未来社会の道しるべ

新しい社会を切り開く視点の提供

全共闘はなぜ失敗したのか

前回の記事の続きです。

日大紛争の1968年9月30日は一つの到達点ではありますが、その1ヶ月前くらいから全共闘側の道徳違反が目立ち始めています。私が大学生だった2000年頃に文献だけを頼りにしても、特に全共闘側が我田引水なので、本質がつかみづらかったです。今のwikipediaの「日大紛争」に要点がまとめられていると思います。

当初は民主的な学生運動が正当性を持ち、一般学生や市民からも支持を得ていたのに、そのうち暴力化、セクト化が進み(中核や革マルなどの党派勢力が増してきて)、正当性を失い、一般学生や市民からの指示を失い、学生運動が沈静化していくのが、日大紛争を含めた、当時の大学紛争の流れです。

より大きな視点で考えます。明治時代から、教養ある大学生たちが共産主義に傾倒する流れがありました。特に最も教養ある学生たちが集まる東京大学は「アカの巣窟」とも呼ばれるほど、戦前から学生運動を主導していました。1960年の安保闘争までは、一部例外はあるものの、新左翼反代々木系)も含めて、学生運動は東大主導だったと考えていいでしょう。しかし、60年安保闘争以後は、全国の各大学で学生運動が活発化し、セクト(党派)化も進みました。特にそれが顕著になったのが、1968年と1969年に全盛期を迎える「全共闘時代」で、この頃に学生運動は日本中で盛り上がり、1880年代前半の自由民権運動さながらの社会運動になります。

全共闘は1970年の日米安全保障条約改定時期に全盛期を迎えるはずでした。しかし、1970年に入る頃には、学生運動は一般学生や市民の支持を失いつつあり、警察側は準備万端でした。70年安保闘争は60年安保闘争と比べて小規模の反対運動しか起こせず、条約締結後に内閣が総辞職することもなく、大したニュースにもなりませんでした。

その後も、全共闘運動あるいは学生運動は「沖縄返還」「成田空港の強制建設」などを理由にそれなりに続きますが、1972年の連合赤軍あさま山荘事件で、とどめをされます。あさま山荘事件そのものではなく、その事件直前に山岳キャンプ内での同士内での連続リンチ殺人が明らかになって、左翼も含めた多くの学生と市民の支持を失いました。なんと29名の連合赤軍メンバー中12名もが、仲間内のリンチによって命を落としていたのです。敵は大学当局や保守系政治家だったはずなのに、なぜ同じ志を持った仲間を殺したのか、と多くの人は失望しました。

なお、上にはあさま山荘事件が「とどめ」と書きましたが、新左翼セクト同士の内ゲバは、その後に最悪期を迎えます。だから、1970年代を通じて学生運動はある程度続き、暴力化とセクト化もさらに進み、1990年代に「学生運動」が「学生」から孤立してしまうまで衰退していきます。全共闘の失敗理由は自滅と総括できるかもしれません。

全共闘の思想的敗北」について、次の記事でさらに論じます。