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地震予測は役に立たない

地震学をつくった男・大森房吉」(上山明博著、青土社)によると、「かつて国民の多くから敬愛され、世界の人びとから『地震学の父』と称揚され、1916年には日本人初のノーベル賞候補となった大森は、1923年の関東大震災を予知できなかったため、『無能な地震学者』と罵られ、その責任と非難を一身に背負ったまま震災から2か月後に急逝した」そうです。

私の知識でも、この文に間違いを指摘できます。wikipediaの「日本人のノーベル賞受賞者」にあるように、1901年の第1回から北里柴三郎野口英世などがノーベル賞候補になっているはずです。本では「大森は世界に誇るべき偉大な地震学者なのか、それとも関東大震災を予知できなかった無能な地震学者だったのか」と両極端な二者択一になっていますが、普通に考えて、その2つの事実を持つ人物との評価が妥当でしょう。それまで音速程度と漠然と考えられていた地震波(P波とS派)の伝達速度を統計的に求めて、初期微動継続時間の長さから震源地までの距離を推測する大森公式は、日本の中学理科の教科書に必ず載っている金字塔です。

生存中の大森は日本だけでなく世界の地震学を牽引していました。1906年4月にサンフランシスコで大地震が起きた後、余震が続き、さらなる大地震の前触れではないかと恐れる地元の人々に対して、「今後2,30年間は激震が起こることはない。今度の震災はペルーおよびチリにあると予想される」と現地調査していた大森が発言しました。地元紙にはその大森発言が大森の写真付きで、大きく報道され、地元民の心の安定に寄与しています。さらに同年8月17日、チリ沖でマグニチュード8.6の大地震が起きて、世界中の人たちが大森の予想が当たったことに度肝を抜かれます。

今では考えられないことですが、当時、地震報道は、大森のいる東大の地震学研究所がマスコミ発表≒公式発表していました。現在のように気象庁(当時は中央気象台)が地震のマスコミ発表するようになったのは、大森の部下にしてライバルの今村が教授を退官した1931年からです。

この今村明恒は、大森の人生の話になると、必ずセットで出てくる人物です。以下、上記の本を読む前に私が把握していた大森と今村のライバル関係について、簡単に記します。

1915年、今のwikipediaにも載っていないマグニチュード6.0の地震が関東で起こり、その後も余震が続き、大地震の前触れではないか、という噂が東京中に沸き起こります。それに対して東大地震助教授の今村が「関東にはいつ大地震がきてもおかしくない。通常は万に一つだが、今回の地震群を考慮すれば、100に一つくらいには注意すべき」と新聞で発表し、教授の大森の逆鱗に触れます。大森は今回の地震群が大地震の前震ではないと断言し、市中の人たちに無用な心配を煽った、と今村を強く叱責したそうです。大森の予想通り、1915年に大地震は起きず、今村は研究室内でも世間からも「大ぼら吹き」の誹りを受けます。今村はいずれ関東に大地震が起きると確信していたので、「自分が死んだ後に関東に大地震があったら、自分の墓標に『関東に大地震あり』と刻んでくれ」との遺言を残していたほどです。しかし、その遺言は実行されませんでした。今村が生きている1923年に、今村の予言通りに関東大震災が発生したからです。

今後数十年間は関東に大地震が起きないと確信していた大森は、関東大震災発生時、オーストラリアの学会に出席していました。東京で大地震が発生したと知り、大慌てで日本に戻り、「今度の震災につき自分は重大な責任を感じている。叱責されても仕方ない」と今村に語り、失意と悔悟のうちに2か月後に亡くなります。大森の後、「関東大震災を予知した天才」である今村が当然のように地震学の教授に就任します。

このような私の知識は、本を読んで、単純すぎることを知りました。1915年の今村の発言も、生涯を通じた大森の発言も、科学的には間違っていません。今村の新聞での発言も、上記の物語では今村に反論した大森の新聞での発言も、関東で大地震がいずれ起こると認め、そのための準備が必要と当たり前のことを述べている点で一致しています。両者が論争していたとは、新聞を読むだけではまず分かりません。おそらく、当時の東京の大衆も、東大地震学の教授と助教授が論争しているとは知らなかったはずです。1915年に大地震が起こらなかったので、地震学会という小さい世界では、今村が大ぼら吹きと批判されたでしょうが、一般大衆は今村の予想がはずれたとは考えなかったはずです。今村は100に1で大地震が起こると言っているので、100に99の大地震なしの方になったのなら、むしろ当たっているからです。さらに、大森が関東大震災を予知できなかったとの通説も間違っている、と上記の本は強調しています。大森は関東大震災の直前に、発生時期はともかく、関東での大地震を予想していた証拠を、その証拠を見つけた経緯と労力まで示して、詳述しています。実際に読めば明らかなのですが、この本は「大森は関東大震災を予想していた」「大森は無能でない」ことを証明するためだけに書かれたようなものです。

また、大森も今村も大地震が発生する正確な年月日までは予知できない、という点でも一致していました。

関東大震災の正確な発生日まで予知できなかったのは当然でしょう。現在の科学でさえ、予知できていません。

大森時代を含めて、世界で初めての地震学会設立以来、日本は地震学を先導してきました。地震の前兆現象をとらえるために全地球衛生測位システム(GNSS)や地殻岩石歪計(strainmeter)など、さまざまな計測機器を日本列島全域に設置して、世界に他に例のないほどの地震観測システムの構築を行っています。

国土地理院によるGEONET防災科学技術研究所によるHi-net、総理府地震調査研究推進本部によるKik-netなど、さまざまな機関で毎年およそ100億円を上回る予算が割かれ、2011年までに3千億円以上の巨費を投じています。全ては地震予知と防災対策のためです。

しかし、日本の観測史上最大のマグニチュード9.0の東日本大震災を、日本の地震学者たちは予知できませんでした。地震学者が想定していた前兆すべりなどのプレート境界面で起こる顕著な前兆現象を、上記の世界最高の観測網がなに一つとらえられなかったからです。

本によると、2012年9月25日のイタリアの裁判が、日本の地震学者たちに大震災に匹敵するほどの衝撃を与えています。2009年に起きたイタリアの群発地震が起きている際、十分な検討をすることもなく、必要な警報を出すことを怠ったために309人が死亡し、6万人以上もの被災者を出した罪で、イタリア地震委員会の7人全員に禁固6年の有罪判決が下ったのです(二審で、証拠不十分として6人に無罪、1人に執行猶予つき禁固2年の有罪判決となる)。

その判決から1か月もしない2012年10月17日、日本地震学会会長は「地震予知は困難」と公式に発表します。「地震予知を行うことを前提に永年にわたって潤沢な研究予算を得てきた当の地震学者が、地震予知の可能性をみずから否定することは、科学者としての責任を放棄し、国民の期待を裏切ることに他ならない」と本は書いています。

地震学会はその後、「地震予知決定論的予知)」という言葉は使わず、「地震予測(確率論的予測)」のみ使っているそうです。

私も、その地震学会の見解に同意します。地震が正確にいつ起こるかは予想が極めて難しい(不可能とまでは断定しません)が、確率的には予想できるのでしょう。つまり、大森と今村の地震論争の時代と、そう変わっていません。

確率的な地震予測くらいなら、莫大な予算を使わなくても、難しい学問を習得しなくても、簡単にできます。地震が頻発する日本で、大地震が発生する確率が高いのは、プレートテクトニクス学説のない大森・今村時代から、日本人なら誰でも分かっていました。学者たちが考えに考え抜いて、30年以内に90%の確率で大地震が起きると言っても、あまりに期間が長いので、実生活ではほとんど役に立ちません。有用であるためには、せめて1年以内にすべきです。しかし、東日本大震災ほどの大地震すら、日本地震学会は1日前にも予知できませんでした。もちろん、2024年の能登半島地震も、1日前に予知できていません。

それが現在の科学の限界だ、と多くの日本人は知るべきだと考えます。

本には、日本地震学会が2009年に編纂した「地震学の今を問う」にある大木聖子東大地震学研究所の1049人の無作為のインターネット調査を載せています。「あなたが地震研究にもっとも期待することはなんですか」の答えの1位は52.2%「地震予知」で、2位20.8%の「住んでいる地域の被害予想」に大差をつけています。

こんな結果が出る時点で、地震学会の失敗だと考えます。「地震予知は困難」と地震学会が発表したのは、イタリアの有罪判決に影響を受けたにせよ、妥当だったと私は考えます。「地震予知は困難」と一般の周知させることは、地震学会の重要な使命の一つだと考えます。さらにいえば、「現代の科学では、地震予測はほとんど役に立たない。地震予測のための莫大な予算も不要だ」も地震学会が周知させるべきと考えます。

最後に、日本地震学会が「地震予知が困難」と発表する前の民間企業のテレビCMを貼っておきます。

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東日本大震災は誰も予知していなかったのか」に続きます。