未来社会の道しるべ

新しい社会を切り開く視点の提供

大乗非仏説

日本に仏教が伝わってきてから1000年間以上、仏教がブッダの教えと一致しないと日本人は夢にも思っていませんでした。もっと言えば、現在も、ほとんどの日本人はそれを知りません。

日本に伝わった大乗仏教ブッダの教えと異なるようだ、と日本人が初めて気づいたのは江戸時代のようです。それまでの日本人は、空海最澄親鸞日蓮などの著名な僧侶を含め、仏典に書かれた教えは、ブッダ本人が語ったものと信じて疑っていません。日本人は古代サンスクリット語を解さないので、中国で翻訳された漢字の仏典を勉強したのですが、原典と対照して、その違いを探して、翻訳者の意向を除去することで、原典の著者の考えを求める、という科学的手法をとることはありませんでした。仏教発祥の地のインドに行くこともできず、原典も手に入らなかったので、翻訳書が正しいと仮定するしかなかったからでもあります。

戦国時代までは寺に宗派が複数入っていたり、どの宗派か確定していなかったりした寺も少なくなかったようですが、江戸時代に寺請制度が確立されてからは、現在のように日本中のほぼ全ての寺がある特定の宗派に強制的に属することになります。

全ての日本人が特定の寺の檀家になる義務が生じたことで、僧侶の需要が増大し、ほぼ必然的に僧侶の質の低下を招いてしまいます。同時に、仏教を批判的に考える学者が現れたようで、そのうちにブッダのもともとの教えは小乗仏教上座部仏教)に近いことに気づく学者も現れます。ついには「大乗仏教ブッダの教えと大きく異なるので、仏教とは言えない」という大乗非仏説が江戸時代に現れています。

神道儒教・仏教」(森和也著、ちくま新書)によると、江戸時代に仏教を否定する根拠として、「仏教発祥地のインドはイギリスの植民地になっている」事実がよく引用されたようです。「神道儒教・仏教」の著者は「国の盛衰と、その国の宗教の優越は本来なんの関係もないはずであるが、その発想をする江戸時代の学者は一人もいなかった。『インドはイギリスに侵略されている』→『インドで生まれた仏教も否定すべきである』としか考えられなかった」と批判しています。仏教を信じることで国を守る思想、いわゆる鎮護国家思考は奈良時代からあるようです。著者の言う通り、鎮護国家が否定されたら、仏教も否定されるのは、おかしな話です。もう一つおかしいと思うのは、イギリスに侵略されていた頃のインドで仏教は信仰されておらず、ヒンドゥー教イスラム教が主に信仰されていた点です。だから、「インドは仏教をやめたからこそ、イギリスに支配されてしまった。やはり仏教は国家を守ってくれる」という見解も可能なのに、そう考える日本人はいなかったようです。

仏教がブッダの教えから乖離してしまった理由の一つは、ブッダ自身が教えを書物に残さなかったことにあります。ブッダは生きた話し言葉を重視しており、書き言葉を軽視していたようです。話し言葉の重視はキリスト教イスラム教とも共通しています。イエスムハンマドも自身の著作は残しませんでした。言葉の内容よりも外見や話し方で印象が変わる「メラビアンの法則」をそれらの教祖たちは知っていたのかもしれません。

「教養として学んでおきたい仏教」(島田裕巳著、マイナビ新書)の著者は、ブッダ現代日本の仏典のように難解な言葉を話していたのではなく、分かりやすい言葉で教えを広めていったに違いない、と推定しています。事実、新約聖書同様、パーリ経典には多くの分かりやすい例え話があります。しかし、中国ではすぐ理解できる言葉を軽視してしまう文化があったため、仏教を難解な言葉に翻訳してしまったのだろう、と島田裕巳は考えています。その意見に私も同意します。日本も中国同様、難解な言葉をありがたがる文化があるため、現在のように、仏教文化は普及しているのに、仏教をよく知らない状況になってしまったのではないでしょうか。

なお、大乗仏教ブッダの教えと異なることは事実ですが、その事実が仏教国で周知される時代は来ないでしょう。キリスト教国でキリスト教を否定する事実が周知されないことと同じです。宗教は信じることが重要で、事実がどうであるかはそれほど重視しない要素を必ず持ってしまうようです。

ブッダと輪廻転生

日本の仏教は大乗です。大乗仏教ブッダ(ゴウタマ・シッダールタ)の教えとかなり異なっていることは間違いありません。仏教最古の経典の一つであるパーリ経典と比べると、大乗仏教の教えはおかしいところだらけです。また、パーリ経典自体も、ブッダの教えをそのまま伝えたものでは決してありません。だから、「パーリ経典にも書いてあるから、大乗仏教の〇〇の教えはブッダが説いたものである」という主張はおかしいです。少なくともパーリ経典の中ですら、矛盾があります。

おそらく最も有名な矛盾で、何千回も議論されているパーリ経典の矛盾は、「死後について私(ブッダ)は語らない」と言っているのに、ブッダが輪廻転生の話をしている点でしょう。

間違いないのは、ブッダが輪廻転生の概念を作り出したわけではなく、ブッダが生きていた時代にインドで輪廻転生の考えが一般民衆に普及していたことです。

おそらく、「ブッダが新しい死後の概念を生み出したことはない」が、「民衆が輪廻転生を信じているので、ブッダはそれを否定せずに、苦からの解脱の方法を説いた」のだと私は推測します。仏教では、現世以外にも地獄や天国などの六道(初期仏典では五道)があるようですが、そんな輪廻転生観をブッダが言い始めたことはまずないでしょう。輪廻転生は当時のインドの民衆宗教(バラモン教)に存在していただけで、ブッダが輪廻転生について深く考えることも、深く語ることもなかったと推測します。ブッダとしては解脱(涅槃)を現世の一切の苦からの解放という意味で使いたかったが、それだと輪廻転生を信じている民衆には大したご利益に思えなかったので、解脱を輪廻からの解放という意味も持たせた、と推測します。

インドで信仰されていたバラモン教を駆逐して、仏教が普及した大きな理由の一つに、輪廻の否定があった、と私は考えます。バラモン教ヒンドゥー教で、輪廻はジャーティ(カースト制)と密接に関係しています。そして、ジャーティは生まれで幸不幸が決まる非常に不公平な思考体系です。輪廻を否定すれば、ジャーティの否定にも繋がります。特に、最多の最下層の民衆にとって、輪廻の否定は幸福と直結したはずです。

輪廻の否定は、仏教と同時期に普及したジャイナ教にも共通しています。また、現代のインド仏教の教祖ともいえるアンベードカル(ガンジーと同時代にインド独立にも貢献した人物)も輪廻を否定することで、数十万人の不可触民を仏教に改宗させています。輪廻の否定がなければ、仏教がインドで普及することもなく、ひいてはアジア全体に広がることもなかったと推測します。

しかし、問題だったのは、仏教が輪廻の概念を含んでいたことです。もしかしたらブッダは輪廻を全否定していたのかもしれませんが、少なくともパーリ経典ができる頃には、仏教は輪廻転生を前提とした教義を持っていました。輪廻転生という科学的に証明できない概念を前提としていれば、多様な教義が入ってくる余地が生まれます。大乗仏教をへて、密教になると、民衆宗教(ヒンドゥー教)の神がどんどん仏教に取り入れられてしまいます。大日如来だとか、弥勒菩薩だとかの訳の分からない神様をブッダが崇めるように言ったことは絶対にありえません。

仏教が多神教となり、密教のように教えも複雑怪奇になってくると、ヒンドゥー教と仏教の区別もつかなくなってきてしまいます。結果、仏教はヒンドゥー教に取り込まれて、上記のアンベードカルの仏教再興の時代まで、インドで千年以上も事実上消滅していました。

もし仏教が輪廻という概念を完全に払拭できていれば、インドでヒンドゥー教が仏教を取り込むこともなかったかもしれません。その場合、現在もインドは仏教、もちろん上座部仏教が主流となっていた可能性があり、中国や日本にも上座部仏教が伝わってくることにもなり、世界史は大きく変わったことでしょう。

安楽死と自己安楽死と自殺と老衰

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オランダ安楽死統計

オランダの安楽死の統計は上記の通りです。ここで注目したいのは、安楽死した場所の8割が自宅であること、および、安楽死させた医師の85%が家庭医であることでしょう。

以前の記事でも書きましたが、欧米では自宅近くの医師を家庭医として登録することが義務づけられています。緊急時でもない限り、患者はどんな病気でも(妊娠でも)登録してある家庭医(クリニック)にかかり、大抵はそこで解決します。高度な医療機器による検査や手術が必要と判断された時だけ、患者は家庭医からの紹介状を持って、病院にかかります。家庭医は患者を長期にわたって診察し、患者の生活、性格、信条、家族関係を熟知しており、患者との信頼関係もあります。この医師と患者の関係をもとに、オランダの安楽死制度は成り立っているのです。日本には家庭医制度がないので、オランダの安楽死制度をそのまま導入するのは難しいかもしれません。

なお、オランダで安楽死は患者の「権利」ではありません。患者からの安楽死の要請に、医師が必ず応える義務はありません。医師が自身の信条として安楽死を行わないことは認められます。また、安楽死を容認する医師でも、当該のケースは前回の記事に書いた「注意深さの要件」を満たさないと考え、あるいは複雑すぎると考え、引き受けない場合もあります。安楽死の最終決定権は患者ではなく、それを実行する医師にあります。だから、患者の要請があっても、医師に安楽死が断られるケースはあります。実際、オランダでも約半数の安楽死の要請は、実施に至らないそうです。

しかし、上記のように安楽死を実行してくれるのは、現実には近所の家庭医くらいしかいません。その家庭医がたまたま安楽死否定派だったりしたら、患者は安楽死を諦めるしかなくなります。そんな問題を解決するために2012年、生命の終結クリニック協会(SLK)が設立されました。

患者がSLKに安楽死を要請すると、SLKのチームが患者に何度も面談し、「注意深さの要件」を満たしているか検討します。審査には平均10ヶ月もかかるそうです。家庭医に断られたケースが多いせいか、安楽死の実施に至るケースは4分の1程度です。とはいえ、数時間で安楽死が実施されるケースもあるようです。2012年にSLKによる安楽死は32件でしたが、2016年には487件と増加しています。

SLKにより安楽死の適用範囲が拡大している懸念はあります。特に、認知症精神疾患を理由とした安楽死を認めるかどうかは、どこの国でも難しい問題です。オランダの家庭医もこういったケースは避けたいようで、2002年に安楽死法ができてからしばらく、認知症患者の安楽死は0件が続き、2009年に始めて12件が報告されています。それからは増加の一途で、2016年は141件まで増えました。精神病患者の安楽死も2009年の0件から2016年の60件まで増えています。2015年に認知症患者の安楽死の4分の1はSLKにより実施され、2016年にその割合は3分の1まで増加しています。精神病患者の安楽死については、実に75%がSLKにより実施されています。しかも、これらの統計は地域安楽死審査委員会の年次報告書にはなく、SLKの年次報告書から自ら数えて調べないといけません。

こういった問題があるため、オランダ医師会はSLKに反対の立場です。しかし、オランダの家庭医は、患者の生命終結という厄介な業務を丸投げにできるので、SLKを歓迎しているようです。

安楽死の注意深さの要件にはbの「永続的かつ耐えがたい苦痛」があります。オランダでこの「耐えがたい苦痛」は肉体的でなく、精神的なものでも構いません。日本では考えられませんが、次の2件のような精神的苦痛を理由とした安楽死も判決で認められています。

1件目 50才女性。ひどいアルコール中毒家庭内暴力のある夫と離婚。その後の3年の間に二人の息子を亡くす。精神病院に入院したが、彼女の精神的苦痛はなくならない。医師は利用可能ないかなる精神科の治療も彼女に効果がないとの結論に達し、女性に致死薬を渡し、女性はそれを服用し、死亡。

2件目 86才。元上院議員。肉体的には健康。しかし、人生の楽しみと生きる意欲を失った、QOLと存在の意味が欠けていると訴え、安楽死。裁判では「老いの苦しみも安楽死の理由となりうる」と判示された。

このような判決もあるので、オランダの地域安楽死審査委員会は「耐えがたい苦痛」をほとんど議論していないようです。2016年に認知症と精神病で安楽死した201件のうち、「耐えがたい苦痛」でないと裁定されたのは、たったの1件でした。患者と医師が「耐えがたい苦痛」であると判断した場合、患者が亡くなった後にそれが適切な判断だったかどうか、赤の他人には裁定しづらいからです。実際のところ、注意深さの要件の「耐えがたい苦痛」、さらには「病状の合理的な解決法が他にない」までも、あいまいに解釈されるようになって、「患者が熟慮のうえで自ら死を決断した」という自己決定権だけが現在のオランダでは重視されているようです。

このようにオランダの安楽死は、日本と比較にならないほど広い範囲を対象にしています。それにもかかわらず、安楽死ではなく「自己安楽死」するオランダ人までいます。安楽死を家庭医に拒否された人や、煩雑な手続きを面倒に感じる人などが自己安楽死を選んでいます。方法としては、断食による餓死、薬をためこんで大量服用、ビニール袋をかぶってヘリウムガスによる窒息死などがあります。医師が報告する自己安楽死は2015年で2680件、全死亡者の1.8%です。自然死にみせかける場合もあるので、実数はもっと多いと推測されています。

前回の記事に示した通り、現在のオランダでは安楽死する人が4%もいて、さらに自己安楽死する人が2%もいるのです。

一方、延命至上主義がはびこりすぎている日本での安楽死はほぼゼロです。ここまで安楽死が認められていないからこそ、日本で自殺者が多いのではないでしょうか。日本では高齢者が毎年1万人以上自殺で亡くなっていますが、自殺させるくらいなら、安楽死を選ぶ権利を認めさせるべきだと考えます。

ただし、最近の日本の死亡統計で増えている老衰(≒餓死)は自然死に近く、好ましい最期だと私は考えています。2018年の統計で日本での老衰は全死亡の8.0%になります。この数値を見ると、日本に安楽死法がなくても、事実上の安楽死は行われている、とみなせるのかもしれません。

社会的弱者に死を強要しないために

今回の記事は「安楽死尊厳死の現在」(松田純著、中公新書)を元にしています。

2001年、オランダは安楽死を合法化した世界で最初の国です。オランダの安楽死法によると、患者の要請に基づいて患者の生命を終結させる医師は次の六つの「注意深さの要件」を満たさなければなりません。

a,生命終結または自死介助への患者の要請が自発的で熟慮されたものであると医師が確信していること

b,患者の苦痛が永続的かつ耐えがたいものであると医師が確信していること

c,患者の病状および予後について、医師が患者に情報提供していること

d,患者の病状の合理的な解決法が他にないと医師および患者が確信していること

e,医師が少なくとももう一人の医師と相談し、その医師が患者に相談し、かつ上記aからdまでに規定された注意深さの要件について書面による意見を述べていること

f,医師が注意深く生命終結を行うか、または自死を介助すること

a~fの注意深さの要件に基づいて安楽死または自死介助を実行した医師は、以下の5部の報告書を自治体の検死官に届け出ます。

1、患者の病歴、病状、治療の現状と見通しなど

2、安楽死への患者の要請が熟慮され、持続性をもつか

3、生命終結に関する患者の明示的な要請

4、セカンドオピニオンを得るための他の医師との相談、およびその医師からの助言

5、生命終結の実際の行為

自治体の検死官は検死を行い、書類を参照して遺体に不自然なところがないかを確認します。問題がなければ、遺体は埋葬または火葬されます。

検死官は検死の報告書とともに、医師から提出された5部の報告書を地域安楽死審査委員会に送ります。ここで上記のa~fの注意深さの要件が満たされているかを判定します。地域安楽死審査委員会は医師、法律家、倫理学者の3名で構成され、ここでの審査が通れば、実行した医師に結果を通知して、案件は終わります。もし審査に通らなければ、その裁定結果と書類全ては検察に送られ、医師が刑事訴追される可能性が出てきます。

安楽死法が施行された2002年に安楽死の届け出数は2000件未満でした。その後は増加していき、2017年には6600件になり、オランダの年間死者数の4.4%を占めます。

ところで、安楽死には、医師が死期を早めるための薬などを投与する積極的安楽死と、医師が死期を遅くするための治療を行わない消極的安楽死があります。日本では積極的安楽死と消極的安楽死を明確に区別しますが、オランダではそれらを区別せず、どちらも統計上は安楽死としています。その代わり、自死のための致死薬を医師が処方して患者自ら服用することを「自死介助」として、安楽死と区別して集計しています。その集計結果が下のようになります。

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上のグラフで「両方」とあるのは、患者自らの服用によってうまくいかなかった場合に、医師が最終的に処置を行うケースです。処方された致死薬を患者自らが服用する場合、途中で薬を吐き出したりすることがあります。それは返って悲惨な結末を招くので、医師による致死薬の直接投与(積極的安楽死)がオランダでは推奨されています。医師が直接手を下すよりも、患者が致死薬を服用してくれた方が医師の精神的負担は軽いと思うかもしれませんが、オランダの医師はそう考えません。上記の危険性があるので、医師は自ら致死薬を投与する方が安心らしいです。

オランダの地域安楽死審査委員会は毎年、前年度の全報告書の中で、要件を満たしていないと判定された案件について、また、要件を満たしていると判定されたけども議論になった案件について、匿名性を保持したうえで公表しています。それとは別に保険研究開発機構の調査チームが、安楽死の実施状況について、5年ごとに系統的に調査し、その評価結果を国内外に公表しています。その評価結果によると、「すべり坂」(公共政策にすると、障害などを抱えた弱い立場にある人が家族や社会の負担とされ、本人の意思に反して被害を受ける可能性が増大すること)は起こっていないようです。むしろ、安楽死を希望する者は高学歴者に多いそうです。

私の実体験からしても、これはうなずけます。日本で終末期医療の講演をさせてもらったことがあるのですが、そこに出席している高齢者は明らかに知的レベルの高い方たちでした。

安楽死法が成立したら、「すべり坂」ができると恐れている障害者はいるかもしれませんが、必ずしもそうでないことをオランダの例は示しています。とはいえ、ナチスのT4作戦のようなことが絶対に起きないように、有効な事後調査体制は必要不可欠です。

次の記事に、安楽死の問題について、さらに記述しておきます。

命の選別は間違っているのか

ポストコロナは社会でなく医療体制を変えるべきである」で高齢者や基礎疾患のある方が新型コロナに罹患した場合、人工呼吸器で一時的に助かったとしても、遠くないうちに別の感染源から肺炎で亡くなる可能性が高いので、人工呼吸器の優先順位を下げるべきだと主張しました。その意見をブログで公開した6月24日の朝日新聞で「障害者は問う、命の選別が起きはしないか」という記事がありました。

確かに、障害を理由として死の強要があったら大問題です。残念ながら、医療の歴史ではそのような過去があります。

戦前まで日本医療界が規範としてきたドイツではナチス時代のT4作戦により、医学の権威の学者たちが精神障害者知的障害者を「生きるに値しない」と判断して、25~46万人もの障害者たちの安楽死が本人の同意なく行われました。このもととなった思想は、元ドイツ帝国最高裁判所長官ビンディングが確立した優性思想や社会進化論にあります。ビンディングは治癒不能知的障害者を社会が養っていることを浪費と判断し、彼らを殺害により救済してあげることは行政の義務とまで主張していました。

この人道にもとる大失敗があったため、ドイツでは戦後「安楽死Euthanasie」という言葉が禁句となり、代わりに「臨死介助Sterbehilfe」という言葉が使われ、その臨死介助が法律で禁止されるほど、「安楽死」を忌避しています(ただし、安楽死容認の流れはドイツでも止められず、2020年2月に臨死介助禁止法が憲法違反との判決が出ています)。

2020年6月25日には、旧優生保護法により障害を理由に不妊手術を強制していたことについて、日本医学会連合が責任を認め、お詫びの発表をしました。日本でも障害を理由に医療者が命を選別していた前科があります。

しかし、だからといって、「心身の障害や病、高齢を理由に、救命治療から排除されることは絶対に許されない」と主張されたなら、それには反論したいです。残念ながら、命の選別をするべき時は、現実に存在するからです。

災害などで大量の傷病者が発生した時、全ての人を同時に救えない時には、救命の順序を決めざるを得ません。その優先順位は、医療体制と設備を考慮して、傷病者の重症度と緊急度によって決まります。つまり、処置を施すことで命を救える患者を優先します。命を救えるかどうかを判断するとき、「心身の障害や病や年齢」を無視することはできません。それが救急医療におけるトリアージ(選別)です。

現状、トリアージは同時に多数の傷病者が殺到した時のみ行われます。今回の新型コロナのように、人工呼吸器が必要な患者が連日運ばれてくる場合、「トリアージ」は行われません。しかし、人工呼吸器は人数分ありません。では、医療の現場では、こんな時にどうしているのでしょうか。実は、早い者勝ちになっています。「既得権益者」から人工呼吸器をはずすことはできないので、新しい患者は人工呼吸器の順番を待つことになります。そして、「既得権益者」は人工呼吸器をはずしても、まず死なない状況まで人工呼吸器を使用できるので(人工呼吸器を止めて死ぬことを現代医学では極端に避けるので)、なかなか次の人に人工呼吸器の順番が回ってきません。結果、今回の欧米での新型コロナ流行時のように、人工呼吸器が足りないなどの現代医学が想定していない状況になると、死者が続出することになります。

これが社会的に公平と言えるのでしょうか。早い者勝ちが最も好ましい「トリアージ」なのでしょうか。

そうではないはずです。だからこそ、災害時とは異なる「トリアージ」を私は提案しました。たとえば、「人工呼吸器を外しても死亡する確率が10%未満になったら、人工呼吸器をつけると99%助かる人に人工呼吸器をゆずる」あるいは「人工呼吸器をつけて今回助かっても1年未満で死ぬ確率が90%の人が病院に来た場合、人工呼吸器をつけると10年以上長生きできる人があと30分以内に99%来るのなら、人工呼吸器は次の人のためにとっておく」などのルールを予め決めておくべきだと思います。なお、このルールは命の選別という重大な判断の基準になるので、医療者だけで決めるべき問題でないことは間違いありません。

しかし、改めて考えてみると、「どの基礎疾患のある人はどうなれば人工呼吸器をはずしたら死亡率10%になるのか」といった詳細なエビデンスなど現代医学には存在しません。医学が上記のような細かい確率を導き出すためには、あと50年は必要だと推測します。おそらく、上記のようなエビデンスが出揃う未来には「医療の本質」に書いたように、医療判断はAI化されて、既に医者のいない世界になっているでしょう。

現代医学は未熟なので、上記の確率はおおよその予測になってしまいます。だとしたら、「この患者が死んでしまうかもしれないが、もっと重篤な患者のために、人工呼吸器をはずす」や「次の患者のために、今救える命を見捨てて、人工呼吸器をとっておく」などの判断を現場の医者、あるいは人間が即座にすることは許されないでしょう。「早い者勝ち」は現代医学ではやむを得ない側面があると考えます。

ただし、視点を変えれば、未熟な現代医学の世界でも「早い者勝ち」だけではない仕組みを作り上げることはできます。「他に人工呼吸器が必要な人がいたら、私には人工呼吸器を使用しないでください」とあらかじめ事前指示書を作成しておくことです。「死生観の社会的向上と個人の幸福」で提案した安楽死法の制定と、ACP(advance care planningどのような終末期を過ごすかを医療者や介護者たちと相談して決めておくこと)の普及です。

安楽死法をつくったり、ACPを普及させたりしたら、障害者を死に追いこませると考えるかもしれませんが、そうとは限りません。次の記事では、オランダでの安楽死の現状を紹介しながら、「安楽死法があるからといって、社会的弱者が死に追いこませるわけではない」ことを示します。

ポストコロナは社会でなく医療体制を変えるべきである

新型コロナによる感染は日本で落ち着いてきています。「未来社会の道しるべ」というブログタイトルをつけているのに、このブログでは未来予想と進むべき道をほとんど示していないので、ポストコロナについて簡単な予想と「道しるべ」を記述しておきます。

コロナショックは、経済や社会への悪影響を考えると、世界全体で自粛しすぎだったと私は考えています。ほとんど自粛しなかったスウェーデンは正解だと判断しています。スウェーデンの新型コロナ死者数はこれから増えるとしても、肺炎での年間死者数を越えることはないでしょう。

今回の新型コロナで大きな被害を受けたのは、高齢者、基礎疾患のある方、および一部の医療機関従事者になります。4月~5月の新型コロナ自粛期間、私を含む多くの医療機関従事者はいつもより暇になってしまいました。私の知り合いの耳鼻咽喉科開業医が「閑古鳥が鳴いている」とぼやいているので、診療時間中に行ってみたら本当に一人も患者さんがいませんでした。海外も国内も観光が全くできなくなるほど病気が蔓延しているはずなのに、多くの病院やクリニックが暇になるのはおかしな話です。

この機会に感染症の歴史本を読んだ人も多いと思います。そのほとんどの本に書いてあるように、全ての感染症を撲滅することは不可能です。細菌やウイルスの基本性質は、進化しながら生物とうまく共存していくことです。そうであるなら、新種の感染症が蔓延し、生物に死者が出るのは、ある程度、仕方がないはずです。

結局、どの程度の被害が出るので、どの程度の自粛をすべきかの問題になります。総合的に考えて、今回の被害で、今回の自粛は明らかに行き過ぎだったでしょう。

特にアジアでは死亡率が極めて低かったことを考えると、経済も社会の流れも止めすぎでした。たとえば、日本の2018年の年間死者数は136万人、肺炎死者数が13万人です。しかし、新型コロナ死者数は1000人程度しか出ていません。第二波がきても2000人を越えることはないでしょう。肺炎死者の誤差程度の数で医療崩壊がかりに起こっていたとしたら、社会全体を自粛させるよりも、一部の医療機関の対応を変えるべきです。

災害時には、トリアージといって、救うべき人の「優先順位」をつけます。今回のような感染症の蔓延時にも、災害時とは異なる「トリアージ」はするべきだったと考えます。高齢者や基礎疾患のある方が新型コロナに罹患した場合、人工呼吸器で一時的に助かったとしても、遠くないうちに別の感染源から肺炎で亡くなる可能性が高いので、人工呼吸器の優先順位を下げるべきではなかったのでしょうか。また、長期喫煙で肺気腫COPD)になっている人まで、この非常事態時に人工呼吸器をつけるべきとは私は思えません。

「社会に感染症が蔓延している」→「感染症を抑えるため社会全体を自粛させる」

今回の危機では、この回路しかなかった、少なくともその回路の流れが強すぎたと思います。結果として、経済や社会の損害が軽視されました。本来なら、次の回路もより強く考慮すべきだったのではないでしょうか。

「社会に感染症が蔓延している」→「通常の医療体制は実施できないので、非常時の医療体制で対応する」

この思考回路さえあれば、日本政府が自粛要請まで出す必要はなかったと思います。放っておいても、日本人はよく分からないものを怖がる習性が強いので、経済をここまで停滞させるほどの健康被害は出なかったと推測します。もちろん、盛り場で遊んでばかりいる人は感染症にかかる確率が高く、亡くなった人も今より確実に増えましたが、そこは自己責任で済ませばよかったのではないでしょうか。

なお、自粛しすぎだったとの判断が出るのは、しばらく先か、あるいは永遠に出ないと推測します。今回の新型コロナに限りませんが、新種の感染症は分からないことがいつも多いからです。いまだに感染者数も死者数もよく分かっていないと知って、「だいたいの予想は出るだろう。いつまでそんなことを言っているんだ」と感じている人は少なくないはずです。

おそらく、最終的にはよく分からないまま、「2020年のコロナショックの自粛は妥当だった」あるいは「かりに行き過ぎだったとしても仕方なかった」という結論になると予想します。

生涯未婚時代

「生涯未婚時代」(永田夏来著、イースト新書)はバブル時代から現在までの若者の結婚観の変遷について、IT化などの社会変化だけでなく、同時代の論文、解釈、新語、書籍、流行ドラマ、マンガなども含めて、幅広く考察しています。

私がこちらのブログで何度も主張している「女性が結婚相手へ求める要求、特に年収が現実離れしているため、未婚が増えている」ことは、永田夏来の師である山田昌弘が2008年に「婚活時代」(山田昌弘著、ディスカヴァー・トゥエンティワン)で既に指摘していることでした。なお、山田昌弘は「パラサイトシングル」、「婚活」の新語を作り出した張本人です。「婚活時代」において、山田昌弘は男女とも共働きを覚悟し、女性は結婚相手に期待する経済水準を引き下げ、男性は経済水準以外の魅力を高める必要がある、と指摘しています。その上で結婚を意識して積極的に出会いを求めることが「婚活」という言葉の本来意味するところでした。しかし、山田昌弘自身認めているように、いつの間にか「婚活」の意味が「高収入の男性を女性が勝ち取る活動」になってしまいました。これでは「婚活」がいくら流行しても、結婚が増えるはずもありません。本質を突いた指摘です。

また、結婚率を上げるためには、男性の収入をあげるよりも、社会保障を充実させるべきだという説も、「日本式長時間労働は年功序列賃金制度により一般化した」で書いた私の案と同じです。

ただし、いくつか強く反論したい点もあります。たとえば、「女が貧乏な男と結婚していれば少子化など解決する」で指摘した「ほとんどの女性は自分より収入の低い男性と結婚しない」はやはりほぼ無視されています。自分より収入の低い男性と結婚する女性は増えている、という統計があるようですが、これだけ働く女性が増えているので、当然です。働く女性の増加割合と比べたら、自分より収入の低い男性と結婚する女性がほとんど増えていない、という問題の根本は考えられていません。著者は意識的に考えていないのではなく、本当に問題だと認識できていないように感じます。

また、「家族はよいもの、と私たちは考えがちです」という言葉も、古臭すぎます。著者は1973年生まれで、1980年代に中高生だったので、ヤンキー全盛期です。両親に反抗するのがかっこいい、両親に頼っているなんて恥ずかしい、とみんな考えて、「家族はよいもの」という価値観なんてカケラもなかったはずです。それより少し後の私の世代でさえ、そうでした。「家族はよいもの」という価値観は全くなくなった時代の後に、再び「それでもこの国では家族に頼らざるを得ない」という価値観が少しずつ復活してきたと思うのですが、著者にとっては「家族はよいもの」という価値観は戦後一貫して続いているようです。日本のエリート社会では、そうだったのでしょうか。

また、最も違和感があるのは次の言葉です。

「『結婚しないという選択肢もある』が真であることは、社会学では論じ尽くされていて、自明なものであると感じる」

「結婚しないという選択肢もある」が無条件で認められていれば、では少子化も認めるのでしょうか。しかし、その社会的負担がほとんど考察されていません。むしろ、かわいそうな生涯未婚者を救うために、社会保障を充実させるべきだ、と主張しているようです。私の「未婚税と少子税と子ども補助金」と全く逆の主張です。

『地方創生大全』でも地方創生はできません」でも書いたとおり、少子化は現在の日本の経済停滞、経済衰退の最大の原因です。だから、たとえ私のように子ども嫌いでも、子育てには莫大な労力と費用がかかろうとも、子育ては義務なのです。子どもがいなければ、社会は成り立ちません。現状のように、子どものいない世帯が、子どものいる世帯よりも、税引き後の可処分所得が大きい不公平は、即刻やめるべきです。最低でもその逆、子どもがいない一般世帯は、子どもがいる一般世帯よりも、明らかに可処分所得が小さくなるように、税金を設定すべきだと思います。

繰り返しますが、第二次ベビーブーマー以降の世代は「家族はよいもの」「子どもはよいもの」との価値観は持っていません。少なくとも私は全く持っていません。そんな人でも、子どもは育てています。当たり前ですが、ある世代の子どもが本当にいなくなれば、その世代が亡くなる前に、医療も介護も食事も移動も、あらゆる社会活動が成り立たなくなるからです。

もし健康であるのに、生涯未婚であることが文句なしで認められたいのなら、その未婚者は医療費や介護保険を全額自己負担にさせられるくらいの覚悟は、最低限、持つべきでしょう。

魚食文化保存のために乱獲規制世論を盛り上げなければいけない

前回までの漁業記事を読んでもらったら、日本漁業がIQ方式(あるいはITQ方式)を導入しない理由が分からないのではないでしょうか。

このブログで何度も書いてきたように、私から見ると「頭がおかしいのではないか」と思うほど、日本人は変化に抵抗しますが、その中でも「乱獲規制を導入しない」例はひどいものです。その改革に反対している勢力は、漁業者たちと、漁業者たちと慣れ合ってきた水産庁です。補助金で儲かっている水産庁はともかく、乱獲規制で利益が増えるはずの漁業者まで、なぜ反対するのでしょうか。漁業者は消費者に質の高い魚を届けたい気持ちはないのでしょうか。

残念ながら、その答えは「漁業者は長期の利益増を理解できない」し、「漁業者は消費者に質の高い魚を獲ることよりも、早獲り競争で勝つことしか考えていない」になります。しかし、これは日本の漁業者に限った話ではありません。「漁業という日本の問題」(勝川俊雄著、NTT出版)によると、漁業先進国であるノルウェーでも、漁業者はIQ方式の導入に猛反対しています。他の国でも、意識が高い漁業者が自発的に漁業改革をした例は見当たらないそうです。

では、漁業規制導入の原動力はなにかというと、国民世論です。非漁業者が乱獲の継続を許さなかったのです。海は漁業者の専有物ではなく、国民全体の共有物だとの認識が社会に浸透していたのです。自然保護団体が政治に強い力を持っていることも、乱獲規制を可能にした理由の一つです。

日本人もノルウェー人同様、大量の魚を食べます。ノルウェーアイスランド以外の欧米の国と比較したら、日本人は何倍も魚を消費しています。そんな日本なのに、なぜ乱獲規制の国民世論が盛り上がらないのでしょうか。

それは乱獲によって漁獲量が減っている、という当たり前の事実を国民が知らないからではないでしょうか。実は、漁業者もその問題を認識していません。下は2010年に農林水産省が漁業者に聞いたアンケート結果です。

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自分たちが犯人だと認めたくないのでとぼけている可能性もありますが、漁業者ですら本当に知らない、と私は推測します。それくらい日本での乱獲の実態は伏せられています。その一方で、マスメディアは「日本人の魚離れ」を嘆く記事を40年前から載せ続けています。「日本漁業の一人負け」の記事に示したように、「日本人が魚離れしているから日本漁業が衰退している」説はデタラメもいいところです。

なお、当初は猛反対していた外国の漁業者たちも、IQ方式やITQ方式を導入して、収入が増えてからは、むしろIQ方式やITQ方式を積極的に支持するようになったそうです。また、一時期は湯水のように垂れ流していたノルウェーの漁業補助金も、現在はほぼ消滅しています。一方、日本では漁業者一人あたり150万円以上もの補助金がつぎ込まれているのに、漁業は先細りです。

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「漁業という日本の問題」の著者である勝川は日本の水産学会に属しています。3000人もいる会員のうち、漁業改革に積極的に関わっているのは自分くらいだ、と嘆いています。専門家ですら、日本漁業維持のために乱獲規制の声をあげないか、あるいは乱獲規制が必要なことを知らないようです。このまま日本漁業が衰退すれば、水産学会の存在意義も小さくなるはずなのに、研究者たちはなぜ行動しないのでしょうか。

勝川は2000年頃から漁業改革に関わっており、当初、乱獲規制の導入はそれほど難しいことではないと考えていました。漁業者にとっても消費者にとっても明らかな利益があり、その上、海外での成功例が山のようにあったからです。しかし、「漁業という日本の問題」が出版された2012年でも有効な乱獲規制はありません。その本が出版されてから8年がたちましたが、未だ水産庁はIQ方式やITQ方式を導入しない理由をHPに堂々と載せています。

こんなメリットしかない漁業改革もできないようなら、日本は終わりです。このブログはマスコミ関係者にも読まれているようなので、ぜひとも記事にして、IQ方式導入の世論を盛り上げてください。それをしないジャーナリストなら、魚介類を食べる資格はない、と私は思います。

ところで、3年前から漁獲枠規制の記事を作りたいと思っていて、今回急に書こうと思ったのは「魚と日本人」(濱田武士著、岩波新書)という本をつい先日読んだからです。著者は魚食文化を守りたい一心で、主に魚の流通面の実態を長文で紹介しているのですが、解決策が提示されていないだけでなく、魚食文化衰退の最大の原因である乱獲について、全く触れられていません。「漁業という日本の問題」が出版された後なのに、なぜそれを無視しているのでしょうか。しかも、amazonの書評では、魚食の本で乱獲を見逃している致命的なミスを誰も指摘していません。著者の多大な労力をかけた(本質を無視した)調査を称賛する人ばかりです。岩波新書を読むくらいの教養人なら、日本漁業の最大の問題が乱獲であることくらい常識にしていると思っていたのですが、私の誤解だったようです。繰り返しになりますが、誰にとってもメリットになるので、この記事を読んだ人は、IQ方式導入の声をあげてください。

デメリットだらけの漁獲枠オリンピック方式

前回までの記事の続きです。

世界ではIQ方式、もしくはITQ方式が一般的です。漁獲枠配分がいまだにオリンピック方式なのは日本くらいです。

IQ方式とは、漁業者あるいは漁船ごとに漁獲量を割り振る制度です。ITQ方式は、その割り振られた漁獲枠を金銭取引きできる制度です。オリンピック方式はヨーイドンで漁業を開始して、全体の漁獲量が漁獲枠に達したら終了する制度です。オリンピック方式は分かりやすいように思うのですが、現在ではIQ方式またはITQ方式がオリンピック方式より漁業の生産性を高めることが明確になっています。

実例を見てみます。カナダの銀ダラ漁業は1981年~1989年までオリンピック方式で管理されていました。

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ここで注目してほしいのは、棒グラフです。年間出漁日数が毎年短縮しています。1981年には245日だったのに、89年にはわずか14日になったのです。早い者勝ちなので、漁業者は解禁と同時に全力で獲ろうとします。全ての漁業者が少しでも早く多くの銀ダラを獲るために、船への設備投資を繰り返して、漁期が10年で10分の1未満まで激減したのです。

結果、漁業が経済的に厳しい状況に追い込まれました。全体の漁獲高が増えるわけでないのに、船への設備投資はかさむので、その分だけ利益は減ります。また、獲った魚の事後処理をゆっくりする暇もありません。急いで処理をして、次の網を入れることになります。魚の扱いは雑になり、質と価格が下落します。

オリンピック方式は、加工業者にとっても不利です。解禁直後に大量の水揚げがあるので、加工業者は加工ラインを増やす必要があります。しかし、そのラインが活用されるのは1年のほんの一時期に過ぎません。船だけでなく加工場の設備投資もムダになります。

消費者にとっても不幸です。漁期が短くなれば、新鮮な魚を食べられるのは1年の一時期だけです。それ以外の時期は、冷凍物しか小売店には並びません。

オリンピック方式で早獲り競争しても、漁業者、加工業者、消費者の誰も得をしません。得をするのは、船のエンジン会社や加工工場整備会社くらいではないでしょうか。

下のグラフはIQ方式導入後の変化です。変更後は1年365日、新鮮な銀ダラが食べられるようになったことが分かります。

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上のグラフで興味深いのは、オリンピック方式の時代、漁獲量が漁獲枠を常に上回っていることです。もちろん、日本のように漁業者や漁業組合が嘘の報告をしたり、政府が取り締まらなかったりするわけではありません。ちゃんと守っているのに、こうなるのです。なぜなら、これまでの漁獲量の推移から漁獲枠に達する24時間前に漁の終了を告知されるのですが、その最後の24時間にこれまでの推移を遥かに上回るほど、全ての漁業者が頑張ってしまうからです。

IQ方式で、各漁業者に漁獲枠を割り振っておけば、漁業者は一匹一匹の魚の質を上げることに専念します。加工場の要望通りに、1年を通して収穫するようになります。

ところで、ディスカバリーチャンネルカニ漁業のドキュメンタリー番組「deadliest catch(ベーリング海の一攫千金)」があり、大ヒットしてシーズン15まで放送されています。シーズン1の2004年はオリンピック方式でカニ漁船が行われた最後の年だったので、ITQ方式に漁業が切り替わる記録映像にもなっているそうです。

そのカニ漁業ですが、下のグラフのようにITQ方式になってから炭素消費量が半分未満になっています。

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オリンピック方式の時代は、常に時間との戦いで、エンジン全開が必須でした。ITQ方式になってからは、漁場に急ぐ必要がなくなったので、漁期が12倍に伸びたにもかかわらず、ガソリンの量もエネルギー効率も劇的に改善したのです。オリンピック方式は、地球環境の面でも悪いことが分かります。

水産庁は税金を使って漁業崩壊を促進する公的機関である

1997年から、ようやく日本でもTAC(総漁獲枠)制度が導入されました。日本の魚種別漁獲量の下のグラフで、薄いグレーの魚種でTAC制度が導入されています。

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日本で大量に獲れる魚種のほとんどはTAC制度が導入されているのです。それにもかかわらず、どうして乱獲で漁獲量が減っているのでしょうか。理由は次の二つにあります。

1、科学を無視した漁獲枠の設定

2、漁獲枠を守っていない

どちらも本当に情けない理由なのですが、一つずつ検討していきます。

1、科学を無視した漁獲枠の設定

一般にTACは、科学者が資源の持続性の観点から乱獲の閾値(OFL)を求め、生物学的許容漁獲量(ABC)を提言し、総漁獲枠(TAC)を決めます。必然的に、OFL≧ABC≧TACとなるわけですが、日本はOFLを求めていない上、ABC<TACという理論的に矛盾する設定までしています。

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「漁業という日本の問題」(勝川俊雄著、NTT出版)には、水産庁が2001年から2002年にマイワシでTAC>資源量(>OFL)という、あり得ない設定までした前科が載っています。

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資源量、つまり海にいると推定されている全てのマイワシの総量以上に、総漁獲枠を設定しているのです。もしあなたがお金のつかみ取り競争に参加して、「この箱の中には全部で26万円入っている。次の人も遊んでもらうために、最大でも取れる量は34万円までにする」と言われたら、その矛盾が気にならないでしょうか。

漁獲枠は漁業有識者が集まる水産政策審議会で決まります。その委員の多くは、漁業団体に天下った水産庁のOB連中だそうです。会議自体は非公開ですが、後日、議事録は公開されます。上記の本の著者は、この意味不明な漁獲枠の設定を決めた議事録を調べてみたら、水産業の中尾管理課長は2002年のマイワシ漁獲量は「過去最低のTAC」で、「対前年比1割減」と、まるで「これでも少ない」かのような発言をしていたようです。資源量以上に漁獲枠を設定している根本的な間違いは、委員の誰も指摘しませんでした。こんな人たちが日本の「漁業有識者」なのでしょうか。

2、漁獲枠を守っていない

水産庁は漁獲枠をまともに設定していないだけでなく、せっかく税金を使って設定した漁獲枠を守らせる気もありません。日本の漁獲統計は、漁業組合の報告を集計するだけです。実際の水揚げと報告内容が一致しているかを誰も確認していません。その気になれば、いくらでも不正は可能です。

日本の漁獲統計の不正確さが顕在化したのは、2005年のみなみまぐろ保存委員会の年次会合です。オーストラリアは日本の市場調査で、TACを大幅に越えるミナミマグロが流通している可能性を指摘しました。

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明らかに過剰なミナミマグロの流通量は、どこから来たのでしょうか。日本政府が調査しなかったので確実な証拠はありませんが、輸入魚は必ず税関で数量を確認するので、日本漁船による不正漁獲によるものでしょう。

さらに、2007年8月にはサバ類の漁獲高が漁獲枠を超過しましたが、水産庁は漁業者に自主的な漁獲枠停止を要請したのみでした。なんと取り締まりをしなかったのです。その結果、最終的な2007年のサバ漁獲量は漁獲枠を6万トンも超過しました。漁獲のほとんどがサバなのに「アジなど」「混じり」という名前で報告する例もあったようで、上記の著者は「実際の漁獲高は6万トンでは済まないだろう」と書いています。

またもやですが、2008年にはマイワシの漁獲枠が2倍近くも破られてしまいました。しかし、なんらペナルティはありませんでした。漁獲枠を無視して、獲った者勝ちです。漁獲枠を遵守した正直者だけがバカを見ます。

漁獲枠の不正を未然に防ぐには、水揚げ、競り、小売りなど、複数の段階で魚の流れを記録して、それらをつきあわせる必要があります。また、違反には厳罰で対処しなければいけません。

ここまでで日本のTAC制度が無意味であることを十分示せたと思いますが、まだ欠点があります。それはTAC制度がオリンピック方式を採用していることです。オリンピック方式は世界の多くの国で失敗しているのですが、その理由を次の記事で説明します。

乱獲で自滅しているバカな国とそれを知らないバカな国民

ノルウェーアイスランドと並んで、ヨーロッパの中では魚介類を日本人並みに消費する漁業国です。1960年代の油田の発見で財政が潤ったノルウェー政府は、既に儲からない産業になっていた漁業に莫大な補助金を与えました。結果、1970年代にノルウェー漁業は「補助金漬け→過剰な漁獲努力→資源枯渇→漁獲量減少」と日本と同じ状況に陥ってしまいます。下のグラフは、ノルウェーの漁業で伝統的に重要な北海ニシンの漁獲量の推移です。

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1960年代後半から、北海ニシンが減少するにしたがって、漁獲率が急上昇しました。資源が少なくなると、漁業者は頑張って獲ろうとするので、漁獲圧が強まるという悪循環です。グラフを見ての通り、1970年代後半には北海ニシン漁は崩壊寸前までいったため、それまで年間の漁獲率が7割だったものを、いきなりほぼ禁漁にしました。国民に馴染みのある魚が獲れなくなったので、当然、漁業は大混乱に陥りましたが、これにより首の皮一枚で北海ニシン漁は崩壊から免れます。禁漁の効果は1980年代には目に見えて現れて、資源量は回復していきます。現在、北海ニシンは1年くらいの乱獲では崩壊しないでしょうが、過去の失敗を繰り返さないため、漁業者たちは漁獲規制を遵守しています。

一方で、下のグラフは北海道でのニシンの漁獲量の推移です。

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1960年頃に北海道のニシン漁は崩壊し、それは60年後の現在まで続いています。理由は乱獲して、資源が減少していたのに、政府が厳しい漁獲規制をかけなかったからです。

本当にバカな話ですが、まだ続きがあります。乱獲は漁獲量を減らすだけではなく、魚の単価自体を下げます。下にノルウェーでのサバの生産量と生産額のグラフを示します。

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生産量は横ばいなのに、生産額は上昇しています。これはグラフ下に書かれているように、油ではなく食用に供されるようになったからでもあり、世界的に魚食の需要が増加しているからでもありますが、「品質向上」させたからでもあります。

品質向上させる方法はいろいろありますが、一番簡単な方法が稚魚ではなく成魚になってから獲ることです。

たとえば、日本ではブリの7割が0才の稚魚の段階で獲られます。

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0才のブリは1㎏あたり100円にしかなりません。しかし、3才以上のブリは1㎏あたり1500円以上にもなるのです。2008年のブリ0才魚の漁獲高は約3600万尾で生産額は40億円でした。しかし、0才の小さいブリを漁獲せずに、3年後に大きくしてから獲れば、体重は9倍に増えて、重量あたりの単価も15倍に増えるのです。成魚になる間に自然減で4割に減ったとしても、漁獲重量は3倍、生産額は50倍になる、と「漁業という日本の問題」(勝川俊雄著、NTT出版)にあります。

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なぜ漁業者は3年が待てないのでしょうか。二束三文の稚魚を獲るよりも、大きくしてから獲った方が儲かると知っているのに、なぜそうしないのでしょうか。

やはり、それは公的機関による漁獲規制が機能していないためです。完全な早い者勝ちの世界になっているのです。意識の高い漁業者が魚の成長を待って獲ろうと思っても、他の誰かに獲られてしまいます。一部の仲間に禁漁を呼びかけても、他の連中が破ってしまったら、意味がありません。次の記事にも書く通り、日本漁業は正直者だけがバカを見る世界になっています。

特に経済的に厳しい漁業者は、数年先まで待てません。自分が一時的に逃した稚魚の大群を、もう一度自分が獲れる可能性は1%もないのです。上記の本の著者は「同じ状況だったら、私だって0才魚を獲るでしょう」と書いています。

次の記事で、日本のTAC(総漁獲枠)制度の欠陥を示します。

日本漁業の一人負け

このブログを開始した3年前から書こうと思っていたテーマです。ほとんどの情報は「漁業という日本の問題」(勝川俊雄著、NTT出版)に準じています。

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上のグラフのように、世界の漁獲量が1990年代から安定しているのに対して、日本の漁獲量は1990年代に入ってから右肩下がりです。どれくらいの日本人がこの事実を知っているでしょうか。また、どれくらいの日本人が「日本漁業の一人負け」の原因を知っているでしょうか。

日本人が魚を食べなくなったことは大した理由ではありません。下のグラフのように日本人が最も魚介類を消費したのは2001年です。1990年代を通じて日本人は大量の魚介類を消費していたのに、1990年から日本の漁獲量は減少しているからです。

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なお、上のグラフからは、もう一つ興味深いことが分かります。1911~1915年の魚介類消費量が年間わずか3.7㎏であることです。100年前の日本人は「かつてない魚離れ」していると言われる現代日本人の15%程度しか魚介類を食べていなかったのです。

事実として、日本人が魚を大量に食べ始めたのは太平洋戦争後になります。戦後に深刻な食糧難にみまわれた日本に、肉や卵を生産する余裕はありませんでした。国民に動物性タンパク質を供給するには、漁業以外の選択肢がなく、日本は国策として漁業を推進しました。戦後の水産消費の増加を支えたのは、冷蔵庫の普及とコールドチェーンの確立です。これにより、漁村以外でも新鮮な魚が食べられるようになりました。

太平洋戦争前までの「伝統ある日本文化」に魚食はほとんどありません。大量の魚食は戦後に一時的にブームになっただけで、明治時代あるいは平安時代の日本人と比べたら、現在の日本人は魚を何倍も消費しています。

ところで、1990年以降、日本の漁獲量が減っているのに、どうして日本人の魚介類消費量は同様に減少しなかったのでしょうか。その答えは、もちろん、魚介類を輸入に頼るようになったからです。

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日本人が魚を獲れなくなっても、海外から買ってしまうくらい、現代の日本人は魚好きなのです。残念なのは、最近は日本以外の国でも魚を多く食べるようになったため、魚の単価が高くなっていることです。そのため、下のグラフのように、日本は魚の輸入量は増えていないのに、輸入金額は上昇しています。

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日本の漁業は衰退産業です。

 

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もちろん、就業者数も右肩下がりです。

 

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しかし、こんな国は日本だけです。世界のほとんどの国では、漁獲量はこれまでもこれからも増えるし、漁業産出額も増えると予想されています。

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なぜ海洋学的には極めて恵まれている日本漁業だけが、こんな情けない未来になってしまうのでしょうか。その答えは、バカみたいに単純明快で、日本だけが魚の乱獲を止めないからです。次の記事で、乱獲を止めた国と乱獲を止めない日本を比較していきます。

フェイクニュースの対処法

「信じてはいけない」(平和博著、朝日新書)はアメリカのフェイクニュースの実情を知るのに有益でした。

イギリスの調査機関「ユーガブ」と「エコノミスト」が2016年にアメリカ大統領選に関連したフェイクニュースの調査をしたそうです。

オバマ大統領はケニア生まれだ」→事実と考える人36%、事実でないと考える人64%。

アメリカが見つけることはできなかったが、イラク大量破壊兵器はあった」→事実と考える人53%、事実でないと考える人47%。

上の二つは完全な陰謀論なのですが、これほどまで事実と考えている人が多いようなのです。言うまでもなく、トランプ支持者に限ると、事実と考える人の率は跳ね上がります。実際、「オバマケニア出生説」についてトランプは当選前に次のような発言をしています。

オバマケニアにいる祖母が言ったんだ。『あの子が生まれたのはケニアよ。私はその場にいて生まれたのを見ているんだから』と。今、彼女はそれをテープに録音している。もうすぐ公開されるだろう」(MSNBCのインタビュー)

「出版社の人間が3日前に来て言ったんだ。オバマが書こうとした本の概要を書きとめたものがあるんだが、その中でオバマは、自分がケニア生まれでインドネシアで育ったと喋っているんだ」(デイリービーストのインタビュー)

トランプはこんなとんでもないフェイクニュースを垂れ流している一方で、自分を批判するメディアについては「フェイクニュースメディアは私の敵ではない。アメリカ人の敵だ」と言っています。

洋の東西を問わず、フェイクニュースは右派寄りの意見ほど好まれます。だから、フェイクニュースを流して、広告収入を得ることで金儲けしている連中は過激な排外主義の意見を書き込み続けます。そんな連中はアメリカにももちろんいますが、なんとマケドニアジョージアといった外国にもいるそうです。平均月収が400ドル程度の国だと、フェイクニュースの広告収入が魅力のようです。そんな彼らは「良識的な民主党寄りのフェイクニュースも作ってみたが、ほとんど見てくれない。過激な共和党寄りのフェイクニュースの方がずっと閲覧数を増やせる」と異口同音に言うそうです。

これでは衆愚政治そのものです。とはいえ、アメリカ政治をそう批判しても、日本にも石原慎太郎という問題発言ばかりする政治家がいたではないか、と言い返されるのかもしれませんが。

ポピュリスト支持者の本当の敵であるグローバリズムの弊害の解決方法」に書いたように、下層大衆は自分の生活を苦しめている金持ち(トランプ)を支持しています。トランプを応援すればするほど、自分の生活が苦しくなるのに、それに気づいていないのです。本当にバカです。

だから、フェイクニュースの対処法として、「投票価値試験」を提案します。フェイクニュースの真偽テストをして、嘘を事実と誤認している人の投票価値を、その分だけ下げます。フェイクニュースに騙されるほどのバカは政治に参加する能力がないとみなし、参政権を制限します。

誤解してほしくないのは、参政権を一切認めないわけではありません。間違った政治知識の分だけ減らすのです。また、参政権以外の基本的人権を制限するわけではありません。

現在のように無知蒙昧な人でも政治知識豊富な人でも、平等に投票権を与えるべきではないでしょう。上記のアメリカの例のように、無知蒙昧な人たちに政治を任せても、無知蒙昧な人たちのためにもならない、と私は推測します。

コロナショックでもハンコ文化に執着する人は病院に行くべき

コロナショックによる経済停滞は、私の人生で最大規模です。都会のほぼ全ての学校が休校し、ほとんど全てのレジャー施設が休業し、多くのカフェやレストランが休業またはテイクアウトのみになるなど、私もほんの1ヶ月前まで想像していませんでした。

2019年12月に朝日新聞が「ハンコの逆襲」という特集記事を組みました。日本での会社設立にハンコが必要らしく、会社設立手続きが面倒になり、オンライン登記すらできなくなっていました。この経済の足を引っ張るだけの無用な規制に政治家たちがようやく気づいて、会社設立時に印鑑不要ルールに変えようとしたら、「(会社設立の難しさに)ハンコは関係ないだろう!」とハンコ業界が大反対しました。関係大ありですし、ハンコ業界が反対することは分かりきっていることなのですが、信じられないことに、政治家たちはハンコ業界におもねり、印鑑不要としない折衷案に落ち着きました。全体の利益を無視して、自分だけの利益を求めるハンコ業界のこの抵抗を朝日新聞は「死闘」と賞賛するような言葉で報道しており、呆れました。

コロナショックでスーパーへの外出ですら混雑時を避けているのに、ハンコを押すためだけに電車で出社するなど、誰が考えてもおかしい状況が注目されるようになり、ハンコ不要論が再び出てきました。

2020年4月28日の朝日新聞に「なぜハンコに執着?」という見出しの記事が載りました。「5千年以上前には印鑑は神聖な証明だった」など今考慮しなくていいことを書いていることも驚きですが、それ以上に驚くのは上原哲太郎や庄司昌彦(どちらも私立の4流以下の大学教授)という情報技術の専門家が官公庁の人事発令、賞状や学校の卒業証書などは「ハンコがないと格好がつかない」「雰囲気が出ない」と認めている点です。そんな言葉が出てきた時点で「こんなバカな大学の教授に聞いた自分の間違いだった」となぜ朝日新聞記者は気づかなかったのでしょうか。「なぜハンコに執着?」の答えはハンコの非効率性を知りながらも変化に抵抗するバカな大学教授や新聞記者がいるからです。自分でも意味がないと思いながらも儀式的行為を反復してしまうのは強迫性障害の典型的な症状です。さっさと病院に行ってください。

その記事にもある通り、印鑑なんて偽物が容易に作れます。ITを使えば、他に有効かつ簡単な自己証明できる方法はいくらでもあります。

今日、本当に今すぐ、日本のハンコ文化は法律で禁止してください。もちろん、官公庁の人事発令、賞状や学校の卒業証書のハンコも禁止です。無駄な税金が使われるだけの印鑑証明もやめます。ハンコの非効率性に日本人は永遠に気づかないかもしれないので、「ハンコを使うかどうかは自由」ではなく、禁止してください。

罰則なしの要請だけで、ここまで学校活動と企業活動を停止させられる国です。勉強や仕事より遥かに無用なハンコ文化を即刻絶滅させるなど、わけないはずです。

ろう者教育法問題と英語学習法問題の相似

ろう者にはバイリンガル教育(日本手話を熟達させた後、書記日本語を習得させる方法)でいくべきなのか、トータルコミュニケーション教育(口話も手話も用いた方法)でいくべきなのか、科学的な結論は出ていないようです。

日本手話教育を推進する明晴学園校長の斉藤道雄は「思考力の養成のためには、ろう者にとって最も意思疎通しやすい日本手話の習得が不可欠である」と主張します。しかし、その思考力はどうやって測るのでしょうか。その人にとって、最も分かりやすい言語で行うべき、と斉藤は考えているようですが、では、日本手話も書記日本語も、どちらも苦手なろう者の思考力はどうやって測るのでしょうか。あるいは、どちらの言語も苦手なのに、思考力が高い人などいない、と斉藤は考えているのでしょうか。

斉藤は明晴学園で書記日本語の習得がおろそかになっている事実を暗に認めています。そこで30年以上も前のアメリカのトータルコミュニケーションの文献を根拠に「トータルコミュニケーションでも書記英語の習得はできなかったではないか」と言いたいようです。

聴覚障害教育これまでとこれから」(脇中起余子著、北大路書房)を読む限り、確かに、トータルコミュニケーションでも、書記言語の習得は難しいようです。しかし、完全な日本手話教育(明晴学園の教育)よりは、一般のろう学校の教育は書記日本語の授業が充実しているので、書記日本語の習得は容易だと推測されます。

日本手話を習得することなく、口話教育で京大に合格した脇中起余子は「a.手話は不十分だが、書記日本語を習得できる、b.書記日本語は不十分だが対応手話ではない日本手話を習得できる、のいずれかにしてあげよう」と言われたら、aを選ぶと言っています。日本手話を十分に習得できない不利益と、書記日本語を十分に習得できない不利益とでは、後者の方が遥かに大きいから、および日本語対応手話でも多くの聴覚障害者と通じると感じるからです。

脇中は次の2つの意見を提示します。

①ろう者たちは手話も日本語も中途半端なセミリンガルになっている。かわいそう。なにか完全な言語を獲得させることが大切であり、ろう者の場合、それが日本手話であることは明らかである。

②書記日本語が不十分なら、職業選択の範囲が狭められる現状がある。日本手話から書記日本語への橋渡しの手法が具体的に見えない。①のように言う人は、手話モノリンガルになったときの不利益をどう考えるのか。

もちろん、脇中は②の意見です。

この議論の大前提として、『聴覚障害者は日本語の「聞く話す」はもちろん、「読む書く」も難しい』という事実があります。これは私を含む多くの人が誤解している事実ではないでしょうか。聴覚障害者が「聞けない」から「話せない」のは誰でも理解できます。しかし、聴覚障害者はなぜ読めなくて、書けないのでしょうか。

京大卒の脇中はたまたま群を抜いた読書能力を持つ天才だったのでしょうか。あるいは、脇中のような教育を受ければ、ほとんどのろう者は書記日本語を習得できるのでしょうか。

考えるべき問題は他にも多くあります。

1、明晴学園の全ての生徒たちは日本手話を十分に習得できているのか

2、聴者たちはどれくらい日本語を習得しているのか

3、明晴学園の生徒たち、一般のろう学校の生徒たち、聴者の生徒たちでは、抽象思考と人間関係と道徳力にどれくらい差があるのか

ろう者の教育法の問題が興味深いと私が思ったのは、英語教育問題と似ている部分があると考えるからです。

たとえば、日本の学校で国語以外の全ての授業を英語で行ったとします。そうなれば、日本人の英語力は確実に向上するでしょうが、同時に「平行四辺形」や「三権分立」や「酸化還元」などの言葉を知らない子どもが増えて、子どもの日本語力は落ちるでしょう。家庭で使っていない言語での教育だと脱落してしまう生徒が増えるでしょうから、今以上に学力差は大きくなります。なにより、一部の優秀な生徒を除けば、日本語も英語も中途半端になってしまい、十分な「思考力」が養えなくなるかもしれません。「国際化時代の今、子どもには英語のシャワーを浴びせなければいけない」と簡単に言う人たちは、このような理屈にどう反論するつもりなのでしょうか。

ところで、脇中は「言語に優劣はない」と明言しながらも、日本手話よりも書記日本語を習得したい、と述べています。現実問題として、日本社会では書記日本語が日本手話より遥かに有用だからです。

ここで視点を変えます。「英語と日本語のどちらを習得するか、選べ」と言われて、「英語」と答える日本人をどう思いますか。さらに書けば、そう答えた日本人が金持ちの帰国子女だったら、どう思いますか。

以前、「英語でしゃべらないと」というNHKの番組がありました。そこに出演しているキレイなだけで頭の弱い女が「No English, no success.」と番組の最後に言って、私がテレビをぶち壊したくなったことがあります。この女は「子どもがいたら、絶対に留学させたい」と能天気に言ったこともあり、そこでも私は怒って、(こんなアホウに払う給料があるなら、俺に留学費用くれよ!)と心の中で叫んでいました。当時の私は、そのバカ女と比較にならないほど強いストレスを感じながらも、社会道徳だけは重視して働いていましたが、留学費用など全く貯まりませんでした。子どもはもちろんいませんし、結婚もできませんし、なけなしの金を使ってどんなに時間をかけて探しても、彼女はできませんでした。

このブログを全部読んでもらえれば分かりますが、私も「英語と日本語のどちらを習得するか、選べ」と問われたら、「英語」と答えたいです。日本よりもカナダで暮らしていきたいためです。しかし、残念ながら、カナダで暮らす能力も気力も、お金も、協力してくれる親戚も、私にはありませんでした。だから、「英語と日本語のどちらを習得するか、選べ」と問われたら、「英語」と答えたいのですが、現実問題として私は日本で暮らすしかないので、「日本語」と答えます。

似たような問題を抱えているろう者もいるはずです。ほとんどのろう者は、好むと好まざると、ろう者のコミュニティで生きていきます。だとしたら、ろう者のコミュニティに好まずに生きるより、好んで生きた方が楽でしょう。「書記日本語」が日本全体で有用であることを知りながらも、「日本手話」の習得を重視するろう者を、簡単に非難することは、私にはできません。

私は脇中の意見にほぼ同意していて、脇中のような優秀な教育者が日本にいてくれたことに感謝していますし、脇中ほど日本のろう者教育について深い見解の人はいないとも考えています。しかし、脇中のような恵まれたエリートに一部のろう者の深く暗い葛藤までは分からないだろう、とも思います(もっとも、ほとんどのろう者は脇中を批判できるほどの葛藤を感じていないだろう、とも思います)。