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手話は言語である

「手話を生きる」(斉藤道雄著、みすず書房)は私の言語観をゆさぶる本でした。私の世界観を広げてくれた本なので、これから記事にさせてもらいます。

以前、私はボランティア活動でろうの方と接する機会がありました。正直に白状しますが、ろうの方たちと接しているうちに、私は言葉にしないものの、「ろうの人は知的水準が低いのではないか」との差別感情を持ってしまいました。同様の差別感情は、元国会議員で聴覚障害者の福祉活動を進めている「累犯障害者」(山本譲司著、新潮文庫)の著者も持っています。

「手話を生きる」を読んで、事実、平均的なろうの人たちの知的水準が低いことを知りました。同時に、それこそがまさに「ろうの人が受けた取り返しのつかない人生の蹉跌である」ことを知りました。現代日本のろうの人たちの平均的な知的水準が低いのは、ろうの人たちのせいではありません。日本の教育界で100年近くにわたって行われた口話教育にあります。

1933年から1990年代まで、日本のろう学校では、口話教育が推進されてきました。口話教育とは、ろうの人に読唇訓練をさせて、ろうの人自身にも発声させる方法です。これは(当時既に日本と仲が悪くなってきていた)アメリカのろう教育を文部官僚が持ち込んだためです。そのアメリカのろうの人たちへの口話教育は、ヨーロッパの教育法をまねたもので、1880年ミラノの世界ろう教育者会議での口話教育推進決議が大きく影響しています。それ以前の19世紀まではヨーロッパでもアメリカでもろうの人たちは手話教育を受けていましたし、日本のろう学校も大正時代までは手話でした。

今ではミラノの口話教育推進決議は、学術的な根拠はまるでなかったことが明確になっています。しかし、このミラノ決議によって、世界中で口話教育が普及していき、同時に「手話に頼るようになってしまうから」と手話がろう学校で禁止されてしまいます。結果、世界中のろうの人たちが9才程度の知的水準しか達成できない状態が生まれてしまいます。

ろうの人たちが何年間も発声練習しても、理解可能な声を出せる者や読唇を習得できる者は1~3割とわずかです。口話を達成できる人はある程度の残存聴力がある聴覚障害者のようです。手話を禁止されていて、口話もできないわけですから、ろうの人たちは言葉のない世界で生きることになります。十分な言語がないまま子ども時代を送ると、十分な思考力も獲得できません。驚くべきことに、100年もの間、ろう学校の生徒たちは9才程度の学力しか得られないまま卒業していたのに、世界中のろう教育関係者たちは、ろうの人たちの人生をどれほど台無しにしているかを気にせず、口話教育を続けていたのです。

ろう教育関係者たちは手話をなぜ否定してきたのでしょうか。それはミラノ決議にあるように「口話が手話に比べて争う余地なく優位にある」との偏見に基づき、「手話が言語である」ことを理解しなかったからです。

現在、世界中の言語学会で「手話は言語である」が既に通説になっており、同時に「言語に優劣がない」が共通理解になっています。「口話が手話に比べて優位である」ことの証拠として、しばしば「口話言語は手話言語より語彙が多く、文法が複雑である」ことが挙げられます。しかし、手話は他の言語と同じく、新しい単語を無限に作り出せます。文法に関しては、手話の方が複雑な例は無数にあります。たとえば、「納豆は食べない」という日本語文は、手話だと「ない」の表現が何通りにもなるそうです。「食べることをしない」のか、「嫌いだから食べない」のか、アレルギーなどで「食べることができない」のか、それぞれで日本手話は違います。

「手話が言語である」との学術論文は1960年にアメリカのスプーキーにより発表されました。当初は同僚の学者たちに無視され、嘲笑されたようですが、1970年代後半に多くの研究者が手話言語学の分野に参入し、形態、統語、用法のあらゆる面で、複雑で洗練された文法構造を持つことが明らかになりました。結果、アメリカでは1970年代半ばには5~6割のろう学校が手話を取り入れ、1980年代半ばにはそれが8~9割になります。

日本ではようやく1990年代から、ろう学校での手話禁止は廃止されてきて、国立特別支援教育総合研究所の調査では2007年、ろう学校の教室内コミュニケーションの9割は「聴覚口語」と「手話付きスピーチ」になっているようです。

ようやくこれで解決した、と思われるかもしれませんが、著者は「手話付きスピーチ」は「教育の場で使うには不十分で不適切なレベルの手話」と批判します。どういうことでしょうか。次の記事に続きます。

 

※注 後の記事に示すように、この記事は「日本語対応手話」を認めない著者の見解に沿って書かれており、偏りがあります。現在の私は上記のような見解を持っていません。