未来社会の道しるべ

新しい社会を切り開く視点の提供

日本政治がオープンになるために

山口敬之という元TBSの総理番(総理大臣担当記者)いました。山口は安倍晋三のお気に入りの記者で、第一次と第二次の安倍政権時、他の会社の記者だけでなく安倍の公設秘書たちも人払いさせた後に、独自の情報を何度も安倍から伝えられています。しかも、その独自情報をすぐには報道せずに、安倍の機嫌をうかがって、報道するかどうか決めていた、という信じられない事実を「総理」(山口敬之著、幻冬舎)で堂々と白状しています。

ありえない話は「総理」の中にいくらでも出てきて、第一次安倍内閣の時、麻生太郎の次期内閣改造人事案のメモを安倍晋三に届ける、という役目を山口は引き受けています。言うまでもなく、内閣は日本政府の中枢です。次期自民党幹事長が現総理に内閣人事案を伝えるときに、公務員でもなんでもない人(山口)に伝言を頼んでいるのです。法律上、山口がその秘密を守る義務は全くありません。むしろ、報道人であるなら、そんな国家の最重要人事案は、すぐにでも公にしたがるでしょう。

しかし、山口が絶対にそれを漏らすことはない、と麻生は信じています。事実、山口は麻生に忠実に、その内閣人事案を一切報道することなく、上司にも同僚にも伝えることなく、安倍だけに伝えています。その情報を公にしたのは、麻生にも安倍にも迷惑をかけないと山口が判断した頃合いになります。

TBSから給料をもらっている人が、なぜ自民党政権のために仕事をしているのでしょうか。山口はTBSから「そんなスクープ情報は今すぐ報道すべきだ」と言われたら、どうするつもりだったのでしょうか。山口なら「そんな仁義に反することはできない」と拒否したに違いありません。

当然、山口はTBSを2016年に事実上クビになりました(直接の原因は不起訴処分になった準強姦罪の容疑)。しかし、その後に記した「総理」で、自分の仕事方法についての反省の言葉は全く述べていません。その正反対で、「内部に入らなければ重要な政局の情報は手に入らない」と自身の正当性を本気で訴えています。救いようがありません。

山口は公私混同も甚だしいです。こんな奴がつい最近まで首相の近くで働いており、記者クラブという特権階級で部下や同僚に威張っていた事実自体が情けないです(「総理」には安倍や麻生には敬語を使うのに、同僚や部下にはイライラして怒鳴ったりする山口の様子が臆面もなく書かれています)。

ここまで問題がある一方で、「週刊文春編集長の仕事術」(新谷学著、ダイヤモンド社)では山口の仕事術が絶賛されています。週刊文春。さもありなん、です。

政治の世界には表に出てこない情報が必ずある、と山口は固く信じています。だから、政治社会に深く入り込み、生々しい現場を目撃しなければならない、と「総理」に書いています。そのためには政治家や官僚に信頼されるため、適切な時までは秘密を厳守しなければならない、と信じているようです。

この根本の発想が、社会道徳と正反対です。それに山口は全く気づいていません。確かにすぐには公にできない政治情報はありますが、そんな情報は報道人も含めて、全て秘密にするべきです。一部の怪しい情報通が公開すべき時を情報源に忖度しながら決めるのではなく、公人ができるだけ早い時期に公開理由も含めて、政治情報を広めるべきです。情報公開を判断する公人は政治家たちとは直に接しない第三者であるべきです。また、情報内容が不適切に狭められていたり、情報の公開時期が不適切に遅すぎたら、当然、その公人は責任を問われます(叱責や懲罰を受けます)。

そもそも、日本では政治情報があまりに秘密にされすぎています。「日本の歴史はいつになったら神話ではなく事実に基づくのか」にも書いたように、重要な政治の決定過程は全て公文書に記録して、適切な時期になればすぐに公開すべきです。これに同意できない裏のある政治家なら、最初から表の世界の政治に携わる資格はありません。

山口のような裏社会の手法を尊重する奴が、表の政治社会で胸を張って活躍する恥ずかしい社会から、日本が1日でも早く脱却することを願っています。

日本人は昔の中国を見ている

「日本人が知らない中国セレブ消費」(袁静著、日経プレミアシリーズ)を読んで、私の中国知識を広めるとともに、こんな中国の基本情報を紹介する本がいまだ日本で必要なことを残念に思いました。「中国人は冷めた料理を食べない」は、「中国の実態は誰も知らない」の記事に書いたように、10年前に上海に住んでいた私も気づきませんでしたが、本来なら中国の経済発展が注目され始めた1990年代には日本で周知の事実になっておくべきだったでしょう。「ご飯(米)はご馳走目的の中国人に出してはいけない」「宿泊料金は食事込みの値段であることを伝える」などの中国の常識が、「爆買い」騒動後にまで日本で一般に広まっていない事実に、落胆してしまいます。そのための経済的損失がいくらか、誰か計算してほしいです。

上記の「日本人が知らない中国セレブ消費」にも「なぜ中国人は財布を持たないのか」(中島恵著、日経プレミアシリーズ)にも書いてあることですが、ここ数年で中国人のマナーが急激によくなっているそうです(そのことに著者二人が強いカルチャーショックを受けています)。

私は「国家の富は国民の道徳と教養によって決まる」と考えています。中国が急激な経済発展を遂げたのだから、文化も急激に成熟すると私も頭の中では考えていたものの、中国人のマナーの悪さだけは簡単に直るものではない、と思い込んでいました。中国のGDPが日本の2倍になっても、「中国人の平気的な性格は『橋下徹』である」と考え続けていたのです。しかし、それは変化の止まった日本の感覚で中国を考えていたことによる誤りだったようです。

中国は同質性の社会でない」ので、ごく稀に素晴らしいマナーの中国人がいることは私も以前から知っていましたが、まさか中国人全体でマナーの向上する日がこんなに早く来るとは夢にも思っていませんでした。「なぜ中国人は財布を持たないのか」の著者が指摘するように、「声が大きくて、マナーが悪くて、不潔であることは中国人の性質」と勘違いしてしまった日本人の一人だったようです。

日進月歩の中国と10年1日の日本」に書いたように、中国は信用スコアを採用したので、これから加速度的にマナーがよくなっていく可能性もあります。日本がボケーっとしている間に、中国が一気にキャッシュレス社会を到達させたように、気がついたら、マナーの面でも、中国人が日本人を追い抜くことにもなりかねません。さらに、「いつの間に日本はこんな残念な国になったのか」に書いたように、中国での監視カメラの普及で、犯罪率でも日本が中国に負けるようになったら、いよいよ日本が中国に勝てるものはなにもなくなるのではないでしょうか。「日本人は中国人よりマナーが悪いくせに、プライドだけは高い」と世界中の人たちに思われるようには、さすがに、ならないことを願うばかりです。

いつの間に日本はこんな残念な国になったのか

前回の記事の続きです。

中国が日本を追い抜いたもう一つの点は、街中カメラの設置台数です。これにより誰がどこの場所にいるのか瞬時に把握できます。残念なのは、それを報道している日本の記事が次のような切り口になっていることです。

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正確な統計はないものの、「2億台近い監視カメラの普及で犯罪は減り、夜中の一人歩きも安全になった」と書かれています。そこまでメリットがあるにもかかわらず、「日本で中国のような監視社会は無理」と、なんの根拠もなく断定されています。朝日新聞は、このような街中でのカメラの普及は一長一短である、と伝えたいのでしょうか。いえ、「忍び寄る監視社会」という見出しからしても、この記事を読んだ人は、一長二短くらいの印象を持つのではないでしょうか。

前回の記事の信用スコア同様、真面目に誠実に暮らしている人たちにとって、街中の監視カメラを恐れる理由はないはずです。監視カメラを恐れる人たちは、社会道徳に反することをしているはずです。もちろん、戦前の日本のように、憲兵たちが犯罪予防まで干渉するのは問題ですが、監視カメラを怖がりすぎるのも問題です。監視カメラによるプライバシーの侵害よりも、犯罪率の減少の方が、大多数の一般人にとって好ましい効果を持つはずです。監視カメラの普及は、中国でさえ二長一短、日本なら四長一短くらいの制度にできると考えます。

また、公権力による干渉問題を解決するためにも、「日本が世界最高のAI国家になる方法」にも書いたように、全ての街中のカメラの映像は、世界中にネットで公開すればいい、と私は考えます。そうすれば、国家権力の監視という意味が薄れ、犯罪防止にも有効です。このシステムは科学技術的に今すぐに導入可能なので、できるだけ早く導入してもらいたいです。断言しますが、全ての金銭取引と全ての人の位置情報をネット上に瞬時に公開できれば、日本は中国に逆転できます。

前回の記事、そして次の記事も含めての感想ですが、隣国の中国がここまでのスピードで変化しているのに、日本は「変化のスピードが恐ろしく遅い時代」を続けています。本来なら「革新的」であるはずの朝日新聞でさえ、無数のカメラによって全ての人の位置情報を提供できる未来社会について、上のような批判記事を書いています。さらに、朝日新聞は中国について先月6月4日に、1989年の天安門事件の30周年を大きな記事で論じていて、呆れました。

「30年前の天安門事件なんて、日進月歩の現代中国を考える上で、なんの役にも立たない。日本人はいまだに中国人が冷たい食べ物を嫌いなんて、基本的な情報すら知らない。中国人のマナーが劇的に改善していることも知らないし、キャッシュレス社会になって日本が追い抜かれた意識すらない。私はもちろん、あなたでさえ新聞記者になる前の天安門事件を大々的に書くくらいなら、現在中国の変化について記事にして、日本人の中国観を正しくした方がよほど日本全体の利益になる。違いますか?」

そんな風な発言をする気概のある記者は、朝日新聞に一人もいなかったのでしょうか。

中国の変化のスピードに日本人が茫然となっているのなら私も少しは安心できますが、ほとんど日本人はただボケーっとしているように思います。

隣の中国に対してでさえ、そうなのですから、それよりも早いスピードで発展するであろうインドについて、日本人はほとんど無関心のはずです。さらに、21世紀に人口爆発と経済急発展が起こるサハラ以南のアフリカについて、日本人は無知に等しいでしょう。かくいう私も、人類史上最大の人口爆発の起こる国がニジェール(2000年に1000万人だった人口が2015年には2000万人と倍増しており、これが2100年で2億人になる)だと知ったのは、先月です。中国が日本のように人口減少社会を迎える未来を見越し、アフリカで大規模投資をしているのに対して、日本人の多くが日本のマスコミのように「中国はアフリカで人権を無視した政権を援助している」としか考えていないのなら、本当に残念です。

日進月歩の中国と10年1日の日本

ここ最近の中国について情報収集していると、中国が日進月歩で変化しているのに、日本が10年1日のように停滞していることに意気消沈してしまいます。なにより残念なのは、ほぼ全ての日本人がそのことに危機感を全く持っておらず、未だに先進国気分で中国を見下していることです。

中国が日本をあっという間に抜き去った一番いい例は、キャッシュレス社会の到来でしょう。スマホが普及したと思ったら、ほぼ同時にスマホ決済まで普及して、中国は人類史上最速でキャッシュレス社会に到達しました。隣の大国がそんな偉業を達成したのに、日本人たちはキャッシュレスがどれだけ社会全体でムダな労力とコストを削減するか、考えてもいないように思います。

キャッシュレス社会とは、単にかさばる現金を持ち歩かなくていい、という労力の削減だけではありません。現金の印刷や処分の工作機械も不要になり、運搬時や保管時に盗まれないための警備労力も不要になり、店舗でのレジ絞めや集計などの業務も不要になり、現金を預けて引き出すATMも不要になります。馬車で殻付きクルミを売る屋台でもスマホで決済でき、個人間のお金の貸し借り、たとえばお年玉でさえスマホでやりとりする中国では、現金維持コストが現在、ほぼ不要になりました。昼の休憩時間にも、北京市内の銀行のATMは全く使用されていないそうです(「キャッシュレス国家」西村友作著、文春新書)。野村総合研究所によると、日本では現金決済のインフラを維持するために、年間1兆円を越える直接コストがかかっています。

私にとって、最も衝撃的だったのは中国での信用スコアの普及です。シェア自転車をきちんと返却したか、公共料金を毎月支払っているか、交通違反をした前歴がないか、ネットショッピングの支払いが滞っていないか、タクシー配車アプリを利用した時に無断キャンセルせずに乗車したか、犯罪者の手伝いをしていないか、などによって、信用スコアが上下します。信用スコアが高いと、ホテル予約の際に保証金が不要になったり、婚活サイトでは優先的に条件のいい相手を紹介してもらえたり、海外旅行のビザが早く取得できたりします。

信用スコアについて、多くの日本人は窮屈な制度だと考えているのではないでしょうか。私の知る限り、日本のマスコミでは例外なく、中国の信用スコアシステムを批判的に伝えていました。「なぜ中国人は財布を持たないのか」(中島恵著、日経プレミアシリーズ)という本にも、「日本は相手を騙すことの稀な成熟した社会なので、信用スコアなど考えもしないだろう」と信用スコアのある中国社会を見下した表現があります。同書には、「偽札が横行している中国ではスマホ決済は極めて有効だったが、偽札を一生に一度も見ることもない日本ではスマホ決済は不要だ」という表現もあります。これらは完全にピンボケした視点です。

信用スコアは、誠実で正直に生きている人が得をして、不誠実でウソをつく人が損をするシステムです。私は信用システムを窮屈とは全く感じません。窮屈に感じる人は、不誠実でウソをつく人のはずです。信用システムが不要なほど日本人が本当に誠実で正直であるなら、誠実で正直な人が得をする信用システムを拒否する理由はありません。

なにより素晴らしいのは、信用システムは、不誠実な嘘つきを誠実な正直者に変えていく作用を持っていることです。現在、中国人全体のマナーが急速に良くなっているのは、信用システムの普及と密接に関わっていると確信します。

日本で出会う中国人団体客は、まだまだマナーの悪い人たちが多いかもしれません。しかし、その大きな原因の一つは、日本でアリペイやウィーチャットペイが普及していないこと、つまり、日本で信用システムがあまり採用されていないことにあるでしょう。もし、日本で中国式スマホ決済が普及したら、中国人団体客のマナーも良くなっていくはずです。良くならざるを得ないはずです。

もちろん、信用システムには問題も多くあります。「無断キャンセルしたが、それには〇〇の事情があったからだ」といった個別の事情に細かく対応できないこと、民間企業が非公表の判断基準を用いていること、法を犯した人とネット上で友だちになるだけで信用スコアが下がるとなると、ただでさえ社会復帰の難しい前科者をさらに社会から排除するシステムになっていること、などです。信用システムの採用の上で、それらは疑いようもなく修正すべき重要な点です。しかし、そういった欠点への配慮は不可欠なものの、信用スコアのある社会が、信用スコアのない社会に戻るべきでない、と私は考えます。実際、信用スコアの長所を知った中国が、信用スコアを改良することはあっても、手放すことは、まずないでしょう。

日本も信用スコアをできるだけ早く採用すべきと考えます。もちろん、その時は上記のような欠点を修正した信用スコア、徹底した情報公開を取り入れた公平で社会道徳に沿った信用スコアを採用すべきです。

次の記事に続きます。

wetな人間関係からdryな人間関係へ

前回の記事と関連します。

「生きる職場」(武藤北斗著、イースト・プレス)の職場の人間関係の見識には共感します。

著者は職場の理想的な人間関係は「笑顔の溢れる状態ではない」と何度も強調しています。朝礼でハイタッチのような儀式を否定していますし、お互いを意識的に褒めるような見せかけだけの仲良しごっこも否定しています。理想は、他の人の反応やその場の空気観をいちいち心配することがない職場、人間関係に悩まされることなく働ける職場であり、それ以上を求めはしないことです。

フィリピンで社員旅行文化が浸透中」に書いたように、現在、東南アジアでは高度経済成長期の日本のように、社員旅行が広く実施されています。一方で、社員旅行「発祥地」の日本では、社員旅行文化は消滅していっています。同様に、かつては職場の飲み会は日本の重要な交流の場で、お酒を飲まないことは不可でしたが、いまでは不参加も、お酒を飲まないことも許されるようになってきています。一方、日本より遅く経済発展している中国や東南アジアでは、いまだにお酒の席でのコミュニケーションが重視されています。

社会が成熟していくに従って、人間関係はwetからdryになっていくようです。これは職場に限らず、地域社会にも通用するはずです。「一人の取りこぼしもない社会」の記事に書いたように、かつて日本で溢れていたコミュニティが消滅していっているのも、その流れで説明できるのではないでしょうか。

実際、私がカナダで感じた人間関係は、日本よりも遥かにdryでした。苦手な人相手でも失礼にはならないように接し、無益な敵意を出すことはありませんでした。職場でのグループはありましたが、日本ほど固定しておらず、他の人が入りにくい雰囲気はあまりありません。なにより、社会全体的に他者への関心が日本より低かったです(一方で、「カナダ人の寛容性と生産性の相関関係」に書いたように社会的弱者への共感は日本の比ではなく高かったです)。

日本も成熟した国家なので、人間関係はwetからdryに変わっていくでしょう。wetな人間関係を理想と考える人は、その理想がこれから実現しないことを理解し、dryな人間関係の利点に注目するようになってほしいです。

やってダメなら元に戻す

「生きる職場」(武藤北斗著、イースト・プレス)は興味深い本でした。

「好きな日に好きな時間帯に出勤できる」「嫌いな仕事はしない」などのルールが注目されるでしょうが、むしろ著者の職場観について私は同意します。

仕事からの喜びやストレスは、仕事内容よりも職場の人間関係によって決まると著者は考えています。私の意見だと、寄与度は仕事内容:人間関係=1:2です。日本人でもカナダ人でも、この意見にだいたい同意してくれます。

「やってダメなら元に戻す」方針も、日本の多くの組織が見習うべきでしょう。著者は「好きな時間帯に出勤できる」制度を提案したとき、従業員たちにこう言ったそうです。

「さすがにこれは難しいかもしれないので、2週間だけの限定で行います。きっと元に戻すことになると思うけど、そのときは残念がらないでくださいね。この2週間が自由なだけでもラッキーと思ってください」

私の座右の銘の一つに孫氏の兵法の「知者の慮は必ず利害に雑う」があります。「利益を得ようとするときは、それが失敗した時の損失も考えなければならない。損失を被ったときは、そこから得られる利益も考えなければならない」として私は捉えています。上の失敗した場合を考慮した言葉がけは、これを体現しているように思います。

「好きな日に好きな時間帯に出勤できる」「嫌いな仕事はしない」は、偶然、著者の職場でうまくいった、とは私も思います。しかし、「世界中で著者の職場だけでうまくいく」はずはありません。著者の工場のように、導入してみたら職員のストレスが減っただけでなく、生産性も上がったりすることもあるでしょう。「やってダメなら元に戻す」の精神で、多くの職場に試しでいいので導入してみてはどうでしょうか。

日本史上最低の人物・辻政信

日本史上最低の人物という概念自体、多くの人は持っていないでしょう。私も辻政信を知るまでは、そうでした。しかし、辻政信を知ってからは、「コイツは正真正銘の日本の歴史上最低最悪の奴だ」と考えて、それが間違っていると思ったことは10年以上ありません。ついでに書いておけば、アメリカ史上最低の奴はベトナム北爆と日本の絨毯爆弾を主導したカーティス・ルメイだと私は考えています。

辻政信は歴史的大敗のノモンハンと、フィリピンでのバターン死の行進の悲劇を引き起こした人物で、満州事変を勃発させた石原莞爾の側近です。バターン死の行進は日本だと存在自体あまり知られていませんが、日本がアメリカ人にもたらした文句なしの非道な行為です。アメリカは今でも「真珠湾攻撃は日本の騙し討ちだった」として第二次大戦時の日本を非難するのが一般的ですが、これに異論を持つ日本人(と一部のアメリカ人)は少なくありません。「アメリカが日本の通信をあれだけ傍受しておいて、騙し討ちもなにもないだろう。むしろ、山本五十六の作戦勝ちだ」という意見には一理あるはずです。しかし、バターン死の行進は、どんなに日本を擁護したい人でも、その残虐性を認めるしかありません(もっとも、当時の日本軍ではこのように人を見殺しにする指導は当たり前だった、と擁護する道徳観の崩壊した日本人が実際には今もいます)。その残酷なバターン死の行進中に、さらに残酷なフィリピン人やアメリカ人を虐殺する「大本営命令」を勝手に出した張本人が辻政信です。バターン死の行進ノモンハンに限らず、辻政信は独断専行が甚だしく、しかも、その結果として大失敗しても、責任をほとんど取らされず要領よく動き回った最低の人物です。

辻政信が崇拝した石原莞爾は、太平洋戦争勃発時の首相である東条英機のライバルだったせいか、未だに英雄視する人がいます。しかし、石原莞爾東条英機に権力争いで勝ったとしても(権力争いというより幼稚な意地の張り合いと言う方が正確ですが)、やはり日本はアメリカと戦争を始めたと確信します。むしろ、「世界最終戦争」という妄想を持っていた分、石原がアメリカとの戦争をする時期は1941~1945年より遅れて、アメリカが日本に使用した核兵器は2つで足らず、日本人は最後の最後まで戦い、現実にあった太平洋戦争の10倍以上の悲惨な状況を生んで、日本という国が完全に消滅していた可能性も高いと考えます。

なお、1960年のアメリカ大統領選でケネディではなくニクソンが勝っていたら、キューバ危機時にカーティス・ルメイの強硬策を採用して、第三次世界大戦になり、何億人もの人が核戦争で死んだ可能性は低くない、と私は考えています。

辻政信もルメイも、知力は高かったようですが、倫理観が最低です。知力が低くて倫理観が悪い奴よりも、社会に悪影響を与える代表例でしょう。

新結婚制度

私「パックス制度を採用すれば、未婚化と少子化を防げるかもしれない」

A「パックスの意味が分からない。どちらかの意思だけでパックスを一方的にやめられるなら交際でいいじゃない」

私「でも、子どもができたら交際のままだとマズいよ」

A「子どもができたら結婚でしょ」

私「……。僕もそう思う」

 

前回の記事では、「公的交際ネット」をよりパックスに近い制度として提案するつもりでした。しかし、どこまで考えても、パックスの存在意義が見いだせませんでした。「パックスは男にとって得な制度だ」とも女性に言われました。

結婚制度が社会に必要な理由」にも書いたように、結婚制度は第一に子どものためにあります。他に自由恋愛競争の規制の目的もありますが、二次的なものでしょう。子どもが両性の間に生じなかったら、人類の全ての時代の全ての社会に結婚制度が存在することはなく、結婚制度のない社会も珍しくなかったに違いありません。

少子化対策には、「公的交際ネット制度」よりも、次のように結婚制度自体を新しく変えた方がいいかもしれません。原則は、「結婚は両性の合意のみに基づいて成立する」ですが、次のような例外が存在します。

 

1、未婚女性が妊娠すれば、女性が望めば、相手の未婚男性はその女性と結婚する義務が生じる(女性が望まなければ、結婚できない)

2、結婚後、5年以内に養子を含めても両者の間に5才未満の子どもがいなかった場合、その結婚は無効となる

 

特に2は少子化対策に直結するはずです。結婚制度は、子どもがいる両者の間だけに認められる優遇制度にします。「公的交際ネット制度」や「未婚税と少子税と子ども補助金」や「養子移民政策」と合わせていけば、有効な少子化対策になると考えます。

公的交際ネット制度

結婚のない社会の弊害」にも書きましたが、自由恋愛の規制として結婚制度は必要です。西洋では結婚以外の規制、たとえば民事連帯契約(PACS=パックス)があります(よく誤解されているようですが、パックスは事実婚ではありません。西洋でも事実婚事実婚として法的に保護されており、事実婚より強い法律上の結びつきで、裁判所に公証してもらった関係がパックスです)。一方、日本は結婚以外の規制がなく、それが原因かどうかはともかく、未婚が増えて、少子化が深刻な社会問題になっています。

パックス制度をそのまま日本に導入してもいいかもしれませんが、裁判所などの役所が関わると人件費がかかるので、次のような公的交際ネット上での公的交際制度はどうでしょうか。

 

1、特定の二人の交際関係は公的ネット上に公開される

2、交際関係を同時に結べる相手は一人だけである

3、交際申し込み、および交際申し込みの受け入れは公的ネット上で行う

4、既婚者および交際中の者を相手に交際申し込みはできない

5、交際申し込みは一人の相手にのみできる

7、交際申し込みはいつでも断ることができ、保留のままにすることもできる

8、一つの交際申し込みを受け入れると、そのときに受けている他の交際申し込みは全て断ったことになる

9、交際申し込みを相手が保留している時に、申し込んだ側が交際申し込みをキャンセルできる

10、交際関係はいつでも一方的に破棄できる

 

パックス関係と違って、交際関係にあっても相続権や税制の優遇措置などは全くありません。現状での「交際関係」と公的交際ネット上での交際関係は、法律上の関係が同じです。また、上のルールを守らなくて、事実上の交際関係になっても、一切罰則はありません。それだと公的交際ネット制度を無視する人が続出して、存在する意味がほとんどなくなるので、以下のような罰則を設けます。

 

11、公的交際関係にない二人が性交渉した場合、あるいは性交渉したと十分に疑われる場合、その二人のどちらかの交際相手、およびその二人のどちらかへの交際申し込みを断られた未婚者(交際申し込みを自らキャンセルした者を除く)が、その二人から精神的な損害賠償を受けることができる

 

この制度の目的は、最終的に少子化を食い止めることにありますが、第一にモテる者がよりモテる状況、モテない者がよりモテない状況を改善することにあります。結婚にしろパックスにしろ1対1の関係なのに、自由恋愛ではどうしても一部の人に人気が集中してしまいます。交際なら1対多の関係でもいいと思う人もいるでしょうが、さすがに子どもができる性関係まで1対多で結んでしまうのは問題のはずです。「父親が誰か分からない」「複数の女性を同時に妊娠させた」といった問題が発生します。

また、普通であれば、1対多の「1」にいる人が性関係を持てば、選ばれなかった「多」にいる人たちに大きな精神ショックを与えます。せめて性関係を結ぶ前には、公的交際関係になっておくと、「多」の人たちは既に公的交際ネット上で断られているので、ある程度諦めはつくでしょう。

公的交際ネットの目的の他の側面は、結婚前の交際関係の段階で、浮気と高望みを減らすことにあります。浮気を減らす利点は上に書きました。高望みを減らす利点は未婚も減らせることです。「仕事と家族」(筒井淳也著、中公新書)では、未婚が増えた原因(≒少子化の原因)として、女性の高望みがあると推論しています。高望みがあると、どうしてもミスマッチが増えて、結婚前の交際すら減ってしまいます。同時に複数の交際関係を結ぶことが難しくなると、1対1の関係は増えるため、必然的にミスマッチは減るはずです。

なお、誰と誰が交際関係にあるかは公的ネットで公開されますが、誰が誰に交際を申し込んだか、誰が誰の交際申し込みを断ったかは公的ネット上に公開されません。そのプライバシーは確保されます。

他に、以下のような項目の公開も考慮していいと思います。最終目的は少子化対策なので、次のそれぞれの公開項目については、うまくいかなければやめたりして、調整すればいいでしょう。

 

12、現在交際申し込み中かどうかを公的ネットで公開する

13、過去の交際の経験数を公的ネットで公開する

14、現在受けている交際申し込みの数を公的ネットで公開する

15、過去の交際申し込みを断った回数を公的ネットで公開する

 

これにより「既に交際したい相手がいる」「交際ばかりしているが結婚していない」「競争相手が多い」「交際申し込みを断ってばかりいる」ことが分かり、ミスマッチは減ると期待できます。

公的交際ネット制度の致命的な欠点は「公的交際関係=結婚前の性的関係」と見なされることです。「セックス親バレ制度」「婚前交渉白状制度」「セックス規制」などと批判されることも間違いありません。公的交際関係に慎重になりすぎて、結果として結婚も少なくなったのなら、意味がありません。

しかし、現状のままだと少子化を食い止められないのはほぼ確実なので、パックス制度にしろ、公的交際ネット制度にしろ、改革を断行すべきでしょう。あまり指摘されませんが、「性行為→結婚」の流れが減ったことは未婚率の減少と密接に関係しているはずです。公的交際ネット制度が性行為→結婚の流れを増やし、少子化を食い止める可能性はあるので、考慮してみてはどうでしょうか。

5万円でブラック企業を辞められる!

今朝の朝日新聞を読んで驚愕したので、ここにも書いておきます。わずか5万円でパワハラ上司とオサラバできる素晴らしい仕事が現代日本に存在していました。こちらからは会社側に一切連絡することなく、次の日から職場に行かなくていい、という涙が出るほど嬉しい仕事をたった5万円でしてくれます! アルバイトなら、さらに割安で3万円らしいです。

記事は「退職代行は法律事務にあたり、弁護士資格なしではしていけない。会社を辞めるときに未払いの賃金があれば、それを支払わせるのは正当な権利だ。弁護士のない者が担当したら、それがウヤムヤになる」なんてトンチンカンな批判が載っています。ブラック企業を辞める時なんて、誰もが「未払いの給与なんてどうでもいいから、今すぐ縁をスッパリ切りたい」と考えているはずです。少なくとも、私と私の周りのブラック企業経験者は全員、そうでした。

ただし、記事にはこうもあります。この「非弁行為」を問題視するITJ法律事務所は、なんと1万9900円で退職代行サービスをしてくれるそうです。「わずか2万円で明日から仕事に行かなくていい。しかも未払い賃金までもらえる」なんて、日本中のブラック企業従業員が利用したいのではないのでしょうか。残念ながらITJ法律事務所は東京にしかないようです。こんな社会的価値の高い仕事は日本中の法律事務所で行ってほしいです。

このブログを読む人の中には、今もブラック企業で精神を蝕んでいる人がいるでしょうから、ぜひとも知っておいてください。

ルールの存在意義を日本人は考えるべきである

私「なぜいけないんですか?」

相手「そういうルールだからです」

私「でも、そのルールは〇〇のためですよね。この場合、〇〇ではないんですから、いいじゃないですか」

相手「……。ルールには従ってください」

前回の記事にも書きましたが、こんな経験は日本だと非常に多いです。海外でもお役所なら、こんな経験は少なくありませんが、日本は日常いたるところにあり、お役所ならさらに多いです。ほぼ全ての日本人がうんざりしている習慣でしょう。これでは制度からはみ出してしまう社会的弱者を救済できない傾向にもなってしまうので、一人ひとりの日本人が意識的に対処して、特に上司たちはルール外の適切な対応を許すべきです。

つい先日も、海外では一般的な出産翌日の母児退院を私が希望した時に、上のようなやりとりがありました。同じ不満を持った女性があるHPに「海外だと翌日退院『してもいい』なのに、日本だと7日間入院『しなければならない』だった」と書いてありました。全く同感です。

「日本人は自分で考える力がない」と外国人に思われる大きな理由の一つも、存在意義を考えずに、ただルールに従っていることにあります(断定します)。もっとも、日本でも本当に活力のある団体なら、ただルールに従っているのではなく、その存在意義まで考えて、臨機応変に対処しているはずです。「ここではとにかくルールに従わせようとする」とよく思うのなら、その組織に活力はないでしょう。もっとも、以前の慣れ親しんだルールに固執して、「新しいルールに従う意味が分からない」という不平なら、無視していい場合もあるとは思います。

融通をきかせられない事務仕事ならコンピュータ化すべきである

本籍制度は即刻廃止してください。マイナンバーがある今、本籍の存在意義など全くなく、無駄な手続きが増えるだけです。

先日、私は結婚したため、本籍地が変更になりました。いくつかの私の資格証には本籍地が記載されていたらしく、いちいち変更する必要がありました。例によってお役所仕事なので、平日昼間に役所に行かないと変更手続きができません。「2019年ではID代わりに住所を記入している 」にも書いたように、(なぜ自宅のコンピュータで土日の夜に変更手続きができないのか)と思いながらも、そうせざるを得ない仕組みになっているので、仕方なく役所に行きました。

今回の本題はここからです。役所で手続きしようとすると、私が持ってきた書類に不足があることが分かりました。

私「では、後で郵送させてもらいます」

役人「郵送は受けつけていません。もう一度持ってきてください」

私「え! 今日中にもう一度来る時間なんてありません。今度の休みになると、変更期限を過ぎてしまいますよ」

役人「変更期限を過ぎてもいいので、もう一度来てください」

私「はあ?」

そこで怒った私が発した言葉がタイトル文の「融通をきかせられないなら、あなたの人件費なんて税金の無駄ですよ! さっさとコンピュータ化してください!」になります。それでも相手の役人が本籍地の必要性を訴えたので、私はさらに怒鳴りました。

「期限すぎても問題ないような手続きなら、その手続き自体しなくてもいいでしょう! そもそも資格証明書は、その人の能力を示すために存在するんじゃないんですか。小学生でも分かる質問しますよ。医学知識はないが医師免許を持っている人と、医学知識はあるけど医師免許を持っていない人なら、どっちが医療行為をする資格がありますか! こんな本籍地がどうであろうと、私は私なんですよ!」

なぜ情報に振り回されるのか

このブログで何度も指摘していることですが、日本人は大卒でも科学的思考が確立されていない人が少なくありません。だから、福島で原発事故が起こった時でも、怪しい情報に流されて軽挙妄動に走った日本人は多くいました。当時の公的情報に多くの間違いやごまかしがあったのは事実ですが、だからといって「どれが本当の情報か分からない」と日本全体がパニックのようになってしまったのは残念です。

偉そうに書いている私も原発事故前までは「原子力は使用済み核燃料の最終処分場がないなどの欠点はあるが、他の発電だって欠点はある。発電費用が他より圧倒的に安い長所は重視すべきだ。日本は唯一の被爆国だから事故を極端に怖がっているが、なにごとも慎重に物事を進める日本でメルトダウンが起こる確率なんて、富士山が噴火する確率よりも遥かに低いだろう」と考えていました。

現在は、「原子力発電に関わる人たちが慎重に物事を進める」ことも「原子力の発電費用が他より圧倒的に安い」ことも、完全な誤解だったと知っています。「電力と政治」(上川龍之進著、勁草書房)を読んだからです。

原発推進派にしろ原発反対派にしろ「電力と政治」(上川龍之進著、勁草書房)は読まなければいけない本です。「原発推進派の自民党が政権とっているのに、なぜ稼働していない原発の方が多いのか」、「日本人の過半数原発ゼロにしたがっているのに、なぜ原発はなくならないのか」という疑問も氷解していくでしょう。ただし、この本は値段が高く、上下巻にも分かれているので、読み通すのは難しいかもしれません。しかし、「原発の情報に振り回されたくない」と思っている人なら、図書館で借りてでも、ぜひ読んでほしいです(私も図書館で借りて読んでいます)。

「情報に振り回されて困ってしまう」と思いがちな人(私を含む)は、中途半端に情報を収集しているから、そうなってしまうのでしょう。既に分かっている事実を十分に収集していけば、「どうすべきか判断が難しい」と思うことはあっても、「情報に惑わされる」ことはないはずです。少なくとも事実無根の意見に振り回されるたりはしないでしょう。

西洋式討論術」にも書いたように、まず事実と意見は明確に区別すべきです。また、「分かっていない」状態と、「『分かっていない』と分かっている」状態は違います。もし「その事実の正誤はまだ明確でない」のに、「その事実が正しいと断定して意見を言っている」のなら、その「意見」も正しくないはずです。

科学的思考というと数学や理科を思い浮かべるかもしれませんが、科学的思考は自然科学だけでなく文系でも必須です。

十分な事実を収集して、科学的思考を身につければ、情報に振り回されることはないはずです。

帝王切開で不妊が増える

タイトルの知識は医療者なら当然持っているものだと私は思っていましたが、「そんなことはない」と否定する産科医がいて、唖然としました。産科看護師はもちろん、助産師すらも、こんな基本的な知識を持っていない人ばかりで、愕然としました。こちらのガイドラインにある通り、帝王切開は自然分娩と比べて、不妊が46%も上昇し、死産が123%も上昇します。

下のグラフの通り、平成からの20年間で帝王切開率は2倍に上昇しています。高齢出産が増えたとはいえ、ここまで増えるのは、不必要な帝王切開が増えたとしか考えられません。

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帝王切開率が上昇しているのは世界的な傾向で、西洋では自然分娩できる妊婦にまで金儲けのためか、病院が「帝王切開にしますか?」と提案するそうです。WHOは帝王切開率を10~15%にするように勧告まで出しています。帝王切開は母体への悪影響が大きいからです。

先日、私の妻が初産にもかかわらず、予定日前に帝王切開を提案されました。理由は「胎児の頭が大きい」ためです。確かに頭位は1.2SD(偏差値62)と大きかったのですが、母体の骨盤が大きければ、なんの問題もありません。しかし、母体の骨盤の大きさは調べてすらいませんでした。それで次の妊娠が難しくなる帝王切開を提案するなどありえない、と思い、私も妻の次の受診に同伴しました。X線で調べてみると妻の産科真結合線の大きさは16.5㎝(ただし、この産科医は破滅的なヤブ医者で、実際は解剖真結合線を測っていました)もあり、児頭骨盤不均衡には全くあてはまりません。これで帝王切開の話は流れる、と思ったら、今度は児頭があまり下がっていないこと、GW連休中になにかあったら麻酔科医がいないことを予定帝王切開する理由にあげてきました。

(なにかあったら麻酔科医がいようがいまいが、帝王切開するだろう。麻酔科医がいないくらいのリスクは、こちらで受けるよ。なにより、子どもはずっと順調に大きくなってきたし、心拍数は安定しているし、体動は十分ある。帝王切開になる確率そのものが低いから、そんな心配する必要性も低い。それよりも帝王切開して、次の子どもが生まれないリスクの方が遥かに心配だ)

そう思いながら、「帝王切開すると、次の子どもが生まれないかもしれないので、心配なんです」と告げると、「そんなことはない」という信じられない返答が来たので、この記事を書くことになりました。

私が「海外ではこうだ」という話をすると、その産科医は「海外のことは知りません。私の経験からはそうです」と平然と言ってのけました。医学は科学です。エビデンスレベルで専門家の意見は最低ランクの6です。海外のエビデンスレベル2bより、自分の経験を優先するなら、その人の医療は科学ではないので、医療行為をする権利はないと私は思います。

ところで、その50代の女医が帝王切開の待てるタイムリミットとして指定したのは、妊娠41週6日でした。正期産の最終日までに自然分娩できなければ、帝王切開すると言ってきたのです。これも世界的な傾向ですが、産科医が過期産を必要以上に恐れているせいで、過期産は減少しています。下のグラフでは、日本での過期産が3%となっていますが、海外では7~10%程度で、もともと日本では過期産を無理矢理抑制していました。最近はさらに帝王切開を使ってでも、少なくしています。f:id:future-reading:20190503093538j:plain

しかし、早産と比べれば、過期産はそれほど危険なお産ではありません。

 

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まして、日本のように、出産予定日前後から1週間に何回も母体と胎児の検査をしているのに、42週程度で帝王切開する必要性は低いでしょう。子宮収縮薬を使ったり、バルーンで子宮口を広げたりして、自然分娩を誘発する方がよほど安全です。

あまり知られていないかもしれませんが、産婦人科は外科系です。外科医たちは自覚がないようですが、どうしても外科医は手術を選択しがちです。「専門家の言うことだから」と帝王切開を選択して、その後に子どもができにくくなった人は決して少なくないはずです。それを知らずに帝王切開して次から子どもができなかったら、後悔しても、しきれないでしょう。私の妻もヤブ産科医の言葉に流されそうになっていましたが、帝王切開して、次の子どもができなかったとしたら、私は離婚していたかもしれません。

なお、私の妻は、ヤブ産科医の見立てと違って、40週4日で無事に自然分娩しました。子宮収縮薬も吸引分娩も使っていません。

葬送の自由

「これからの死に方」(橳島次郎著、平凡社新書)は私の蒙を啓いてくれた本でした。何ヶ月かに一度、こういった本に出会えます。「浮浪児1945を読んで」にも書いたように、このような日本語の本の存在が(日本も捨てたものではない)と私に希望を与えてくれます。

この本では、「通夜、告別式、埋火葬、墓石の建立、墓参りと法事という一連の流れは、いずれも明治以降に都市部や一部の階層から始まって、第二次大戦後から高度成長期にかけて普及した新しい伝統」という歴史的事実が示されています。日本の長い歴史のほとんどでは、死後、木の塔婆を立てるだけだったり、小さい自然石を置いたりする程度でした。この古い本来の習俗が、第二次戦後に急速になくなっていき、結果、広大な墓地を確保しようとするあまり、緑地が開拓され、環境破壊が進んでいます。

七五三、ひな祭りなどもそうですが、教養はないが親戚に恵まれたおかげで幸せな人生を送れている保守的な人たちから「由緒ある伝統」と思われている習慣が、しばしば、第二次大戦後にできた歴史の浅い伝統だったりします。

この本では「葬送の自由が制限されている」という論点があります。日本に限りませんが、死後といえども、遺族が人間の体を好き勝手にしていいわけではありません。法律上、人間の死体や遺体を不適切に傷つけたり、捨てたりすれば、死体損壊罪や死体遺棄罪に問われてしまいます。また、東京や大阪や名古屋などでは、土葬を禁止した条例があるので、土葬をすると違法になってしまいます。1991年に「葬送の自由をすすめる会」が当局に法規制を慎重に確認した後、神奈川県相模灘の沖合で遺灰をまくまで、遺灰をまくことが合法かどうか日本では不明でした。それまでは遺体遺棄罪として逮捕される恐れがあるので、遺灰をまくことは日本で自由にできなかったのです。「火葬後に遺灰をまきたい」と頼んでも10年前までは、どの業者も断っていました。

この本で興味深いことは、「自由を求める運動が認められると、他の自由を制限する運動に変わることがある」という指摘です。上記の「葬送の自由をすすめる会」の少なくない人たちは、火葬後に遺骨を引き取らない「0葬」を遺体の冒涜と考えて、反対しているようです。ただし、著者の言うように「自分の自由を認めてほしいなら、他の人の自由も認めなければならない」はずです。「遺灰をまく自然葬をする自由はあるが、0葬をする自由はない」とは言えないはずです。

こうなると、そもそも自由とはなんなのか、という議論にもなってきて「葬送の自由が日本国憲法にあるどの自由にあたるのか」についてまで、本では検討しています。その考察はここで省略しますが、間違いなく、ここでは亡くなった人の意思と、葬送をする人たちの意思が問題になってきます。亡くなった本人以外の意思が問題になるのは、葬送は必ず本人でない人にしてもらう儀式だからです。もっと踏み込めば、本人の遺体処理の責任を負わされる人たちの意思こそが重要で、もうこの世にいない本人の意思は無視していい、という意見だってありえます。実際、日本の法体系では死者の意思能力は認められていないので、素直に解釈すると、そうなります。フランスでも、火葬が普及して遺灰の入った骨壺をゴミ捨て場や地下鉄の構内に放置したりする者が増えて社会問題化してから、「亡くなった人の遺骸は敬意と尊厳と礼をもって扱わなければならない」という民法の条文が2008年にできました。それまでは、遺灰を粗末に扱っても違法でなかったのです。

「これからの死に方」は私を啓蒙してくれた本ですが、この本の主張する「葬送の自由を認めるべきである」という意見に、私は反対です。その理由を述べる前に、この本の大きな欠点を指摘しておきます。本では「自由」という言葉が多用されているわりに「自由の社会的負担」、もっとありていにいえば、「お金の問題」がほぼ無視されています。

たとえば、「土葬をする自由は受け入れられるか」という小題があります。2013年の統計で、132万人の死者数に対して、土葬はわずか378件で、土葬の6割は胎児だそうです。日本の火葬率は99.97%で、世界一高いようです。上記のように条例で土葬を禁止または制限している地域もありますが、土葬を制限していない地域も多くあります。そういった地域でも伝統的な土葬が消滅していったのは、土葬が火葬よりも多くの人手を要するからです。結果、現在の日本で土葬を実現させるのは、非常に難しくなっています。

しかし、この事実から「土葬する自由がない」とは言えないはずです。それこそ「自由」の定義が間違っています。法律で一律禁止しているなら、確かに自由はありません。ただし、「人手がかかるから土葬が自然消滅して、その実現が難しくなった」のなら、お金さえあれば、人手を集めて実現できます。条例で禁止されているのなら、禁止されていない地域までいって、土葬してもらえばいいだけです。「どうしてもこの場所で土葬してほしい」自由は制限されてしまいますが、「どうしてもこの場所(例えば公園)に家を建てたい」という自由も当然制限されることから考えれば、仕方ないでしょう。だから、現在の日本でも、土葬の自由はありますし、受け入れられています。需要が少なくなって、その費用が高くなったのは、経済の摂理であり、やむを得ません。フランスのように、公費を使ってまで、葬送処理をすべきと私は考えません。

「寺院消滅」(鵜飼秀徳著、日経BP社)という本を私は読んだことがあります。他にも、神社が少なくなっていくことを嘆いている本も読みました。新聞などで、そういった記事が散見されるようにもなっています。率直に言って、それのなにが問題なのか、私にはさっぱり分かりませんでした。それだけでなく、それらの本や記事は「これは大問題である。日本人のあなたなら、当然分かるはずです」という前提で書かれていることが透けて見えて、嫌悪感さえありました。近所のスーパーがなくなって、遠出もできない高齢者たちが生きづらくなっている方がよほど問題だ、としか思えませんでした。しかし、「これからの死に方」を読んで、ようやく上記の本や記事の著者たちが、なにを訴えたかったのか理解できたように思います。ここまで根本から葬送について記述してくれると、葬送のない文化から来た外国人でも(そんな文化があるのかどうか知りませんが)、葬送の重要性を理解できるでしょう。

この本の最後に、このような主張があります。

「個人を尊重した話し合いで、死後のことも決めていく姿勢を育てる生涯教育を充実させるべきだろう。流行の『終活』が個人の覚え書きや一方的な遺言の代わりを作って終わりにするのではなく、残される者との対話も含む方向に発展していくことを望む」

生涯教育を充実させるべき、という点には強く同意します。そして、生涯教育を充実させるべきなのは、葬送についてだけではないはずです。