未来社会の道しるべ

新しい社会を切り開く視点の提供

乱獲で自滅しているバカな国とそれを知らないバカな国民

ノルウェーアイスランドと並んで、ヨーロッパの中では魚介類を日本人並みに消費する漁業国です。1960年代の油田の発見で財政が潤ったノルウェー政府は、既に儲からない産業になっていた漁業に莫大な補助金を与えました。結果、1970年代にノルウェー漁業は「補助金漬け→過剰な漁獲努力→資源枯渇→漁獲量減少」と日本と同じ状況に陥ってしまいます。下のグラフは、ノルウェーの漁業で伝統的に重要な北海ニシンの漁獲量の推移です。

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1960年代後半から、北海ニシンが減少するにしたがって、漁獲率が急上昇しました。資源が少なくなると、漁業者は頑張って獲ろうとするので、漁獲圧が強まるという悪循環です。グラフを見ての通り、1970年代後半には北海ニシン漁は崩壊寸前までいったため、それまで年間の漁獲率が7割だったものを、いきなりほぼ禁漁にしました。国民に馴染みのある魚が獲れなくなったので、当然、漁業は大混乱に陥りましたが、これにより首の皮一枚で北海ニシン漁は崩壊から免れます。禁漁の効果は1980年代には目に見えて現れて、資源量は回復していきます。現在、北海ニシンは1年くらいの乱獲では崩壊しないでしょうが、過去の失敗を繰り返さないため、漁業者たちは漁獲規制を遵守しています。

一方で、下のグラフは北海道でのニシンの漁獲量の推移です。

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1960年頃に北海道のニシン漁は崩壊し、それは60年後の現在まで続いています。理由は乱獲して、資源が減少していたのに、政府が厳しい漁獲規制をかけなかったからです。

本当にバカな話ですが、まだ続きがあります。乱獲は漁獲量を減らすだけではなく、魚の単価自体を下げます。下にノルウェーでのサバの生産量と生産額のグラフを示します。

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生産量は横ばいなのに、生産額は上昇しています。これはグラフ下に書かれているように、油ではなく食用に供されるようになったからでもあり、世界的に魚食の需要が増加しているからでもありますが、「品質向上」させたからでもあります。

品質向上させる方法はいろいろありますが、一番簡単な方法が稚魚ではなく成魚になってから獲ることです。

たとえば、日本ではブリの7割が0才の稚魚の段階で獲られます。

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0才のブリは1㎏あたり100円にしかなりません。しかし、3才以上のブリは1㎏あたり1500円以上にもなるのです。2008年のブリ0才魚の漁獲高は約3600万尾で生産額は40億円でした。しかし、0才の小さいブリを漁獲せずに、3年後に大きくしてから獲れば、体重は9倍に増えて、重量あたりの単価も15倍に増えるのです。成魚になる間に自然減で4割に減ったとしても、漁獲重量は3倍、生産額は50倍になる、と「漁業という日本の問題」(勝川俊雄著、NTT出版)にあります。

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なぜ漁業者は3年が待てないのでしょうか。二束三文の稚魚を獲るよりも、大きくしてから獲った方が儲かると知っているのに、なぜそうしないのでしょうか。

やはり、それは公的機関による漁獲規制が機能していないためです。完全な早い者勝ちの世界になっているのです。意識の高い漁業者が魚の成長を待って獲ろうと思っても、他の誰かに獲られてしまいます。一部の仲間に禁漁を呼びかけても、他の連中が破ってしまったら、意味がありません。次の記事にも書く通り、日本漁業は正直者だけがバカを見る世界になっています。

特に経済的に厳しい漁業者は、数年先まで待てません。自分が一時的に逃した稚魚の大群を、もう一度自分が獲れる可能性は1%もないのです。上記の本の著者は「同じ状況だったら、私だって0才魚を獲るでしょう」と書いています。

次の記事で、日本のTAC(総漁獲枠)制度の欠陥を示します。

日本漁業の一人負け

このブログを開始した3年前から書こうと思っていたテーマです。ほとんどの情報は「漁業という日本の問題」(勝川俊雄著、NTT出版)に準じています。

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上のグラフのように、世界の漁獲量が1990年代から安定しているのに対して、日本の漁獲量は1990年代に入ってから右肩下がりです。どれくらいの日本人がこの事実を知っているでしょうか。また、どれくらいの日本人が「日本漁業の一人負け」の原因を知っているでしょうか。

日本人が魚を食べなくなったことは大した理由ではありません。下のグラフのように日本人が最も魚介類を消費したのは2001年です。1990年代を通じて日本人は大量の魚介類を消費していたのに、1990年から日本の漁獲量は減少しているからです。

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なお、上のグラフからは、もう一つ興味深いことが分かります。1911~1915年の魚介類消費量が年間わずか3.7㎏であることです。100年前の日本人は「かつてない魚離れ」していると言われる現代日本人の15%程度しか魚介類を食べていなかったのです。

事実として、日本人が魚を大量に食べ始めたのは太平洋戦争後になります。戦後に深刻な食糧難にみまわれた日本に、肉や卵を生産する余裕はありませんでした。国民に動物性タンパク質を供給するには、漁業以外の選択肢がなく、日本は国策として漁業を推進しました。戦後の水産消費の増加を支えたのは、冷蔵庫の普及とコールドチェーンの確立です。これにより、漁村以外でも新鮮な魚が食べられるようになりました。

太平洋戦争前までの「伝統ある日本文化」に魚食はほとんどありません。大量の魚食は戦後に一時的にブームになっただけで、明治時代あるいは平安時代の日本人と比べたら、現在の日本人は魚を何倍も消費しています。

ところで、1990年以降、日本の漁獲量が減っているのに、どうして日本人の魚介類消費量は同様に減少しなかったのでしょうか。その答えは、もちろん、魚介類を輸入に頼るようになったからです。

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日本人が魚を獲れなくなっても、海外から買ってしまうくらい、現代の日本人は魚好きなのです。残念なのは、最近は日本以外の国でも魚を多く食べるようになったため、魚の単価が高くなっていることです。そのため、下のグラフのように、日本は魚の輸入量は増えていないのに、輸入金額は上昇しています。

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日本の漁業は衰退産業です。

 

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もちろん、就業者数も右肩下がりです。

 

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しかし、こんな国は日本だけです。世界のほとんどの国では、漁獲量はこれまでもこれからも増えるし、漁業産出額も増えると予想されています。

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なぜ海洋学的には極めて恵まれている日本漁業だけが、こんな情けない未来になってしまうのでしょうか。その答えは、バカみたいに単純明快で、日本だけが魚の乱獲を止めないからです。次の記事で、乱獲を止めた国と乱獲を止めない日本を比較していきます。

フェイクニュースの対処法

「信じてはいけない」(平和博著、朝日新書)はアメリカのフェイクニュースの実情を知るのに有益でした。

イギリスの調査機関「ユーガブ」と「エコノミスト」が2016年にアメリカ大統領選に関連したフェイクニュースの調査をしたそうです。

オバマ大統領はケニア生まれだ」→事実と考える人36%、事実でないと考える人64%。

アメリカが見つけることはできなかったが、イラク大量破壊兵器はあった」→事実と考える人53%、事実でないと考える人47%。

上の二つは完全な陰謀論なのですが、これほどまで事実と考えている人が多いようなのです。言うまでもなく、トランプ支持者に限ると、事実と考える人の率は跳ね上がります。実際、「オバマケニア出生説」についてトランプは当選前に次のような発言をしています。

オバマケニアにいる祖母が言ったんだ。『あの子が生まれたのはケニアよ。私はその場にいて生まれたのを見ているんだから』と。今、彼女はそれをテープに録音している。もうすぐ公開されるだろう」(MSNBCのインタビュー)

「出版社の人間が3日前に来て言ったんだ。オバマが書こうとした本の概要を書きとめたものがあるんだが、その中でオバマは、自分がケニア生まれでインドネシアで育ったと喋っているんだ」(デイリービーストのインタビュー)

トランプはこんなとんでもないフェイクニュースを垂れ流している一方で、自分を批判するメディアについては「フェイクニュースメディアは私の敵ではない。アメリカ人の敵だ」と言っています。

洋の東西を問わず、フェイクニュースは右派寄りの意見ほど好まれます。だから、フェイクニュースを流して、広告収入を得ることで金儲けしている連中は過激な排外主義の意見を書き込み続けます。そんな連中はアメリカにももちろんいますが、なんとマケドニアジョージアといった外国にもいるそうです。平均月収が400ドル程度の国だと、フェイクニュースの広告収入が魅力のようです。そんな彼らは「良識的な民主党寄りのフェイクニュースも作ってみたが、ほとんど見てくれない。過激な共和党寄りのフェイクニュースの方がずっと閲覧数を増やせる」と異口同音に言うそうです。

これでは衆愚政治そのものです。とはいえ、アメリカ政治をそう批判しても、日本にも石原慎太郎という問題発言ばかりする政治家がいたではないか、と言い返されるのかもしれませんが。

ポピュリスト支持者の本当の敵であるグローバリズムの弊害の解決方法」に書いたように、下層大衆は自分の生活を苦しめている金持ち(トランプ)を支持しています。トランプを応援すればするほど、自分の生活が苦しくなるのに、それに気づいていないのです。本当にバカです。

だから、フェイクニュースの対処法として、「投票価値試験」を提案します。フェイクニュースの真偽テストをして、嘘を事実と誤認している人の投票価値を、その分だけ下げます。フェイクニュースに騙されるほどのバカは政治に参加する能力がないとみなし、参政権を制限します。

誤解してほしくないのは、参政権を一切認めないわけではありません。間違った政治知識の分だけ減らすのです。また、参政権以外の基本的人権を制限するわけではありません。

現在のように無知蒙昧な人でも政治知識豊富な人でも、平等に投票権を与えるべきではないでしょう。上記のアメリカの例のように、無知蒙昧な人たちに政治を任せても、無知蒙昧な人たちのためにもならない、と私は推測します。

コロナショックでもハンコ文化に執着する人は病院に行くべき

コロナショックによる経済停滞は、私の人生で最大規模です。都会のほぼ全ての学校が休校し、ほとんど全てのレジャー施設が休業し、多くのカフェやレストランが休業またはテイクアウトのみになるなど、私もほんの1ヶ月前まで想像していませんでした。

2019年12月に朝日新聞が「ハンコの逆襲」という特集記事を組みました。日本での会社設立にハンコが必要らしく、会社設立手続きが面倒になり、オンライン登記すらできなくなっていました。この経済の足を引っ張るだけの無用な規制に政治家たちがようやく気づいて、会社設立時に印鑑不要ルールに変えようとしたら、「(会社設立の難しさに)ハンコは関係ないだろう!」とハンコ業界が大反対しました。関係大ありですし、ハンコ業界が反対することは分かりきっていることなのですが、信じられないことに、政治家たちはハンコ業界におもねり、印鑑不要としない折衷案に落ち着きました。全体の利益を無視して、自分だけの利益を求めるハンコ業界のこの抵抗を朝日新聞は「死闘」と賞賛するような言葉で報道しており、呆れました。

コロナショックでスーパーへの外出ですら混雑時を避けているのに、ハンコを押すためだけに電車で出社するなど、誰が考えてもおかしい状況が注目されるようになり、ハンコ不要論が再び出てきました。

2020年4月28日の朝日新聞に「なぜハンコに執着?」という見出しの記事が載りました。「5千年以上前には印鑑は神聖な証明だった」など今考慮しなくていいことを書いていることも驚きですが、それ以上に驚くのは上原哲太郎や庄司昌彦(どちらも私立の4流以下の大学教授)という情報技術の専門家が官公庁の人事発令、賞状や学校の卒業証書などは「ハンコがないと格好がつかない」「雰囲気が出ない」と認めている点です。そんな言葉が出てきた時点で「こんなバカな大学の教授に聞いた自分の間違いだった」となぜ朝日新聞記者は気づかなかったのでしょうか。「なぜハンコに執着?」の答えはハンコの非効率性を知りながらも変化に抵抗するバカな大学教授や新聞記者がいるからです。自分でも意味がないと思いながらも儀式的行為を反復してしまうのは強迫性障害の典型的な症状です。さっさと病院に行ってください。

その記事にもある通り、印鑑なんて偽物が容易に作れます。ITを使えば、他に有効かつ簡単な自己証明できる方法はいくらでもあります。

今日、本当に今すぐ、日本のハンコ文化は法律で禁止してください。もちろん、官公庁の人事発令、賞状や学校の卒業証書のハンコも禁止です。無駄な税金が使われるだけの印鑑証明もやめます。ハンコの非効率性に日本人は永遠に気づかないかもしれないので、「ハンコを使うかどうかは自由」ではなく、禁止してください。

罰則なしの要請だけで、ここまで学校活動と企業活動を停止させられる国です。勉強や仕事より遥かに無用なハンコ文化を即刻絶滅させるなど、わけないはずです。

ろう者教育法問題と英語学習法問題の相似

ろう者にはバイリンガル教育(日本手話を熟達させた後、書記日本語を習得させる方法)でいくべきなのか、トータルコミュニケーション教育(口話も手話も用いた方法)でいくべきなのか、科学的な結論は出ていないようです。

日本手話教育を推進する明晴学園校長の斉藤道雄は「思考力の養成のためには、ろう者にとって最も意思疎通しやすい日本手話の習得が不可欠である」と主張します。しかし、その思考力はどうやって測るのでしょうか。その人にとって、最も分かりやすい言語で行うべき、と斉藤は考えているようですが、では、日本手話も書記日本語も、どちらも苦手なろう者の思考力はどうやって測るのでしょうか。あるいは、どちらの言語も苦手なのに、思考力が高い人などいない、と斉藤は考えているのでしょうか。

斉藤は明晴学園で書記日本語の習得がおろそかになっている事実を暗に認めています。そこで30年以上も前のアメリカのトータルコミュニケーションの文献を根拠に「トータルコミュニケーションでも書記英語の習得はできなかったではないか」と言いたいようです。

聴覚障害教育これまでとこれから」(脇中起余子著、北大路書房)を読む限り、確かに、トータルコミュニケーションでも、書記言語の習得は難しいようです。しかし、完全な日本手話教育(明晴学園の教育)よりは、一般のろう学校の教育は書記日本語の授業が充実しているので、書記日本語の習得は容易だと推測されます。

日本手話を習得することなく、口話教育で京大に合格した脇中起余子は「a.手話は不十分だが、書記日本語を習得できる、b.書記日本語は不十分だが対応手話ではない日本手話を習得できる、のいずれかにしてあげよう」と言われたら、aを選ぶと言っています。日本手話を十分に習得できない不利益と、書記日本語を十分に習得できない不利益とでは、後者の方が遥かに大きいから、および日本語対応手話でも多くの聴覚障害者と通じると感じるからです。

脇中は次の2つの意見を提示します。

①ろう者たちは手話も日本語も中途半端なセミリンガルになっている。かわいそう。なにか完全な言語を獲得させることが大切であり、ろう者の場合、それが日本手話であることは明らかである。

②書記日本語が不十分なら、職業選択の範囲が狭められる現状がある。日本手話から書記日本語への橋渡しの手法が具体的に見えない。①のように言う人は、手話モノリンガルになったときの不利益をどう考えるのか。

もちろん、脇中は②の意見です。

この議論の大前提として、『聴覚障害者は日本語の「聞く話す」はもちろん、「読む書く」も難しい』という事実があります。これは私を含む多くの人が誤解している事実ではないでしょうか。聴覚障害者が「聞けない」から「話せない」のは誰でも理解できます。しかし、聴覚障害者はなぜ読めなくて、書けないのでしょうか。

京大卒の脇中はたまたま群を抜いた読書能力を持つ天才だったのでしょうか。あるいは、脇中のような教育を受ければ、ほとんどのろう者は書記日本語を習得できるのでしょうか。

考えるべき問題は他にも多くあります。

1、明晴学園の全ての生徒たちは日本手話を十分に習得できているのか

2、聴者たちはどれくらい日本語を習得しているのか

3、明晴学園の生徒たち、一般のろう学校の生徒たち、聴者の生徒たちでは、抽象思考と人間関係と道徳力にどれくらい差があるのか

ろう者の教育法の問題が興味深いと私が思ったのは、英語教育問題と似ている部分があると考えるからです。

たとえば、日本の学校で国語以外の全ての授業を英語で行ったとします。そうなれば、日本人の英語力は確実に向上するでしょうが、同時に「平行四辺形」や「三権分立」や「酸化還元」などの言葉を知らない子どもが増えて、子どもの日本語力は落ちるでしょう。家庭で使っていない言語での教育だと脱落してしまう生徒が増えるでしょうから、今以上に学力差は大きくなります。なにより、一部の優秀な生徒を除けば、日本語も英語も中途半端になってしまい、十分な「思考力」が養えなくなるかもしれません。「国際化時代の今、子どもには英語のシャワーを浴びせなければいけない」と簡単に言う人たちは、このような理屈にどう反論するつもりなのでしょうか。

ところで、脇中は「言語に優劣はない」と明言しながらも、日本手話よりも書記日本語を習得したい、と述べています。現実問題として、日本社会では書記日本語が日本手話より遥かに有用だからです。

ここで視点を変えます。「英語と日本語のどちらを習得するか、選べ」と言われて、「英語」と答える日本人をどう思いますか。さらに書けば、そう答えた日本人が金持ちの帰国子女だったら、どう思いますか。

以前、「英語でしゃべらないと」というNHKの番組がありました。そこに出演しているキレイなだけで頭の弱い女が「No English, no success.」と番組の最後に言って、私がテレビをぶち壊したくなったことがあります。この女は「子どもがいたら、絶対に留学させたい」と能天気に言ったこともあり、そこでも私は怒って、(こんなアホウに払う給料があるなら、俺に留学費用くれよ!)と心の中で叫んでいました。当時の私は、そのバカ女と比較にならないほど強いストレスを感じながらも、社会道徳だけは重視して働いていましたが、留学費用など全く貯まりませんでした。子どもはもちろんいませんし、結婚もできませんし、なけなしの金を使ってどんなに時間をかけて探しても、彼女はできませんでした。

このブログを全部読んでもらえれば分かりますが、私も「英語と日本語のどちらを習得するか、選べ」と問われたら、「英語」と答えたいです。日本よりもカナダで暮らしていきたいためです。しかし、残念ながら、カナダで暮らす能力も気力も、お金も、協力してくれる親戚も、私にはありませんでした。だから、「英語と日本語のどちらを習得するか、選べ」と問われたら、「英語」と答えたいのですが、現実問題として私は日本で暮らすしかないので、「日本語」と答えます。

似たような問題を抱えているろう者もいるはずです。ほとんどのろう者は、好むと好まざると、ろう者のコミュニティで生きていきます。だとしたら、ろう者のコミュニティに好まずに生きるより、好んで生きた方が楽でしょう。「書記日本語」が日本全体で有用であることを知りながらも、「日本手話」の習得を重視するろう者を、簡単に非難することは、私にはできません。

私は脇中の意見にほぼ同意していて、脇中のような優秀な教育者が日本にいてくれたことに感謝していますし、脇中ほど日本のろう者教育について深い見解の人はいないとも考えています。しかし、脇中のような恵まれたエリートに一部のろう者の深く暗い葛藤までは分からないだろう、とも思います(もっとも、ほとんどのろう者は脇中を批判できるほどの葛藤を感じていないだろう、とも思います)。

自己紹介と期待する配慮事項カード

前回までの記事の続きです。

企業などから「聴覚障害者はわからないことを恥ずかしがらない。悪びれずに『知らない』と言う。失敗しても『知らなかった』と言うだけで、真剣に謝罪しないので、周囲から批判的にみられることがある」との批判を脇中は聞いたそうです。ろう学校では「分からないことは恥ずかしいことではない」とよく言っていることと関係するのでしょう。他にも企業は「上下関係をわきまえず、ため口をきく聴覚障害者が多い」「大きな失敗をしても、軽く『すみません』ですませる」「筆談しても内容が理解されない」「本人に望む配慮事項をたずねてもはっきりした返事がない」などの不満があるようです。一方、聴覚障害者からは「筆談をお願いしたら、嫌な顔をされたり、文章の間違いを笑われたりした」「手話通訳を頼んでも、配置されない」「職場で自分の障害を説明しても、すぐに人が変わる」などの不満があるようです。

これらの解決策として、脇中は「自己紹介と期待する配慮事項」というチラシの配布を提案しています。たとえば、下記のようなことは書いた方がいいようです。

・自分の障害の程度(何dB、何級だけでなく、もっと具体的に)

・どんな音節が聞き取りにくいか(『イ・シ・ヒ』が混同しやすいなど)

・補聴器はどこまで有効か(言葉として聞き取れないなど)

・声の質によって聞き取りやすさが変わる場合、どんな声が聞こえやすいか(高音部が聞こえにくいので、女性の声が聞き取りにくいことがある、など)

・場所によって理解しやすさが変わる場合、どんな位置や席が理解しやすいか(聴覚障害者の目の前に来てもらって口を少し大きく動かして話す、右耳の聴力が良いので右側で話す、前から2番目の窓側の席がよい、など)

・どんな状況なら電話に出られるのか(家族と電話しているのを見て、『職場でも電話に出てほしい』と言われる例がよくあるが、電話での聞き間違いがトラブルに発展し、職場にいづらくなって退社した例がある)

・どんな言い方が理解しやすいか(「ベンチ」が通じなかったら、座るなどと別の言葉をつけ加える。身振りや表情をつける、など)

・会話でどうしても通じなかった場合、どんな方法を望むか

・筆談ならどんな内容を望むのか(文章の間違いを笑われた例があるので、「自分は文章の間違いが多いが、努力しますので、ご指導をよろしくお願いします」と伝えるなど)

・そのほか、仲良くしたいという気持ちが伝わるようなメッセージ(「自分はスポーツが好きなので、スポーツをする時は誘ってください」など)

この「自己紹介と期待する配慮事項」のチラシは、聴覚障害者以外でも使うべきだと思います。実際、新人看護師全員にこのようなチラシを作らせて、ナースステーションの壁に貼っている病院を私は知っています。

どんな人でも完ぺきではありません。自分の長所と短所を知って、適切な方法で周囲の人に説明する能力は、全ての人にとって重要です。こういった自己紹介カード文化が広まることを期待します。かりに私だったら、次のような「期待する配慮事項」を作るでしょうか。

・道徳を重視しすぎるため、キツイ言い方になることがあります。ただし、言いすぎたと思ったら、後で謝るようにしているので、私のお詫びを受け入れてくれるとありがたいです。

・他人にあまり関心がありませんが、その分、必要以上に他人に深入りすることはありません。裏で陰口を言うこともありませんし、誰かの悪口に加わることもありません。

・私は秘密を厳守します。私が秘密とお願いした内容も、秘密厳守してくれると助かります。

・今は子育てのことで頭がいっぱいです。また、もともと私は睡眠障害があり、それを遺伝させたのか、子どももよく夜中に起きるので、夜中にあまり寝られていません。このことで、いろいろ迷惑をかけると思います。本当に申し訳ありません。

・ABRでも判明するくらいの軽い難聴があります。特に高い声は聞こえづらく、小声になると、まず聞こえません。何度か聞き返すことがあるかもしれません。申し訳ありません。

・趣味は教養本の読書です。「なんでこんな本を読んでいるのだろう」とよく思われています。その本に興味があったら、話しかけてみてください。ウマがあえば、3時間でも深く広く話し続けられます。

社会性習得教育

前回までの記事の続きです。

ろう学校の生徒たちに社会性を身に着けさせるため、脇中起余子は次のような寸劇を見せたり、マンガを読ませたりして、討論させるそうです。

1、1対1の会話と授業の違い

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1対1の会話と授業の違い

2、音楽の時間

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音楽の時間

3、指示待ち

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脇中案「部長から早くこの書類を作るように言われていますが、私も手伝った方がいいですか?」と声をかける。

4、マナーや言葉遣い

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脇中案「(たとえ相手のミスと確信していても)私の思い違いかもしれませんが」とやわらかい言い方をする。

5、福祉

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「福祉制度はあって当たり前」「お金はどこかから湧き出てくるもの」と思っているように見受けられる聴覚障害者がときどきいるようです(余談ですが、お金はいくらでも使えるものと考えているとしか思えない医者の子どもに、私はときどきどころか、よく会います)。

教室に補聴器用の新しい電池が落ちているのを見つけた教師が「これは誰の電池?」と尋ねると、ろうの生徒が「さあ。電池はただでいっぱいもらえるから(現在は個人で購入するようになっています)」と言ったそうです。その事件後、脇中がすぐに同様の寸劇をして、生徒たちに感想を求めると、「その電池はもともとは国民の税金から出ているのだから、大切に使うべき」という意見が出たそうです。 

6、遅刻

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7、行き違い

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8、ろう文化

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脇中は「ろう文化」という言葉が鼻についてしようがないと感じた時期があったそうです。「ろう文化」が相手にだけ変革や改善を求める姿勢の正当化の道具として使われているように感じたからです。

聴覚障害教育の普遍性

前回までの記事の続きです。

聴覚障害者は日本語の「聞く」「話す」だけでなく、「読む」「書く」の習得も難しい、との統計的な事実があります。

聴覚障害教育これまでとこれから」(脇中起余子著、北大路書房)には、聴覚障害児によくある日本語習得困難例が列挙されています。

1、字面が似ていると混同しやすい

「耳たぶ」を「耳ぶた」、「あらたに」を「あたらに」と音節を入れ替えて覚えている例がよくあるそうです。また「プレイ」と「レイプ」、「ビル」と「ビール」を混同したり、「まきじゃく」を「まじゃくし」と書いたりする例もあります。さらに、人の名前がなかなか覚えられない例が、時々みられるようです。

2、漢字に頼りすぎて意味を考える

「大便は大きなうんこのことで、小便は小さいうんこのこと」「座薬は座ってのむクスリのこと」「木枯らしは枯れた木のこと」「所得税は得という文字があるから、多いほどよい」などの勘違いが多発するようです。音読みと音読、赤い鉛筆と赤鉛筆、見下すと見下ろすも、漢字に頼りがちなろう者だと、それぞれ全く別の意味であることに気づきにくいです。

3、漢字が正確に読めない

「一日(いちにち)かかる」と「一日(ついたち)に行く」と「一日(いちじつ)千秋」は読み方が違います。ろう者は読めなくても問題ないと思いがちですが、パソコンで文書を作成するとき、困ることになります。

4、からだの名称が覚えられない

手話だとその部位を指すだけなのが原因なのでしょう。目、耳、口などをひらがなで書けない(=読めない)ろう者の小学生が多くいるようです。

それと関連して、「耳をすます」「耳を傾ける」「耳を貸す」などの表現を知らないろう者がいます。聴覚障害者が聞き取りやすいように、または読唇しやすいように、周囲の大人が「聞く」と言い換えることが原因なのでしょう。

5、部分否定や二重否定が理解できない

「全部分かるわけではない」を「全部分からない」と解釈してしまうそうです。また、「問題がないわけではない」が「問題がある」のか「問題がない」のか理解できないようです。

「行けないわけではない」を「行ける」に直して手話通訳すると述べた人がいた時、「行ける」と言い切ることにためらいがあるから「行けないわけではない」と言うのではないか、と脇中は思ったそうです。しかし、二重否定を理解できない生徒が多いことを知った後は、そういった通訳でも仕方ない場面もあるのだろう、と脇中は思うようになったと書いてあります。

6、擬音語・擬態語(オノマトペ)を理解できない

ろう者は「わんわん」「モーモー」などを意図的に学習しないと、理解できません。「雪がしんしんと降る」という表現がよくあるので、脇中は本当にしんしんと音が鳴っていると思っていた時期があったそうです。また、英語で犬の鳴き声が「bow wow」と書かれているのを見て、日本の犬とアメリカの犬は違う鳴き方をすると勘違いした、とも書かれています。なお、「m」や「n」が柔らかい音で、「t」や「k」が硬い音であることを知るためにも、ろう者も一度発音学習をしたほうがよい、と脇中は主張しています。

7、助詞の理解が難しい

ろう者とメールのやりとりを経験した方なら、これは気づいたと思います。調べてみると100年以上前から、ろう者は「てにをは」が苦手とよく言われているようです。

「黒板に書く」と言えるから「黒板に消す」と言える、「これで終わります」と言えるから「これで始めます」と言える、と思っている生徒がいます。「黒板を消す」と「これから始めます」を見て意味が分かっても、書かせると「黒板に消す」「これで始めます」と書く例もよくあるようです。

8、やりもらい文、受身文、使役文の理解が難しい

「くれる」と「もらう」が適切に使えません。「私は妹にくれた」「母が本を読んでもらった」などの文章を書く例があるようです。

「犬にケガされた」と書いた生徒に「犬にケガさせられた」と脇中が訂正すると、「『私は彼に掃除させられた』では、彼が私に掃除をするように使役した意味なので、『私は犬にケガさせられた』では、犬が私にケガをするよう命令した意味になるから、おかしい」と批判されたことがあったようです。

10、辞書的意味からはあっているが、不自然な文章を書く

「耳にする=聞く」だから、「私は一生けん命に先生の話を耳にした」と書いてしまうようです。

11、文法的には正しいが、使われる場面が不適切

先生に「私は驚嘆しました」と使った生徒がいたようです。普段の会話なら「驚いた」「びっくりした」が適切と分からなかったようです。

なお、6~11は日本語を外国語として学習した人もよく犯す間違いです。私自身、英語を使うときは複雑な文法を使わず、使い慣れた短文ばかりで表現しがちです。

ここからは、外国語としての日本語を学習した人にはない「間違い」です。

12、「分からない」ことが分からない、認められない

「にわかに水かさが増した」の意味が分かるとたずねると、「分かる」とろう者の生徒が言うので、手話で表現させると「庭」「蟹」「水」「傘」「増える」とします。「なぜ『蟹』が出てくるのか」と問うと、「水が多いから蟹が出てくる」と答えます。「庭」や「蟹」がこの文章で出てくるのはおかしい、「庭」と「蟹」の間に助詞もない、だから「にわかに」という言葉が存在するようだ、と考えられないようです。「『にわかに』の意味が分からない」と最初から言えるかどうかについて、聴者とろう者に差があるように脇中は感じています。

なお、少し気の回る生徒は「にわかに」のところを指文字で使って表現し、意味を知らないことをごまかそうとしますが、先生から「意味が近い手話を使ってみて」と指示されて、そこではじめて「分からない」と言う例があるようです。

13、教えてもらっていないから分からないと言う

「私の家の住所は、京都市北区です」と言える生徒に、「なるほど。じゃあ、京都府に住んでいるのね」と脇中が言うと、「母に聞かないと分からない」と答えられたそうです。「京都市に住んでいて、京都府に住んでいないことがあるのか」と聞いても、生徒はその意味が分からなかったようです。

「私の誕生日は昭和52年〇月〇日」と言える生徒に、「昭和50年に、あなたはどこにいたの?」と脇中が聞くと、「教えてもらっていないから、分からない」と言われたそうです。

また、数学でそのような答えになる理由を脇中が説明しようとすると、「説明はいらない。答えだけ教えてくれ」と生徒に言われました。さらに、数字だけ変えて再テストすると、そのことを予告していても、前のテストの答えをそのまま書いているので、答えだけを覚えていたことが分かります。それを生徒に指摘しても、「なんで数字を変えたのか」と言って怒られたそうです。

脇中がろう学校に着任した時、この13の例のような生徒に驚いたようですが、「聴覚障害教育これまでとこれから」を出版した2009年頃には、脇中のろう学校にそのような生徒はほとんどいなくなったそうです。ろう学校幼稚部の教育の変化が原因ではないか、と脇中は推測しています。

14、自己客観視と現実の直視が難しい

小さい頃は周囲の人のほめことばをそのまま受け止めますが、9才を越えると「ああ言っているが、口先だけだろう」と気づき始めます。自分が考える自己像と他者が考える自己像のずれが分かるようになるからです。将来なりたい職業を聞かれて、小さい時にはあっけらかんとプロ野球選手や歌手などと言っていた者も、中学生や高校生ともなると、よほど能力がなければなれないことに気づき、冗談でもなければ口にしないでしょう。しかし、聴覚障害者は中学生や高校生になっても、そんな将来の夢を天真爛漫に言ってしまうようです。

また、高校生になっても、ある聴覚障害児は自分の発音が通じにくいことを自覚していませんでした。相手の聴者が聞き取れなくて、聴覚障害者が苛立っているのに気づいた脇中は「筆談や手話も使って、工夫してみたら?」と提案しましたが、その聴覚障害者は「私の発音は上手よ。だって、お母さんがそう言ったもの」と言ったそうです。自信を持たせるための言葉かけと、現実を伝える言葉かけの兼ね合いの難しさを脇中は感じた、と書いています。

会社で初対面の人に対して「補聴器をしているから、全部聞こえると思うのは誤解です」と言うと、「あなたは誤解している」と相手を責めているような印象を与えるので、「補聴器をしていても、全部聞こえるわけではありません」と言う方がいいでしょう。しかし、多くのろう者は直接的な表現を好み、しばしば相手への敬意を欠いた言葉づかいをします。

ろう者と筆談したことのある方なら、助詞の使い方と並んで、これも非常に気になったことではないでしょうか。率直にいえば、私がろう者とコミュニケーションする時に一番気になったのは「相手への敬意のなさ」です。

ろう学校高等部のある女生徒は、友だちとトラブルがあるたびに、場所を選ばずに号泣していました。教師が「泣きたいときは、誰もいないところで声を抑えて泣く人が多いと思うよ」と言うと、その生徒は「そういう話は始めて聞いた」のような顔になりました。すると、その生徒は教室で泣かなくなったものの、平気で授業に遅れるようになります。教師が注意すると、その生徒は「泣きたかったから、遅刻した。仕方ない」と反省の素振りも見せませんでした。教師が「遅刻は遅刻。泣くのは休み時間だけにして、遅刻しないようにするのが社会のルール」と厳しく言うと、その生徒は「先生は私の気持ちを理解してくれない」と怒りましたが、同級生の冷たい視線を感じたのか、その後、泣き方が少しずつ変化していったそうです。

自己客観視、現実の直視ができない人は、なにかトラブルが起きた時、人のせいにしたり、言い訳に終始したり、開き直ったりします。自分にとっての理由が全てであって、相手にとっての理由は見えないし理解できないのです。自分の事情と相手の事情の両方を把握し、両者にとって良い方法を考え出すことは、さらに難しいことだ、と脇中は書いています。

15、「信頼を裏切る」などの道義的責任に関する理解が難しい

どんな生徒でも万引きや盗みの行為について、「お店の人が金銭的損害を被ったから」、悪いことは理解できます。しかし、「あなたを信頼している友人を裏切る行為だ」「生徒会役員選挙の時、あなたに信任投票を入れた友だちを裏切る行為だ」という話が理解できません(周知の通り、聴覚障害者でなくても、こんな大人は世界中にいますし、不思議なことに、政治家にもなれています)。

目上の人から命令され、それが悪いことであっても断れないような状況であった時、「悪いことと分かっているが、先輩から怒られる方が怖い」「先輩には従って、先生には言わない」などと考えてしまい、「先輩は怖いけど、これは悪いことだから、勇気を出して断ろう」となかなか考えられないようです。また、親や先生から言われた価値観やルールを鵜呑みにしがちで、「登下校の時、オーバーを着てはいけないという規則はおかしい。オーバーを認めてほしい。この規則がある理由を先生に尋ねてみよう」という発想が出てきません(「ルールの存在意義を日本人は考えるべきである」に書いたように、ほとんどの日本人にもこれは当てはまります)。

脇中は生徒と問題行動について長時間話し合った後、「このことを知ったら、親は悲しむ」と注意したら、「親が知らないままだったら関係ない。だから、先生が親に言わなかったらいい」と言われて、どっと疲労感に襲われたそうです。

12~15は聴覚障害者以外にも現れる問題です。むしろ、脇中は「これらはろう者だから起こる問題ではない。知らない、気づかない、教わっていないだけのことが多いのではないか。今後のことを考えると、こういった間違いには親身になって注意してあげてほしい。注意を受けて怒るようなろう者なら、どこでもうまくやっていけないだろう」と述べています。

また、「自分は敬語がうまく使えないから、社会に出るのが心配」という生徒に、脇中は「敬語の勉強は必要だが、敬語が使えなくても、相手を敬う態度がきちんと出ていたら、それでいい場合も多いよ」と伝えたそうです。

職場で同僚からお菓子を分けてくれた時、「私はこのお菓子が嫌いだから、いりません」と言った寸劇を脇中は生徒たちに見せたことがあります。脇中が「『お菓子が嫌いだから食べられない。だから、いらない』と本当のことを言って、なにが悪いのか?」と質問すると、ほとんどの生徒は「でも、はっきり断ったら、相手の気を悪くする。嫌いでも、『ありがとう』と言って、そっと持ち帰ればいい」と返答したそうです。

聴覚障害教育これまでとこれから」には、脇中の教育問題点の分析および解決策が他にも載っています。その本での記述ほど具体的に「抽象思考」「円滑な人間関係」「社会道徳」の問題を分析し、その解決のために、なにに注目すべきかを述べた本を私は知りません。脇中はろう学校の生徒の社会性の獲得のために、9才の壁を突破するために、ありとあらゆる方法を客観的に何十年も追及してきました。それが結果として、聴覚障害者以外の「抽象思考が苦手な人」「人間関係が苦手な人」「社会道徳に問題がある人」にも有効な教育方法を見つけることにつながった気がします。この脇中の教育法は世界中の全ての子どもにも使える教育方法ではないでしょうか。

次の記事で、脇中がろう学校の生徒たちに実践している社会性獲得のための教育方法をより具体的に紹介します。

口話否定教育を否定

前回までの記事の続きです。

「手話を生きる」(斉藤道雄著、みすず書房)を納得しながら読んでいた時、最後の日本語科(国語を明晴学園ではこう呼ぶ)の授業の紹介で、大きな疑問が生じました。小学校6年生なのに、「呼んでみました」を「呼んで、見る」と勘違いしている子がいるのです。また、原文は「海は、おおきな家でした。かぞえきれないほどたくさんのさけがいて」なのに、「海は、大きな 家でした。数えきれないほど たくさんの さけが います」と生徒たちが分かりやすいように書き換えているのです。繰り返しますが、小学校6年生の授業で、小学校1年生の授業ではありません。もちろん、日本語の読み書きの授業で、話し聞きの授業ではありません。

明晴学園中学2年生の次のような日本語文が本には載っています。

「僕の考えでは、人から人への育児、血がつながっている、心が伝わる、子どもも大きくなったら父になりたいと思う。父の気持ちが子どもにつぐ、人と人とは信頼しあっている」

この意味を理解できる日本人はいるでしょうか。

明晴学園の生徒の半数は英検3級や数検3級に合格できるものの、漢検3級に合格する生徒はまずいないそうです。それは「日本語を第二言語として習得しているからだ」と著者は弁解します。換言すれば、日本人が英語を勉強するように、明晴学園の生徒は日本語を勉強しているようです。だから、中学を卒業しても、日本人の中卒者の英語力程度しか日本語能力を持てないのです。「話す」「聞く」はもちろんのこと、「読む」「書く」でさえ日本語をろくに習得できていないのです。

ここで私は著者の理論の大きな矛盾に気づきました。「日本手話と日本語対応手話」にも書いたように、著者はトータルコミュニケーション法を否定する根拠として、「トータルコミュニケーションを受けた生徒たちはSAT(アメリカのセンター試験)の英語読解力テストで、平均して小学校3年生程度の点数しかとれなかったこと」を挙げています。しかし、トータルコミュニケーション法ではなく、著者の言うバイリンガル教育(日本手話教育)でも日本語読解力テストは、せいぜい小学校3年生程度の点数しかとれないようです。

バイリンガル教育で日本語能力は養えないかもしれないが、思考力は十分に育っている」と著者は主張していますが、根拠がありません。また、バイリンガル教育は思考力を養うが、トータルコミュニケーション法では思考力を養えない根拠が本のどこにも示されていません。その根拠がなければ、著者の理論は完全に破綻してしまいます。その肝心かなめの根拠をいくつかの文献で探し求めている間に、私は「聴覚障害教育これまでとこれから」(脇中起余子著、北大路書房)に出会いました。

なお、「バイリンガル教育は思考力を養うが、トータルコミュニケーション法では思考力を養えない証拠」は、おそらく、世界中探しても存在していません。むしろ、「バイリンガル教育もトータルコミュニケーション法も、同じように思考力を養える証拠」が将来示されるのではないか、と私は推定しています。

聴覚障害教育これまでとこれから」で脇中は手話否定教育を否定して、同時に口話否定教育を否定しています。手話否定教育は「手話は言語である」で示したように、20世紀の半分以上の期間、ろう学校で手話が禁止されたことを示します。口話否定教育とは、まさに明晴学園で行われている教育のことです。トータルコミュニケーション教育(現在のろう学校で一般的な日本語対応手話教育)とバイリンガル教育(明晴学園での日本手話教育)の「歩み寄りが大切と言われても、私はそんな歩み寄りはできない」とまで脇中は書いています。

脇中はこんな例をあげます。

「主治医からP薬しかない、と言われて、P薬を服用し続け、悪い結果になった後、患者がP薬の副作用や他の薬の存在を知ったり、主治医が『他の薬も効果的』と言い出したりすると、その患者はやりきれない気持ちでいっぱいになるでしょう」 

だから、「P薬により学力伸長をはかりたい」という思いが「P薬でなければ学力伸長できない」という言い方に変わらないこと、また周囲の雰囲気で主張を変えると逆に信用を失うことに、教育関係者は注意しなければならない、と脇中は主張します。

次の記事に続きます。

西川はま子と脇中起余子

西川はま子という女性はその劇的な人生のため、手話法と口話法の歴史の中でほぼ必ず言及される方です。

はま子は1917年に滋賀県の裕福な家庭に生まれます。はま子がどれくらいの聴覚障害者であったかは判然としませんが、重度障害者ではなく、わずかながらも聴力を持っていた者のようです。はま子の父、西川吉之助は英語とドイツ語に堪能であったので、娘の聴覚障害が分かると、独自にアメリカやドイツの文献を研究し、それらの国で主流であった純口話法教育をはま子に行いました。父の熱心な指導のかいあり、はま子は読唇により相手の発言を聞き分け、発音も自然でした。はま子は全国各地で講演し、聴覚障害者と分からないような自然な口話での会話を成り立たせ、ラジオでもその美声を示しました。聴覚障害者でも口話による会話が可能だと知った聴覚障害者たちの両親は驚き、我が子もはま子のようになってほしい、と熱望するようになります。その流れもあり、日本中のろう学校で口話が採用され、手話は口話の取得に有害との理由で禁止されることになります。口話を習得できない者は努力が足りないと判断され、教師たちから厳しい指導を受ける時代が何十年も続きます。

一方で、口話に理解を示しながらも、手話を禁止まですることはない、と考える者も一部にいました。その中には、他ならぬ西川はま子がいました。はま子は成人後、手話教育を日本で唯一実践していた大阪市立ろう学校で働くことを希望しますが、「口話教育の成功者」と有名になった女性の採用案は校長に却下されます。はま子が手話教育学校の就職を希望したショックもあったと思われますが、はま子の父、吉之助は自殺してしまいます。その後、はま子は大阪市立ろう学校に雇われ、5年間、手話教育を実践しますが、行き詰まりを感じて退職します。はま子は父と同じく口話教育の推進者となり、41才に肺炎で亡くなりました。

以下は、はま子の残した言葉です。

口話もでき、手話もできることは、ろう者として一番理想だと考えましたが、結局、私としては、ろう学校教育は難しいけれども口話でやるべきとの確信を得た」

「だが、私たちは現在口話でやっている以上、それでいいのかと考えさせられるのである。それは自分自身で、ろう者であるとはっきり認めているがために、口話を身に着けておりながら、やはり心の中には割り切れないものがあると言わねばならない」

 

脇中起余子は新生児期に(生後1ヶ月以内に)カナマイシンの副作用でろう者になりました。そのことから生年は1970年頃と推測されます。脇中の子ども時代、日本中で手話は禁止されており、教育熱心な母の方針もあって、脇中は純口話教育を受けて育ちます。脇中は並外れた本好きだったようで、幼いころから多読して、大人が「ちゃんと読んでいるのか」と思うほどの速さで本を読めるようになります。この読書力が彼女の卓抜した学力の源泉であることは間違いないでしょう。

脇中はろう学校の幼稚部に通って、「この子の聴力では発音指導は無理」と言われたそうです。母は諦めず、森原という発音教育法の優秀な教師を見つけ出し、脇中に週1回指導を受けさせました。その効果は抜群で、脇中は現在も意思疎通が口話で十分できるほどの発声力を身に着けています。なお、脇中の発声能力の成長に驚いた幼稚部の担任は、他の子ども4人にも森原の指導を受けさせ、その全員が大学に進学したそうです。

脇中は地域の公立小学校の難聴学級に通います。主要科目と音楽などは難聴学級、体育と図工と給食は聴児の学級で受けたそうです。この時、聴児の友だちを大人が喜ぶことに脇中は違和感を持ったそうです。また、発音のことでからかわれたとき、母が「ばかにされないように、がんばって発音の勉強をしようね」と言ったときも、脇中は疑問を感じたようです。

脇中は中高私立一貫校に入ります。なんとか読唇で授業も受けていますが、先生の話はほとんど分からなかったそうで、家で他の子の何倍も時間をかけて予習復習をしていました。また、優しくて口形が明瞭な友だちを見つけるのに脇中は苦労しています。苦しみを母に言っても「がんばれ」と返されるだけで、脇中は母にも心を閉ざすようになりました。

脇中は「京都大学が公費でノートテーカー(先生の話を紙に書く人)をつける」ことを新聞で見つけると、猛勉強して、京大に合格しています。

脇中が手話と出会ったのは京大時代です。「人との会話は、こんなにも楽しいものだったのか。生きていて良かった」と脇中は感じたそうです。脇中が「もう少し早く手話と出会いたかったな」と漏らした時、母が「手話を覚えなかったから、大学に行けたのに、なんてことを言うの」と言われたそうです。その言葉に脇中の怒りが爆発します。

「大学に行けるかどうかよりもずっと大事なことがある。家族の団らんで私はいつも後回し。ずっと寂しかった」

脇中の母の口形は明瞭で1対1なら、脇中は90%以上読唇できたそうです。しかし、母が他の人と会話していると、どんなに目を凝らしても10%も分からなかったといいます。父や祖母は口形が不明瞭なので、もともと分かりません。家族の団らんの中、「今、なんて言ったの?」と脇中がたずねても、「ちょっと待って」と後回しにされた挙句、「大したことじゃないから、気にしなくていいよ」と言われることもしばしばでした。手話により大人数でも会話を同時に理解できることは、脇中の人生でまさに革命だったようです。

大学卒業後、脇中は口話で教員採用試験を突破し、京都ろう学校の教員として長年働くことになります。

上記のように、ろう者への手話教育の重要性を自らの人生で悟った脇中ですが、その後の人生で手話偏重教育、特に口話否定教育とも長い年月、戦うことになります。

次の記事に続きます。

日本手話と日本語対応手話

現在、日本のろう学校の9割で行われている「手話付きスピーチ」とは、先生が声でしゃべり、その日本語の一部を手話の単語にして手を動かす手話のことです。もっと端的に言ってしまえば、これは「日本語対応手話」で授業しているということです。

ろうの人たちと接したことのある方なら、「日本手話」と「日本語対応手話」の違いは聞いたことがあるでしょう。私が所属したボランティア活動内では「どちらも差はあまりない。(口話で)話せる人なら日本語対応手話が勉強しやすいよ」と言われていたので、私はその違いについて、あまり深く考えることはありませんでした。これは「全日本ろうあ連盟」の姿勢であった、と「手話を生きる」(斉藤道雄著、みすず書房)を読んで知りました。一方、「手話を生きる」の著者は「日本語対応手話」を不完全な手話と全否定し、「日本手話」のみを推進する側にいます。

「手話を生きる」によると、日本手話は19世紀後半に日本のろう者のあいだで自然発生したそうです。しかし、前回の記事に書いたように、1933年から日本のろう学校で口話教育が強制されます。口話の発達の妨げになるとの理由で手話が禁止されてからは、日本手話は忘れ去られ、1960年代に聴者のために作り上げられた日本語対応手話だけが残りました。

1991年の第11回世界ろう者会議で、日本手話を「発見」する事件が起きます。ネイティブサイナー(両親がろう者で手話を使う家庭に育ったろう者)である木村晴美が、半澤啓子の手話通訳を見たのです。それまで木村が見てきた手話通訳者は、全て日本語対応手話での通訳だったので、頭の中でいったん日本語の文章に組み立てる作業が必要でした。しかし、半澤の手話だとそういった再構築は不要で、メッセージがそのまま木村の頭の中に入ったのです。

木村と同じくネイティブサイナーである半澤は、当時、自分の手話に全く自信がありませんでした。その手話は手話通訳業界の大御所が「みっともない」と注意するほどオーバーな仕草、身振りだったからです。しかし、それは聴者たちの見解、言い換えれば多数派からの見解でした。生まれつきのろう者にとっては、半澤の手話の方が圧倒的に分かりやすかったのです。

日本手話が忘れられていた時代、正しい手話とは日本語対応手話でした。現在でも、映画やテレビの手話はほぼ全て日本語対応手話で、成人式などの自治体の行事や式典もまず間違いなく日本語対応手話です。朝日新聞社の全国高校生手話スピーチコンテストも日本語対応手話で、事実上、日本手話が禁止されています。ただし、少しずつ変化してきており、NHK手話ニュースは2000年頃から日本手話への切り替えがはじまり、今では全面的に日本手話になったそうです。

繰り返しになりますが、これは著者独自の見解、あるいは、著者が校長を務めるろう学校の私立明晴学園の見解です。日本語対応手話と日本手話は、文法は大きく異なるものの、ほとんどの単語が共通しており、全く別の言語のはずがありません。ろう者の中にも、日本手話より日本語対応手話が分かりやすい人もいます。特に、生まれながらでないろう者、中途失聴者はそうです。日本手話と日本語対応手話の中間の手話を使う人も少なくなく、どこまでなら「日本手話」と言えるのかも不明確です。日本手話が19世紀後半に日本のろう者の間に自然発生したという説も、学術的に無理があるでしょう。聴者である古河太四郎が日本で始めて創った京都訓聾唖院で「日本手話作り」は始まったはずです。また、20世紀になってから結成された全国聾唖団体も「日本手話作り」に多大な貢献をしています。日本手話はろう者の間で自然発生した言語ではなく、聴者も含めたろう関係者の間で作り上げた人工言語であったはずです。

学術的あるいは科学的におかしい理屈を駆使してまで、なぜ著者は日本語対応手話を全否定し、日本手話だけを推進するのでしょうか。

それは英語対応手話での教育、いわゆるトータルコミュニケーションがアメリカで失敗したからです。前回の記事に書いたように、1960年代には手話を禁止していたアメリカでも、1980年代にはほとんどのろう学校で手話が導入されるようになりました。この頃のアメリカのろう学校の教育はトータルコミュニケーションと呼ばれ、手話だけでなく口話でもジェスチャーでもよい、発音を口の形と指の形であらわす「キュードスピーチ」でもよい、ろう児とコミュニケーションがとれるならなんでもいい、という方法でした。

しかし、1988年にろう教育委員会が大統領と議会に提出した報告書の冒頭で「現状のアメリカのろう教育は受け入れがたいほど不十分である」と書かれてしまいました。なぜなら、トータルコミュニケーションを受けたろう者でもSAT(アメリカのセンター試験)の英語読解力テストで、平均して小学校3年生程度の点数しかとれなかったからです(参照HPにはそのグラフもあります)。

結局、トータルコミュニケーション、つまり現在の口話と手話を用いた日本のろう学校の教育でも9才程度の学力しか身につけられません。それなら、ろう者にとって最も習得しやすい言語である日本手話を第一言語として、まずは十分な思考力を身に着けるべきである、と著者は主張します。

ろう児の9割は、聴者の両親から産まれます。現在は、出生後すぐにABRという検査で、聴者かろう者かは判明できます。ほとんどの産科のある病院ではABRが簡単に受けられるので、まずABRを受けて、そこでろう児と判明したら、聴者の両親が第一にすべきことは日本手話の使い手を探すことです。英語の話せない両親が英語を学びながら子どもに英語を教えても、子どもは英語を話せるようにはなりません。だから、日本手話を使いこなせるろう者に頼んで、ろう児の言葉親になってもらうべきである、と著者は主張します。

この考え方は革命的でした。しかし、一部理解を示しながらも、強い反論を述べる者もいます。京大卒のろう者、脇中起余子です。次の記事に続きます。

手話は言語である

「手話を生きる」(斉藤道雄著、みすず書房)は私の言語観をゆさぶる本でした。私の世界観を広げてくれた本なので、これから記事にさせてもらいます。

以前、私はボランティア活動でろうの方と接する機会がありました。正直に白状しますが、ろうの方たちと接しているうちに、私は言葉にしないものの、「ろうの人は知的水準が低いのではないか」との差別感情を持ってしまいました。同様の差別感情は、元国会議員で聴覚障害者の福祉活動を進めている「累犯障害者」(山本譲司著、新潮文庫)の著者も持っています。

「手話を生きる」を読んで、事実、平均的なろうの人たちの知的水準が低いことを知りました。同時に、それこそがまさに「ろうの人が受けた取り返しのつかない人生の蹉跌である」ことを知りました。現代日本のろうの人たちの平均的な知的水準が低いのは、ろうの人たちのせいではありません。日本の教育界で100年近くにわたって行われた口話教育にあります。

1933年から1990年代まで、日本のろう学校では、口話教育が推進されてきました。口話教育とは、ろうの人に読唇訓練をさせて、ろうの人自身にも発声させる方法です。これは(当時既に日本と仲が悪くなってきていた)アメリカのろう教育を文部官僚が持ち込んだためです。そのアメリカのろうの人たちへの口話教育は、ヨーロッパの教育法をまねたもので、1880年ミラノの世界ろう教育者会議での口話教育推進決議が大きく影響しています。それ以前の19世紀まではヨーロッパでもアメリカでもろうの人たちは手話教育を受けていましたし、日本のろう学校も大正時代までは手話でした。

今ではミラノの口話教育推進決議は、学術的な根拠はまるでなかったことが明確になっています。しかし、このミラノ決議によって、世界中で口話教育が普及していき、同時に「手話に頼るようになってしまうから」と手話がろう学校で禁止されてしまいます。結果、世界中のろうの人たちが9才程度の知的水準しか達成できない状態が生まれてしまいます。

ろうの人たちが何年間も発声練習しても、理解可能な声を出せる者や読唇を習得できる者は1~3割とわずかです。口話を達成できる人はある程度の残存聴力がある聴覚障害者のようです。手話を禁止されていて、口話もできないわけですから、ろうの人たちは言葉のない世界で生きることになります。十分な言語がないまま子ども時代を送ると、十分な思考力も獲得できません。驚くべきことに、100年もの間、ろう学校の生徒たちは9才程度の学力しか得られないまま卒業していたのに、世界中のろう教育関係者たちは、ろうの人たちの人生をどれほど台無しにしているかを気にせず、口話教育を続けていたのです。

ろう教育関係者たちは手話をなぜ否定してきたのでしょうか。それはミラノ決議にあるように「口話が手話に比べて争う余地なく優位にある」との偏見に基づき、「手話が言語である」ことを理解しなかったからです。

現在、世界中の言語学会で「手話は言語である」が既に通説になっており、同時に「言語に優劣がない」が共通理解になっています。「口話が手話に比べて優位である」ことの証拠として、しばしば「口話言語は手話言語より語彙が多く、文法が複雑である」ことが挙げられます。しかし、手話は他の言語と同じく、新しい単語を無限に作り出せます。文法に関しては、手話の方が複雑な例は無数にあります。たとえば、「納豆は食べない」という日本語文は、手話だと「ない」の表現が何通りにもなるそうです。「食べることをしない」のか、「嫌いだから食べない」のか、アレルギーなどで「食べることができない」のか、それぞれで日本手話は違います。

「手話が言語である」との学術論文は1960年にアメリカのスプーキーにより発表されました。当初は同僚の学者たちに無視され、嘲笑されたようですが、1970年代後半に多くの研究者が手話言語学の分野に参入し、形態、統語、用法のあらゆる面で、複雑で洗練された文法構造を持つことが明らかになりました。結果、アメリカでは1970年代半ばには5~6割のろう学校が手話を取り入れ、1980年代半ばにはそれが8~9割になります。

日本ではようやく1990年代から、ろう学校での手話禁止は廃止されてきて、国立特別支援教育総合研究所の調査では2007年、ろう学校の教室内コミュニケーションの9割は「聴覚口語」と「手話付きスピーチ」になっているようです。

ようやくこれで解決した、と思われるかもしれませんが、著者は「手話付きスピーチ」は「教育の場で使うには不十分で不適切なレベルの手話」と批判します。どういうことでしょうか。次の記事に続きます。

 

※注 後の記事に示すように、この記事は「日本語対応手話」を認めない著者の見解に沿って書かれており、偏りがあります。現在の私は上記のような見解を持っていません。

現場重視のフォレスター

持続可能社会を作るために日本の森林を利用すべきである」の記事にも書いた通り、針葉樹人工林の放置が日本の森林の大問題であることは周知されているので、国も間伐推進策をとってきました。しかし、必要な水準の技術者や経営者がいないまま、画一的な条件による多額の間伐補助金が投入されたため、大きな副作用が出てしまいました。

それまで間伐した木材を廃棄していたのに対して、それを利用する政策を2009年の森林・林業再生プランは推進しました。間伐材利用自体は間違っていませんでしたが、それ以外を考慮しなかったため、条件に合いさえすればいい、補助金さえもらえればいい、との間伐が多発しました。言うまでもないですが、本来の間伐は、残された森林の価値を高めることにあります。残された木の成長を促進し、気象災害に対する耐性を高め、下層植生を豊かにするためにあります。当然、間伐材の搬出時に、残存木の幹に傷をつけることなどもってのほかなのですが、ろくに森林の知識のない技術者は見事にその罪を犯していきました。作業を検査する会計検査院も森林の知識がないので、条件にさえ合っていれば補助金対象として通してしまいます。専門家がみれば、地域ごとに自然条件が異なるので、政策のような画一的な間伐でうまくいくはずがないのに、その政策がまかり通ってしまいました。まるで毛沢東大躍進政策のようです。残念ながら、この間伐政策で森林の価値がどれくらい上下したかの行政資料は現在の日本に存在しないようです。

東大や京大卒の日本の優秀な官僚たちは、なぜこんなバカな政策を推進してしまったのでしょうか。「林業がつくる日本の森林」(藤森隆郎著、築地書館)によると、「日本の森林関連の官僚は専門知識のないバカだったから」が答えの一つのようです。

日本の国家公務員の林学職の技官は、大学では森林学の座学を受けただけで、就職後は2年か3年でポストを変わっていきます。県の林業職で入った職員も同様で、地元の住民との繋がりが薄く、現場感覚をほとんど養っていません。この現状を抜本的に改善するため、上記の著者はドイツのフォレスター制度の導入を提唱しています。

森林先進国のドイツには各州に義務教育を終えた15才以上の若者を対象とした林業職業訓練学校が設置されています。3年制で修了試験に合格した者に林業技術士の公認資格が与えられ、林業事業体や州に採用されます。州に採用された林業技術士は実務を2年以上経験後、半年の現場研修を受けて、普通フォレスターに採用されます。フォレスターは国家資格であり、普通フォレスター、上級フォレスター、高級フォレスターの3種があります。1次試験に合格後、高級フォレスターは2年、上級フォレスターは1年の実務経験をしながら、徹底した現場重視の教育を受け、その後の最終試験に合格して、ようやく資格が得られます。いずれのフォレスターも更新、伐倒、集材、作業道作り、ハンティング、マーケティングなど、林業に関する作業と経営・管理技術を現場で学びます。

高級フォレスターは高級行政官、研究者、大学の教官、民間会社の幹部などとして活躍します。全てのフォレスターは専門知識を常に深める義務があり、仕事に有益な新しい研究結果を求めています。高級フォレスターは研究職にもなるので、自ら知りたい内容を研究したりもします。なにより、産学官の間で異動が行われるので、それぞれの連携および情報交換が密に行われているようです。なお、ベルリン連邦政府林野庁の高級官僚は基本的に公募で(!)、応募資格は大学教授、かつ、森林局または林業事業体や州政府森林庁での実務経験に研究実績が求められるそうです。

上級フォレスターは州の公務員として1500haくらいの任地で10~15年の長期にわたり(それくらいの期間でないと実施された方法の結果が確認できない)、州有林から私有林までの全ての森林を把握し、森林と林業の振興に寄与していきます。フォレスターはマーケットとのパイプを持ち、管轄地で生産された木材の販売支援も行い、そのために、いつ、どのような木材がどれくらい供給できるかの情報提供に努めます。また、市民に森林や林業への理解を深めてもらう教育活動も仕事の一つになります。フォレスターは一般人に講義する能力まで求められるのですが、そうした教育も受けているそうです。

出典は書いていませんが、ドイツの若者のなりたい職業で、フォレスターパイロットと医師についで3位だそうです。

フォレスター制度を日本にも導入すべきだ」との声は以前からあったようで、林野庁が2011年に準フォレスター、2014年に森林総合管理士(フォレスター)という資格制度を開始したそうです。しかし、試験のほかは、わずか半年程度の研修で得られる資格のため、現場教育中心のドイツのフォレスター制度とは似ても似つかぬものになっているようです。

日本の林業に足りないものは、森林への国民的関心および人材のようです。どちらも重要ですが、人材の育成はまだ簡単なのではないでしょうか。ドイツのようなフォレスター制度の導入は検討に値すると考えます。

日本人は森林の重要性を認識すべきである

林業がつくる日本の森林」(藤森隆郎著、築地書館)は、日本人の森林の関心不足、知識不足を繰り返し嘆いています。1970年代までは世界のどの国も森林管理の理念は木材生産の保続管理でした。つまり林業主体で森林管理を考えていましたが、1992年リオデジャネイロの第3回地球サミット以降、国際的な理念は「持続可能な森林生態系の管理」と変わっています。林業だけでなく生態系および環境破壊も考慮した視点に変わっていったわけですが、日本はいまだに木材生産の保続管理を中心とした政策ばかりのようです。何度か改正されたとはいえ、いまだに1897年成立の森林法が残っており、2001年に成立した森林・林業基本法も持続可能な森林生体系の管理を理念とするものになっていない、と著者は批判しています。新しい理念に沿った法体系の整備は必要のようです。

1970年代まで日本の伐採周期は40年でした。その理論的根拠は40年生前後が植栽から伐採までの間の林分の平均成長量が最大なので、その周期で伐採すれば生産量が最大になる、ということでした。しかし、この根拠は科学的にろくに精査されていなかったようです。著者の勤めていた森林総合研究所の長期モニタリングでは平均成長量は70から100年でもそれほど落ちないことが示されています。しかし、現在でも行政では40年を標準伐採期とする考えが一部残っているようです。

主材で同じ収穫量を得るためには、短い伐採周期ほど伐採面積が大きくなってしまいます。1970年代後半に環境問題が大きな政治問題になると、大面積伐採に対する国民の批判が高まり、それに合わせて伐採周期は従来の2倍の80年に変わりました。著者もこの流れに賛成し、100年くらいの間伐周期を提案しています。100年間伐1回の方が、50年間伐2回よりも植栽、下刈り、つる切りの経費が半分で済み、かつ、収穫材積量は何割か高いからです。

前回の記事に書いたように、日本の木材自給率は28%まで下がりましたが、その大きな原因は木材輸入自由化です。「ウルグアイラウンドとTPP交渉に見る日米外交の根本的な違い」の例にもあるように、一次産業生産物の自由化なので木材輸入自由化は外国からの圧力によるものかと思ったら、そうではありません。日本が自発的に外材の自由化を始めたのです。木材不足による価格の高騰が日本経済の足を引っ張っていると考えた経済界の要請により日本が安い外材を購入できるようにしたそうです。農家たちが抵抗すると、他が全て賛成でも、ウルグアイラウンドやTPPを停止させるほどの政治力があったのに、なぜ林業家たちはあっさり経済界に負けてしまったのでしょうか。

理由は簡単です。林業従事者は1965年でも約25万人しかいません。2010年に至っては約5万人です。一方、農家は激減した2018年でも175万人、ウルグアイラウンドの頃の1985年には543万人です。文字通り桁が違うのです。

しかし、単に従事者の数が多いから、林業を軽視して農業を重視しているのなら、日本にいる全ての人にとって大切な環境問題を見落としてしまうことになります。今からでも遅くないので、政治家、マスコミ、日本人全員は森林および林業の重要性を認識し、関心を高め、知識を増やすべきでしょう。

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持続可能社会のために日本の森林を利用すべきである

地方(田舎)への税金投入を批判した一連の記事を書いたので、まだ十分な知識を持っていませんが、地方で必ず税金投入すべき森林対策についての記事を書いておきます。主な参考文献は「林業がつくる日本の森林」(藤森隆郎著、築地書館)です。

日本では室町時代から商業的な針葉樹人工林の育成が行われていた記録があるそうですが、各地で本格的な育成林業が行われるようになったのは江戸時代で今から400年前になります。その頃の森林は村民で共有し、農業とも絡めて多面的に利用した入会林が広大な面積を占めていました。明治時代になり、その多くが国有林や公有林に編入されましたが、所有を巡った紛争が絶えず、境界が不明確であったこともあり、森林管理に大きな乱れが生じました。国家財政上の必要から国有林などへの伐採圧が高まって、明治時代に日本の森林は大きく荒れ、減少しました。

この段落は余談です。名前は忘れましたが、最近、二つくらいの本で「産業革命以前は森林が豊富との印象は幻想で、江戸時代の方が森林は破壊されていた」と読んだ記憶があります。江戸末期の写真や葛飾北斎の絵などが、山に木がないことが根拠のようでした。こちらのHPにあるように、奈良時代から環境破壊が都市の寿命を短くしてきたのは事実ですが、遅くとも江戸時代には森林破壊の危険性が認識されていました。都市や宿場町周辺はともかく、日本全体の森林量では、江戸末期が明治時代より豊富だったようです。

1897年に水害を招くような過剰な伐採や開発などに規制を加える森林法ができました。この森林法は改正により、森林資源の保続と培養を目的とするものに進展していき、1900年頃からは積極的な造林活動が全国で展開されるようになります。しかし、第二次世界大戦の異常事態のため日本中で過剰伐採が行われ、森林は減少してしまいます。

さらに戦後、住宅のための資材、薪の需要が増大し、経済界や政界は奥地林の開発を含む増伐キャンペーンを続けました。林野庁は森林資源の保続政策を重視し、森林の年間成長量を越えない範囲での収穫を訴えましたが、大新聞の社説までそろって林野庁の批判に回っていたため、人工林は若くても伐られ、天然林も過剰に伐採されました。その跡地に人工林が植えられ、人工林の面積は1970年代までの20年間でそれまでの2倍になりました。その結果、日本の全森林面積のうち人工林は40%に達しています。私もよく感じることですが、日本の森林を見ると1年中黒い針葉樹林が、広葉樹林と線を引いたような不自然な境界で接していたりします。

1990年代には1950年代からの人工林が収穫可能になり、日本の木材生産量は増大していくはずでした。しかし、現実には増大どころか減少していきます。1960年代に木材関連の輸入自由化を推進し、安い外材が手に入るようになったためと、日本の人件費が高騰してきたためです。結果、日本の森林の40%を占める人工林は間伐もされず放置され、強風や冠雪や豪雨被害を受けやすくなっています。さらに、閉鎖したスギやヒノキの人工林の内側は非常に暗いため、下層植生が極めて乏しく、生物多様性と水源涵養力が低くなっています。

密集したスギやヒノキの不健全な人工林が多い問題は、日本の森林について少しでも知っている人なら聞いたことがあるでしょう。だから、適切な間伐を行い、下草の生えた健全な森を作るべきだ、という意見は20年前から私も耳にしています。しかし、実際にはろくに進展していません。やはり日本の高い人件費が障壁になっているのでしょうか。

上記の本の著者は、人件費だけの問題ではない、と主張します。なぜなら、国際材価は1970年代から一貫して変わっていません。それにもかかわらず、日本同様に人件費の高い他の先進国では1970年代から木材生産量は2倍に増えていたりします。同時代に日本が木材生産量を3分の1まで減らしたのは、日本の木材生産者たちの古い体質と旧態依然の国産在流通システムの改善の遅れがあったからのようです。現在、日本の森林の材積成長量は年間8000万立方mで、木材需要量は年間7000万立方mです。計算上では日本の木材需要は全て日本の生産量で賄えるにもかかわらず、木材自給率は28%です。

地球温暖化を促進する化石燃料の依存度を低め、持続可能な社会を作っていくためにも、この余裕のある材積成長量を利用しないのは明らかにもったいないでしょう。森林はカーボンニュートラルなエネルギー源であり、鉄やアルミニウムの加工に要するエネルギーの100分の1から1000分の1のエネルギーで木材は加工できます。化石燃料の依存度を下げるために水力、風力、太陽熱はよく注目されますが、自然条件に左右されないエネルギー源として、どうしても火力は必要でしょう。それにもかかわらず、森林破壊のイメージがあるせいか、森林はエネルギー源として注目されていない気が私はします。ネットで閲覧できる「木質バイオマスエネルギー データブック 2018」にもあるように、既に森林からのバイオマスエネルギーは太陽エネルギーより発電能力があります。今後さらに有効活用が進めば、ほぼ限界まで達している水力エネルギー以上に森林がエネルギー源になることは間違いないでしょう。反対にしろ推進にしろ原発について意見を持っている人は、それくらいの基礎知識は持っておくべきだと思います。

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