「結婚や子作りに国家が介入すべきでない」という意見があります。結婚や子作りは究極の私的領域であると信じている人にとってはこの意見は当たり前すぎて、議論の余地がない、とまで思っていたりします。
しかし、個人所有の土地、財産に関しても税金や規制があるように、あるいは信教の自由があってもカルト宗教は制限されるように、あるいは表現の自由があってもヘイトスピーチが規制されるように、あらゆる私的領域に国家が介入することはあります。
少子高齢化がここまで大きな問題(何度か書いているように、私は日本の最大の政治・経済・社会問題と考えています)になっている以上、それと密接に関係している結婚や子育てに国家が介入するのは当然です。そもそも、LGBTの結婚問題もそうですが、ここでの「結婚」は法律婚であり、国家が認める結婚です。国家が認めない「結婚」なら、自己責任で自由にすればいいのかもしれません。国家が認める結婚を求めるのなら、結婚に国家が介入するのは必然です。
「日本婚活思想史序説」(佐藤信著、東洋経済)という本では、なぜ国家が結婚に介入するかについて、詳細に論じています。たとえば、「生涯未婚時代」(永田夏起著、イースト新書)の「結婚する/しない、子どもを持つ/持たないは個人の選択によるもので、少子高齢化によって社会制度の維持が困難になるのであれば、子どもを持つことで調整するのではなく、社会制度の方を見直すのが本来です」という意見を批判しています。なぜなら「子どもを生まない選択については個人の権利を主張しながら、子どもを生まないことによって生じる損害については社会全体の負担義務を主張している」からです。こんな理屈が通れば、「私はムカつく教師がいるので、学校へ行かない選択をしたが、そのために私がバカにならないための補償を国家がするべきである」という理屈も通ってしまいます。
義務教育制度に支えられた教育を受け、国民皆保険で安価な治療を受けられ、日本円という通貨を利用し、警察消防などの国家機能の恩恵を受けている以上、日本人一人ひとりが日本全体の社会問題を解決する義務をある程度負っています。
何度も書きますが、子どもが全くいなくなれば、医療、介護、食料生産、製造、流通、治安など、生きるために必須の社会活動が将来的に成り立たなくなります。もちろん、急に子どもが全くいなくなるわけではなく、子どもの数がだんだん減っていくわけですが、それでも社会インフラの維持が難しくなっている地域は、既に日本の過疎地域のあちらこちらに生じてきています。これらの責任は、子どもを作らなかった人たちにあります。「結婚しようとしたが、できなかった」人あるいは「子どもを作ろうとしたが、作れなかった」人は仕方ないかもしれませんが、「結婚できたのに、しなかった」人あるいは「子どもを作れたのに、作らなかった」人は間違いなく責任があります。
とはいえ、「性の問題は敏感である」ので、「結婚や子作りに国家が介入すべきでない」という信念を強く持っている人の気持ちも分からなくはありません。これまでその信念を自明としか考えていなかった人は、「日本婚活思想史序説」などを読んで、その信念が社会的におかしな側面があったことに早く気づいてほしいです。