未来社会の道しるべ

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文化大革命と西洋人への皮肉

「青年たちよ。今こそ、我々の理想を実現する時だ。地方の農村に行って、文革を盛大に実践せよ」

そのような指示が中国共産党指導部から出ると、若者たちは我先に、意気揚々と、なんの迷いもなく都会から田舎へ向かって行った。そこで若者たちは自分のたちの「革命」の現実を知るのである。

文化大革命がなんであったのかを説明するのは難しい。私が読んだ多くの教養本では、毛沢東の権力争いを中心に記述していた。しかし、一般大衆が権力争いのために活動していたとは考えにくい。少なくとも、大衆側にその意識は全くなかった。かといって、一般大衆が毛沢東に騙されていた、とも言いにくい。大衆は自分の信じる目標のため命令されずとも文化大革命を推進していたからだ。

文化大革命時代の中国では、全国至るところで「つるし上げ」が行われていた。一言まで単純化していえば「文革とはつるし上げ地獄である」と私は考えている。

たとえば、あなたがネックレスをつけていたとしよう。それを見つけた仲の良い友人が突然、真っ赤な顔で怒り出す。「なぜ、ネックレスなどブルジョアの物を所有するのか? 人間が生きていく上で装飾品など不要のはずだ! 大切なのは物質的な豊かさではなく、精神的な豊かさのはずではないか! こんな物などなくても、精神的な豊かさは享受できる! いやむしろ、持たない方が精神性を高められ、より幸せな人生を送れるのではないか!」 こんな批判を公衆の面前で張り裂けんばかりの大声で言われるのである。近くにいた者たちも、いつの間にか一緒になって、あなたに「自己批判」を迫ってくる。「自己批判しろ!」と叫ぶ連中は10人、30人、100人と増えてくる。あなたに反論する余地があるはずもない。大衆を納得させるには、すぐにネックレスをはずし、ひきちぎり、踏みつぶし、「私が間違っていました! もう二度とこんな物に惑わされないよう、私の中での精神革命を推進していくつもりです!」と宣言する他はない。少しでも躊躇してしまうと、大衆からの批判はやまず、罵倒の過激度は増す一方で、しまいには聞くに堪えない罵詈雑言が浴びせられる。それでも反論したなら「ジェット式」と呼ばれた市中引き回しの刑に晒されるだけだ。こういった「つるし上げ」が教育、仕事、家庭、その他ありとあらゆることに優先して、全国規模で行われていたのが文化大革命である(とここでは捉えさせてもらいます)。

大衆は完全な平等を理想としていたので、中国の政治権力の頂点に立つ毛沢東の地位と矛盾しないはずがない。大衆の猛烈な批判が毛沢東に及びそうになると、毛沢東はその流れを見事に下放政策に変えた。都会にいる大衆を田舎の農村に移住させ、そこで人類史上に輝く(はずの)大革命を実践させようとしたのである。理想に燃える大衆は「我々の革命を実現できる場が与えられた!」と狂喜し、自ら率先して農村に向かった。

当時の中国の農村と言えば、1000年前とそう変わらない生活をしていた。文革時の中国は決して先進国ではなかったが、それでも都会と田舎で生活の差は大きかったのである。田舎では電気もガスも水道も当然のようにない。理想を語っても、理解できるほどの教養のある者がいない。そもそも、共産主義の理想など田舎の厳しい農業生活をする上で、なんの役にも立たない。文化大革命で熱狂していた大衆は自分たちの理想がいかに空虚であったかをそこで知るのである。下放政策に従った大衆たちは物質的に貧しいだけでなく、精神的にも貧しい無為な若者時代を10年あるいは20年と送ることになった。

私が中国にいた頃、「スーリン、ウーリン」という差別用語があると教えられた。「40代、50代」という意味で、いわゆる文革世代の人たちを指す。文革世代の人たちはまともな教育を受けていないので、まともな仕事にも就けない。そんな人たちを救うため、文革世代の人たちを雇うと政府から企業に補助金が出るらしい。

文革時代の若者たちは「我々の幸せとはなにか」について全身全霊をかけて毎日のように考えていた。「物質的な豊かさは精神的な豊さを伴わなければ意味がない」ことは時代や場所を超越した真理であろう。しかし、結果として文化大革命は大衆を幸せには全くしなかった。残念ながら私の知る限り、当時から現在まで、中国人たちは文化大革命について十分な考察をしていない。純粋に善意の動機から生まれたものの、何億人もの人生を狂わせた文化大革命については、時代や場所を超越して、人類が得られる教訓があるように私は思う。

 

上記の文章は、私がカナダのカンバセーションクラブの英語writingクラスで提出したものを、記憶に頼って日本語訳したものです。カナダ人に対する強烈な皮肉のつもりでした。

カナダの教養人たちは理想主義的な私から見ても、極端な理想主義者でした。出身や年齢や社会的背景で差別するのを否定しますし、見た目で人を判断しませんし、物質的豊かさよりも精神的な豊かさを重視します。現実にはカナダ人たちだって出身や年齢や社会的背景や見た目で人を判断している側面はありますし、物質的な豊かさを完全に求めていないわけではありません。しかし、討論になると、そういった理想論を必ず吐きます。実際に、少なくとも頭の中では、そのような理想の生き方を求めているようなのです。

「まるで文革時代の若者みたいだ」と何度も私は思っていました。「皆がそんな理想の生き方をできたら、天国のような社会になる」と信じて疑っていないようなカナダ人たちへの皮肉として、上のような文章を私は書いたのです。

なお、現実のカナダ人は文革時代の中国人のように熱狂的に理想を追い求めたりはしません。「では、なぜ理想のように生きないのか?」と私が聞くと、「俺の意思は弱いから、理想には到達できていないよ。よく衝動買いだってするし、週末には飲み過ぎて食べ過ぎたりもする。誰だって完璧には生きられないからね」などとカナダ人は言って笑います。

私の上の文章を読んだ先生は、カナダ人(自分)に対する皮肉とまでは理解してくれなかったようです。ただし、「これは今まで生徒が提出した多くの文章の中で最高の出来だと思う」と言ってくれたので、「皆が理想通りに生きられる社会が必ずしも最高の社会とは限らない」ことには気づいてくれたように思っています。