未来社会の道しるべ

新しい社会を切り開く視点の提供

全共闘という日本の黄金時代

「日本人がデモするなど想像できない」

日本に何年も住んでいる外国人から、こう言われたことが私は一度ならず、あります。日本人は体制に従順で、周りと同じように行動し、ルールはどんな理由があっても守らなければならず、年上や先生や上司への発言は、その内容がなんであれ「口答え」と見なされ道徳的にも許されない、と外国人たちは考えていました。

私も中高生の頃、このような日本に失望、あるいは絶望していました。1990年代当時、日本にも反抗する若者は多くいましたが、倫理観の崩壊した不良(ヤンキー)どもでした。私とは全く合わず、むしろ私が最も嫌う連中です。「良識な大人」が「反抗する若者」を厳しくするのは当然で、むしろ、もっと厳しくするべきだと私は信じていました。「反抗する若者」だが、「反抗する正当な理由がある若者」と私が考えられえる人など、私の周りに、私以外に一人もいませんでした。

それがうぬぼれ、自己満足、自分勝手、自己中心であることは、いくらプライドの高い私でも分かりました。というより、周りから言われ続け、ほぼ強制的に認めさせられました。周りからどんなに批判されても、自分が正しいと思ったことを貫き通すなど、本では理想と推奨されていても、日本では無理でした。少なくとも、能力も意思も伴わない私には無理でした。

だからこそ、全共闘という時代があり、「造反有理(違反をする者には理由がある、という意味の毛沢東の言葉)」「帝大解体」と東京大学の門に大きく書かれていた時代があると知り、私は人生で後にも先にもないほど知的に興奮しました。

全共闘の熱狂」に続きます。