未来社会の道しるべ

新しい社会を切り開く視点の提供

日本人である前に人間である

日本には閉鎖的な「〇〇村」があらゆる所に存在して、その周囲にいる人たちが、あるいは、それを報道する人たちまでが、いつの間にか「〇〇村」の一員になっていることがよくある、と私は考えています。

福島原発事故現場職員の被害者意識」「池上彰を原子力村の名誉村長に推薦します」に書いたような原子力村の日本での増殖過程は、その代表例でしょう。

日本人は木だけを見ているうちに森を忘れて、本質を見失ってしまうようです。自分の所属する団体だけの利益を考え、自分の周りの狭い世界だけの理屈を広い世界で強弁し、人類普遍の価値を忘れてしまいます。

「第二次大戦時の日本兵たちは壮絶な逆境の中でも不屈の闘志で戦い抜いていた」「原発事故の現場職員はメルトダウンが起きている中でも死を覚悟して働いていた」。それは紛れもない事実です。しかし、だからといって、彼らの罪が全てなくなるわけではありません。どんな犯罪者だって、正当性や言い分はありますが、罪が課されることはあります。「現場の人は必死だった」「命令した人は苦渋の決断だった」「被害者はもちろん悪くない」。だったら、「運が悪かった」「当時の状況が悪かった」という結論になってしまいます。刑法も警察も、罪も罰も正義も、要らなくなります。

「〇〇の仕事だから」「××の家だから」「△△の出身だから」といった狭い視野で考えて、その視野からなら正しいが、より広い視野で見たら大きな間違いである失敗を、日本人は何度も犯しています。なにより悪いのは、そんな狭い世界の価値を自分の命をかけてでも守ろうとしてしまうことです。「私にはそれだけしかない」「それだけが私の生き甲斐だ」といった表現は、謙遜好きな日本人たちが好みますが、もし本当にそうなら、その程度の「私」が社会全体に対して自己主張する権利はないはずです。「それしかない」のに「それでも熱い気持ちはある」と言って、傲慢に意見を主張しないでください。もし他者にも意見を主張しないのなら、人類の普遍的な価値観を忘れない程度の謙虚さは持ってください。

全ての人は、「人間だから」「人類の一人だから」、そんな普遍的な価値観を小さい頃から養い、その重要性を認識すべきでしょう。