未来社会の道しるべ

新しい社会を切り開く視点の提供

勤勉すぎる主婦たちが日本の生産性を下げる

遺伝的に日本人に勤勉な人の割合が高いとは思いませんが、能力のある人は極限まで勤勉にしてしまうのが日本社会のように思います。企業で働く日本人男性もそうですが、家庭でも日本人女性は平均すると世界一勤勉だと私は推測しています。

それがよく示す数値が、1960年の女性平日の家事労働時間4時間26分と、1970年での4時間37分でしょう(NHK国民生活時間調査)。この間の高度経済成長で掃除機、洗濯機、冷蔵庫が普及して、主婦の家事労働は格段に楽になったはずなのに、なぜか家事労働時間は増えています。家事に手間がかからなくなった分、日本の勤勉な主婦たちは家事の質を上げることに専念し、返って家事労働時間を増やしてしまったのです(「小林カツ代栗原はるみ」阿古真理著、新潮新書)。

これは日本人全体の幸福に大きく繋がっていたかもしれません。主婦たちが掃除や洗濯などに邁進し日本人の清潔感を上げたおかげで、公衆衛生が改善し、結核赤痢などの感染症が激減した可能性はあるでしょう。それに加えて、かつて先進国最低だった日本人の平均寿命がこの30年間世界1位を維持しているのは、主婦たちが手間ひまかけて毎回変化のある料理を家族に提供していることも大きいでしょう。私の知る限り、日本人ほど清潔な民族、日本人ほど料理に手間をかける民族は、世界中に存在しません。

1990年前後、世界で日本の存在感が最も大きかった時代、その繁栄の土台を作っていたのは、勤勉な男性企業戦士ではなく、さらに勤勉な家庭の主婦だったのかもしれません(数値化して客観的に示すのは難しいでしょうが)。しかし、他の日本の過去の必勝法と同じく、その方法は既に世界でも日本でも通用しません。むしろ、勤勉な日本の主婦たちが現在、日本全体の生産性を下げる要因になっていると私は予想します。

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このグラフのように日本の女性就業者率は上昇する一方です。一見、日本の女性が社会進出しているようですが、必ずしもそうとは言えません。

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ここで示されているように、日本女性の正規雇用はこの30年間ほとんど変わらず、就業率の上昇分は非正規雇用によって埋められているからです。

下のグラフのように日本なら男女問わず、非正規雇用なら賃金はたかが知れています。

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女性が社会進出したというより、女性がワーキングプアに仲間入りしたと考えた方が妥当でしょう。

パワハラの現状と日本の生産性の低さ」に書いたように、日本は国際比較して質の高いサービスを提供しているのにもかかわらず、サービス産業の生産性は国際比較して異常に低くなっています。この原因として、能力の高い女性が低賃金にあまんじていることがある、と私は考えています。2017年で非正規雇用2036万人のうち約3分の2、1389万人が女性です(総務省統計局・労働力調査)。この1000万人以上の女性が無能の人ばかりのはずがありません。世界最高水準の家事をこなす日本の主婦たちが働いているのですから、サービスの質は恐ろしく高くなります。それにもかかわらず、彼女たちの賃金は安いままです。世界最高水準の家事や育児などに時間をとられるため、フルタイムで働けない、つまり、非正規雇用になり、日本だと非正規だと低賃金だからです。

能力の高い女性が非正規の低い賃金で働いているので、同じ職場の男性たちは高い賃金を要求できません。能力の低い男性や女性は、非正規雇用にもなれません。結果、日本人の生産性は低くなります。これが日本のサービスの質が高いのに、日本人の賃金が低い一つの大きな要因だと考えます。

この問題の原因と解決策について、これからの記事で論じます。

学習指導員

全国共通習熟度順テスト」と「ネット教育を一般化すべきである」の続きです。これら二つの制度を導入すれば、教員人件費は大幅に削減されるはずです。その浮いた費用で、学習指導員の導入を提案します。

学習指導員は国家資格の教育職ですが、授業は行いません。生徒一人一人がなにを、どれくらい、どのように勉強しているかを把握し、それに対して助言を行い、学習効果を高めることが仕事です。学習指導員がチェックできるように、生徒は勉強している間、その勉強の様子をカメラに映す義務があります。生徒が集団学習しているなら、本人の様子と全体の様子をそれぞれカメラに映します。学習指導員は担当する全ての生徒について学習の映像記録を、早送りや一部スキップして、チェックしなければなりません。学習指導員はそれぞれの生徒の特性に合わせた学習方法について生徒と話し合って合意し、生徒本人の学習効果を高めます。

学習指導員のもう一つの重要な仕事は、生徒の精神面でのケアです。どんな生徒であれ、大なり小なり悩みはあります。勉強がはかどらない原因が、勉強面以外に存在することも多いでしょう。学習指導員は、勉強以外の面でも生徒の相談に乗り、学習を継続していけるように助言していきます。

なお、学習指導員一人で手に負えない問題も出てくるに違いありません。そのために、生活指導員、非行指導員、発達障害指導員などの専門職も新たに創設すべきだと考えます。生活指導員、非行指導員は、私が以前提案した「家庭支援相談員」と協力することはほぼ必須になります。

ネット教育を一般化すべきである

日本の最難関学力試験である司法試験の合格者のほとんどは、現在、ネット講座で法律を学んでいることを知っているでしょうか。同様に、医師国家試験の合格者のほとんどは、ネット講座で学力を養っています。もちろん、ほぼ全ての合格者は大学で法律や医療を学んでいますが、司法試験や医師国家試験が要求する学力は、主にネット講座で習得しています。ネット講座は自分の好きな時間帯に視聴でき、何度も見返すことが可能で、0.8倍速~2倍速と観る速さを変更できるメリットがあるため、通常の対面授業よりも効率がいいからです。

ネットを使えば、地元の教えるのが下手な先生でなく、全国規模で教えるのが上手な先生から、世界中どこにいても、どんな時間でも、学年にかかわらず講義を受けることができます。先生にとっても、1回の講義で通常の対面式の百倍以上の生徒に教えられるので、労力を削減でき、教員の人件費が大幅に抑えられます。

これほどの長所があるネット講座を通常教育制度に組み込まない理由はありません。とはいえ、ネット講座が合わない生徒も確実にいるので、通常の対面授業も存続させて、そのための先生は雇うべきです。しかし、自発的に学習できるのなら、ネット講座が対面授業より遥かに効率的であると、上記の司法試験と医師国家試験の合格者の現状からも言えると推測します。これについては、教育学者が統計的に証明してほしいです。

もちろん、ネット講座には重大な欠点があります。一人で学習するため、社会性が身に着かないことはその最たるものでしょう。だから、ネット講座だけでの進級は不可で、体育祭、音楽祭、地域ボランティアなどの集団活動も必修とします。全学年、1週間あたり合計半日分はこれらの集団学習をするべきだと考えます。生徒によっては毎日こういった集団活動を行って、事実上、これまでと同じような集団学校生活を送ることも可能です。

ただし、現状の日本教育のように、全ての学力科目、実技科目、課外活動を集団で行うのは、少なくない生徒にとって好ましくない、と私は推測します。

 

捕捉

ネット講座を通常教育に取り入れるメリットは、公的なチェックが可能なことです。「藤澤孝志郎医師の殺人自供に疑問を感じない新人医師たち」に書いたように、医師としても人間としも失格の講師の発言を数千人の医学生が視聴しているのに、批判が殺到していないのは異常です。

 

全国共通習熟度順テスト

全国共通で学習指導要領は定められているのに、テストは学校ごと学級ごとに異なります。テスト作成に費やされる先生の労働時間は、日本全体で一体どれくらいになるのでしょうか。日本に教員は100万人以上いるので、一人平均年間5時間としても、500万時間(1人に換算すると571年)以上が費やされている計算です。これほど膨大な時間を費やすほどの価値が、個別のテスト作成にあるとはとても思えません。だから、次のような全国統一習熟度順テストを提案します。

・主要科目については習熟度順の全国共通テストを作成する

・全国共通テストは毎月1回、平日の最終日に受験できる

・全ての生徒は年に最低3回は全国共通テストを受験しなければならない

・生徒は習熟度順に主要科目の全国共通テストに合格しなければならない

・あるテストに不合格になった場合、もう一度同じ習熟度のテストを受験しなければならない(習熟度をスキップすることはできない)

・全国共通テストの点数は全て記録される

・既に合格した習熟度のテストをもう一度受験することができる

・テストの結果が二つ以上ある場合、よい点数だけが記録される

主要科目は、小学校から1~3年は国語と算数、4~6年は国語と算数と理科と社会、中学校と高校は英語と数学と国語と理科と社会になります。

テストの作成だけでなく、採点も一ヶ所で行った方が効率的でしょう。可能なかぎり選択式にして、採点を容易にするべきだと考えます。

この全国共通テストには次のような特徴があります。

1、科目ごとの進級が可能である

2、教育年数によらず各生徒の習熟度に合わせて学習できる

3、授業を受けずに独学で全国共通テストに合格しても構わない

この全国共通テストは、現在の大学過程の科目にも適用してもらいたいです。私の知る限り、数学、物理学、化学、生物学、医学、法学なら、どの大学でも学ぶ内容はほぼ共通しているので、全国共通テストはまず作成できます。

日本では英検、漢検、数検など、職業と直接関係ない学力を調べるための能力試験に何百万人も、わざわざお金を払って受験します。こんなにも学力能力試験が好きな国民なので、全国共通テスト進級制度は受け入れられるのではないでしょうか。

また、現在の日本では、中学入試、高校入試、大学入試で、通常の教育課程を受けてきただけではまず解けないような難問や奇問を出して、学力を判定しています。そんな特殊な入試突破学力を磨かせるよりも、より普遍的な教養を身に着けさせるため、中学、高校、大学の標準学習内容を先取りさせた方が真の学力向上に繋がることは、誰だって分かっているはずです。

この制度が普及すれば、中学校卒業程度の数学力のない大学生に経済学を教える、なんて非効率な教育はなくなっていくでしょう。また、何度も同じ習熟度テストに不合格になる生徒の意欲を削ぐことも確実です。それについての対策は「学習指導員」の記事に書きます。

愛する家族を亡くす人よりも大嫌いな家族を持つ人の方がかわいそうだ

「遺族がかわいそうだ」

私はこの考えをする者を憎みます。マスメディアで聞いただけで虫唾が走ります。二度と聞きたくありませんが、家族制度が異常に重視されるこの国では、人生であと何度聞かなければいけないのでしょうか。

私は亡くなってほしい家族ならいますが、亡くなって残念に思う家族などいません。当然、家族が亡くなって悲しむ遺族を見ても、かわいそうと全く思いません。その正反対で、誰かの死を悲しむほど恵まれた人生を送ってきた事実が、うらやましくて仕方ありません。

「遺族がかわいそうだ」と言う奴全員に、こう聞きたいです。

「死んでも全く悲しまない家族を持っている人の方がよほどかわいそうじゃないですか? あたなは『死んで悲しむ家族を持つ人生』と『死んでも悲しまない家族を持つ人生』のどっちを送りたいですか?」

感動ポルノ

骨肉腫で右足を切断したカナダ人青年のテリー・フォックスの話です。骨肉腫はがんの一種で、現在なら広範切除と化学療法で5年生存率が70%以上になりましたが、当時は切除しても肺転移などで亡くなる確率の方が高かった病気です。

テリー・フォックスはがん研究資金を募るために、カナダ西海岸から東海岸まで、義足にかかる一歩ずつの激痛に耐えながらも、毎日42km走りました。しかし、143日目にして、肺転移のため無念の途中リタイアとなります。翌年、22才の若さで逝去します。

1981年に亡くなったテリー・フォックスは、カナダ人なら知らない人はいないほど有名です。私もカナダ留学中に何度もこの話を聞きました。「彼の脚の痛みを思い出すと、涙が出そうだ」と語っていたカナダ人は、私の一番の親友です。

それを前提として断定しますが、これは典型的な感動ポルノです。当たり前ですが、テリー・フォックスが痛みに耐えながら走ることと、骨肉腫研究の進展はなんの関係もありません。清く正しい障害者が懸命に何かを達成しようとする場面をメディアが取り上げて、かつ、それに感動する大衆がいて、始めて意味を持ってくる行為です。メディアが上手く扱わなければ、メンタルまで侵されたマゾの義足青年にしか見えなかったかもしれません。

私はこの話を聞くたびに、偽善を強く感じました。感動を強要させることに違和感がありました。

「若くてがんになることよりも嫌な現実に耐えている者は、この世界にいくらでもいる」

「一言一言話すことが、テリー・フォックスの一歩一歩の激痛よりも遥かに辛い人だっている」

「骨肉腫の研究よりも重要なことが世の中には無数にある」

「こんなクソみたいな人生を送るくらいなら、テリー・フォックスとして生きたかった」

そう思う人は少なくないはずです。私もその一人です。

上の話を聞いて、テリー・フォックスが幸せな恵まれた人生を送ったことに気づかない人は21世紀になった現在でもどれくらいいるか、誰か調べてくれませんか。

優秀な労働者を韓国や台湾にとられる日本

今回の一連の記事で「日本人がしたがらない仕事を外国人に低賃金労働させるなんて非人道的だ」なんて説教をするつもりはありません。むしろ「日本の人手不足産業を外国人労働者にしてもらった方が、日本全体の利益になるので好ましい」という見解で書いています。外国人労働者だって、もとより出稼ぎが目的のはずです。上記のような非人道的な見解を無視していいとまでは断言しませんが、雇用主と外国人労働者がどちらも納得して仕事が進んでいるのですから、現場と全く関わりのない金持ち連中がとやかく言う権利はない、とも思います。

問題なのは、雇用主と外国人労働者がうまくマッチングできていないことです。前回までの記事に書いたように、官僚や怪しいブローカーが暗躍し、外国人労働者だけでなく、雇用主や日本の納税者も搾取されています。

情けないのは、この杜撰な外国人労働者政策の実態をマスコミがほとんど報道せず、国民も関心がないことです。それが現在、未来の日本にとって、どれだけ国家的損失になるか、想像もできないのでしょうか。

2018/1/7の朝日新聞日曜版globeに、韓国もかつて外国人労働者を「実習生」として受け入れて、大失敗していた例が載せられています。韓国でも怪しいブローカーが暗躍し、仲介業者がピンハネし、追い詰められた外国人労働者たちの失踪が相次いだそうです。

そこで韓国は「国際貢献」や「技能移転」などの建前を捨て、真正面から「人手不足産業に外国人労働者を受け入れる」と認めたそうです。公的機関が前面に出たため、怪しいブローカーはいなくなり、渡航前に背負った借金で苦しめられる外国人労働者は激減しました。

現在、カンボジアでは韓国語教室が人気だそうです。その理由は上記朝日新聞の記事に出てくる韓国人教室のマネージャーの次の言葉に集約されているでしょう。

「日本で働いた経験がある学生もいるが、行くまでに6500㌦(約74万円)かかり、寮費などを引かれて手取りは月7万~8万円だったらしい。韓国なら月1500㌦(約17万円)以上は稼げる」

韓国語を十分に習得したカンボジア人は、韓国で搾取されることもなく10年間も働くことができ、帰国後も韓国への親近感を持っているそうです。一方、日本語もろくにできないまま日本に来たベトナム人たちは、ブローカーへの借金を返すため、毎日の長時間単純労働を余儀なくされ、精神をすり減らし、日本人に親切にされることもないまま帰国し、反日となっている例があると「ルポニッポン絶望工場」(出井康博著、講談社+α文庫)には書かれています。

カンボジアベトナムインドネシアの労働者が2005年と2015年でどれだけ日本、韓国、台湾で働いているかを示した図を下に載せておきます。f:id:future-reading:20180525215939j:plain

カンボジアといえば1992~1993年の日本の選挙協力を思い出して、親日国とのイメージを持っていた私は、10年あるいは20年、時代遅れだったようです。この問題の本質を日本のマスコミはもっと大きく報道し、日本人全体を啓蒙すべきです。

外国人介護士・看護師を受け入れると日本の納税者も搾取されるシステム

「長寿大国の虚構」(出井康博著、新潮社)にある通り、外国人介護士の受け入れに積極的だった日本の介護施設経営者は決して少なくありませんでした。「ルポニッポン絶望工場」(出井康博著、講談社+α文庫)にある通り、経済産業省や外務省も外国人介護士受け入れに積極的でした。しかし、介護士不足の現状を十分に知っているはずの厚労省はなぜか消極的で、国会議員の中にも賛否両論あったようです。この混乱ぶりが、外国人介護士問題を迷走させます。

外国人介護士たちの就労が長引かないように、厚労省は国家試験合格というハードルを課しました。この国家試験ハードルは同じくEPAにて受け入れられた外国人看護師にも課されていますが、両者には根本的な違いがあります。日本人は国家試験を合格しないと看護師にはなれませんが、日本人は国家試験を合格しなくても介護士になれる点です。当時、介護職に就いている日本人のうち、介護福祉士の国家資格を持っている者は3分の1に過ぎませんでした。しかし、外国人介護士は来日後4年間のうちに国家試験に合格しなければ、介護士を続けることはできず、日本から帰国しなければなりません。こんな条件のせいで不利益をまず被るのは、介護を必要とする日本の高齢者たちになります。

看護師に着目すると、EPAで来日した外国人たちは3年間のうちに国家試験に合格しなければなりませんでした。しかし、2009年では82人受験し合格者がゼロ、2010年には245人が受験し合格者3名と惨憺たる結果でした。看護師国家試験は、日本人なら9割が合格します。外国人看護師たちは母国での国家資格を持った人たちに限られているのに、理不尽な日本語ペーパー試験が課されています。ちなみに、ドイツではボスニア・ヘルツェゴビナから受け入れた看護師に、一定期間の職場経験の後、「口頭試験」を受けさせ、75名全員を合格させたそうです。母国での有資格者なので、ドイツ人の医師や患者とコミュニケーションがとれているかを口頭試験で確認できたら、それで十分だと判断しているわけです。この理にかなった方法を厚労省は知らないのでしょうか。日本語のペーパー国家試験を外国人の看護師有資格者に課すなど、嫌がらせとしか思えません。

話を介護士に戻します。外国人介護士の受入数は2009年に406人だったのに、2010年には159人、2011年には119人と減っていきました。理由は上記の外国人看護師の国家試験合格者があまりに少なかったことです。介護施設は、斡旋手数料や日本語研修費などで一人あたり約80万円払うので、外国人介護士にはできるだけ長く働いてほしいと考えています。しかし、国家試験に落ちると、4年間で外国人介護士に辞めてもらわないといけません。そんな短期間しか働いてくれないのに、日本語のできない外国人介護士を雇いたくない、と介護施設経営者が考え始めたわけです。結局、介護士の受け入れは2年経過しても予定の半分にも満たなかったので、国際問題にもなりかねませんでした。

すると、日本政府は態度を急変して、外国人介護士一人の受け入れにつき年23万5千円の国家試験対策費用を支払って、外国人介護士の受入数を強引に増やします。「ルポニッポン絶望工場」では、この費用は国家試験対策費用という名のバラマキに過ぎないと断定しています。

腐敗はこれにとどまりません。「外国人実習生からピンハネする官僚たち」に書いたJITCOのような天下り機関が、外国人介護士の分野にもしっかり根を張っています。国際厚生事業団(JICWELS)という厚労省天下り先が、一人の外国人介護士を施設に割り振るだけで13万円を徴収する仕組みになっています。

それら費用を合計すると、外国人介護士・看護師の受け入れに4年間で80億円の予算が投入されています。その間の合格者は介護士と看護師を合わせて104人なので、単純計算すると、一人の合格者を出すために約8千万円使っている計算になるそうです。8千万円といえば、私のカナダ留学費用の40年分に相当します。

こうなってくると、被害者は外国人看護師・介護士や日本の高齢者だけでなく、日本の納税者全員になってしまいます。一方、受益者は日本と送り出し国の官僚だけです。これを腐敗と言わず、なにを腐敗と言うのでしょう。

外国人実習生からピンハネする官僚たち

「外国人実習生が職場から失踪するのは、受け入れ先企業でひどい目にあっているからだ」

マスコミでよく使われる表現で、事実ではありますが、表面的な見方です。こういった見解でしか日本の移民問題を捉えていないとしたら、浅はかと批判されても仕方ないことが、「ルポニッポン絶望工場」(出井康博著、講談社+α文庫)を読めば分かります。

ここ数年爆発的に増えているベトナム人やネパール人といった外国人労働者はどんな職場で働いているのでしょうか。その答えは「日本人が働いてくれない、あるいは働いてもすぐに辞める職場」になります。いわゆる3K職場など、多くの日本人が働きたがらない仕事を外国人に担ってもらっているわけです。新聞配達やコンビニや農業など、外国人労働者がいないと、日本人の生活が少なからず損なわれるのは事実です。もっと書けば、より多くの外国人労働者を受け入れていれば、日本経済の停滞も少しは食い止められていたことは間違いありません。ゆとり世代の日本の若者だと受け継げない貴重な技術や農地を、意欲のある外国人労働者なら受け継いで、日本全体に恩恵をもたらしていたでしょう。

そんな日本経済を活性化してくれる優秀な外国人労働者たちを、バカな日本人たちは積極的に受け入れようとしていません。拒否する明確な理由を提示しているのならまだ分かりますが、前回の記事に書いたように、日本政府は出稼ぎ労働者を「留学生」や「実習生」として10万人、20万人も受け入れています。

実習生制度は日本の人手不足解消のためで、「国際貢献」や「技能移転」は後付けであることを、上記の本は示しています。政治的方便をなんとも思わない人たちだったのか、現在の実習生制度を確立した古関忠男と村上正邦KSD事件で失脚しているそうです。

もっとも、「国際貢献」と「技能移転」が実現できない程度なら、多くの日本人は実習生制度にそれほど不満を持たないかもしれません。しかし、「日本人がしたがらない仕事を外国人にしてもらう」ことさえ、まともにできていないとなると、さすがに納得できる日本人はいないのではないでしょうか。

同じ職場で働くなら、外国人も日本人も同じ賃金を得ている例もありますが、外国人だけが「日本人の最低賃金」で働いている例も少なくないようです。上記の書籍には、日本人なら給与25万円なのに、フィリピン人だと給与16万円程度しか得られない鉄筋工の仕事の例が紹介されています。これを搾取と非難する人もいるでしょうが、日本語が話せないので給与が低くなるのは仕方ない、と擁護する人もいるでしょう。ここで取り上げたい事実はそんな議論の余地のある問題ではなく、雇用者がフィリピン人を雇うために、上記給与に加えて、月5万円、年10万円、他にも50万円程度払っていることです。言い換えれば、雇用者にとって外国人は安価な労働力になっていないのです。

受け入れ先企業は「管理団体」を通して実習生を受け入れないといけません。この管理団体は元国会議員も関わっていたりして、胡散臭いものが多いそうです。受け入れ先企業は、一人の実習生あたり約50万円を管理団体に払う決まりになっています。50万円の内訳は、斡旋料や送り出し機関への手数料で、その手数料には日本語の事前研修費用も含まれています。しかし、研修は建前に過ぎず、ほとんどの実習生は日本語が不自由な状態で来日します。語学力などあまり要らない単純作業に就くため、それでもなんとかなるそうです。管理団体と送り出し機関が徴収する金額は他にもあり、月5万円の管理費用、年10万円の組合費用を受け入れ先企業は払わないといけません。これらの費用を払っても、管理団体が実習生を管理してくれたり、精神的なサポートをしてくれたりするわけではありません。

さらに、実習制度を統括しているJITCO(国際研修協力機構)という組織が存在します。法務、外務、厚生労働、経済産業、国土交通省という5つの中央官庁が所轄する典型的な天下り機関です。JITCOは管理団体や受け入れ先企業から、会費徴収で年13億円もの収入を受け取っています。そのお金の一部が天下り官僚たちの莫大な給与と退職金に化けるわけです。こんな腐敗した話があるでしょうか。

日本人の働き手が来てくれない中小企業が外国人を安価で雇うのは、やむを得ないかもしれません。しかし、法務、外務、厚生労働、経済産業、国土交通省の官僚どもが「国際貢献」や「技能移転」などの嘘八百を並べたあげく、外国人たちの労働賃金をピンハネしているのは腐敗以外のなにものでもありません。外国人だけではなく、受け入れ先企業も搾取されている構図です。上記の書籍には、外国人介護士の受け入れでも、行き当たりばったりの政策を何度も修正した挙句、莫大な税金の無駄になった事実が紹介されています。次の記事で、それについて述べます。

出稼ぎ目的の外国人が日本で実習生と留学生になる理由

「ルポニッポン絶望工場」(出井康博著、講談社+α文庫)には、全ての日本人が知るべき日本での移民の実態の一端が書かれていました。誰もが知っている通り、今後、日本の少子化は深刻化していきます。同時に移民賛成派と反対派で日本の世論も分かれるはずです(もっとも、この調子で少子化ジェットコースターを滑り落ちても、移民賛成派が一定以上生まれない可能性も「日本なら」ありえる、と私は思っています)。

現状を知らなければ、移民賛成論も反対論も空虚になります。この書籍で示されているほど混乱し、腐敗している移民政策を日本がとっていると、ほとんどの日本人は知らないはずです。だから、このブログにも示しておきます。

私の経験談として、21世紀に入ったあたりから、都会のコンビニで外国人を見ることは珍しくなくなりました。10年前は、発音が日本人らしくないので、名札を見てみると、中国人や韓国人だと分かりました。ここ数年間は、日本語の発音を聞くまでもなく、見た目で中国や韓国以外のアジア系だと分かるコンビニ店員が増えました。そのアジア系コンビニ店員の半数以上は「実習生」か「留学生」だったと、上記の本によって知りました。

「実習生といえば、日本に技術を学びに来ている外国人のようだが、実態は短期の出稼ぎ労働者だ」とこの本では断定しています。留学生の中にも、勉強よりも出稼ぎを目的とする者が多く含まれているそうです。残念ながら、実習生や留学生が「出稼ぎ目的」と正直に白状するはずがないので、上記の本にその証拠となる統計は示していません。なんでもそうですが、「統計なし」とは実態不明ということです。実態が分からなければ正しい対策の立てようがありませんし、対策が成功したにしろ失敗したにしろ、その原因を検証することもできません。私の経験からいえば、質の高い統計の多さは、その国の経済力の尺度になります。日本と比べると、西洋の多くの国は社会全体を把握するための正確な数値統計の多くを公開しており、発展途上国は統計があまりとられていない上、不正確です。統計の質が経済力を決めるのは国でなくても、企業でもそうかもしれません。

話を移民政策に戻します。それにしても、なぜ出稼ぎ労働者が留学生として日本に来るのでしょうか。その大きな理由が「留学生30万人計画」にあります。これは1983年に中曽根内閣が、「留学生10万人計画」を2000年までに達成する、としたことから始まっています。なぜ10万という数字を弾き出したかといえば、同じ非英語圏の先進国のフランスに留学生が12万人いたからに過ぎません。日本のバブル経済に乗って、留学生は1983年の1万人から1993年の5万人程度に伸びましたが、そこからは伸び悩み、2000年で6万4000人と未達になりました。本来ならそこで「なぜ留学生は計画通りに増えなかったのか」「そもそも留学生増加させるべきだったのか」などを考察すべきなのに、なぜか政府は大した意味のない「10万人」にこだわり、留学ビザの発給基準を緩める禁じ手を使います。結果、2003年に「留学生10万人計画」は達成されます。達成意義がないことは言うまでもありません。

しかし、性懲りもなくその5年後の2008年には、福田内閣が「留学生30万人計画」を2020年までに達成すると打ち上げます。やはり根拠となったのはフランスで、高等教育機関の学生の12%が留学生なので、日本の高等教育機関(大学、大学院、短大、専門学校)に通う約300万人のうち10%を留学生にしようと考えたわけです。上記の本にはこの数値を「思いつきに過ぎない」と切り捨てています。

世界で留学生の多い国に並べると、アメリカの78万人、イギリスの42万人、オーストラリアの25万人、フランスの24万人です。上位3ヶ国は英語圏で、3位のオーストラリアでさえ30万人には届きません。人口規模と経済規模の違いを考慮しても、日本での30万人留学生は非現実的です。それを実現させようとするから、出稼ぎ目的のいびつな留学生が日本に来てしまっています。

留学生でさえ出稼ぎ目的なのですから、外国人実習生なんてもっと出稼ぎ目的のようです。日本が実習生を受け入れている理由として「国際貢献」や「技能移転」を公式に掲げていますが、それらはただの建前で、本音は人手不足の解消にあった、と上記の本は断定しています。ただし、なぜ「国際貢献」といった建前が必要だったのかは明確に書かれていません。

もちろん、留学生制度であれ実習生制度であれ、理想通りに運営されていれば、なんの問題もありません。しかし、どちらも「日本が天国」と思って来たアジア人を「反日」にさせて帰国させている現実があります。それについて、次からの記事で掘り下げます。

パワハラするくらいなら金を払ってクビにすべきである

「さっさと僕をクビにしてくださいよ」

私がブラック企業で働いているとき、理解のある上司に何度も言った言葉です。「会社都合退職なら自己都合退職より失業給付の条件がいいから」といった知識が当時の私にあったからではなく、「怒鳴らないといけないほど俺がダメなら、クビにすればいいだろう!」という気持ちからのただの愚痴です。ただし、愚痴ではあっても、本心からの言葉です。今思い出しても、クビにしてほしかったと思います。

日本では、職場の要求水準を満たさない仕事をする人に、パワハラを行うことが広く行われています。大抵、その要求水準は給与から考えると不合理に高いのですが、それは今回無視します。ともかく、上司が期待するほどの質の仕事ができない場合、部下は罵声を浴びせられます。

「意欲を出させ、根性を鍛えるためだ」「要求水準を満たしていないのだから、怒るのは当然だ」「怒鳴られたくないのなら、質の高い仕事をするか、辞めるか、どっちかにすればいい」 そんな理由で、上司たちはパワハラしているのでしょう。残念なことに、「いじめ問題の教訓をパワハラ撲滅に活かすべきである」にも書いたとおり、そんなパワハラを容認する労働者が、日本には少なくありません。しかし、「パワハラ撲滅がもたらす経済効果」に示したように、パワハラは多くの日本人を労働市場から弾き出し、結果としてパワハラ上司やパワハラ容認労働者にとっても大局的に考えて損失になっているはずです。

そうはいっても、パワハラなしで、怒ることなしで、質の高い仕事ができるよう根気よく労働者たちを教育していくことが、空虚な理想論であることは私も知っています。ほとんどの企業は、ダメな労働者たちを教育していく時間的・金銭的余裕などないでしょう。かといって、簡単に解雇すると法律違反になるので、パワハラが行われます。

だから、ここで提案します。パワハラを行うくらいなら金を払ってクビにすればいいのです。解雇時に払われる金額は、解雇される労働者のそれまでの貢献度から、1ヶ月から1年先までの給与分になります。たとえ1日しか働いていないバイトであっても、次の日から来てほしくなければ1ヶ月分の給与を払う義務が生じます(1ヶ月未満の雇用条件なら期間満了までの給与全額を一括で払う)。また、30年1日も休まず勤続してくれた労働者であっても、1年分の給与を払えば、問答無用で解雇できます。

日本で労働者を合法的に解雇しようとすれば、まず、新規採用をやめ、他の社員も含めた残業を削減し、賞与を下げ、給与も減らし、定期昇給までやめて、さらに、その労働者に改善指導を十分な期間行って、それでも業績が改善しない場合に、ようやく最終手段として解雇が認められます(ただし、就業規則や雇用条件によってはより緩い条件で解雇は可能です)。これは厳しすぎるでしょう。十分な手切れ金を払ってもらえれば、使用者の責任で自由に解雇できる方が合理的なはずです。安易に解雇すれば、使用者も損失を被るのですから、それで十分でしょう。

なお、1日だけのバイトが解雇するだけでも、1ヶ月分の給与がかかるのは不合理だと判断する人もいるかもしれませんが、それくらいの採用責任は使用者にあると私は考えます。

日本でこれほどパワハラが蔓延した理由はいろいろあるでしょうが、その一つに解雇条件の厳しさがあると思います。まともな社会人が怒鳴ったりするのは異常です。怒るくらいなら、金払って縁を切らせた方が社会的に健全です。

そのような金銭的解雇が一般的になれば、ろくに仕事していないのに給与をもらっている「窓際」も日本特有の「追い出し部屋」も消滅していくに違いありません。

無視はイジメではない

無視することをパワハラと言う人はいないでしょう。以前の記事にも書いたように、パワハラは大人のイジメだと私は考えています。そう考えれば、無視がパワハラにならないよう、無視がイジメにはならないはずです。無視までイジメになってしまえば、それこそ「イジメは絶対になくならない」が正しくなってしまいます。

私もこれまでの人生で何度も無視されたことはありますが、それは仕方ないと思っています。私の責任ですが、どうしようもないこともあります。別に怒鳴られたりするわけでもないので、それでひどく傷つくこともありません。無視に慣れることは、社会で生きていくための必要な能力だと私は思います。

もっとも、「仕事や学校で必要な連絡を特定の人だけに伝えなかった」としたら、それはイジメです。「無視されている人と話すと、話した人まで仲間外れになる」のも、イジメです。社会が円滑に進むために、最低限の礼儀と道徳はわきまえるべきです。

ただし、「グループ分けをするとまず余る」「必要最低限の会話しかしてくれない」「自分が発言すると、いつも場の雰囲気が冷める」程度なら、我慢すべきでしょう。

医療革命

いずれ必ず導入されるAI医療では、「医者の消滅」「医者決定医療から自己決定医療へ」「無駄な医療の削減」が三大改革になるでしょう。「医者の消滅」「医者決定医療から自己決定医療へ」は前回までの記事に書いたので、ここでは「無駄な医療の削減」について書きます。

現在行われている医療の半分以上が、実は無駄であると気づいていない医療者はいるでしょうか。以前の記事にも書きましたが、「医者にかからなくても8割は治る、医者にかかったから1割は治る、医者にかかっても1割は治らない」と、昔から医者の中では言われています。現在のように、医療の専門知識が医者に限定されている世界では、本来医者にかかる必要のない9割の人まで、医者の意見を仰ぐことになってしまいます。AI医療が導入されて、医療知識が人類共通のものになれば、患者が医療に頼る頻度は格段に減り、医療の人的・物的資源は大幅に節約でき、結果、医療費は激減します。少なく見積もっても、AI医療によって現在の日本の外来患者と入院患者を半減させられるはずです。

AI医療の導入は、それまで医者がいかに過剰医療を行っていたかを白日の下に晒すでしょう。同時に、これまで専門知識で威張ってきた医者の化けの皮を剥がす効果もあるに違いありません。

医療の本質

50年後の日本人からすると、人間が医療診断している現在を信じられないでしょう。命に係わることを、間違うこともある人間の判断に任せていたなんて、ありえないと考えるはずです。

その未来の人に言い訳をすると、2018年現在でも、同じ感想を持っている人は決して少なくありません。「いつAIによる医療診断に変わるのだろうか?」との疑問が出ると同時に、「そもそも、なぜ今、医療診断をコンピュータ化していないのだろう?」と思う人はいます。私はそんな人に何名も会っていますし、私自身も思っています。実際、今のコンピュータ技術でもAI医療診断は十分に活用できます。

調べれば分かりますが、こんなことは昔から考えられていました。1980年代の第二世代AIの頃、医療診断をコンピュータ化する流れはあったものの、「フレーム問題」にぶつかって失敗しました。

「フレーム問題」とはなんでしょうか。専門家は難しいことを書いていますが、誤解を恐れずに単純に言ってしまえば、人間が勘と経験で判断している領域です。もっと端的にいえば、非科学的に判断している領域です。

医学はこの非科学的領域が、恐らく一般に思われている以上に広く存在しています。雑誌やテレビなどで「こういった判断の難しい場合は専門医に相談してください」とよく述べていたりしますが、それはしばしば専門医でも判断できない領域、科学的に未解明な領域であったりします。だから、「そんなこと専門医に相談しても意味がないだろう。『科学的によく分かっていない』となぜ正直に伝えないのか」と私はいつも疑問に思います。実際に相談された専門医は、どう対応しているのでしょうか。もしかして、「『私にも分からない』と正直に伝えたら、患者はショックを受ける」と思い込んで、専門医は患者を上手くごまかして、いまだに治療の主導権を握っているのでしょうか。

1980年代、このように医者が医療の主導権を握る領域は今より広く存在していました。コンピュータの進化以前に、医学自体が非常に非科学的であり、「フレーム問題」の領域だらけでした。Evidence Based Medicineの重要性が認識され、多くの治療にガイドライン(科学的に示された標準治療の流れ)ができてきたのは、なんと1990年代からです。それ以前は医師の自由裁量、つまりは医師ごとの判断で医療の多くが行われていました。もちろん、その判断による治療の何割かは、現在の治療ガイドライン(科学的医療)からすれば、間違っていました。

今では1980年代よりも「フレーム問題」に突き当たる領域は狭くなったでしょうが、それでも消滅したわけではありません。医学が科学的に完全に解明されない限り、非科学的領域は存在し続けます。そんな「フレーム問題」領域こそ、医者が活躍できる場が残されている、と主張する医者がいます。

しかし、もう一度書きますが、「フレーム問題」領域とは、非科学的領域です。誰にも正解が分からない領域なので、誰が判断してもいい領域です。だとしたら、本来、医療の結果に責任を唯一負える患者本人が判断すべきなのは明らかです。

そもそも全ての医療判断は、理想的には患者本人がするべきです。もし患者本人が適切な医療判断ができなかったら、患者本人が判断を委ねている者(保護者など)がするべきです。間違っても、コンピュータに負けると気づかずに医療専門知識を豊富に蓄えて威張っていたバカ(医者)に判断を任せるべきではないでしょう。

ここで「では、患者が理解できるように説明する仕事が医者に残る」と食い下がる人がいるかもしれません。そんな仕事が未来に残る可能性はあるかもしれませんが、それを仕事にする人は既に医者とは呼ばれなくなっているでしょうし、今のように高給な職業にもなっていないでしょう。

これまでも、これからも医療は科学的に説明できる領域と、非科学的な領域に分類されます。科学的な領域はコンピュータで代替可能ですし、代替すべきです。毎日更新される膨大な医療の科学知識を身に着けられる人間なんていませんが、コンピュータなら可能です。非科学的な領域は医者が考えても答えは出ないので、それを正直に患者に伝えるべきです。また、科学的な領域であろうと、非科学的な領域であろうと、医療の責任は患者本人しか負えないので、全ての医療の判断、医療の決断は患者本人がすべきです。この医療の本質に気づいた国から、AI医療が導入され、医者は消えていくでしょう。

日本は世界で最初に医者のいない国を目指すべきである

結局、僕は東大に入らず、アメリカ西海岸の大学の医療工学部に進学することにした。最高のコンピュータ教育を受けさせてくれた父の期待を裏切ることになるが、僕は日本の大学に入る選択はどうしてもできなかった。

僕の祖父は東大卒の心臓手術師であった。いや、いまでも祖父は自分を「外科医」と言っている。外科医という言葉がなくなって長くなるが、昔の記憶は残っていて、かつてのエリートだった医者の中でも花形の「外科医」という言葉に愛着があるようだ。現在は、重度の認知症で老人ホームに入所しているが、あまりのプライドの高さに、入所者からも介護者からも、僕を含めた家族からも嫌われている。

医者の仕事は僕の祖父の時代から少しずつコンピュータ化されることになった。真っ先になくなったのは、画像診断を専門とする放射線医と病理医である。コンピュータによる人間の仕事の侵食は他の業界でも燎原の火のごとく広がっていったが、医師側の抵抗があり、画像診断医がなくなった後も、医者という職業そのものの消滅にはしばらく時間がかかった。

最初に医者がいなくなる国はコンピュータ技術で先頭を走るアメリカだと、誰もが考えている中、世界で最初に医療診断をAI化することを決断したのは日本だった。財政が破綻し、大幅な社会保障費の削減を余儀なくされたための苦肉の策であったが、結果、医療ミスが激減し、過剰医療が極限までなくなり、医療費は大規模に削減され、患者の受ける恩恵は飛躍的に増した。

この日本の英断により、あらゆる内科医が失業していき、外科医が術式を決めることもなくなった。世界中から医学部が消え、代わりに医療専門学校が手術師、内視鏡師、カテーテル師などを育てることになった。手術師、内視鏡師、カテーテル師はコンピュータの指示通りに作業するのが仕事なので、頭の良さはさほど要求されず、それよりも手先の器用さが遥かに重要となる。当然、それらの専門職の給与は、かつての医者とはくらべものにならないほど低くなった。

僕の父は東大医学部を目指して勉強していたが、医学部が医療工学部になって、高度なプログラム能力が必須となったため、入学できず、かといって家業の医師の道を諦めることもできず、医療専門学校に進んだ。父はお金のためではなく、医療貢献のために進路を選んだので、価値のある決断だったと信じきっていたらしい。

しかし、父の人生は挫折の連続となった。もともと頭がいいだけで、さほど手先が器用でなかった父は、天性の器用さを持つ同級生たちとの競争に負け、目標の手術師にはなれず、カテーテル師になった。そのカテーテル師も、内視鏡師や手術師同様、父の仕事人生が終わる前に、AI機械に代替され、かつての医師同様に職業自体が消滅した。現在、父は塾講師の仕事をしているが、教育内容の変化に着いていくのに必死だ。

そんな父は、プログラミング教育を徹底して僕に施してきた。「これからはコンピュータを使える人間と、コンピュータに使われる人間に2極化する。東大医療工学部に入って、コンピュータを使える人間で一番になれ!」が父の口癖だった。自分が入れなかった東大への夢を託したかったようだ。

その甲斐あって、僕は小学生の頃から自作のゲームソフトを作成、有料で配給し、中学生の頃には父の収入を上回っていた。家族は全員、僕が東大に入ることを疑っていなかったようだ。

しかし、僕は東大医療工学部に入らなかった。確かに、日本の医療工学界で東大は最高の人材を集め、最高の投資を受けている機関である。特に日本の手術機械技術の多くは東大が最先端であり、東大開発の手術機械のシェアは脳手術分野32%、整形手術分野35%で、どちらも世界一だ。

それでも僕は東大を選ばなかった。なぜか。

それは東大研究室の縦社会を嫌ったからだ。東大に見学に行った時、部外者の僕でも、研究室内での上下関係をすぐ把握できるほど、縦社会は徹底されていた。そのほとんどは単純に、年功序列と長幼の序で決まる。僕は若いというだけで、3回の見学時、いつも見下されたような言葉遣いをされた。自由に発言する雰囲気は全くない。

実際、「東大の強みである脳手術機械と整形手術機械は技術的にもう限界が来ていると思います。いずれ賃金の安い新興国に抜かれるので、消化器手術や心臓手術機械の開発に人材を投入すべきではないでしょうか?」との僕の発言も、「10年前からそんなこと言われているけど、東大の利益はいまだに増えている。東大は手術機械の分野を切り開いてきた。先行者がずっと一位の業界がどれくらいあるか知っている?」と研究員に一笑に付された。全く同じ意見を教授が言ったら、その研究員が僕にした態度をとることは絶対にないと確信する。

僕のアメリカ大学進学は、結局、家族の誰からの賛成もなかった。潤沢な奨学金が得られたから、僕がアメリカを選んだと家族は思っているようだが、それは違う。東大を選んだ場合、僕の将来が不安だったからだ。それは東大の縦社会で、僕の能力が十分に発揮できないためだけではない。現在の成功体験に執着し、変化することのできない東大に入れば、祖父や父のように、僕もいずれ失職することを恐れたからだ。