未来社会の道しるべ

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死生観の社会的向上と個人の幸福

医療の発展は、医学の進歩だけで決まるものではありません。公衆衛生の向上は、医学の進歩以上に、人類の健康増進に役立っています。また、社会全体の死生観の向上も、医療の発展あるいは個人の幸福に繋がっています。

たとえば、20年以上前の日本では、癌告知はまずなされていませんでした。現在50代以上の医者に聞けば、ほぼ全員が「肺がんだと分かっても、まず本人に伝えなかった。『肺ポリープです』と訳分からないこと言って、ごまかしていた」といったことを言うでしょう。本人に死期を伝えないので、必然的に、どのような死を迎えるかの選択権が本人に与えられません。生命に関わる基本的人権の侵害です。

当時の医者たちに聞くと、「おかしいとは思っていたが、患者家族たちが告知を希望していなかった」などと返答してきました。「待ってください。なぜ患者本人よりも、患者家族へ先に癌告知しているんですか。患者が患者家族に伝えない権利はあっても、逆はないでしょう」と私が反論しても、「それはそうなんだけど、当時は誰もが家族に先に告知していた」と言われます。日本によくある「みんながおかしいと思いながらも、みんながしているので続いていた習慣」の一つだったようです。

患者よりも患者家族に終末期の決定権がある状況はその後も続いています。2006年の医療技術評価総合研究事業「終末期医療全国調査」(n=1,499)によると、がんの治療方針や急変時の延命処置などを決定する際に一般病院で最も頻繁に行われている対応は、「患者とは別に、必ず家族の意向も確認している」(48.7%)であり、次に僅差で「先に家族に状況を説明してから、患者に意思確認するかどうか判断する」(46.9%)が続き、「患者の意思決定だけで十分と考え、家族の意向を確認していない」(0.7%)が最も低いそうです。私の経験からいえば、現在でも、患者が認知症の場合は、患者家族へ告知を先にすることが普通です。

法律上、これは明らかに不適切な対応です。自身の病状を知る権利が患者本人だけにあり、その病状を誰にどこまで伝えるかの権利も患者本人だけにあることは法律で定まっています。それは医療者も十分承知しているはずなのですが、実際には、患者よりも患者家族を優先し、場合によっては患者家族が患者本人の死の決定権まで持っています。患者本人が死にたいと主張しても、患者家族が延命治療を希望しているので、治療を続行した経験なら、医療従事者なら誰でもあるはずです。

医学の進歩と違って、死生観の向上は、人びとの意識さえ変えれば、いつでも可能です。それこそ50年前に、患者本人への癌告知を一般化することは、物理的に十分実現可能でした。しかし、現実には、癌告知が一般化するまで、何十年もかかっています。

前回の記事に書いたように、終末期の安楽死は20年以上前から問題になっているのに、いまだ法制化されていません。まして、終末期でない死(ピンピンコロリ)など、今の日本では夢物語になっています。ピンピンコロリの実現には、下手したら100年かかるかもしれません。しかし、繰り返しますが、死生観の向上は個人の幸福に密接に関係しており、物理的には今すぐにでも実現できます。今回の私の一連の記事が、日本人全体の死生観の向上の一助になることを願っています。