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未来社会の道しるべ

新しい社会を切り開く視点の提供

保証人制度をなくした場合の金利上昇はいくらなのか

日本社会に非効率な制度は多くありますが、人の流動性を妨げる点で、保証人が異常に浸透した制度は筆頭に挙げられるでしょう。借金をするとき、引っ越しをするとき、入学するとき、入社するときなど、ありとあらゆるときに保証人が必要です。

日本人ほど真面目に借金を返す国民が他にいるのでしょうか。保証人の必要性が外国と比べて少ないはずなのに、そういう習慣だからと、保証人文化が社会に根付きすぎているように思います。この保証人社会のため、引っ越しができなかったり、奨学金が得られなかったり、車や家のローンが組めなかったり、進学や就職できなかったりしたケースは、どれくらいあったか分かりません。ほぼ全ての日本に住む人にとって面倒この上ない制度で、労力的にも、経済的にも、非効率でしょう。

こんなことを書くと、「貸し渋りが起こって、返って借主の不利になり、経済が停滞する」と主張する人が必ず現れます。それでは科学的に、統計的に判断しましょう。

保証人がいないための貸し倒れ総額を出してください。保証人がいても貸し倒れになった総額も出してください。保証人がいても貸し倒れになったのなら、回収金額にもよりますが、保証人に請求した労力と人件費が無駄ですし、保証人まで破産させたため、人材損失は単純計算で2倍、あるいは3倍にもなったりします。それらの統計数値はすぐに求められるはずで、それと貸出総額から、保証人制度を失くした場合に貸出金利をどれくらい上昇させればいいかは、簡単に求められるはずです。この金利上昇数値と、保証人制度が社会に与える経済的悪影響を考えれば、どうするべきか、答えはすぐに導かれるに違いありません。

借金をすぐにチェックできる信用情報調査システムは日本に普及しています。高額な住宅ローンになると、本人の給与明細や貯金が調べられます。そこまでしていて、まだ保証人という他人を巻き込まないと不安なのでしょうか。そうではない、と私は考えています。単に習慣だから、なんとなく続けているだけのはずです。貸す側だって保証人を探して、他人の借金の肩代わりをさせる、なんて気の滅入る仕事をするより、貸出金利を上昇させた方が楽に違いありません。理性的に考えて、こんな非効率な伝統は即刻止めましょう。

2015年に連帯保証人の民法改正がようやく行われましたが、この程度の改革では全くもって不十分です。着実な雇用と豊かな親戚に恵まれたエリートたちは、この保証人社会が人の流動性をいかに妨げているかにピンと来ないのでしょう。しかし、上の数値を示して、保証人制度の廃止に経済的なメリットがあると分かれば、エリート連中でも改革に邁進するはずです。

日本にはどう考えても非効率な事務処理が無数に存在し続けています。その中でも、この保証人制度の浸透は日本社会を停滞させている象徴的な存在でしょう。多くの国民も毎度の面倒な保証人手続きにはうんざりしているはずです。国民もマスコミも、保証人制度の廃止を今の100倍は叫んでもらいたいです。

日本が国債デフォルトする前に金銭取引を完全公開しておくべき理由

異次元緩和も国債消化には無力に終わりそうなので、日本政府が莫大な国債を本気で消化しようとしたら、1946年以来の預金封鎖をする可能性は十分あるでしょう。悪夢ように膨張した国債を消化させるためには、預金封鎖、新通貨切替、急激なインフレなどの極端な方法をとる他ないのかもしれません。

ここで歴史を振り返ります。1946年当時も、現在のように国債は返却不能なまでに膨れ上がっており、政府は旧円から新円に切替えました。どの国民も銀行に預けた旧円を、生活に必要な金額だけ新円として毎日一定額引き出せましたが、新円として引き出せる日数には限りがあります。大量の旧円を預金していた者は期日までに全額を新円として引き出せません。全額引き出せないほどお金を持っている者は、財産税として政府に徴収されたのです。皆が悔しかったでしょうが、皆が同じ条件で損をしているので、金持ちは恵まれていた分だけ耐えるべきと我慢したのでしょう。

しかし、これには抜け道がありました。「金融の世界史」(板谷敏彦著、新潮選書)によると、複数の銀行に口座を持っていれば、簡単に毎日の引き出し金額を複数倍にできたようです。いくらなんでも当時の多くの国民がこんな見えすいた抜け道に気づかなかったとは信じ難いのですが、他にも単純な抜け道が上記の書で紹介されています。旧円で株や土地を買って、新円で売る方法です。まだ株式投資や土地投資が一般的でなかったせいか、このマネーロンダリング方法に気づかなかった国民は多かったようです。調べれば、さらに複雑な抜け道を通った金持ちはいたことでしょう。第二次大戦時、日本のために大量の国債を購入していた勤勉な国民が国家債務のツケを払わされる一方で、一部の狡猾なお金持ちが新円の札束で贅沢三昧しいていたそうです。

今後、日本が国債消化のために預金封鎖をすれば、ほぼ全てのお金持ちが抜け道を探そうとします。上記のような単純な抜け道はまず通用しないでしょうが、複雑すぎて規制できなかった抜け道を通る者は必ず出てくるはずです。その不公平を解決する最も効果的な方法は、全ての金銭取引をネット上で公開しておくことです。法律を何重に張り巡らしても、抜け道を全てふさぐのは不可能です。金銭取引を完全公開していたら、公序良俗に反する抜け道と分かれば、そこを通った者の金銭取引を後からでも無効にできます。抜け道をくぐっても無駄と分かれば、国民は複雑な抜け道を探すための多大な努力をしなくて済みます。

なお、当然ながらマネーロンダリングと合法的な金銭取引の線引きで判定が微妙なものは出てくるはずです。それについては公序良俗に反するかどうかで、最終的に裁判で決めることになります。公序良俗はあいまいな概念なので、それをある程度確定するために、今から「この莫大な国債のツケを本来誰が払うべきなのか」について考えておくべきでしょう。私は「お金持ちの高齢者たちが国債のツケを払うべきである」と考えていますが、その根拠についてはこれからの記事で示していくつもりです。

ポピュリスト支持者の本当の敵であるグローバリズムの弊害の解決方法

21世紀の現在、資本主義経済は地球規模で急速に浸透しており、世界中で貧困層が急激に富を得ています。発展途上国から安価な商品が入ってくることで、相対的に賃金の高い国の人たちは職を失っています。このため、多くの先進国で外国人排斥を唱えるポピュリスト政治家が台頭し、問題になっています。

私が指摘するまでもないでしょうが、ポピュリスト支持者は明らかに敵を間違っています。国内の外国人を排斥したところで、安い外国商品が入ってくれば彼らの仕事は脅かされますし、安い外国商品の輸入規制をしても、国内の消費者が高い商品を買うだけです。彼らの本当の敵は、グローバリズム経済によって莫大な富を理不尽に蓄積しているごく一部の富裕層でしょう。敵を正しく認識できないため、資本主義の権化であるトランプがグローバリズムを批判して大統領に選ばれる、なんて喜劇のような事実が生まれています。

2016年にパナマ文書が公開され、世界中の上流階級の人たちが事実上の脱税をしている証拠が出てきました。本来なら最も多く税を納めるべき上流階級が脱税しているなど言語道断なのですが、「タックス・ヘイブン」(志賀櫻著、岩波新書)を読めば分かる通り、こんな不正がまかり通っていることは知識人なら昔から知っていることでした。

上記の書にあるように、リーマンショックの反省から、この最悪と言っていい不正の対策は少しずつ進んでいるようです。世界中の先進国の中間層が、それこそポピュリスト政治家を支持した熱烈さでタックス・ヘイブンを批判すれば、来年にでもこの問題は解決するでしょう。しかし、「共産主義が失敗した思想的理由」にも書いた過ち、弱い者たちがさらに弱い者をいじめ、強者になびいてしまう過ちをいまだ人類は犯しているようです。戦争と並んで、現代社会のバカの極みです。

この問題を解決する最も単純な方法は、世界中のあらゆる金銭取引を1セントに至るまで、ネット上に公開することです。これは「日本が世界最高のAI国家になる方法」で私が述べた方法と同じです。簡単ではありませんが、この金銭取引公開はいずれ必ず実現すると私は予想しています。100年後の人たちが現在を振り返ると、タックス・ヘイブンでのあからさまな不正がこんなコンピュータ時代にまで蔓延しているのが信じられないはずです。

医療でも正しい診断ができれば、8割程度問題は解決したようなものです。同様に金銭取引を完全公開できれば、資本主義の宿命とも言える貧富の格差問題は8割程度解決すると考えます。

1980年代日本の長所

国家の富は国民の道徳と教養によって決まる」との考えを持っているため、そう思ってしまう側面はあるでしょうが、世界で日本の存在感が最も大きかった1980年代(世界のGDPに対する日本のGDP比が最も高かった時代と一致しますが)、日本は相対的に他の先進国より優れていた面は大きかったと考えています。

その頃、日本は世界で唯一成功した共産主義国と言われていました。その理由として、日本の貧富の格差が他国よりも極めて小さかったことがあります。

1980年代の映画に「ウォール街」がありますが、その作品でアカデミー賞を受賞したマイケル・ダグラスは「アメリカでは上位1%がこの国の富の50%を所有する。その3分の2は相続によるもの。金目的で結婚した売女やバカ息子どもがその金で悠々と暮らしている。アメリカ国民の半分はほとんど持っていないか、なにも持っていないかのどちらかだ」というセリフを吐きます。このブラックジョークは明らかに誇張されていますが、アメリカの欠点を赤裸々に表していると思います。

社会道徳的な観点からすれば、同じ人間なのに、ある人が他の人より100倍以上も価値があるなんてことはありえません。たとえば、エジソンがいなかったとしても、100%間違いなく、他の誰かが電球や蓄音機を発明しました。ビル・ゲイツがいなかったとしても、他の誰かがパソコンを絶対に普及させています。両者とも、たまたま先導者になれた幸運に恵まれただけです。最下層の国民の100倍以上の収入を与える必要はないですし、そうすべきでもありません。

しかし、資本主義社会でなんの規制もないと、そんな「すべきでないこと」が実現してしまいます。その資本主義最大の矛盾を解消するために、共産主義が生まれたのでしょうが、結果として全て失敗しました。他の多くの資本主義諸国もこの矛盾を解決できていません。アメリカはもちろんヨーロッパでも、世界的大企業の社長になると何十億以上もの年収を得ていたりします。

一方、日本だとトヨタ自動車の社長でさえ現在年収3億円5千万程度のようです。1980年代だと、もっと低かったでしょう。資本主義国の宿命のような貧富の格差を日本だけは克服できていたようです。さらに、どんな仕事でも収入が同じという理不尽なことにもならず、仕事ごとに適切な報酬は支払われます。「極端に貧しい者もいないし、極端に豊かな者もいない。皆が能力に応じて働き、仕事の業績は適切に評価される」という理想郷に1980年代の日本は世界中のどの国よりも近づいていたのです。これを日本はもっと誇っていいはずです。

周知のように、土地バブルの発生や無駄な財政投資や無意味な年功序列など、1980年代の日本に大きな社会的欠陥があったのも事実です。だからといって、1980年代の日本でほぼ実現できていた「極端に貧しい者もいないし、極端に豊かな者もいない」社会まで放棄しなくても、現状の停滞期から脱する方法はあると考えています。むしろ、他の資本主義国が実現できなかった「貧富の理不尽な格差が少ない」社会を手放したら、皆が幸せになれる理想郷から遠ざかると確信します。

共産主義が失敗した思想的理由

共産主義が失敗した一番の理由は計画経済の非効率性にあったと私は確信しています。ただし、他にも理由はいろいろあげられるでしょう。思想的な側面でいえば、本来利益を受けるはずの下層大衆が利益を受けていると理解できなかったことにある、と私は考えています。世界中どこでも、過去から(少なくとも)現在まで、下層大衆ほど保守的なのです。先進的な共産主義の理念に共感したのは、本来利益を失うはずのエリート大衆ばかりでした。これは明らかに矛盾しています。どうしてこんな矛盾が発生するのか私には分かりませんが、世の中はそんな風にできているようです。

もちろん、日本にもそれは当てはまります。先進国に仲間入りをとっくの昔に果たしたはずなのに、日本人は時代遅れな階層社会が大好きなように私は感じています。

私は以前、チーム医療勉強会を独自に設立して、医師を頂点とする従来の医療を排して、各職種が平等にそれぞれの専門能力を活かした医療(チーム医療)を目指したのですが、それに最も反対したのが本来利益を受けるはずの看護師たちでした。私のブログを読めば分かる通り、私は看護師にいい印象を持っていないのですが、カナダで会った看護師たちの性格の悪さとこの失敗経験は大きく影響しています。

言葉は性格である

「英語で話すと、日本語で話すより、言い方が率直になる」

そんなことを感じる人は多くいます。私もその一人です。私はこの現象を「言語によって性格が変わる」と表現しています。

私は日本語を母語としてない300名以上の外国人と日本語で話しています。そこでよく感じることは、丁寧な人は自然と敬語の上手な日本語を使っていて、率直な人は率直な日本語を使っていて、失礼な人は失礼な日本語を使っていることです。私の経験からいえば、それは母語がなんであっても変わりません。もともとの性格がどうしても日本語の会話にも出てしまうようです。ただし、上記のように、ある人が日本語で話すときと、母語で話すときでは、印象が大きく変わってくることはあるでしょう。

書くと同じ文字になったとしても、話し方によって印象は大きく変わります。実際、敬語を使っているのに嫌味に感じる人や、敬語を使っていないのに丁寧に感じる人は、誰の周りにもいるはずです。だから、「話し方」も含めて、私は「言葉」であり「性格」だと考えています。

一般に、「性格」という単語は、道徳観や世界観などの「内面」の意味も含んでいると思いますが、私は分けて使っています。私のブログでの「性格」は話し方や行儀作法などを指し、人生観や知性や見解などの「内面」の意味は含んでいません。内面が性格に現れる部分もあるでしょうが、内面がいいのに性格が悪い人、あるいは、内面が悪いのに性格のいい人は間違いなくいるので、両者は明確に分別すべきと考えるからです。

中国人とつきあえない日本人がインド人とつきあえるのか

2000年頃には、いずれインドが人口で中国を追い抜き、中国同様に急激な経済成長を遂げて、21世紀中にアメリカを経済力で上回る大国になることを、私は知っていたように思います。1990年代には「21世紀は中国の時代だ。この波に乗り遅れるな!」という記事をよく読んだ記憶がありますし、今でも中国語の重要性を述べる記事はよく見かけますが、「21世紀はインドも経済大国になる。今から戦略的に投資しておくべきだ!」という記事はあまり見かけないように私は感じています。いろいろ理由はあるでしょうが、日本人にとって、インドが地理的にも心理的にも遠い国だからではないでしょうか。

深夜特急」(沢木耕太郎著、新潮文庫)の影響もあり、私は10年間くらい最も行きたい外国がインドで、最初に選んだ外国旅行は当然のようにインドでした。その後、中国にも長期滞在した経験からいえば、「中国人とうまくつきえない日本人がインド人とうまくつきあえるのだろうか」との疑問はどうしても出てきます。失礼ながら、日本人は中国人を、マナーが悪い、声がデカい、不潔だ、とよく批判しますが、大変失礼ながら、インド人は中国人よりもマナーが悪く、声がデカく、不潔です。私は「中国の実態は誰も知らない」と書きましたが、インドの実態は中国の実態よりも遥かに混沌としています。中国人には常識が通じないと不平を言う日本人はぜひインド人と深く交流したり、インドに旅行したり、インドに住んでみてください。よほど変わった日本人でない限り、中国はインドよりも日本の常識がずっと通用すると感じるはずです。

21世紀にインドがアメリカ以上の経済大国になるので、日本は嫌でもインドの経済力の影響を受けることになります。あまりいい表現ではありませんが、その時になれば「インドと比べれば中国は天国だった」と感じる日本人が激増することでしょう。中国の次はインドが台頭すると分かりきっているので、今のうちに、まだしも交流の容易な中国人とは仲良くなっておくべきだと思います。

好むと好まざると中国経済の影響を受ける日本

中国人が旅行中に高級品を買い漁る「爆買い」という言葉が2015年に流行語大賞をとりました。この「爆買い」のように、日本人が好むと好まざるにかかわらず、いまだ成長の止まらない中国から受ける影響力はしばらく増え続けます。

隣国に経済大国が誕生しているのですから、中国と好ましい関係を築いて、その経済成長の恩恵を受けたい、と思うのは自然でしょう。しかし今現在、日本人が中国人とつきあいやすくなったと私は特に思いませんし、中国貿易から利益をあげているわけでもなく、むしろ、日本の大幅な貿易赤字です(もっとも、大量に輸入するからには、それだけのメリットが日本にあるわけで、1980年代のアメリカの日本批判のように、日本が貿易赤字を理由に中国批判すべきとは全く思いません)。

私も中国に住んだ経験があるので、中国人と理性的な関係を築くのが難しいのは知っています。それでも上に書いたように、好き嫌いはともかく、中国経済が日本に与える影響は増え続けるので、中国人を日本人嫌いにさせて得することはないでしょう。

中国経済が急激に成長して日本を抜き、アメリカを抜いて世界最大の経済大国になることは、20年以上前には分かりきっていることでした。10年ほど前には「中国の発展は脅威ではなくチャンス」と広言していた日本の首相もいましたが、その小泉首相自身が中国との関係を悪化させる、という言行不一致の外交政策をとっていました。彼には彼なりの信念があったのは知っていますが、「経済発展は歓迎するものの、政治的に対立する」ことは対中国外交として好ましいと思えません。

政治的な対立に限らず、民間交流でも日本人が中国人から尊敬されない側面はあります。上海に住んだことのある日本人なら皆知っていることですが、その側面の一つを「上海のピンクレディー」の記事で紹介しています。

21世紀に大戦争が起こる可能性

アラブの春が起こっても、中東での民主化が一気に進むという夢は実現しませんでした。友人のイスラエル人にその理由を聞くと、こんな答えが返ってきました。

フランス革命後にフランスで一気に民主化が進んだわけではない。独裁者が出たり、王政が復活したり、戦争したりして、民主政治が定着するまでに100年、150年とかかっている。日本だって、明治維新で民主政治が一度に定着したわけじゃないだろう? アラブも同じだ」

世界中のほとんどの国では、民主化の進展にともなって社会に混乱が生じています。その混乱はしばしば暴力を伴って、場合によっては内戦を生み、ひどい時には他国との戦争にも繋がっています。産業革命以降の世界史を俯瞰すれば、帝国主義国家の民主化の進展に伴う最大の混乱が第一次世界大戦第二次世界大戦であった、と見ることもできると考えます。

21世紀には、世界人口のほとんどを占める発展途上国が文字通りに経済発展します。それに伴い民主化も進展していき、大なり小なり混乱も生じるに違いありません。私として期待するのは、それらの混乱ができるだけ暴力手段によらずに解決することです(軍事国家であれば実現不可能に近い理想とは分かっていますが)。また、日本人として心配することは、それらの混乱が他国との戦争に繋がらないか、という点、特に中国やインドといった経済大国が大戦争を勃発させないか、という点です。

もちろん、中国やインドは帝国主義国家ではなく、むしろ帝国主義国家を敵視しています。また、第二次大戦後に半世紀近くも冷戦が続きましたが、冷戦はついに大戦争にならずに人類は世界を二つに分けた対立を終結させています。21世紀には人の命の価値は極めて尊重されており、それを大量に失ってまで守るべきものや概念など存在しないと、道徳的にも、経済的にも分かりきっている、とも思います。

ただし、上記のように21世紀に世界での存在感が劇的に増す発展途上国で社会の混乱が生じるのは必然でしょうし、それらの国が現在の先進国の経済発展期と同じような過ちを犯す可能性はゼロでない、と私は思います。現在の発展途上国は、かつての先進国よりも急激な経済成長を遂げており、極めて保守的な人権感覚の人たちがいまだ現役世代でいます。当然、政治家にもいます。中国やインドの民衆も、20世紀の冷戦時代のアメリカやソ連の民衆より進んだ人権意識を持っている側面もある一方で、遅れた人権意識を持っている側面も確実にあると私は思います。

21世紀を大局的に見る

世界の人口の大部分を占める発展途上国は、20世紀までは後進国と呼ぶのが適切だったのでしょうが、現在は文字通りに爆発的に発展しています。産業革命の恩恵を一気に獲得している人たちが地球規模で何十億もいるのと対照的に、先進国の発展は停滞しています。19世紀、20世紀は先進国さえ見ていれば世界全体の動きが分かる時代でしたが、21世紀はそうではありません。21世紀は地球規模での人類史上最大の変化が起こり、自然環境破壊がこれまで以上に注目されるでしょうが、それらの問題の中心は全て発展途上国にあり、先進国ではありません。経済問題、環境問題を筆頭に、21世紀は否応なく、これまで後進国だった世界人口の大多数の国家群に、先進国家群が適切に対応することを求められます。

21世紀がこのような時代になることは、わざわざ私ごときが書くまでもないかもしれません。ただし、多くの人がまだ上記のような時代の流れに気づいていないようにも思います。「中国やインドが21世紀中にGDPで世界の1位と2位になる」ことは分かっていても、中国やインドの世界への影響力が強くなることまでは想像できていない、としか思えない知識人もいます。発展途上国と先進国の経済成長率の差を比べれば、世界中で一人あたりの経済格差が縮小に向かうのは必然です。当然、現在の発展途上国家群は、世界での存在感が大きくなっていきます。環境問題が深刻化してくると、その途中で惨憺たる悲劇が生じないとは断言できないはずです。それにもかかわらず、数十億人の発展途上国家群の経済成長に対応するための解決策や方法論を、少なくとも私は聞いたことがありません。

いつまでも先進国家群が世界を動かすとの幻想を捨てて、まずは上のような簡単な未来予想をして、手遅れにならないうちに問題を正しく把握して、適切な解決法を考えてみるべきでしょう。

変化のスピードが恐ろしく遅い時代

18世紀末に始まった産業革命は有史以来最高の急激な変化を世界中にもたらしています。いち早く産業革命を達成した一部の国家群は20世紀まで、良くも悪くも世界全体を動かしていました。ついに21世紀には先進国だけでなく、世界中のほぼ全ての国に産業革命の恩恵がいきわたります。地球規模で見れば、21世紀が世界史上最高に変化に富んだ時代になることは間違いありません。必然的に、その弊害も地球規模になるので、環境問題は過去最高に重要になってきます。

以上のことは、教養のある人なら、みんな知っていることです。一方で、地球規模の劇的な変化から取り残されている国もいくつかあります。既に産業革命の恩恵を十分に受けてきた先進国です。中でも停滞が目立つ国は日本です。もうすぐ30周年を迎える「失われた20年」継続中の日本は、驚くほどに変化の乏しい国になっています。これも教養のある日本人なら常識にしておいてほしいのですが、「激動の時代の今」「変化のスピードがますます速くなる時代」などという文言を日本でうっかり使ってしまう「知識人」は後を絶ちません。

変化のスピードが最も速い時代は、産業革命導入期です。日本なら明治維新期です。政治面、文化面、経済面、その他のあらゆる側面を考慮しても、明治維新期は、日本史上最大の劇的な変化が起きた時代です。それ以降もGHQの改革期までは激動期が続きますが、高度経済成長期になれば、政治は変化の乏しい時代になります。日本が全ての面において決定的な停滞期に入ったのはバブル崩壊後であるのは周知の通りです。

産業革命による急速な経済発展が限界に近づいてきたのは、理論的にも現実にも、先頭集団からです。アメリカでは1960年代、ヨーロッパでも1973年のオイルショック後には停滞期に入っていました。しかし、幸か不幸か、日本はオイルショック後でも、就業人口の大幅な増加は続いており、バブル期まで経済を発展させていましたが、そこが限界でした。

とはいえ、急速な経済発展が終わったものの、そこで経済成長が完全に止まったわけではありません。日本の失われた20年間中も、家電や車のエコ化は進みましたし、PCや携帯電話は普及しました。しかし、その程度です。私の父母の世代から、子どもの頃はテレビも冷蔵庫も洗濯機もなかった、という話を聞くと、自分の生きる時代がいかに停滞しているかは嫌でも感じます。現代の少年少女世代になれば、子どもの頃からの最大の変化といえば、ガラケースマホになった程度ではないでしょうか。これを急激な変化といえば、誰だって笑うでしょう。

現在、日本を含む先進国の人が「変化が加速する時代」「テクノロジーは日進月歩で進化している」などという言葉を安易に使っていたとしたら、歴史の流れが分かっていない視野の狭い人だと考えて間違いないでしょう。19世紀の科学革新の時代と比べると科学の進歩は明らかに遅くなっていますし、20世紀の先進国での工業革命の時代と比べると工業化の進展も著しく遅くなっています。さらに書けば、変化のスピードが落ちている先進国にすら、日本は着いていけていません。退職後の人ならまだしても、現役世代にいるのに、停滞する時代の変化にすらついていけないほど頭の中が停滞している人は、産業革命の恩恵を受けるに本来値しないので、山の中で自給自足の生活でもしていてほしいです。

最低な日本人の国際感覚

「アジアを見下して、西洋を尊敬する」のは最低な日本人の国際感覚でしょう。一方で、多くの日本人が持っている感覚でもあります。

私はそれと反対の国際感覚を持つべきだと長年考えていました。今でも「アジアに敬意を払うべきだが、西洋に敬意を払う必要はない」との考えは持っていますが、このブログやこちらのブログを読んでもらえれば分かる通り、私も最低な日本人の国際感覚に近いものを持っています。例えば、西洋で庶民的な暮らしをしたいとは思っていますが、東洋の発展途上国で庶民的な暮らしはまずしたくありません。

私の国際感覚が反転した契機は、現実に、インドに旅行して、中国とカナダに1年以上住んでみたことです。反転理由を適切に説明するのは難しいですが、このブログとこちらのブログを読み続けてくれると、善意に解釈してくれる方もいるかもしれません。もっとも、私の最低な国際感覚を善意に解釈するのは間違っているようにも、私自身、思います。

日本人の美徳は国際的にも美徳である

前回の記事の続きです。

謙虚さが西洋でも通用するように、英語に敬語はありませんが、相手に敬意を示す表現は世界中のどの言語にもあります。当然、教養の高いカナダ人も頻繁に丁寧な表現を使っていますし、品のないカナダ人はスラング(俗語)ばかり使います。つまり、日本と同じです。

その昔、日本では切腹が潔い死に方として称賛されていました。切腹(harakiri)は海外の人が野蛮と批判する代表的な日本文化で、自殺を禁忌とするキリスト教徒は絶対に理解できないと思っている方もいるかもしれませんが、必ずしもそうではありません。例として、ロミオとジュリエットのラストシーンを思い出してください。ロミオもジュリエットも後追い自殺しています。当時も現在も、キリスト教徒たちはこの後追い自殺に感動しているのです。この自殺を美しいとまでは思っていないとしても、野蛮だとは全く考えていません。

昔読んだ能の本に「日本式芸術が最高の域に達したのは室町時代であり、それ以後現在に至るまで、芸術は世俗化(大衆化)しているだけで、質としては劣化している」と書かれていた記憶があります(その本以外で同じ意見に出会ったことはないので、一般的な見解ではなく、筆者の個人的な見解だったのでしょう)。室町時代の芸術では「幽玄」を追及しており、幽玄の代表作は竜安寺枯山水だと私は考えています。これぞ日本人にしか理解できない芸術だと長年私は考えていたのですが、竜安寺枯山水が日本で有名になったのは、イギリスのBBCが世界中に報道してからだ、と数年前に知りました。

具体例は他にもあげられますが、ともかく、日本人にしか絶対に理解できない美徳など存在しないのは間違いありません。ただし、日本人でないと理解しにくい美徳もいくらでもあるでしょうし、その具体例を無数にあげられるのも間違いありません。

「日本人の常識が世界で通用すると思うべきでない」と考えるか、あるいは、私のように「日本人の美徳は世界でも通用する」と考えるかは、人によって違うでしょう。恐らく、前者が圧倒的多数派で、後者は少数派だと推測します。もし後者が多数派なら、私は日本でこんなに生きづらくなかったでしょうから。

なお、日本でこそ評価されるべき美徳のはずが、私の場合、カナダで評価された例を「私の努力や真面目さを評価してくれたカナダ人」の記事に書いています。

「西洋で謙遜は通用しない」は嘘である

外国人「あなたの英語は素晴らしいですね!」

日本人「いえいえ、私の英語なんて完璧からは程遠いです」

これは日本人(と韓国人)がよくするコミュニケーション失敗例です。西洋では、褒められた場合にまず感謝の言葉を伝えるのが礼儀なのに、感謝するどころか、それを否定しているので、これは失礼にあたります。

このように日本と西洋で礼儀作法の違いがあるのは事実です。しかし、海外では謙虚の文化がない、と考えるのは行き過ぎです。日本人の謙虚さは海外でも教養の高い方相手なら通用します。

それがよく現れていると思うのが、下のソニー盛田昭夫とABCニュースキャスターの1990年の映像です。

www.youtube.com

この動画の最後の方で、盛田は「私の見方はあなたとは違うでしょうが……」と言って、ニュースキャスターに「いえいえ、そんなことはありませんよ。ぜひ聞かせてください」と言わせています。この盛田の発言を謙虚と捉えない方もいるかもしれませんが、「私の意見など特殊でしょうが」「あなたはくだらない意見と思うでしょうが」などの意味が言外に含まれており、実は謙虚になっているのです。だからこそ、ニュースキャスターが盛田の発言を慌てて否定しているわけです。

私は上記の映像を「英語でしゃべらナイト」という番組で観て、「西洋でも謙虚さは通用するんだ!」と知ったので、カナダに留学中、謙虚なコミュニケーション手法を何回も使っています。もちろん、有効でした。

私に言わせれば、日本人にだけ分かる「美徳」など存在しません。そんな「美徳」は、本当は日本人にすら通用していないはずです。

次の記事で、それをさらに掘り下げます。

 

文化大革命と西洋人への皮肉

「青年たちよ。今こそ、我々の理想を実現する時だ。地方の農村に行って、文革を盛大に実践せよ」

そのような指示が中国共産党指導部から出ると、若者たちは我先に、意気揚々と、なんの迷いもなく都会から田舎へ向かって行った。そこで若者たちは自分のたちの「革命」の現実を知るのである。

文化大革命がなんであったのかを説明するのは難しい。私が読んだ多くの教養本では、毛沢東の権力争いを中心に記述していた。しかし、一般大衆が権力争いのために活動していたとは考えにくい。少なくとも、大衆側にその意識は全くなかった。かといって、一般大衆が毛沢東に騙されていた、とも言いにくい。大衆は自分の信じる目標のため命令されずとも文化大革命を推進していたからだ。

文化大革命時代の中国では、全国至るところで「つるし上げ」が行われていた。一言まで単純化していえば「文革とはつるし上げ地獄である」と私は考えている。

たとえば、あなたがネックレスをつけていたとしよう。それを見つけた仲の良い友人が突然、真っ赤な顔で怒り出す。「なぜ、ネックレスなどブルジョアの物を所有するのか? 人間が生きていく上で装飾品など不要のはずだ! 大切なのは物質的な豊かさではなく、精神的な豊かさのはずではないか! こんな物などなくても、精神的な豊かさは享受できる! いやむしろ、持たない方が精神性を高められ、より幸せな人生を送れるのではないか!」 こんな批判を公衆の面前で張り裂けんばかりの大声で言われるのである。近くにいた者たちも、いつの間にか一緒になって、あなたに「自己批判」を迫ってくる。「自己批判しろ!」と叫ぶ連中は10人、30人、100人と増えてくる。あなたに反論する余地があるはずもない。大衆を納得させるには、すぐにネックレスをはずし、ひきちぎり、踏みつぶし、「私が間違っていました! もう二度とこんな物に惑わされないよう、私の中での精神革命を推進していくつもりです!」と宣言する他はない。少しでも躊躇してしまうと、大衆からの批判はやまず、罵倒の過激度は増す一方で、しまいには聞くに堪えない罵詈雑言が浴びせられる。それでも反論したなら「ジェット式」と呼ばれた市中引き回しの刑に晒されるだけだ。こういった「つるし上げ」が教育、仕事、家庭、その他ありとあらゆることに優先して、全国規模で行われていたのが文化大革命である(とここでは捉えさせてもらいます)。

大衆は完全な平等を理想としていたので、中国の政治権力の頂点に立つ毛沢東の地位と矛盾しないはずがない。大衆の猛烈な批判が毛沢東に及びそうになると、毛沢東はその流れを見事に下放政策に変えた。都会にいる大衆を田舎の農村に移住させ、そこで人類史上に輝く(はずの)大革命を実践させようとしたのである。理想に燃える大衆は「我々の革命を実現できる場が与えられた!」と狂喜し、自ら率先して農村に向かった。

当時の中国の農村と言えば、1000年前とそう変わらない生活をしていた。文革時の中国は決して先進国ではなかったが、それでも都会と田舎で生活の差は大きかったのである。田舎では電気もガスも水道も当然のようにない。理想を語っても、理解できるほどの教養のある者がいない。そもそも、共産主義の理想など田舎の厳しい農業生活をする上で、なんの役にも立たない。文化大革命で熱狂していた大衆は自分たちの理想がいかに空虚であったかをそこで知るのである。下放政策に従った大衆たちは物質的に貧しいだけでなく、精神的にも貧しい無為な若者時代を10年あるいは20年と送ることになった。

私が中国にいた頃、「スーリン、ウーリン」という差別用語があると教えられた。「40代、50代」という意味で、いわゆる文革世代の人たちを指す。文革世代の人たちはまともな教育を受けていないので、まともな仕事にも就けない。そんな人たちを救うため、文革世代の人たちを雇うと政府から企業に補助金が出るらしい。

文革時代の若者たちは「我々の幸せとはなにか」について全身全霊をかけて毎日のように考えていた。「物質的な豊かさは精神的な豊さを伴わなければ意味がない」ことは時代や場所を超越した真理であろう。しかし、結果として文化大革命は大衆を幸せには全くしなかった。残念ながら私の知る限り、当時から現在まで、中国人たちは文化大革命について十分な考察をしていない。純粋に善意の動機から生まれたものの、何億人もの人生を狂わせた文化大革命については、時代や場所を超越して、人類が得られる教訓があるように私は思う。

 

上記の文章は、私がカナダのカンバセーションクラブの英語writingクラスで提出したものを、記憶に頼って日本語訳したものです。カナダ人に対する強烈な皮肉のつもりでした。

カナダの教養人たちは理想主義的な私から見ても、極端な理想主義者でした。出身や年齢や社会的背景で差別するのを否定しますし、見た目で人を判断しませんし、物質的豊かさよりも精神的な豊かさを重視します。現実にはカナダ人たちだって出身や年齢や社会的背景や見た目で人を判断している側面はありますし、物質的な豊かさを完全に求めていないわけではありません。しかし、討論になると、そういった理想論を必ず吐きます。実際に、少なくとも頭の中では、そのような理想の生き方を求めているようなのです。

「まるで文革時代の若者みたいだ」と何度も私は思っていました。「皆がそんな理想の生き方をできたら、天国のような社会になる」と信じて疑っていないようなカナダ人たちへの皮肉として、上のような文章を私は書いたのです。

なお、現実のカナダ人は文革時代の中国人のように熱狂的に理想を追い求めたりはしません。「では、なぜ理想のように生きないのか?」と私が聞くと、「俺の意思は弱いから、理想には到達できていないよ。よく衝動買いだってするし、週末には飲み過ぎて食べ過ぎたりもする。誰だって完璧には生きられないからね」などとカナダ人は言って笑います。

私の上の文章を読んだ先生は、カナダ人(自分)に対する皮肉とまでは理解してくれなかったようです。ただし、「これは今まで生徒が提出した多くの文章の中で最高の出来だと思う」と言ってくれたので、「皆が理想通りに生きられる社会が必ずしも最高の社会とは限らない」ことには気づいてくれたように思っています。