未来社会の道しるべ

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ピンピンコロリは違法である

前回の記事で、医学が進歩したため、ピンピンコロリが実現できなくなった、と私は書きましたが、それはおかしな話です。医療技術が発展すれば、人間は苦しみながら死ぬしかない、会話ができなくなるまで、トイレが使えなくなるまで、歩けなくなるまで、生きなければならないのでしょうか。そんなわけがありません。新しい医療技術が世間に普及したとしても、それを拒否する権利は患者本人に必ずあるからです。この患者側の重要な権利を理解してない医療者が多すぎるように思います。

偉そうに書いている私も、十分に理解していない医療従事者の一人でした(あるいは一人です)。つい先日も、こんな事件がありました。80才の持病のない方がひどい便秘で、腸管穿孔を起こしました。認知症は全くなく、歩行もしっかりしていて、糖尿病や高血圧や高脂血症もない患者さんです。現在の医療者なら間違いなく、緊急で開腹手術します。手術すれば、あと10年は生きられる可能性の高い方です。「このまま死なせてあげよう」と100%考えません。しかし、その患者さんは当初、手術を拒否していました。普段から「周りに迷惑をかけてまで生きたくない」「延命治療はしてほしくない」と考えて、家族にもはっきり伝えていたようです。後から駆け付けた家族も手術しないよう要望してきました。しかし、外科医も看護師も私も、「医療の専門知識がないから、間違った判断をしている」としか思えませんでした。すぐにでも緊急手術したいところ我慢し30分かけて説得して、患者さんと家族から手術の同意書をもらい、実行しました。術後、患者さんは大きな後遺症もなく、社会復帰しました。患者さんや家族は後で、感謝の言葉を言ってくれています。「ビックリしたよ。たかが便秘で、死ぬ気マンマンなんだもん」との外科医の発言に、私も笑いました。

しかし、その患者さんに完全に後遺症がないわけではありません。一時的とはいえ、人工肛門生活を余儀なくされました。穿孔した大腸は切断され小さくなっているので、普段から便秘がちと思われる患者さんはさらに便秘になりやすくなっています。腹腔内の大手術を行っているため、腸閉塞にもなりやすいです。高齢での開腹手術なので、本人が気づかないながらも、体力は確実に落ちていたはずです。

このように最初は元気だった高齢者が、あれこれの病気で入退院を何度も繰り返し、そのたびに生活能力を落とし、ついには寝た切りになって、最期を迎えます。それが現在の日本の標準的な死です。

これだと、いつまでたってもピンピンコロリは実現しません。意思が表明できなくなるまで、動けなくなるまで、苦しみながら生かされてしまうことになります。どこかで治療を止めるべき時があったはずです。それが十分に元気な時だっていいはずです。

ところが、上にも書いたように、患者さんがいかにピンピンコロリを望んでいようが、現代の日本なら100%、医療者は元気な高齢者の突然死を救おうとします。たとえ医療者がその患者さんの意思を尊重したい、尊重すべきだと思っていても、終末期でもない患者さんをそのまま安楽死させると、殺人罪として訴えられる可能性が高いからです。日本では、終末期であること(この定義も曖昧ですが、東海大学安楽死事件では「患者が治癒不可能な病気に冒され、回復の見込みがなく死が避けられない末期状態にあること」)が、安楽死を認める最低限の状況です。判例を調べてもらえれば分かる通り、終末期であっても、日本では安楽死が認められず、執行猶予付きの刑罰が科されたことがあります。

終末期の安楽死でさえ法律で認められていない日本で、ピンピンコロリの実現を議論すること自体がナンセンスです。終末期の安楽死を認める法律制定が先決で、ピンピンコロリの実現はその後の話になります。だから、ここでしている議論は、10年先、20年先あるいはもっと先の話になるでしょう。もしかしたら、どこまで議論しても、自殺を社会的に認めるべきでないように、ピンピンコロリは認めるべきでない、との結論になるのかもしれません。

しかし、ピンピンコロリの選択がいつまでも法律で完全に許されない、と私には思えません。生物としての死は本人だけが責任を負います。どのような死を迎えるかを選ぶ決定権は本人だけにあるべきだからです。仕事を引退した年齢になって何年も経過したのに、老い衰えて周囲の人の世話になりたくない本人の気持ちを尊重してもいいはずです。

ピンピンコロリが実現できない理由は医者にある

ピンピンコロリは無理である」と「ピンピンコロリは理想でない」の続きです。

ピンピンコロリが不可能な理由はどこにあるのでしょうか。それは医学の進歩、および医療アクセスの充実です。もはや心筋梗塞脳卒中を起こしても、すぐに救急車を呼べば、特に後遺症もなく過ごせる時代になりました。70代になっても80代になっても、全身麻酔の必要な手術を日本中の病院で行っています。「こんな状態の患者さんを手術するんですか? 手術費はいくらなんですか? その手術費のほとんどはこの患者さんが払うのではなく、国が払う、つまり、未来の世代に担わせることを知っているんですよね?」 そんなことを私は何度も思ったことがあります。しかし、「患者さんが希望しているから」の一言で全て退けられます。治療を行うかどうかの決定権は、その患者さんにあります。医療者にはありません。

私が疑問に感じているのは、まさにその点です。確かに、患者さんが心から治療を望んでいるなら、私もある程度は納得できます。しかし、患者さんが当初望んでいない場合でも、日本なら医療者の説得により治療が行われています。たとえば、DNR(Do not resuscitate=蘇生をするな)の同意を入院時に本人から得ている時でも、「同意文書がないから」「家族の同意はまだとっていないから」といった理由で、患者さんが心停止した時、心臓マッサージが行われています。本人の同意も家族の同意も全て文書で揃っていた時でも、「それは心不全が原因で死ぬ場合のはなし。腸閉塞の同意はとっていない」といった理由で、緊急手術が行われることも普通です。

終末期に限らず、まだまだ日本は、患者本人よりも医療者が強い決定権を持っています。もちろん、患者さんや患者家族が反対しているのに、医療者が治療を強行することは今の時代ないでしょうが、「なにもしないと死ぬだけです。この手術(治療)をすると生きられるかもしれません。どうしますか?」などの嘘ではない選択で、医者が患者側に治療の同意を迫ります。こんな脅迫のような同意を拒否できる人はまずいません。

これが日本の現状です。二足歩行のできない患者さん、オムツの必要な患者さん、今が平成何年かも思い出せない患者さんで、本人が意識清明時にDNRの書類を作成していても、医者がそれを覆して患者さんや患者家族に同意を強制し、緊急手術をすることなど日常茶飯事です。日本でピンピンコロリなど、夢のまた夢であることは、医療従事者なら百も承知しているでしょう。

どうしてそこまで医者は治療をしたがるのでしょうか。「せっかく身に着けた専門知識や技術を使ってみたいから」「治療した方が儲かるから」「患者のためになると思っているから」など理由はいろいろあるでしょうが、大きな一つに「裁判で訴えられたくないから」があることは事実です。日本では安楽死を認めると、法律で罰せられるからです。だから、必ずしも医者だけでの責任ではなく、司法にも責任がある、あるいは、安楽死を認めていない社会全体の責任でもある、と私は考えています。

それについて、次からの記事で論じます。

ピンピンコロリは理想でない

「直前まで元気で、急に死ぬ」といった意味のピンピンコロリは、10年ほど前、マスコミで理想として持て囃されていました。今でも、ピンピンコロリを理想と考えている高齢者は少なくないようです。

しかし、ピンピンコロリが現実に起こったら、どうなるでしょうか。本人ですら死ぬ時を正確に予想できないので、本人が死ぬ前に伝えたかったこと、あるいは、本人が死ぬ前に処理したかった仕事が、周囲の人に残されてしまう可能性があります。事実、本人が大金の貸し借りをしていたが、詳細が分からず、全ての処理に数年もかかった、という話は、私も聞いたことがあります。

また、心臓突然死であれ脳卒中であれ、事故死であれ自殺であれ、持病もない人が突然死ぬと、ほぼ100%、警察が来ます。事件性がないか、警察にあれこれ聞かれます。近い人が予想外に死んだことでショックなところ、さらに警察の相手をしなければなりません。

ピンピンコロリは理想でないと私が考える一番の理由は、その正反対である老衰が最も好ましい死に方だと思うからです。死因統計を見てもらえれば分かりますが、ここ10年ほどで、老衰で死ぬ高齢者が急激に増えています。

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医療従事者なら知っているでしょうが、この老衰は餓死とほぼ同義です。つまり、食べられなくて、あるいは無理に食べさせなくて、亡くなっているのです。10年以上前の日本だったら食べられなくなっても、胃瘻を使って、経鼻カテーテルを使って、中心静脈カテーテルを使って、無理にでも摂らせていた栄養を、今は入れなくなったからです。そこまでしても、生命予後はほとんど変わらない、場合によっては短くなると統計的に示されたからです。また、日本経済新聞2017年12月25日の記事によれば、老衰死の割合が高い自治体ほど後期高齢者の医療費は安くなっています。さらにいえば、経口摂取以外の栄養摂取で寿命を延ばしても、QOL(生活の質)が上がるとは考えにくいです。嚥下能力がなくなった人に無理に栄養を摂らせても、食道を逆流して誤嚥性肺炎を起こしたり、静脈栄養なら腸の免疫力が落ちて感染症にかかったりします。そこまでして栄養を入れて、癌や感染症と戦わせるより、少しずつ衰弱させて、穏やかな最期を迎える方がいいだろう、と多くの医療従事者が気づいてきました。

そういった医療従事者が増えたからこそ、マスコミもピンピンコロリを称賛しなくなったと推測します。医療従事者やジャーナリストにとっては既に常識かもしれませんが、高齢者にはまだ十分に浸透していないようなので、この記事を書いておきます。

(余談ですが、昔の医療統計で老衰が多かったのは、死因を医学的に特定していなかったためと言われています。現在の医療で診断すれば、老衰のほとんどは癌だったのだろう、と推測されています)

ピンピンコロリについては、当初、前回の記事とこの記事だけで終わる予定でしたが、執筆中に、この見解では浅いと考えたので、次に続きます。

ピンピンコロリは無理である

10年くらい前、全国紙を始めとしたマスコミで「ピンピンコロリ(略してPPK)」という言葉が流行しました。「人生の最後までピンピン元気でコロリと死ぬ」といった意味で、主に「そんな死に方が理想である」という前提で使われていました。その頃の私は医療従事者でなかったので、「たしかに理想なのかもしれない」と思っていました。しかし、医療従事者になった今は、ピンピンコロリを理想とする考え方には、大きな誤りがあると気づいています。

この言葉が高齢者の間であまりに普及したせいでしょう。2011年の日本ホスピス・緩和ケア研究振興財団の調査で次のようなアンケート結果があります。f:id:future-reading:20180820203759j:plain

高齢者ほど、突然死を望んでいるようです。一方で、現実の日本の死亡原因は次のようになっています。

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1位の悪性新生物(癌)、3位の肺炎、5位の老衰など、日本の死亡原因の多くは、突然死ではありません。2位の心疾患と4位の脳血管疾患に至っても、ほとんどはピンピンコロリではありません。たった一度の心筋梗塞脳卒中で死ぬことは、最近の日本では稀です。通常、死ぬまでに何度も心筋梗塞脳卒中を繰り返します。その度に心臓カテーテル、バイパス手術、脳動脈瘤コイル塞栓術、開頭血腫除去術など、決して安くない医療費を使います。もちろん、周囲の人間を心配させるでしょうし、心筋梗塞脳卒中のため、体力の低下や麻痺も生じるので、周囲の人間の援助も必要になります。下のグラフにあるように、介護が必要な原因として、現在のところ、脳卒中認知症より多くなっています。

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こう考えてみると、ピンピンコロリが実現できる可能性は極めて低いことが分かります。そもそも、人間は生きたいように生きられないと同様、死にたいように死ねません。目標を持つことはいいのですが、上のような現実を考えれば、ピンピンコロリは虚構に過ぎないように思います。ピンピンコロリを理想としている方は、具体的にどの死因を考えているのでしょうか。まさか自殺や事故死なのでしょうか。

この記事では、ピンピンコロリの実現可能性の低さを主に証明してきましたが、次の記事では、ピンピンコロリが理想でないことを示していきます。

なぜ私がこんな国の少子化を心配しているのか。私はバカか?

「どうしてこの人は子どもを作らないのだろう? それだけならまだしも、子どもを作らないことで社会に迷惑をかけることに全く気づいていないなんて、どこまで道徳心のない奴だ。アンタが老いた時、誰が介護するんだ?」

そう思ってしまうことは少なくありません。

もちろん、子育てする経済的余裕も時間的余裕もないワーキングプアの若者たちに、そんな感想を持つことはありません。また、「今まで世の中の連中が私のためになにをしてくれた! 家族も、先生も、上司も、クラスメートも、同僚も、みんな私を理解してくれないし、理解しようともしてくれなかった! いつも私を不幸にしてきた! 日本人に返す恨みはあっても、恩などは一切ない!」と何度も思ったことのある私のような人に、子育ての社会的責任を負わすつもりもありません。

しかし、どこからどう見ても幸せな人で、世帯年収700万円以上あるいは実家暮らしと、金銭的にも恵まれている人なのに、子どもを作らないでいることに罪悪感が全くなかったりすると、正直、私は胸糞が悪くなります。

「日本社会から、あれだけ恩恵を受けているオマエが子どもを作らないくせに、日本社会からこれだけ阻害されてきたオレが、どうして必死で子どもを作ろうとしているのか。日本社会のために、こんなブログで少子化問題の重要性を訴えているのか」

バカらしいです。

母子手帳と女性手帳

国際医療について少しでも学んだことのある方なら、母子手帳が日本最高の国際医療貢献度を誇ることは知っているでしょう。私も国際医療に関する集会で母子手帳の自慢話を何回聞いたか分かりません。

母子手帳は日本発祥で発展途上国中心に世界中で普及し、わずかな経費で新生児・乳児の公衆衛生に画期的な効果があるようです。国際医療に関心のない方なら全く知らないようなので、定量的にどれくらいの効果があるのか、誰か統計的に示してほしいです。また、新生児・乳児医療への効果は間違いないので、日本人を含めた国際医療に関係ない人たちにも、母子手帳国際貢献を広報すべきでしょう。

少子化対策として提案され、あっという間に話が立ち消えになった女性手帳も、上記のような母子手帳の成功体験から生まれてきたに違いありません。賛否両論ではなく、否定的意見しか私は知りませんが、女性手帳を配布していたら、いい効果も生まれていたと私は考えています。下のような三十代後半から流産率が加速度的に上昇する統計グラフを見せて驚く女性に、私は10人以上会っているからです。

 

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これは学歴のない女性に限りません。弁護士の女性でさえ、上のグラフを見て「本当ですか」と心底ショックを受けていました(ちなみに、彼女は三十代後半でした)。そういう女性を多く見ていると、「なんでこんな重要なことを知らないままでいたのか」と、どうしても思ってしまいます。

私は医療従事者なので、下のグラフのように、女性ほど極端な変化ではないものの、男性の年齢が上がると流産率が上がることも知っています。さらにいえば、男性の年齢が上がると、やはり妊娠率は下がり、奇形率は上がります。だから、なにがなんでも子どもがほしい私は、同年代の女性との結婚となると、大変申し訳ないが、非常に躊躇してしまう、と正直に伝えています。

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保守系自民党少子化対策として女性手帳なんて提案すると、戦時中の「産めよ増やせよ」政策を思い出させて、どうしても批判されてしまうのでしょう。しかし、少子化がここまで深刻化している現在の日本なら、多少の批判があっても、少しでも効果があると思うのなら、強行すべき少子化政策はあるはずです。女性手帳の批判が殺到した時、「国家のためではなく、自分のため、将来の子どものため、少子化対策を推進します」「女性だけに少子化の責任を負わせるつもりはないので、男性手帳も配布します」「批判するのなら、他に有効な少子化政策はあるんですか」くらいは、政治家や官僚たちに言ってもらいたかったです。

性の多様性尊重と少子化対策は両立できる

昨日の朝日新聞の1面トップには、「同性カップルを生産性のない人」と発言した女性政治家への批判記事が載っていました。確かに問題発言だと私も思いますが、同性カップルだと子どもを産めないのは科学的事実であり、少子化問題が最大の政治・経済・社会問題ともいえる日本で、その事実すら言えない状況を醸し出しているのは行き過ぎでしょう。先日の朝日新聞は「子どもを作らない選択をした夫婦を、他人がとやかく言うべきでない」との趣旨のマンガまで載せられていましたが、それも行き過ぎです。このままだと有効な少子化対策がとれないどころか、その議論すらできない状況になりかねません。批判された政治家も「性の多様性は尊重されなければなりません。ただし、少子化問題も極めて重要な問題であることも分かっていただきたい」となぜ弁明しないのでしょうか。
私はこのブログで「性の問題」を広く「少子化」のカテゴリーに入れています。少子化問題を深く語るには性の問題に踏み込まざるを得ないからです。
誰かがLGBTであることを社会が否定することは許されません。子どもを産まない選択をする夫婦を社会が否定することも許されません。基本的人権が尊重される現在の日本なら当然です。ただし、少子化問題がここまで深刻になっている以上、子どもを産まない彼ら・彼女らに子どもを産み育てる程度の税金や義務を課すことは、あってしかるべきはずです。
「(自分の)子どもを作らない自由はあります。ただしその場合、子どもを産み育てる程度の税金、あるいはそれ以上の税金は課されるべきです」との発言さえ許されないのでしょうか。私がこちらのブログで主張している未婚税・少子税養子移民政策まで問答無用で批判される状況になったら、日本の衰退は加速していくに違いありません。

勤勉すぎる主婦たちが日本の生産性を下げる

遺伝的に日本人に勤勉な人の割合が高いとは思いませんが、能力のある人は極限まで勤勉にしてしまうのが日本社会のように思います。企業で働く日本人男性もそうですが、家庭でも日本人女性は平均すると世界一勤勉だと私は推測しています。

それがよく示す数値が、1960年の女性平日の家事労働時間4時間26分と、1970年での4時間37分でしょう(NHK国民生活時間調査)。この間の高度経済成長で掃除機、洗濯機、冷蔵庫が普及して、主婦の家事労働は格段に楽になったはずなのに、なぜか家事労働時間は増えています。家事に手間がかからなくなった分、日本の勤勉な主婦たちは家事の質を上げることに専念し、返って家事労働時間を増やしてしまったのです(「小林カツ代栗原はるみ」阿古真理著、新潮新書)。

これは日本人全体の幸福に大きく繋がっていたかもしれません。主婦たちが掃除や洗濯などに邁進し日本人の清潔感を上げたおかげで、公衆衛生が改善し、結核赤痢などの感染症が激減した可能性はあるでしょう。それに加えて、かつて先進国最低だった日本人の平均寿命がこの30年間世界1位を維持しているのは、主婦たちが手間ひまかけて毎回変化のある料理を家族に提供していることも大きいでしょう。私の知る限り、日本人ほど清潔な民族、日本人ほど料理に手間をかける民族は、世界中に存在しません。

1990年前後、世界で日本の存在感が最も大きかった時代、その繁栄の土台を作っていたのは、勤勉な男性企業戦士ではなく、さらに勤勉な家庭の主婦だったのかもしれません(数値化して客観的に示すのは難しいでしょうが)。しかし、他の日本の過去の必勝法と同じく、その方法は既に世界でも日本でも通用しません。むしろ、勤勉な日本の主婦たちが現在、日本全体の生産性を下げる要因になっていると私は考えています。

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このグラフのように日本の女性就業者率は上昇する一方です。一見、日本の女性が社会進出しているようですが、必ずしもそうとは言えません。

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ここで示されているように、日本女性の正規雇用はこの30年間ほとんど変わらず、就業率の上昇分は非正規雇用によって埋められているからです。

下のグラフのように日本なら男女問わず、非正規雇用なら賃金はたかが知れています。

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女性が社会進出したというより、女性がワーキングプアに仲間入りしたと考えた方が妥当でしょう。

パワハラの現状と日本の生産性の低さ」に書いたように、日本は国際比較して質の高いサービスを提供しているのにもかかわらず、サービス産業の生産性は国際比較して異常に低くなっています。この原因として、能力の高い女性が低賃金にあまんじていることがある、と私は考えています。2017年で非正規雇用2036万人のうち約3分の2、1389万人が女性です(総務省統計局・労働力調査)。この1000万人以上の女性が無能の人ばかりのはずがありません。世界最高水準の家事をこなす日本の主婦たちが働いているのですから、サービスの質は恐ろしく高くなります。それにもかかわらず、彼女たちの賃金は安いままです。世界最高水準の家事や育児などに時間をとられるため、フルタイムで働けない、つまり、非正規雇用になり、日本だと非正規だと低賃金だからです。

能力の高い女性が非正規の低い賃金で働いているので、同じ職場の男性たちは高い賃金を要求できません。能力の低い男性や女性は、非正規雇用にもなれません。結果、日本人の生産性は低くなります。これが日本のサービスの質が高いのに、日本人の賃金が低い一つの大きな要因だと考えます。

この問題の原因と解決策について、これからの記事で論じます。

学習指導員

全国共通習熟度順テスト」と「ネット教育を一般化すべきである」の続きです。これら二つの制度を導入すれば、教員人件費は大幅に削減されるはずです。その浮いた費用で、学習指導員の導入を提案します。

学習指導員は国家資格の教育職ですが、授業は行いません。生徒一人一人がなにを、どれくらい、どのように勉強しているかを把握し、それに対して助言を行い、学習効果を高めることが仕事です。学習指導員がチェックできるように、生徒は勉強している間、その勉強の様子をカメラに映す義務があります。生徒が集団学習しているなら、本人の様子と全体の様子をそれぞれカメラに映します。学習指導員は担当する全ての生徒について学習の映像記録を、早送りや一部スキップして、チェックしなければなりません。学習指導員はそれぞれの生徒の特性に合わせた学習方法について生徒と話して合意し、生徒本人の学習効果を高めます。

学習指導員のもう一つの重要な仕事は、生徒の精神面でのケアです。どんな生徒であれ、大なり小なり悩みはあります。勉強がはかどらない原因が、勉強面以外に存在することも多いでしょう。学習指導員は、勉強面以外でも生徒の相談に乗り、学習を継続していけるように助言していきます。

なお、学習指導員一人で手に負えない問題も出てくるに違いありません。そのために、生活指導員、非行指導員、発達障害指導員などの専門職も新たに創設すべきだと考えます。生活指導員、非行指導員は、私が以前提案した「家庭支援相談員」と協力することはほぼ必須になります。

ネット教育を一般化すべきである

日本の最難関学力試験である司法試験の合格者のほとんどは、現在、ネット講座で法律を学んでいることを知っているでしょうか。同様に、医師国家試験の合格者のほとんどは、ネット講座で学力を養っています。もちろん、ほぼ全ての合格者は大学で法律や医療を学んでいますが、司法試験や医師国家試験が要求する学力は、主にネット講座で習得しています。ネット講座は自分の好きな時間帯に視聴でき、何度も見返すことが可能で、0.8倍速~2倍速と観る速さを変更できるメリットがあるため、通常の対面授業よりも効率がいいからです。

ネットを使えば、地元の教えるのが下手な先生でなく、全国規模で教えるのが上手な先生から、世界中どこにいても、どんな時間でも、学年にかかわらず講義を受けることができます。先生にとっても、1回の講義で通常の対面式の百倍以上の生徒に教えられるので、労力を削減でき、教員の人件費が大幅に抑えられます。

これほどの長所があるネット講座を通常教育制度に組み込まない理由はありません。とはいえ、ネット講座が合わない生徒も確実にいるので、通常の対面授業も存続させて、そのための先生は雇うべきです。しかし、自発的に学習できるのなら、ネット講座が対面授業より遥かに効率的であると、上記の司法試験と医師国家試験の合格者の現状からも言えると推測します。これについては、教育学者が統計的に証明してほしいです。

もちろん、ネット講座には重大な欠点があります。一人で学習するため、社会性が身に着かないことはその最たるものでしょう。だから、ネット講座だけでの進級は不可で、体育祭、音楽祭、地域ボランティアなどの集団活動も必修とします。全学年、1週間あたり合計半日分はこれらの集団学習をするべきだと考えます。生徒によっては毎日こういった集団活動を行って、事実上、これまでと同じような集団学校生活を送ることも可能です。

ただし、現状の日本教育のように、全ての学力科目、実技科目、課外活動を集団で行うのは、少なくない生徒にとって好ましくない、と私は推測します。

 

捕捉

ネット講座を通常教育に取り入れるメリットは、公的なチェックが可能なことです。「藤澤孝志郎医師の殺人自供に疑問を感じない新人医師たち」に書いたように、医師としても人間としも失格の講師の発言を数千人の医学生が視聴しているのに、批判が殺到していないのは異常です。

 

全国共通習熟度順テスト

全国共通で学習指導要領は定められているのに、テストは学校ごと学級ごとに異なります。テスト作成に費やされる先生の労働時間は、日本全体で一体どれくらいになるのでしょうか。日本に教員は100万人以上いるので、一人平均年間5時間としても、500万時間(1人に換算すると571年)以上が費やされている計算です。これほど膨大な時間を費やすほどの価値が、個別のテスト作成にあるとはとても思えません。だから、次のような全国統一習熟度順テストを提案します。

・主要科目については習熟度順の全国共通テストを作成する

・全国共通テストは毎月1回、平日の最終日に受験できる

・全ての生徒は年に最低3回は全国共通テストを受験しなければならない

・生徒は習熟度順に主要科目の全国共通テストに合格しなければならない

・あるテストに不合格になった場合、もう一度同じ習熟度のテストを受験しなければならない(習熟度をスキップすることはできない)

・全国共通テストの点数は全て記録される

・既に合格した習熟度のテストをもう一度受験することができる

・テストの結果が二つ以上ある場合、よい点数だけが記録される

主要科目は、小学校から1~3年は国語と算数、4~6年は国語と算数と理科と社会、中学校と高校は英語と数学と国語と理科と社会になります。

テストの作成だけでなく、採点も一ヶ所で行った方が効率的でしょう。可能なかぎり選択式にして、採点を容易にするべきだと考えます。

この全国共通テストには次のような特徴があります。

1、科目ごとの進級が可能である

2、教育年数によらず各生徒の習熟度に合わせて学習できる

3、授業を受けずに独学で全国共通テストに合格しても構わない

この全国共通テストは、現在の大学過程の科目にも適用してもらいたいです。私の知る限り、数学、物理学、化学、生物学、医学、法学なら、どの大学でも学ぶ内容はほぼ共通しているので、全国共通テストはまず作成できます。

日本では英検、漢検、数検など、職業と直接関係ない学力を調べるための能力試験に何百万人も、わざわざお金を払って受験します。こんなにも学力能力試験が好きな国民なので、全国共通テスト進級制度は受け入れられるのではないでしょうか。

また、現在の日本では、中学入試、高校入試、大学入試で、通常の教育課程を受けてきただけではまず解けないような難問や奇問を出して、学力を判定しています。そんな特殊な入試突破学力を磨かせるよりも、より普遍的な教養を身に着けさせるため、中学、高校、大学の標準学習内容を先取りさせた方が真の学力向上に繋がることは、誰だって分かっているはずです。

この制度が普及すれば、中学校卒業程度の数学力のない大学生に経済学を教える、なんて非効率な教育はなくなっていくでしょう。また、何度も同じ習熟度テストに不合格になる生徒の意欲を削ぐことも確実です。それについての対策は「学習指導員」の記事に書きます。

愛する家族を亡くす人よりも大嫌いな家族を持つ人の方がかわいそうだ

「遺族がかわいそうだ」

私はこの考えをする者を憎みます。マスメディアで聞いただけで虫唾が走ります。二度と聞きたくありませんが、家族制度が異常に重視されるこの国では、人生であと何度聞かなければいけないのでしょうか。

私は亡くなってほしい家族ならいますが、亡くなって残念に思う家族などいません。当然、家族が亡くなって悲しむ遺族を見ても、かわいそうと全く思いません。その正反対で、誰かの死を悲しむほど恵まれた人生を送ってきた事実が、うらやましくて仕方ありません。

「遺族がかわいそうだ」と言う奴全員に、こう聞きたいです。

「死んでも全く悲しまない家族を持っている人の方がよほどかわいそうではないのですか? あたなは『死んで悲しむ家族を持つ人生』と『死んでも悲しまない家族を持つ人生』のどちらを送りたいですか?」

感動ポルノ

骨肉腫で右足を切断したカナダ人青年のテリー・フォックスの話です。骨肉腫はがんの一種で、現在なら広範切除と化学療法で5年生存率が70%以上になりましたが、当時は切除しても肺転移などで亡くなる確率の方が高かった病気です。

テリー・フォックスはがん研究資金を募るために、カナダ西海岸から東海岸まで、義足にかかる一歩ずつの激痛に耐えながらも、毎日42km走りました。しかし、143日目にして、肺転移のため無念の途中リタイアとなります。翌年、22才の若さで逝去します。

1981年に亡くなったテリー・フォックスは、カナダ人なら知らない人はいないほど有名です。私もカナダ留学中に何度もこの話を聞きました。「彼の脚の痛みを思い出すと、涙が出そうだ」と語っていたカナダ人は、私の一番の親友です。

それを前提として断定しますが、これは典型的な感動ポルノです。当たり前ですが、テリー・フォックスが痛みに耐えながら走ることと、骨肉腫研究の進展はなんの関係もありません。清く正しい障害者が懸命に何かを達成しようとする場面をメディアが取り上げて、かつ、それに感動する大衆がいて、始めて意味を持ってくる行為です。メディアが上手く扱わなければ、メンタルまで侵されたマゾの義足青年にしか見えなかったかもしれません。

私はこの話を聞くたびに、偽善を強く感じました。感動を強要させることに違和感がありました。

「若くてがんになることよりも嫌な現実に耐えている者は、この世界にいくらでもいる」

「一言一言話すことが、テリー・フォックスの一歩一歩の激痛よりも遥かに辛い人だっている」

「骨肉腫の研究よりも重要なことが世の中には無数にある」

「こんなクソみたいな人生を送るくらいなら、テリー・フォックスとして生きたかった」

そう思う人は少なくないはずです。私もその一人です。

上の話を聞いて、テリー・フォックスが幸せな恵まれた人生を送ったことに気づかない人は21世紀になった現在でもどれくらいいるか、誰か調べてくれませんか。

優秀な労働者を韓国や台湾にとられる日本

今回の一連の記事で「日本人がしたがらない仕事を外国人に低賃金労働させるなんて非人道的だ」なんて説教をするつもりはありません。むしろ「日本の人手不足産業を外国人労働者にしてもらった方が、日本全体の利益になるので好ましい」という見解で書いています。外国人労働者だって、もとより出稼ぎが目的のはずです。上記のような非人道的な見解を無視していいとまでは断言しませんが、雇用主と外国人労働者がどちらも納得して仕事が進んでいるのですから、現場と全く関わりのない金持ち連中がとやかく言う権利はない、とも思います。

問題なのは、雇用主と外国人労働者がうまくマッチングできていないことです。前回までの記事に書いたように、官僚や怪しいブローカーが暗躍し、外国人労働者だけでなく、雇用主や日本の納税者も搾取されています。

情けないのは、この杜撰な外国人労働者政策の実態をマスコミがほとんど報道せず、国民も関心がないことです。それが現在、未来の日本にとって、どれだけ国家的損失になるか、想像もできないのでしょうか。

2018/1/7の朝日新聞日曜版globeに、韓国もかつて外国人労働者を「実習生」として受け入れて、大失敗していた例が載せられています。韓国でも怪しいブローカーが暗躍し、仲介業者がピンハネし、追い詰められた外国人労働者たちの失踪が相次いだそうです。

そこで韓国は「国際貢献」や「技能移転」などの建前を捨て、真正面から「人手不足産業に外国人労働者を受け入れる」と認めたそうです。公的機関が前面に出たため、怪しいブローカーはいなくなり、渡航前に背負った借金で苦しめられる外国人労働者は激減しました。

現在、カンボジアでは韓国語教室が人気だそうです。その理由は上記朝日新聞の記事に出てくる韓国人教室のマネージャーの次の言葉に集約されているでしょう。

「日本で働いた経験がある学生もいるが、行くまでに6500㌦(約74万円)かかり、寮費などを引かれて手取りは月7万~8万円だったらしい。韓国なら月1500㌦(約17万円)以上は稼げる」

韓国語を十分に習得したカンボジア人は、韓国で搾取されることもなく10年間も働くことができ、帰国後も韓国への親近感を持っているそうです。一方、日本語もろくにできないまま日本に来たベトナム人たちは、ブローカーへの借金を返すため、毎日の長時間単純労働を余儀なくされ、精神をすり減らし、日本人に親切にされることもないまま帰国し、反日となっている例があると「ルポニッポン絶望工場」(出井康博著、講談社+α文庫)には書かれています。

カンボジアベトナムインドネシアの労働者が2005年と2015年でどれだけ日本、韓国、台湾で働いているかを示した図を下に載せておきます。f:id:future-reading:20180525215939j:plain

カンボジアといえば1992~1993年の日本の選挙協力を思い出して、親日国とのイメージを持っていた私は、10年あるいは20年、時代遅れだったようです。この問題の本質を日本のマスコミはもっと大きく報道し、日本人全体を啓蒙すべきです。

外国人介護士・看護師を受け入れると日本の納税者も搾取されるシステム

「長寿大国の虚構」(出井康博著、新潮社)にある通り、外国人介護士の受け入れに積極的だった日本の介護施設経営者は決して少なくありませんでした。「ルポニッポン絶望工場」(出井康博著、講談社+α文庫)にある通り、経済産業省や外務省も外国人介護士受け入れに積極的でした。しかし、介護士不足の現状を十分に知っているはずの厚労省はなぜか消極的で、国会議員の中にも賛否両論あったようです。この混乱ぶりが、外国人介護士問題を迷走させます。

外国人介護士たちの就労が長引かないように、厚労省は国家試験合格というハードルを課しました。この国家試験ハードルは同じくEPAにて受け入れられた外国人看護師にも課されていますが、両者には根本的な違いがあります。日本人は国家試験を合格しないと看護師にはなれませんが、日本人は国家試験を合格しなくても介護士になれる点です。当時、介護職に就いている日本人のうち、介護福祉士の国家資格を持っている者は3分の1に過ぎませんでした。しかし、外国人介護士は来日後4年間のうちに国家試験に合格しなければ、介護士を続けることはできず、日本から帰国しなければなりません。こんな条件のせいで不利益をまず被るのは、介護を必要とする日本の高齢者たちになります。

看護師に着目すると、EPAで来日した外国人たちは3年間のうちに国家試験に合格しなければなりませんでした。しかし、2009年では82人受験し合格者がゼロ、2010年には245人が受験し合格者3名と惨憺たる結果でした。看護師国家試験は、日本人なら9割が合格します。外国人看護師たちは母国での国家資格を持った人たちに限られているのに、理不尽な日本語ペーパー試験が課されています。ちなみに、ドイツではボスニア・ヘルツェゴビナから受け入れた看護師に、一定期間の職場経験の後、「口頭試験」を受けさせ、75名全員を合格させたそうです。母国での有資格者なので、ドイツ人の医師や患者とコミュニケーションがとれているかを口頭試験で確認できたら、それで十分だと判断しているわけです。この理にかなった方法を厚労省は知らないのでしょうか。日本語のペーパー国家試験を外国人の看護師有資格者に課すなど、嫌がらせとしか思えません。

話を介護士に戻します。外国人介護士の受入数は2009年に406人だったのに、2010年には159人、2011年には119人と減っていきました。理由は上記の外国人看護師の国家試験合格者があまりに少なかったことです。介護施設は、斡旋手数料や日本語研修費などで一人あたり約80万円払うので、外国人介護士にはできるだけ長く働いてほしいと考えています。しかし、国家試験に落ちると、4年間で外国人介護士に辞めてもらわないといけません。そんな短期間しか働いてくれないのに、日本語のできない外国人介護士を雇いたくない、と介護施設経営者が考え始めたわけです。結局、介護士の受け入れは2年経過しても予定の半分にも満たなかったので、国際問題にもなりかねませんでした。

すると、日本政府は態度を急変して、外国人介護士一人の受け入れにつき年23万5千円の国家試験対策費用を支払って、外国人介護士の受入数を強引に増やします。「ルポニッポン絶望工場」では、この費用は国家試験対策費用という名のバラマキに過ぎないと断定しています。

腐敗はこれにとどまりません。「外国人実習生からピンハネする官僚たち」に書いたJITCOのような天下り機関が、外国人介護士の分野にもしっかり根を張っています。国際厚生事業団(JICWELS)という厚労省天下り先が、一人の外国人介護士を施設に割り振るだけで13万円を徴収する仕組みになっています。

それら費用を合計すると、外国人介護士・看護師の受け入れに4年間で80億円の予算が投入されています。その間の合格者は介護士と看護師を合わせて104人なので、単純計算すると、一人の合格者を出すために約8千万円使っている計算になるそうです。8千万円といえば、私のカナダ留学費用の40年分に相当します。

こうなってくると、被害者は外国人看護師・介護士や日本の高齢者だけでなく、日本の納税者全員になってしまいます。一方、受益者は日本と送り出し国の官僚だけです。これを腐敗と言わず、なにを腐敗と言うのでしょう。