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聴覚障害教育の普遍性

前回までの記事の続きです。

聴覚障害者は日本語の「聞く」「話す」だけでなく、「読む」「書く」の習得も難しい、との統計的な事実があります。

聴覚障害教育これまでとこれから」(脇中起余子著、北大路書房)には、聴覚障害児によくある日本語習得困難例が列挙されています。

1、字面が似ていると混同しやすい

「耳たぶ」を「耳ぶた」、「あらたに」を「あたらに」と音節を入れ替えて覚えている例がよくあるそうです。また「プレイ」と「レイプ」、「ビル」と「ビール」を混同したり、「まきじゃく」を「まじゃくし」と書いたりする例もあります。さらに、人の名前がなかなか覚えられない例が、時々みられるようです。

2、漢字に頼りすぎて意味を考える

「大便は大きなうんこのことで、小便は小さいうんこのこと」「座薬は座ってのむクスリのこと」「木枯らしは枯れた木のこと」「所得税は得という文字があるから、多いほどよい」などの勘違いが多発するようです。音読みと音読、赤い鉛筆と赤鉛筆、見下すと見下ろすも、漢字に頼りがちなろう者だと、それぞれ全く別の意味であることに気づきにくいです。

3、漢字が正確に読めない

「一日(いちにち)かかる」と「一日(ついたち)に行く」と「一日(いちじつ)千秋」は読み方が違います。ろう者は読めなくても問題ないと思いがちですが、パソコンで文書を作成するとき、困ることになります。

4、からだの名称が覚えられない

手話だとその部位を指すだけなのが原因なのでしょう。目、耳、口などをひらがなで書けない(=読めない)ろう者の小学生が多くいるようです。

それと関連して、「耳をすます」「耳を傾ける」「耳を貸す」などの表現を知らないろう者がいます。聴覚障害者が聞き取りやすいように、または読唇しやすいように、周囲の大人が「聞く」と言い換えることが原因なのでしょう。

5、部分否定や二重否定が理解できない

「全部分かるわけではない」を「全部分からない」と解釈してしまうそうです。また、「問題がないわけではない」が「問題がある」のか「問題がない」のか理解できないようです。

「行けないわけではない」を「行ける」に直して手話通訳すると述べた人がいた時、「行ける」と言い切ることにためらいがあるから「行けないわけではない」と言うのではないか、と脇中は思ったそうです。しかし、二重否定を理解できない生徒が多いことを知った後は、そういった通訳でも仕方ない場面もあるのだろう、と脇中は思うようになったと書いてあります。

6、擬音語・擬態語(オノマトペ)を理解できない

ろう者は「わんわん」「モーモー」などを意図的に学習しないと、理解できません。「雪がしんしんと降る」という表現がよくあるので、脇中は本当にしんしんと音が鳴っていると思っていた時期があったそうです。また、英語で犬の鳴き声が「bow wow」と書かれているのを見て、日本の犬とアメリカの犬は違う鳴き方をすると勘違いした、とも書かれています。なお、「m」や「n」が柔らかい音で、「t」や「k」が硬い音であることを知るためにも、ろう者も一度発音学習をしたほうがよい、と脇中は主張しています。

7、助詞の理解が難しい

ろう者とメールのやりとりを経験した方なら、これは気づいたと思います。調べてみると100年以上前から、ろう者は「てにをは」が苦手とよく言われているようです。

「黒板に書く」と言えるから「黒板に消す」と言える、「これで終わります」と言えるから「これで始めます」と言える、と思っている生徒がいます。「黒板を消す」と「これから始めます」を見て意味が分かっても、書かせると「黒板に消す」「これで始めます」と書く例もよくあるようです。

8、やりもらい文、受身文、使役文の理解が難しい

「くれる」と「もらう」が適切に使えません。「私は妹にくれた」「母が本を読んでもらった」などの文章を書く例があるようです。

「犬にケガされた」と書いた生徒に「犬にケガさせられた」と脇中が訂正すると、「『私は彼に掃除させられた』では、彼が私に掃除をするように使役した意味なので、『私は犬にケガさせられた』では、犬が私にケガをするよう命令した意味になるから、おかしい」と批判されたことがあったようです。

10、辞書的意味からはあっているが、不自然な文章を書く

「耳にする=聞く」だから、「私は一生けん命に先生の話を耳にした」と書いてしまうようです。

11、文法的には正しいが、使われる場面が不適切

先生に「私は驚嘆しました」と使った生徒がいたようです。普段の会話なら「驚いた」「びっくりした」が適切と分からなかったようです。

なお、6~11は日本語を外国語として学習した人もよく犯す間違いです。私自身、英語を使うときは複雑な文法を使わず、使い慣れた短文ばかりで表現しがちです。

ここからは、外国語としての日本語を学習した人にはない「間違い」です。

12、「分からない」ことが分からない、認められない

「にわかに水かさが増した」の意味が分かるとたずねると、「分かる」とろう者の生徒が言うので、手話で表現させると「庭」「蟹」「水」「傘」「増える」とします。「なぜ『蟹』が出てくるのか」と問うと、「水が多いから蟹が出てくる」と答えます。「庭」や「蟹」がこの文章で出てくるのはおかしい、「庭」と「蟹」の間に助詞もない、だから「にわかに」という言葉が存在するようだ、と考えられないようです。「『にわかに』の意味が分からない」と最初から言えるかどうかについて、聴者とろう者に差があるように脇中は感じています。

なお、少し気の回る生徒は「にわかに」のところを指文字で使って表現し、意味を知らないことをごまかそうとしますが、先生から「意味が近い手話を使ってみて」と指示されて、そこではじめて「分からない」と言う例があるようです。

13、教えてもらっていないから分からないと言う

「私の家の住所は、京都市北区です」と言える生徒に、「なるほど。じゃあ、京都府に住んでいるのね」と脇中が言うと、「母に聞かないと分からない」と答えられたそうです。「京都市に住んでいて、京都府に住んでいないことがあるのか」と聞いても、生徒はその意味が分からなかったようです。

「私の誕生日は昭和52年〇月〇日」と言える生徒に、「昭和50年に、あなたはどこにいたの?」と脇中が聞くと、「教えてもらっていないから、分からない」と言われたそうです。

また、数学でそのような答えになる理由を脇中が説明しようとすると、「説明はいらない。答えだけ教えてくれ」と生徒に言われました。さらに、数字だけ変えて再テストすると、そのことを予告していても、前のテストの答えをそのまま書いているので、答えだけを覚えていたことが分かります。それを生徒に指摘しても、「なんで数字を変えたのか」と言って怒られたそうです。

脇中がろう学校に着任した時、この13の例のような生徒に驚いたようですが、「聴覚障害教育これまでとこれから」を出版した2009年頃には、脇中のろう学校にそのような生徒はほとんどいなくなったそうです。ろう学校幼稚部の教育の変化が原因ではないか、と脇中は推測しています。

14、自己客観視と現実の直視が難しい

小さい頃は周囲の人のほめことばをそのまま受け止めますが、9才を越えると「ああ言っているが、口先だけだろう」と気づき始めます。自分が考える自己像と他者が考える自己像のずれが分かるようになるからです。将来なりたい職業を聞かれて、小さい時にはあっけらかんとプロ野球選手や歌手などと言っていた者も、中学生や高校生ともなると、よほど能力がなければなれないことに気づき、冗談でもなければ口にしないでしょう。しかし、聴覚障害者は中学生や高校生になっても、そんな将来の夢を天真爛漫に言ってしまうようです。

また、高校生になっても、ある聴覚障害児は自分の発音が通じにくいことを自覚していませんでした。相手の聴者が聞き取れなくて、聴覚障害者が苛立っているのに気づいた脇中は「筆談や手話も使って、工夫してみたら?」と提案しましたが、その聴覚障害者は「私の発音は上手よ。だって、お母さんがそう言ったもの」と言ったそうです。自信を持たせるための言葉かけと、現実を伝える言葉かけの兼ね合いの難しさを脇中は感じた、と書いています。

会社で初対面の人に対して「補聴器をしているから、全部聞こえると思うのは誤解です」と言うと、「あなたは誤解している」と相手を責めているような印象を与えるので、「補聴器をしていても、全部聞こえるわけではありません」と言う方がいいでしょう。しかし、多くのろう者は直接的な表現を好み、しばしば相手への敬意を欠いた言葉づかいをします。

ろう者と筆談したことのある方なら、助詞の使い方と並んで、これも非常に気になったことではないでしょうか。率直にいえば、私がろう者とコミュニケーションする時に一番気になったのは「相手への敬意のなさ」です。

ろう学校高等部のある女生徒は、友だちとトラブルがあるたびに、場所を選ばずに号泣していました。教師が「泣きたいときは、誰もいないところで声を抑えて泣く人が多いと思うよ」と言うと、その生徒は「そういう話は始めて聞いた」のような顔になりました。すると、その生徒は教室で泣かなくなったものの、平気で授業に遅れるようになります。教師が注意すると、その生徒は「泣きたかったから、遅刻した。仕方ない」と反省の素振りも見せませんでした。教師が「遅刻は遅刻。泣くのは休み時間だけにして、遅刻しないようにするのが社会のルール」と厳しく言うと、その生徒は「先生は私の気持ちを理解してくれない」と怒りましたが、同級生の冷たい視線を感じたのか、その後、泣き方が少しずつ変化していったそうです。

自己客観視、現実の直視ができない人は、なにかトラブルが起きた時、人のせいにしたり、言い訳に終始したり、開き直ったりします。自分にとっての理由が全てであって、相手にとっての理由は見えないし理解できないのです。自分の事情と相手の事情の両方を把握し、両者にとって良い方法を考え出すことは、さらに難しいことだ、と脇中は書いています。

15、「信頼を裏切る」などの道義的責任に関する理解が難しい

どんな生徒でも万引きや盗みの行為について、「お店の人が金銭的損害を被ったから」、悪いことは理解できます。しかし、「あなたを信頼している友人を裏切る行為だ」「生徒会役員選挙の時、あなたに信任投票を入れた友だちを裏切る行為だ」という話が理解できません(周知の通り、聴覚障害者でなくても、こんな大人は世界中にいますし、不思議なことに、政治家にもなれています)。

目上の人から命令され、それが悪いことであっても断れないような状況であった時、「悪いことと分かっているが、先輩から怒られる方が怖い」「先輩には従って、先生には言わない」などと考えてしまい、「先輩は怖いけど、これは悪いことだから、勇気を出して断ろう」となかなか考えられないようです。また、親や先生から言われた価値観やルールを鵜呑みにしがちで、「登下校の時、オーバーを着てはいけないという規則はおかしい。オーバーを認めてほしい。この規則がある理由を先生に尋ねてみよう」という発想が出てきません(「ルールの存在意義を日本人は考えるべきである」に書いたように、ほとんどの日本人にもこれは当てはまります)。

脇中は生徒と問題行動について長時間話し合った後、「このことを知ったら、親は悲しむ」と注意したら、「親が知らないままだったら関係ない。だから、先生が親に言わなかったらいい」と言われて、どっと疲労感に襲われたそうです。

12~15は聴覚障害者以外にも現れる問題です。むしろ、脇中は「これらはろう者だから起こる問題ではない。知らない、気づかない、教わっていないだけのことが多いのではないか。今後のことを考えると、こういった間違いには親身になって注意してあげてほしい。注意を受けて怒るようなろう者なら、どこでもうまくやっていけないだろう」と述べています。

また、「自分は敬語がうまく使えないから、社会に出るのが心配」という生徒に、脇中は「敬語の勉強は必要だが、敬語が使えなくても、相手を敬う態度がきちんと出ていたら、それでいい場合も多いよ」と伝えたそうです。

職場で同僚からお菓子を分けてくれた時、「私はこのお菓子が嫌いだから、いりません」と言った寸劇を脇中は生徒たちに見せたことがあります。脇中が「『お菓子が嫌いだから食べられない。だから、いらない』と本当のことを言って、なにが悪いのか?」と質問すると、ほとんどの生徒は「でも、はっきり断ったら、相手の気を悪くする。嫌いでも、『ありがとう』と言って、そっと持ち帰ればいい」と返答したそうです。

聴覚障害教育これまでとこれから」には、脇中の教育問題点の分析および解決策が他にも載っています。その本での記述ほど具体的に「抽象思考」「円滑な人間関係」「社会道徳」の問題を分析し、その解決のために、なにに注目すべきかを述べた本を私は知りません。脇中はろう学校の生徒の社会性の獲得のために、9才の壁を突破するために、ありとあらゆる方法を客観的に何十年も追及してきました。それが結果として、聴覚障害者以外の「抽象思考が苦手な人」「人間関係が苦手な人」「社会道徳に問題がある人」にも有効な教育方法を見つけることにつながった気がします。この脇中の教育法は世界中の全ての子どもにも使える教育方法ではないでしょうか。

次の記事で、脇中がろう学校の生徒たちに実践している社会性獲得のための教育方法をより具体的に紹介します。