未来社会の道しるべ

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全共闘の思想的敗北

前回の記事の続きです。

全共闘は思想的にも負けていたと私は考えています。当時の大学や自民党に問題が多くあったのは事実です。だから、大学当局や政治に反抗するのは確実に正当性があります。しかし、それにしても「この要求は横暴だ」「その理屈は飛躍しすぎだ」「ベトナムの平和が目的なら、大学で議論しても仕方ない」という点が、全共闘学生運動)側に多すぎでした。

大学当局と全共闘の話し合いも、学生による大学教職員のつるし上げになることが普通でした。あれでは建設的な議論など不可能です。全共闘運動は(よりにもよって文革中の)毛沢東を理想とすることが多かったように、全共闘の思想的敗因は「文化大革命 の思想的敗因と似ているように考えます。

「平和」「学生自治」「議論による解決」などの理念は素晴らしいのですが、個別具体的な話になると、全共闘内でも議論百出で、まとまらないことが多々あり、結局、威勢のいい過激な意見が通ることも少なくありませんでした。

私の個人的な経験から述べます。よど号グループが「そして、最後に確認しよう。我々はあしたのジョーである」という言葉を残したのは、体育会系が思想的に嫌いな私には同意できませんでした。さらに、1990年代の朝日新聞に「全共闘系の学生と、そうでない学生たちは一緒に同窓会を開けなかった」という記事がありましたが、元全共闘学生たちが同窓会を開く時点で、私は失望しました。また、「帝大解体」と学歴社会に反対していたはずなのに、山本義隆含む多くの元東大全共闘の闘士たちが学歴社会を先導している予備校講師になっていたことも違和感がありました。「全共闘白書」(全共闘白書編集委員会編、新潮社)に、元日大全共闘代表の秋田明大はアンケートで全共闘運動を「アホらしい」と書いていますが、私もそれに同意するようになってきました。

一方で、大学当局には優秀な人もいました。特によく挙げられるのは、東大紛争時に東大総長になった加藤一郎です。全共闘側の代表である山本義隆は「知性の反乱」(山本義隆著、前衛社)で加藤の前任の大河内一男はクソミソに批判していますが、加藤は批判していません。

東大安田講堂に攻め込んだ警察官による「東大落城」(佐々淳行著、文藝春秋)からの引用です。

ある時、警察の佐々と加藤が雑談していると、総長に気づいた学生集団が加藤を呼びつけ、議論に加わるよう要求してきます。佐々の制止を無視して、加藤が学生集団の中に入ると、いつものような総長つるし上げが始まります。暴力事件が起こるのではないか、とハラハラしている佐々をよそに、加藤は冷静に理路整然と学生たちの議論に応じます。最後には、やはり、「帰れ! 帰れ!」のシュプレヒコールとともに、加藤が学生集団から追い出され、一人とぼとぼ佐々の元に戻ってきます。佐々が「総長に向かって、帰れ、とは呆れますね」と言うと、加藤はなに食わぬ顔で「いや、あれは最近の学生言葉で、さようなら、という意味なんですよ」と答えたそうです。

加藤は総長に選ばれた理由を問われると、必ず「東大には学部に順番がありまして、法学部が1番なんですよね。前総長が辞職したので、一番の学部である法学部長だった私が総長になったのです」と説明しましたが、100%嘘です。この東大紛争を切り抜けられるのは、加藤しかいない、と誰もが考えたからこそ、加藤を選んでいます。加藤もそれを知らないはずがないのに、死ぬまでとぼけ続けました。

国会開設の詔以後の1880年代の自由民権運動は、実質的に日本政治を変えなかったものの、その後の日本の民主主義に思想的にはつながるところがあります。しかし、全共闘運動は、実質的に日本政治を変えていないのは言うまでもなく、その後の日本の思想にもなんら良い影響を与えていないと断定していいでしょう。その最大の理由は、全共闘の思想が浅はかだったから、質が低かったから、目的のために反抗しているよりも反抗そのものが目的と化したからだと私は考えています。2000年頃に、全共闘側の文書を読めば読むほど、その気持ちは強くなる一方でした。

次の記事で、私が学生運動に加わらなかった理由について述べます。