未来社会の道しるべ

新しい社会を切り開く視点の提供

福島原発事故と八甲田山遭難事故の相似

福島原発事故での吉田昌郎所長を「東日本壊滅から救った英雄」と考えている日本人は、まだどれくらいいるのでしょうか。 

1902年の八甲田山遭難事件は第二次大戦中まで、210人中199名も死亡した青森歩兵第5連隊を英雄視することが常識でした。1971年の「八甲田山死の彷徨」(新田次郎著、新潮文庫)によって、第5連隊がありえない貧弱な装備で、無謀な雪中行軍をしたことが世間に明らかになり、八甲田山遭難事件は愚の骨頂との認識が一般になりました。一方、同書で注目されたのは、戦後まで政府が意図的に隠してきた弘前歩兵第31連隊です。第31連隊は第5連隊の10倍の距離を八甲田山で雪中行軍したにもかかわらず、十分な装備と準備で挑んだため、死者はゼロでした。無謀な計画でほぼ全滅した第5連隊の悲劇を称賛して、入念な計画により無事に予定行路を踏破した第31連隊を無視するなど、狂気を褒め、理性を貶すようなものです。こんな思想傾向が、第二次大戦時の日本の悲劇に繋がっているような気がしてなりません。

福島原発事故吉田昌郎を英雄と考える観点も、八甲田山遭難事件で第5連隊に感動する観点に似ていると思います。国会事故調によると、東京電力は従来の想定を超えた地震津波が襲来する可能性、そして福島原発がそれに耐えられない構造であることを、何度も指摘されていたにも関わらず、これを軽視し、適切な対策をとらなかったことが事故の根本原因だとしています。その「指摘を軽視し、対策をとらなかった」東電の責任者こそ、吉田昌郎なのです(同じく東電の武黒一郎、武藤栄も同罪です)。

原発事故時の吉田昌郎は、怒り心頭に達していた菅直人首相を黙らせるほどの理性と度胸を兼ね備えた稀有な人物でした。しかし、大局的な視野でみれば、原発事故後に冷静に対応する能力よりも、そもそも原発事故を起こさない能力の方が比較できないほど価値があることは論をまちません。

さらに、原発事故が起こった時の対応ですら、吉田昌郎は完璧でなかった、と既に分かっています。「カウントダウン・メルトダウン」(船橋洋一著、文藝春秋)には、福島第二原発でも、第一原発同様に原子力災害対策特別措置法に基づく緊急通報(15条通報)が行なわれ、ベント決死隊まで準備されていたことが記されています。15条通報は「緊急事態が起きかねない」(10条通報)状態でなく、「緊急時代が起きている」状態で出されます。福島第二原発メルトダウン寸前だったのです。しかし、メルトダウンを3基も起こした第一と異なり、第二では注水が途切れることなく、あと一歩で踏みとどまりました。上記の書では、福島第二原発の増田尚宏所長を「本当のヒーロー」と称えています。もちろん、福島第一と第二が全く同じ状況ではありませんでしたが、事故後の調査で、第一でも事故時に適切に対応していれば、メルトダウンを防げたことは既に分かっています。その最高責任者は、現場所長である吉田昌郎のはずです。

現在、福島第一原発と第二原発のこの決定的な差を知っている日本人は、一体どれくらいいるのでしょうか。それを知らないまま吉田昌郎を英雄だと信じている日本人が多いとしたら、ぜひとも上の事実を知っておいてほしい、いえ、日本人なら知っておかなければならない、と私は強く思います。

イケメン税とイジメ

橋下徹が政治家を引退宣言して始めた番組が2016年4月から2017年9月まで放送されていました。その番組中、イケメン税導入を主張して、こちらの記事によると、世界中で反響を呼んだ人物がいます。経済学者の森永卓郎です。ネットで調べると、森永は2012年頃からイケメン税を主張していたようです。イケメンで決してない私としては大賛成の案です。普通の番組でこの発言を聞いていたら、私は「よくぞ言ってくれた!」と笑いながら拍手喝采していたでしょう。

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しかし、2016/6/6の番組(上記動画の31:00頃から)を観れば分かりますが、この主張のせいで、森永は出演者全員に完全にバカ扱いされています。あからさまなイジメです。拍手するような清々しい気持ちにはとてもなれません。橋下が出演しているせいでしょうが、この番組では一人の異端者への嘲笑や、一方的な論破などが何度もありましたが、その中でもこれはひどい例です。

橋下は政治家時代に沖縄在日米軍に「もっと風俗業を活用して欲しい」と提案して、米軍高官から「ばかげている」と返されました。その風俗案と比べたら、社会的弱者を救うイケメン税はよほど国際的には通用する案です。この番組に出演している政治家やアナウンサーや知識人、そして多くの日本人視聴者は、イジメの傍観者能力は十分に習得していても、国際感覚は全く身についていないようです。

日本は「幸せな人を尊重し、不幸な人を虐げる国」であると書きましたが、この番組のこのシーンはそれを象徴しています。100年後の日本でもイジメの例として使って、教訓として使ってほしいです。

「薬品業界は不正の温床」という格言

海外の医学会に参加して、全てのパンフレットの裏表紙に「当学会は製薬企業から金銭支援を受けていません」と書いてあるのを見て、異様に感じる日本人医師たちが(残念ながら)います。ちなみに日本では、ほぼ全ての学会で製薬企業がスポンサーに入って、医者家庭で育った金持ちたちでさえ「一体どこで買ったんだろう」と思わせるほど豪華な弁当を無料で配るのが普通です。私は一度「この豪華弁当代金が最終的に患者負担、保険料負担、税金負担になることは知っていますか?」と学会参加医師たちに聞いたことがありますが、鼻で笑われて終わりました。

MRという職業があります。病院やクリニックに薬の営業をする仕事をしています。日本中おそらく全ての大学病院、および、ほとんどの大病院の医局前で列を作っている人たちです。医師が通るたび礼儀正しく会釈をして、医師と話せるまで何時間でも背筋を伸ばして立っています。待っている時間はなんら生産的な活動をしていませんが、当然、勤務時間内なのでMRの給料は発生しています。明らかな無駄で、恐らく日本中の医者がこの制度を恥ずかしく思っていますが、まだなくなっていません。

日本の医薬分業を最も推進してきたのは日本調剤の三津原博社長でしょう。医薬分業とは、簡単にいえば、病院から薬局を分離させる政策のことです。そのせいで、昔は病院で薬をもらえたのに、今は病院ではもらえず、薬局で薬をもらっています。患者さんの手間がかかるだけならまだいいのですが、前回までの記事に書いたように、この過程で莫大な医療費が余計に発生しています。三津原は「医薬分業」を企業理念とする日本調剤を創設して、日本中の病院の前に門前薬局を建てまくり、ボロ儲けしています。ボロ儲けとは決して大げさでなく、三津原は企業役員報酬ランキングで毎年上位に入っており、トップに立ったことさえあります。薬の費用ではなく、薬をもらう行為の費用のピンハネで、毎年5億~7億円もの報酬を受け取っている人物がいるのです。当然ながら、三津原の報酬は、患者、健康保険料、税金から支払われています。

門前薬局は日本から消えるべきである

医薬分業は日本医療行政史上に残る大失敗」の記事で、国が医薬分業(病院から薬局を分離)を進めたのは、薬漬け医療を抑制するためと書きました。では、全医療費に占める薬剤費比率は減ったのでしょうか。残念ながら、この20年間ほど横ばいで、減っていません。薬価差益(薬を売ることの利益)は下げたにもかかわらず、全体の薬剤費比率でみると減っていないのです。薬そのものの費用ではなく、薬を手渡す行為に莫大な費用をかけているからです。こちらの記事には、同じ薬なのに、院内で受けとる場合の3倍の値段が、院外の薬局で請求される例が書かれています。病院内で薬を受け取った方が患者さんとしては楽なのにもかかわらず、そんな診療報酬制度になっています。

厚生労働省はこんな無駄な費用をかけたくて医薬分業を進めたわけではありません。病院やクリニックの前に門前薬局がどんどんできていた時、良心的な官僚は青ざめていたはずです。当たり前ですが、病院外に薬局があれば、その分の土地代も建物代もかかります。日本の制度だと、それらは最終的に患者負担、保険料負担、税金負担になります。「薬剤師が不要であると見抜けなかったツケ」の記事に書いたように、薬局の数に合わせるかのように増えた薬剤師の給与も、同様に負担されています。しかも、日本では医師同様、病院薬剤師よりも楽な薬局薬剤師が、病院薬剤師よりも給与が高いのです。

門前薬局は、大病院なら一つだけでなく三つ四つもあるのが普通です。これらが病院内の一か所にあれば、土地も労力も人件費も省略できることは、小学生だって分かります。薬を渡す行為に莫大な費用をかけず、薬そのものに費用をかけられるようになれれば、患者さんにとって有益であることも自明です。

莫大な医薬分業費用(薬剤師人件費、薬局建設費)をかけるべきでなかったのは疑念の余地がありません。AIと機械化により薬剤師の全ての仕事がなくなるとも考えられているのに、いまだ厚労省は「門前薬局の増加は明らかな失敗だったが、医薬分業自体は間違いでないはずだ」との姿勢です。日本中の薬剤師を転職させるのは時間がかかるでしょうが、今すぐ病院と薬局で薬を受け取る診療報酬を適切に変更して、門前薬局は日本から消滅させ、薬局薬剤師は病院薬剤師より安い給与にすべきでしょう。

薬剤師が不要であると見抜けなかったツケ

薬学部にこんな授業があることを知っているでしょうか。医師の処方箋(患者に出した薬品名リスト)から、患者の病気を推測する授業です。それを聞いた医学部生は驚き、全員がこう言いました。

「なぜそんな無駄なクイズ授業があるの? 処方箋に病名書いておけばいいだけじゃない」

薬学生は全員こう反論しました。

「いや、患者の病名は個人情報だから、処方箋に書いてはいけない」

薬剤師の常識は世間の非常識のいい例です。個人情報を失うデメリットよりも、薬剤師が病名を知って、医師の処方間違いをチェックできるメリットが遥かに勝ります。それだからこそ、処方箋から病名を推測しているはずです。書いて伝えるのはダメで、理論的に推測して当てるのはいいのでしょうか。その反論は矛盾しています。だいたい、医薬分業のため、病院から分離した門前薬局は、元の病院とカルテを共有していることもあるので、簡単に患者の診断名を知ることができます。それは個人情報違反になっていません。

とはいえ、薬剤師による疑義照会(医師に処方が正しいか確認する)は、全処方の約5%で行われているようです。病名が分からないながらも、薬剤師は明らかな医師の処方ミスを指摘していたりします。これは確かに価値ある仕事ですが、薬剤師に高給を払うほどの価値はないと思います。その仕事は、薬剤師でなくてもできるからです。

また、そう遠くない未来に、医師の処方ミスや複数処方箋の薬剤相互作用はAIで自動的にチェックし、通知してくれるようになります。いずれ、こういった仕事自体がなくなるのです。このことに限らず、薬剤師はAIによって医療業界から最初に消える職業であることは衆目の一致するところです。しかし、日本は薬局数の増加に合わせて、下のグラフのように薬剤師の増加も黙認してしまいました。

 

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薬学部合格の難しさ、薬学部が6年生になったこと、なにより30万人もの薬剤師(医師数に匹敵します)を誕生させたことを考えると、医薬分業は高齢者医療費無料化と並ぶ日本医療政策の汚点になると私は考えます。

今後、30万人近い薬剤師をどう活用すべきか、日本人全体で考えないといけないでしょう。

医薬分業は日本医療行政史上に残る大失敗である

 

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上のグラフが示しているように、20年前まで日本では病院で薬をもらうことが普通でした。病院で処方箋をもらった後、病院の外にある薬局に処方箋を提出して、薬をもらう手間がなかったのです。しかし、「医薬分業が海外では当たり前である」という主張がなぜか叫ばれ、日本でその制度を導入するメリットと費用の検討がろくにされず、病院ではなく薬局で薬をもらう仕組みがこの20年で爆発的に普及してしまいました。病院で患者さんに薬を出すより、薬局で患者さんに薬を出した方が儲かるシステム(診療報酬制度)に変更したからです。院内で薬を売る場合の利益は下げて、医師が院外処方箋を出す場合の利益を上げ、薬局での調剤料(薬剤師が薬を出す利益)を上げたのです。結果、もともと病院内にあった薬局は分離され、病院のすぐ前に門前薬局が林立してしまいました。患者さんに手間をかけさせる上、経済的にも土地活用的にも非効率であることは言うまでもありません。さすが超高齢社会日本というか、薬局数は一気に増え、同時期に急激に数を増やしているはずのコンビニの店舗数すらも既に抜き去っています。

そもそもなぜ医薬分業が主張されるようになったのでしょうか。それは日本の過剰医療の象徴のように言われる薬漬け(薬の過剰投与)を抑制することが目的でした。「病院で薬を売っているから、医者は薬を投与すればするほど儲かるため、不要と分かっているのに薬を出してしまう。だから、病院と薬局を分離させれば、医者は薬の過剰投与を止めるはずだ」と考えたわけです。この政策はある程度成功したようです。日本は他の先進国と比べて、まだまだ薬漬け医療が行われていますが、「以前はもっとひどかった」と医療従事者の意見は、私の知る限り一致しています。しかし、それもある程度まででした。医者は処方箋を出しさえすれば儲かるわけで(患者さんに対して薬が一つ以上必要だと判断すれば儲かるわけで)、処方する薬の数を減らしても別に儲けは変わらないため、減らす方向にはあまり進まなかったからです。特に、この制度では薬不要の患者さん(「感染症は栄養摂取と休養が最適の療法である」に書いたように風邪やインフルエンザで来院する患者さん含む)に薬を処方しない力は全く働かないことに注目すべきでした。

そもそも薬漬け医療を抑制させるために、医薬分業(病院から薬局を分離)する必要はあったのでしょうか。薬の有無にかかわらず疾患ごとに医療費を決める方法、あるいは、疾患ごとに適切な薬の数を制限する方法をとればよかったのではないでしょうか。実際、これらの方法を既に日本の保険診療では採用しており、これらの制度が薬漬け医療をより効果的に抑制していると思います。

こういった批判に対して出てくる医薬分業の大義名分が「複数のクリニックにかかっている患者もいるので、薬局で処方薬を一元管理して、患者に適切な服薬指導を行う」になります。しかし、これもお薬手帳を配布すればいいだけで、薬局でなくても病院内の薬剤部で実行可能です。この大義名分については、次の記事でさらに掘り下げます。

患者中心医療を実現するには患者も変わらなければいけない

「昔の医者は患者から賄賂もらっていたんですよね?」

私が年配の医者にこのような質問をすると、ほぼ決まって嫌な顔をされました。社会の腐敗を軽蔑してやまない人(私)に、それに関わった過去を白状したくないからでしょう。多くの医者はこう言い訳しました。

「受けとらないと、患者が納得しなかったんだよ」

それは事実だと思います。大昔は知りませんが、医者への賄賂が消滅しかけていた時代なら、ほとんどの医者は賄賂をもらいたい気持ちより、賄賂を忌避する気持ちが勝っていたはずです。ある医者はこう言いました。

「昔は永遠になくならないかと思っていた。でも、今は医師への賄賂は消滅した。いい世の中になった」

理想的な授業が行われるためには、いい先生だけでなく、いい生徒がいなければなりません。理想的な医療が行われるためには、いい医者だけでなく、いい患者がいなければなりません。

「医療は患者中心に行われるべきである」という姿勢は、医療業界で少なくとも20年間、提唱されています。他の先進国では、患者中心医療に進化しているようですが、日本ではいまだに医者中心の医療(パターナリズム医療とも呼ばれる)が主に行われています。「素人の患者は理解できないので、専門知識のある医者がなにをするかを決める」という医療から、「医者はそれぞれの治療のメリットとデメリットを患者に分かるように説明し、最終的に決断するのは、その治療の責任(不利益)を負う患者」という医療に日本はなかなか変わってくれません。

子どものために子どもの過剰診療をやめるべきである」にも少し書いたように、患者中心医療を妨げているのは患者側にもあります。日本の全ての医学部、薬学部、看護学校では、患者中心の医療を前提とした教育が行われていますし、各国家試験でも、患者中心の医療の問題が必ず出題されています。だから、若い世代の医療従事者は確実に、患者中心の医療を理解しています。しかし、どういうわけか、日本は他の先進国のように、患者中心の医療に変われません。「先生に全て任せる」「説明されても分からない」と責任放棄する患者が多くいます。患者に起こる疾患や医療ミスを医者が被ることはできないので、そんな姿勢は患者にとってはもちろん、医者にとっても好ましい医療ではありません。

とはいえ、永遠になくならないとも思われた医者への賄賂が消滅したように、医者中心の医療から患者中心の医療に日本でも必然的に進んでいくだろう、と私は考えています。早くそうなるよう現場と、こんな風にネットで患者教育活動を根気強くしていくことも医療従事者の仕事でしょう。

開業医こそ日本医療の諸悪の根源である

日本の医療従事者で、日本の開業医制度に問題がないと考える人は皆無ではないでしょうか。その最大の理由は次にあります。

「開業医が勤務医よりも遥かに楽なのに、開業医が勤務医より給料が遥かに高い」

勤務医とは病院に勤務する医者で、開業医はクリニックの医者です。通常、開業医は夜間休日勤務もありませんし、入院患者さんも対応しません。必然的に簡単に治療できる患者さんのみ相手しているわけで、少しでも難しい患者さんが来たら、病院に紹介するだけです。来院患者さんの半数以上は薬の継続処方しかしていなかったりします。そんなもの海外では医師の仕事ではなく、薬剤師の仕事です。それにもかかわらず、勤務医より開業医の給与が高い統計事実があります。

これは50年以上も続いている日本医療界の矛盾です。海外では、家庭医(≒日本の開業医)は、専門医(≒日本の勤務医)より給与が遥かに低いのが普通です。なぜ日本だけ、こんなおかしか状況が続いているのでしょうか。

それは日本医師会自民党献金して、開業医の給与が高くなる診療報酬制度になるように要求しているからです。日本医師会とは、名前からすると日本の全ての医師が加入する団体のようですが、実態は開業医中心の団体です。日本医師会に勤務医も加入していますが、開業医団体との批判を防ぐために入ってもらっているだけで、日本医師会が開業医の既得利益を守るための団体であることは紛れもない事実です。あからさまな腐敗です。医療従事者、特に医者なら、誰でも知っている事実です。

だから、「開業医こそ日本医療の諸悪の根源である」と断言する医者も私の周りに多くいます。勤務医の仕事の社会的価値の基準から開業医の給与を定めれば、言い換えると、開業医の給与を勤務医より遥かに低くすれば、勤務医の給与が現状維持なら、日本の医療費が劇的に削減できることは間違いありません。

もっとも、日本の勤務医も開業医を大上段に批判できないだろう、と私は考えています。病院にも多くの無駄、非効率、過剰医療があるからです。また、在宅診療を行う開業医はこれからの超高齢社会の日本には多く必要でしょう。そのため「開業医こそ日本医療の諸悪の根源である」とまで私は考えていません。しかし、その実態を知るにしたがって、やはり「日本の医者社会で、勤務医よりも開業医に問題がある」のは明らかと考えるようになっています。

感染症は栄養摂取と休養が最適の療法である

上のタイトルは特に呼吸器感染症にあてはまります。日本の外来患者のかなりの割合を占める上気道炎(風邪や扁桃炎)、インフルエンザ、肺炎(特に非定型肺炎)は薬なしで治ります。これらの病気で、わざわざ寒い中クリニックまで来る必要はないし、大して効きもしない薬をもらう必要もありません。それより家で栄養のある食事を摂って、休養している方が病気を早く治せます。これは世界中の医者が知っていることです。しかし、日本中の医者、特に開業医がその医学知識と反対の処方を実践しています。そのため、インフルエンザの時は病院に行かなければいかない、と勘違いしている日本人が私の想像していた10倍以上います。私は医療職に従事するまで、熱や鼻水や咳とのどの痛みといった症状で、病院やクリニックに来る日本人がこんなにいるとは知りませんでした。

よほど生活に困る症状が1週間以上続いたりしないかぎり、私は医者にかかったりはしません。この20年間でいえば、のどの痛みが2週間以上続いた2回しか、呼吸器感染症ではクリニックに行っていません。それも結局、風邪と診断されましたが、風邪の特効薬はないはずなのに、なぜか4剤も処方され、そのうちの一つは抗生剤でした。薬局で薬の効能を聞いて、私には意味がないと判断したため、1剤も受け取らずに帰りました。案の定、それから1週間もしないうちにのどの痛みは治まりました。なお、この長期間の咽頭痛は、私の持病となり、その後も2年に1度は同じような症状が出ますが、2回目に試しに受け取った抗生剤もその他の薬も全く効かず、唯一のどの痛みを抑えたのは市販ののど飴です。だから、同じ症状が出ても、3回目以降はクリニックには行っていません。それよりも栄養摂取をこころがけています。確かに、よく栄養を取っていると(よく食べると)、治りが早いです。

私は医療従事者なので、ただの風邪やインフルエンザでクリニックに来るメリットがないことを知っています。インフルエンザ薬のタミフルはウイルスを殺す薬ではなく、ウイルスの増殖を抑える効果しかないので、インフルエンザが陽性と出る頃には、既に体中にウイルスが回っているため、あまり効果がないことも知っています。世界の50分の1以下の人口の日本人が、世界中のタミフルの7割を使用していることも知っています。インフルエンザ症状が出たと思ったら、わざわざインフルエンザか風邪かを確かめず、どちらにしても他人に感染させるので、学校や仕事を休めばいいだけです。インフルエンザと確定したら、学校や仕事に行くべきでないと分かるので、インフルエンザの検査(鼻に綿棒を突っ込むので気持ち悪いですが)をしたい気持ちまでは、まだ分かります。しかし、上のように効果が疑問視されて、副作用もあるタミフルやイナビルを使用したがる気持ちまでは、よく分かりません。

だから、ただの風邪で、薬をもらいたがる気持ちはもっと理解できません。風邪ウイルスを退治する薬はなく、出される薬は全て風邪症状を抑える薬です。また、風邪の症状のうち、鼻水を止める薬、のどの痛みを止める薬は、まだ存在しません。厳密には存在していますが、それらは全て偽薬と比べて効果が示されていない薬か、副作用が強すぎる薬です。もちろん、そんな薬で副作用が出ないで効く体質の人たちもいますが、そう理想的に効く確率は高くありません。それに、風邪にかかったとき、鼻水は止めてはいけません。鼻紙などに出すべきです。

いわゆる総合感冒薬(PLやPA)は、効果よりも副作用が強く出ます。いろんな薬の混合剤だからです。これをただの風邪で簡単に処方している医者は怪しいと思って間違いありません。しかし、そんな医者が日本の開業医には少なくないと、医療従事者になって知りました。

私の周りの良心的な医者の多くから「開業医こそ日本医療の最大の無駄」という意見を何度も聞いてきましたが、私にもその意味がようやく分かってきました。「3時間待ちの3分診療は問題なのか 」で書いたように、短時間診療にも意義はあると考えますが、「薬を出す意味がないことは知っているが、薬なしだと納得してくれないし、安価な薬だから処方している」、「ウイルス感染に抗菌薬が効かないのは百も承知だが、細菌感染の可能性はゼロでないし、患者さんが希望するから抗菌薬を出す」のは明らかに異常で、私の知る限り、日本以外の国ではありません。たとえ患者さんの希望に沿わなかったとしても、正しい情報を伝えることが、専門職である医師の役割であり、存在意義のはずです。

少子化原因の分析

「女は別れた男のことをすぐ忘れるが、男は別れた女のことをいつまでも忘れない」

女は切り替えが早いのに男は未練たらしい、という批判的な意味で言われることが多いように思います。それとほぼ同じ意味で使われる「女は過去の男を上書き保存、男は過去の女をフォルダ保存」もよく聞きます。この仮説は私のこれまでの人生経験とも合致しています。

私には理解しづらいことですが、40才前後になって、もう理想的な結婚が難しい状態になっていても、(少なくとも私の周囲にいた)女性はほぼ全員、恋愛について後悔していません。このような恋愛観を持てる女性は、どこまで恵まれているのでしょうか。ふったことはあっても、ふられたことはないのでしょうか。中年以上の女性は非正規の仕事くらいしかないことを知らないのでしょうか。十分な挑戦も決断もしなかったのに、結婚できないのは自分のせいでなく、「タイミングが悪かった」と運のせいにしている女性があまりに多いです。

当たり前ですが、恋愛について後悔しない女性は、男性への要求が高くなります。社会的ステータスの高い男性がアプローチしてきて、女性がそれを受け入れないうちに、その男性が他の女性と結婚したのに、自分がふられたとは思っておらず、その男の学歴や職歴を自慢話のように語る30代女に会ったことがあります。「あのとき是が非でも受け入れておくべきだった」と後悔していないので、彼と同等か彼以上の男性でないと、彼女は結婚に応じないでしょう。しかし、時間経過に従って、女性の価値が下がることはあっても、上がることは通常ありません。一度アプローチしてきた男性以上の男性が現れる可能性は低いでしょう。それにもかかわらず、多くの女性は恋愛について後悔も反省もしません。

そういった女性たちに結婚願望がないわけではありません。強い人も多くいます。しかし、男性への要望が高すぎて、それに見合う男性なんてまずいない、あるいは、それに見合う男性は自分など相手にしない、そんなことに気づいていません。さすがに40才前後になるとそれに気づきますが、それでも男性への要望を十分に下げません。下げるくらいなら、結婚しないことを選択します。たとえ結婚しなくても、さらに非正規雇用で低収入でも、「オリーブの罠にみる日本女性の美意識と少子化原因」に書いたように、女友だちさえいれば、(助けてくれる親戚がいるうちは)大きな不満のない人生が送れる時代に日本は既になっています。このような傾向が未婚化と少子化の原因になっていると思います。

これを解決するためには、「昔のように独身女性が生きづらい社会にする」「男性が女性の要望に見合うように努力する」「女性の高すぎる要望を早めに下げる」などがあるでしょう。「昔のように独身女性が生きづらい社会にする」ことは現実的でも、理想的でもありません。「男性が女性の要望に見合うように努力する」ことは、上記のような理由がある以上、どんなに努力しても相対的に不人気の男性が結婚できない状況は変わらないので、これだけで結婚率が上昇するとは思えません。「女性の高すぎる要望を早めに下げる」ことが最も理想的だと思います。そのためには「妙齢の女性は男性への要望が高い」ことを自覚させるべきでしょう。

「仕事と家族」(筒井淳也著、中公新書)に少子化の原因(≒未婚化の原因)として、「女性の男性への要望が高いこと」をあげています。それをもっと周知すべきだと考えます。

日本の少子化を移民で解決しても世界規模での少子化は止められない

「限界国家」(毛受敏浩著、朝日新書)という本があります。移民なしで人口減少を食い止められるほどの少子化対策を成功させた先進国は存在しないので、日本は移民をもっと受け入れるべきだ、という主張です。移民の積極的な推進は私も同意しますが、この解決策は視野が狭いとも思います。

東京は日本の都道府県で最も出生率が低いのですが、いまだに東京の人口が増加しているのは、他の県から人口が流入しているからです。上の移民策は、日本で起こっている人口減少を世界規模で解決させようとしているだけです。出生率の低下は世界中の発展途上国で起こっていることであり、これでは根本的な解決策になりません。課題先進国と言われる日本なら、100年先の未来まで見通して(人口問題はそれくらいの期間で考えるべきです)、世界規模での根本的な解決策も実践すべきです。だからこそ、「未婚税と少子税と子ども補助金」を私は提案しています。

自分たちの子孫に明るい未来を約束することは生物として大切な務めであり、それに社会的責任(税金)を課すのは人権の侵害でないはずです。日本(大げさにいえば人類)の衰退が手遅れになる前に、多くの(日本)人がそのことに気づき、未婚罪と少子税と子ども補助金を実現させるべきです。最初は批判を浴びるでしょうが、日本人消滅まで本気で心配された少子化問題がこれで解決に向かえば、未来には世界中で現実的で必要な政策と認識されると予想します。

未婚税と少子税と子ども補助金

こちらのブログで何度も紹介している「仕事と家族」(筒井淳也著、中公新書)は少子化問題の本質を捉えた本だと思います。少子化問題の解決のためには、女性の就業率を上げるべきで、そのためには日本における勤務地や時間が無制限の労働は改めるべきと主張しています。また、日本では家事労働にかける時間が長すぎる、もっと簡略化しないと女性であれ男性であれ仕事と家事を両立できない、と仕事だけでなく家事にも注目しています。

労働環境の改善や、家事労働の簡素化で、女性の就業率と出生率を上昇させる案は私も賛成です。ただし、同書で成功例としてあげているスウェーデンでも、合計特殊出生率は10年くらいかけて0.5上昇させて、ようやく2前後になった後、再度1.5くらいまで減少したりしています。周知の通り、現在、日本の若年人口は右肩下がりなので、たとえ来年奇跡的に合計特殊出生率が2になって、その2を長年維持できたとしても、人口減少は私が死ぬくらいまでは止まりません。もちろん、労働環境の改善、家事労働の簡素化をスウェーデン並みにするまでに10年単位の時間がかかりますし、日本の合計特殊出生率を2で安定させるまでにもさらに多くの時間がかかりますし、まして日本経済の斜陽傾向を反転させるほど少子化が解決するとなると、上記の改革案程度では100年先の話になるでしょう。その前に日本の国債がデフォルトになって、それどころではなくなっている可能性も十分あります。上記の本の視点は素晴らしいと感じますが、その解決策だけで有効とは思えません。

だから、人口減少を補うため移民の導入という案が出てくるのでしょう。それも重要な解決策ですが、ここでは別の視点からの解決策を提示します。

未婚税の導入です。未婚税はその名の通り、たとえば30才以上の未婚であれば、男女全員に課せられます。最低でも所得の10%は現在の税金に上乗せしてほしいです。35才になれば未婚税が15%、40才になれば20%と高くなります。

形だけ結婚して子どもを作らず、未婚税を逃れる若者たちが出てきては意味がないので、少子税の導入も提案します。生殖や遺伝機能に問題のない男女で、妻が30才になり、かつ、結婚して2年経過したのに、妻が一度も妊娠していなければ少子税が課されます。少子税は、たとえば、結婚2年後から家庭所得の20%が課されて、結婚後7年後から25%、結婚後12年後から30%と高くなります。

一方で、子どものいる家庭への税金優遇策も提案します。子どもが2人以上いたら、少子税はかかりません。3人以上からは補助金が出て、4人以上になると夫婦の一方が働かなくても中流以上の生活ができるほどの補助金を出して、10人いたら夫婦二人が一生働かなくてもいいほどの補助金を出し、年金を保証します。

未婚税と少子税と子ども補助金は最も簡単に浮かぶ少子化対策だと私には思えるのですが、現在の日本でほとんど論じられていないので、ここに書きました。妻が30才以上になると少子税が課せられる点など、人権侵害との批判は必ず出てくるでしょうが、この案は劇的に効果を生む可能性がある上、税率を変えることで程度が調整できるので、妥当な解決策だと私は考えます。反対する人は有効で現実的な対案を出してほしいです。

次の記事に、移民策では少子化の根本的な解決策にならないことを示します。

結婚制度が社会に必要な理由

結婚があらゆる社会に存在している一番の理由は子どもでしょう。母だけでなく父にも子育ての責任を持たせるため、結婚制度は必要だったのだと思います。

二番目の理由は、無駄な恋愛を諦めさせるためでしょう。自由経済では富が一部に集中してしまうのが必然なように、自由恋愛では人気が一部に集中するのは必然です。ここで結婚(一生固定する男女関係)が社会的に約束されれば、どんなに好きだろうと諦めて、他の異性を探すよう促進できます。だから、異性からの好意を集める人(特に女性)が結婚を先延ばしにするのは社会道徳に反する、と私は考えます。これが社会通念になっていないことが、私には不思議です。

三番目の理由は、一番目と二番目の理由と関連しますが、(特に男性の)浮気を防ぐためでしょう。浮気が蔓延すれば、子どもの父親と子育ての責任が不確かになり、罪のない子どもに不利益が生じるかもしれません。生物的理由から、男性は女性からの誘いにすぐに乗ってしまいますが、結婚後の浮気が違法となれば、抑制できます。言うまでもなく、浮気が道徳に反することは社会通念になっています。

オリンピックは莫大な税金がかかるものでも、返上不可能なものでもない

2024年と2028年のオリンピック開催都市が同時に決まる異常事態になったのは、開催される前から大赤字が決まっている東京オリンピックの失敗が影響したのは間違いないでしょう。名乗りを上げた都市がオリンピックの莫大な費用に愛想を尽かして撤退し、五輪開催地不在の危険性まで出てきたのは今回が始めてではありません。「オリンピックと商業主義」(小川勝著、集英社新書)にあるように、1984年のオリンピックも立候補した都市がロサンゼルス一つで、そこでさえ「市の税金投入を禁じる」というロサンゼルス市憲章まで作られたほどです。さらにいえば、1976年のデンバー冬季オリンピックのように、開催決定後に住民投票のため返上されたケースもあります。東京も、あるいは日本人も、オリンピックに名前負けせずに、返上する勇気を持ってほしいものです。

「オリンピックと商業主義」(小川勝著、集英社新書)で何度も記述されていることですが、「商業主義」の始まりとされる1984年のロサンゼルス大会が大幅な黒字になったのは費用を節約したからです。収入では、その前の1980年モスクワ大会の方が1.5倍も多いのです。また、歴史を調べれば、オリンピックに商業主義が入ってきたのは1960年のローマ大会からで、1972年のミュンヘンオリンピックは初の商業化オリンピックと断定できるほど変わっていたことが分かります。

1984年のロサンゼルス大会で画期的だったのは、むしろ完全民営化五輪だったことです。住民投票によって「ロサンゼルス市はオリンピックの赤字保証をしないし、運営資金としての税金投入も禁じる」という市憲章修正条項が可決されたのです。だから、スポーツ連盟からの贅沢な宿泊施設を用意する要求、高価すぎる交通手段を準備する要求をことごとくはねつけました。交渉により、ギリギリまで値切ったのです。警官の人件費でさえ市は出してくれなかったので、観光客に課したホテルと五輪入場券の税金37億円によって賄われ、それでも足りない分の23億円まで市との交渉により16億円まで値切っています。この決着は、選手村を開けるわずか1週間前だったそうです。「経費の支出を適正なものにするには、こうした粘り強い態度が必要だった」と上記の本は主張しています。

努力の甲斐あり、オリンピック支出は、1976年モントリオール大会が約14億ドル、1980年モスクワ大会が約13億ドルに対して、1984年ロス大会が約5億ドルです。繰り返しますが、ロス大会が大幅黒字になったのは収入増ではなく、支出減が原因です。

なお、1984年オリンピック開催都市に名乗りをあげた都市がロス一つだった原因は、1976年モントリオール大会の失敗にあります。モントリオールは五輪開催時にカナダ最大の都市でしたが、開催後に五輪の莫大な赤字返済に30年間も苦しみ、現在は人口でも経済規模でもトロントに負けています。もちろん、モントリオール凋落の最大の原因は、ケベック州のフランス系優遇政策にありますが、五輪の赤字が凋落を加速させた側面もあります。

なぜ東京オリンピックはロンドンと同じ失敗をしているのか

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(参考)

ロンドン大会の立候補ファイルと実際の経費を比較すると、「組織委」は3,000億円から6,000億円、「開催都市・国等」は5,000億円(ソフト経費はゼロ)から1兆5,000億円(ソフト経費は7,700億円)、「合計」は8,000億円から2兆1,000億円となっている。

なお、「組織委」の実際の経費6,000億円には、政府から注入された公的資金2,000億円を含む。

(1£=180JPY:2004年~2012年の平均)

 

東京オリンピックの公式サイト(https://tokyo2020.jp/jp/games/budgets/)からの引用です。税金の無駄批判をかわすため、「ロンドン大会よりはマシ」という数値をわざわざ載せています。

これを見て気になるのは、ロンドン大会にしろ東京大会にしろ、ソフト経費が当初の予定より遥かにかかっていることです。東京大会の予算を見ると、恒久施設3500億円、仮設等2800億円、エネルギーインフラ500億円のハード部門合計6800億円に対して、輸送1400億円、セキュリティ1600億円、テクノロジー1000億円、オペレーション1000億円、管理・広報900億円、マーケティング900億円、その他1400億円とソフト部門合計8200億円もかかっています。たった17日間のオリンピック、13日間のパラリンピックで、なぜこんなにソフト費用がかかるのでしょうか。

気になったので、2020年東京大会決定前に出版された「オリンピックと商業主義」(小川勝著、集英社新書)で、過去のオリンピック収支を調べてみました。

1984年のロサンゼルス大会では54億円程度しか警備費がかかっていないようです(うち38億円は観光客からの支払)。それも含めた総支出は1339億円です。1996年のアトランタ大会では会場建設費573億円を含めた総支出は1996億円です。2000年のシドニー大会では、競技施設が税金で建設されて予算外になっているので、それを除いた総支出だと1108億円になります。ハード費用(競技施設建設費用)を除けば、ロサンゼルス大会、アトランタ大会、シドニー大会は、東京大会のセキュリティ費用の1600億円だけでも開催できていました。2012年ロンドン大会までに、どうしてオリンピックのソフト費用がここまで高騰したのでしょうか。どう考えても、物価や為替の影響だけではありません。一体、なににどれくらい金を使うようになったのでしょうか。また、ロンドン大会で莫大なソフト費用が予定外にかかっていたのに、どうして東京大会の当初の予算ではその費用が入っていなかったのでしょうか。

私はその答えを知りたかったのですが、調べきれませんでした。もし知っている方がいたら、下のコメント欄に情報源も含めて書いてくれると助かります。

ところで、「オリンピックと商業主義」(小川勝著、集英社新書)を読めば、オリンピックは莫大な費用がかかるものでもなく、赤字で運営するものでもないことが分かります。その本を元にした記事を次に書きます。