未来社会の道しるべ

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葬送の自由

「これからの死に方」(橳島次郎著、平凡社新書)は私の蒙を啓いてくれた本でした。何ヶ月かに一度、こういった本に出会えます。「浮浪児1945を読んで」にも書いたように、このような日本語の本の存在が(日本も捨てたものではない)と私に希望を与えてくれます。

この本では、「通夜、告別式、埋火葬、墓石の建立、墓参りと法事という一連の流れは、いずれも明治以降に都市部や一部の階層から始まって、第二次大戦後から高度成長期にかけて普及した新しい伝統」という歴史的事実が示されています。日本の長い歴史のほとんどでは、死後、木の塔婆を立てるだけだったり、小さい自然石を置いたりする程度でした。この古い本来の習俗が、第二次戦後に急速になくなっていき、結果、広大な墓地を確保しようとするあまり、緑地が開拓され、環境破壊が進んでいます。

七五三、ひな祭りなどもそうですが、教養はないが親戚に恵まれたおかげで幸せな人生を送れている保守的な人たちから「由緒ある伝統」と思われている習慣が、しばしば、第二次大戦後にできた歴史の浅い伝統だったりします。

この本では「葬送の自由が制限されている」という論点があります。日本に限りませんが、死後といえども、遺族が人間の体を好き勝手にしていいわけではありません。法律上、人間の死体や遺体を不適切に傷つけたり、捨てたりすれば、死体損壊罪や死体遺棄罪に問われてしまいます。また、東京や大阪や名古屋などでは、土葬を禁止した条例があるので、土葬をすると違法になってしまいます。1991年に「葬送の自由をすすめる会」が当局に法規制を慎重に確認した後、神奈川県相模灘の沖合で遺灰をまくまで、遺灰をまくことが合法かどうか日本では不明でした。それまでは遺体遺棄罪として逮捕される恐れがあるので、遺灰をまくことは日本で自由にできなかったのです。「火葬後に遺灰をまきたい」と頼んでも10年前までは、どの業者も断っていました。

この本で興味深いことは、「自由を求める運動が認められると、他の自由を制限する運動に変わることがある」という指摘です。上記の「葬送の自由をすすめる会」の少なくない人たちは、火葬後に遺骨を引き取らない「0葬」を遺体の冒涜と考えて、反対しているようです。ただし、著者の言うように「自分の自由を認めてほしいなら、他の人の自由も認めなければならない」はずです。「遺灰をまく自然葬をする自由はあるが、0葬をする自由はない」とは言えないはずです。

こうなると、そもそも自由とはなんなのか、という議論にもなってきて「葬送の自由が日本国憲法にあるどの自由にあたるのか」についてまで、本では検討しています。その考察はここで省略しますが、間違いなく、ここでは亡くなった人の意思と、葬送をする人たちの意思が問題になってきます。亡くなった本人以外の意思が問題になるのは、葬送は必ず本人でない人にしてもらう儀式だからです。もっと踏み込めば、本人の遺体処理の責任を負わされる人たちの意思こそが重要で、もうこの世にいない本人の意思は無視していい、という意見だってありえます。実際、日本の法体系では死者の意思能力は認められていないので、素直に解釈すると、そうなります。フランスでも、火葬が普及して遺灰の入った骨壺をゴミ捨て場や地下鉄の構内に放置したりする者が増えて社会問題化してから、「亡くなった人の遺骸は敬意と尊厳と礼をもって扱わなければならない」という民法の条文が2008年にできました。それまでは、遺灰を粗末に扱っても違法でなかったのです。

「これからの死に方」は私を啓蒙してくれた本ですが、この本の主張する「葬送の自由を認めるべきである」という意見に、私は反対です。その理由を述べる前に、この本の大きな欠点を指摘しておきます。本では「自由」という言葉が多用されているわりに「自由の社会的負担」、もっとありていにいえば、「お金の問題」がほぼ無視されています。

たとえば、「土葬をする自由は受け入れられるか」という小題があります。2013年の統計で、132万人の死者数に対して、土葬はわずか378件で、土葬の6割は胎児だそうです。日本の火葬率は99.97%で、世界一高いようです。上記のように条例で土葬を禁止または制限している地域もありますが、土葬を制限していない地域も多くあります。そういった地域でも伝統的な土葬が消滅していったのは、土葬が火葬よりも多くの人手を要するからです。結果、現在の日本で土葬を実現させるのは、非常に難しくなっています。

しかし、この事実から「土葬する自由がない」とは言えないはずです。それこそ「自由」の定義が間違っています。法律で一律禁止しているなら、確かに自由はありません。ただし、「人手がかかるから土葬が自然消滅して、その実現が難しくなった」のなら、お金さえあれば、人手を集めて実現できます。条例で禁止されているのなら、禁止されていない地域までいって、土葬してもらえばいいだけです。「どうしてもこの場所で土葬してほしい」自由は制限されてしまいますが、「どうしてもこの場所(例えば公園)に家を建てたい」という自由も当然制限されることから考えれば、仕方ないでしょう。だから、現在の日本でも、土葬の自由はありますし、受け入れられています。需要が少なくなって、その費用が高くなったのは、経済の摂理であり、やむを得ません。フランスのように、公費を使ってまで、葬送処理をすべきと私は考えません。

「寺院消滅」(鵜飼秀徳著、日経BP社)という本を私は読んだことがあります。他にも、神社が少なくなっていくことを嘆いている本も読みました。新聞などで、そういった記事が散見されるようにもなっています。率直に言って、それのなにが問題なのか、私にはさっぱり分かりませんでした。それだけでなく、それらの本や記事は「これは大問題である。日本人のあなたなら、当然分かるはずです」という前提で書かれていることが透けて見えて、嫌悪感さえありました。近所のスーパーがなくなって、遠出もできない高齢者たちが生きづらくなっている方がよほど問題だ、としか思えませんでした。しかし、「これからの死に方」を読んで、ようやく上記の本や記事の著者たちが、なにを訴えたかったのか理解できたように思います。ここまで根本から葬送について記述してくれると、葬送のない文化から来た外国人でも(そんな文化があるのかどうか知りませんが)、葬送の重要性を理解できるでしょう。

この本の最後に、このような主張があります。

「個人を尊重した話し合いで、死後のことも決めていく姿勢を育てる生涯教育を充実させるべきだろう。流行の『終活』が個人の覚え書きや一方的な遺言の代わりを作って終わりにするのではなく、残される者との対話も含む方向に発展していくことを望む」

生涯教育を充実させるべき、という点には強く同意します。そして、生涯教育を充実させるべきなのは、葬送についてだけではないはずです。