未来社会の道しるべ

新しい社会を切り開く視点の提供

21世紀に世界の中心に出現した国はなぜ共産主義なのか

21世紀の最初の20年間、世界で最も存在感を増した国は中国でした。隣国の日本は言うに及ばず、世界中のほとんどの国で、中国製品なしで社会生活は成り立たなくなりました。経済的な影響力だけでなく、政治的な影響力も否応なく大きくなっています。アフリカなどでは、アメリカではなく中国が世界の中心の国だと感じているかもしれません。

前回の記事に書いたように、他の先進国が停滞している間に、世界で初めて信用スコアを普及させ、街中に監視カメラを設置させ、ついにはデジタル通貨に移行しそうになっています。天変地異が起こらない限り、あるいは起こったとしても、あと30年くらいアメリカに次いで中国が世界の中心に居続けるでしょう。

それにしても、そんな現代の重要な国がどうして一党独裁共産主義国家なのでしょうか。なぜ中国は自由と平等を尊重する民主主義社会にならなかったのでしょうか。あるいは、中国が民主主義であれば、上記のような信用スコア採用や街中のカメラ設置は、世論の反対により今も実現していなかったのでしょうか。

そんなことを考えると、1945年~1949年の国共内戦で、なぜ共産党が勝ったのかがどうしても気になります。だから、「社会主義への挑戦 1945-1971」(久保亨著、岩波新書)を読みましたが、2011年に出版されたにもかかわらず、私もよく知っている「国民党が負けた理由」ばかり書いていました。しかし、「真説毛沢東」(ユン・チアン、ジョン・ハリディ著、講談社+α文庫)を読んだ後だったので、「確かに国民党は腐敗していたが、国共内戦以前で比較しても、共産党の腐敗は国民党よりひどかっただろう」と思わずにはいられませんでした。

共産党が国民党に勝った理由を一言で述べるなら、「人類史上最悪の殺人犯は毛沢東である」にも書いたように、国民党の腐敗は中国の民衆を含めて世界中に広く知られていたが、共産党の腐敗は中国の民衆のみならず世界中にほとんど知られてしなかったからになります。つまりは、中国共産党(やソ連)のプロパガンダに中国の民衆、あるいは世界の民衆は騙されたことになります。

「真説毛沢東」によると、その騙された多くの人の中でも、取り分け影響力の大きかった人物はマーシャルだそうです。欧州復興プランを立て、ノーベル平和賞受賞者のジョージ・マーシャルです。中国共産党の本質を見抜くことができなかったマーシャルは、1946年に蒋介石共産党の攻撃を止めるよう命令を出します。中国東北部で全滅寸前だった共産党軍は、これにより首の皮一枚で生き残り、3年後の中国統一を実現させています。

1917年のくだらない、歴史的には些末な事件であるコルニーロフの反乱がなければ、ロシアのボルシェビキ革命(10月革命)が実現しなかったのは多くの人が認めるところです。同様に、1946年のマーシャルの国民党への停戦命令がなければ、現在の中国は共産党政権でなかったようです。これ以外にも20世紀前半の中国の歴史をよく知れば、現在の中国が共産主義国家にならなかった分岐点が無数にあること、むしろ偶然に共産主義国家になったことは知っておくべきかもしれません。

中国が世界で初めてデジタル通貨に完全に移行するかもしれない

資本主義の矛盾は金銭取引を完全公開しないと解決しない」の記事にも同様の意見を述べましたが、2000年以上の貨幣社会に大革命を起こすアイデアが金銭取引の完全ネット公開です。金銭取引の完全ネット公開は、私が提案した政策の中で、科学的にはすぐにも実行可能であり、世界をより公平にさせる効果が最も高いものだと思います。金銭取引の完全ネット公開を実現させる大きな一歩となる政策が「国家による全ての通貨のデジタル化」です。

このデジタル通貨移行を世界で初めて実現しそうな国が中国であると知って、複雑な気持ちです。デジタル通貨移行だけでは、政府が国民の金銭取引を全て把握できるのみで、国民が政府の金銭取引を把握できるとは限りません。いえ、デジタル通貨に移行した国の政治家は、まず国民管理に利用するだけで、政府の金銭取引公開などしないはずです。まして、庶民感覚からずれた政治家の金銭取引を国民に公開する気などないでしょう。だから、デジタル通貨移行は、日本の役人よりも遥かに恵まれた中国の役人に、さらに上の天国を提供することになるでしょう。私が提案した「金銭取引の完全ネット公開」の似た政策が中国のような非民主的な社会で始めて採用される上に、その政策により不公平な社会が実現してしまうとなると考えると、落胆してしまいます。

一方で、期待もしています。デジタル通貨移行により、政治家がどうあがこうと、中国がより公平な社会になる側面も出てくるからです。全ての金銭取引を政府が管理するので、脱税はしにくくなります。賄賂は中国社会で日本以上に蔓延していますが、激減するでしょう。莫大な金が動く違法取引も難しくなります。下の国民が清らかになっていけば、必然的に上の政治家も清らかにならざるを得ない効果も期待できます。

「金銭取引の完全ネット公開」をせずに、「国家による全ての通貨のデジタル化」をすれば、効果よりも副作用の方が強くなるだけだとも思いますが、一方で社会全体としてはやはりメリットが大きくなるかもしれないとも思います。「日進月歩の中国と10年1日の日本」に書いたように中国は「信用スコア」を採用して社会全体のマナーを向上させ、さらに「いつの間に日本はこんな残念な国になったのか」に書いたように中国は「社会中にカメラを大量設置」して、犯罪予防効果と犯罪検挙効果を高めています。どちらも、いずれどの国でも採用され、効果的に運営されていく社会システムだと私は確信します。

多くの民主主義先進国は信用スコアや街中カメラ設置を「全体主義で個人のプライバシーを無視している」「さすが管理好きな共産党政治だ」「まるでパノプティコンだ」と中国を見下しているようです。中国が本当にデジタル通貨移行を世界で最初に実現させたとしても、やはり先進国は同様に中国の政策を見下すと私は予想します。しかし、デジタル通貨移行はいずれ世界中の全ての国で実現されることは、普通の知性の持主なら分かるはずです。中国がデジタル通貨移行を世界で最初に実現させるかもしれないという情報に、世界中の先進国の人たちはもっと危機感を持つべきではないでしょうか。

海水注入問題で吉田の英断はムダだった

ここ5年くらいの福島第一原発の本を読んでいる人にとっては常識になっているでしょうが、知らない日本人が大半でしょうから、あえて時系列に沿って述べます。

どこの情報源なのか明確にしてほしいですが、アメリカのウォールストリートジャーナルが2011年3月19日に「東京電力廃炉につながることを懸念したため原子炉への海水注入が1日近く遅れた」と報道しました。

さらにその後、当時の菅首相は自身の交友による情報から再臨界を恐れて、3月12日、海水注入すべき時に海水注入を躊躇していたことが分かります。その首相の反応から、早とちりした東京電力副社長格の武黒が吉田所長に海水注入を止めるように指示を出しました(官邸はそのような指示を出していません)。吉田はその指示に従ったフリをしましたが、実際は海水注入を続けていました。これは吉田の英断と称えられ、一方で菅首相は注水を遅らせようとした、あるいは中止させようとした極悪人とtwitter安倍晋三に批判されたりしています。

しかし、2016年9月、実は吉田の海水注入判断もムダだったことが判明します。3月11日の津波から注水ルート変更の3月23日まで、配管の損傷で注水はほとんど漏れ出ており、原子炉に到達していないことが判明したのです。

現在のWikipediaの「福島第一原子力発電所事故」のページの「海水注入問題」は、「吉田の英断」で事実更新は止まっています。福島原発事故に書かれた本もほとんどは2016年前に出版されているので、「菅首相の海水注入議論はムダだった」「吉田の英断により注水は続けられた」と勘違いしている日本人はいまだにいるでしょう。実際は「吉田の英断もムダだった」となります。

福島第一原発事故の『真実』」(NHKメルトダウン取材班著、講談社)を読めば、注水が適切にできていないことを吉田もうすうす気づいていたようですが、原因までは特定できず、注水ルートの変更判断もできていなかったことが分かります。

以前と同じような意見を書きます。福島原発事故は東日本壊滅寸前まで行った日本未曾有の危機でした。同じような失敗を繰り返さないように、十分に反省して、日本人全員の将来の教訓とすべきです。しかし、ほとんどの日本人は、反省を活かすどころか、基本的な事実関係も把握していないはずです。いまだに吉田所長を英雄視している人は、福島原発事故の反省を活かせていない最もひどい例でしょう。たとえるなら、第二次大戦後にも「精神に重きをおきすぎて 科学を忘れて」、特攻隊を神聖視するようなものです。本来学ぶべきことと反対のことを学んでしまっており、将来、同様な失敗を避けるどころか、呼び寄せてしまうことになりかねません。

「東京電力全面撤退は誤報である」は誤報である

東京電力撤退事件」の記事は誤解を生じさせているので、訂正させていただきます。正しい時系列は次のような順序になります。

2011年3月14日午後8時頃、東京電力の清水社長から政府(官邸)に撤退の許可を求める。この時に清水は一部撤退だと伝えておらず、菅首相を含む官邸の関係者全員が全面撤退だと誤解する。菅首相清水東電社長に全面撤退は許さないと伝えると、清水はあっさり了承して、官邸関係者一同を拍子抜けさせる。菅首相が東電本社に乗り込み「逃げても逃げきれない。撤退したら東電は潰れる」と大演説をしたが、東電のほとんどの社員は菅首相の演説に反感を持つ。吉田所長もいる免震棟の人員を約700人から70人まで減らした。

ここで70人まで減らしたのは、あくまで免震棟にいる人員で、福島第一原発施設にいる人員ではありません。私はつい最近まで「福島第一原発全体にいる人員を70人まで減らした」と勘違いしていました。福島第一原発施設全体でいえば、中央制御室やガレキ処理現場に多くの人員が残っていました。

免震棟にいる人員を一気に減らした理由は、職員たちを避難させるためだけでなく、免震棟にいる650人くらいはほとんどなにもしていなかったからです。免震棟と東京本社はテレビ会議で常時繋がっていましたから、東電本社に乗り込んでいた菅首相も免震棟の人員が減ったことを十分承知しています(指導者が多すぎるとの理由で菅首相が人員を減らしたような記述の本もある)。だから、フクシマフィフティーは事情をよく知らない外国メディアが創り上げた神話に過ぎませんし、菅首相の大演説で現場職員が戻ってきた、との私の記事は間違いです。正確には、菅首相の大演説後、免震棟にいる無駄な人材が退避してくれ、食料配給に余裕が出てきています。水素爆発で生じたガレキの処理をしている現場職員は、免震棟の外におり、作業中の人たちまで減らしたわけではありません。

繰り返しますが、私が上記の事実を知ったのは「福島第一原発事故の『真実』」(NHKメルトダウン取材班著、講談社)を読んだ2022年1月、つい最近です。私は5年以上、「70人」は福島第一原発施設全体の人員だと勘違いしていました。自分の早とちりを棚に上げて恐縮ですが、「70人」は免震棟の人員だけであり、福島第一原発全体の人員でない、と明確にどの本も書いていないので、普通に読んでいたら、そう勘違いしてしまうと思います。

今でも東京電力のHPでは「東京電力が全面撤退を申し出たことはありません」と載せており、wikipediaの「福島第一原子力発電所事故」のページの「東京電力の全面撤退をめぐる報道」の記事は「誤報」に分類されています。しかし、上記のように日本政府の中枢にいる頭脳明晰な人全員が「全面撤退」だと勘違いした以上、その理屈は通らないと私は判断します。あの緊迫した状況で東電社長から「撤退していいか?」と言われたら、普通は「全面撤退」だと考えるでしょう。「全面撤退でなく、一部撤退です。これは重要な点なので、誤解されないよう伝えてください」と言っていない以上、誤解されて当然です。だから、私は今でも「東京電力の全面撤退は誤報である」は誤報だと判断します。

海水注入問題で吉田の英断はムダだった」に続きます。

人類史上最悪の殺人犯は毛沢東である

毛沢東は世代が新しい人ほど悪いイメージが強いのではないでしょうか。タイトルは、最近のネットでよく見る言葉です。40代の私だと、最初に見た時は「スターリンの方が多いだろう」という感想をどうしても持ってしまいました。

第二次大戦中、戦後世代の日本人だと「人類史上最も多くの人を殺した人物は?」の答えに、ヒトラーが出てくるのではないでしょうか。ユダヤ人やロマ人や共産主義者や同性愛者や障害者など、数百万単位で虐殺した極悪人のイメージは、今でも世界中の全ての人が持っています。人類史上最悪の戦争である第二次大戦の主犯はヒトラーであり、この死傷者を全てヒトラーの責任と考えるなら、この答えでいいのかもしれません。

ただし、私のような冷戦後世代の日本人になると、大粛清で数百万人の虐殺を行い、第二次大戦中から戦後にかけて多大な悪影響を及ぼした極悪人として「人類史上最も多くの人を殺した人物は?」の答えに、スターリンを浮かべる人は多いのではないでしょうか。スターリンさえいなければ、第二次大戦で最多の死者を出した国民のロシア人は1000万人以上救われたでしょうし、毛沢東金日成や東欧の多くの独裁者も生まれなかった可能性が高いです。「20世紀に最も影響を与えた人物は誰か?」の答えは、スターリンだと私は20年以上考えています。上記のヒトラー世界恐慌や第二次大戦を終結させて国際連合を事実上設立したルーズベルトと比べても、スターリンの影響力は大きかったと確信します。ただし、「もし国共内戦で国民党が勝って、中国が50年早く経済発展していたら、20世紀後半は全く違ったものになっていた」ので、20世紀に最も影響を与えた人物は毛沢東の可能性があるかもしれない、と考えるようにもなりました。

21世紀世代の日本人が「人類史上最も多くの人を殺した人物は?」の答えとして毛沢東をあげる理由は、大躍進政策による数千万人の餓死者を含めているからです。「餓死と虐殺を同列に数えるのは違うのではないか?」と考えるのが、20世紀までは常識だったと思うので、やはり世代が上になるほど、毛沢東極悪人説に違和感があるのではないでしょうか。毛沢東を極悪人と考える説では、文化大革命でも2千万人虐殺説をとりがちです。この説も上の世代の日本人ほど反論したくなると推測します。

私もよく知らなかったのですが、毛沢東個人は日本の中国侵略(満州事変や日中戦争)をほとんど恨んでいなかったようです。いえ、もっと言えば、偶然とはいえ、毛沢東は日本軍により何度も窮地を救われているので、むしろ毛沢東は日本軍の中国侵略に感謝していた、との説が「毛沢東」(遠藤誉著、新潮新書)にあります。事実、毛沢東が生きていた時代、中国は日中戦争の謝罪を日本に求めていませんでした。一部の中国人により南京大虐殺を教科書に載せる運動もあったようですが、毛沢東が間接的に潰していたので、南京大虐殺について知らない中国人が多かった時代が何十年とあったようです。

国民党の蒋介石共産党との内戦に勝つため、第二次大戦直後、日本軍の侵略を許して、日本に協力を求めたことは有名な話です。しかし、第二次大戦中から、共産党毛沢東が国民党との内戦に勝つため、スパイを通じて日本に協力を求めていた事実はあまり知られていないのではないでしょうか。上記の本では、その事実を証明しています。

氷河期世代の私が、上記の本を読んで真っ先に思い出したのは、「世界史講義の実況中継」(青木裕司著、語学春秋社)です。現在の同書版には既になくなっているようですが、私が受験生だった時代、著者の青木は「私が世界史の先生をしている理由は、この長征の話をしたいからです」とまで言って、中国共産党の長征を詳しく語っていました。長征とは国民党軍の包囲戦を逃れた共産党軍が瑞金から延安まで1万2500㎞を徒歩で踏破したもので、今でも中国で神話化されています。この時の青木は、毛沢東に都合よく改変された長征の話が歴史的事実であると、まるで反日ドラマに洗脳された中国人のように信じてしまっていたようです。

長征の途中で毛沢東共産党の実権をついに握ってしまいました。長征の生き残りはほとんどおらず、その実態は文化大革命以上に分かっていません。ただし、国民党により共産党が殲滅寸前であったにもかかわらず、毛沢東共産党内の主導権争いをしていたことは間違いありません。毛沢東が第一に考えていたのは、国民党軍との戦いではなく、共産党理念の民衆への周知でもなく、まして日本との戦争でもなく、自身の権力基盤の確立であったようです。毛沢東はその前もその後も、かつての味方の大恩人であっても自分に都合が悪くなれば、あるいは自分に都合が悪くなると疑っただけで、直接的に、あるいは間接的に大量に殺しています。

日本で上の世代ほど毛沢東極悪人説が広まっていない理由は、国民党の蒋介石政権の腐敗は国共内戦当時から世界中に知られていましたが、共産党の腐敗は共産党の徹底した情報統制で当時はほとんど世間に知られていなかったからです。大躍進政策文化大革命は世界史上稀にみる悪政でしたが、やはり「竹のカーテン」に隠されて、その実態が世界で周知されるまでには何年もかかっています。毛沢東について「革命家にありがちなことだが、革命前には英雄でも、革命後の政治家としてはダメだった。ガンジーゲバラもそうだった」といった評価を私も一時期持っていましたが、「レーニン同様か、それ以上に革命前から極悪人だった」といった評価が妥当である、とさすがに今の私は考えています。

毛沢東」(遠藤誉著、新潮新書)には、井岡山の「富田事変」という日本ではあまり知られていない事件が紹介されています。昔の日本の歴史書では「井岡山の袁文才と王佐は匪賊であり、毛沢東共産主義革命を実現するため、彼らの部下たちに共産主義の理念を浸透させた後、袁文才と王佐を殺して、組織を乗っ取った」といった表現がありますが、大嘘です。現実には地域の民衆の支持は死後でさえ圧倒的に袁文才と王佐にありました。毛沢東共産党に入党していた袁文才と王佐にスパイの嫌疑をでっちあげ、それらの支持派も含めて1万人以上を虐殺したので、大規模な毛沢東派への反乱が勃発しました。その反乱が富田事変と呼ばれます。1931年の満州事変で日本という共通の敵ができなければ、この富田事変で毛沢東は滅んでいた、今の中国は共産主義国家でなかった、と「毛沢東」(遠藤誉著、新潮新書)は書いています。

救急搬送した高齢者とそうでない高齢者での生命予後のデータを出してほしい

在宅でできる治療と入院でできる治療に差がないのに、病院に搬送したがる訪問診療医がいます。私に言わせれば、藪医者です。

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こんな奴がいるから、本人が望んでいるはずの在宅死が日本では増えないのでしょう。こんな奴がいるから、日本は無駄な医療費が増え、過剰医療が増えるのでしょう。こんな奴がいるから、大したことのない新型コロナ患者数と死者数で日本は医療崩壊が起こっていると錯覚されるのでしょう。

私がコイツと同じ訪問診療医の立場なら、むしろ次のことを患者さんおよび患者さん家族に伝えます。「病院に断られたからと言って、医療に見放されたと考えないでください。そのために、私たち訪問診療医がいます」「病院に行ってもやる治療は同じ、酸素マスクとステロイドです。病院よりも住み慣れた家の方が治療環境としては適切です」「人工呼吸器を使って急性期を乗り越えて、すぐに自発呼吸に戻れる場合もあります。しかし、場合によっては死ぬまで付けっぱなしで、口での会話はできなくなります。その場合、本人が希望しても、今の日本では人工呼吸器をはずすことはできません。それでもいいですか」

もうそろそろ「救急搬送の多い高齢者ほど寿命が短い」「救急搬送を選択しなかった患者さんほど生命予後は長かった」ことが統計エビデンスとして示されないでしょうか。逆の結果でもいいので、肺炎や熱発、あるいは新型コロナでもいいので、救急搬送を選択した高齢者と、そうでない高齢者の生命予後くらいの統計は出してくれないでしょうか。「軽症の人ほど救急搬送しないのだから、救急搬送しない人の方が長生きなのは当たり前」と批判的検討が必要なことは十分承知で、お願いしたいです。

令和になったのに日本が昭和の亡霊に憑りつかれている理由を端的に表現する

「日本が(高度)経済成長している時にはうまくいっていたが、今後はこれだとうまくいかない」という言葉は、50年は言われ続けています。少なく見積もっても30年間は日本中で叫ばれています。

いくら「変化のスピードが恐ろしく遅い時代」とはいえ、人の一生を考えると、50年間あるいは30年間が短い期間のはずがありません。政策を大転換する機会は何度もありました。多くの政治家は「このままでは日本がとんでもないことになる」と分かっていながら、大改革を実行できずに今に至っています。

この失敗について「構造的な問題がある」といった意味不明な表現で済ます人たちもいます。確かに、政治、法律、文化、教育、報道など、あらゆる面が複合的に関係しているのは間違いありません。ただし、日本が負けると分かっている太平洋戦争に突き進んでいったのは「死んでいった多くの日本の先人たちによって手に入れた領土を手放す勇気がなかったから」と簡潔に表現できるように、上記のような大改革を実行できなかったのも「既得権益者を見捨てる勇気がなかったから」と端的に表現できるのではないでしょうか。

「人口減が地方を強くする」は「地方創生大全」よりも読むべきである

「人口減が地方を強くする」(藤波匠著、日経プレミアシリーズ)は名著でした。間違ったことはなに一つ書かれていないのではないでしょうか。なにかと批判的な私がそう思ってしまうほど、的を射た意見しか載っていません。

タイトルから「地方で成功した稀な事業を紹介する本」ではないかと思っていました。しかし、「地方創生大全」(木下斉著、東洋経済新報社)でも認める通り、そんな事業は他でマネしてもまず上手くいきませんし、「人口減が地方を強くする」にある通り、地方創生事業が成功している稀な地域でも人口減はほとんど止まっていません。

「人口減が地方を強くする」で興味深い事実は、1999年に10年以内に消滅すると予想された集落のうち、2006年までの7年間で消滅した集落は14.6%で、2006年に10年以内に消滅すると予想された集落のうち、2010年までの4年間で消滅していた集落は8.3%だったことです。本では集落は案外「しぶとい」と表現しています。限界集落が消滅する心配よりも、新規集落がどんどんできていることを心配すべきだと書いています。「なぜ日本はコンパクトシティの都市計画で50年間も失敗続きなのか」に書いたような理由で消滅集落の10倍も多く新規集落が誕生しているようです。ネット社会、ドローン社会の到来により、コンパクトシティだけを目指す弊害は指摘しているものの、水道、ガス、電気などのインフラ維持費用の問題から、「住宅のバラ立ち」は「人口減が地方を強くする」でも批判されています。

「人口減が地方を強くする」を読んでいても強く感じるのは、日本の改革の遅さの弊害でしょう。

「道路と交通の予算を一本化」するという主張が本にあります。全国には3.8万系統のバス路線があり、うち2.8万が赤字路線で、うち1.7万系統が公的補助を受けておらず、絶えず廃止・減便の危機にさらされています。この2.8万系統の赤字総額は2700億円であり、1系統あたりにすると1000万円なので、およそ運転手の人件費+αのようです。一方で、日本の道路需要は2003年度以降、頭打ち状態なのに、道路新設のために毎年4兆円も使っています。道路新設の一部をバス路線の維持・拡充に組み替えるべきでしょう。それに、若い世代を中心に自動車離れが進んでおり、バスや自転車の必要性が高まるので、環境問題のためにもBRTレーンや自転車専用道を作るべきです。

こう書いた後、「このようなことをわざわざ取り上げる必要があるでしょうか」と著者は嘆いています。道路と交通が不可分であることは論をまたないのに、未だに縦割り行政のせいで予算が一本化されていない、と呆れています。道路や交通の予算は財源も含めて一本化して国から地方に譲渡し、地方が予算を道路にのみ配分し、バスを走らせなかったとしても、それは地方の責任であると割り切ったらどうか、と極論を示してまで批判しています。

交通政策に限りませんが、令和になったのに、日本はいまだ昭和の亡霊に憑りつかれたままです。その理由について次の記事で簡潔に示します。

ベーシックインカムの賛否は現在のバカ発見器である

ベーシックインカムが社会のためになると主張する人はバカか、嘘をついています。10年後か50年後か分かりませんが、「2020年前後にベーシックインカム導入が社会のためになると信じていたバカがいる」と笑い話になると私は確信します。断定しますが、ベーシックインカムは、それくらい現実離れした政策です。

3年前に私は「ベーシックインカムよりも人的支援を充実させるべきである」で批判しましたが、ここまで真面目に論じるまでもないほど、ベーシックインカムはひどい政策です。ヨーロッパの高福祉国家が導入を検討していたり、環境政党が支持していたりするので、私も「日本とシステムの違う国家なら導入できるのだろうか」と考えていた時期もありましたが、どこの国でも実現できるわけないバカげた政策です。少し簡単な計算してみると分かりますが、教育も医療も年金も生活保護も全てなくして、国民全員に一定の金をばら撒くだけにしたら、社会がパニックになります。というか、想像できないはずです。それでは、医療費の財源はどうするのか、公立の教育はどこまで自己負担させるのか、電気やガスや水道はどう維持するのか、どの公務員をどれほど残すのか、と細部を調整せざるを得ず、結局、今の仕組みとそう変わらない制度に落ち着くだけです。

現在で「ベーシックインカム支持派ならばバカである」という命題は真だと考えて間違いありません。「ベーシックインカムを導入すべきだ」は「どうすれば世界征服できるのか」と同じくらい、私に言わせれば、まともに考える価値のない政策です。

粉ミルクを熱湯で溶かす表示を今すぐ止めてほしい

今、日本中の多くの赤ちゃんが熱湯のミルクを飲んでいる事実を粉ミルクの製造会社は知っているのでしょうか。残念ながら、そのうちの一人が私の家の0才児です。もちろん、WHOのガイドラインでは「必ず湯冷まししてから」と書いていることは知っています。しかし、目の前で泣いている赤ちゃんを待てない母もいるのです。70℃の熱湯を毎日飲んでいたら、大人だって逆流性食道炎になりますし、何年も継続して暑い珈琲を飲んでいたら食道がんにだってなることは医者だったら知っていますし、医者でなくても常識的に考えれば分かります。

消化管には温度の感覚神経がないため分からないだけで、消化管も皮膚と同じく重層扁平上皮なので(しかも手足の皮膚より薄い)、熱湯をかけられたら損傷します。「試しに70℃の熱湯を自分の手にかけてみて」と私は何度妻に言ったでしょうか。

「熱湯を赤ちゃんに飲ませるバカが日本にいるとは思わなかった。日本の粉ミルクにサルモネラ菌やサカザキ菌がいる可能性なんて極めて低いのだから(そんな菌で病院運ばれる赤ちゃんなんて日本に年間何人いるのでしょうか)、熱湯あげるくらいなら普通の水道水で溶かしてほしい」と誰でも思うでしょう。しかし、目の前で泣いている赤ちゃんがいたら、冷めるまで待てず、それでも習慣になっている「熱湯で粉ミルクを溶かす」ことは止められない母が日本中にいるのです。繰り返しますが、私の妻もその一人です。信じられないかもしれませんが、私の妻は大卒で、しかも医療従事者です。私が「それは止めてほしい」と10回はお願いしても、止めてくれません。0才児の私たちの赤ちゃんが熱湯を飲まされた回数は100で足りません。

粉ミルクを熱湯で溶かすように必ず表示している国は、日本くらいではないでしょうか。サカザキ菌の感染者数が日本より遥かに多い国でも無視しているのに、日本だけ熱湯を徹底する理由はないでしょう。

なお、私の妻は、熱い珈琲が大好きなので、まだ30代前半ですが、当然のように逆流性食道炎に悩まされています。40代の私は胸やけで悩まされたことはありません。私の子どもたちは物心ついたときから逆流性食道炎で、死ぬまで悩まされるのかもしれません。

日野行介や高田昌幸による日本のための報道を知らない国民たち

「県民健康管理調査の闇」(日野行介著、岩波新書)、「被災者支援政策の欺瞞」(日野行介著、岩波新書)、「除染と国家」(日野行介著、集英社新書)を読みました。日野行介という素晴らしい記者を知らなかった自分を恥じると同時に、日野の報道が日本で広まっていないことに落胆しました。日本人であるなら、とにかく上記の本を読んでほしいです。

福島原発事故は日本の悪い部分がすべて出た事件だ、といった批判がありますが、上記の本を読めばその批判の通りだと痛感するのではないでしょうか。

小沢一郎も「日本改造計画」で批判していたことですが、日本では、国会を含めた公開の会議では形式的に議論するだけで、事実上の儀式となっています。実質的な議論は非公式の秘密会議でよく行われています。このため、問題の本質が一般人には理解できない弊害が頻出します。上の三つの本では、原発事故の事後処理で、そういった秘密会議が蔓延していることを証明しています。

原発事故の事後処理では、うんざりするほどの不正がはびこっています。日本は第二次大戦に負けただけでなく、第二次大戦からの教訓も現在に至るまでろくに得られていませんが、関東壊滅の危機に瀕した福島原発事故を起こしただけでなく、そこからの教訓もろくに得られていません。いえ、第二次大戦後、憲法改正して基本的人権を伸長させて、経済成長は成し遂げられたのに対して、福島原発事故は事後処理すらここまで杜撰なので、第二次大戦の戦後処理よりも福島原発事故の事後処理は明らかにひどいです。

上記の本は日本人なら、ぜひ読んでもらいたいです。「除染と国家」と「県民健康管理調査の闇」だけでも読んでもらいたいです。最低でも「除染と国家」は読んでもらいたいです。

それにしても、ここまで社会的価値のある報道が、なぜ広まらないのでしょうか。日本の大手マスコミは、どれも大きな事件を1分でも早く報道することに熱を入れています。しかし、たとえ日本の首相が変わった情報を1日遅れて発表したとしても、社会に大した影響はありません。それよりも地道な調査により、国家が隠していた情報、国民の誰も知らないが、知るべき情報を広めることこそ、本来の報道人の仕事のはずです。莫大な税金が使われた福島原発事故の公式な除染で、福島原発事故の原因となった「村社会性」がいまだ蔓延していると知っている日本人はどれくらいいるでしょうか。「危険な情報を出すと、大衆は必要以上に恐れる」「だから、できるだけ危険な情報は出さない」「危険な情報を広める奴は徹底的に排除する」といった態度により原発安全神話が生まれ、「原発村社会」が完成し、福島原発事故が起きました。その間違った態度が除染事業ですら貫かれていると、私は全く知りませんでした。補給路を度外視して戦争したから大敗北を喫して、その失敗を痛感している国民が、次の戦争で性懲りもなく補給路を度外視するようなものです。

「真実」(高田昌幸著、角川文庫)を読んでいた時も高田記者について同じことを思いましたが、なぜ日野記者がもっと評価され、報われないのでしょうか。欧米の先進国なら、日野は国民的英雄になっているはずです。単に空気が読めないだけの「新聞記者」(望月衣塑子著、角川)の望月記者よりも、遥かに価値のある地道な報道をしています。日野記者や高田記者が絶賛され、社会から賞賛されなければ、日本に彼らに続く記者が現れなくなるでしょう。情けないです。

残念ながら、世界に誇れるほどの価値ある報道をしていたのに、日野記者は福島原発事故の報道現場から離れてしまい、高田記者は北海道新聞を辞めました。こんな事実を知るたびに、日本から逃げたいと私は考えてしまいます。

日本で女性があまり社会進出していない最大の理由

日本の結婚社会学の第一人者と私が考えている山田昌弘の「結婚不要論」(山田昌弘著、朝日新書)からの引用です。

 

欧米では、男女とも経済的に自立して他人には頼らない。日本で一般的な夫が妻に稼いだお金を全部渡すというのは、あり得ないことなのです。

日本人の女性は、当然のように「結婚したら、夫のお金は私のお金として管理できるはずだ」と思っていますが、欧米では男性も女性も、そういうことはあり得ないと思っています。妻も自分で稼ぐか、夫が自分の稼ぎから自分のこづかいを差し引いて、残った一定額を生活費として渡すことが当たり前なのです。

アメリカのロサンゼルスのマッチング業者は、アメリカ人男性と結婚した日本人女性が驚く典型的な例として、この家計の分離を挙げていました。事前にそうした説明をしていても、トラブルは絶えないそうです。

実は、欧米でフェミニズム運動が強かった要因の一つは、こうした「経済生活の自立」すなわち自分で自由に使えるお金が欲しいという動機があります。逆にいえば、女性が夫の収入を全部コントロールしていることが、日本でフェミニズムがあまり浸透しなかった大きな理由だと思います。

 

「大きな理由」というより、「最大の理由」でしょう。

 

山田昌弘は2006年7月1日の週刊東洋経済で「女性が結婚しないのは高収入の男性を求めるため」と題した記事を投稿しています。「未婚女性が結婚相手に求める年収は、現実の平均年収に比べれば相当高い。このことを10年以上私は言い続けているが、大きく取り上げられることはなかった」「根本的な原因にはメスが入れられず、根本的でない要因のみが強調される。『出会いがない』とか『キャリアが中断される』から少子化か起きると言っていれば、誰からも文句を言われることはない。どうも、日本社会は、本気で少子化対策を進めたいとは思っていないようだ」と書いています。

私も全く同感です。

「結婚や子作りに国家が介入すべきでない」への反論

「結婚や子作りに国家が介入すべきでない」という意見があります。結婚や子作りは究極の私的領域であると信じている人にとってはこの意見は当たり前すぎて、議論の余地がない、とまで思っていたりします。

しかし、個人所有の土地、財産に関しても税金や規制があるように、あるいは信教の自由があってもカルト宗教は制限されるように、あるいは表現の自由があってもヘイトスピーチが規制されるように、あらゆる私的領域に国家が介入することはあります。

少子高齢化がここまで大きな問題(何度か書いているように、私は日本の最大の政治・経済・社会問題と考えています)になっている以上、それと密接に関係している結婚や子育てに国家が介入するのは当然です。そもそも、LGBTの結婚問題もそうですが、ここでの「結婚」は法律婚であり、国家が認める結婚です。国家が認めない「結婚」なら、自己責任で自由にすればいいのかもしれません。国家が認める結婚を求めるのなら、結婚に国家が介入するのは必然です。

「日本婚活思想史序説」(佐藤信著、東洋経済)という本では、なぜ国家が結婚に介入するかについて、詳細に論じています。たとえば、「生涯未婚時代」(永田夏起著、イースト新書)の「結婚する/しない、子どもを持つ/持たないは個人の選択によるもので、少子高齢化によって社会制度の維持が困難になるのであれば、子どもを持つことで調整するのではなく、社会制度の方を見直すのが本来です」という意見を批判しています。なぜなら「子どもを生まない選択については個人の権利を主張しながら、子どもを生まないことによって生じる損害については社会全体の負担義務を主張している」からです。こんな理屈が通れば、「私はムカつく教師がいるので、学校へ行かない選択をしたが、そのために私がバカにならないための補償を国家がするべきである」という理屈も通ってしまいます。

義務教育制度に支えられた教育を受け、国民皆保険で安価な治療を受けられ、日本円という通貨を利用し、警察消防などの国家機能の恩恵を受けている以上、日本人一人ひとりが日本全体の社会問題を解決する義務をある程度負っています。

何度も書きますが、子どもが全くいなくなれば、医療、介護、食料生産、製造、流通、治安など、生きるために必須の社会活動が将来的に成り立たなくなります。もちろん、急に子どもが全くいなくなるわけではなく、子どもの数がだんだん減っていくわけですが、それでも社会インフラの維持が難しくなっている地域は、既に日本の過疎地域のあちらこちらに生じてきています。これらの責任は、子どもを作らなかった人たちにあります。「結婚しようとしたが、できなかった」人あるいは「子どもを作ろうとしたが、作れなかった」人は仕方ないかもしれませんが、「結婚できたのに、しなかった」人あるいは「子どもを作れたのに、作らなかった」人は間違いなく責任があります。

とはいえ、「性の問題は敏感である」ので、「結婚や子作りに国家が介入すべきでない」という信念を強く持っている人の気持ちも分からなくはありません。これまでその信念を自明としか考えていなかった人は、「日本婚活思想史序説」などを読んで、その信念が社会的におかしな側面があったことに早く気づいてほしいです。

LGBTはよくてロリコンはダメな理由が分からない

朝日新聞など「人権派」はLGBTをとにかく擁護したがります。村上春樹の「ノルウェイの森」は「同性愛が悪である」とろくに考察もされず決めていたのに、ベストセラーになっていました。やはり30年も前に出版された「ノルウェイの森」など、昔の価値観の小説とみなすべきなのでしょうか。

私はカナダでも日本でも近い友人にゲイがいたこともあり、LGBTへの社会的な差別には基本的に反対です。ただし、現在のカナダや日本社会ほど積極的に擁護するのはおかしいと考えています。特に「同性婚は認めるべき」を問答無用で正しいと考える意見には大反対です。なぜなら、日本の最大の政治・経済・社会問題である少子化と密接に関係しているからです。

とはいえ、実は私も同性婚に完全に反対なわけではありません。同性婚であっても養子を受け入れるなら、少子化を促進しないので、ある程度認めていいと考えています。逆にいえば、異性婚であっても子どもを作らないのなら、法律上の結婚として認めるべきでないと考えています。それについては「未婚税と少子税と子ども補助金」に書いた通りです。

LGBT問題は性教育問題と似た側面があるように感じます。一時期、あるいは今もそうかもしれませんが、「性教育は恥ずかしくない」と変なキャンペーンを行っていたグループがありました。しかし、「性教育は恥ずかしくない」は現在まで一般的ではありません。性行為を大っぴらにすることは異常ですし、犯罪です。どの時代のどの地域の社会でも、性は隠すべきものとの道徳があります。「性教育は恥ずかしくない」が一般化することは、未来永劫ありえませんし、あるべきでもありません。どんなに性教育普及グループが頑張っても、「性教育は恥ずかしすぎることはない」くらいまでしか進まないでしょう。

同様に、LGBTを大真面目に社会全体でここまで認めようとする運動は、どこか滑稽に私には感じます。性別による差別は確かにいけませんが、性的嗜好による差別は完全にいけないのでしょうか。もしそうなら、オタク業界でよく言われるように「LGBTがダメで、ロリコンがいけない理由は?」に答えられるのでしょうか。ここ30年ほど、LGBTが社会で許容されるのと対照的に、ロリコンは社会で許容されなくなっています。LGBTロリコンも、どちらも性的嗜好です。こちらが正義で、そちらが悪だと一方的に決めつけるのなら、それこそ差別です。

LGBTについて議論する前に、性差別と性的嗜好差別は厳格に区別すべきでしょう。ひと昔前まで、LGBT(性別違和)はロリコンペドフィリア)同様、精神疾患でした。性別と違って、後天的に変えることがある程度できる問題と考えられていました。性的嗜好に限らず、あらゆる嗜好、嫌悪感情は本能に基づくので簡単には変えられませんが、社会で生きる上では、嗜好や嫌悪感情を矯正すべき時もあります。私を含めた多くの人は、本能に抗いながらも、自身の嗜好、嫌悪感情を抑えてきた経験があるはずです。

ネットは社会を分断しないが、ネットの議論は分断しがちな理由

前回の記事の続きです。

「ネットは社会を分断しない」(田中辰雄、浜屋敏著、角川新書)では、個人の保守とリベラル度合いを次の10個の質問に対して「強く賛成(-3)」「賛成(-2)」「やや賛成(-1)」「どちらでもない(0)」「やや反対(1)」「反対(2)」「強く反対(3)」の7段階のアンケートで示しました。

1,憲法9条を改正する

2,社会保障支出をもっと増やすべきだ

3,夫婦別姓を選べるようにする

4,経済成長と環境保護では環境保護を優先したい

5,原発は直ちに廃止する

6,国民全体の利益と個人の利益では個人の利益の方を優先すべきだ

7,政府が職と収入をある程度保障すべきだ

8,学校では子どもに愛国心を教えるべきだ

9,中国の領海侵犯は軍事力を使っても排除すべきだ

10,現政権は日本を戦前の暗い時代に戻そうとしていると思う

1,8,9は賛成するほど保守で(答えの+-を逆転させて計算)、他は賛成するほどリベラルとみなしています。10個の回答の合計点を10で割ると、次のように、ほぼ正規分布に近くなったようです。

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この平均値は-0.2であったので、-0.2からどの程度離れているかで、その人の分極度を示します。たとえば、10個の質問の平均点が0.7なら分極度は0.9で、平均点が-0.4なら分極度0.2です。

この分極度の年代別に示したグラフが下のようになります。

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高齢者になればなるほど、政治的に極端な意見を持っているようです。これは分断が進んでいる原因がネットの使用にある、との仮説と矛盾します。若年層であるほどネットを使用しているからです。

同じような研究がアメリカでも行われていますが、インターネットの普及で分極化が進んでいるのは高齢者であることが示されています。

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なぜでしょうか。

長くなるので省略しますが、実はネットでは選択的接触はあまり起こっていなかったからです。つまり、ネットは情報取得が無料で容易であるため、自分の反対意見にも多く接していることが「ネットは社会を分断しない」で統計的に示されています。もっと書けば、従来のマスメディアしか使わない人たちよりもネットを使っている人たちの方が多様な意見に接しているからです。ネットから自分の反対側の意見とも接している人の率はほぼ4割です。アメリカ、ドイツ、スペインの研究でも同様の値が出ているそうです。

それでは、前回の記事に書いたように、ネットが意見を先鋭化させる、との誤解はどうして出てきたのでしょうか。その疑問に答える前に、下のグラフにあるように、多くの人はネットでの議論が不毛であると感じている統計結果を示しておきます。

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この理由は簡単です。ごく一部のヘビーライターが過激な意見を書きまくっているからです。例えば、憲法9条改正について、95%の人は過去に一度も書き込みしたことがありません。一方で、実際にネットに書き込まれた意見の半数は、過去1年間で60回も書き込んだ人たちであり、それは全体の0.23%に過ぎないことが示されています。

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普通に考えれば、強い意見を持っている人ほど、つまり極端な意見を持っている人ほど、ヘビーライターになりがちです。憲法9条に対する意見でも、実際には少数派なのに、ネットでは多数派に見えてしまう珍現象が生じています。このためネットの議論は不毛になりがちなのです。