未来社会の道しるべ

新しい社会を切り開く視点の提供

葬送の自由

「これからの死に方」(橳島次郎著、平凡社新書)は私の蒙を啓いてくれた本でした。何ヶ月かに一度、こういった本に出会えます。「浮浪児1945を読んで」にも書いたように、このような日本語の本の存在が(日本も捨てたものではない)と私に希望を与えてくれます。

この本では、「通夜、告別式、埋火葬、墓石の建立、墓参りと法事という一連の流れは、いずれも明治以降に都市部や一部の階層から始まって、第二次大戦後から高度成長期にかけて普及した新しい伝統」という歴史的事実が示されています。七五三、ひな祭りなどもそうですが、教養はないが親戚に恵まれたおかげで幸せな人生を送れている保守的な人たちから「由緒ある伝統」と思われていることが、しばしば、歴史の浅い習慣だったりします。日本の長い歴史のほとんどでは、死後、木の塔婆を立てるだけだったり、小さい自然石を置いたりする程度が普通です。この古い本来の習俗が、第二次戦後に急速になくなっていき、結果、広大な墓地を確保しようとするあまり、緑地が開拓され、環境破壊が進んでいます。

この本では「葬送の自由が制限されている」という論点があります。まず、死後といえども、人間の死体や遺体を不適切に傷つけ、捨てれば、死体損壊罪や死体遺棄罪に問われてしまいます。また、東京や大阪や名古屋などでは、土葬を禁止した条例があるので、土葬をすると違法になってしまいます。1991年に「葬送の自由をすすめる会」が当局に法規制を慎重に確認した後、神奈川県相模灘の沖合で遺灰をまくまで、遺灰をまくことが合法かどうか日本では不明でした。それまでは遺体遺棄罪として逮捕される恐れがあるので、遺灰をまくことは日本で自由にできなかったのです。「火葬後に遺灰をまきたい」と業者に頼んでも断られていました。遺灰をまくことまで業者に頼めるようになったのは、せいぜい10年前からです。

この本で興味深いことは、「自由を求める運動が認められると、他の自由を制限する運動に変わることがある」という指摘です。上記の「葬送の自由をすすめる会」の少なくない人たちは、火葬後に遺骨を引き取らない「0葬」を遺体の冒涜と考えて、反対しているようです。ただし、著者の言うように「自分の自由を認めてほしいなら、他の人の自由も認めなければならない」はずです。「遺灰をまく自然葬をする自由はあるが、0葬をする自由はない」とは言えないはずです。

こうなると、そもそも自由とはなんなのか、という議論にもなってきて「葬送の自由が日本国憲法にあるどの自由にあたるのか」についてまで、本では検討しています。その考察はここで省略しますが、間違いないこととして、亡くなった人の意思と、葬送をする人たちの意思が問題になってくることです。亡くなった本人以外の意思が問題になるのは、葬送は必ず本人でない人にしてもらう儀式だからです。もっと踏み込めば、本人の遺体処理の責任を負わされる人たちの意思こそが重要で、もうこの世にいない本人の意思は無視していい、という意見だってありえます。実際、日本の法体系では死者の意思能力は認められていないので、素直に解釈すると、そうなります。フランスでも、火葬が普及して遺灰の入った骨壺をゴミ捨て場や地下鉄の構内に放置したりする者が増えて社会問題化してから、「亡くなった人の遺骸は敬意と尊厳と礼をもって扱わなければならない」という民法の条文が2008年にできました。それまでは、遺灰を粗末に扱っても違法でなかったのです。

「これからの死に方」は私を啓蒙してくれた本ですが、この本の主張する「葬送の自由を認めるべきである」という意見に、私は反対です。その理由を述べる前に、この本の大きな欠点を指摘しておきます。本では「自由」という言葉が多用されているわりに「自由の社会的負担」、もっとありていにいえば、「お金の問題」がほぼ無視されています。

たとえば、「土葬をする自由は受け入れられるか」という小題があります。2013年の統計で、132万人の死者数に対して、土葬はわずか378件で、土葬の6割は胎児だそうです。日本の火葬率は99.97%で、世界一高いようです。上記のように条例で土葬を禁止または制限している地域もありますが、土葬を制限していない地域も多くあります。そういった地域でも伝統的な土葬が消滅していったのは、土葬が火葬よりも多くの人手を要するからです。結果、現在の日本で土葬を実現させるのは、非常に難しくなっています。

しかし、この事実から「土葬する自由がない」とは言えないはずです。それこそ「自由」の定義が間違っています。法律で一律禁止しているなら、確かに自由はありません。ただし、「人手がかかるから土葬が自然消滅して、その実現が難しくなった」のなら、お金さえあれば、人手を集めて実現できます。条例で禁止されているのなら、禁止されていない地域までいって、土葬してもらえばいいだけです。「どうしてもこの場所で土葬してほしい」自由は制限されてしまいますが、「どうしてもこの場所(例えば公園)に家を建てたい」という自由も当然制限されることから考えれば、仕方ないでしょう。だから、現在の日本でも、土葬の自由はありますし、受け入れられています。需要が少なくなって、その費用が高くなったのは、経済の摂理であり、やむを得ません。フランスのように、公費を使ってまで、葬送処理をすべきと私は考えません。

「寺院消滅」(鵜飼秀徳著、日経BP社)という本も私は読んだことがあります。他に神社が少なくなっていくことを嘆いている本も読みました。新聞などで、そういった記事が散見されるようになっています。率直に言って、それのなにが問題なのか、私には全く分かりませんでした。それだけでなく、それらの本や記事は「これは大問題である。日本人のあなたなら、当然分かるはずです」という前提で書かれていることが透けて見えて、嫌悪感さえありました。近所のスーパーがなくなって、遠出もできない現世の高齢者たちが生きづらくなっている方がよほど問題だ、としか思えませんでした。しかし、「これからの死に方」を読んで、ようやく上記の本や記事の著者たちが、なにを訴えたかったのか理解できたように思います。ここまで根本から葬送について記述してくれると、葬送のない文化から来た外国人でも(そんな文化があるのかどうか知りませんが)、葬送の重要性を理解できるでしょう。

この本の最後に、このような主張があります。

「個人を尊重した話し合いで、死後のことも決めていく姿勢を育てる生涯教育を充実させるべきだろう。流行の『終活』が個人の覚え書きや一方的な遺言の代わりを作って終わりにするのではなく、残される者との対話も含む方向に発展していくことを望む」

生涯教育を充実させるべき、という点には強く同意します。そして、生涯教育を充実させるべきなのは、葬送についてだけではないはずです。

根拠に基づく政策立案(EBPM)

ついに内閣府のHPにも証拠に基づく政策立案(Evidence Based Policy Making)という言葉が載ることになりました。日本の政治ではこれまで個別の観念や経験を元に不毛な議論を無数に繰り返してきました。これからの日本は、いくつもの価値ある統計がネット上に公表されていくでしょう。それらの統計を元に正しいか間違っているか判断できる(反証可能性のある)政策が立案され、事後に統計が出され、チェックされ、次回に政策を修正できる(CAPDサイクルを回せる)ようになっていくはずです。

2019年1月26日の朝日新聞のEBPMについての記事には、中室牧子氏が次のような例を述べています。かつてアメリカでは、受刑者たちに少年少女の犯罪防止教育を行わせていました。私は子どもの頃に「世界まる見え! テレビ特捜部」でそれを観たことがあり、その効果に不安を感じていました。私の不安は的中したようで、統計的に調べてみて、受刑者たちに教育を受けた少年少女は、そうでない少年少女より、犯罪率が高かったそうです。記事には「理由は分からない」と書いてありますが、理由などいくつも見つけられるはずです。頭の悪い奴が「俺みたいにならないように勉強しろ」と言っても説得力がないように、犯罪者が「俺みたいに悪いことせずに真面目にしろ」と言っても説得力はないでしょう。もっとも、受刑者たちに教育を受けた少年少女の犯罪率が下がる理由もいくらでも見つけられるのは事実です。ここで重要なのは「理由はともかく、統計的事実としてそうなった」ことです。「〇〇だから、その政策は間違っている」「いや、××だから、この政策が正しい」といくら理由を考えて議論しても、時間のムダになることは少なくありません。西洋式討論術にも書いたように、意見(理由)の正誤は判定できないので、正誤を決めるのは(優劣を決めるのは)事実になります。

中室牧子氏は「学力の経済学」という著書があり、これは私が読んだ100冊以上の教育本の中でも最高級に質の高い本です。「はじめに」で「子どもはご褒美で釣ってもよい」「ほめ育てをしてはいけない」「ゲームをしても暴力的にならない」と、断定できないことを断定しており、読む気を失くすかもしれませんが、全部読めば、(それらが断定できないことも含めて)なぜそう書いているかは理解できると思います。

「少人数学級にすべきかどうかの議論が観念論で何十年もされているが、少人数学級にした費用対効果が小さいという統計的事実はあまり考慮されていない」

「日本では全ての教員に教育研修を行い、莫大な公費も使われているが、最近の研究では教育研修が教員の質に因果関係はない、という結論が優勢である」

子ども手当のような補助筋は子どもの学力向上に因果効果を持たなかった。ただし、少人数学級は貧困世帯の子どもには効果が特に大きかった」

以上の指摘は、注目に値するはずです。

中室牧子氏はその本の中で何度も「日本では教育に関する(教育に限らないと思いますが)統計がほとんど存在せず、公表もされていない」と嘆いています。南アフリカ政府は、労働力調査や家系調査などの政府統計を全てインターネット上で公開しています。その理由は「データをネット上に公表すれば、論文のネタが欲しい世界中の優秀な学者たちがこぞって分析してくれるので、分析費用の節約になるから」だそうです。日本もこれを見習うべきでしょう。

環境問題と教養

今朝の朝日新聞のオピニオン&フォーラムの記事は興味深い内容でした。昨年、九州電力管内で太陽光発電業者らに出力抑制が出され、「原発の稼働を止めずに、再生可能エネルギーの出力を抑制するとはなにごとか」と朝日新聞を含む多くのメディアが批判的に報道したことに対して、専門家が反論しています。「海外では再生可能エネルギーの出力抑制は当たり前で、その5%が捨てられている。日本では初めて再生可能エネルギーの出力抑制が起きたから、ニュースになっただけで、マスコミは表面的に批判している。九州で昨年捨てた再生可能エネルギーはわずか0.2%である。電気は通常蓄えられないし、高価な蓄電池を作って無理にエネルギー保存しても、返って経済的に非効率だ。今回のニュースは、むしろ、捨てるほど再生可能エネルギーが増えてきた喜ばしい証拠である」という趣旨です。

事実と統計を元に本質を突いた指摘です。環境によくないニュースが実は環境にいいニュースだったり、環境に優しい行為が実は大して優しくない行為だったりした例の一つでしょう。

30才以上で環境問題に少しは関心のある方なら、「割り箸論争」は覚えているのではないでしょうか。「マイ箸を持って環境に優しいつもりでいる奴なんて偽善的だ」という批判です。「え? マイ箸はエコじゃないの?」とマイ箸を持ちながら真顔で聞いてきた無知な国立大学職員に会ったことがあるので、私も基本的に「マイ箸使用者≒偽善者」と考えています。ただし、「割り箸は端材を使用しているので、むしろ環境に優しい」と勘違いしている人にも私は会ったことがあります(日本で使われる割り箸のほとんどは端材から作られていない輸入品です)。なお、割り箸論争については、ネットにある「割り箸から見た環境問題 2006 - 環境三四郎」の「割り箸論争の整理」くらいは読んでおくといいと思います。

環境問題は気候、エネルギー、衛生、経済、文化などなどが複雑に絡み合います。「ルポにっぽんのごみ」(杉本裕明著、岩波新書)を読めば、環境問題を語るには広い知識が必要で、イメージやマスコミ情報だけで語ってはいけない、とよく分かるのではないでしょうか。

正直に白状すれば、私は環境問題について「まるで神学論争みたいだ。考えれば考えるほど訳が分からなくなった」「結論に直結する重要な点がいくつも不明のままじゃないか」「この程度の問題にここまで深く考察する価値あるのか」「結局、自分ひとり変わったって、意味ないってことだよな」「もういいや、好きにしよう」となったことが何度もあります。昨日まで持っていた見解が、たった一つの事実を知って、正反対の見解になったことも珍しくありません。

一方で、多くの事実や統計を知ることで、私の環境問題に対する見解が少しずつ洗練されてもきています。一つの環境問題を深めていくとで、社会全体の展望が急に開けたりもします。ほぼ全ての人間の営みは環境問題と無縁ではありません。環境問題にどれだけ深く語れるかについては、その人の教養の尺度になりうるでしょう。

2019年ではID代わりに住所を記入している

タイトルを読んで「令和のはじめの頃はまだ『住所』を書かせていた時代か」と思うのは、あと何年後でしょうか。

私は先日引っ越したので、市役所に転入届を提出してきました。たかがそれだけなのに3時間もかかりました。医者の仕事もAIに置き換わると本気で考えられている時代に、この程度の事務処理で午前中が潰れるなんて滑稽としか言いようがありません。銀行やクレジットカードの住所変更は、時間に余裕のある休日の夜にネット経由で済ませられました。引っ越しの契約は1ヶ月以上前に済んでいますし、新しい部屋に住んでもいます。なぜわざわざ有休を消化してまで、平日の昼に市役所に住所変更の申請に来なければいけないのでしょうか。

勤務先も変わるので、このところ氏名と住所を書類に何度も記入する機会があります。10回以上も書いていると、「氏名はともかく、どうして長ったらしい住所まで書かせるのだろう。なんのためにマイナンバーがあるんだ」と思ってしまいます。「日本が世界最高のAI国家になる方法」に書いたように、全ての金銭取引と全ての人の位置情報をネット上で公開すべきと私は考えています。その公的システムがあれば、住所変更の届出も、住所の記入も省略できます。

現在だって、昔だって、未来だって、「住所」と実際に住んでいる場所が違う人は必ずいます。住む場所が曜日によって違う人もいますし、ホテル暮らしの人もいますし、ホームレスの人もいます。このIT時代に、住所にこだわる理由が分かりません。

役人たちだって、たかが住所変更の申請に3時間も待たせるなんて非効率だ、税金のムダだと分かっているはずです。どうしてみんな分かっているのに、改革しないのでしょうか。「ネットを使えない日本人は何百万人もいる」「個人情報が洩れる可能性がある」「ハッカーに情報操作されると、日本中が大パニックになる」など、できない理由を一生懸命考えているのでしょうか。銀行やクレジットカードでできているのに、公的機関でできない理由はないはずです。

私が次に引っ越す頃には、住所変更のために有休を消化しなくてもいい時代になっていてほしいです。私の子どもが大人になるまでには、ID代わりに住所を記入する時代は終わっていてほしいです。

抗がん剤治療の費用対効果

ホスピスとも呼ばれる緩和ケア病棟が日本では保険適用されています。入院費用は5万円/日、入院期間は1ヶ月までになります。「日本のリハビリテーションに欠けているもの」に示した通り、急性期の入院費用の3万8千円/日よりも高額です。緩和ケア病棟に1ヶ月いれば単純計算で150万円にもなりますが、ほぼ確実に高額医療制度に該当するため、自己負担額は大抵10万円未満で済みます。医療での回復が見込めないがん患者さんが対象なので、医師の仕事量は急性期病棟と比べると格段に少ないのが実情です。税金のムダとの批判が強い療養病棟と大差ない気さえします。私が医師にその疑問を投げかけると、こんな返答がきました。

「確かに緩和ケア病棟は恵まれている。それくらい国は抗がん剤治療を止めさせたいんだろう」

抗がん剤治療するよりはマシ」といった理屈は、他でも多く聞きました。1人年間500万円、国全体で1.5兆円もの公費を負担している透析治療を腎臓内科医に批判したとき、「抗がん剤治療と違って、透析はやめるとすぐ死ぬんだよ」と言われました。他にも、高齢患者さんの手術はムダではないか、と外科医に言ったとき、「手術できるうちは手術した方がいい。抗がん剤よりはよほど治療成績がいい」と反論されました。どちらも、私は抗がん剤治療と比較するつもりはありませんでした。

一般論として、がんになった後、最初に考慮されるのは手術適応かどうかです。早期に発見すれば、がんを手術で全て摘出できるので、まずはそれを目指します。既にがんが転移していれば、手術しても全て摘出することは不可能なので、抗がん剤で対処します。通常、抗がん剤でがんが無くなることはありません。抗がん剤という名前からはがんを治す効果を連想するかもしれませんが、基本的にがんを完全に退治することはなく、せいぜい余命を伸ばす効果しかありません。場合によっては、抗がん剤が余命を短くする可能性もありますし、余命を伸ばせたとしても、生活の質を落とす可能性も十分あります。医療従事者なら、誰でも知っている常識です。

その程度の効果しかない抗がん剤なのに、莫大な医療費が使われているようです。日本だと抗がん剤を使うと、まず高額医療制度が適用され、患者負担は事実上ゼロに近くなります。医療費の上限は変わらないので、費用を気にせず高価な新薬でも選択できます。

緩和ケア病棟にいると、抗がん剤治療の選択をしなかった患者さんだけでなく、抗がん剤の副作用で生活の質が落ちたり、余命が明らかに短くなったりして、送られてくる患者さんにもよく出会います。

日本全体での抗がん剤の費用対効果はどれくらいなのか、私は何度も調べようとしましたが、調べきれませんでした。効果はまだしも、費用の総額が謎だからです。もし日本での抗がん剤治療の総額を知っている方がいれば、下の「コメントを書く」に根拠を元に入力してもらえると助かります。

 

※ 医療否定本のような主張をしましたが、全ての抗がん剤治療がムダだと私が思っているわけでは決してありません。セミノーマのように抗がん剤が著効するがんも間違いなくありますし、明らかに化学療法(抗がん剤治療)を選択するべき場合もあります。

健康的な食事と医学

「ビタミンCは風邪を治す」との仮説があります。ビタミンCを入れた試験管内で、免疫細胞が活性化していることが、この説の根拠です。

しかし、この論文にあるように、風邪にかかってからビタミンCを摂取しても効果はありません。ビタミンCを毎日1~2g摂取していれば、風邪症状期間を短縮させることは8~13.6%の人にあります。さらに、こちらの論文によると、ビタミンCの毎日1gの定期摂取で、女性は1.25倍~1.97倍白内障になりやすくなります。

「実験室ではこうだったが、人間に摂取させてみたら違った」ことはよくあります。同様に、「動物実験ではこうだったが、人間では違った」こともよくあります。だから、最近認可されている医薬品は全て、ヒトによる臨床試験で効果が認められてから、一般に発売されています。

上の研究から他に言えることは、「水溶性ビタミンはどれだけ摂っても尿として出ていくから害はない」との仮説は誤り、ということです。これも理論上はそうだと思われていたが、実際には違った例でしょう。

なお、「どうしてビタミンCの摂取で白内障になるのか」の答えを正確に答えられる医者は世界中に一人もいません。とはいえ、人間には10万ものタンパク質があり、その相互作用はほぼ全て解明できていないので、ある食物の過剰摂取で予想もしない結果が起こることは、どんな医者でも想像はできるはずです。また、上の研究はビタミンCの摂取と白内障の相関関係を示しただけで、因果関係まで示したわけではない(ビタミンCが白内障の原因とは限らない)ことも、医者なら知っておかなければなりません。

ここから先は私の推測になりますが、摂れば摂るほど健康になる食品や栄養素は存在しないでしょう。厚生労働省が上限を定めていない栄養価は少なくありませんが、まだ科学的に証明されていないだけで、実際には上限値(これ以上摂るべきでない量)が存在すると思います。

高齢者が増えたからといって医療費が増えるとは限らない

高齢者が増えると、医療費が増えると多くの人は考えています。長年、私もこれを疑ったことがありませんでした。しかし、それは必ずしも正しくないはずです。高齢まで生きようが、生きまいが、人間は必ず死に、死ぬ前には病気になります。高齢者には申し訳ありませんが、社会全体で考えれば、若い人の死を救う価値はありますが、高齢者の病を救う価値はあまりありません。高齢者はたとえ一時的に死を救えたとしても、そう遠くないうちに死に至るからです。だとしたら、高齢者が増えたのなら、死や死に至る病を救う労力は減るはずなので、社会の医療費総額はむしろ安くなってもいいはずです。

アメリカの医療は先進国最悪である」でも書きましたが、アメリカの医療費の高さに最も影響を与えているのは、高齢者の増加でなく医療技術の進歩です。この傾向は「高齢者の増加=医療費の増加」と当然のように考えている人には注目に値するはずです。

なぜ歯科の保険診療総額は増えないのか」でも書いた通り、高齢化が進んでも、歯科の保険診療総額は大して増えていません。予防医療の成果で、歯の病気が減ったからです。もちろん、高齢化が進めば、最終的に歯を失う人は増えるでしょうが、だからといって、みんながインプラントにしたりするわけではありません(もっとも、インプラント保険診療ではありませんが)。医療全体であっても、予防医療を充実させていけば、医療費を抑制することは可能なはずですし、そうすべきです。

健康への欲求は無限である」にも書いた通り、病院を増やしたり、医者を増やしたりすれば、皆保険制度では、ほぼ自動的に医療費は増大します。だから、歯科の例にもあるように、インプラント保険診療からはずすなど、予防をしなかった責任費用は自己負担にさせるべきです。なお、医療費無料のはずのカナダでは、歯科と眼科は自費診療です。

なお、高齢者が増えても医療費を削減することは可能だと思いますが、介護費用(福祉費用)を削減するのは難しいでしょう。バブル期までベッド数を必要以上に増やしてしまった日本では、医療が介護を担っていた側面があります。2000年までゼロだった介護保険費用が10兆円に到達したのですから、実質的に介護費用も含まれていた医療費を10兆円は無理でも、数兆円減らすことは可能なはずです。そのために、厚労省が何度も挑戦しては延期を繰り返している「療養病床の消滅」は必要でしょう。

なぜ歯科の保険診療総額は増えないのか

歯科医師の数は右肩上がりです。

f:id:future-reading:20190308221835j:plain日本で医師の数が約30万人ですから、歯科医師数約10万は多すぎです。誰だって歯科医師数を制限したくなります。だから、かつて90%合格が当たり前だった歯科医師国家試験の合格率を70%程度まで低くして、新しく歯科医になる者を制限しています。

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歯学部は6年制です。人生の中で6年が短い期間のわけがありません。そんな長期間も歯学の勉強をした人物を歯科医にさせないなど、人材の無駄遣いです。それは厚生労働省も分かっているので、歯学部の入学者数を制限したいのですが、歯学部は私立が多いため、それがなかなかできていません。

一方で、歯科の保険診療総額は現在2.8兆円で、ここ20年間ほど、あまり変わっていません。

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医療費は増加傾向なのに、歯科だけ割を食っている、と不平を言う歯科医を私は何名も知っています。なぜ厚生労働省は、歯科の保険診療総額を上げないのでしょうか。

理由は単純です。日本人の歯の病気が減っているからです。歯学だけではなく、医学の教科書にも載っている統計事実ですが、12才の日本人の虫歯の数は、フッ素入り歯みがき剤の普及により、劇的に減っています。

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科学的に示された歯の健康増進は、フッ素入り歯みがき剤と歯みがき習慣の普及です。「歯みがき100年物語」(ライオン歯科衛生研究所編、ダイヤモンド社)によると、1925年の児童の1日あたりの歯みがき回数は、朝1回47.3%、夜1回1.8%、朝晩が7.2%です。それが2011年の児童の歯みがき回数になると、1日2回61.1%、1日3回以上22.0%、1日1回14.3%となっています。

子どもの虫歯が減っただけではありません。高齢者の歯の数も増えています。80才で20本の歯を残している人は1987年で、わずか7.0%でした。1987年は8020運動が提唱された年で、当時、これは相当に高い目標と思っていたようです。しかし、2011年に8020を達成している人は40.2%と激増しています。

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断定します。予防医科の成果です。もちろん予防に邁進してきた歯科医たちの貢献もあるでしょう。しかし、虫歯になった時だけ治療してきた歯科医たちの成果では、決してありません。

虫歯も減って、歯周病で失う歯も減ったのですから、必然的に、歯医者の需要は下がります。厚労省の本音としては「歯の病気が減ったのだから、歯科の保険診療総額が増えないのは当然だ。むしろ、減らしたいくらいだ」になるでしょう。

歯科の保険診療総額が増えないからといって、全体としての日本人はそれほど困っていないはずです。事実、「歯科の保険診療費用が安すぎる」「歯科医の収入は減る一方だ」と嘆いているのは、歯科医たちだけです。しかし、下のグラフにあるように、それでも歯科医の収入は、一般の日本人よりも遥かに恵まれています。多くの日本人は「歯科の保険診療費用が安いのはいいことだ。不満があるなら、今すぐ歯科医を辞めろ」と言いたいでしょう。

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こちらの記事で、「予防医療で医療費は削減できない」というトンデモ説を批判しましたが、上の歯科の例にもあるように、予防医療が医療費を削減できるのは間違いありません(し、そもそも削減できるべきです)。同様のことは、医療全体にも言えるはずです。「高齢者が増えたからといって医療費が増えるとは限らない」の記事に続きます。

日本のリハビリテーションに欠けているもの

日本の一般入院施設は2016年で、高度急性期が約17万床、急性期が約54万床、回復期が約13万床、慢性期が約34万床になります(他に精神病床などもありますが、今回は扱いません)。大まかな入院期間は高度急性期病棟で数日間まで、急性期病棟で14日間まで、回復期病棟なら2~3ヶ月間まで、慢性期病棟なら無制限となります。入院費用は高度急性期病棟で約15万円/日、急性期病棟で約3万8千円/日、回復期病棟で約78万円/月、慢性期病棟で約50万円/月になります。ここではリハビリと最も関係の深い回復期病棟について紹介させてもらいます。

よくある誤解なのですが、急性期病棟の14日間で治らなかった患者さんが、続いて回復期病棟に入れるわけではありません。回復期病棟の目的は、リハビリでの能力回復です。リハビリで特に効果のある場合だけが対象なので、主に脳血管障害直後または骨折直後の患者さんが回復期病棟に入院できます。肺炎や癌の患者さんは入院できませんし、脳血管疾患や骨折だったとしても、発症から1年以上たっていればリハビリ効果は期待できないので、入院できません。

回復期病棟に入院前と退院後で、脳梗塞で発語すら難しかった患者さんが長文の感謝状を音読できるようになったり、大腿骨転子部骨折で立つことすらできなかった患者さんが杖も使わずに歩いて帰ったりします。それほど回復するなら、「回復期病棟こそ最も費用対効果のある医療が行われている」「たとえ将来日本で医療崩壊が起こっても、回復期病棟は残すべきだ」と思われるかもしれませんが、それは必ずしも正しくありません。

回復期病棟に入院していなくても、自力でリハビリさえしていれば、同じように能力が快復するからです。それに、回復期病棟で入院していても、リハビリ専門職が1日中リハビリをしてくれるわけではありません。保険診療で最大3時間しかリハビリ専門職は患者さんにリハビリできないと決まっています。そして、リハビリ専門職が3時間患者さんに専門知識を活かしたリハビリするよりも、患者さんがその数倍の時間に自力でリハビリした方が能力は早く回復します。

予防は治療に勝る」にも書いたことですが、リハビリで最も基本となる医学的事実は次になります。

「リハビリ専門職が限られた時間に患者さんにリハビリするよりも、リハビリ専門職が関われない大多数の時間に患者さんが自力でリハビリする方が効果的である」

こうなると、極論すれば、回復期病棟は一つもいらないことになります。リハビリ専門職が脳梗塞後や骨折後の患者さんの家庭に訪問し、効果的なリハビリ方法と計画を示して、患者さんがその通りに実践しているか、リハビリ専門職が定期的に訪問してチェックすればいいだけです。もちろん、患者さんとしては現在のようにリハビリ専門職がつきっきりでリハビリしてくれることが理想でしょうし、そうしないと患者さんがどうしてもサボってしまうことも統計的事実です。脳梗塞後や骨折後の大切な期間にリハビリをサボってしまうと障害が患者さんに一生残り、場合によっては介護も必要になります。結果、その患者さんだけでなく社会全体の損失にもなるので、患者さんが発症後の大切な時期にサボらないよう、通所でリハビリできるセンターは必要です。そのリハビリセンターまで毎日連れて行ってくれる家族がいない患者さんもいるため、また、その中にはリハビリ専門職が定期的に通うにはあまりに辺鄙な場所に住んでいる患者さんもいるため、回復期病棟も少しは社会に必要になるでしょう。だから、回復期病棟が日本に全て不要とまでは主張しません。

しかし、回復期病棟に限りませんが、日本の医療では患者さんに自己責任の意識があまりに薄すぎます。その大きな理由の一つが、医療者が患者さんに医療の限界を伝えていないからです。医療に限界があるのは科学的事実です。「高齢者が肺炎で入院すれば寿命が短くなる 」にも書いたように、医療に頼るよりも患者さんの自力で処理すべき場合が、日本では少なくありません。医療に頼るべきでない医学的事実があるなら、医療職はそれを伝えなければなりません。

しかし、多くの医療従事者はそう伝えるのを避けます。理由としては「医療に頼ろうとしている人に、医療に頼ってはいけない、とは言いづらい」「医療職が医療の欠点を伝えたら、自己の存在意義を否定することになる」「医療のありがたみがなくなる」などでしょう。

もし医療費が全額自己負担なら、上のような理由は納得できなくはありません。しかし、医療費のほとんどが自己負担でなく社会負担である現状、上のような理由は通りません。各個人の医療費が社会負担なのは、社会全体の利益に合致しているからです。医療職が医療に頼るべきでない医学的事実を伝えず、医療を施しているなら、自己中心すぎます。そんな独善的な事業を社会全体で負担する理由はありません。

だから、リハビリ専門職も上記のリハビリの最も基本となる医学的事実は患者さんに必ず伝えなければならない、それを患者さんに理解してもらう努力をしないのならリハビリ職を辞めなければならない、と私は思います。しかし、「リハビリ専門職が限られた時間に患者さんにリハビリするよりも、リハビリ専門職が関われない大多数の時間に患者さんが自力でリハビリする方が効果的である」ことを患者さんに伝えている日本のリハビリ専門職に、私は一人も会ったことがありません。

残念です。

高齢者が肺炎で入院すれば寿命が短くなる

高齢者が発熱で苦しんでいると、家にいても施設にいても、誰かがその高齢者を病院に連れてきます。もし肺炎だと分かると、ほぼ自答的に入院になります。高齢者だと誤嚥性肺炎の可能性が高いので、入院初期は絶食とされます。食事をして、また誤嚥したら、肺炎が治らない(と考える医者がいる)からです。栄養は点滴から入れられ、多くの患者さんは一人で横になる時間がいつも以上に長くなります。退院した時、肺炎は治っていますが、入院前より体力が落ち、認知能力が下がり、嚥下能力が下がり、日常生活能力(ADL)が下がります。必然的に、余命も短くなります。

肺炎で入院しても、することといえば、抗菌薬の点滴くらいです。現在なら、点滴の抗菌薬と同等の内服の抗菌薬がまずあります。それをもらって、家で治せばいいだけです。非定型肺炎なら抗菌薬すらなくても、本来の免疫力で通常治ります。万一、点滴が必要だとしても、点滴だけ受けに病院に通えばいいだけです。入院する必要はありません。

肺炎に限らず、入院になると、必ずと言っていいほど点滴を行う病院が日本には多くあります(私の病院がそうです)。高齢者の肺炎、消化器系疾患での入院なら、絶食になり、点滴栄養になるのが普通です。食事するにも筋肉が必要です。3日運動しないと筋肉が落ちるように、3日食事していないと嚥下能力が下がります。嚥下能力が低くて、誤嚥したから肺炎になった患者を、絶食にさせて、さらに嚥下能力を下げる、というバカみたいな方法が、日本の誤嚥性肺炎の標準治療です。

たとえ健康な人でも、一日中ベッドで横になって無為に過ごし、点滴で栄養をとっていれば、体力は落ちますし、免疫力は落ちますし、消化能力は落ちますし、頭は鈍くなります。入院は、病気を治す点では有効かもしれませんが、質の高い人生を送る点では有害ですし、寿命を縮めます。

だとしたら、肺炎だからといって、入院させなければいいのですが、日本ではそれが難しいです。帰宅させて、その肺炎が悪化して亡くなった場合には責任問題になる、と医療者側が恐れているからです。その可能性は、高齢者だと低くありません。もちろん、上述の通りに病院でも家でも、できる治療にそれほど差はないので、家に帰して亡くなったとしたら、入院しても亡くなっていた可能性が高いです。だから、責任問題になる方がおかしいですが、多くの日本人はそれを理解し、納得できるでしょうか。

私が高齢者になって発熱で苦しんだとしても、まず病院には行きません。かりに行って肺炎だと分かったとしても、入院は拒否して、抗菌薬の処方を希望します。そちらがより長生きできるし、質の高い人生を送れると分かっているからです。

手術の時以外は入院しない、という患者さんに私は会ったことがあります。その患者さんは、つい先日100才になりました。その患者さんを長年訪問診療している医師も私も「もし発熱のたびに病院に行っていたら、患者さんは100才までは生きられなかった」という点で意見が一致しています。

「入院したから寿命が短くなることがある」とは、多くの人が夢にも思っていません。しかし、私の病院ですら「入院したら日常生活能力が下がります。だから、入院はお勧めしません」と医者が伝えることはよくあります。救急外来にいたら、1日1回、多い時は5回、この言葉を聞きます。それでも、ほとんど場合、患者さん(とその家族)は在宅での治療よりも入院治療を希望してきます。おそらく、医者の真意が伝わっていません。医者の言葉が、患者さんの常識とあまりにかけ離れているため、理解できていないように私は思います。

だから、あえてこの記事で書かせてもらいました。入院したから寿命が短くなることは確実にあります。

健康的な食事は未解明だが、健康の最大の要因は食事に違いない

何年か前に書店で「長生きしたければ肉食をやめろ」という本の隣に「健康になりたければ肉食をしよう」という本を見つけたことがあります。どちらも正しくもあり、間違ってもいます。

日本の高齢者には5剤以上の薬を併用する方が過半数いますが、5剤以上の薬剤併用の医学研究はこの世に存在しません。相互作用があまりに複雑になり、個人差もあるので、適切な研究ができないからです。そもそも医学では、複数の病気を同時に診る発想が皆無に近く、いつも一つの主訴、一つの病気のみにこだわります。これは医学の致命的な欠点だと私は以前から思っていますが、それを指摘する医者はあまりいません。

人間のタンパク質は10万程度存在すると推定されています。そのほとんどの構造や機能は分かっていません。そして、人間はタンパク質以外にも、炭水化物、脂質、ミネラル、ビタミン、腸内細菌などで成り立っています。各物質の機能や役割が分かっていないので、それらの100万、100億、100兆の相互作用など、完全な謎に近いです。健康的な食事が科学的によく分かっていないからこそ、正反対の主張の本が堂々と並んで売られているわけです。

しかし、「食事について科学的になにも分かっていない」と断定するのも、間違いです。たとえば、人間が制御できるものの中で、健康の最大の要因は、やはり食事でしょう(制御できないものも含めると、遺伝でしょう)。健康に与える影響は、運動、ストレス、睡眠、喫煙、薬物、清潔度など、いろいろな要因はありますが、特定の個人ならともかく、世界全体、あるいは国全体で考えれば、食事が一番だと私はほぼ確信しています。その根拠として、私がよく使う資料が下になります。(見ての通り、これは健康ではなく、死亡に与える影響のグラフです。「医療はゼロをプラスにする役割が苦手である」に書いた通り、健康への影響の数値化は難しいので、より容易な死亡への影響を参考にしています)f:id:future-reading:20190221170257p:plain

これによると1番影響を与えているものは喫煙になりますが、2番以降の高血圧、高血糖、塩分の高摂取、アルコール摂取、高LDLコレステロールなどなどは、ほとんど食事によるものです。それらの影響度を全て合わせると、喫煙を軽く越えます。

洋の東西を問わず、「医食同源」「You are what you eat.」といった格言は昔から存在します。それは過去から現在まで、人類あるいは生物全体の真理を表しているはずだ、と私は考えています。

ベーシックインカムよりも人的支援を充実させるべきである

昨日出会った70才の女性です。大腿骨頸部骨折後に手術した患者さんでした。子ども時代にいじめにあったため、ろくに小学校も行っていなかったそうです。年齢からし日本国憲法下の時代に育っているので、憲法違反です。親はどうしていたのか、と思いますが、本人は認知症もあるので、詳しく事情を聞くことはできませんでした。

問題はそれだけでなく、本人は結婚して3人の子どもを生んでいますが、その3人の子どもを例外なく虐待してきたそうです。現在、本人は3人の子どもから親子の縁を切られており、介護はもちろん、本人への一切の手助けが拒否されました。本人は夫から暴力をふるわれていたようで、夫とは既に離婚しています。

これを読んで、どう思うでしょうか。

(かわいそうだ)

ほとんどの人はそう思って、終わります。医療職や福祉職の人でも同じです。あるいは、医療職や福祉職に就いていたら、毎日のようにこんな話を聞いているので、なんとも感じない、という人も多いかもしれません。倫理観の劣る医師になると「医者は家族の問題など解決している暇はない。もっと重要な仕事をするために働いている」と平然と言ってのけます。そんな道徳観に欠ける奴は、社会全体からみれば害をもたらす存在なので、たとえ2000時間残業している医師だとしても、日本人の平均年収以上の給与を絶対に与えないでほしいです。

その女性にとって、骨折を手術で治して歩行可能にするよりも、信頼しあえる家族を持つ方が、生活の質を遥かに高めることは、猿でも分かります。それすら分からない奴は猿にも劣るので、給与は一切払わず、バナナを現物支給であげてください。

もちろん、その女性に信頼しあえる家族を持ってもらうことは、骨折を手術で治すことよりも、遥かに難しいです。いえ、より正確にいえば、その女性の家族関係を修復するのは、ほぼ不可能でしょう。率直に言って、もう手遅れです。だから、私がそういった人を前にして、いつも思うのは、こんなことです。

(なぜ、もっと早く福祉の手を差し伸べなかったのか)

どうして、学校に行けなかった子どもの時に、福祉の手が入らなかったのでしょうか。どうして、夫からDVを受けている時に、福祉の手が入らなかったのでしょうか。どうして、子どもを虐待している時に、福祉の手が入らなかったのでしょうか。どの問題も、その女性一人では解決できないことは明らかです。本来なら、日本の公的福祉が、日本人全体が救うべき人だったはずです。その女性は日本人全体の低い道徳観の犠牲者です。

私が上の状況を知った時、次に心配になったのは、その女性の3人の子どもです。その女性がそうだったように、3人の子どもがDVをしていないか、あるいはDV夫やDV妻と結婚していないか、気がかりです。

ベーシック・インカム」(原田泰著、中公新書)という本があります。新書だけあり、理論的な解説が多く、読む価値はあります。「ベーシックインカムは究極のバラマキ政策である。個人の問題に国家が全て介入していれば、社会福祉士の必要数は膨大になり、税金がいくらあっても足りない。だから、全員に最低限度のお金を払って、全て自己責任にすればよい」というような意見を主張しています。しかし、これは著者も「究極のバラマキ政策」と言っている通り、理想論あるいは極論です。上のような女性がお金を受け取って、問題を解決できるわけがないことは誰だって分かるはずです。著者には日本の福祉の現場をぜひ見て回ってほしいです。

著者にとって「税金がいくらあっても足りない」と思われる、社会福祉士が全ての個人の問題に介入する方法しか、全ての人は救われない、と私は確信します。この意見も極論になりえますが、少なくとも、上のような女性に早期に人的支援を与えるべきことは、現代の感覚なら、当然のはずです。学校にも行かない人をそのままにしていたら、生活保護になる人が増えたり、知性も倫理観も乏しい人が増えたり、犯罪率が増えたりして、返って社会全体に悪い影響を与えることは明白です。

これは極端な例にしても、日本は個人だけでなく社会全体にとっても明らかに有益な福祉政策が、まだまだ実施されていません。具体的な例は、このブログの「高齢者以上に現役の社会的弱者にも個別事情に応じた人的援助を与えるべきである」などの記事に書いています。ベーシックインカムを効果的に実現するとなると、日本なら200年は早いでしょう。

医療はゼロをプラスにする役割が苦手である

医療の基本ですが、専門職でもこの基本を認識していない人は多くいます。ほとんどの医療は病気を治すことに特化しています。医療はマイナスをゼロにすることは得意でも、ゼロをプラスにすることは苦手なのです。

その大きな理由は、健康の度合いを科学的に判定することが難しいからです。科学的にいえば、最も判定が容易なのは死です(脳死などの判定が難しい問題があったとしても、他と比較すれば、まだ容易です)。医療の一番の目的が死亡率を下げることにあるのは、白黒はっきりしているからでもあります。次に判定が容易なのは、病気の罹患率です。病気の定義は科学的に決められるので、これもそれほど難しくはありません。一方、健康の程度になると、現在に至るまで、定義は存在しません。強いていえば、あらゆる病気にかかっていない状態が健康ということになります。しかし、たとえば、最も病気の数が少ないBMI(体重㎏÷身長m÷身長m)は22なのに、最も長生きするBMIは25~30になっています。病気でないことが、健康とは限りません。

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なにをもって健康とするのかが明確でないので、健康のためになにをすればいいかも、医学的によく分かっていません。死亡率を下げる方法(禁煙するなど)、病気にかからない方法(予防接種を受けるなど)は分かっています。しかし、より健康になる方法は、どんな優秀な医者でも漠然としか答えられません。

ただし、「予防は治療に勝る」ことも医療の基本です。その記事にも書いたように、人間の健康がマイナスになって、治療でそれをゼロにしようとしても、完全にゼロに戻らないことはよくあります。癌の再発ように、またマイナスになりやすかったりもします。言ってしまえば、治療は敗戦処理のようなものです。だからこそ、敗戦前に対処する、マイナスにならないようにプラスを高める、健康度を高めることが重要です。それは間違いないのですが、科学的にどうすれば健康度を高められるか、多くは不明のため、予防は医療であまり扱われていません。日本の保険診療で予防が対象外になっているのも、こういった理由からでしょう。

この医療の基本は一般の方にも知っておいてほしいです。また、医療者なら十分に認識しなければならない、医学書にも最初に載せなければならない、と私は思います。

日本は医師過剰である

日本は医師不足とニュースでよく見る現在からは信じられないかもしれませんが、2007年まで日本は医師過剰と公的に判断されていました。医学部の1年あたりの定員数は81年~84年の8280人から減少の一途を辿り、2007年には7625人にまで減った事実があります。しかし、2004年に始まった新臨床研修医制度で医師の医局離れが始まると、大学病院ですら医師不足との「錯覚」が起こり、現在まで医学部の定員増は続いています。

日本が医師不足である根拠として、よく使われるデータが下のOECDの人口1000人あたりの医師数です。日本はOECD平均よりも低いそうです。

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上のデータで、イギリスは、日本ほどではありませんが、OECDの平均値より医師が少ないと示されています。そのイギリスで、2018年にAIのおかげで4万人の患者の40%が受診をやめたとのニュースがありました。1万6千もの受診がなくなってしまったわけですが、だからといってイギリスの死亡率が高くなった、という話は聞きません。もちろん、そのソフトの言う通りに受診せずに死んだ人も確実にいたでしょうが、おそらく、そんな人は受診して一時的に回復できても、そう遠くないうちに亡くなったと推測します(日本なら1億人に1人でもそんな事件があれば、ニュースになりそうですが)。

以前にも紹介した下のデータの通り、イギリス人の年間受診回数は日本の半分以下です。そのイギリスですら、40%もの受診が不要と判断されて、大きな事件は起きていません。まして日本ならイギリスの倍は不要な受診が起こっているはずです。

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以前にも書いた通り、世界全体の平均寿命は72.0才です。上のグラフで、日本の7分の1未満しか医師がいないインドネシアでさえ、平均寿命は69.2才です。発展途上国で、多くの子どもたちが下痢や感染症で亡くなっていくのは、昔の話です。たとえ医師がいないところでも、キレイな水と塩分と食料さえあれば、大抵の人は簡単に死なないと科学的に分かっています(世界中で最も多くの生命を救ったのは、薬ではなく、経口補水液です)。それは日本だって同じです。

未来の人なら、上の平均医師数のデータを「昔は医師過剰だった証拠」として使うかもしれません。

がん検診に上限年齢は設けるべきである

ほとんどの病気は早期に発見し、治療されれば、症状が小さくて済みます。早期発見早期治療が医療の基本なのは事実です。ただし、早期に発見できない病気もあれば、早期に発見できたとしても治療の副作用が大きく、治療すべきでない病気はいくらでもあります。現在の日本の公的検診にも、無駄があるのは科学的・統計的事実です。

代表的なのは胃がんバリウム検査でしょう。「医者はバリウム検査など受けない」という記事を読んだことがありますが、まさにその通りです。私も医療職に就く前、会社の健康診断にバリウム検査が入っていたので、半強制的に受けさせられていましたが、今なら無料でも受けません。問題点はさまざまなところで指摘されているので、あえてここに科学的根拠は書きませんが、「バリウム検査利権」などという言葉が存在しているのは医療者として情けないです。

昨日の朝日新聞朝刊に、日本はがん検診に上限年齢がないことが問題視されていました。私の感想としては「まだこんな低レベルな問題が提起されているのか」になります。世界中どこでも、公費あるいは保険負担のがん検診には75才などの上限があります。それ以上の年齢でがんになったとしても、治療するしないにかかわらず余命は変わらないことなどが統計的に示されているからです。医療者にとっては常識ですが、がんを切除しても、手術により体力が低下して、余命が短くなることは決して珍しいことではありません。がんを発見しても手術したら術中死する可能性が高い場合もありますし、既に多臓器に転移して手術できない場合もあります。大して余命を伸ばさないのに、費用だけは高い抗がん剤を使うべきでない場合もあります。治療しても治療しなくても余命が変わらないのなら、がんを発見する意義もあまりありません。

もっとも、「あらゆるがん検診が無用だ」というつもりは全くありません。むしろ、日本では必要ながん検診については、受診率が低すぎます。特に乳がんと子宮頸がんの受診率の低さは、先進国の中でも際立っています。なぜアメリカなどでがん検診の受診率が高いかというと、検診を受けていないと、がんと診断されても、保険診療にならないからです。日本も受診率を上げたいのなら、こういった「罰則」を設けるべきでしょう。

余談になりますが、子宮頸がんの受診率を上げようと、子宮頸がんが毎年ほぼ公費で検診できる制度を作った自治体があり、この試みは完全な失敗になっています。子宮頸がんを受ける意義の少ない(が、健康意識だけは高い)高齢女性が毎年のように検診に来るのに、本当に来てほしい若年女性たちは検診に来ないままだからです。子宮頸がんは胃がんや肝がんと同様、感染症です。性感染症なので、性活動のない女性は子宮頸がんに通常なりません。それに、子宮頸がんは進行が遅いので、たとえ性活動の多い女性でも、3年に1度でいいとアメリカの予防医療サービス対策委員会は結論づけています。性活動の少ない(もしくはない)高齢女性が子宮頸がん検診を受ける意義は極めて小さく、まして毎年公費負担で受診させるなど、税金の無駄でしかありません。全てのがん検診には年齢上限を設けるべきですが、とりわけ子宮頸がん検診は設けるべきでしょう。