未来社会の道しるべ

新しい社会を切り開く視点の提供

地域活性の起爆剤が反対の意味で起爆してしまう理由

「地方創生大全」(木下斉著、東洋経済新報社)は素晴らしい本でした。地方創生に関わる全ての人に読ませたいです。特に、国や県や市町村から補助金をもらおうとする人にはぜひ読んでもらいたいです。もっと根本的に、補助金を設定したり廃止したりできる政治家や役人には、この本を読む義務を課していいと思います。

本の最初で、ゆるキャラでの地方創生について、税金をつかってまでやるべきでないと批判しています。その中の「経済効果は根拠が怪しい」との批判には全く同感です。たとえば、くまモンの経済効果として日銀の熊本支店が1000億円と計算して、その数字があらゆるところで引用されていますが、その根拠は「くまモンをつけた関連商品売上」のアンケート調査が主体だったと知っているでしょうか。ひどい概算というだけでなく、計算方法も間違っています。本では、経済効果として出される数値は真っ赤なウソだとまで断定しています。

本来、経済効果といえば、マイナス効果も考慮すべきです。くまモンの関連商品が100万円だったとしても、それで経済効果が100万円とそのまま出るわけでなく、くまモンの関連商品が置かれていた場所で出ていた売上、たとえば80万円を引いて、経済効果20万円としなければ、誤解が生じます。このため、日本でよく使われる「経済効果」は「しない方がよかった場合」でも、〇〇億円と喧伝されてしまう恐れがあります。経済効果という怪しい言葉を使っている時点で、そのニュースは聞く価値なしと考えていいようです。

地方創生でよく行われる特産品開発の批判も鋭いです。地域の特産品を「ブランド化」させて、高い値段で売ろうという魂胆ですが、「ただでさえ売れない商品がなぜブランドになるのか極めて不明」です。これについては、著者も苦い経験があるようです。「飲む酢」ブームの時、特産品の果物からつくった酢を割高な価格設定で「ブランド化」して、売り出す話が地方で出たそうです。そんな簡単なものでないと確信した著者は、舌の肥えた酢愛好家たちに調査をお願いすると、予想通り、容赦のない批判が殺到しました。もちろん、割高なので一般客には見向きもされません。「やはり高すぎるのでは」という真っ当な意見に従い、補助金で各種経費を減額することで値下げして、少しは売れましたが、税金を考えると地域全体では赤字です。これでは地域創生にならないので、そろそろ「ブランド」ができたと考えて、補助金を打ち切り、値上げすると、当然、売れなくなり、結果、税金と労力と時間を浪費しただけに終わります。そもそも「ブランドがあるから商品が売れるのではなく、商売の結果としてブランドが形成される」という当たり前の事実を理解していないので、成功するはずがない、と切り捨てています。

道の駅の批判は、私にとって新鮮でした。道の駅の8割は行政によって作られており、税金が使われています。この本で何度も主張されていることですが(木下斉が一貫して主張していることですが)、補助金が入ると、経営はメチャクチャになります。道の駅の例なら、立派な施設を税金でつくっておカネはかかっているのに、経営上、利益のハードルが低くなっています。必然的に、損益分岐点が歪み、生産性が低くても維持可能な環境になり、利益改善に向けての努力がろくに行われません。結果、立派な施設の維持費すら利益でまかなえなくなり、道の駅は損を生み出し続ける施設となってしまいます。もちろん、建設時の莫大な費用も、地域全体あるいは国全体でツケを払わなければなりません。また、道の駅は補助金をもらうために、地元産品の比率を一定以上にしなければならないので、冬場になると売り場が閑散として、豪華な施設が非効率に運営されてしまうこともあるようです。道の駅に限らず、補助金が入ると損益分岐点が歪み、地域の生産性を低下させることは必発のようです。

本では、ふるさと納税についても批判しています。批判そのものは同意するのですが、「返礼比率の見直し、各企業・生産者からの調達上限の設定、納税財源は自治体のコンパクト化に活用するなどの改善」の解決策には反対です。ふるさと納税は返礼廃止と税金控除廃止、つまりは完全な善意によるものに限定すべきでしょう。

この本に書かれていた中で、私が最も呆れてしまった話があります。ある自治体の責任者が立派な冊子を持って著者の前に現れたそうです。1年間かけて、その地域の30人ほどが何度か集まり、ワークショップを行い、地域活性化の計画を作成し、きれいな表紙に参加者の似顔絵までついていて、その計画作成に税金を1500万円もかけたそうです。しかし、結果として、その自治体にはなんの変化も起こりませんでした。著者の言う通り、会議室に集まり、皆で褒め合うようなアイデア会議で地域が活性化するなら、何十年も前に地域は活性化しています。人が集まって計画を立てただけなのに、一体なぜ1500万円もかかったのか、本には書かれていませんが、そんな莫大なお金を使えたのなら、似顔絵だって入れたくなるのは無理もないでしょう。もし私がその自治体の住民なら(自治体名は本に書かれていないので、「もし」ではなく、私が本当にその自治体の住民の可能性もあるのですが)、その似顔絵を「1500万円の税金を使用した者たち」という言葉と共に、役所の入口に借金が返済されるまで貼っておいてほしいです。地域創生を目指すとき、「合意形成」を重視しすぎる弊害は、本で何度も指摘されています。無責任な100人よりも行動する一人の覚悟を重んじるべきと著者は主張します。

では、どうすればいいのでしょうか。著者は二宮尊徳の言葉、積小為大(せきしょういだい)を提言します。「小さく積み上げ、売上の成長と共に投資規模を大きくしていく」方法です。本では、自分たちがお金を出しあって小さく事業を始めることを何度も提案しています。たとえ事業が失敗しても、小さいうちなら大きな損にはならず、再挑戦も可能だからです。しかし、他人にも多大な迷惑をかける失敗を犯すと、再挑戦するのは難しくなります。著者によると、初めての地域活性化事業の99%は失敗するそうですが、その失敗を活かして、何度も一から始めることで、いずれ成功していけるようです。

また、地域の合意を重視してしまうと、目標は漠然と大きくなりがちです。たとえば「観光客が増加し、地元産業が活性し、人口は増え、財政は改善することを目標とする」などです。もちろん、これらは相互に影響しあっているので、全部達成するということも現実にはありえます。たとえば、「観光客が増加することで、地元産業が活性し、それに吸い寄せられるように人口は増え、結果として財政は改善」したケースはあります。しかし、多くの目標を設定してしまうと、達成度が不明確になってしまいます。「この地域事業で財政赤字は増えたし、地元産業の衰退は止められなかったし、人口も減ったが、観光客は増えたので、まだ事業を継続すべき」との意見がまかり通ったりします。日本には無数の地方活性化事業の基本計画がありますが、失敗した時の撤退戦略について書かれているものは皆無らしいです。まるで第二次大戦時の日本軍のように、どうなったら失敗かを定義せず、どう撤退するかも考えていないので、果てしのない泥沼に陥っているのです。

こんな状況なので、2015年に地域再生関連政策の総括の指示に基づいて、各省庁に失敗事例を聴取したところ、失敗だと報告された件数がゼロだったりするのです。嘘みたいですが、本当です。そこで、著者のグループが「あのまち、このまち失敗事例集『墓標シリーズ』」を作ると、なんと財務省主計局の主計官から「自分たちのつけていた予算が、このようなことになっているとは知らなかった」と言われたそうです。全ての地域再生関連政策ではKPIを設定し、PDCAサイクルを回していくことが決まっているらしいのですが、まともに機能していないようです。

他にも「綿密に検討された計画があれば成功するとの思い込みがある」「『あの人が言うなら、仕方ない。やらせてみよう』という形で承認されたりする」「地域活性化事業を請け負うコンサルは仕事をもらうためにゴマすりばかりするが、結果は出してくれない」「アイデアの新規性よりもプロセスの現実味の方がよほど重要」「自ら実践する覚悟がなければ、どんなアイデアもホラ吹きに過ぎない」など、傾聴に値する意見がいくつもあります。

ただし、この本で批判したいところはいくつかあります。一番は、この本の全否定のように聞こえるかもしれませんが、「地方創生大全」で地方創生できないからです。次の記事に続きます。

社会の成功者たちをどう考えるべきか

「ナンバー1は常に批判されるべきだ。ナンバー1になれるほど幸運なのだから、それくらいでないと、割に合わない」

この考えを私は西洋人に英語で何度も言いましたが、全ての西洋人が同意してくれました。しかし、日本人に同じことを言うと、ほぼ全ての日本人が疑問を呈してくれます。

「すごく努力しないとナンバー1になれないのだから、批判しなくてもいいんじゃない?」

そんな理由です。

しかし、すごく努力できることも、多くは幸運によるものです。私もそうですが、多くの人は成功するためにどこまでも努力したい、と考えていますが、どうしても体力と気力と集中力が続きません。たとえば、私は1日中本を読もうとしても、1時間もすれば字面を追いかけているだけで、内容が全く頭に入ってこなくなります。しかし、読書の才能を持っている人、あるいは子どもの時に恵まれた教育を受けた人は、何時間でも集中して読めるはずです。また、そういう人になると、誰よりも速く集中して読めることに達成感を味わい、さらに読もうという気持ちが湧いてくる好循環も出てくるでしょう。

私がこのように主張すると、次のように反論されたりします。

「確かに運もいいのだろうが、オリンピックで金メダルをとることは、運だけでは無理だ。才能があり、努力もしている競争者たちの中で、自分なりの創意工夫をしたからナンバー1になった。がむしゃらに努力するのではなく、必死で頭を使って創意工夫しているのに、批判される理由はない」

確かに、その選手だけが創意工夫をしたのなら、その反論は妥当だと思います。しかし、全員が創意工夫した中で、たまたまその人の試みだけが成功したのなら、やはりそれは運になります。

西洋と比べると日本では、社会の成功者を無条件で賞賛しすぎだと私は感じます。どんな人でも成功すると傲慢になりがちなのに、周りの人たちが賞賛すれば、さらに傲慢になってしまいます。必然的に、成功者は他者を見下すでしょうし、一般人よりも自分が尊重されるべきと勘違いするでしょう。そんな実例は、古今東西、枚挙に暇がありません。成功者たちをやたらと賞賛してしまう人たちは、その成功者たちを人間的にダメにしていると知るべきです。そんな大衆がいるからこそ、日本に国際的に尊敬される成功者がなかなか現れないのではないでしょうか。

「才能で成功した人よりも、努力で成功した人を評価すべきである」

「精神力だけで努力した人よりも、効率を考えて努力した人を賞賛すべきである」

そういった考えには、私も同意します。同時に、「成功者は常に批判されるべきだ。成功者の今後のためにも、成功者を賞賛しすぎるべきでない」も、早く日本社会の常識になってくれることを願います。

恵まれている者は感謝するのでなく恵まれない者を救うべきである

明らかに金持ちの家庭に生まれて、私と比較すると不幸を全く経験せずに大人になってしまった人と私が口論して、ようやくその人に「自分が恵まれている」ことを認めさせた後に、言われた言葉です。

「恵まれていることは分かっていますよ。だから感謝しています」

私は激怒しました。

「感謝だって! 誰に? 両親に? では、恵まれない人にはどうするんだ!」

 

以前の記事に書いたように、日本は「幸せな人を尊重し、不幸な人を虐げる」側面が強い国です。幸せな人が不幸な人を無視している、あるいは、不幸な人の欠点ばかりに注目しているからでしょう。「自分がその不幸な人として生まれていたら」という想像さえ一度もしたことがないのかもしれません。

記事にも書いたとおり、なにもしないでいると人間社会は、恵まれている人はさらに恵まれて、恵まれない人はさらに恵まれなくなります。日本では恵まれた成功者たちを賞賛するバカどもばかりなので、その傾向は極限まで強くなっていきます。その社会的な不公平を是正する責任は、社会道徳的に恵まれている人たちにあるべきです。

恵まれた人が、その恵まれた人生を与えてくれた家族や周囲の環境に感謝するだけでは、社会の不公平は増長される一方でしょう。社会全体での不公平と不幸をなくすためには、恵まれた者は自分の境遇に感謝なんてしている場合ではなく、「その恵まれた環境に入れなかった人、あるいは、はじかれた人はどうすればいいのか」を考え、実行すべきでしょう。

誰かが恵まれた人生を送れているとしたら、それは家族や近い人たちだけのおかげではありません。その人の属する社会全体によって、幸せな人生を送れています。だから、その社会に不幸な人が一人でもいるなら、まず不幸な人たちを救うように、恵まれている者は多少の不利益を引き受けなければいけないはずです(道徳的責任をとらなければいけないはずです)。最低でも、そうすべきとの意識を持たなければいけないと私は考えます。

日本人の国際感覚は第二次大戦時とどれくらい変わっているのか

前回の記事と全く同じ出だしになりますが、「インド独立の志士朝子」(笠井亮平著、白水社)を読んで、またも日本人として悲しくなってしまいました。

「世界中から非難されている第二次世界大戦時の日本で、外国人なのに日本の味方をして、命をかけて戦った女性がいた」と著者が感動していることが、行間に溢れているからです。

たとえば、主人公の朝子がインド人なのに日本人学校に行ったのは、本人たちの文書や証言もなく、「(両親が)何よりも自分たちの子どもには日本式教育を受けさせたかったのだろう」と書いています。

また、大日本帝国下のインド国民軍のリーダーであるチャンドラ・ボースは「日本は天皇制を残すべきだと思う」と言って、朝子は皇后と握手できて「しばらくは手を洗いたくなかったくらい」と言ったそうですが、日本人の前での発言なので、リップサービスかもしれない、と割り引いて受け取るのが普通でしょう。しかし、学者である著者はそれすらできていません。あまりに主観が強すぎて、著者は学者として守るべき客観性も失くしたようです。

本に書かれている通り、ボースも朝子も、日本の無条件降伏を知ったとき、全く感情を動かされていないのですが、情けないことに、著者は「なぜショックを受けなかったのか」と疑問に感じているようです。

(この学者はそんな国際感覚で、外国人が主人公の本を書いたのか)

これは私の感想ですが、私以外でも、まともな国際感覚を持つ人なら、そう考えるはずです。ボースも朝子も、大日本帝国の味方だったとはいえ、第一目標はインド独立です。大日本帝国の正義のために命をかけたかったのではなく、インドの独立のために命をかけたかったのです。ボースや朝子が国連軍よりも枢軸国が勝利すべきと考えていたとは限りませんし、まして日本のアジアでの侵略行為を肯定していたわけがありません。ボースや朝子が日本軍の中国での残虐行為をどれほど知っていたかは分かりませんが、一部では日本軍を当初歓迎していた東南アジアでさえ、日本軍の圧政に現地の人たちが多数反乱していた事実は、さすがにボースや朝子も耳に入っていたはずです。

ボースや朝子が日本の無条件降伏を知って「驚かなかった」と言ったなら、「本当は驚かなかっただけでなく、『やはり日本が負けたか。これでようやく無益な戦争は終わる。真のインド独立のために戦える』と安心したのだろうが、日本人の前では言いにくいのだろう」と私なら考えます。

「あなたはなんて美しい人なんだ」「あなたの子どもは本当によくできます」と言われたら、誰だってお世辞と考えて、割り引いて受け取るでしょう。国だって同じです。普通、相手の前だと、相手の国について褒めようとします。「日本は素晴らしい国です」と言われて、割り引いて受け取る、という当たり前のことが、なぜできないのでしょうか。

著者は太平洋戦争を「日本と欧米列強の東南アジア領土の取り合い」くらいにしか考えていないのかもしれません。そして、この考えは重光葵をはじめ当時の多くの日本人の国際感覚であり、それが日中戦争と太平洋戦争の悲劇を生んだ最大の原因です(断定します)。

私にとって残念なのは、当時の日本人の誤った国際感覚の本を、戦後70年たっても、現在の日本人が平然と書いていることです。おそらく、著者はその異常さに全く気づいていません。

このままでは戦後100年たっても、日本人は「なぜ日本は負けると分かっている第二次世界大戦を始めたのか」の疑問に答えられないかもしれません。戦後200年頃には、いいかげん、一般の日本人がその答えを知っておいてほしいです。

日本の歴史学会はいつになったら客観性を身に着けられるのか

大英帝国親日派」(アントニー・ベスト著、中央公論新社)を読んで、またも日本人として悲しくなってきました。

上記の本は、第一次大戦と第二次大戦の戦間期の日英外交の中心人物たちの考えを紹介しています。当時の外務大臣を始めたとした日本の外交官は、イギリスをひどく誤解しています。「日本と中国が対立したら、イギリスは日本の味方になってくれる」「イギリスは中国の権益を放棄してくれる」と一方的な期待を抱くだけでなく、イギリスの一部の外交官も同意見だ、と重光葵などは本気で考えていたようです。どうやったら、ここまでメチャクチャな誤解を持てるのか疑問ですが、イギリスの複数の外交官たちも太平洋戦争前に「イギリスが強くでれば、日本がイギリスと本当に戦争を始めることはないだろう」と考えていたので、どっちもどっちかもしれません。

だから、私が悲しくなったのは、当時の外交官たちの異常な国際感覚ではありません。残念なのは、過去の戦争についての情報が十分揃った今でさえ、日本の歴史学者の間では「重光葵の誤解」が跋扈している、と本で知ったからです。本の冒頭で、著者は「当時のイギリスが真剣に対日妥協や宥和政策を模索したと信じている日本人研究者が今もいると知って、私は大変驚いた」と書いています。

このブログの最初から何度も嘆いていることですが、日本人はいまだに歴史の失敗を総括できていません。事実を正確に把握する、という簡単なことすら、なぜかできません。重光葵のような優秀な外交官が間違えるはずがない、と信じたいからなのでしょうか。重光葵の頭がどれほどよかったか私は知りませんが、どんなに頭のいい人でも他人の頭の中までは分からない、という当然の事実なら私も知っています。「重光葵チェンバレンの考えをこう見ていた」と「チェンバレンはこう書き留めていた」の二つがあれば、後者が正しいに決まっています。まさか日本の歴史学者たちは「チェンバレンはそう報告していたが、本心は別で、それを重光葵は見抜いていた」といった理屈が世界で通用すると本気で考えているのでしょうか。

学者たちが本来研究すべきテーマは「謙虚を美徳とする日本で、なぜ日本人は臆面もなく日本びいきの見解をしたがるのか」ではないでしょうか。

病気の子どもは保育園に行かないべきか

病児保育なるものがあると知ったのは、私が病院で働くようになってからです。病児保育とは、病気になった子どもを保育所ではあずかれないので、保育所の代わりにあずかってくれる施設です。子どもが病気になったからといって、両親は仕事を簡単に休めない時があるので、国も病児保育の拡張を推進しています。

病児保育拡張の前に私が気になるのは「病気になった子どもを保育所ではあずかれない」という点です。

(僕が子どもの頃は、そんなルール、なかった気がする)

病気であっても元気に動いているなら、母親は保育園に私を平気で連れていっていました。生まれてから今まで私は混じりっけなしのバカなので、風邪でもあまり気にせず、保育園も学校も仕事も行っています。本当に辛いときは学校や仕事を休みますが、クリニックに行っても風邪や胃腸炎と言われるだけで、(特に医療者になってからは)それらに有効な薬がないのは分かっているので、クリニックにかかることもなく、横になって栄養だけ摂っています。私が風邪で保育園に行っても、保母さんが体温計で熱を測ることもなく、「鼻水出ているねえ」と言いながら、普通に受け入れていたように記憶しています。

現在、私は0才児の子どもがいますが、生後6ヶ月を過ぎて母親の抗体が切れたため、風邪や胃腸炎にかかりまくっています。この前の年末年始、ノロ(おそらく)で1日10回も下痢していて、ようやく下痢しなくなったと思ったら、昨日、派手に嘔吐して、またも下痢が始まりました。

(ロタはワクチンを打っているので、今度はなんだ?)

そう思って調べてみたら、ノロは遺伝子が31種類もあるので、再度ノロの可能性もあると知って、「また1週間も下痢地獄が続くかもしれないのか」とげんなりしています。胃腸炎とは別に、先週から鼻水も出っ放しなので、風邪にも感染しているようです。しかし、子どもをクリニックには連れていっていません。赤ちゃんにミルク飲ませても嘔吐してしまうと救急外来に受診する父母対応に、私自身、悩まされた経験があるからです。「一度に飲ませると吐いてしまうので、少しずつ時間を空けて飲ませてください。こんなに力強く泣いている間は問題ありません」といった言葉は1年間で20回は言ったでしょうか。

「子どもはなんの抗体も持っていないから、一度、ほとんどの感染症にはかかります。そのおかげで、将来、同じ病気にかからなくなるので、むしろ安心していいと思います」

こう言ったこともありましたが、扁桃体が興奮しまくっている両親に、そんな理屈は通用しませんでした。(目の前にこんなに苦しそうな赤ちゃんがいるのに、心配しないでいられるか! 今死んだら、将来もないだろう!)という目で見られたので、同じセリフは二度と言いませんでした。

しかし、私の子どもが病気になった時の感想も、上の理屈と同じです。

(保育園も学校も行っていない間に病気になってくれて、よかった。どうせ感染するなら、今感染してくれた方が時間の有効利用だ)

ところで、どうして私の子どもは風邪や胃腸炎を連続で発症しているのでしょうか。まあ、思い当たる節は、山のようにあります。私の食い意地を遺伝させてしまったようで、子どもはバカみたいになんでも口に入れます。自宅の中だけならあまり感染しなかったでしょうが、近所のスーパーのキッズルームで手当たり次第に玩具を口に入れています。あれで経口感染しないわけがありません。冬になってから鼻水は際限なく出るし、空咳は止まりませんし、嘔吐も下痢もよくしますが、それでも元気に叫んで、動き回るので、生まれてから今まで、K2シロップや軟膏を除けば、薬を使っていません。

こんな考えに基づいて子どもの健康を管理しているので、「子どもが病気の時に保育園を休ませなければいけない」理由に、納得できません。インフルエンザだと「発症した後5日を経過し、かつ、解熱した後2日(幼児にあっては3日)を経過するまで出席停止」と法律で決まっていますが、変えるべきだと思います。新型インフルエンザなら分かりますが、ワクチンのある普通のインフルエンザで、乳幼児の死亡率0.1%未満のインフルエンザで、ここまで法律で決めるべきではないでしょう。もちろん、休みたい人は休んでいいですし、本当に重症なら休むべきですが、インフルエンザと診断されたら、全員一律で休ませることはないと考えます。

私の友だちに、医療資格の国家試験の時、インフルエンザにかかった人がいました。休むと1年間浪人することになるので、周りに迷惑をかけるのは承知で受験し、合格していました。もしかしたら、彼の近くにいてインフルエンザになった人もいたかもしれませんが、彼を責めることはできないと私は考えます。インフルエンザになったら、「他の人にうつさないよう、外出しないでください」と医者はよく言いますが、毎年、あそこまで流行しているのですから、知らないうちにインフルエンザをまき散らしている人なんて山のようにいます。一人の感染者が外出しない程度で、どれくらい感染抑制効果があるのか私はいつも疑問に感じています(誰か統計的に調べてほしいです)。本当に重要なのは、インフルエンザの予防接種と、インフルエンザに感染しても重症化しないような基礎体力作りではないでしょうか。

インフルエンザでさえ上のように私は考えているので、風邪や胃腸炎程度で強制的に保育園を休ませるのに反対です。医学的にいって、抗体のない幼児は感染症にかかるものですし、免疫力を作るために、かかるべきです。幼児同士で感染症をうつすのは自然ですし、将来のことを考えれば、むしろ好ましいはずです。幼児は脂肪細胞が大人と違って発熱しやすいので、38℃程度で休ませていたら、病児保育がいくらあっても足りません。両親だって、病児保育よりも、いつもの保育園に行かせたいはずです。だから、登園したら体温を測るなんてバカなことはやめて、(私の子どもの頃のように)多少の病気なら保育園や幼稚園は強気で受け入れることを提案します。

米中首脳はホットラインと軍縮条約を結ぶべきである

「米中もし戦わば」(ピーターナヴァロ著、文藝春秋)は中国の軍事的脅威を理解するために有益な本でした。

アメリカが誇る空母軍を無力化する新兵器を中国が開発している、対衛星兵器により制空権ならぬ制宇宙権を中国が事実上持っている、5000㎞にも及ぶ地下万里の長城で運ばれる核兵器を破壊する方法が存在しない、などの衝撃的な情報が載っています。この本だけなら、中国とアメリカが戦争すれば、中国が勝つ、という結論になってしまいます。そうなると、アメリカの軍事力に頼る台湾や韓国や日本に、中国と軍事対決できる能力はなく、少なくともアジア圏は中国の横暴がまかり通ってしまいそうです。

そこまでは納得できるのですが、その対策が次の二択なので、ズッコケそうになりました。

 

1、中国の脅威を煽り立てるのは、軍事産業とつるんだ右派の陰謀なので、軍備増強させることはない

2、十分に軍備増強させ、中国の軍事力を抑止すべきである

(本文そのままの表現ではありません)

 

アマゾンの書評をざっと読む限り、上のような二択の異常さにほとんどの人が気づいていないようです。もし本当に上の二択のような対策しか浮かばなかったら、その人は約50年間も続いた冷戦の歴史からなにも学んでいない、と断定されていいでしょう。

冷戦が第三次世界大戦にならず終わった理由はなんでしょうか。

一つは、お互いが相手を何度も滅ぼせるほどの攻撃力、具体的には核兵器を持っていたからです。こちらが核攻撃したら、相手からも即座に核で反撃されます。相手は滅ぶかもしれないが、こちらも滅んでしまいます。結果、核戦争は世界の終わりを招来するだけになるでしょう。だから、こちらからも、あちらからも核攻撃できない、と冷戦の両当事者が了解していました。

しかし、上記はあくまで仮説です。人類はまだ核戦争を経験していないので、本当の核戦争がどうなるかは誰も確かなことは言えません。もしかしたら、相手から反撃される前に、こちらの核攻撃で相手の核兵器が全て破壊されて、こちらが一方的な勝利を得るかもしれません。しかし、もちろん、相手も同じことを考えています。だったら、こちらが一秒でも早く核攻撃を開始すべきです。そう考えて、一方が核発射ボタンを押す可能性は常にありました(あります)。

ここが核抑止論の弱い点です。そもそも、「お互いに相手を殲滅できる武器を持っていたら、お互いに攻撃しない」という理論が人類の歴史で通用してきたでしょうか。アメリカではヒトを殺傷できる銃という武器が社会に広く普及していますが、それで殺人事件が減ったわけではなく、むしろ先進国で殺人事件が一番多くなっています。上の理論は、国家間の歴史で冷戦以外では通用しませんでしたし、個人間では現在でも全く通用していません。

だとするなら、冷戦だけ上の理論が通用したのは、核抑止論だけではないはずです。より重要な点は、「お互いに話し合いの場を設けていた」ことのはずです。具体的には、安全保障理事会を含む国連と、キューバ危機後のホワイトハウスクレムリン間のホットラインです。国連という場がなければ、キューバ危機が第三次世界大戦になっていた可能性は遥かに高かったでしょう。また、米ソ首脳のホットラインがなければ、第三次世界大戦開始寸前事件はキューバ危機以外にも発生していたに違いありません。ホットラインが直接発生を防いだ証拠はないようですが、ホットラインがあるため、お互いが疑心暗鬼にならなかった効果は無視できません。

だから、中国の軍事力の脅威がある今、なにをすべきかと言えば、中国の中南海アメリカのホワイトハウスを結ぶホットラインを作ることでしょう。

また、同じくらいに重要なことは、米中が核兵器を含めた軍縮条約を結ぶことです。「米中もし戦わば」の提案通りに、中国に合わせてアメリカが軍備増強しても、中国がそれを上回る軍備増強をするだけです。米ソがそうであったように、軍拡競争には際限がありません。キューバ危機後、世界の終焉を間近に感じた米ソ首脳は、部分的核実験禁止条約、NPT、INF、STARTと核軍縮を進めました。人類を何十回も絶滅できる兵器を既に持っているのに、それでもまだ足りないと軍拡競争するなんて、誰が考えてもバカげています。どこかで歯止めをかけて、軍縮に向かうべきです。

上記のように、中国は対人工衛星兵器を既に持っているようです。一方、冷戦時代には、米ソ間で衛星攻撃は控える、と暗黙の了解があり、どちらも対人工衛星兵器は持っていませんでした。なぜなら、もし衛星が攻撃されたら、通信ができず、状況が把握できなくなるので、疑心暗鬼になって、米ソが核の先制攻撃をしてしまうからです。本の著者は「だから、アメリカは中国を上回る対衛星兵器を持つべきだ」と主張したいようですが、そんな発想になること自体、私には謎です。わざわざ書いた米ソの前例の通り、「だから、アメリカと中国はお互いに衛星攻撃をしない約束を結ぶべきだ」になるでしょう。

こんな主張をすれば「話し合いで解決するのなら、どの国も軍隊なんて持たない。中国に軍縮は何度も提案しているが、中国が乗ってこないんだ」「中国はなんでも秘密にする。ホットラインなんて作れるわけがない」といった反論が返ってきます。

だからこそ、その理想に向けて、国際世論を作るべきです。「米中は軍縮条約を結ぶべきだ」「米中首脳のホットラインを作るべきだ」と日本人を含めた全人類が声を上げるべきです。このブログを読むくらいの人なら分かるでしょうが、今の中国は冷戦期のソ連ほど、アメリカを敵視していませんし、アメリカと交渉することを嫌がりません。一般的な中国人はアメリカへの強い憧憬を持っているので、数はもちろん率でも、日本人より多くの中国人がアメリカに留学しています。中国都市部のネット社会は日本よりも進んでいるため、共産党が必死になって情報統制しているものの、限界があります。間違いなく、昔のソ連よりも現在の中国が開かれた社会ですし、世論に政治を左右されます。ソ連でさえアメリカと戦争せずに済んだのですから、国際世論の力で、今の中国をアメリカと戦争せずに済ませるのは、十分可能なはずです。

しかし、現実として、米中の軍縮を促進すべき、との声は今現在、ほとんど聞かれません。日本人に限らず、世界中の人が中国の急成長についていけず、中国をみくびっているためかもしれません。その間違いを知るために、「米中もし戦わば」を読むべきです。本来、この本はそのように活用されるべきでしょう。

当たり前のことを書きますが、アメリカ人も、中国人も、もちろん日本人も、戦争はしたくありません。それなのに、なぜ殺人兵器を作り続けるのでしょうか。冷戦が熱戦にならずに終わった今、その発想に根本的な間違いがある、と全ての人類が知るべきです。

六者協議は無意味であった

「二つのコリア」第三版(ドン・オーバードーファー、ロバート・カーリン著、共同通信社)は朝鮮問題、特に北朝鮮問題を考える上で、必読書でしょう。ここまで本質を突いた本は、日本人の著作では存在しないように思います。いまだに六者協議を開催すべきである、北朝鮮の核問題を解決するためには日本を協議に加えるべきである、と考えている人は、特に読むべきです。その考えが完全な間違いであると理解できるでしょう。この本は、六者協議は北朝鮮の核問題の解決には全く意味がなかった、むしろ悪化させた事実を客観的に示しています。

北朝鮮が核開発をやめようとしていた時期があったことを、どれくらいの日本人が知っているでしょうか。1994年に第二次朝鮮戦争勃発寸前までいった後(これがどれくらい切羽詰まった状態にあったかを未だに知らない日本人も多いと思いますが)、少なくとも2000年まで、北朝鮮は核開発を進められない状況にあり、IAEAの査察も受け入れていました。アメリカと友好関係を築きたい、としか思えない外交を金正日が進めていた時期でもありました。それらの北朝鮮非核化外交が、ブッシュ政権によって完全に失敗したことは、北朝鮮問題の基本中の基本知識です。

ここから、他の外交問題も加えたテーマになります。日本の外交は基本的な情報を共有していないのでしょうか。「日本外交のトラウマ 」で私は藪中三十二アフガニスタン外交でのアメリカへの反論を絶賛しましたが、「国家の命運」(藪中三十二著、新潮新書)に記されている藪中の北朝鮮外交は、もはや外交の体をなしていないほどひどいです。拉致問題を異常に重要視しており、北朝鮮はもちろん、他の全ての国から呆れられています。拉致事件は、韓国で日本の何十倍も発生していますが、韓国は拉致事件など六者協議で持ち出していません。それよりも核問題が比較にならないほど重要であることは論をまたないからです。六者協議の経緯の基本情報を共有していたら、あるいは、既に発売されている「二つのコリア」の第一版を読んでいれば、それは明らかです。日本のエリート中のエリートであるはずの外交官が、なぜこんな初歩的なミスをするのか疑問でなりません。

日本は今も不平等条約を結んでいる」という記事で、首相を含めた日本の外交官が日本の密約を熟知しておらず、何度もトンチンカンな対応をしてしまった事実を示しました。しかし、当たり前ですが、「知ってはいけない」(矢部宏治著、講談社現代新書)が2年前に出版されたので、今の外交官は、それらの事実を知っているはずです。特定の公人だけが閲覧できる秘密文書ではなく、一般の書店で購入できる本に書いてあるのですから、秘密でもなんでもありません。しかし、上記の本出版後も、日本の外交には、なんの変化もありません。このおかしな日本と米軍関係を変えようと声高に主張する外交官は政治家も含めて、一人も現れていません。

アメリカは不平等条約の締結を目的としていなかった」に書いた通り、幕末にペリーが日本へ来た目的は不平等条約を結ぶことではありませんでした。日本の外交官の無知によって不平等条約を結んでしまったミスを、現在の日本の外交官がどれくらい知っているか調べてほしい、とも幕末外交の一連の記事で私は主張しました。もちろん、外交官は歴史家ではないので、150年も前に結んだ条約、とっくの昔に効力が切れた条約について、調査研究する責務はありません。しかし、日本の歴史を変えるほどの重要な条約の基本知識は最低限、持つべきです。

まして、北朝鮮の外交をまさに担っていた者(藪中)が市販されている「二つのコリア」を一読していたら、まず思いつかないようなメチャクチャな見解を自著に残している事実は、不思議としか言いようがありません。日本の外交官は、一般書籍の基本情報すら把握していないほど、無能なのでしょうか。あるいは、知っていてもそれまでの外交方針を変えようとしないほど、意欲がないのでしょうか。

日本にも外交研究者は100名以上いるはずなので、日本の外交官たちの外交知識と意欲について、誰か本当に調べるできでしょう。

看護師資格をなくすべきである

私の母校は総合大学なのですが、医学部には最も入学難易度の高い学科と、最も入学難易度の低い学科がありました。言うまでもなく、医学科は他の全ての学部学科から群を抜いて偏差値が高く、看護学科は他の全ての学部学科から群を抜いて偏差値が低かったのです。

費用対効果にちなんでいえば、学力対年収で最も高い職業は看護師でしょう。学力的に看護師は最も簡単になれるのに(大卒の看護師ならまず留年なしで卒業できて、国家試験合格率は90%)、年収は一般の大卒よりも遥かに高いです。私も一般企業時代、看護師の給料の高さは心底羨ましかったものです。

現在、私は病院で毎日働いていますが、看護師が資格職である必要はほとんどないと確信しています。医学的な判断はほぼ全て医師の指示を仰ぐので、看護師に必要な医学知識はないに等しいですし、看護師が間違った医学知識を持っていることは珍しくありません。器具の扱い方や現場での手順は知らなければなりませんが、それらは仕事をしながらも覚えられますし、実際、そうして覚えています。

こういった主張をすると、「実習期間はある程度必要だろう」「国家試験なしで看護師になれる国など聞いたことがない」といった反論が出てくるでしょう。それに対しては、「実習を受けた看護師、国家試験を受けた看護師がそうでない看護師より優秀なエビデンスはあるのでしょうか?」と逆に聞きたいです。

看護師よりも明らかに知識が重要であると思われる学校教員でさえ、免許の有無は質の高さとほぼ無関係というエビデンスがいくつも出ています。

f:id:future-reading:20191212202405j:plain

「学力の経済学」(中室牧子著、discover21)

もちろん、看護師は学校教員として違って、資格の有無によって質の差が出る可能性はあります。私はその可能性はほぼないと確信していますが、もしあれば看護師を資格職にすることに異論はありません。

教員がそうであるように、看護師が資格職でなくなれば、本来適性のある方が看護師になれるので、看護の質は上がります。また、現在のように恵まれすぎた高い給与でなくても、なり手が確実に現れるので、医療費が下がります。

なお、看護師以外の医療職、医師、リハビリなども現在のような資格職にする必要はない、と私は考えています。リハビリなどについては上記の理由とほぼ同じですが、医師を資格職かはずす理由は上記と異なるので、いずれ記事にするつもりです。

ガラパゴスな日本の部活

「そろそろ、部活のこれからを話しませんか」(中澤篤史著、大月書店)は「部活はあって当然」との誤解を解いてくれる本です。

本では、その歴史、および法体系から、部活の本質は自主性にある、と結論づけています。部活は学校で必ず習得すべき技能を身に着ける場ではありません。もし本当にそうなら、部活は教育課程に組み込まれて、通常の時間内に、全員必修にすべきです。しかし、そうでないからこそ、部活の存在意義があるようです。だから、生徒が嫌でたまらないのに部活を続けるのはおかしいですし、先生が嫌でたまらないのに部活の顧問を押しつけられるのも間違っています。

著者は「部活はとても恵まれている制度だ」と主張します。かりに部活がなかったら、部活のようにやりたいことをやるのは大変だからです。私も経験がありますが、一から定期的に活動する団体を立ち上げるのは、条件にもよりますが、かなりの精神力が要ります。著者はサッカー、草野球、タッチフット、ゴルフ、コーヒー、囲碁といった趣味の集まりを作りましたが、ほぼどれも長続きしなかったそうです。趣味の集まりが当たり前のように存在している学校の部活動は奇跡のように幸せな制度である、と著者は言います。

私は著者の意見に賛成です。だからこそ、次のような記述に強い違和感があります。

著者はある中学校の軟式テニス部が廃止された例を調査したそうです。そこでは、顧問教師が異動になって、9人の生徒が泣きながら部の存続を訴えたのに、新しい顧問のなり手がいなかったので、廃部になったそうです。その後、部長だった女子生徒にインタビューしたところ、「ふざけんな」「意味わかんない」「はあぁ? って感じ」「ムカつきましたよ」「この学校終わっているし」などとの暴言を吐いたあげく、机をバーンと叩いて、「納得いかないんですよ」と叫び、体を小刻みに震わせました。ここまで悪態をついているのに、著者は「ただ黙って聞いてあげることしかできなかった」と書いています。

この事実だけでも、著者の全ての主張を聞く価値は完全にないように私は感じてしまいます。なぜ「そこまで強い気持ちがあるなら、どうして地域で軟式テニス部を作ろうとしなかったのか?」が言えないのでしょうか。明らかに、彼女の怒りは理不尽です。部活動はあって当然のものではありません。著者の言う通り、部活が存在しているだけで、極めて恵まれています。それを全く理解していない若者以上に、著者の主張を言うべき相手がこの世に存在するのでしょうか。

部活はあまりに教師の負担になるので、地域活動に移行しよう、と何度も考えられてきました。しかし、周知のとおり、地域への移行はほとんど進まず、今も日本全国の学校で部活が行われています。その理由についてはともかく、部活と同等の活動は学校以外でも間違いなく行えます。事実、海外のほとんどの国では、少年少女のスポーツ活動、文化活動は、地域で行われています。本来の教育課程以上に部活が教師に負担感をもたらしているのなら、明らかに異常です。本来の教育課程は、生徒や先生がいかに負担を感じていようとも、学校である以上、必ず実施されなければなりませんし、その活動を存続させなければいけません。しかし、部活は自主活動なので、先生が生徒に存続を強要できないように、生徒が先生に存続を強要することもできません。日本では部活があまりに普及してしまったため、多くの日本人がその原則を忘れてしまっています。

著者は、部活をする最大の意義は、社会的に楽しむ練習にある、と主張しています。社会的に楽しむためには、どの頻度でどのように練習や試合をするか「決める練習」をしなければならないし、自分がコントロールできない他者と「交わる練習」をしなければならないし、自分たちが招いた結果を「ふり返る練習」をしなければなりません。どんなに熱意が強くても、あるいは、強いからこそ、楽しめない現実があったりすることを知らなければいけません。生徒が学校を卒業し、社会的に楽しむためには、その過程を踏むことが必要になってくるからです。その過程の枠組みを用意してくれて、先生という社会の先輩が管理してくれるものが部活です。

部活で素晴らしい体験をした人たちが「部活は人を成長させるものだから、全ての人がなんらかの部活に参加しなければいけないし、部活は存続させなければならない」と主張するのは、日本では通用するのかもしれませんが、世界全体では間違っています。著者が認めているように、「部活が人を成長させる」という質の高いエビデンスはありません。こういった事実を、全ての日本人が知っておくべきでしょう。

効果的な利他主義宣言

(社会全体の役に立つためにはどうすればいいのだろうか)

私はそんな答えのない問題を何度も考えたことがあります。私は他人の偽善を批判ばかりしていますが、多くの偽善は、ないよりはマシです。まして、偽善を批判して、なにもしない奴よりは、偽善を行う人は遥かに社会に貢献しています。だから、偽善を批判する以上、私は社会に役に立つ本当の善を実行すべきです。

その答えを示唆してくれたのが「効果的な利他主義宣言」(ウィリアム・マッカスキル著、みすず書房)です。この本では科学的に、定量的に、世界全体に役に立つ方法を示してくれています。その結論は拍子抜けするほど単純で「お金を稼いで、適切な慈善団体に寄付することだ」になります。

これには当然、反論もあるでしょう。

「どうやってお金を稼ぐかにもよるだろう。パワハラやって儲かっている奴でも大金を寄付すれば、社会貢献していると言うのか?」「慈善団体に寄付するのではなく、慈善団体で働く方が貢献できるのではないか?」「新しい発明品で暮らしやすい世の中にすることも大きな社会貢献ではないか?」「お金で解決できない問題の方が重要だ。本当に社会貢献するなら、政治活動した方がいいのではないか?」

上の疑問の多くには、上記の本でも考察されています。冒頭にも書いた通り、「社会全体の役に立つためにはどうするべきか」は答えのない問題で、それは本でも認めています。しかし、「社会全体の役に立つ尺度なんて存在するわけがない」考えて、好き勝手に生きるのも明らかに正しくありません。

「社会全体の役に立つためにはどうするべきか」といった大問題に、「効果的な利他主義宣言」ほど科学的な道しるべを示した本は、これまでの世界史に存在しないと思います。少なくとも私は、こんな本が存在していることに驚きました。

私のようにNGOや国連の偽善さに失望したことがある人、社会の役に立ちたいと思っているのにどうすればいいか分からない人には、強くお勧めします。

フェアトレードの偽善性

先進国で売られている多くの製品は、発展途上国の人たちの労働によって作られています。先進国を豊かにしている物が、先進国では許されないほどの劣悪な労働条件で、先進国よりも桁違いに安い賃金で、先進国の生活を享受できない人たちによって、作られているのです。これはあまりに理不尽です。だから、発展途上国の人たちに適正な賃金を与えるようと、フェアトレード運動は生まれました。労働者が適正な安全基準の職場で、適正な時間内で働き、適正な社会保障を受けられて作られた製品だけが、フェアトレードの認証を受けます。

以上が、私のフェアトレードの最初の認識でした。10年ほど前の認識です。そのうちに「フェアトレードの認証を受けるためには、環境汚染にも配慮しなければならない」「フェアトレードとは消費者と生産者を結びつける運動だ」「フェアトレードは体にも優しい商品である」などといった情報も入ってきて、混乱してきていました。

そんな時、フェアトレードは偽善ではないか、と強い疑念を私に起こさせたのは「フェアトレードタウン」(渡辺龍也著、新評論)という本です。なんと、フェアトレードの定義について書かれていないのです。フェアトレードが世界をよくする運動であるためには、当然、フェアトレード商品が本当に適正な労働環境で作られているか、チェックしなければならないのですが、そのことについても、全く触れられていません。「フェアトレードはいい運動だ」というイメージだけで進めているようで、恵まれた金持ちたちの自己満足のような印象を強く受けました。

そのフェアトレードの偽善を、印象ではなく、科学的に示してくれた本が「効果的な利他主義宣言」(ウィリアム・マッカスキル著、みすず書房)になります。

まず、フェアトレードの基準は最貧国で満たすことは難しく、より豊かな発展途上国フェアトレード商品は作られています。例えば、フェアトレードコーヒーは最貧国のエチオピアではなく、10倍も豊かなコスタリカやメキシコで作られています。コスタリカ人への数ドルよりも、エチオピア人への1ドルの方が社会的価値は高いので、これでは、フェアトレード商品よりも、そうでない商品を買うべき、となってしまいます。

次に、通常の商品以上にフェアトレード商品に支払われる余分なお金のうち、最終的に発展途上国の生産者の手に渡るのはわずか1~11%に過ぎないそうです。残りは、中間業者や手配するNGOの手に渡ってしまいます。

さらに、ロンドン大学東洋アメリカ研究学院のクリストファー・クレイマー教授の研究チームが4年がかりで調査したところ、フェアトレードの労働者たちは、そうでない同様の労働者たちと比べて、体系的に賃金が安く、労働条件が劣悪だったようです。どうも中間搾取が原因らしいですが、理由はともかく、他の調査でも同じ結論が出ています。前回の記事にも示したように、正しく思えるプロジェクトが、科学的に検証してみたら、実は正しくなかった例でしょう。

最後の結論はフェアトレードの全否定になってしまいますが、フェアトレード推進派のために書いておくと、上記の「他の調査」の数は、それほど多くないようです。「効果的な利他主義宣言」も、以上のような批判をしながらも、フェアトレードを全否定まではしていません。せいぜい比較的裕福な国の労働者に小銭を与えられる程度、と結論づけています。

ただし、フェアトレードに科学的な事後検証制度がなさそうなので、上のような全否定の結論が出ても不思議ではない、と私は考えています。

本当の善と偽善の差

「効果的な利他主義宣言」(ウィリアム・マッカスキル著、みすず書房)は極めて興味深い本でした。「知ってはいけない」(矢部宏治著、講談社現代新書)が日本中の全ての人に読ませたい本なら、「効果的な利他主義宣言」は世界中の全ての人に読ませたい本です。

出だしのプレイポンプとICS(investing in children and their societies)の話が、偽善と本当の善の区別をよく表しています。

プレイポンプは、アフリカの農村の女性が何㎞も歩いて水くみにやってきて、ポンプの前で何時間も順番待ちをしている光景にショックを受けた男が、純粋な親切心から発明しました。普通のポンプと違って、子どもたちが遊ぶことができ、ぶら下がってぐるぐる回るエネルギーで、水をくみ上げられます。さらに、貯水タンクの側面に広告看板を載せ、その収益でプレイポンプの維持費を賄います。

男は1995年に1台目を設置してから、多くの企業や政府機関と関係を築き、1999年までには50台までプレイポンプを増やします。2000年には世界銀行開発市場賞を得たことで、大企業AOLの社長が資金を提供するようになり、2005年、数千台のプレイポンプがアフリカ全土に導入する計画ができます。2006年のタイム誌で元アメリカ大統領のクリントンがプレイポンプを素晴らしいイノベーションと絶賛し、当時のファーストレディのローラ・ブッシュが1640万ドルの助成金を提供しました。

雲行きが怪しくなってきたのは、ワールド・ビジョンユニセフ、スイス開発資料センターとSKATがプレイポンプを実地調査してからです。

公園にある回転遊具は一定の勢いがつくと自動的に回りますが、プレイポンプは回転エネルギーを水をくみ上げるエネルギーに変換するので、回転するには常に力を加え続けなければなりません。だから、プレイポンプは子どもたちをすぐに疲れさせますし、あまり楽しい遊具でもありません。ほとんどの場合、結局は村の女性たちが自分でプレイポンプを回すはめになっていたようです。

さらに驚くべきことに、何千台もアフリカに設置する計画まで立てているくせに、プレイポンプが必要かどうか、現地の者に誰もたずねていなかったそうです。実際にたずねてみると、多くの人は以前の手押しポンプがよかった、と答えました。なぜなら、以前のポンプの方が少ない労力で1時間あたり1300リットルの水をくみ上げられるのに対し、プレイポンプはより労力がかかる上に、1時間あたりでくみ上げられる水の量も少なかったからです。

また、プレイポンプの多くは数か月で故障していたことが判明します。しかも、ポンプの機構部分が金属のケースで覆われていたため、以前の手押しポンプのように村人自身で修理することは不可能でした。村の住民はメンテナンス依頼用の電話番号を受けとるはずでしたが、なぜか番号が伝っておらず、かりに伝わっていても、電話がつながらない時が多かったそうです。当初の計画通りに広告を出してくれる者が集まらず、維持費が賄えていなかったのです。

おまけに、プレイポンプのコストは1台あたり1万4000ドルで、手押しポンプの4倍もします。

こういった事実が明らかになると、メディアが手のひらを返して、プレイポンプの大バッシングを開始したことは言うまでもありません。完全な善意から始まった事業は、見事なまでに無意味な偽善と様変わりしたわけです。

一方、ICSはケニアの教育レベルを上げるオランダの慈善団体です。ICSは現地の14の学校のうち、あるプログラムを7校で実施し、残り7校は普段のままにして、どちらのグループがうまくいっているかを比較する「ランダム化比較試験」を行いました。

まず、ICSは学校に教科書を支給するプログラムを実施しました。生徒30人の教室に教科書が1冊しかないことも珍しくなかったため、教科書の充実で学習効果が高まることに疑問の余地はありませんでした。しかし、教科書を支給された学校と、そうでない学校で、テストスコアの成果に差はありませんでした。どうも、教科書が現地の子どもにとってレベルが高すぎたようです。

教材を増やしてダメだったので、教員を増やしてみました。大半の学校には教師がたった一人しかいなかったので、この教育効果も明白のように思います。しかし、やはり教育効果はゼロでした。その理由は本に書かれていないので、謎です。

普通の対策の失敗で血迷ったのか、次にICSは駆虫プロジェクトに取り組みます。公衆衛生の向上のためでなく、教育効果の向上のためです。費用はそれほどかかりません。既に特許が切れている薬を使えば、子どもたちの体内から腸内寄生虫を簡単に駆除できます。学校を通じて薬を配布するので、出席率、就学率が上がります。

この方法で嘘のように教育効果が出ます。駆虫した子ども一人あたり2週間も学校の出席日数が増えるので、駆虫プログラムに100ドル費やすたびに、全生徒の合計で10年間に相当する出席日数が増加します。さらに、ICSが10年後の子どもたちの追跡調査を行うと、駆虫を受けた子は、そうでない子に比べて、週の労働時間は3.4時間、収入は2割も多かったそうです。

プレイポンプとICSの差はどこにあったかは明らかでしょう。科学的な事後検証の有無です。

「これはいいに決まっている」と思うプロジェクトで、しかも、事後検証でうまくいっているように思えるプロジェクトでも、ランダム化比較試験してみたら、実はうまくいっていなかった例はごまんとあります。「根拠に基づく政策立案(EBPM)」で示した「非行少年少女を受刑者たちと交流させる」プロジェクトの失敗は、そのいい例でしょう。私は知りませんでしたが、このプロジェクトは1978年から放送された「スケアード・ストレート」というドキュメンタリー番組に起源がある、と上記の本に書かれています。非行少年少女が刑務所を見学して、自分の非に気づき、更生していく様は多くの者の感動を呼び、スケアード・ストレートはアカデミー賞や8つのエミー賞を獲得しています。しかし、9つの科学的観察により、刑務所見学した非行少年少女と、そうでない非行少年少女を比べると、刑務所見学組の方が60%も犯罪率が増加していると判明します。理由は不明ですが、結論として、非行少年少女に刑務所見学させるプロジェクトは、お金がかかる上、社会に有害だと分かったのです。

それに関連して、日本のアフリカODA批判と、開成高校の入試問題と、最近の朝日新聞で発見した不毛な議論の記事を書きました。

一方、「効果的な利他主義宣言」は根拠を示して、フェアトレードの効果を疑問視していたりします。次の記事に続きます。

平田オリザの提言

「下り坂をそろそろと下る」(平田オリザ著、講談社現代新書)は、平田オリザの著作である時点でほとんど期待していませんでしたが、その予想を見事に裏切って、興味深い本でした

「ヨーロッパのように、失業者割引を導入すべきだ。『失業しているのに劇場に来てくれて、ありがとう』『貧困の中でも孤立せず、社会とつながっていてくれて、ありがとう』と言える社会を作るべきだ」

「『なぜ、日本は高速鉄道の輸出で苦戦するのか』 この質問に大阪大学大学院生たちは『オーバースペックでコストがかかりすぎる』『安全基準が違う』『在来線の線路を併用する欧米型と、新線として敷設する新幹線では規格が異なる』といった正解を言ってくれる。しかし、『もしも君たちがドイツやフランス、あるいは中韓のライバル会社の営業マンだったら、どのようなネガティブキャンペーンを張るだろうか?』といった質問には弱い。自己の技術の素晴らしさの主張はできるのだが、相手が自分のどの弱点を突いてくるかの観点は、ほとんど持ち合わせていない。もし私なら、このように囁くだろう。『あれは、日本人が日本でやってるからできるんですよ』 もっと性格の悪い営業マンなら、こう付け加えるかもしれない。『ちょっと気持ち悪いですよね』」

「日本中の観光学者たちが口を揃えて、少子化だからスキー人口が減った、と言う。しかし、劇作家たちはそう考えない。スキー人口が減ったから少子化になったのだ。かつて二十代男子にとって、スキーには、女性を一泊旅行に誘える最も有効で健全な手段だった。それが減ったら、少子化になるに決まっている。当たり前のことだ」

特に私が感銘を受けたのは、次のような主張です。

「知識を詰め込むだけの教育は、工業立国には有効だが、これからの日本には有効でない。従順で根性のある産業戦士は、中国と東南アジアに10億人はいる。これからの日本には、文化を創出する人が必要である。そのために、センスを養う教育を施さなければならない」

センスを養うための教育の例として、平田オリザが四国などで実際に行っている教育手法が多くのページを割いて紹介されています。

「センスを養う教育こそ重要である」「今の日本には出会いの場が少ない」「出会いがないから、少子化になる」「少子化対策として『結婚を取り持った仲人に5万円の報奨金をプレゼント』『同窓会の費用を助成』。どれもセンスのあるアイデアでない」「出会いの場を作るセンスが必要である」

センスを養う教育は、その真逆の知識偏重教育を重視する私では、なかなか浮かばない案です。確かに、その通りでしょう。ただし、豊富な知識があるからこそ、新しいセンスが生まれる側面もあるはずです。

また、センスの良さを客観的に測るのは難しいです。そのため、入試などの人生を左右する場でセンスが判断基準になると、不公平さが増します。上記の本では、「小説の一部分を切り取って、小学生向けの紙芝居を作る」「AKB48ももいろクローバーZのダンスを実際に踊ってみて、それぞれのビジネスモデルの違いを討議し、新しいアイドルのプロモーションを考える」「四国の観光プロモーションビデオのシナリオを作る」などの入試問題の例がありますが、これらだと「たまたまそのテーマなのでうまくいかなかった」ことが十分に起こりうるので、試験の出来に偶然の要素が強くなりすぎるでしょう。

それに、日本ほど実技教育に力を入れている国は、私の知る限り、他にありません。特に小学校ほど顕著ですが、日本中すべての学校で、美術、音楽、書道、体育が行われ、さらに運動会、音楽会、学芸会などが毎年のように開催されています。中高のクラブ活動も、プロスポーツクラブの少年部に匹敵するほどの時間を使い、日本中で熱心に取り組まれています。海外に一度でも暮らしたことのある人なら知っていると思いますが、「日本の学校には必ずプールがある」と外国人に言うと、みんな驚きます。ここまで幅広くいろいろな活動にすべての日本人が(いい悪いは別として)取り組んでいるので、日本人の卓抜した器用さが生まれていると私は確信しています。日本の学校教育が、知識偏重だとは全く思いません。

以上のような反論はありますが、「下り坂をそろそろと下る」は一読に値します。

なぜ日本はコンパクトシティの都市計画で50年間も失敗続きなのか

土地問題はいくつもの法が複雑に絡み合いますが、「老いる家崩れる街」(野澤千絵著、講談社現代新書)は都市計画の失敗について簡潔に説明してくれています。この本で何度も出てくる言葉が「焼き畑的都市計画」「住宅のバラ立ち」です。

市民の居住面積が大きくなればなるほど、人がまばらに住めば住むほど、都市としては効率が悪くなります。人の移動に時間とエネルギーがかかるだけでなく、電気や水道やガスや道路や鉄道などのインフラ整備に費用がかかるからです。これは科学的事実ですが、自然のクリーンなイメージに流されるのか、人の手の入っていない山の中で暮らす方がエコだと勘違いしている人がいるようです(私の経験でいえば、西洋人に多い)。

日本の多くの都市は、積極的に開発する「市街化区域」と、開発を抑制して自然環境を守る「市街化調整区域」に区分されています。市街化調整区域は農家などの一部の人だけに開発が認められて、原則、一般住宅は建てられない区域です。しかし、2000年以降、日本の約3割の自治体で市街化調整区域の規制が緩和され、住宅地の乱開発が進み、非効率な都市がいくつも生まれてしまいました。

一般に、市街化調整区域は市街化区域の周辺にあります。商業地区からは離れており、周りは農地だったりします。たとえ規制が緩和されたとしても、そんな不便な場所に、なぜ住みたがる人がいるのでしょうか。

理由は単純です。土地が安いからです。憧れのマイホームを安価で購入できるからです。しかも、市街化調整区域なら、インフラ整備に使われる都市計画税を払わなくていい特権があります。

一方、売る側(大抵は農家)のメリットは、土地が高く売れることです。農家たちこそが二束三文でしか売れない農地を宅地として売るため、市街化調整区域の規制緩和自治体に積極的に働きかけているのです。利益率の低い農業をやめて、利益率の高い不動産所得がもらえますから。

自治体は自治体で、これまで過疎化が進む一方だった市街化調整区域に人が住むようになり、他市からの流入なら税収増にもなるので、規制緩和のメリットがあるわけです。

もちろん、多くの建物を作れば儲かる建築業者も、規制緩和は大歓迎です。

買う側、売る側、行政側、作る側、4者全てよし! 一見、近江商人の三方良しのさらに上をいくかのようです。しかし、上に書いたように、より大局的な視野でみれば、日本全体の損になっています。

ある自治体の人口が増えたところで、日本全体の人口は減っているので、別の人口減に苦しむ自治体から住民を奪っていることになります。もともと都会に住んでいた人を、エネルギー効率の悪い郊外に移動させていることにもなり、インフラの維持費はかさむ一方です。

2000年の地方分権一括法が制定されてから、都市計画分野は「地方分権の優等生」と言われるほど、中央から地方に権限が委譲されました。結果、いくつかの自治体が我田引水になり、都市計画の規制を緩和し、日本全体が沈んでいる状況なのに、自治体同士でさらに足を引っ張り合ってしまいました。

バカな話です。

現在、日本の住宅総数は増え続けています。高齢者世帯が増えているので、世帯数も増えていますが、それ以上に住宅総数は増えています。必然的に空き家があちこちに現れ、既に820万戸もあります。野村総合研究所によると2023年には1400万戸、2033年には2150万戸、実に30%の住宅が空き家になるそうです。

空き家だらけなのに、なぜ住宅を造り続けるのでしょうか。それは「作れば売れる」からです。金が余りすぎている日本で、大金を注ぎ込める土地建物業界に規制をかければ、さらにお金の流れが悪くなり、不況になる、と考えられているからです。

どこまでもバカな話です。

1968年に日本が都市計画法を制定した理由は、無秩序な開発を規制して、コンパクトシティを作るためでした。まだ誰も少子化を心配していない50年も前から、日本はエネルギー効率のいいコンパクトシティを目指していたのです。

それがどうしてこうなったのでしょうか。

理由の一つは、「老いる家崩れる街」が指摘する通り、過去から現在まで、ほとんどの日本人が都市計画に無関心だからです。だから、買う側、売る側、行政側、作る側の一部の利害関係者だけで、都市計画が無秩序に進んでしまいました。しかし、実際には、それ以外の大多数の日本人も利害関係者なので、関心を持って、都市計画の規制を求めるべきです。

その著者の意見に同意したので、私はまだ土地問題の本質を理解していませんが、ここで記事にすることにしました。