はちきれんばかりに期待を膨らませていた当時20才のサミュエルの落胆は当然大きく、しばらくは抜け殻のようでした。
次の記事に難民キャンプの政治活動について書きます。