未来社会の道しるべ

新しい社会を切り開く視点の提供

フェアトレードの偽善性

先進国で売られている多くの製品は、発展途上国の人たちの労働によって作られています。先進国を豊かにしている物が、先進国では許されないほどの劣悪な労働条件で、先進国よりも桁違いに安い賃金で、先進国の生活を享受できない人たちによって、作られているのです。これはあまりに理不尽です。だから、発展途上国の人たちに適正な賃金を与えるようと、フェアトレード運動は生まれました。労働者が適正な安全基準の職場で、適正な時間内で働き、適正な社会保障を受けられて作られた製品だけが、フェアトレードの認証を受けます。

以上が、私のフェアトレードの最初の認識でした。10年ほど前の認識です。そのうちに「フェアトレードの認証を受けるためには、環境汚染にも配慮しなければならない」「フェアトレードとは消費者と生産者を結びつける運動だ」「フェアトレードは体にも優しい商品である」などといった情報も入ってきて、混乱してきていました。

そんな時、フェアトレードは偽善ではないか、と強い疑念を私に起こさせたのは「フェアトレードタウン」(渡辺龍也著、新評論)という本です。なんと、フェアトレードの定義について書かれていないのです。フェアトレードが世界をよくする運動であるためには、当然、フェアトレード商品が本当に適正な労働環境で作られているか、チェックしなければならないのですが、そのことについても、全く触れられていません。「フェアトレードはいい運動だ」というイメージだけで進めているようで、恵まれた金持ちたちの自己満足のような印象を強く受けました。

そのフェアトレードの偽善を、印象ではなく、科学的に示してくれた本が「効果的な利他主義宣言」(ウィリアム・マッカスキル著、みすず書房)になります。

まず、フェアトレードの基準は最貧国で満たすことは難しく、より豊かな発展途上国フェアトレード商品は作られています。例えば、フェアトレードコーヒーは最貧国のエチオピアではなく、10倍も豊かなコスタリカやメキシコで作られています。コスタリカ人への数ドルよりも、エチオピア人への1ドルの方が社会的価値は高いので、これでは、フェアトレード商品よりも、そうでない商品を買うべき、となってしまいます。

次に、通常の商品以上にフェアトレード商品に支払われる余分なお金のうち、最終的に発展途上国の生産者の手に渡るのはわずか1~11%に過ぎないそうです。残りは、中間業者や手配するNGOの手に渡ってしまいます。

さらに、ロンドン大学東洋アメリカ研究学院のクリストファー・クレイマー教授の研究チームが4年がかりで調査したところ、フェアトレードの労働者たちは、そうでない同様の労働者たちと比べて、体系的に賃金が安く、労働条件が劣悪だったようです。どうも中間搾取が原因らしいですが、理由はともかく、他の調査でも同じ結論が出ています。前回の記事にも示したように、正しく思えるプロジェクトが、科学的に検証してみたら、実は正しくなかった例でしょう。

最後の結論はフェアトレードの全否定になってしまいますが、フェアトレード推進派のために書いておくと、上記の「他の調査」の数は、それほど多くないようです。「効果的な利他主義宣言」も、以上のような批判をしながらも、フェアトレードを全否定まではしていません。せいぜい比較的裕福な国の労働者に小銭を与えられる程度、と結論づけています。

ただし、フェアトレードに科学的な事後検証制度がなさそうなので、上のような全否定の結論が出ても不思議ではない、と私は考えています。

本当の善と偽善の差

「効果的な利他主義宣言」(ウィリアム・マッカスキル著、みすず書房)は極めて興味深い本でした。「知ってはいけない」(矢部宏治著、講談社現代新書)が日本中の全ての人に読ませたい本なら、「効果的な利他主義宣言」は世界中の全ての人に読ませたい本です。

出だしのプレイポンプとICS(investing in children and their societies)の話が、偽善と本当の善の区別をよく表しています。

プレイポンプは、アフリカの農村の女性が何㎞も歩いて水くみにやってきて、ポンプの前で何時間も順番待ちをしている光景にショックを受けた男が、純粋な親切心から発明しました。普通のポンプと違って、子どもたちが遊ぶことができ、ぶら下がってぐるぐる回るエネルギーで、水をくみ上げられます。さらに、貯水タンクの側面に広告看板を載せ、その収益でプレイポンプの維持費を賄います。

男は1995年に1台目を設置してから、多くの企業や政府機関と関係を築き、1999年までには50台までプレイポンプを増やします。2000年には世界銀行開発市場賞を得たことで、大企業AOLの社長が資金を提供するようになり、2005年、数千台のプレイポンプがアフリカ全土に導入する計画ができます。2006年のタイム誌で元アメリカ大統領のクリントンがプレイポンプを素晴らしいイノベーションと絶賛し、当時のファーストレディのローラ・ブッシュが1640万ドルの助成金を提供しました。

雲行きが怪しくなってきたのは、ワールド・ビジョンユニセフ、スイス開発資料センターとSKATがプレイポンプを実地調査してからです。

公園にある回転遊具は一定の勢いがつくと自動的に回りますが、プレイポンプは回転エネルギーを水をくみ上げるエネルギーに変換するので、回転するには常に力を加え続けなければなりません。だから、プレイポンプは子どもたちをすぐに疲れさせますし、あまり楽しい遊具でもありません。ほとんどの場合、結局は村の女性たちが自分でプレイポンプを回すはめになっていたようです。

さらに驚くべきことに、何千台もアフリカに設置する計画まで立てているくせに、プレイポンプが必要かどうか、現地の者に誰もたずねていなかったそうです。実際にたずねてみると、多くの人は以前の手押しポンプがよかった、と答えました。なぜなら、以前のポンプの方が少ない労力で1時間あたり1300リットルの水をくみ上げられるのに対し、プレイポンプはより労力がかかる上に、1時間あたりでくみ上げられる水の量も少なかったからです。

また、プレイポンプの多くは数か月で故障していたことが判明します。しかも、ポンプの機構部分が金属のケースで覆われていたため、以前の手押しポンプのように村人自身で修理することは不可能でした。村の住民はメンテナンス依頼用の電話番号を受けとるはずでしたが、なぜか番号が伝っておらず、かりに伝わっていても、電話がつながらない時が多かったそうです。当初の計画通りに広告を出してくれる者が集まらず、維持費が賄えていなかったのです。

おまけに、プレイポンプのコストは1台あたり1万4000ドルで、手押しポンプの4倍もします。

こういった事実が明らかになると、メディアが手のひらを返して、プレイポンプの大バッシングを開始したことは言うまでもありません。完全な善意から始まった事業は、見事なまでに無意味な偽善と様変わりしたわけです。

一方、ICSはケニアの教育レベルを上げるオランダの慈善団体です。ICSは現地の14の学校のうち、あるプログラムを7校で実施し、残り7校は普段のままにして、どちらのグループがうまくいっているかを比較する「ランダム化比較試験」を行いました。

まず、ICSは学校に教科書を支給するプログラムを実施しました。生徒30人の教室に教科書が1冊しかないことも珍しくなかったため、教科書の充実で学習効果が高まることに疑問の余地はありませんでした。しかし、教科書を支給された学校と、そうでない学校で、テストスコアの成果に差はありませんでした。どうも、教科書が現地の子どもにとってレベルが高すぎたようです。

教材を増やしてダメだったので、教員を増やしてみました。大半の学校には教師がたった一人しかいなかったので、この教育効果も明白のように思います。しかし、やはり教育効果はゼロでした。その理由は本に書かれていないので、謎です。

普通の対策の失敗で血迷ったのか、次にICSは駆虫プロジェクトに取り組みます。公衆衛生の向上のためでなく、教育効果の向上のためです。費用はそれほどかかりません。既に特許が切れている薬を使えば、子どもたちの体内から腸内寄生虫を簡単に駆除できます。学校を通じて薬を配布するので、出席率、就学率が上がります。

この方法で嘘のように教育効果が出ます。駆虫した子ども一人あたり2週間も学校の出席日数が増えるので、駆虫プログラムに100ドル費やすたびに、全生徒の合計で10年間に相当する出席日数が増加します。さらに、ICSが10年後の子どもたちの追跡調査を行うと、駆虫を受けた子は、そうでない子に比べて、週の労働時間は3.4時間、収入は2割も多かったそうです。

プレイポンプとICSの差はどこにあったかは明らかでしょう。科学的な事後検証の有無です。

「これはいいに決まっている」と思うプロジェクトで、しかも、事後検証でうまくいっているように思えるプロジェクトでも、ランダム化比較試験してみたら、実はうまくいっていなかった例はごまんとあります。「根拠に基づく政策立案(EBPM)」で示した「非行少年少女を受刑者たちと交流させる」プロジェクトの失敗は、そのいい例でしょう。私は知りませんでしたが、このプロジェクトは1978年から放送された「スケアード・ストレート」というドキュメンタリー番組に起源がある、と上記の本に書かれています。非行少年少女が刑務所を見学して、自分の非に気づき、更生していく様は多くの者の感動を呼び、スケアード・ストレートはアカデミー賞や8つのエミー賞を獲得しています。しかし、9つの科学的観察により、刑務所見学した非行少年少女と、そうでない非行少年少女を比べると、刑務所見学組の方が60%も犯罪率が増加していると判明します。理由は不明ですが、結論として、非行少年少女に刑務所見学させるプロジェクトは、お金がかかる上、社会に有害だと分かったのです。

それに関連して、日本のアフリカODA批判と、開成高校の入試問題と、最近の朝日新聞で発見した不毛な議論の記事を書きました。

一方、「効果的な利他主義宣言」は根拠を示して、フェアトレードの効果を疑問視していたりします。次の記事に続きます。

平田オリザの提言

「下り坂をそろそろと下る」(平田オリザ著、講談社現代新書)は、平田オリザの著作である時点でほとんど期待していませんでしたが、その予想を見事に裏切って、興味深い本でした

「ヨーロッパのように、失業者割引を導入すべきだ。『失業しているのに劇場に来てくれて、ありがとう』『貧困の中でも孤立せず、社会とつながっていてくれて、ありがとう』と言える社会を作るべきだ」

「『なぜ、日本は高速鉄道の輸出で苦戦するのか』 この質問に大阪大学大学院生たちは『オーバースペックでコストがかかりすぎる』『安全基準が違う』『在来線の線路を併用する欧米型と、新線として敷設する新幹線では規格が異なる』といった正解を言ってくれる。しかし、『もしも君たちがドイツやフランス、あるいは中韓のライバル会社の営業マンだったら、日本の高速鉄道会社に対して、どのようなネガティブキャンペーンを張るだろうか?』といった質問には弱い。自己の技術の素晴らしさの主張はできるのだが、相手が自分のどの弱点を突いてくるかの観点は、ほとんど持ち合わせていない。もし私なら、このように囁くだろう。『事故数があれほど少なくて、時間通りなのは、日本人が日本でやってるからできるんですよ』 もっと性格の悪い営業マンなら、こう付け加えるかもしれない。『ちょっと気持ち悪いですよね』」

「日本中の観光学者たちが口を揃えて、少子化だからスキー人口が減った、と言う。しかし、劇作家たちはそう考えない。スキー人口が減ったから少子化になったのだ。かつて二十代男子にとって、スキーは、女性を一泊旅行に誘える最も有効で健全な手段だった。それが減ったら、少子化になるに決まっている。当たり前のことだ」

特に私が感銘を受けたのは、次のような主張です。

「知識を詰め込むだけの教育は、工業立国には有効だが、これからの日本には有効でない。従順で根性のある産業戦士は、中国と東南アジアに10億人はいる。これからの日本には、文化を創出する人が必要である。そのために、センスを養う教育を施さなければならない」

センスを養うための教育の例として、平田オリザが四国などで実際に行っている教育手法が多くのページを割いて紹介されています。

「センスを養う教育こそ重要である」「今の日本には出会いの場が少ない」「出会いがないから、少子化になる」「少子化対策として『結婚を取り持った仲人に5万円の報奨金をプレゼント』『同窓会の費用を助成』。どれもセンスのいいアイデアでない」「出会いの場を作るセンスが必要である」

センスを養う教育は、その真逆の知識偏重教育を重視する私では、なかなか浮かばない案です。確かに、その通りでしょう。ただし、豊富な知識があるからこそ、新しいセンスが生まれる側面もあるはずです。

また、センスの良さを客観的に測るのは難しいです。そのため、入試などの人生を左右する場でセンスが判断基準になると、不公平さが増します。上記の本では、「小説の一部分を切り取って、小学生向けの紙芝居を作る」「AKB48ももいろクローバーZのダンスを実際に踊ってみて、それぞれのビジネスモデルの違いを討議し、新しいアイドルのプロモーションを考える」「四国の観光プロモーションビデオのシナリオを作る」などの入試問題の例がありますが、これらだと「たまたまそのテーマなのでうまくいかなかった」ことが十分に起こりうるので、試験の出来に偶然の要素が強くなりすぎるでしょう。

それに、日本ほど実技教育に力を入れている国は、私の知る限り、他にありません。特に小学校ほど顕著ですが、日本中すべての学校で、美術、音楽、書道、体育が行われ、さらに運動会、音楽会、学芸会などが毎年のように開催されています。中高のクラブ活動も、プロスポーツクラブの少年部に匹敵するほどの時間を使い、日本中で熱心に取り組まれています。海外に一度でも暮らしたことのある人なら知っていると思いますが、「日本の学校には必ずプールがある」と外国人に言うと、みんな驚きます。ここまで幅広くいろいろな活動にすべての日本人が(いい悪いは別として)取り組んでいるので、日本人の卓抜した器用さが生まれていると私は確信しています。日本の学校教育が、知識偏重だとは全く思いません。

以上のような反論はありますが、「下り坂をそろそろと下る」は一読に値します。

なぜ日本はコンパクトシティの都市計画で50年間も失敗続きなのか

土地問題はいくつもの法が複雑に絡み合いますが、「老いる家崩れる街」(野澤千絵著、講談社現代新書)は都市計画の失敗について簡潔に説明してくれています。この本で何度も出てくる言葉が「焼き畑的都市計画」「住宅のバラ立ち」です。

市民の居住面積が大きくなればなるほど、人がまばらに住めば住むほど、都市としては効率が悪くなります。人の移動に時間とエネルギーがかかるだけでなく、電気や水道やガスや道路や鉄道などのインフラ整備に費用がかかるからです。これは科学的事実ですが、自然のクリーンなイメージに流されるのか、人の手の入っていない山の中で暮らす方がエコだと勘違いしている人がいるようです(私の経験でいえば、西洋人に多い)。

日本の多くの都市は、積極的に開発する「市街化区域」と、開発を抑制して自然環境を守る「市街化調整区域」に区分されています。市街化調整区域は農家などの一部の人だけに開発が認められて、原則、一般住宅は建てられない区域です。しかし、2000年以降、日本の約3割の自治体で市街化調整区域の規制が緩和され、住宅地の乱開発が進み、非効率な都市がいくつも生まれてしまいました。

一般に、市街化調整区域は市街化区域の周辺にあります。商業地区からは離れており、周りは農地だったりします。たとえ規制が緩和されたとしても、そんな不便な場所に、なぜ住みたがる人がいるのでしょうか。

理由は単純です。土地が安いからです。憧れのマイホームを安価で購入できるからです。しかも、市街化調整区域なら、インフラ整備に使われる都市計画税を払わなくていい特権があります。

一方、売る側(大抵は農家)のメリットは、土地が高く売れることです。農家たちこそが二束三文でしか売れない農地を宅地として売るため、市街化調整区域の規制緩和自治体に積極的に働きかけているのです。利益率の低い農業をやめて、利益率の高い不動産所得がもらえますから。

自治体は自治体で、これまで過疎化が進む一方だった市街化調整区域に人が住むようになり、他市からの流入なら税収増にもなるので、規制緩和のメリットがあるわけです。

もちろん、多くの建物を作れば儲かる建築業者も、規制緩和は大歓迎です。

買う側、売る側、行政側、作る側、4者全てよし! 一見、近江商人の三方良しのさらに上をいくかのようです。しかし、上に書いたように、より大局的な視野でみれば、日本全体の損になっています。

ある自治体の人口が増えたところで、日本全体の人口は減っているので、別の人口減に苦しむ自治体から住民を奪っていることになります。もともと都会に住んでいた人を、エネルギー効率の悪い郊外に移動させていることにもなり、インフラの維持費はかさむ一方です。

2000年の地方分権一括法が制定されてから、都市計画分野は「地方分権の優等生」と言われるほど、中央から地方に権限が委譲されました。結果、いくつかの自治体が我田引水になり、都市計画の規制を緩和し、日本全体が沈んでいる状況なのに、自治体同士でさらに足を引っ張り合ってしまいました。

バカな話です。

現在、日本の住宅総数は増え続けています。高齢者世帯が増えているので、世帯数も増えていますが、それ以上に住宅総数は増えています。必然的に空き家があちこちに現れ、既に820万戸もあります。野村総合研究所によると2023年には1400万戸、2033年には2150万戸、実に30%の住宅が空き家になるそうです。

空き家だらけなのに、なぜ住宅を造り続けるのでしょうか。それは「作れば売れる」からです。金が余りすぎている日本で、大金を注ぎ込める土地建物業界に規制をかければ、さらにお金の流れが悪くなり、不況になる、と考えられているからです。

どこまでもバカな話です。

1968年に日本が都市計画法を制定した理由は、無秩序な開発を規制して、コンパクトシティを作るためでした。まだ誰も少子化を心配していない50年も前から、日本はエネルギー効率のいいコンパクトシティを目指していたのです。

それがどうしてこうなったのでしょうか。

理由の一つは、「老いる家崩れる街」が指摘する通り、過去から現在まで、ほとんどの日本人が都市計画に無関心だからです。だから、買う側、売る側、行政側、作る側の一部の利害関係者だけで、都市計画が無秩序に進んでしまいました。しかし、実際には、それ以外の大多数の日本人も利害関係者なので、関心を持って、都市計画の規制を求めるべきです。

その著者の意見に同意したので、私はまだ土地問題の本質を理解していませんが、ここで記事にすることにしました。

日本人である前に人間である

日本には閉鎖的な「〇〇村」があらゆる所に存在して、その周囲にいる人たちが、あるいは、それを報道する人たちまでが、いつの間にか「〇〇村」の一員になっていることがよくある、と私は考えています。

福島原発事故現場職員の被害者意識」「池上彰を原子力村の名誉村長に推薦します」に書いたような原子力村の日本での増殖過程は、その代表例でしょう。

日本人は木だけを見ているうちに森を忘れて、本質を見失ってしまうようです。自分の所属する団体だけの利益を考え、自分の周りの狭い世界だけの理屈を広い世界で強弁し、人類普遍の価値を忘れてしまいます。

「第二次大戦時の日本兵たちは壮絶な逆境の中でも不屈の闘志で戦い抜いていた」「原発事故の現場職員はメルトダウンが起きている中でも死を覚悟して働いていた」。それは紛れもない事実です。しかし、だからといって、彼らの罪が全てなくなるわけではありません。どんな犯罪者だって、正当性や言い分はありますが、罪が課されることはあります。「現場の人は必死だった」「命令した人は苦渋の決断だった」「被害者はもちろん悪くない」。だったら、「運が悪かった」「当時の状況が悪かった」という結論になってしまいます。刑法も警察も、罪も罰も正義も、要らなくなります。

「〇〇の仕事だから」「××の家だから」「△△の出身だから」といった狭い視野で考えて、その視野からなら正しいが、より広い視野で見たら大きな間違いである失敗を、日本人は何度も犯しています。なにより悪いのは、そんな狭い世界の価値を命がけで守ろうとしてしまうことです。「私にはそれだけしかない」「それだけが私の生き甲斐だ」といった表現は、謙遜好きな日本人たちが好みますが、もし本当にそうなら、その程度の「私」が社会全体に対して自己主張する権利はないはずです。「それしかない」のに「それでも熱い気持ちはある」と言って、傲慢に意見を主張しないでください。もし他者にも意見を主張しないのなら、人類の普遍的な価値観を忘れない程度の謙虚さは持ってください。

全ての人は、「人間だから」「人類の一人だから」、そんな普遍的な価値観を小さい頃から養い、その重要性を認識すべきでしょう。

池上彰を原子力村の名誉村長に推薦します

福島第一原発1号機冷却 失敗の本質」(NHKスペシャル『メルトダウン』取材班著、講談社現代新書)という本があります。この本のあとがきには「現場職員の一人ひとりは有能で意欲のある者たちだった」という言葉が出てきてしまいます。前回の記事で示したように、現場職員たちは加害者なのに被害者意識を持ち、内輪の理論を日本人全体の生命よりも優先する人たちです。そもそも、あれほどの被害を起こした結果責任で、彼らの行った全ての過程の美点も吹き飛んでしまうはずです。

その福島第一原発の職員の誰もが尊敬している人物が所長の吉田らしいです。事故後何年もたった後に吉田を尊敬していると胸を張って言える事実に、私は強い違和感があります。大げさにいえば、第二次大戦後に東条英機を尊敬していると胸を張って言われたような気分です。事件を何年も取材して、全体像を把握しているはずのNHK取材班は「吉田所長を尊敬している」と言われた時、次のような質問を現場職員に、なぜ、どうしてしなかったのでしょうか。

福島第一原発に高さ15mの津波が来る警告は何度も出されていました。それを無視したのは、他でもない吉田です。これは国会事故調でも、事故の根本原因として指摘されています。また、福島第二原発と同じく、福島第一原発でも地震後に適切に現場で処理されていれば、メルトダウンが起こらなかったことは既に分かっています。それでも、吉田を尊敬するんですか?」

この質問をしなかったのなら、あるいは「吉田を尊敬する」という言葉に疑問を感じなかったとしたら、NHK取材班は原子力村にいつの間にか取り込まれてしまった、と批判されても仕方ないでしょう。

「全電源喪失の記憶」(共同通信原発事故取材班、新潮文庫)で、私が最も呆れたのは、池上彰の「あとがき」の中にあります。

「あのとき(原発事故の時)恐怖に竦んで何もできなかった(職員たちがいます)。現場から立ち去ってしまった(職員たちもいます)。己の行動を恥じて沈黙するのは、人間として当然のことでしょう。それでも、自分の名前が報じられることを容認した人たちがいるのです。彼らが、いかに深い悔悟の念に駆られているかが推測できます。(略)現場で何もできなかったという自分の行動を告白する。これもまた、勇気ある姿勢ではないでしょうか」

この表現には既視感があります。第二次大戦の現場で殺人やレイプを犯した日本兵たちを、家族と離れて戦場に行ったことや過酷な自然環境での生活といった逆境側面だけに注目して、同情してしまう戦後の日本人たちです。池上彰原発職員の事故時の奮闘だけに注目しているうちに原子力村の一員となってしまい、事故の根本原因や日本全体での視野を忘れてしまったようです。

100年後の日本人のために書いておくと、残念ながら、この池上彰は「良心的ジャーナリスト」だと、現代日本で一般的に認識されています。上記の「あとがき」を読んで、池上彰を批判しなければならない、と考えた日本人は、もしかしたら、本当に私一人だけかもしれません。

福島原発事故現場職員の被害者意識

メルトダウン中、福島第一原発の現場で働いていた職員たちが一番心配していたのはなんだったか知っているでしょうか。

福島の住民たちに及ぼす被害ではなく、東日本壊滅の危機でもなく、同じく現場で働く人たちの安全でした。つまり、事故の被害者ではなく、事故の共犯者の安全を最優先していたことが、「全電源喪失の記憶」(共同通信原発事故取材班、新潮文庫)で臆面もなく白状されています。所長の吉田が責任をとって切腹しようと思ったのは、事前の警告通りに高さ15mの津波で全電源喪失した時でも、メルトダウンが起こってしまった時でもなく、3号機の水素爆発で現場職員40人が亡くなったと勘違いした時です。その背後にいる何百万、何千万の自分が騙してきた日本人のことなど、現場40人の命と比べると、吉田の中では小さかったようです。

上記の本を読めば、原発安全神話を吹聴してきた原子力村の人たち自身が、その嘘(安全神話)を信じてしまっていたと分かるでしょう。「カウントダウン・メルトダウン」(船橋洋一著、文藝春秋)で、第一原発の吉田所長と対比して、本当のヒーローと持ち上げられている第二原発の増田所長でさえ、事故前に「10条とか15条とかを出すような事態になったら、私はクビですよ」と言っていたそうです。それくらい、緊急事態発生前の10条や、緊急事態発生中の15条は起こるはずがない、と信じ切っていました。実際は、第一原発でも第二原発でも10条と15条を出していますが、吉田も増田も解雇されていないどころか、英雄扱いされています。100年後の人には理解に苦しむでしょうが、それが今の日本の現実です。

「全電源喪失の記憶」には、吉田が賞賛してやまない事故現場で働いていた職員たちが実名で出てきますが、原発安全神話を信じ切っているせいか、放射能の怖がり方をまるで知りません。「東京電力撤退事件」に書いたように、決死隊がわずか100mSvに怖気づいて仕事から戻ってくるなど、そのいい例です。他にも、1号機の水素爆発が起こったとき、周囲に舞ったゴミに触れたら死んでしまうと現場中の職員がパニックになって、仕事を完全に放棄し、鍵のかかっていない消防車に職員たちが逃げ込んだせいで、ぎゅうぎゅう詰めになる情けない状況が書かれています。もちろん、完全防御服を着た職員たちは、その程度で誰も死にませんでした。

第一原発津波発生後まで残っていた井出という妊婦がいたそうです。妊婦であるから、本人の意思に反して、先に逃げることになりました。本には「ごめんね、ごめんね、ごめんね」という井出の悲劇のヒロイン気取りの言葉が出てきて、読んでいる側が恥ずかしくなってしまいます。しかも、この「ごめんね」と謝っている相手は福島の住民ではなく、原発職員たちに対してです。謝る対象が根本的に間違っているのですが、原子力村にいれば、というか、この本の中では、それが正解になっているようです。井出に対する批判の表現は皆無です。井出は死ぬまで、この大いなる間違いに気づかないかもしれません。

原発基地は、文字通り、原子力村の中心地なので、そこで働く職員たちは骨の髄まで原子力村の理論で動いていたようです。だから、菅直人首相が現場入りして「なんでベントをしないんだ!」と怒鳴ったときも、菅直人が東電本店で「逃げようたって逃げられないぞ!」と大演説をぶったときも、現場職員たちは全く反省しませんでした。その真逆で、大多数の職員は、菅直人の説教に怒り心頭に達したそうです。しかし、この時の首相の声は、まさに国民全員の怒りの代弁だったはずです。怒り心頭に達していたのは、事故の被害を受ける日本人全員だったのではないでしょうか。

このように、本を読んでいると、現場職員が自分たちを加害者だと認識している様子はまるでありません。むしろ、想定外の大地震にあった被害者だと思っているようです。

ここまで原発職員びいきなのに、この本の「はじめに」では、「第一原発所員を英雄視するつもりも、事故対応を美談に仕立てる考えもない」と書いています。呆れてものも言えない、という表現はこういう時のためにあるように思います。これで中立を堂々と宣言できるほど、現在の日本が福島原発事故を歪んで見ていた証拠にはなるでしょう。

誤解だらけのIQ

・IQテストの平均点は常に100点である

・準備勉強をしてもIQテストの点数が上がったりはしない

・知能を客観的に測るテストはこの世に存在しない

以上はすべて間違いです。なお、3番目は「誰もが納得できる知能テストはこの世に存在しない」なら、当然、正しくなります。

「IQテストの平均点は常に100点である」については、ビネー式のIQテストがどの国で測っても、20年経過すると平均点が15点上がっていること(フリン効果)から、間違いです。IQが130以上だとか自慢している人がいたら、ビネー式で測っている確率は極めて高いです。そもそもビネー式IQテストは、知的障害者を分別するために誕生しています。頭の良さの程度を測るためのものではありません。

ただし、IQテストが客観性のない知能検査と断定するのも間違いです。特にスピアマンの提唱した一般知能g(≒知能指数)を16の因子に分けたキャテル・ホーン・キャロル理論(CHC理論)は、その16因子全てが統計的に実証されています。

ただし、残念なのは、日本ではCHC理論でのIQテストが実施されていないこと、それどころか、CHC理論の存在すらあまり知られていないことです。いえ、それよりもなによりも衝撃的だったのは、統計的に妥当性がある日本語のIQテストは一つも存在しないことです。それは「IQってホントは何なんだ?」(村上宣寛著、日経BP社)に赤裸々に書かれており、私も唖然としました。

同著ではリクルートが実施するSPI試験なども批判されており、SPI試験がそもそも知能検査になっていない、と全否定です。

別の観点から考えても、入社時にあれほどお金をかけて大規模に行っているSPI試験を含め、多くの日本の試験は、事後に有効性を統計的に調べていません。入社時のSPIの試験と、どれだけ会社に貢献したか(上から何番目のポストに就いたか、合計収入はいくらになったのか)の相関関係を求めることは簡単にできるはずなのに、なぜかしていません。これだとSPI試験に妥当性があるのか不明なので、当然、入社時のSPI試験をやめるべきかどうかの判断も客観性のないものになります。「新卒一括採用の功罪」に書いたように、日本の企業の人事担当者は、自分たちが毎日やっている人事や、賃金管理の仕事がどのような原理原則のもとに行われているかを理解していないようです。

 

※注意 「IQってホントは何なんだ?」(村上宣寛著、日経BP社)は2007年出版なので、それ以後に作成された日本語のIQテストは統計的妥当性の検証をされているのかもしれません。

キリスト教の謎

みなが不安を持って暮らす世界を救うために、麻原彰晃は現れました。麻原は仏教を基盤とした新しい教えを広め、わずか数年の間に、信徒を爆発的に増やしていきました。その教えを理解しようともしない時の国家権力は、麻原の教団を弾圧し、麻原を裁判にかけました。無知蒙昧な大衆どもは、麻原に聞くに堪えない罵詈雑言を浴びせかけ、裁判の結果、麻原は処刑されてしまいました。しかし、麻原の死後も教団は生き残り、2000年後の今では、世界最大の信徒を持つ教団にまでなりました。

「2000年後の今では、世界最大の信徒を持つ教団にまでなりました」は未来に実現しないでしょうが、それまでの文は事実のはずです。そして、上の文章の「麻原彰晃」を「イエス・キリスト」、「仏教」を「ユダヤ教」にすれば、歴史的事実になります。

キリスト教はイエス生存当時、単なる新興宗教の一つに過ぎません(「なぜキリスト教は世界最大の宗教になったのか」に書いたように、厳密には新興宗教ですらありません)。オウム真理教のように時の国家権力により弾圧され、教祖が処刑されたので、イエスの教団は消えていく運命にありました。しかし、2000年後の今、事実として、キリスト教は世界最大の信徒を持っています。これは世界史上最大の謎と言っても過言でない気がします。

その疑問についての記事は「なぜキリスト教は世界最大の宗教になったのか」に書きました。ここでは、他のキリスト教の謎を述べていきます。

「なぜ大多数のキリスト教徒が、キリスト教についてほとんど知らないまま信仰しているのか」あるいは「どうしてキリスト教徒は聖書をそこまで大切と思っているのか」という謎です。

キリスト教では火葬が禁忌?」にも書いたように、もともとのキリスト教で火葬が禁止されていること、偶像崇拝が禁止されていること、イエスに兄弟姉妹がいること(それをカトリック東方正教会は認めていないこと)、聖書はどの時代やどの地域でも同じ内容と限らないこと、外典と呼ばれる現在の聖書に入っていない文献が多く存在すること、などの基本的なことを知らないキリスト教徒に私は多く会っています。だから、「イエスは結婚しており、妻はマグダラのマリアという売春婦だ」をテーマにした「ダ・ヴィンチ・コード」が現代にも生まれるわけです。イエスマグダラのマリアと結婚していた解釈は福音書から自然と導かれるので、1000年以上前から存在しているのですが、ほとんどのキリスト教徒は知らないのです。

これは信仰心の薄いキリスト教徒に限りません。物心着いた頃から教会に毎週日曜日に20年間以上通って、聖書を読んでいる時間が私の100倍以上は長い人でさえ、「聖霊とはなにか」という基本的な質問も答えられません。さらに、やはり毎週日曜に教会に通う敬虔なキリスト教徒なのに、上のダ・ヴィンチ・コードの影響でしょうが、「イエスは売春婦と結婚していた」と信じている人(聖書や外典に明確にそう書いていないので、事実は不明)や、「イエスは33才で亡くなった」と信じている人(イエスが生まれた年でさえよく分かっていないので、これも事実は不明。ただし、33才で亡くなった説をいろんな本で見かけるのは事実です)に私は会っています。

新約聖書がイエスの伝記(福音書)、使徒たちの布教(使徒言行録)、使徒たちの手紙(使徒の書簡)、難解な詩(黙示録)の4部門から構成されていることすら、私に言われて、一般のキリスト教徒は初めて気づいたりします。新約聖書のうち、イエスの語った教えが書かれているのは、当然、福音書の一部です。その福音書は4つありますが、どれもイエスの伝記なので、どうしても内容に重複があります。なおさら、イエスの教えは新約聖書の一部に過ぎないのです。その福音書でさえ、イエス自身が書いた内容は一切ありませんし、イエスの教えを直接聞いた人物が書いたわけでもありません。必然的に、イエスの教えが新約聖書の内容と一致しているとは限らなくなります。

新約聖書が4部門であることや、そのうちの1部門、福音書の中だけにイエスの教えがあることは、一般のキリスト教徒は知らなくても、何十年間も教会に毎週通っているキリスト教徒なら、やはり知っていました。私にとって謎なのは「イエスの教えが新約聖書のごく一部にしか書かれていない、福音書はイエスの直弟子が書いたものでないと知っているにもかかわらず、なんのために毎週、聖書を学んでいるのか」あるいは「それすら知らないのに、なぜ西洋人はキリスト教の洗礼まで受けているのか」です。

この質問を私は西洋人に何回かしたことがあるはずですが、どういった返答をされたかまでは、よく覚えていません。ただ、日本人のように「周りのみんなが信仰しているから」「家がキリスト教だったから」とは誰も言わなかったことは、間違いありません。事実はそうなのかもしれませんが、宗教のような個人思考の根本にかかわる問題で「みんながそうだから、私もそうだ」という言い訳など、西洋人は使いたくないからかもしれません。

聖霊とはなにか

カトリックプロテスタントを含む西方教会東方教会など世界中ほぼ全てのキリスト教は三位一体を信じるアタナシウス派の流れを汲んでいます。三位一体とは、神と聖霊とイエスを同一視することです。三位一体ではイエス人間性でなく、神性に注目しています。

キリスト教という宗教で、イエスと神の同一視は当然とも言えるでしょう。仏教でも、ブッダを神のように崇めています。しかし、聖霊とはなんでしょうか。神とイエスだけでなく、なぜ聖霊まで入っているのでしょうか。

なぜキリスト教は世界最大の宗教になったのか」の疑問同様、これも私が長年キリスト教に持っている疑問でした。当初、私は「聖霊とは天使のことだ」と考えていました。例えば、ガブリエルは聖霊の一つだと勘違いしていたのです。

しかし、末日聖徒イエス・キリスト教会の青年から、「イエスをマリアに身ごもらせたのは聖霊で、マリアに処女妊娠を伝えたのが天使ガブリエルだ。聖霊は天使とは違う。天使は複数いるが、聖霊は一つだけだ」と言われました。そこで私が「では、聖霊とはなにか? 天使とどう違うのか?」と質問すると、彼は答えに詰まってしまいました。彼は私と次に会った時に、その質問を覚えてくれていて、「聖霊とは天使よりも崇高な存在であり、私たちと共にある」などと答えてくれました。「それは神とどこが違うのか?」との私の質問には、「神は世界を創造した存在で、聖霊とイエスと一体だ」と答えてくれましたが、「では、聖霊がいなかったら、世界は創造できなかったのか?」と質問されると、また彼は困惑した表情になりました。彼は誠実そうなユタ州出身の青年だったので、意地悪な質問をしたことを私がお詫びしたら、「キミは悪いことをしたわけではない。私も聖霊について知りたい」と彼は言ってくれました。

カナダに住んでいた時、教会の牧師にも聖霊について質問してみましたが、「聖霊がいるから信仰心が生まれる」などと、よく分からない理屈を長々と説明されました。しかし、神に加えて聖霊という存在がキリスト教に必要な理由は分からず仕舞いでした。

その後、いくつかの本を読んで分かってきたのは、旧約聖書聖霊が既に出てきて、天使も出てくる、ということです。そして、旧約聖書にも新約聖書にも、聖霊と天使の能力や存在理由は書かれていないので、解釈は宗派によって違います。なお、ユダヤ教では神>聖霊>天使>人間と、崇高さの序列が明確にありますが、キリスト教では神≒イエス聖霊>天使>人間と、序列が微妙に変わっています。

一神教であるはずのユダヤ、キリスト、そしてイスラム教に、超人間的能力を持つ聖霊や天使が必要だったのは、絶対不可侵の神だけだと、物語上不都合があったからだと今の私は推測しています。超人間的能力を使うたびに神が現れたら、神のありがたみが薄くなってしまいます。本当に価値の高い奇跡を使う時だけ神を登場させ、ほどほどの価値の奇跡を使う時には聖霊、さらに低い価値の奇跡を使う時には天使を登場させたのでしょう。人間の上にいきなり神がくるよりも、神>聖霊>天使>人間と、人間と神の間に複数の存在があれば、神の崇高さも増します。

キリスト教で、イエスと神だけでなく聖霊まで一緒になって三位一体となった理由は、本来は人間であるイエス聖霊より格上にすることに抵抗があったからだと推測します。神>聖霊>天使>人間イエスではイエスを崇拝するキリスト教にとって不都合すぎます。しかし、神=イエス聖霊>天使>人間となると、イエスが人間という事実(新約聖書福音書)とあまりに矛盾します。そこで神だけでなく聖霊も仲間に加えて、神=イエス聖霊>天使>人間くらいの序列にすれば、キリスト教の思考体系としてふさわしい、と見なしたのではないでしょうか。

なぜキリスト教は世界最大の宗教になったのか

タイトルの疑問は私が20才前後でキリスト教の教養本を始めて読んだ頃から長年持っているものです。本の名前は忘れましたが、「イエス自身は新しい宗教を始めるつもりはなかった」と書かれていました。同様の見解は他のキリスト教の本で何回も見つけましたし、「(新約聖書の)教えは(旧約聖書の)律法を否定するものではありません」という言葉は新約聖書にもあります。イエスユダヤ人でユダヤ教徒であり、ほぼ全てのイエスの直弟子たちも同様です。イエスは新しい宗教を始める意図など毛頭なく、イエスの直弟子たちもイエス新興宗教の教祖とは思っていませんでした。まして神とイエスを同一視などしていません。

それにもかかわらず、イエスを神と同一視するキリスト教(厳密にいえばキリスト教アタナシウス派)が現在、世界で最も多い信徒数を獲得しています。いつ、なぜ、キリスト教なるものが教祖の意図に反して産まれて、世界中に広まったのでしょうか。

この疑問のうち、キリスト教が世界中に広まった理由の答えは、それほど難しくありません。大航海時代産業革命を先導し、世界中に植民地を広げた国家群がヨーロッパにあり、ヨーロッパではローマ時代からキリスト教が国教だったからです。

だから疑問は「キリスト教は誰がなぜ作り出したのか」「イスラエルで生まれたユダヤ人のキリスト教がどうしてローマ帝国に広まったのか」などになります。

キリスト教は誰が作り出したのか」の答えは、「パウロ」だと私は10年間くらい考えていました。その根拠は、新約聖書パウロの役割の大きさにあります。新約聖書は、福音書(イエスの生涯)、使徒言行録(イエスの弟子である使徒たちがどうキリスト教を布教したか)、使徒の書簡(使徒たちの手紙)、黙示録(難解な詩)の4部門から成ります。4部門のうち2部門、使徒言行録、使徒の書簡の中心人物は明らかにパウロです。新約聖書そのものでもそうですが、キリスト教の解説本になるとより露骨で、イエスの生涯(福音書)の後、パウロの生涯の話が続くのが一般的です。

しかし、「聖書時代史 新約篇」(佐藤研著、岩波現代文庫)などを読んでいって、パウロキリスト教創始者と断定するのはおかしい、と分かってきました。実在のパウロキリスト教創始者というほどキリスト教会に貢献していません。キリスト教の中で、パウロは神格化されている、とまでは言えないにしろ、実像よりも格段に偶像化されています。初期キリスト教世界で、異教徒や異邦人への布教に邁進した人はパウロ以外にもいたはずですが、それらの貢献のほとんどがパウロ一人に集約されているようなのです。しかし、紙も印刷技術も拡声器もない古代ローマで、一人の人間が布教できる範囲は限られています。パウロだけの力でキリスト教徒が爆発的にローマ帝国に広まったとは考えられません。それにパウロは初期キリスト教世界で、それほど重要な地位ではありません。パウロの現実の生涯を知れば知るほど、ローマ帝国でのキリスト教布教で、パウロの貢献は微々たるものであったと分かってきます。

そうなると「キリスト教創始者パウロでないなら一体誰なのか」という問題が再び出てきてしまいます。また「なぜローマ帝国キリスト教が広まったのか」という問題も残ります。

それを知りたくて、20冊以上は初期キリスト教の本を読んでいますが、いまだよく分かっていません。「名もない初期キリスト信徒たちなのだろうか」「どこまで調べても今からでは分かりようがないのだろうか」と考える程度です。もし答えを知っている方は、根拠も含めて、下のコメント欄に書いてもらえると助かります。

キリスト教の謎」の記事に続きます。

密約は条約ではない

「知ってはいけない」(矢部宏治著、講談社現代新書)は現状の日米外交の根本的な欠陥を赤裸々に示してくれた素晴らしい本です。ただし、疑問点もあります。「密約でも、国際法である以上、必ず守らなければならない。それは世界の常識である」と断定していることです。

法学に詳しくない私でさえ、その正反対の国際法を知っています。条約は署名しただけでは効力を示さず、当事国の国会の批准が必要なことです(厳密には国会の批准に限らず、受諾や承認や加入もあります。Wikipediaの「条約」参照)。条約によっては必ずしも国会の批准が必要でない場合もありますが、政治的に重要な問題は国会の批准が必要というのが国際標準です。

上記の本に出てくる密約は、国家主権に関わるので、政治的に重要な問題であることは論をまちません。もちろん、密約を国会で批准しているわけがありません。だから、「国会の批准がないものは公的拘束力がない」と密約を今すぐ無視しても、法律上、全く問題はありません。むしろ、それが本来の姿です。しかし、現実には、日米間の密約が日本のすべての法、それこそ日本国憲法よりも上位に置かれています。

なぜそうなってしまうのでしょうか。

著者の指摘する通り、「砂川裁判で司法が日米外交について憲法判断を放棄してしまったから」は間違いなく、根本原因の一つです。また、日米合同委員会と日米安保協議委員会が内閣や国会以上の権力をしばしば持っていることも大きいはずです。

つまり、アメリカ軍が日本の主権を犯していることに、日本の行政と司法のエリートたちが60年間も黙認していたことが原因です。なぜ、こんな異常な状況が長年続いているのでしょうか。

日本の行政と司法のエリートたちは、1957年に米軍兵士が遊び半分で日本人女性を射殺しても、密約で犯人を執行猶予にさせています。日本の中枢にいる彼らにも人として最低限の倫理観はあるはずなのに、どうしてそれを踏みにじってまで米軍におもねるのでしょうか。どうして同胞の日本人の味方をしないのでしょうか。そこまで日本人が嫌いなのでしょうか。私には完全に理解できないので、日本の行政と司法のエリートたちに、そうする理由を誰か今すぐ聞いてください。

 

※2020年6月7日追記

上記の嫌味は今読み返すと、恥ずかしいです。

「知ってはいけない」の後に出版された「日米地位協定」(山本章子著、中公新書)を読んでいたら、上のような記事は書かなかったでしょう。「日米地位協定」は学者による本なので、「知ってはいけない」よりは漏れのない事実に基づいて書かれています。「日米地位協定」を読めば、「知ってはいけない」にはいくつか間違いがあると分かります。上記でも指摘している「国家間の約束なら、密約でも守らなければいけない」は、やはり明らかな間違いです。たとえば、沖縄米軍の飛行訓練の制限は日米間で何度も取り決めていますが、アメリカはいつも守っていません。どうも、日本だけでなく、米軍も国家間の約束の引継ぎがうまくいっていないことが原因のようです。

ウルグアイラウンドとTPP交渉に見る日米外交の根本的な違い

「亡国の密約」(山田優著、石井勇人著、新潮社)を読んでいると、日本とアメリカでの外交の質的な違いが嫌でも分かります。70年前の日本の独裁者、マッカーサーの言葉を借りれば、アメリカが大人の交渉をしているのに対して、日本は「like a boy of twelve」です。

著者が主張する通り、日本と違ってアメリカが文句なく素晴らしいのは、外交の公的情報を公開する制度が整っていることです。2011年にアメリカの情報公開法に基づいて、外国人の著者が外交文書の公開を電子メールで求めたところ、日本の農水省が未だに認めていないミニマムアクセスの増量についての情報が含まれている上、「この情報公開に不服があれば、申し立てができる。時期がきたら、また請求してみたらどうか」との担当者のアドバイスまで添えられていたそうです。このブログでも「日本の歴史はいつになったら神話ではなく事実に基づくのか」などで嘆いたことですが、日本はできるだけ早く情報公開制度を整備すべきです。

ウルグアイラウンドでは、アメリカが国民的な公開議論により問題を解決しようとするのに対し、日本は徹底して密室での議論で問題を解決しようとしていたことが「亡国の密約」で示されています。

正式に条約を締結する前に、「ミニマムアクセスと量を制限して、米を輸入する」と両国の官僚同士で条約内容が決まっていました。しかし、徹底反対勢力の農協のいる日本側から米の一部輸入を提案するわけにはいきません。だったら、アメリカ側の提案に同意した形にすればいいのですが(そして、実際その通りなのですが)、そうしても、アメリカに屈したと農協から批判されるので、まだ日本側の官僚は納得しません。結局、ドゥニGATT事務局長が米を一部輸入するよう日本に提案して、それを日本が同意した形にしよう、となりました。もともと日米の官僚間で同意した内容を、GATT事務局長に発案させる、という変な儀式を国際的に行っているのです。

日本は不平等条約での失敗を150年間も繰り返し続けている」に書いたように、日米官僚間の合意時に、アメリカ側は政府全体でも情報共有して納得していますが、日本側は一部の官僚しか情報共有していません。だから、法体系上、条約内容について納得すべき政治家たちに、官僚間の合意の後に事情を説明しています。しかも、官僚たちが事情をまず説明した政治家たちは、農水大臣ではなく、自民党農水族議員たちだったりします。事情のよく知らない農水大臣には、ろくに説明もしないまま、「ここまで来たら反対は許されない」という流れに乗せて、条約署名の儀式をほぼ自動的に行わせています。

なぜ、アメリカのように公開討論して、米の輸入を日本人全体に認めさせられなかったのでしょうか。

本には、ウルグアイラウンド当時、農協の政治力が非常に強かったことが示されています。農協の保険・金融部門がいかに大きな組織であるかも書かれています。しかし、それを十分に考慮しても、1990年でさえ就業人口で10%未満の農業が、対GCP比であればさらに低い率の農業が、日本の貿易政策全体を左右させた事実に納得できません。大多数の日本人は「米の関税化は止むを得ない。そこでもめすぎると、小利にこだわって、大利を失うことになりかねない」と考えていたのではないでしょうか。いえ、国民の感情を議論するまでもなく、事実、そうだったはずです。米の関税化を阻止しようとするあまり、米の一部輸入を認めて、アメリカに秘密裏に優遇枠まで設けて、現在まで3000億円もの赤字を生んでいるなんて、愚の骨頂です。たとえ農家からの大反対があっても、ウルグアイラウンドを日本全体の利益になるように内容を修正して、条約を締結すべきでした。政治家や官僚たちは農家を含めた国民に納得させるべきでした。

なぜ、それができなかったのでしょうか。

その答えの一つを「日本人である前に人間である」に書いておきました。

日本は幕末外交の失敗を150年間も繰り返し続けている

「知ってはいけない2」(矢部宏治著、講談社現代新書)には、こんな文章が出てきます。

「米国の外交はアメフト型。プレイヤーはフォーメーションに従い陣形を組み、バックヤードでは多くのスタッフが過去のデータを徹底分析し、最善の1手を指示する。一方、迎え撃つ日本の外交はまるで騎馬戦。常に3~4人のチームで情報を独占し、しかも引き継がない。これでは百戦百敗になるはずである」

問題先送り外交」や「日米和親条約にある不平等条項」の記事で示したように日米和親条約では、日本の主権を犯す重要条項が無知な現場担当者の一存であっさり決まった歴史的事実があります。その痛恨の失敗を、どれくらいの外交官、どれくらいの日本人が知っているのでしょうか。センター試験の世界史で9割以上をとった私も、日本開国史(石井孝著 吉川弘文館)を読むまで全く知りませんでした。ほとんどの日本人が過去の歴史からなにも学んでいないから、今に至るまで優秀な(はずの)外交官たちが「アメフト対騎馬戦」の失敗を繰り返しています。

無知により国家主権を犯された失敗、国家利益を失った過去は、今からでも周知を徹底すべきです。小中高の全ての歴史教科書に必ず載せて、入試にも頻出にするべきです。そうすれば、日本のエリートなら必ず覚えますから。

「亡国の密約」(山田優著、石井勇人著、新潮社)にも書いてある通り、ウルグアイラウンドでも日本は同じ失敗を繰り返しています。日本側は一部の官僚だけが交渉し、その情報を独占しているのに対して、アメリカ側は一部の官僚に交渉は任せるものの、情報は常に政府全体で共有していました。情けないのは、アメリカが政府全体で情報共有し、全体で知恵を出し合っていることを、日本政府が全く気づいていないことです。交渉している数人の日本の官僚たちでさえ、「秘密とお願いしているから、向こうも情報は数人しか知らないだろう」と勝手な希望を抱いていたのです。頭の回転は恐ろしく早いはずなのに、根本的なところで間違っているので、致命的な失敗を犯している良い例でしょう。「問題を発見できないエリートたち」でも書きましたが、日本人らしくない私が日本のエリートたちを見ていると、こういった失敗をよく発見します。

日本は今も不平等条約を結んでいる

「知ってはいけない」(矢部宏治著、講談社現代新書)を先月読んで、茫然としてしまいました。著者は立花隆を尊敬しているようですが、その立花隆の全ての本をこの一冊で凌駕しているのではないでしょうか。日本の主権が米軍に蹂躙されていること、あるいは、全ての日本人の尊厳に関わることが書かれています。

「日本が不平等条約を結んでいたのは明治時代だけではない。現在の日本にも日米地位協定という不平等条約が存在する」という説は、ネットで何度か見かけたことはあり、それらを熟読して「確かにその通りだ」と考えてはいました。しかし、やはりネット情報なので、半信半疑のままでした。そういったネット情報には「米軍は日本国憲法を無視できる」や「米軍は日本のどこにでも自由に基地を置く権利がある」といった極論があったので、さすがにそれは陰謀論だと私も考えていました。

ただし、「北方領土がロシアから返還された場合、米軍が北方領土に基地を置くと主張すると、日本は拒否できない。だから北方領土返還交渉が行き詰まった」といった情報が新聞にも載るようになったので、「米軍は日本のどこにでも自由に基地を置く権利がある」は極論ではなく、むしろ「冗談抜きで、米軍は日本のどこでも基地にできる。それこそ北方領土にだってできる」らしいことが分かってはきていました。

そういった日本外交の謎が2年前には「知ってはいけない」でスッキリ解けていたこと、それ以前にも同様なことを書いた本は何冊も出版されていたことを今頃知りました。いくつもの密約が絡み合っている複雑な構造ではありますが、著者も書いているように、分かってしまえば単純な構造です。日本が戦後の米軍統治時代に米軍に認めた特権を、統治時代後も現在まで密かに認めるためにできた構造です。1回の密約だけでなく、何度も密約を結んでいますが、基本的な構造は次の通りです。

「古くて都合の悪い取り決め」=「新しく見かけのよい取り決め」+「密約」

しかし、密約であるため、現職の日本の総理大臣もよく分かっていません。もちろん、外交官も学者もよく知りません。嘘みたいですが、本当です。しかも、日本がアメリカの植民地になっているのではなく、アメリカ軍の植民地になっているので、ライス元国務長官が「いったい、どんな関係になっているの?」と言ったり、スナイダー元駐日公使が「こんな占領中にできた異常な関係はすぐやめるべきだ」と発言したりもしています。

日本に成田から入国したアメリカ人は日本の法律で裁かれますが、米軍基地から米兵はパスポートなしで入国できる上、日本にいるのに日本の法律で裁かれることはありません。米軍には米軍基地内だけでなく、日本中で治外法権が認められているのです。ありえない、あってはならない現実が今の日本で存在しています。

新聞を読んでいると、特にアメリカとの外交関係では「なぜこうなっているんだ」「どうしてそうなるんだ」と思うことが、私にはよくあります。上記の北方領土交渉の行き詰まりは、そのいい例です。そういった摩訶不思議な事件が、裏にこんな事実があるなら、納得できます。

「知ってはいけない」で著者が一番驚いたことがあるそうです。

「米軍機は日本中のどこでも低空飛行をしてもいい。だから、米軍基地外の日本領土で米軍は墜落事故を何度も起こしているが、米軍が日本の警察よりも早く捜査と事後処理をするし、その事故が日本の裁判所で裁かれることはない」

ここまでで日本の主権が犯されていることは明らかですが、さらに続きます。

「米軍機は、日本の米軍住宅の上では絶対に低空飛行してはいけない。危険すぎるからだ。アメリカの法律で禁止されているコウモリなどの野生生物や歴史上の遺跡の日本の上空も、軍事訓練はできない。ただし、日本人の住宅上では低空飛行しても構わない」

コウモリを保護するために禁止されている米軍の低空飛空を、日本人にはしてもいいそうです。つまり、日本人の人権は野生動物以下にされているのです。

著者の言う通り、反米とか親米とか、それ以前の問題です。日本人どころか、世界中の誰が考えても、おかしいです。

こんな状況が60年以上も続いているなんて、ありえません。今すぐ、このおかしな状況を変えるべきことに異論を挟む日本人はいません。