未来社会の道しるべ

新しい社会を切り開く視点の提供

外国人介護士・看護師を受け入れると日本の納税者も搾取されるシステム

「長寿大国の虚構」(出井康博著、新潮社)にある通り、外国人介護士の受け入れに積極的だった日本の介護施設経営者は決して少なくありませんでした。「ルポニッポン絶望工場」(出井康博著、講談社+α文庫)にある通り、経済産業省や外務省も外国人介護士受け入れに積極的でした。しかし、介護士不足の現状を十分に知っているはずの厚労省はなぜか消極的で、国会議員の中にも賛否両論あったようです。この混乱ぶりが、外国人介護士問題を迷走させます。

外国人介護士たちの就労が長引かないように、厚労省は国家試験合格というハードルを課しました。この国家試験ハードルは同じくEPAにて受け入れられた外国人看護師にも課されていますが、両者には根本的な違いがあります。日本人は国家試験を合格しないと看護師にはなれませんが、日本人は国家試験を合格しなくても介護士になれる点です。当時、介護職に就いている日本人のうち、介護福祉士の国家資格を持っている者は3分の1に過ぎませんでした。しかし、外国人介護士は来日後4年間のうちに国家試験に合格しなければ、介護士を続けることはできず、日本から帰国しなければなりません。こんな条件のせいで不利益をまず被るのは、介護を必要とする日本の高齢者たちになります。

看護師に着目すると、EPAで来日した外国人たちは3年間のうちに国家試験に合格しなければなりませんでした。しかし、2009年では82人受験し合格者がゼロ、2010年には245人が受験し合格者3名と惨憺たる結果でした。看護師国家試験は、日本人なら9割が合格します。外国人看護師たちは母国での国家資格を持った人たちに限られているのに、理不尽な日本語ペーパー試験が課されています。ちなみに、ドイツではボスニア・ヘルツェゴビナから受け入れた看護師に、一定期間の職場経験の後、「口頭試験」を受けさせ、75名全員を合格させたそうです。母国での有資格者なので、ドイツ人の医師や患者とコミュニケーションがとれているかを口頭試験で確認できたら、それで十分だと判断しているわけです。この理にかなった方法を厚労省は知らないのでしょうか。日本語のペーパー国家試験を外国人の看護師有資格者に課すなど、嫌がらせとしか思えません。

話を介護士に戻します。外国人介護士の受入数は2009年に406人だったのに、2010年には159人、2011年には119人と減っていきました。理由は上記の外国人看護師の国家試験合格者があまりに少なかったことです。介護施設は、斡旋手数料や日本語研修費などで一人あたり約80万円払うので、外国人介護士にはできるだけ長く働いてほしいと考えています。しかし、国家試験に落ちると、4年間で外国人介護士に辞めてもらわないといけません。そんな短期間しか働いてくれないのに、日本語のできない外国人介護士を雇いたくない、と介護施設経営者が考え始めたわけです。結局、介護士の受け入れは2年経過しても予定の半分にも満たなかったので、国際問題にもなりかねませんでした。

すると、日本政府は態度を急変して、外国人介護士一人の受け入れにつき年23万5千円の国家試験対策費用を支払って、外国人介護士の受入数を強引に増やします。「ルポニッポン絶望工場」では、この費用は国家試験対策費用という名のバラマキに過ぎないと断定しています。

腐敗はこれにとどまりません。「外国人実習生からピンハネする官僚たち」に書いたJITCOのような天下り機関が、外国人介護士の分野にもしっかり根を張っています。国際厚生事業団(JICWELS)という厚労省天下り先が、一人の外国人介護士を施設に割り振るだけで13万円を徴収する仕組みになっています。

それら費用を合計すると、外国人介護士・看護師の受け入れに4年間で80億円の予算が投入されています。その間の合格者は介護士と看護師を合わせて104人なので、単純計算すると、一人の合格者を出すために約8千万円使っている計算になるそうです。8千万円といえば、私のカナダ留学費用の40年分に相当します。

こうなってくると、被害者は外国人看護師・介護士や日本の高齢者だけでなく、日本の納税者全員になってしまいます。一方、受益者は日本と送り出し国の官僚だけです。これを腐敗と言わず、なにを腐敗と言うのでしょう。

外国人実習生からピンハネする官僚たち

「外国人実習生が職場から失踪するのは、受け入れ先企業でひどい目にあっているからだ」

マスコミでよく使われる表現で、事実ではありますが、表面的な見方です。こういった見解でしか日本の移民問題を捉えていないとしたら、浅はかと批判されても仕方ないことが、「ルポニッポン絶望工場」(出井康博著、講談社+α文庫)を読めば分かります。

ここ数年爆発的に増えているベトナム人やネパール人といった外国人労働者はどんな職場で働いているのでしょうか。その答えは「日本人が働いてくれない、あるいは働いてもすぐに辞める職場」になります。いわゆる3K職場など、多くの日本人が働きたがらない仕事を外国人に担ってもらっているわけです。新聞配達やコンビニや農業など、外国人労働者がいないと、日本人の生活が少なからず損なわれるのは事実です。もっと書けば、より多くの外国人労働者を受け入れていれば、日本経済の停滞も少しは食い止められていたことは間違いありません。ゆとり世代の日本の若者だと受け継げない貴重な技術や農地を、意欲のある外国人労働者なら受け継いで、日本全体に恩恵をもたらしていたでしょう。

そんな日本経済を活性化してくれる優秀な外国人労働者たちを、バカな日本人たちは積極的に受け入れようとしていません。拒否する明確な理由を提示しているのならまだ分かりますが、前回の記事に書いたように、日本政府は出稼ぎ労働者を「留学生」や「実習生」として10万人、20万人も受け入れています。

実習生制度は日本の人手不足解消のためで、「国際貢献」や「技能移転」は後付けであることを、上記の本は示しています。政治的方便をなんとも思わない人たちだったのか、現在の実習生制度を確立した古関忠男と村上正邦KSD事件で失脚しているそうです。

もっとも、「国際貢献」と「技能移転」が実現できない程度なら、多くの日本人は実習生制度にそれほど不満を持たないかもしれません。しかし、「日本人がしたがらない仕事を外国人にしてもらう」ことさえ、まともにできていないとなると、さすがに納得できる日本人はいないのではないでしょうか。

同じ職場で働くなら、外国人も日本人も同じ賃金を得ている例もありますが、外国人だけが「日本人の最低賃金」で働いている例も少なくないようです。上記の書籍には、日本人なら給与25万円なのに、フィリピン人だと給与16万円程度しか得られない鉄筋工の仕事の例が紹介されています。これを搾取と非難する人もいるでしょうが、日本語が話せないので給与が低くなるのは仕方ない、と擁護する人もいるでしょう。ここで取り上げたい事実はそんな議論の余地のある問題ではなく、雇用者がフィリピン人を雇うために、上記給与に加えて、月5万円、年10万円、他にも50万円程度払っていることです。言い換えれば、雇用者にとって外国人は安価な労働力になっていないのです。

受け入れ先企業は「管理団体」を通して実習生を受け入れないといけません。この管理団体は元国会議員も関わっていたりして、胡散臭いものが多いそうです。受け入れ先企業は、一人の実習生あたり約50万円を管理団体に払う決まりになっています。50万円の内訳は、斡旋料や送り出し機関への手数料で、その手数料には日本語の事前研修費用も含まれています。しかし、研修は建前に過ぎず、ほとんどの実習生は日本語が不自由な状態で来日します。語学力などあまり要らない単純作業に就くため、それでもなんとかなるそうです。管理団体と送り出し機関が徴収する金額は他にもあり、月5万円の管理費用、年10万円の組合費用を受け入れ先企業は払わないといけません。これらの費用を払っても、管理団体が実習生を管理してくれたり、精神的なサポートをしてくれたりするわけではありません。

さらに、実習制度を統括しているJITCO(国際研修協力機構)という組織が存在します。法務、外務、厚生労働、経済産業、国土交通省という5つの中央官庁が所轄する典型的な天下り機関です。JITCOは管理団体や受け入れ先企業から、会費徴収で年13億円もの収入を受け取っています。そのお金の一部が天下り官僚たちの莫大な給与と退職金に化けるわけです。こんな腐敗した話があるでしょうか。

日本人の働き手が来てくれない中小企業が外国人を安価で雇うのは、やむを得ないかもしれません。しかし、法務、外務、厚生労働、経済産業、国土交通省の官僚どもが「国際貢献」や「技能移転」などの嘘八百を並べたあげく、外国人たちの労働賃金をピンハネしているのは腐敗以外のなにものでもありません。外国人だけではなく、受け入れ先企業も搾取されている構図です。上記の書籍には、外国人介護士の受け入れでも、行き当たりばったりの政策を何度も修正した挙句、莫大な税金の無駄になった事実が紹介されています。次の記事で、それについて述べます。

出稼ぎ目的の外国人が日本で実習生と留学生になる理由

「ルポニッポン絶望工場」(出井康博著、講談社+α文庫)には、全ての日本人が知るべき日本での移民の実態の一端が書かれていました。誰もが知っている通り、今後、日本の少子化は深刻化していきます。同時に移民賛成派と反対派で日本の世論も分かれるはずです(もっとも、この調子で少子化ジェットコースターを滑り落ちても、移民賛成派が一定以上生まれない可能性も「日本なら」ありえる、と私は思っています)。

現状を知らなければ、移民賛成論も反対論も空虚になります。この書籍で示されているほど混乱し、腐敗している移民政策を日本がとっていると、ほとんどの日本人は知らないはずです。だから、このブログにも示しておきます。

私の経験談として、21世紀に入ったあたりから、都会のコンビニで外国人を見ることは珍しくなくなりました。10年前は、発音が日本人らしくないので、名札を見てみると、中国人や韓国人だと分かりました。ここ数年間は、日本語の発音を聞くまでもなく、見た目で中国や韓国以外のアジア系だと分かるコンビニ店員が増えました。そのアジア系コンビニ店員の半数以上は「実習生」か「留学生」だったと、上記の本によって知りました。

「実習生といえば、日本に技術を学びに来ている外国人のようだが、実態は短期の出稼ぎ労働者だ」とこの本では断定しています。留学生の中にも、勉強よりも出稼ぎを目的とする者が多く含まれているそうです。残念ながら、実習生や留学生が「出稼ぎ目的」と正直に白状するはずがないので、上記の本にその証拠となる統計は示していません。なんでもそうですが、「統計なし」とは実態不明ということです。実態が分からなければ正しい対策の立てようがありませんし、対策が成功したにしろ失敗したにしろ、その原因を検証することもできません。私の経験からいえば、質の高い統計の多さは、その国の経済力の尺度になります。日本と比べると、西洋の多くの国は社会全体を把握するための正確な数値統計の多くを公開しており、発展途上国は統計があまりとられていない上、不正確です。統計の質が経済力を決めるのは国でなくても、企業でもそうかもしれません。

話を移民政策に戻します。それにしても、なぜ出稼ぎ労働者が留学生として日本に来るのでしょうか。その大きな理由が「留学生30万人計画」にあります。これは1983年に中曽根内閣が、「留学生10万人計画」を2000年までに達成する、としたことから始まっています。なぜ10万という数字を弾き出したかといえば、同じ非英語圏の先進国のフランスに留学生が12万人いたからに過ぎません。日本のバブル経済に乗って、留学生は1983年の1万人から1993年の5万人程度に伸びましたが、そこからは伸び悩み、2000年で6万4000人と未達になりました。本来ならそこで「なぜ留学生は計画通りに増えなかったのか」「そもそも留学生増加させるべきだったのか」などを考察すべきなのに、なぜか政府は大した意味のない「10万人」にこだわり、留学ビザの発給基準を緩める禁じ手を使います。結果、2003年に「留学生10万人計画」は達成されます。達成意義がないことは言うまでもありません。

しかし、性懲りもなくその5年後の2008年には、福田内閣が「留学生30万人計画」を2020年までに達成すると打ち上げます。やはり根拠となったのはフランスで、高等教育機関の学生の12%が留学生なので、日本の高等教育機関(大学、大学院、短大、専門学校)に通う約300万人のうち10%を留学生にしようと考えたわけです。上記の本にはこの数値を「思いつきに過ぎない」と切り捨てています。

世界で留学生の多い国に並べると、アメリカの78万人、イギリスの42万人、オーストラリアの25万人、フランスの24万人です。上位3ヶ国は英語圏で、3位のオーストラリアでさえ30万人には届きません。人口規模と経済規模の違いを考慮しても、日本での30万人留学生は非現実的です。それを実現させようとするから、出稼ぎ目的のいびつな留学生が日本に来てしまっています。

留学生でさえ出稼ぎ目的なのですから、外国人実習生なんてもっと出稼ぎ目的のようです。日本が実習生を受け入れている理由として「国際貢献」や「技能移転」を公式に掲げていますが、それらはただの建前で、本音は人手不足の解消にあった、と上記の本は断定しています。ただし、なぜ「国際貢献」といった建前が必要だったのかは明確に書かれていません。

もちろん、留学生制度であれ実習生制度であれ、理想通りに運営されていれば、なんの問題もありません。しかし、どちらも「日本が天国」と思って来たアジア人を「反日」にさせて帰国させている現実があります。それについて、次からの記事で掘り下げます。

パワハラするくらいなら金を払ってクビにすべきである

「さっさと僕をクビにしてくださいよ」

私がブラック企業で働いているとき、理解のある上司に何度も言った言葉です。「会社都合退職なら自己都合退職より失業給付の条件がいいから」といった知識が当時の私にあったからではなく、「怒鳴らないといけないほど俺がダメなら、クビにすればいいだろう!」という気持ちからのただの愚痴です。ただし、愚痴ではあっても、本心からの言葉です。今思い出しても、クビにしてほしかったと思います。

日本では、職場の要求水準を満たさない仕事をする人に、パワハラを行うことが広く行われています。大抵、その要求水準は給与から考えると不合理に高いのですが、それは今回無視します。ともかく、上司が期待するほどの質の仕事ができない場合、部下は罵声を浴びせられます。

「意欲を出させ、根性を鍛えるためだ」「要求水準を満たしていないのだから、怒るのは当然だ」「怒鳴られたくないのなら、質の高い仕事をするか、辞めるか、どっちかにすればいい」 そんな理由で、上司たちはパワハラしているのでしょう。残念なことに、「いじめ問題の教訓をパワハラ撲滅に活かすべきである」にも書いたとおり、そんなパワハラを容認する労働者が、日本には少なくありません。しかし、「パワハラ撲滅がもたらす経済効果」に示したように、パワハラは多くの日本人を労働市場から弾き出し、結果としてパワハラ上司やパワハラ容認労働者にとっても大局的に考えて損失になっているはずです。

そうはいっても、パワハラなしで、怒ることなしで、質の高い仕事ができるよう根気よく労働者たちを教育していくことが、空虚な理想論であることは私も知っています。ほとんどの企業は、ダメな労働者たちを教育していく時間的・金銭的余裕などないでしょう。かといって、簡単に解雇すると法律違反になるので、パワハラが行われます。

だから、ここで提案します。パワハラを行うくらいなら金を払ってクビにすればいいのです。解雇時に払われる金額は、解雇される労働者のそれまでの貢献度から、1ヶ月から1年先までの給与分になります。たとえ1日しか働いていないバイトであっても、次の日から来てほしくなければ1ヶ月分の給与を払う義務が生じます(1ヶ月未満の雇用条件なら期間満了までの給与全額を一括で払う)。また、30年1日も休まず勤続してくれた労働者であっても、1年分の給与を払えば、問答無用で解雇できます。

日本で労働者を合法的に解雇しようとすれば、まず、新規採用をやめ、他の社員も含めた残業を削減し、賞与を下げ、給与も減らし、定期昇給までやめて、さらに、その労働者に改善指導を十分な期間行って、それでも業績が改善しない場合に、ようやく最終手段として解雇が認められます(ただし、就業規則や雇用条件によってはより緩い条件で解雇は可能です)。これは厳しすぎるでしょう。十分な手切れ金を払ってもらえれば、使用者の責任で自由に解雇できる方が合理的なはずです。安易に解雇すれば、使用者も損失を被るのですから、それで十分でしょう。

なお、1日だけのバイトが解雇するだけでも、1ヶ月分の給与がかかるのは不合理だと判断する人もいるかもしれませんが、それくらいの採用責任は使用者にあると私は考えます。

日本でこれほどパワハラが蔓延した理由はいろいろあるでしょうが、その一つに解雇条件の厳しさがあると思います。まともな社会人が怒鳴ったりするのは異常です。怒るくらいなら、金払って縁を切らせた方が社会的に健全です。

そのような金銭的解雇が一般的になれば、ろくに仕事していないのに給与をもらっている「窓際」も日本特有の「追い出し部屋」も消滅していくに違いありません。

無視はイジメではない

無視することをパワハラと言う人はいないでしょう。以前の記事にも書いたように、パワハラは大人のイジメだと私は考えています。そう考えれば、無視がパワハラにならないよう、無視がイジメにはならないはずです。無視までイジメになってしまえば、それこそ「イジメは絶対になくならない」が正しくなってしまいます。

私もこれまでの人生で何度も無視されたことはありますが、それは仕方ないと思っています。私の責任ですが、どうしようもないこともあります。別に怒鳴られたりするわけでもないので、それでひどく傷つくこともありません。無視に慣れることは、社会で生きていくための必要な能力だと私は思います。

もっとも、「仕事や学校で必要な連絡を特定の人だけに伝えなかった」としたら、それはイジメです。「無視されている人と話すと、話した人まで仲間外れになる」のも、イジメです。社会が円滑に進むために、最低限の礼儀と道徳はわきまえるべきです。

ただし、「グループ分けをするとまず余る」「必要最低限の会話しかしてくれない」「自分が発言すると、いつも場の雰囲気が冷める」程度なら、我慢すべきでしょう。

医療革命

いずれ必ず導入されるAI医療では、「医者の消滅」「医者決定医療から自己決定医療へ」「無駄な医療の削減」が三大改革になるでしょう。「医者の消滅」「医者決定医療から自己決定医療へ」は前回までの記事に書いたので、ここでは「無駄な医療の削減」について書きます。

現在行われている医療の半分以上が、実は無駄であると気づいていない医療者はいるでしょうか。以前の記事にも書きましたが、「医者にかからなくても8割は治る、医者にかかったから1割は治る、医者にかかっても1割は治らない」と、昔から医者の中では言われています。現在のように、医療の専門知識が医者に限定されている世界では、本来医者にかかる必要のない9割の人まで、医者の意見を仰ぐことになってしまいます。AI医療が導入されて、医療知識が人類共通のものになれば、患者が医療に頼る頻度は格段に減り、医療の人的・物的資源は大幅に節約でき、結果、医療費は激減します。少なく見積もっても、AI医療によって現在の日本の外来患者と入院患者を半減させられるはずです。

AI医療の導入は、それまで医者がいかに過剰医療を行っていたかを白日の下に晒すでしょう。同時に、これまで専門知識で威張ってきた医者の化けの皮を剥がす効果もあるに違いありません。

医療の本質

50年後の日本人からすると、人間が医療診断している現在を信じられないでしょう。命に係わることを、間違うこともある人間の判断に任せていたなんて、ありえないと考えるはずです。

その未来の人に言い訳をすると、2018年現在でも、同じ感想を持っている人は決して少なくありません。「いつAIによる医療診断に変わるのだろうか?」との疑問が出ると同時に、「そもそも、なぜ今、医療診断をコンピュータ化していないのだろう?」と思う人はいます。私はそんな人に何名も会っていますし、私自身も思っています。実際、今のコンピュータ技術でもAI医療診断は十分に活用できます。

調べれば分かりますが、こんなことは昔から考えられていました。1980年代の第二世代AIの頃、医療診断をコンピュータ化する流れはあったものの、「フレーム問題」にぶつかって失敗しました。

「フレーム問題」とはなんでしょうか。専門家は難しいことを書いていますが、誤解を恐れずに単純に言ってしまえば、人間が勘と経験で判断している領域です。もっと端的にいえば、非科学的に判断している領域です。

医学はこの非科学的領域が、恐らく一般に思われている以上に広く存在しています。雑誌やテレビなどで「こういった判断の難しい場合は専門医に相談してください」とよく述べていたりしますが、それはしばしば専門医でも判断できない領域、科学的に未解明な領域であったりします。だから、「そんなこと専門医に相談しても意味がないだろう。『科学的によく分かっていない』となぜ正直に伝えないのか」と私はいつも疑問に思います。実際に相談された専門医は、どう対応しているのでしょうか。もしかして、「『私にも分からない』と正直に伝えたら、患者はショックを受ける」と思い込んで、専門医は患者を上手くごまかして、いまだに治療の主導権を握っているのでしょうか。

1980年代、このように医者が医療の主導権を握る領域は今より広く存在していました。コンピュータの進化以前に、医学自体が非常に非科学的であり、「フレーム問題」の領域だらけでした。Evidence Based Medicineの重要性が認識され、多くの治療にガイドライン(科学的に示された標準治療の流れ)ができてきたのは、なんと1990年代からです。それ以前は医師の自由裁量、つまりは医師ごとの判断で医療の多くが行われていました。もちろん、その判断による治療の何割かは、現在の治療ガイドライン(科学的医療)からすれば、間違っていました。

今では1980年代よりも「フレーム問題」に突き当たる領域は狭くなったでしょうが、それでも消滅したわけではありません。医学が科学的に完全に解明されない限り、非科学的領域は存在し続けます。そんな「フレーム問題」領域こそ、医者が活躍できる場が残されている、と主張する医者がいます。

しかし、もう一度書きますが、「フレーム問題」領域とは、非科学的領域です。誰にも正解が分からない領域なので、誰が判断してもいい領域です。だとしたら、本来、医療の結果に責任を唯一負える患者本人が判断すべきなのは明らかです。

そもそも全ての医療判断は、理想的には患者本人がするべきです。もし患者本人が適切な医療判断ができなかったら、患者本人が判断を委ねている者(保護者など)がするべきです。間違っても、コンピュータに負けると気づかずに医療専門知識を豊富に蓄えて威張っていたバカ(医者)に判断を任せるべきではないでしょう。

ここで「では、患者が理解できるように説明する仕事が医者に残る」と食い下がる人がいるかもしれません。そんな仕事が未来に残る可能性はあるかもしれませんが、それを仕事にする人は既に医者とは呼ばれなくなっているでしょうし、今のように高給な職業にもなっていないでしょう。

これまでも、これからも医療は科学的に説明できる領域と、非科学的な領域に分類されます。科学的な領域はコンピュータで代替可能ですし、代替すべきです。毎日更新される膨大な医療の科学知識を身に着けられる人間なんていませんが、コンピュータなら可能です。非科学的な領域は医者が考えても答えは出ないので、それを正直に患者に伝えるべきです。また、科学的な領域であろうと、非科学的な領域であろうと、医療の責任は患者本人しか負えないので、全ての医療の判断、医療の決断は患者本人がすべきです。この医療の本質に気づいた国から、AI医療が導入され、医者は消えていくでしょう。

日本は世界で最初に医者のいない国を目指すべきである

結局、僕は東大に入らず、アメリカ西海岸の大学の医療工学部に進学することにした。最高のコンピュータ教育を受けさせてくれた父の期待を裏切ることになるが、僕は日本の大学に入る選択はどうしてもできなかった。

僕の祖父は東大卒の心臓手術師であった。いや、いまでも祖父は自分を「外科医」と言っている。外科医という言葉がなくなって長くなるが、昔の記憶は残っていて、かつてのエリートだった医者の中でも花形の「外科医」という言葉に愛着があるようだ。現在は、重度の認知症で老人ホームに入所しているが、あまりのプライドの高さに、入所者からも介護者からも、僕を含めた家族からも嫌われている。

医者の仕事は僕の祖父の時代から少しずつコンピュータ化されることになった。真っ先になくなったのは、画像診断を専門とする放射線医と病理医である。コンピュータによる人間の仕事の侵食は他の業界でも燎原の火のごとく広がっていったが、医師側の抵抗があり、画像診断医がなくなった後も、医者という職業そのものの消滅にはしばらく時間がかかった。

最初に医者がいなくなる国はコンピュータ技術で先頭を走るアメリカだと、誰もが考えている中、世界で最初に医療診断をAI化することを決断したのは日本だった。財政が破綻し、大幅な社会保障費の削減を余儀なくされたための苦肉の策であったが、結果、医療ミスが激減し、過剰医療が極限までなくなり、医療費は大規模に削減され、患者の受ける恩恵は飛躍的に増した。

この日本の英断により、あらゆる内科医が失業していき、外科医が術式を決めることもなくなった。世界中から医学部が消え、代わりに医療専門学校が手術師、内視鏡師、カテーテル師などを育てることになった。手術師、内視鏡師、カテーテル師はコンピュータの指示通りに作業するのが仕事なので、頭の良さはさほど要求されず、それよりも手先の器用さが遥かに重要となる。当然、それらの専門職の給与は、かつての医者とはくらべものにならないほど低くなった。

僕の父は東大医学部を目指して勉強していたが、医学部が医療工学部になって、高度なプログラム能力が必須となったため、入学できず、かといって家業の医師の道を諦めることもできず、医療専門学校に進んだ。父はお金のためではなく、医療貢献のために進路を選んだので、価値のある決断だったと信じきっていたらしい。

しかし、父の人生は挫折の連続となった。もともと頭がいいだけで、さほど手先が器用でなかった父は、天性の器用さを持つ同級生たちとの競争に負け、目標の手術師にはなれず、カテーテル師になった。そのカテーテル師も、内視鏡師や手術師同様、父の仕事人生が終わる前に、AI機械に代替され、かつての医師同様に職業自体が消滅した。現在、父は塾講師の仕事をしているが、教育内容の変化に着いていくのに必死だ。

そんな父は、プログラミング教育を徹底して僕に施してきた。「これからはコンピュータを使える人間と、コンピュータに使われる人間に2極化する。東大医療工学部に入って、コンピュータを使える人間で一番になれ!」が父の口癖だった。自分が入れなかった東大への夢を託したかったようだ。

その甲斐あって、僕は小学生の頃から自作のゲームソフトを作成、有料で配給し、中学生の頃には父の収入を上回っていた。家族は全員、僕が東大に入ることを疑っていなかったようだ。

しかし、僕は東大医療工学部に入らなかった。確かに、日本の医療工学界で東大は最高の人材を集め、最高の投資を受けている機関である。特に日本の手術機械技術の多くは東大が最先端であり、東大開発の手術機械のシェアは脳手術分野32%、整形手術分野35%で、どちらも世界一だ。

それでも僕は東大を選ばなかった。なぜか。

それは東大研究室の縦社会を嫌ったからだ。東大に見学に行った時、部外者の僕でも、研究室内での上下関係をすぐ把握できるほど、縦社会は徹底されていた。そのほとんどは単純に、年功序列と長幼の序で決まる。僕は若いというだけで、3回の見学時、いつも見下されたような言葉遣いをされた。自由に発言する雰囲気は全くない。

実際、「東大の強みである脳手術機械と整形手術機械は技術的にもう限界が来ていると思います。いずれ賃金の安い新興国に抜かれるので、消化器手術や心臓手術機械の開発に人材を投入すべきではないでしょうか?」との僕の発言も、「10年前からそんなこと言われているけど、東大の利益はいまだに増えている。東大は手術機械の分野を切り開いてきた。先行者がずっと一位の業界がどれくらいあるか知っている?」と研究員に一笑に付された。全く同じ意見を教授が言ったら、その研究員が僕にした態度をとることは絶対にないと確信する。

僕のアメリカ大学進学は、結局、家族の誰からの賛成もなかった。潤沢な奨学金が得られたから、僕がアメリカを選んだと家族は思っているようだが、それは違う。東大を選んだ場合、僕の将来が不安だったからだ。それは東大の縦社会で、僕の能力が十分に発揮できないためだけではない。現在の成功体験に執着し、変化することのできない東大に入れば、祖父や父のように、僕もいずれ失職することを恐れたからだ。

個人主義というより世界人間主義

「日本は集団の和を大切にするのに対して、西洋は個人主義である」ということはよく言われます。私も同様のことをブログに書いたように思います。この個人主義という言葉は自己中心のような語感があり、誤解を生みやすいと私は考えます。

教養のある西洋人と話していると、「西洋人は自己中心的というより、世界全体のことを考えている」と感じます。考えるだけでなく、NGOや国際関係で実際に行動してもいます。一方で、日本人は世界全体ではなく、自分が属している組織に忠誠心を誓っています。学校、会社、家族、部活などです。西洋人は家族への愛情は深いものの、学校や会社に日本人ほどの忠誠心はありません。日本人が愛着を持つ学校や会社といった小さい枠組みよりも、教養ある西洋人は地球規模の視野で常に考えているように私は思いました。

だから、一見、西洋人は学校や会社や組織のために動かないように思えるかもしれませんが、それは集団を軽んじているのではなく、もっと大きい集団を重視しているからです。学校のルール、会社のルール、組織の暗黙のルール、国家のルールよりも、人類普遍の価値観を重視していたりします。

確かに、西洋人は日本人と違い、みんなで決めた結論が、個人の結論よりも優先するとは考えていません。多数決が民主主義との考えも、日本人ほど持っていません。ナチスが民主選挙で第一党になったように、大衆が破滅的に間違うこともあると知っているからかもしれません。だから、相手がどんなに偉い人だろうと、どんなに称賛を集める人だろうと、大衆だろうと、国家だろうと、西洋人は自分の信じる意見は主張します。また、その主張自体に同意しなくても、主張する行為そのものは尊重されます。それが西洋の個人主義です。

だからといって、個人のワガママに多数が従うわけでは決してありません。その逆で、個人の主張を通したら、社会全体で見て不利益が多かったら、たとえ個人の人権を侵害することになっても、その主張は当然退けられます。個人の基本的人権は尊重されますが、あくまで他の人の基本的人権を侵害しない範囲です。両者がせめぎ合う場合は、社会全体の良心に基づいて、妥当な結論を求めます。

西洋人は「カナダ人だから」「男だから」「女子校出身だから」「弁護士だから」「20代だから」といった考え方を忌み嫌います。それは固定観念(stigma)を生みやすいからだと思いますが、別の観点からすれば、そんな小さい枠組みに当てはめられることを嫌っていたからかもしれません。そうではなく、「人間だから」という広い視野をいつも持っていたように私は思います。

日本はカルト国家である

あえて断定表現を使いますが、日本はカルト国家です。なぜなら、次の四つの全ての要素が満たされているからです。

①組織から簡単に抜けられない

法律的、経済的、言語的理由から、日本人は簡単に外国人になれません。実際、私はカナダ人に今すぐにでもなりたいのですが、明日からなる、というわけにはいきません。

②メンバーは組織内と組織外で性格が変わる

この場合の性格とは話し方と所作を示して、内面は含めません。私を含めた日本人が、日本人と日本人以外と接するとき、性格が変わるのは一般的でしょう。これが排他性を生むことにもなります。

③メンバーは組織内でしか通用しない上下関係を重視する

憲法では法の下の平等が定められていますが、現実には暗黙の上下関係が至るところにあり、多くの日本人がその上下関係に従っているのは周知の通りです。

④メンバーは組織の異常さに気づいていない。

日本の異常さに気づいていない人は、日本人であることの優越感を持っているはずで、立派なカルトの危険人物と言えるでしょう。

この①~④を満たすなら、その組織は大なり小なりカルトです。ただし、この四つの要素は日本に限らず、先進国から発展途上国まで、全ての国家に当てはまります。もっと言えば、全ての宗教、全ての政党、全ての学校、全ての企業、全ての家族、全ての組織に当てはまります。人間が組織を作れば、必ずそこにはカルト的要素が含まれているのです。

これを読んで「全ての国家がカルトなんて屁理屈だ」と思う人もいれば、「全ての宗教がカルトなら、危険な宗教と安全な宗教を分類できなくなる」と思う人もいるでしょう。

それに対する答えは次のようになります。

「全ての組織はカルトの要素を持っている。カルトの要素が強ければカルトとなり、弱ければカルトとならないが、明確に分離することは不可能である。そして、全ての組織が流動的である以上、どんな組織もカルトになる可能性はある」

確かに日本がカルトなら、中国はもっとカルトですし、アフリカの全ての国はカルトになってしまうでしょう。それを屁理屈と考えるのは、現在の感覚だと妥当です。ただし、遥か先の時代、国家が全て消滅した未来の人が私の上の言葉を振り返ったなら、「全ての組織がカルトの危険性を持つなんて、子どもだって知っている」と考える、と私は予想します。

さらに未来の未来には、家族という排他的な組織も消滅して、誰もが個人として他の個人と対等に接する時代が来るはずだ、と私は期待しています。

ところで、①~④の要素はどれも強くなるほど、カルト度が増していきますが、中でも私が重要だと思うのは④です。世界中のあらゆる組織は完璧でないので、異常なところがあります。異常という言葉は強いかもしれませんが、他の誰かから「異常」「おかしい」「変だ」と思われる側面はどんな組織にも存在します。それに全く気づいていなかったり、気づいていない人が多かったりしたら、その組織はカルト要素が強く、危険でしょう。どんなに優秀であっても、自分の異常さに気づいていない人が危険であることと同じです。

セクハラ問題を解決するために

「部長、その恋愛はセクハラです!」(牟田和恵著、集英社新書)にあるように、セクハラと訴えたせいで、関係者全員が不幸になる例は多いようです。牟田は「大ごとにされたくなかったら、セクハラの批判があれば素直に謝罪しましょう」「会社の処分に納得できなかったとしても、裁判に訴えるのはいかがなものか」と持論を展開しており、ついには「痴漢に冤罪があるからといって、セクハラに冤罪があると考えるのは間違いだ」といった極論まで主張しています。これらの主張からすると「セクハラ批判があれば、常にセクハラ被疑者が悪いので、誠心誠意反省して、謝ればいい。セクハラ被疑者が問答無用で謝罪しないから、問題がややこしくなる」と牟田は本気で考えているようです。再度書きますが、こんな浅はかな見識の人が大阪大学教授を務めているのが信じられません。

一方で、牟田は「裁判を受ける権利は憲法で保障された国民の権利ですから、提訴を批判することはもちろんできません」とも書いており、矛盾しています。おそらく、セクハラの事例があった場合、どういった解決法が適切なのか、牟田はセクハラの専門家であるはずなのに、深く考えたことがないのでしょう。

セクハラ事件に限らず、裁判沙汰になると、両者が全面対決になった上、どちらにとっても不幸な結果になっている例は散見されます。以前から、この裁判が抱える欠点について私は疑問に感じているので、いずれ記事にしたいと考えています。

それはともかく、セクハラ事件を両者にとって納得のできる形で解決できる方法、機関は作るべきだと考えます。円満解決できるなら、裁判を通じてでも、通じなくても構いません。

また、牟田は「オフィスにセクハラの種はつきまじ」と不謹慎なことを章のタイトルにまでしていますが、当然ながら、オフィスにセクハラの種がないことが理想です。病気を治すより、そもそも病気にならない努力をすべきように、セクハラが起こって解決するよりも、そもそもセクハラを起こさないことが大切です。

だから、セクハラ問題の啓蒙活動が重要です。上記の本を読んでいると日本のセクハラ専門家の知性に絶望してしまいますが、私がこのブログで示している男女観、恋愛観、結婚観を理解できる教養ある学者が、日本のセクハラ問題の専門家として、啓蒙してくれる時代が早く来てくれることを願っています。

性の話題は政治や宗教と同じく注意すべきである

性の問題は敏感である 」と同じ主張を繰り返させてもらいます。日本人は政治や宗教の話を全くしないわりに、性の話題には気軽に踏み込むように思います。性は人間の根幹に関わる問題です。わずかな違いが、大きな対立に発展することも珍しくありません。「部長、その恋愛はセクハラです!」(牟田和恵著、集英社新書)のように、性の問題を軽々しく扱ってはいけません。この本では「通勤電車内で、ミニスカートの女性の脚を見たらラッキーと思っていればいいですが、職場ではいけません」などと書かれています。私は性欲も十分にある男性ですが、電車の中でミニスカートの女性の脚を見てラッキーと思うことは通常、ありません。前回の記事にも書いたように、露出度の高い女性を見たら、魅力的と思うよりも、その女性の内面を疑うでしょう。また、「平均的な女性」なら、「職場の上司にいやらしい目で見られるのは嫌でも、満員電車の見知らぬ男にならいやらしい目で見られるのは平気」なんてはずがありません。なにより、男性の性欲を批判する繊細な問題の本の中で、男性の性欲を茶化して侮辱するような表現を使う神経に呆れます。

ところで、この本を読めばセクハラ事件で女性と男性がともに不幸になって終わるケースは、少なくないと推測できます。その一つの例として、組織内でのセクハラ処分に納得できず、男性が裁判に訴えるケースをあげています。訴えた男性は既に処分されていて憤懣やる方ありませんし、女性もようやく終わったはずの事件にまた関わるので精神を消耗しますし、組織の責任者も裁判に出席する面倒につきあわなければなりません。こういった裁判では、処分された男性の妻が頑張っている例が少なくないようです。夫の証言にわがことのようにうなずき、相手の女性を蛇蝎のごとく睨みつける妻の姿を著者が目撃したことは二度や三度でないそうです。

それぞれの事件にもよるでしょうが、多くの場合、そのような妻は理性を失っているでしょう。それを「どんなにひどい状況でも夫の味方をする理想の妻」と考える男性もいるかもしれませんが、組織がセクハラと認定して処分した以上、ある程度の落ち度は男性側にもあったはずで、それを完全に無視して「相手の女性を蛇蝎のごとく睨みつける」のは異常です。この妻は自分が相手の女性だったらどういう気持ちになるのか、考えられないようです。

とはいえ、そんな態度をとってしまう妻の気持ちも理解できます。それくらい、性の問題は敏感だからです。たとえば、夫が窃盗事件に関わっていても大して驚かない妻が、セクハラ事件に夫が関わっていると知った途端、正気を失うことはありがちだと思います。場合によっては、殺人事件に関わるよりも、深刻に考える妻だっているでしょう。性の問題が敏感であることを利用して、オレオレ詐欺では「痴漢」という単語を頻繁に使用し、高齢者の理性を失わせるそうです。

そんな要素を性の問題は抱えていると日本人は認識すべきでしょう。同時に、「西洋人は政治や宗教の話が大好きである」でも主張したように、性の問題をあっさり扱えるくらいなら、政治や宗教の話題にも日本人は日常会話でもっと踏み込むべきだ、と私は思います。

女性がどんなにセクシーな服を着ていてもジロジロ見るとセクハラなのか

そんなわけありません。常識で考えてもそうですが、日本はもちろん、世界中の判例でもそうです。現実に世界中の判例を調べていませんが、断定します。そうでないなら、その国の判例は修正されるべきだからです。

こちらのブログで何度も書いているように、人を外見で判断することを道徳的に好ましくないと私は考えています。そんな私でも、外見で人を判断するのが道徳に全く反すると考えているわけではありません。へそ出しの服装で職場にいる女性を見たら、その女性の内面を疑います。イスラム女性の格好を考えれば分かる通り、どんな時代のどんな国でも、女性が露出の多い服を着るのは社会道徳的に好ましくないと判断されています。

確かに、胸元の開いた女性の服装を注意して、セクハラで訴えられた例はあります。しかし、それは「その服装は私の好みだけど、職場に着てくるのはどうかな?」と注意していたりするからです。普通に考えて「その服装は私の好みだけど」は余計でしょう。「弁護士が教えるセクハラ対策ルールブック」(山田秀雄・菅谷貴子著、日本経済新聞出版社)にあるように、単純に「職場にその服装は不適切でしょう」と注意すればよかったのです。

なお、「女性がセクシーな服を着ていたらジロジロ見てもセクハラにならない」と言っても限度があり、常識で考えられないほどジロジロ見たら、セクハラになるかもしれません。「いくら女性の服がセクシーだからといっても、そこまでジロジロ見たなら、見る方が悪い」と一般的に考えられたら、裁判でもそう判断されるでしょう。

誠実な職場恋愛ならセクハラなど気にしなくていい

たとえ上司と部下の関係であっても、誠実な職場恋愛ならセクハラなど気にしなくて構いません。しかし、現実には、本人は誠実な職場恋愛のつもりであっても、セクハラとなった例はあるようです。ただし、私の価値観からいって、これはセクハラと訴えられても仕方ない、というケースばかりです。「仕事に疲れていそうなのでマッサージをしてあげた」「仕事にかこつけて毎日数十通のメールを送っていた」「飲み会で女性に馬乗りになった」「飲み会で男性器を模した料理を食べさせた」などです。

これまでの記事で「部長、その恋愛はセクハラです!」(牟田和恵著、集英社新書)を徹底して批判してきましたが、その本にはいいことも書いています。「セクハラは受け取る側の主観で決まるのは誤解である」と解説していることです。なんでもかんでも女性が嫌だったらセクハラになるわけでは決してありません。「平均的な女性労働者の感じ方」を基準にして決めているのです。上記のような行為が平均的な女性労働者が嫌と感じないわけがありません。そんな行為をする男性はどんどんセクハラで訴えて、職場から消滅させてください。

繰り返します。一般的に真面目な未婚男性なら、たとえ上司と部下の関係であっても、セクハラを恐れて、職場恋愛を躊躇することはありません。もちろん、職場恋愛中の相手、あるいは別れた後の相手の人事評価を客観的にできなくなることはあるでしょう。女性部下の人事評価を悪くするだけでなく、良くしても、セクハラになる可能性はありえます。ただし、人事評価が客観的かどうかを判定するのは難しいので、よほど悪質でない限り、セクハラと認定されることはないはずです。

また、セクハラと訴えられた時点で、風評被害が発生すると恐れるかもしれませんが、私の経験からいって、不倫ならともかく、未婚の男女の仲なら心配ありません。当事者でもないのに、恋愛の両者のどっちが正しいか間違っているかを判断するのは不適切と、理性のある社会人なら知っています。もし本当に誠実な恋愛だったなら、大した風評被害にはならないと私は推測します。

ところで、「セクハラはモテない男を罰するものではない 」で、過激な性的冗談でも女性が喜んでいればセクハラにならないが、軽い性的冗談でも女性が嫌がっていればセクハラになる、私は書きましたが、これは誤解を生むかもしれません。他の男性たちからきわどい性的ジョークにいつも笑って許している女性が、同じ職場のさえない男に軽い性的ジョークを言われると、セクハラと訴えたとしたなら、(その女性の普段の性的ジョークへの態度を証明できれば)まず慰謝料請求は認められないでしょう。これも常識通りです。

間違った恋愛観でもジェンダー学者になれる実例

「部長、その恋愛はセクハラです!」(牟田和恵著、集英社新書)では、「女性ははっきりとノーと言わないのは洋の東西を問わない。だから、女性がノーと言っていないからといって、嫌でないと考えるのは男性の勘違いと判定されても仕方ない」と書いています。「女性がはっきりとノーと言わない」のは事実かもしれませんが、性的なことに関しては正反対で、むしろ「女性ははっきりとイエスと言わない」です。それは経験上、全ての男性が知っていると思います。ロシアのアネクドート(小話)にこんな冗談があります。

「外交官がyesと言ったら、それはmaybeの意味である。外交官がmaybeと言ったら、それはnoの意味である。外交官がnoと言ったら、その人はすでに外交官としては失格である。女性がnoと言ったら、それはmaybeの意味である。女性がmaybeと言ったら、それはyesの意味である。女性がyesと言ったら、その人はすでに女性としては失格である」

私は「恋愛における女性優位の証拠」で、「女性はほとんど全ての男性を拒否するのに、男性はほとんど全ての女性を受け入れる。だから、恋愛では女性優位だ」と主張しました。この仮説には「それは単に男性が女性を基本的に警戒しないが、女性は男性を基本的に警戒することの証明にしかならない。これで恋愛における女性優位とするのは論理が飛躍している」という批判が出てくるでしょう。確かにその通りですが、最低でも、恋愛について女性が男性よりも遥かにnoと返答する証拠にはなるはずです。

だから、「恋愛について女性はノーと言わない」は牟田の明らかな間違いです。水掛け論をしても仕方ないので、実際に「恋愛における女性優位の証拠」に書いた社会実験などをして、統計的に証明してください。

おそらく、恋愛について女性は基本的にノーの返事することは、男性に限らず、女性だって知っているはずです。まさか牟田は恋愛についてノーとなかなか言わないのでしょうか。上記の本を読み限り、とてもそうは思えません。牟田自身がむしろ「イエスとなかなか言わない」性格なのなら、誤解するのは男性の責任にしたいからといって、「恋愛において女性はノーとなかなか言わない」と主張するのはどうなのでしょうか。