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日本手話と日本語対応手話

現在、日本のろう学校の9割で行われている「手話付きスピーチ」とは、先生が声でしゃべり、その日本語の一部を手話の単語にして手を動かす手話のことです。もっと端的に言ってしまえば、これは「日本語対応手話」で授業しているということです。

ろうの人たちと接したことのある方なら、「日本手話」と「日本語対応手話」の違いは聞いたことがあるでしょう。私が所属したボランティア活動内では「どちらも差はあまりない。(口話で)話せる人なら日本語対応手話が勉強しやすいよ」と言われていたので、私はその違いについて、あまり深く考えることはありませんでした。これは「全日本ろうあ連盟」の姿勢であった、と「手話を生きる」(斉藤道雄著、みすず書房)を読んで知りました。一方、「手話を生きる」の著者は「日本語対応手話」を不完全な手話と全否定し、「日本手話」のみを推進する側にいます。

「手話を生きる」によると、日本手話は19世紀後半に日本のろう者のあいだで自然発生したそうです。しかし、前回の記事に書いたように、1933年から日本のろう学校で口話教育が強制されます。口話の発達の妨げになるとの理由で手話が禁止されてからは、日本手話は忘れ去られ、1960年代に聴者のために作り上げられた日本語対応手話だけが残りました。

1991年の第11回世界ろう者会議で、日本手話を「発見」する事件が起きます。ネイティブサイナー(両親がろう者で手話を使う家庭に育ったろう者)である木村晴美が、半澤啓子の手話通訳を見たのです。それまで木村が見てきた手話通訳者は、全て日本語対応手話での通訳だったので、頭の中でいったん日本語の文章に組み立てる作業が必要でした。しかし、半澤の手話だとそういった再構築は不要で、メッセージがそのまま木村の頭の中に入ったのです。

木村と同じくネイティブサイナーである半澤は、当時、自分の手話に全く自信がありませんでした。その手話は手話通訳業界の大御所が「みっともない」と注意するほどオーバーな仕草、身振りだったからです。しかし、それは聴者たちの見解、言い換えれば多数派からの見解でした。生まれつきのろう者にとっては、半澤の手話の方が圧倒的に分かりやすかったのです。

日本手話が忘れられていた時代、正しい手話とは日本語対応手話でした。現在でも、映画やテレビの手話はほぼ全て日本語対応手話で、成人式などの自治体の行事や式典もまず間違いなく日本語対応手話です。朝日新聞社の全国高校生手話スピーチコンテストも日本語対応手話で、事実上、日本手話が禁止されています。ただし、少しずつ変化してきており、NHK手話ニュースは2000年頃から日本手話への切り替えがはじまり、今では全面的に日本手話になったそうです。

繰り返しになりますが、これは著者独自の見解、あるいは、著者が校長を務めるろう学校の私立明晴学園の見解です。日本語対応手話と日本手話は、文法は大きく異なるものの、ほとんどの単語が共通しており、全く別の言語のはずがありません。ろう者の中にも、日本手話より日本語対応手話が分かりやすい人もいます。特に、生まれながらでないろう者、中途失聴者はそうです。日本手話と日本語対応手話の中間の手話を使う人も少なくなく、どこまでなら「日本手話」と言えるのかも不明確です。日本手話が19世紀後半に日本のろう者の間に自然発生したという説も、学術的に無理があるでしょう。聴者である古河太四郎が日本で始めて創った京都訓聾唖院で「日本手話作り」は始まったはずです。また、20世紀になってから結成された全国聾唖団体も「日本手話作り」に多大な貢献をしています。日本手話はろう者の間で自然発生した言語ではなく、聴者も含めたろう関係者の間で作り上げた人工言語であったはずです。

学術的あるいは科学的におかしい理屈を駆使してまで、なぜ著者は日本語対応手話を全否定し、日本手話だけを推進するのでしょうか。

それは英語対応手話での教育、いわゆるトータルコミュニケーションがアメリカで失敗したからです。前回の記事に書いたように、1960年代には手話を禁止していたアメリカでも、1980年代にはほとんどのろう学校で手話が導入されるようになりました。この頃のアメリカのろう学校の教育はトータルコミュニケーションと呼ばれ、手話だけでなく口話でもジェスチャーでもよい、発音を口の形と指の形であらわす「キュードスピーチ」でもよい、ろう児とコミュニケーションがとれるならなんでもいい、という方法でした。

しかし、1988年にろう教育委員会が大統領と議会に提出した報告書の冒頭で「現状のアメリカのろう教育は受け入れがたいほど不十分である」と書かれてしまいました。なぜなら、トータルコミュニケーションを受けたろう者でもSAT(アメリカのセンター試験)の英語読解力テストで、平均して小学校3年生程度の点数しかとれなかったからです(参照HPにはそのグラフもあります)。

結局、トータルコミュニケーション、つまり現在の口話と手話を用いた日本のろう学校の教育でも9才程度の学力しか身につけられません。それなら、ろう者にとって最も習得しやすい言語である日本手話を第一言語として、まずは十分な思考力を身に着けるべきである、と著者は主張します。

ろう児の9割は、聴者の両親から産まれます。現在は、出生後すぐにABRという検査で、聴者かろう者かは判明できます。ほとんどの産科のある病院ではABRが簡単に受けられるので、まずABRを受けて、そこでろう児と判明したら、聴者の両親が第一にすべきことは日本手話の使い手を探すことです。英語の話せない両親が英語を学びながら子どもに英語を教えても、子どもは英語を話せるようにはなりません。だから、日本手話を使いこなせるろう者に頼んで、ろう児の言葉親になってもらうべきである、と著者は主張します。

この考え方は革命的でした。しかし、一部理解を示しながらも、強い反論を述べる者もいます。京大卒のろう者、脇中起余子です。次の記事に続きます。