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キリスト教の謎

みなが不安を持って暮らす世界を救うために、麻原彰晃は現れました。麻原は仏教を基盤とした新しい教えを広め、わずか数年の間に、信徒を爆発的に増やしていきました。その教えを理解しようともしない時の国家権力は、麻原の教団を弾圧し、麻原を裁判にかけました。無知蒙昧な大衆どもは、麻原に聞くに堪えない罵詈雑言を浴びせかけ、裁判の結果、麻原は処刑されてしまいました。しかし、麻原の死後も教団は生き残り、2000年後の今では、世界最大の信徒を持つ教団にまでなりました。

「2000年後の今では、世界最大の信徒を持つ教団にまでなりました」は未来に実現しないでしょうが、それまでの文は事実のはずです。そして、上の文章の「麻原彰晃」を「イエス・キリスト」、「仏教」を「ユダヤ教」にすれば、歴史的事実になります。

キリスト教はイエス生存当時、単なる新興宗教の一つに過ぎません(「なぜキリスト教は世界最大の宗教になったのか」に書いたように、厳密には新興宗教ですらありません)。オウム真理教のように時の国家権力により弾圧され、教祖が処刑されたので、イエスの教団は消えていく運命にありました。しかし、2000年後の今、事実として、キリスト教は世界最大の信徒を持っています。これは世界史上最大の謎と言っても過言でない気がします。

その疑問についての記事は「なぜキリスト教は世界最大の宗教になったのか」に書きました。ここでは、他のキリスト教の謎を述べていきます。

「なぜ大多数のキリスト教徒が、キリスト教についてほとんど知らないまま信仰しているのか」あるいは「どうしてキリスト教徒は聖書をそこまで大切と思っているのか」という謎です。

キリスト教では火葬が禁忌?」にも書いたように、もともとのキリスト教で火葬が禁止されていること、偶像崇拝が禁止されていること、イエスに兄弟姉妹がいること(それをカトリック東方正教会は認めていないこと)、聖書はどの時代やどの地域でも同じ内容と限らないこと、外典と呼ばれる現在の聖書に入っていない文献が多く存在すること、などの基本的なことを知らないキリスト教徒に私は多く会っています。だから、「イエスは結婚しており、妻はマグダラのマリアという売春婦だ」をテーマにした「ダ・ヴィンチ・コード」が現代にも生まれるわけです。イエスマグダラのマリアと結婚していた解釈は福音書から自然と導かれるので、1000年以上前から存在しているのですが、ほとんどのキリスト教徒は知らないのです。

これは信仰心の薄いキリスト教徒に限りません。物心着いた頃から教会に毎週日曜日に20年間以上通って、聖書を読んでいる時間が私の100倍以上は長い人でさえ、「聖霊とはなにか」という基本的な質問も答えられません。さらに、やはり毎週日曜に教会に通う敬虔なキリスト教徒なのに、上のダ・ヴィンチ・コードの影響でしょうが、「イエスは売春婦と結婚していた」と信じている人(聖書や外典に明確にそう書いていないので、事実は不明)や、「イエスは33才で亡くなった」と信じている人(イエスが生まれた年でさえよく分かっていないので、これも事実は不明。ただし、33才で亡くなった説をいろんな本で見かけるのは事実です)に私は会っています。

新約聖書がイエスの伝記(福音書)、使徒たちの布教(使徒言行録)、使徒たちの手紙(使徒の書簡)、難解な詩(黙示録)の4部門から構成されていることすら、私に言われて、一般のキリスト教徒は初めて気づいたりします。新約聖書のうち、イエスの語った教えが書かれているのは、当然、福音書の一部です。その福音書は4つありますが、どれもイエスの伝記なので、どうしても内容に重複があります。なおさら、イエスの教えは新約聖書の一部に過ぎないのです。その福音書でさえ、イエス自身が書いた内容は一切ありませんし、イエスの教えを直接聞いた人物が書いたわけでもありません。必然的に、イエスの教えが新約聖書の内容と一致しているとは限らなくなります。

新約聖書が4部門であることや、そのうちの1部門、福音書の中だけにイエスの教えがあることは、一般のキリスト教徒は知らなくても、何十年間も教会に毎週通っているキリスト教徒なら、やはり知っていました。私にとって謎なのは「イエスの教えが新約聖書のごく一部にしか書かれていない、福音書はイエスの直弟子が書いたものでないと知っているにもかかわらず、なんのために毎週、聖書を学んでいるのか」あるいは「それすら知らないのに、なぜ西洋人はキリスト教の洗礼まで受けているのか」です。

この質問を私は西洋人に何回かしたことがあるはずですが、どういった返答をされたかまでは、よく覚えていません。ただ、日本人のように「周りのみんなが信仰しているから」「家がキリスト教だったから」とは誰も言わなかったことは、間違いありません。事実はそうなのかもしれませんが、宗教のような個人思考の根本にかかわる問題で「みんながそうだから、私もそうだ」という言い訳など、西洋人は使いたくないからかもしれません。