未来社会の道しるべ

新しい社会を切り開く視点の提供

健康的な食事と医学

「ビタミンCは風邪を治す」との仮説があります。ビタミンCを入れた試験管内で、免疫細胞が活性化していることが、この説の根拠です。

しかし、この論文にあるように、風邪にかかってからビタミンCを摂取しても効果はありません。ビタミンCを毎日1~2g摂取していれば、風邪症状期間を短縮させることは8~13.6%の人にあります。さらに、こちらの論文によると、ビタミンCの毎日1gの定期摂取で、女性は1.25倍~1.97倍白内障になりやすくなります。

「実験室ではこうだったが、人間に摂取させてみたら違った」ことはよくあります。同様に、「動物実験ではこうだったが、人間では違った」こともよくあります。だから、最近認可されている医薬品は全て、ヒトによる臨床試験で効果が認められてから、一般に発売されています。

上の研究から他に言えることは、「水溶性ビタミンはどれだけ摂っても尿として出ていくから害はない」との仮説は誤り、ということです。これも理論上はそうだと思われていたが、実際には違った例でしょう。

なお、「どうしてビタミンCの摂取で白内障になるのか」の答えを正確に答えられる医者は世界中に一人もいません。とはいえ、人間には10万ものタンパク質があり、その相互作用はほぼ全て解明できていないので、ある食物の過剰摂取で予想もしない結果が起こることは、どんな医者でも想像はできるはずです。また、上の研究はビタミンCの摂取と白内障の相関関係を示しただけで、因果関係まで示したわけではない(ビタミンCが白内障の原因とは限らない)ことも、医者なら知っておかなければなりません。

ここから先は私の推測になりますが、摂れば摂るほど健康になる食品や栄養素は存在しないでしょう。厚生労働省が上限を定めていない栄養価は少なくありませんが、まだ科学的に証明されていないだけで、実際には上限値(これ以上摂るべきでない量)が存在すると思います。

高齢者が増えたからといって医療費が増えるとは限らない

高齢者が増えると、医療費が増えると多くの人は考えています。長年、私もこれを疑ったことがありませんでした。しかし、それは必ずしも正しくないはずです。高齢まで生きようが、生きまいが、人間は必ず死に、死ぬ前には病気になります。高齢者には申し訳ありませんが、社会全体で考えれば、若い人の死を救う価値はありますが、高齢者の病を救う価値はあまりありません。高齢者はたとえ一時的に死を救えたとしても、そう遠くないうちに死に至るからです。だとしたら、高齢者が増えたのなら、死や死に至る病を救う労力は減るはずなので、社会の医療費総額はむしろ安くなってもいいはずです。

アメリカの医療は先進国最悪である」でも書きましたが、アメリカの医療費の高さに最も影響を与えているのは、高齢者の増加でなく医療技術の進歩です。この傾向は「高齢者の増加=医療費の増加」と当然のように考えている人には注目に値するはずです。

なぜ歯科の保険診療総額は増えないのか」でも書いた通り、高齢化が進んでも、歯科の保険診療総額は大して増えていません。予防医療の成果で、歯の病気が減ったからです。もちろん、高齢化が進めば、最終的に歯を失う人は増えるでしょうが、だからといって、みんながインプラントにしたりするわけではありません(もっとも、インプラント保険診療ではありませんが)。医療全体であっても、予防医療を充実させていけば、医療費を抑制することは可能なはずですし、そうすべきです。

健康への欲求は無限である」にも書いた通り、病院を増やしたり、医者を増やしたりすれば、皆保険制度では、ほぼ自動的に医療費は増大します。だから、歯科の例にもあるように、インプラント保険診療からはずすなど、予防をしなかった責任費用は自己負担にさせるべきです。なお、医療費無料のはずのカナダでは、歯科と眼科は自費診療です。

なお、高齢者が増えても医療費を削減することは可能だと思いますが、介護費用(福祉費用)を削減するのは難しいでしょう。バブル期までベッド数を必要以上に増やしてしまった日本では、医療が介護を担っていた側面があります。2000年までゼロだった介護保険費用が10兆円に到達したのですから、実質的に介護費用も含まれていた医療費を10兆円は無理でも、数兆円減らすことは可能なはずです。そのために、厚労省が何度も挑戦しては延期を繰り返している「療養病床の消滅」は必要でしょう。

なぜ歯科の保険診療総額は増えないのか

歯科医師の数は右肩上がりです。

f:id:future-reading:20190308221835j:plain日本で医師の数が約30万人ですから、歯科医師数約10万は多すぎです。誰だって歯科医師数を制限したくなります。だから、かつて90%合格が当たり前だった歯科医師国家試験の合格率を70%程度まで低くして、新しく歯科医になる者を制限しています。

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歯学部は6年制です。人生の中で6年が短い期間のわけがありません。そんな長期間も歯学の勉強をした人物を歯科医にさせないなど、人材の無駄遣いです。それは厚生労働省も分かっているので、歯学部の入学者数を制限したいのですが、歯学部は私立が多いため、それがなかなかできていません。

一方で、歯科の保険診療総額は現在2.8兆円で、ここ20年間ほど、あまり変わっていません。

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医療費は増加傾向なのに、歯科だけ割を食っている、と不平を言う歯科医を私は何名も知っています。なぜ厚生労働省は、歯科の保険診療総額を上げないのでしょうか。

理由は単純です。日本人の歯の病気が減っているからです。歯学だけではなく、医学の教科書にも載っている統計事実ですが、12才の日本人の虫歯の数は、フッ素入り歯みがき剤の普及により、劇的に減っています。

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科学的に示された歯の健康増進は、フッ素入り歯みがき剤と歯みがき習慣の普及です。「歯みがき100年物語」(ライオン歯科衛生研究所編、ダイヤモンド社)によると、1925年の児童の1日あたりの歯みがき回数は、朝1回47.3%、夜1回1.8%、朝晩が7.2%です。それが2011年の児童の歯みがき回数になると、1日2回61.1%、1日3回以上22.0%、1日1回14.3%となっています。

子どもの虫歯が減っただけではありません。高齢者の歯の数も増えています。80才で20本の歯を残している人は1987年で、わずか7.0%でした。1987年は8020運動が提唱された年で、当時、これは相当に高い目標と思っていたようです。しかし、2011年に8020を達成している人は40.2%と激増しています。

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断定します。予防歯科の成果です。もちろん予防に邁進してきた歯科医たちの貢献もあるでしょう。しかし、虫歯になった時だけ治療してきた歯科医たちの成果では、決してありません。

虫歯も減って、歯周病で失う歯も減ったのですから、必然的に、歯医者の需要は下がります。厚労省の本音としては「歯の病気が減ったのだから、歯科の保険診療総額が増えないのは当然だ。むしろ、減らしたいくらいだ」になるでしょう。

歯科の保険診療総額が増えないからといって、全体としての日本人はそれほど困っていないはずです。事実、「歯科の保険診療費用が安すぎる」「歯科医の収入は減る一方だ」と嘆いているのは、歯科医たちだけです。しかし、下のグラフにあるように、それでも歯科医の収入は、一般の日本人よりも遥かに恵まれています。多くの日本人は「歯科の保険診療費用が安いのはいいことだ。不満があるなら、今すぐ歯科医を辞めろ」と言いたいでしょう。

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こちらの記事で、「予防医療で医療費は削減できない」というトンデモ説を批判しましたが、上の歯科の例にもあるように、予防医療が医療費を削減できるのは間違いありません(し、そもそも削減できるべきです)。同様のことは、医療全体にも言えるはずです。「高齢者が増えたからといって医療費が増えるとは限らない」の記事に続きます。

日本のリハビリテーションに欠けているもの

日本の一般入院施設は2016年で、高度急性期が約17万床、急性期が約54万床、回復期が約13万床、慢性期が約34万床になります(他に精神病床などもありますが、今回は扱いません)。大まかな入院期間は高度急性期病棟で数日間まで、急性期病棟で14日間まで、回復期病棟なら2~3ヶ月間まで、慢性期病棟なら無制限となります。入院費用は高度急性期病棟で約15万円/日、急性期病棟で約3万8千円/日、回復期病棟で約78万円/月、慢性期病棟で約50万円/月になります。ここではリハビリと最も関係の深い回復期病棟について紹介させてもらいます。

よくある誤解なのですが、急性期病棟の14日間で治らなかった患者さんが、続いて回復期病棟に入れるわけではありません。回復期病棟の目的は、リハビリでの能力回復です。リハビリで特に効果のある場合だけが対象なので、主に脳血管障害直後または骨折直後の患者さんが回復期病棟に入院できます。肺炎や癌の患者さんは入院できませんし、脳血管疾患や骨折だったとしても、発症から1年以上たっていればリハビリ効果は期待できないので、入院できません。

回復期病棟に入院前と退院後で、脳梗塞で発語すら難しかった患者さんが長文の感謝状を音読できるようになったり、大腿骨転子部骨折で立つことすらできなかった患者さんが杖も使わずに歩いて帰ったりします。それほど回復するなら、「回復期病棟こそ最も費用対効果のある医療が行われている」「たとえ将来日本で医療崩壊が起こっても、回復期病棟は残すべきだ」と思われるかもしれませんが、それは必ずしも正しくありません。

回復期病棟に入院していなくても、自力でリハビリさえしていれば、同じように能力が快復するからです。それに、回復期病棟で入院していても、リハビリ専門職が1日中リハビリをしてくれるわけではありません。保険診療で最大3時間しかリハビリ専門職は患者さんにリハビリできないと決まっています。そして、リハビリ専門職が3時間患者さんに専門知識を活かしたリハビリするよりも、患者さんがその数倍の時間に自力でリハビリした方が能力は早く回復します。

予防は治療に勝る」にも書いたことですが、リハビリで最も基本となる医学的事実は次になります。

「リハビリ専門職が限られた時間に患者さんにリハビリするよりも、リハビリ専門職が関われない大多数の時間に患者さんが自力でリハビリする方が効果的である」

こうなると、極論すれば、回復期病棟は一つもいらないことになります。リハビリ専門職が脳梗塞後や骨折後の患者さんの家庭に訪問し、効果的なリハビリ方法と計画を示して、患者さんがその通りに実践しているか、リハビリ専門職が定期的に訪問してチェックすればいいだけです。もちろん、患者さんとしては現在のようにリハビリ専門職がつきっきりでリハビリしてくれることが理想でしょうし、そうしないと患者さんがどうしてもサボってしまうことも統計的事実です。脳梗塞後や骨折後の大切な期間にリハビリをサボってしまうと障害が患者さんに一生残り、場合によっては介護も必要になります。結果、その患者さんだけでなく社会全体の損失にもなるので、患者さんが発症後の大切な時期にサボらないよう、通所でリハビリできるセンターは必要です。そのリハビリセンターまで毎日連れて行ってくれる家族がいない患者さんもいるため、また、その中にはリハビリ専門職が定期的に通うにはあまりに辺鄙な場所に住んでいる患者さんもいるため、回復期病棟も少しは社会に必要になるでしょう。だから、回復期病棟が日本に全て不要とまでは主張しません。

しかし、回復期病棟に限りませんが、日本の医療では患者さんに自己責任の意識があまりに薄すぎます。その大きな理由の一つが、医療者が患者さんに医療の限界を伝えていないからです。医療に限界があるのは科学的事実です。「高齢者が肺炎で入院すれば寿命が短くなる 」にも書いたように、医療に頼るよりも患者さんの自力で処理すべき場合が、日本では少なくありません。医療に頼るべきでない医学的事実があるなら、医療職はそれを伝えなければなりません。

しかし、多くの医療従事者はそう伝えるのを避けます。理由としては「医療に頼ろうとしている人に、医療に頼ってはいけない、とは言いづらい」「医療職が医療の欠点を伝えたら、自己の存在意義を否定することになる」「医療のありがたみがなくなる」などでしょう。

もし医療費が全額自己負担なら、上のような理由は納得できなくはありません。しかし、医療費のほとんどが自己負担でなく社会負担である現状、上のような理由は通りません。各個人の医療費が社会負担なのは、社会全体の利益に合致しているからです。医療職が医療に頼るべきでない医学的事実を伝えず、医療を施しているなら、自己中心すぎます。そんな独善的な事業を社会全体で負担する理由はありません。

だから、リハビリ専門職も上記のリハビリの最も基本となる医学的事実は患者さんに必ず伝えなければならない、それを患者さんに理解してもらう努力をしないのならリハビリ職を辞めなければならない、と私は思います。しかし、「リハビリ専門職が限られた時間に患者さんにリハビリするよりも、リハビリ専門職が関われない大多数の時間に患者さんが自力でリハビリする方が効果的である」ことを患者さんに伝えている日本のリハビリ専門職に、私は一人も会ったことがありません。

残念です。

高齢者が肺炎で入院すれば寿命が短くなる

高齢者が発熱で苦しんでいると、家にいても施設にいても、誰かがその高齢者を病院に連れてきます。もし肺炎だと分かると、ほぼ自動的に入院になります。高齢者だと誤嚥性肺炎の可能性が高いので、入院初期は絶食とされます。食事をして、また誤嚥したら、肺炎が治らない(と考える医者がいる)からです。栄養は点滴から入れられ、多くの患者さんは一人で横になる時間がいつも以上に長くなります。退院した時、肺炎は治っていますが、入院前より体力が落ち、認知能力が下がり、嚥下能力が下がり、日常生活能力(ADL)が下がります。必然的に、余命も短くなります。

肺炎で入院しても、することといえば、抗菌薬の点滴くらいです。現在なら、点滴の抗菌薬と同等の内服の抗菌薬がまずあります。それをもらって、家で治せばいいだけです。非定型肺炎なら抗菌薬すらなくても、本来の免疫力で通常治ります。万一、点滴が必要だとしても、点滴だけ受けに病院に通えばいいだけです。入院する必要はありません。

肺炎に限らず、入院になると、必ずと言っていいほど点滴を行う病院が日本には多くあります(私の病院がそうです)。高齢者の肺炎、消化器系疾患での入院なら、絶食になり、点滴栄養になるのが普通です。食事するにも筋肉が必要です。3日運動しないと筋肉が落ちるように、3日食事していないと嚥下能力が下がります。嚥下能力が低くて、誤嚥したから肺炎になった患者を、絶食にさせて、さらに嚥下能力を下げる、というバカみたいな方法が、日本の誤嚥性肺炎の標準治療です。

たとえ健康な人でも、一日中ベッドで横になって無為に過ごし、点滴で栄養をとっていれば、体力は落ちますし、免疫力は落ちますし、消化能力は落ちますし、頭は鈍くなります。入院は、病気を治す点では有効かもしれませんが、質の高い人生を送る点では有害ですし、寿命を縮めます。

だとしたら、肺炎だからといって、入院させなければいいのですが、日本ではそれが難しいです。帰宅させて、その肺炎が悪化して亡くなった場合には責任問題になる、と医療者側が恐れているからです。その可能性は、高齢者だと低くありません。もちろん、上述の通りに病院でも家でも、できる治療にそれほど差はないので、家に帰して亡くなったとしたら、入院しても亡くなっていた可能性が高いです。だから、責任問題になる方がおかしいですが、多くの日本人はそれを理解し、納得できるでしょうか。

私が高齢者になって発熱で苦しんだとしても、まず病院には行きません。かりに行って肺炎だと分かったとしても、入院は拒否して、抗菌薬の処方を希望します。そちらがより長生きできるし、質の高い人生を送れると分かっているからです。

手術の時以外は入院しない、という患者さんに私は会ったことがあります。その患者さんは、つい先日100才になりました。その患者さんを長年訪問診療している医師も私も「もし発熱のたびに病院に行っていたら、患者さんは100才までは生きられなかった」という点で意見が一致しています。

「入院したから寿命が短くなることがある」とは、多くの人が夢にも思っていません。しかし、私の病院ですら「入院したら日常生活能力が下がります。だから、入院はお勧めしません」と医者が伝えることはよくあります。救急外来にいたら、1日1回、多い時は5回、この言葉を聞きます。それでも、ほとんど場合、患者さん(とその家族)は在宅での治療よりも入院治療を希望してきます。おそらく、医者の真意が伝わっていません。医者の言葉が、患者さんの常識とあまりにかけ離れているため、理解できていないように私は思います。

だから、あえてこの記事で書かせてもらいました。入院したから寿命が短くなることは確実にあります。

健康的な食事は未解明だが、健康の最大の要因は食事に違いない

何年か前に書店で「長生きしたければ肉食をやめろ」という本の隣に「健康になりたければ肉食をしよう」という本を見つけたことがあります。どちらも正しくもあり、間違ってもいます。

日本の高齢者には5剤以上の薬を併用する方が過半数いますが、5剤以上の薬剤併用の医学研究はこの世に存在しません。相互作用があまりに複雑になり、個人差もあるので、適切な研究ができないからです。そもそも医学では、複数の病気を同時に診る発想が皆無に近く、いつも一つの主訴、一つの病気のみにこだわります。これは医学の致命的な欠点だと私は以前から思っていますが、それを指摘する医者はあまりいません。

人間のタンパク質は10万程度存在すると推定されています。そのほとんどの構造や機能は分かっていません。そして、人間はタンパク質以外にも、炭水化物、脂質、ミネラル、ビタミン、腸内細菌などで成り立っています。各物質の機能や役割が分かっていないので、それらの100万、100億、100兆の相互作用など、完全な謎に近いです。健康的な食事が科学的によく分かっていないからこそ、正反対の主張の本が堂々と並んで売られているわけです。

しかし、「食事について科学的になにも分かっていない」と断定するのも、間違いです。たとえば、人間が制御できるものの中で、健康の最大の要因は、やはり食事でしょう(制御できないものも含めると、遺伝でしょう)。健康に与える影響は、運動、ストレス、睡眠、喫煙、薬物、清潔度など、いろいろな要因はありますが、特定の個人ならともかく、世界全体、あるいは国全体で考えれば、食事が一番だと私はほぼ確信しています。その根拠として、私がよく使う資料が下になります。(見ての通り、これは健康ではなく、死亡に与える影響のグラフです。「医療はゼロをプラスにする役割が苦手である」に書いた通り、健康への影響の数値化は難しいので、より容易な死亡への影響を参考にしています)f:id:future-reading:20190221170257p:plain

これによると1番影響を与えているものは喫煙になりますが、2番以降の高血圧、高血糖、塩分の高摂取、アルコール摂取、高LDLコレステロールなどなどは、ほとんど食事によるものです。それらの影響度を全て合わせると、喫煙を軽く越えます。

洋の東西を問わず、「医食同源」「You are what you eat.」といった格言は昔から存在します。それは過去から現在まで、人類あるいは生物全体の真理を表しているはずだ、と私は考えています。

ベーシックインカムよりも人的支援を充実させるべきである

昨日出会った70才の女性です。大腿骨頸部骨折後に手術した患者さんでした。子ども時代にいじめにあったため、ろくに小学校も行っていなかったそうです。年齢からし日本国憲法下の時代に育っているので、憲法違反です。親はどうしていたのか、と思いますが、本人は認知症もあるので、詳しく事情を聞くことはできませんでした。

問題はそれだけではありません。本人は結婚して3人の子どもを生んでいますが、その3人の子どもを例外なく虐待してきたそうです。現在、本人は3人の子どもから親子の縁を切られており、介護はもちろん、本人への一切の手助けが拒否されました。本人は夫から暴力をふるわれていたようで、夫とは既に離婚しています。

これを読んで、どう思うでしょうか。

(かわいそうだ)

ほとんどの人はそう思って、終わります。医療職や福祉職の人でも同じです。あるいは、医療職や福祉職に就いていたら、毎日のようにこんな話を聞いているので、なんとも感じない、という人も多いかもしれません。倫理観の劣る医師になると「医者は家族の問題など解決している暇はない。もっと重要な仕事をするために働いている」と平然と言ってのけます。そんな道徳観に欠ける奴は、社会全体からみれば害をもたらす存在なので、たとえ2000時間残業している医師だとしても、日本人の平均年収以上の給与を絶対に与えないでほしいです。

その女性にとって、骨折を手術で治して歩行可能にするよりも、信頼しあえる家族を持つ方が、生活の質を遥かに高めることは、猿でも分かります。それすら分からない奴は猿にも劣るので、給与は一切払わず、バナナを現物支給であげてください。

もちろん、その女性に信頼しあえる家族を持ってもらうことは、骨折を手術で治すことよりも、遥かに難しいです。いえ、より正確にいえば、その女性の家族関係を修復するのは、ほぼ不可能でしょう。率直に言って、もう手遅れです。だから、私がそういった人を前にして、いつも思うのは、こんなことです。

(なぜ、もっと早く福祉の手を差し伸べなかったのか)

どうして、学校に行けなかった子どもの時に、福祉の手が入らなかったのでしょうか。どうして、夫からDVを受けている時に、福祉の手が入らなかったのでしょうか。どうして、子どもを虐待している時に、福祉の手が入らなかったのでしょうか。どの問題も、その女性一人では解決できないことは明らかです。本来なら、日本の公的福祉が、日本人全体が救うべき人だったはずです。その女性は日本人全体の低い道徳観の犠牲者です。

私が上の状況を知った時、次に心配になったのは、その女性の3人の子どもです。その女性がそうだったように、3人の子どもがDVをしていないか、あるいはDV夫やDV妻と結婚していないか、気がかりです。

ベーシック・インカム」(原田泰著、中公新書)という本があります。新書だけあり、理論的な解説が多く、読む価値はあります。「ベーシックインカムは究極のバラマキ政策である。個人の問題に国家が全て介入していれば、社会福祉士の必要数は膨大になり、税金がいくらあっても足りない。だから、全員に最低限度のお金を払って、全て自己責任にすればよい」というような意見を主張しています。しかし、これは著者も「究極のバラマキ政策」と言っている通り、理想論あるいは極論です。上のような女性がお金を受け取って、問題を解決できるわけがないことは誰だって分かるはずです。著者には日本の福祉の現場をぜひ見て回ってほしいです。

著者にとって「税金がいくらあっても足りない」と思われる、社会福祉士が全ての個人の問題に介入する方法しか、全ての人は救われない、と私は確信します。この意見も極論になりえますが、少なくとも、上のような女性に早期に人的支援を与えるべきことは、現代の感覚なら、当然のはずです。学校にも行かない人をそのままにしていたら、生活保護になる人が増えたり、知性も倫理観も乏しい人が増えたり、犯罪率が増えたりして、返って社会全体に悪い影響を与えることは明白です。

これは極端な例にしても、日本は個人だけでなく社会全体にとっても明らかに有益な福祉政策が、まだまだ実施されていません。具体的な例は、このブログの「高齢者以上に現役の社会的弱者にも個別事情に応じた人的援助を与えるべきである」などの記事に書いています。ベーシックインカムを効果的に実現するとなると、日本なら200年は早いでしょう。

医療はゼロをプラスにする役割が苦手である

医療の基本ですが、専門職でもこの基本を認識していない人は多くいます。ほとんどの医療は病気を治すことに特化しています。医療はマイナスをゼロにすることは得意でも、ゼロをプラスにすることは苦手なのです。

その大きな理由は、健康の度合いを科学的に判定することが難しいからです。科学的にいえば、最も判定が容易なのは死です(脳死などの判定が難しい問題があったとしても、他と比較すれば、まだ容易です)。医療の一番の目的が死亡率を下げることにあるのは、白黒はっきりしているからでもあります。次に判定が容易なのは、病気の罹患率です。病気の定義は科学的に決められるので、これもそれほど難しくはありません。一方、健康の程度になると、現在に至るまで、定義は存在しません。強いていえば、あらゆる病気にかかっていない状態が健康ということになります。しかし、たとえば、最も病気の数が少ないBMI(体重㎏÷身長m÷身長m)は22なのに、最も長生きするBMIは25~30になっています。病気でないことが、健康とは限りません。

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なにをもって健康とするのかが明確でないので、健康のためになにをすればいいかも、医学的によく分かっていません。死亡率を下げる方法(禁煙するなど)、病気にかからない方法(予防接種を受けるなど)は分かっています。しかし、より健康になる方法は、どんな優秀な医者でも漠然としか答えられません。

ただし、「予防は治療に勝る」ことも医療の基本です。その記事にも書いたように、人間の健康がマイナスになって、治療でそれをゼロにしようとしても、完全にゼロに戻らないことはよくあります。癌の再発ように、またマイナスになりやすかったりもします。言ってしまえば、治療は敗戦処理のようなものです。だからこそ、敗戦前に対処する、マイナスにならないようにプラスを高める、健康度を高めることが重要です。それは間違いないのですが、科学的にどうすれば健康度を高められるか、多くは不明のため、予防は医療であまり扱われていません。日本の保険診療で予防が対象外になっているのも、こういった理由からでしょう。

この医療の基本は一般の方にも知っておいてほしいです。また、医療者なら十分に認識しなければならない、医学書にも最初に載せなければならない、と私は思います。

日本は医師過剰である

日本は医師不足とニュースでよく見る現在からは信じられないかもしれませんが、2007年まで日本は医師過剰と公的に判断されていました。医学部の1年あたりの定員数は81年~84年の8280人から減少の一途を辿り、2007年には7625人にまで減った事実があります。しかし、2004年に始まった新臨床研修医制度で医師の医局離れが始まると、大学病院ですら医師不足との「錯覚」が起こり、現在まで医学部の定員増は続いています。

日本が医師不足である根拠として、よく使われるデータが下のOECDの人口1000人あたりの医師数です。日本はOECD平均よりも低いそうです。

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上のデータで、イギリスは、日本ほどではありませんが、OECDの平均値より医師が少ないと示されています。そのイギリスで、2018年にAIのおかげで4万人の患者の40%が受診をやめたとのニュースがありました。1万6千もの受診がなくなってしまったわけですが、だからといってイギリスの死亡率が高くなった、という話は聞きません。もちろん、そのソフトの言う通りに受診せずに死んだ人も確実にいたでしょうが、おそらく、そんな人は受診して一時的に回復できても、そう遠くないうちに亡くなったと推測します(日本なら1億人に1人でもそんな事件があれば、ニュースになりそうですが)。

以前にも紹介した下のデータの通り、イギリス人の年間受診回数は日本の半分以下です。そのイギリスですら、40%もの受診が不要と判断されて、大きな事件は起きていません。まして日本ならイギリスの倍は不要な受診が起こっているはずです。

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以前にも書いた通り、世界全体の平均寿命は72.0才です。上のグラフで、日本の7分の1未満しか医師がいないインドネシアでさえ、平均寿命は69.2才です。発展途上国で、多くの子どもたちが下痢や感染症で亡くなっていくのは、昔の話です。たとえ医師がいないところでも、キレイな水と塩分と食料さえあれば、大抵の人は簡単に死なないと科学的に分かっています(世界中で最も多くの生命を救ったのは、薬ではなく、経口補水液です)。それは日本だって同じです。

未来の人なら、上の平均医師数のデータを「昔は医師過剰だった証拠」として使うかもしれません。

がん検診に上限年齢は設けるべきである

ほとんどの病気は早期に発見し、治療されれば、症状が小さくて済みます。早期発見早期治療が医療の基本なのは事実です。ただし、早期に発見できない病気もあれば、早期に発見できたとしても治療の副作用が大きく、治療すべきでない病気はいくらでもあります。現在の日本の公的検診にも、無駄があるのは科学的・統計的事実です。

代表的なのは胃がんバリウム検査でしょう。「医者はバリウム検査など受けない」という記事を読んだことがありますが、まさにその通りです。私も医療職に就く前、会社の健康診断にバリウム検査が入っていたので、半強制的に受けさせられていましたが、今なら無料でも受けません。問題点はさまざまなところで指摘されているので、あえてここに科学的根拠は書きませんが、「バリウム検査利権」などという言葉が存在しているのは医療者として情けないです。

昨日の朝日新聞朝刊に、日本はがん検診に上限年齢がないことが問題視されていました。私の感想としては「まだこんな低レベルな問題が提起されているのか」になります。世界中どこでも、公費あるいは保険負担のがん検診には75才などの上限があります。それ以上の年齢でがんになったとしても、治療するしないにかかわらず余命は変わらないことなどが統計的に示されているからです。医療者にとっては常識ですが、がんを切除しても、手術により体力が低下して、余命が短くなることは決して珍しいことではありません。がんを発見しても手術したら術中死する可能性が高い場合もありますし、既に多臓器に転移して手術できない場合もあります。大して余命を伸ばさないのに、費用だけは高い抗がん剤を使うべきでない場合もあります。治療しても治療しなくても余命が変わらないのなら、がんを発見する意義もあまりありません。

もっとも、「あらゆるがん検診が無用だ」というつもりは全くありません。むしろ、日本では必要ながん検診については、受診率が低すぎます。特に乳がんと子宮頸がんの受診率の低さは、先進国の中でも際立っています。なぜアメリカなどでがん検診の受診率が高いかというと、検診を受けていないと、がんと診断されても、保険診療にならないからです。日本も受診率を上げたいのなら、こういった「罰則」を設けるべきでしょう。

余談になりますが、子宮頸がんの受診率を上げようと、子宮頸がんが毎年ほぼ公費で検診できる制度を作った自治体があり、この試みは完全な失敗になっています。子宮頸がんを受ける意義の少ない(が、健康意識だけは高い)高齢女性が毎年のように検診に来るのに、本当に来てほしい若年女性たちは検診に来ないままだからです。子宮頸がんは胃がんや肝がんと同様、感染症です。性感染症なので、性活動のない女性は子宮頸がんに通常なりません。それに、子宮頸がんは進行が遅いので、たとえ性活動の多い女性でも、3年に1度でいいとアメリカの予防医療サービス対策委員会は結論づけています。性活動の少ない(もしくはない)高齢女性が子宮頸がん検診を受ける意義は極めて小さく、まして毎年公費負担で受診させるなど、税金の無駄でしかありません。全てのがん検診には年齢上限を設けるべきですが、とりわけ子宮頸がん検診は設けるべきでしょう。

健康への欲求は無限である

数年前まで病床利用率が50%未満の大赤字の市民病院が私の県にありました。その市民病院が儲からなかったのは、設備の整った大病院が近隣にいくつもあり、市民の多くはそれらの病院を利用していたからです。

当然、市議会では市民病院の閉鎖案が出されました。しかし、「市民病院を新しく建てなおして、多くの市民に来てもらい黒字にすればいい」との反論が提唱され、なぜかその意見が通ってしまいます。結果、以前よりも大きな市民病院が80億円もの税金を使って完成しました。

新市民病院ができる前、私を含む多くの人が「赤字病院を閉鎖せずに、もっと大きな病院を建てるなんてバブル時代の発想だ」「税金の垂れ流しに拍車をかけるだけ」と陰口を叩いていました。しかし、蓋を開けてみると、嘘のように病院に患者が来るようになり、ガラガラだったベッドはわずか3年程度で利用率80%まで回復し、外来患者は倍増しました。

成功の最大の要因は、大学医学部がその市民病院をサポートし、医局の医師たちを送り込んだからです。赤字が悪化するとばかり思っていた私も、安心しました。

しかし、しばらくして、私はある問題に気づきました。

「その市民病院が繁盛したということは、近隣の病院の経営が悪くなったのではないか」

そこで、近隣の大病院の病床利用率と外来患者数の変化を調べてみました。私の予想に反して、特に減ってはいませんでした。新市民病院が他の病院の患者を奪ったわけではなかったのです。

おかしな話です。その市の人口や高齢者率がわずか3年で急増したわけではありません。もちろん、その市に特別な風土病が流行したわけでもありません。

「もしかして、新市民病院が繁盛したのは喜ばしいニュースでは全くなく、むしろ新市民病院が繁盛しなかった方が喜ばしいニュースだったのではないか」

そんな発想が浮かびました。病院が繁盛すればするほど、保険料や税金が投入されるからです。必然的に、現役世代が強制的に支払わされる保険料や税金が上がります。

その医療費に見合うだけの効果があるのなら構いません。しかし、上記の新病院が建設された市でそれだけの効果はあった、と私には思えません。むしろ、病院に行かなくてもいい人が病院に行くようになり、入院しなくてもいい人が入院するようになった、と推測します。

こう考えてしまうのは、以前から私は自分の医療の仕事の効果に疑問を感じているからです。私や私の病院のおかげで、地域の死亡率は下がっているのか、健康は増進しているのか、疑問だからです。半分以上の医療の仕事は健康増進の役には立っていない、という気がしてなりません。

なにより疑問なのは、医療の効果が統計的に検証されていないことです。上の市民病院の例でいえば、その市の平均寿命や平均健康寿命は伸びたのでしょうか。もし伸びていないのなら、新しく増えた外来患者や入院患者は、一体なんのために病院にいるのでしょうか。

他の全ての欲求がそうであるように、健康への欲求も際限がありません。患者数が増えたのに、地域の寿命や健康寿命が延びていないのなら、無駄な健康需要を掘り出したとも考えられます。新しいカフェやカラオケや衣料品店なら、需要の掘り出しは経済を活性化させるので好ましいニュースかもしれません。しかし、税金や保険料を投入している医療なら、その効果を客観的に検証しなければならないはずです。

就職面接での就職コーディネーターの同席義務化

2018年12月15日朝日新聞土曜版の記事で、クックビズという飲食業界の人材紹介サービス企業が紹介されていました。驚いたのは、スタッフが採用面接に同行することです。飲食業界は離職率が30%と高い業種なので(下の日本生産性本部生産性総合研究センター2018「生産性レポートvol.7」のグラフにあるように生産性がアメリカの半分にも満たない業種でもあります)、少しでもミスマッチをなくすために、口下手な求職者に代わって、スタッフが説明を補足するそうです。また、求職者に提供する情報は、飲食店の給与や仕事内容にとどまらず、職場の雰囲気、人事担当者の人柄、どこまで加工品や既製品を使うのかまで含まれます。さらには、紹介した人が相次いで店を辞めたとしたら、職場の改善に口を出すとも書かれています。そんな公的機関のような手法でも、ミスマッチを少なくすることで信用を得ているのか、1万社以上の企業と取引し、年間2千人の正社員を生み出し、年商20億円を達成しているようです。

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2ページ程度の記事なので、実態はよく分かりません。紹介する職種として「料理人、店長、管理栄養士、メニュー開発者」と出てくるので、飲食業界でも上級職を対象としているとは想像できます。また、2千人紹介で20億の売上なので、1人あたり約100万円の紹介料を徴収していることになります。100万円払ってまで雇いたいとなると、ある程度の技能や資格のある人に限られるでしょう。ただし、年収の3割程度が人材紹介料の相場と書いてあるので、年収350万円以上の仕事なら、100万円が徴収できることになります。前回の記事で引用したグラフを参考にすれば、日本人の半数程度は入ることになります。

ただし、逆にいえば、上のような企業があったとしても、半数程度の勝ち組の日本人しか面接同行の恩恵は受けられないことになります。いえ、日本の勝ち組のほとんどは、終身雇用の上に乗っている人たちなので、転職時の面接スタッフ同行の恩恵を受ける者は、半数を大幅に下回るはずです。

そうであるなら、就職コーディネーターを公的資格にして、新卒を含めた日本中の全ての採用面接に同行させることを義務化してはどうでしょうか。多くの採用面接では、どうしても採用側が上になります。求職者は選ばれる側で、採用者が選ぶ側のはずです。求職者は聞くべき質問もできないまま、職務の実態ををろくに知らないまま、働き始めなければなりません。だから、ミスマッチが起き、離職率が高くなります。それは採用側にとっても好ましいことではありません。

求職者が聞きにくいことでも、同行している就職コーディネーターなら容易に聞けるはずです。就職コーディネーターの適切な質問にも採用側がごまかすような返答をしてきたのなら、その企業になんらかの問題があると推測できます。公的就職コーディネーターには、企業への行政指導の権限を持たせるべきでしょう。なお、たとえ求職者が希望しなくても、就職コーディネーターには最低限の質問の義務を負わせるべきと考えます。最低限の質問には、職務内容、勤務時間、給与はもちろん、前年の採用歴、離職率、採用後の精神的ケアの方法、採用後に解雇になる条件(あるいは採用側が社員へ要求する絶対条件)などは入れるべきでしょう。

上のクックビズの例からも、民間の就職コーディネーターが面接同行できる場合まで、公的の(公費の)就職コーディネーターが介入すべきではないでしょう。しかし、明らかに求職者の立場が弱い場合、たとえば年収300万円以下の仕事の求人には、公的就職コーディネーターが面接同行する義務を生じさせるべきと考えます。その場合、公的就職コーディネーターの予算(≒人件費)は、日本企業全体に負担させていいはずです。ミスマッチが少なくなることは、企業の利益にも繋がるからです。

理想論かもしれませんが、たとえ縁故採用だとしても、就職コーディネーターが必ず採用側と求職側の間に入って、就労前にお互いの希望条件の確認を行って、公的記録に残しておくといいと思います。もちろん弊害もありますが、日本の企業文化が段違いにオープンになることは間違いありません。

全ての日本人、特に若い女性が知るべき統計

もうすぐ平成が終わります。平成がどんな時代だったかは、人によって解釈が異なりますが、経済的には停滞の時代であったことは下のGDPグラフからも明らかです。

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昔の高度成長を知る世代(停滞の原因を作った世代でもあります)にとって、停滞とは情けない呼称かもしれませんが、未来を少しでも考える人たちは「停滞で済んでいただけよい時代」と認識しているはずです。新しい元号の時代は、後退の時代に入るからです。もちろん、その最大の原因は、少子化による人口減少です。

失われた30年の平成の時代は、全体として停滞していましたが、既に後退している人たちもいました。若年世代です。特に、結婚適齢期の30代男性の年収は下記のように右肩下がりです。

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このブログで何度も言及している通り、少子化問題は非婚化問題とほぼ同義です。非婚化の原因として、「仕事と家族」(筒井淳也著、中公新書)では「女性の男性への要望が高いからである」と、ある程度科学的に示しています。それでは、なぜ女性は男性に高い要望を持つのでしょうか。その理由の一つに、上記統計が示す通り、若者の給与がバブルの頃より明らかに減少していると、多くの妙齢女性が知らないことはあるでしょう。もっと端的に言ってしまえば、ほとんどの若い女性は下のグラフのように「自分より給与が低い男性とは結婚しない」から、また「自分が生まれ育った家庭より貧しい生活を恐れている」からでしょう。しかし、上の統計に表されている通り、ほとんどの若い男性は若い女性よりは稼いでいたとしても、「自分の父親よりも給与は少ない」のが現状です。

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妙齢以上の日本人なら男女問わず全員知っていることですが、ほとんどの女性は結婚相手に求める条件に年収があります。だから、多くの男性は「希望年収700万円」などと平気で言う女性に驚いたことが一度はあるはずです。「年収700万円の日本人は何%いるかは知っているんですか?」と聞いて、「30%くらい?」と言う女性に、開いた口がふさがらなかった経験のある男性も少なくないでしょう。スマホがある時代に、すぐに下のような統計(国税庁民間給与実態統計調査」)でその誤りを示しても、「女性も含めていますよね?」、「日本人の平均貯蓄額は1000万円なんでしょう?」となかなか納得してくれなかった経験のある男性も、私を含め、いるはずです。

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男性だけだとしても下の統計のように、年収700万円以上なんてごくわずかで、まして未婚の若年男性なら例外中の例外です。年収についての無知は、学歴の低い女性に限りません。高学歴の女性でも(むしろ高学歴の女性ほど)、日本人(の若年男性)がどれほどの年収なのか知りません。ためしに、年収1千万円以上の男性が何%いるか、高学歴未婚女性に聞いてみてください。私の経験でいえば、10%と答えるのはまだまだいい方で、50%と答えた世間知らずもいました(そんなバカでも医者になれるのですから、日本の教育システムはどうかしています)。

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こんな基本的な統計を、なぜ多くの日本人、特に若い女性は知らないのでしょうか。日本人の若者の年収分布、および日本人の若者の年収が毎年下がっていることは、社会常識として、なにより少子化を食い止めるために、小学校から高校までの教科書に必ず載せてほしいです。

ある氷河期世代の叫び声

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上は2017年12月8日の朝日新聞社説余滴です。ちょうど私の世代である「氷河期世代」が就職時期だけでなく、現在に至るまで、経済的損失を被っている統計を示しています。上の世代と比べても、下の世代と比べても、今の好景気時に失業者の減少が鈍く、非正規雇用の減少も鈍いそうです。さらには、大卒正社員であっても、5年上の世代より月給で2万3千円も低く、あまりの差額に、桁を間違っていないか計算し直した、とまで書かれています。

本当か嘘か分かりませんが、私が中国にいた時、文革世代は就職が難しいので、雇った者に補助金ができるとの噂を聞きました(「文化大革命と西洋人への皮肉」参照)。日本で上記の氷河期世代程度の格差が補助金で是正されるのは、あと何百年必要か予想はできません。ただし、上の記者も気づいていないと思いますが、氷河期世代への皺寄せは、他の世代にも未来にわたって悪影響を与えています。少子化を促進したからです。第三次ベビーブームが来なかったのは、氷河期世代が貧しくなり、結婚できなかったことと無縁でないはずです。

しんがり山一證券最後の12人」(清武英利著、講談社)という本があります。1997年に不祥事を繰り返して、自主廃業した山一証券に最後まで残り、後始末をした人たちの「偉業」を称えたノンフィクションです。廃業が決まった後、自分の責任を棚に上げて、多くの山一社員どもはさっさと再就職していったそうです。それを潔しとせず、清算事業に邁進した「誠実な」社員たちの本です。

もちろん、いけしゃあしゃあと再就職していった山一社員は日本社会のクズで、本来なら山一からもらった給料を1円に至るまで全額返金すべきです。そのクズどもがバブル崩壊の責任を全く負っていないとしたら、今からでも取らせるべきです。もし山一の後始末の本を書くなら、そいつらの責任に重点を置くべきです。しかし、この本ではそんな追及はろくにせず、むしろ「崩壊する会社から逃げるのは仕方ない」といった視点で書かれています。そして、最後まで清算業務をしていた社員たちを異常なほど称賛しています。私にはこれに強い違和感があります。

山一があれだけひどい不祥事を起こしたのですから、借金を全額返せない以上、最後まで清算業務をするのは最低限の義務です。「誠実な偉業」ではなく、当然果たすべき仕事です。理想としては、社員であるなら、山一の不祥事をもっと早くに内部告発すべきでした。「役員が不祥事を内部にも秘密にしていた」のなら、情報公開を求めるべきでした。「上司に逆らえる社内環境でなかった」のなら、その異常さを指摘して、是正すべきでした。それをしていなかった以上、山一から何百万や何千万もの給与を受け取って、返す気もないのなら、悪徳企業の片棒を担いでいた1人と糾弾されても仕方ありません。清算業務など胸を張る偉業ではありません。山一で働いていた過去全てが隠すべき黒歴史のはずです。

なにより驚いたのは、その最後まで残った山一社員たちでさえ、60才を越えている人も含めて、コネを使って高給の仕事にちゃっかり再就職できている点です。同じ時代に彼らの半額の給与の仕事さえ得られなかった私としては「どこまで恵まれているんだ、テメエらは!」と叫びたい気持ちでした。

話を戻します。バブル世代やその上の世代が若者たちを犠牲にして、恵まれた仕事を囲い込んだせいで、氷河期世代が子どもを作れませんでした。そのツケは、バブル世代から上の恵まれた人たちにも、長引く不況として、介護不足として、将来に渡って悪影響を与えていきます。恵まれたそいつらは逃げ切れたとしても、恵まれたそいつらの子どもたちは逃げ切れません。バブル世代から上の恵まれた日本のクズどもは「ブラック企業で精神をすり減らしている若者が30才になっても年収300万円なのに、それより遥かに楽に生きている自分がどうして年収600万円ももらっているのだろう」と考えることはありません。その逆で「自分より楽な仕事をしているはずのアイツがあれだけの年収なのに、どうして自分は低いのか」と自分以下のクズを羨ましがっています。

バブル世代から上のツケを払うことになる未来の世代に伝えるために、この記事を残しておきます。

死生観の社会的向上と個人の幸福

医療の発展は、医学の進歩だけで決まるものではありません。公衆衛生の向上は、医学の進歩以上に、人類の健康増進に役立っています。また、社会全体の死生観の向上も、医療の発展あるいは個人の幸福に繋がっています。

たとえば、20年以上前の日本では、癌告知はまずなされていませんでした。現在50代以上の医者に聞けば、ほぼ全員が「肺がんだと分かっても、まず本人に伝えなかった。『肺ポリープです』と訳分からないこと言って、ごまかしていた」といったことを言うでしょう。本人に死期を伝えないので、必然的に、どのような死を迎えるかの選択権が本人に与えられません。生命に関わる基本的人権の侵害です。

当時の医者たちに聞くと、「おかしいとは思っていたが、患者家族たちが告知を希望していなかった」などと返答してきました。「待ってください。なぜ患者本人よりも、患者家族へ先に癌告知しているんですか。患者が患者家族に伝えない権利はあっても、逆はないでしょう」と私が反論しても、「それはそうなんだけど、当時は誰もが家族に先に告知していた」と言われます。日本によくある「みんながおかしいと思いながらも、みんながしているので続いていた習慣」の一つだったようです。

患者よりも患者家族に終末期の決定権がある状況はその後も続いています。2006年の医療技術評価総合研究事業「終末期医療全国調査」(n=1,499)によると、がんの治療方針や急変時の延命処置などを決定する際に一般病院で最も頻繁に行われている対応は、「患者とは別に、必ず家族の意向も確認している」(48.7%)であり、次に僅差で「先に家族に状況を説明してから、患者に意思確認するかどうか判断する」(46.9%)が続き、「患者の意思決定だけで十分と考え、家族の意向を確認していない」(0.7%)が最も低いそうです。私の経験からいえば、現在でも、患者が認知症の場合は、患者家族へ告知を先にすることが普通です。

法律上、これは明らかに不適切な対応です。自身の病状を知る権利が患者本人だけにあり、その病状を誰にどこまで伝えるかの権利も患者本人だけにあることは法律で定まっています。それは医療者も十分承知しているはずなのですが、実際には、患者よりも患者家族を優先し、場合によっては患者家族が患者本人の死の決定権まで持っています。患者本人が死にたいと主張しても、患者家族が延命治療を希望しているので、治療を続行した経験なら、医療従事者なら誰でもあるはずです。

医学の進歩と違って、死生観の向上は、人びとの意識さえ変えれば、いつでも可能です。それこそ50年前に、患者本人への癌告知を一般化することは、物理的に十分実現可能でした。しかし、現実には、癌告知が一般化するまで、何十年もかかっています。

前回の記事に書いたように、終末期の安楽死は20年以上前から問題になっているのに、いまだ法制化されていません。まして、終末期でない死(ピンピンコロリ)など、今の日本では夢物語になっています。ピンピンコロリの実現には、下手したら100年かかるかもしれません。しかし、繰り返しますが、死生観の向上は個人の幸福に密接に関係しており、物理的には今すぐにでも実現できます。今回の私の一連の記事が、日本人全体の死生観の向上の一助になることを願っています。