未来社会の道しるべ

新しい社会を切り開く視点の提供

医療の本質

50年後の日本人からすると、人間が医療診断している現在を信じられないでしょう。命に係わることを、間違うこともある人間の判断に任せていたなんて、ありえないと考えるはずです。

その未来の人に言い訳をすると、2018年現在でも、同じ感想を持っている人は決して少なくありません。「いつAIによる医療診断に変わるのだろうか?」との疑問が出ると同時に、「そもそも、なぜ今、医療診断をコンピュータ化していないのだろう?」と思う人はいます。私はそんな人に何名も会っていますし、私自身も思っています。実際、今のコンピュータ技術でもAI医療診断は十分に活用できます。

調べれば分かりますが、こんなことは昔から考えられていました。1980年代の第二世代AIの頃、医療診断をコンピュータ化する流れはあったものの、「フレーム問題」にぶつかって失敗しました。

「フレーム問題」とはなんでしょうか。専門家は難しいことを書いていますが、誤解を恐れずに単純に言ってしまえば、人間が勘と経験で判断している領域です。もっと端的にいえば、非科学的に判断している領域です。

医学はこの非科学的領域が、恐らく一般に思われている以上に広く存在しています。雑誌やテレビなどで「こういった判断の難しい場合は専門医に相談してください」とよく述べていたりしますが、それはしばしば専門医でも判断できない領域、科学的に未解明な領域であったりします。だから、「そんなこと専門医に相談しても意味がないだろう。『科学的によく分かっていない』となぜ正直に伝えないのか」と私はいつも疑問に思います。実際に相談された専門医は、どう対応しているのでしょうか。もしかして、「『私にも分からない』と正直に伝えたら、患者はショックを受ける」と思い込んで、専門医は患者を上手くごまかして、いまだに治療の主導権を握っているのでしょうか。

1980年代、このように医者が医療の主導権を握る領域は今より広く存在していました。コンピュータの進化以前に、医学自体が非常に非科学的であり、「フレーム問題」の領域だらけでした。Evidence Based Medicineの重要性が認識され、多くの治療にガイドライン(科学的に示された標準治療の流れ)ができてきたのは、なんと1990年代からです。それ以前は医師の自由裁量、つまりは医師ごとの判断で医療の多くが行われていました。もちろん、その判断による治療の何割かは、現在の治療ガイドライン(科学的医療)からすれば、間違っていました。

今では1980年代よりも「フレーム問題」に突き当たる領域は狭くなったでしょうが、それでも消滅したわけではありません。医学が科学的に完全に解明されない限り、非科学的領域は存在し続けます。そんな「フレーム問題」領域こそ、医者が活躍できる場が残されている、と主張する医者がいます。

しかし、もう一度書きますが、「フレーム問題」領域とは、非科学的領域です。誰にも正解が分からない領域なので、誰が判断してもいい領域です。だとしたら、本来、医療の結果に責任を唯一負える患者本人が判断すべきなのは明らかです。

そもそも全ての医療判断は、理想的には患者本人がするべきです。もし患者本人が適切な医療判断ができなかったら、患者本人が判断を委ねている者(保護者など)がするべきです。間違っても、コンピュータに負けると気づかずに医療専門知識を豊富に蓄えて威張っていたバカ(医者)に判断を任せるべきではないでしょう。

ここで「では、患者が理解できるように説明する仕事が医者に残る」と食い下がる人がいるかもしれません。そんな仕事が未来に残る可能性はあるかもしれませんが、それを仕事にする人は既に医者とは呼ばれなくなっているでしょうし、今のように高給な職業にもなっていないでしょう。

これまでも、これからも医療は科学的に説明できる領域と、非科学的な領域に分類されます。科学的な領域はコンピュータで代替可能ですし、代替すべきです。毎日更新される膨大な医療の科学知識を身に着けられる人間なんていませんが、コンピュータなら可能です。非科学的な領域は医者が考えても答えは出ないので、それを正直に患者に伝えるべきです。また、科学的な領域であろうと、非科学的な領域であろうと、医療の責任は患者本人しか負えないので、全ての医療の判断、医療の決断は患者本人がすべきです。この医療の本質に気づいた国から、AI医療が導入され、医者は消えていくでしょう。

日本は世界で最初に医者のいない国を目指すべきである

結局、僕は東大に入らず、アメリカ西海岸の大学の医療工学部に進学することにした。最高のコンピュータ教育を受けさせてくれた父の期待を裏切ることになるが、僕は日本の大学に入る選択はどうしてもできなかった。

僕の祖父は東大卒の心臓手術師であった。いや、いまでも祖父は自分を「外科医」と言っている。外科医という言葉がなくなって長くなるが、昔の記憶は残っていて、かつてのエリートだった医者の中でも花形の「外科医」という言葉に愛着があるようだ。現在は、重度の認知症で老人ホームに入所しているが、あまりのプライドの高さに、他の入所者からも介護者からも、僕を含めた家族からも嫌われている。

医者の仕事は僕の祖父の時代から少しずつコンピュータ化されることになった。真っ先になくなったのは、画像診断を専門とする放射線医と病理医である。コンピュータによる人間の仕事の侵食は他の業界でも燎原の火のごとく広がっていったが、医師側の抵抗があり、画像診断医がなくなった後も、医者という職業そのものの消滅にはしばらく時間がかかった。

最初に医者がいなくなる国はコンピュータ技術で先頭を走るアメリカだと、誰もが考えている中、世界で最初に医療診断をAI化することを決断したのは日本だった。財政が破綻し、大幅な社会保障費の削減を余儀なくされたための苦肉の策であったが、結果、医療ミスが激減し、過剰医療が極限までなくなり、医療費は大規模に削減され、患者の受ける恩恵は飛躍的に増した。

この日本の英断により、あらゆる内科医が失業していき、外科医が術式を決めることもなくなった。世界中から医学部が消え、代わりに医療専門学校が手術師、内視鏡師、カテーテル師などを育てることになった。手術師、内視鏡師、カテーテル師はコンピュータの指示通りに作業するのが仕事なので、頭の良さはさほど要求されず、それよりも手先の器用さが遥かに重要となる。当然、それらの専門職の給与は、かつての医者とはくらべものにならないほど低くなった。

僕の父は東大医学部を目指して勉強していたが、医学部が医療工学部になって、高度なプログラム能力が必須となったため、入学できず、かといって家業の医師の道を諦めることもできず、医療専門学校に進んだ。父はお金のためではなく、医療貢献のために進路を選んだので、価値のある決断だったと信じきっていたらしい。

しかし、父の人生は挫折の連続となった。もともと頭がいいだけで、さほど手先が器用でなかった父は、天性の器用さを持つ同級生たちとの競争に負け、目標の手術師にはなれず、カテーテル師になった。そのカテーテル師も、内視鏡師や手術師同様、父の仕事人生が終わる前に、AI機械に代替され、かつての医師同様に職業自体が消滅した。現在、父は塾講師の仕事をしているが、教育内容の変化に着いていくのに必死だ。

そんな父は、プログラミング教育を徹底して僕に施してきた。「これからはコンピュータを使える人間と、コンピュータに使われる人間に2極化する。東大医療工学部に入って、コンピュータを使える人間で一番になれ!」が父の口癖だった。自分が入れなかった東大への夢を託したかったようだ。

その甲斐あって、僕は小学生の頃から自作のゲームソフトを作成、有料で配給し、中学生の頃には父の収入を上回っていた。家族は全員、僕が東大に入ることを疑っていなかったようだ。

しかし、僕は東大医療工学部に入らなかった。確かに、日本の医療工学界で東大は最高の人材を集め、最高の投資を受けている機関である。特に日本の手術機械技術の多くは東大が最先端であり、東大開発の手術機械のシェアは脳手術分野32%、整形手術分野35%で、どちらも世界一だ。

それでも僕は東大を選ばなかった。なぜか。

それは東大研究室の縦社会を嫌ったからだ。東大に見学に行った時、部外者の僕でも、研究室内での上下関係をすぐ把握できるほど、縦社会は徹底されていた。そのほとんどは単純に、年功序列と長幼の序で決まる。僕は若いというだけで、3回の見学時、いつも見下されたような言葉遣いをされた。自由に発言する雰囲気は全くない。

実際、「東大の強みである脳手術機械と整形手術機械は技術的にもう限界が来ていると思います。いずれ賃金の安い新興国に抜かれるので、消化器手術や心臓手術機械の開発に人材を投入すべきではないでしょうか?」との僕の発言も、「10年前からそんなこと言われているけど、東大の利益はいまだに増えている。東大は手術機械の分野を切り開いてきた。先行者がずっと一位の業界がどれくらいあるか知っている?」と研究員に一笑に付された。全く同じ意見を教授が言ったら、その研究員が僕にした態度をとることは絶対にないと確信する。

僕のアメリカ大学進学は、結局、家族の誰からの賛成もなかった。潤沢な奨学金が得られたから、僕がアメリカを選んだと家族は思っているようだが、それは違う。東大を選んだ場合、僕の将来が不安だったからだ。それは東大の縦社会で、僕の能力が十分に発揮できないためだけではない。現在の成功体験に執着し、変化することのできない東大に入れば、祖父や父のように、僕もいずれ失職することを恐れたからだ。

個人主義というより世界人間主義

「日本は集団の和を大切にするのに対して、西洋は個人主義である」ということはよく言われます。私も同様のことをブログに書いたように思います。この個人主義という言葉は自己中心のような語感があり、誤解を生みやすいと私は考えます。

教養のある西洋人と話していると、「西洋人は自己中心的というより、世界全体のことを考えている」と感じます。考えるだけでなく、NGOや国際関係で実際に行動してもいます。一方で、日本人は世界全体ではなく、自分が属している組織に忠誠心を誓っています。学校、会社、家族、部活などです。西洋人は家族への愛情は深いものの、学校や会社に日本人ほどの忠誠心はありません。日本人が愛着を持つ学校や会社といった小さい枠組みよりも、教養ある西洋人は地球規模の視野で常に考えているように私は思いました。

だから、一見、西洋人は学校や会社や組織のために動かないように思えるかもしれませんが、それは集団を軽んじているのではなく、もっと大きい集団を重視しているからです。学校のルール、会社のルール、組織の暗黙のルール、国家のルールよりも、人類普遍の価値観を重視していたりします。

確かに、西洋人は日本人と違い、みんなで決めた結論が、個人の結論よりも優先するとは考えていません。多数決が民主主義との考えも、日本人ほど持っていません。ナチスが民主選挙で第一党になったように、大衆が破滅的に間違うこともあると知っているからかもしれません。だから、相手がどんなに偉い人だろうと、どんなに称賛を集める人だろうと、大衆だろうと、国家だろうと、西洋人は自分の信じる意見は主張します。また、その主張自体に同意しなくても、主張する行為そのものは尊重されます。それが西洋の個人主義です。

だからといって、個人のワガママに多数が従うわけでは決してありません。その逆で、個人の主張を通したら、社会全体で見て不利益が多かったら、たとえ個人の人権を侵害することになっても、その主張は当然退けられます。個人の基本的人権は尊重されますが、あくまで他の人の基本的人権を侵害しない範囲です。両者がせめぎ合う場合は、社会全体の良心に基づいて、妥当な結論を求めます。

西洋人は「カナダ人だから」「男だから」「女子校出身だから」「弁護士だから」「20代だから」といった考え方を忌み嫌います。それは固定観念(stigma)を生みやすいからだと思いますが、別の観点からすれば、そんな小さい枠組みに当てはめられることを嫌っていたからかもしれません。そうではなく、「人間だから」という広い視野をいつも持っていたように私は思います。

日本はカルト国家である

あえて断定表現を使いますが、日本はカルト国家です。なぜなら、次の四つの全ての要素が満たされているからです。

①組織から簡単に抜けられない

法律的、経済的、言語的理由から、日本人は簡単に外国人になれません。実際、私はカナダ人に今すぐにでもなりたいのですが、明日からなる、というわけにはいきません。

②メンバーは組織内と組織外で性格が変わる

この場合の性格とは話し方と所作を示して、内面は含めません。私を含めた日本人が、日本人と日本人以外と接するとき、性格が変わるのは一般的でしょう。これが排他性を生むことにもなります。

③メンバーは組織内でしか通用しない上下関係を重視する

憲法では法の下の平等が定められていますが、現実には暗黙の上下関係が至るところにあり、多くの日本人がその上下関係に従っているのは周知の通りです。

④メンバーは組織の異常さに気づいていない。

日本の異常さに気づいていない人は、日本人であることの優越感を持っているはずで、立派なカルトの危険人物と言えるでしょう。

この①~④を満たすなら、その組織は大なり小なりカルトです。ただし、この四つの要素は日本に限らず、先進国から発展途上国まで、全ての国家に当てはまります。もっと言えば、全ての宗教、全ての政党、全ての学校、全ての企業、全ての家族、全ての組織に当てはまります。人間が組織を作れば、必ずそこにはカルト的要素が含まれているのです。

これを読んで「全ての国家がカルトなんて屁理屈だ」と思う人もいれば、「全ての宗教がカルトなら、危険な宗教と安全な宗教を分類できなくなる」と思う人もいるでしょう。

それに対する答えは次のようになります。

「全ての組織はカルトの要素を持っている。カルトの要素が強ければカルトとなり、弱ければカルトとならないが、明確に分離することは不可能である。そして、全ての組織が流動的である以上、どんな組織もカルトになる可能性はある」

確かに日本がカルトなら、中国はもっとカルトですし、アフリカの全ての国はカルトになってしまうでしょう。それを屁理屈と考えるのは、現在の感覚だと妥当です。ただし、遥か先の時代、国家が全て消滅した未来の人が私の上の言葉を振り返ったなら、「全ての組織がカルトの危険性を持つなんて、子どもだって知っている」と考える、と私は予想します。

さらに未来の未来には、家族という排他的な組織も消滅して、誰もが個人として他の個人と対等に接する時代が来るはずだ、と私は期待しています。

ところで、①~④の要素はどれも強くなるほど、カルト度が増していきますが、中でも私が重要だと思うのは④です。世界中のあらゆる組織は完璧でないので、異常なところがあります。異常という言葉は強いかもしれませんが、他の誰かから「おかしい」「変だ」と思われる側面はどんな組織にも存在します。それに全く気づいていなかったり、気づいていない人が多かったりしたら、その組織はカルト要素が強く、危険でしょう。どんなに優秀であっても、自分の異常さに気づいていない人が危険であることと同じです。

セクハラ問題を解決するために

「部長、その恋愛はセクハラです!」(牟田和恵著、集英社新書)にあるように、セクハラと訴えたせいで、関係者全員が不幸になる例は多いようです。牟田は「大ごとにされたくなかったら、セクハラの批判があれば素直に謝罪しましょう」「会社の処分に納得できなかったとしても、裁判に訴えるのはいかがなものか」と持論を展開しており、ついには「痴漢に冤罪があるからといって、セクハラに冤罪があると考えるのは間違いだ」といった極論まで主張しています。これらの主張からすると「セクハラ批判があれば、常にセクハラ被疑者が悪いので、誠心誠意反省して、謝ればいい。セクハラ被疑者が問答無用で謝罪しないから、問題がややこしくなる」と牟田は本気で考えているようです。再度書きますが、こんな浅はかな見識の人が大阪大学教授を務めているのが信じられません。

一方で、牟田は「裁判を受ける権利は憲法で保障された国民の権利ですから、提訴を批判することはもちろんできません」とも書いており、矛盾しています。おそらく、セクハラの事例があった場合、どういった解決法が適切なのか、牟田はセクハラの専門家であるはずなのに、深く考えたことがないのでしょう。

セクハラ事件に限らず、裁判沙汰になると、両者が全面対決になった上、どちらにとっても不幸な結果になっている例は散見されます。以前から、この裁判が抱える欠点について私は疑問に感じているので、いずれ記事にしたいと考えています。

それはともかく、セクハラ事件を両者にとって納得のできる形で解決できる方法、機関は作るべきだと考えます。円満解決できるなら、裁判を通じてでも、通じなくても構いません。

また、牟田は「オフィスにセクハラの種はつきまじ」と不謹慎なことを章のタイトルにまでしていますが、当然ながら、オフィスにセクハラの種がないことが理想です。病気を治すより、そもそも病気にならない努力をすべきように、セクハラが起こって解決するよりも、そもそもセクハラを起こさないことが大切です。

だから、セクハラ問題の啓蒙活動が重要です。上記の本を読んでいると日本のセクハラ専門家の知性に絶望してしまいますが、私がこのブログで示している男女観、恋愛観、結婚観を理解できる教養ある学者が、日本のセクハラ問題の専門家として、啓蒙してくれる時代が早く来てくれることを願っています。

性の話題は政治や宗教と同じく注意すべきである

性の問題は敏感である 」と同じ主張を繰り返させてもらいます。日本人は政治や宗教の話を全くしないわりに、性の話題には気軽に踏み込むように思います。性は人間の根幹に関わる問題です。わずかな違いが、大きな対立に発展することも珍しくありません。「部長、その恋愛はセクハラです!」(牟田和恵著、集英社新書)のように、性の問題を軽々しく扱ってはいけません。この本では「通勤電車内で、ミニスカートの女性の脚を見たらラッキーと思っていればいいですが、職場ではいけません」などと書かれています。私は性欲も十分にある男性ですが、電車の中でミニスカートの女性の脚を見てラッキーと思うことは通常、ありません。前回の記事にも書いたように、露出度の高い女性を見たら、魅力的と思うよりも、その女性の内面を疑うでしょう。また、「平均的な女性」なら、「職場の上司にいやらしい目で見られるのは嫌でも、満員電車の見知らぬ男にならいやらしい目で見られるのは平気」なんてはずがありません。なにより、男性の性欲を批判する繊細な問題の本の中で、男性の性欲を茶化して侮辱するような表現を使う神経に呆れます。

ところで、この本を読めばセクハラ事件で女性と男性がともに不幸になって終わるケースは、少なくないと推測できます。その一つの例として、組織内でのセクハラ処分に納得できず、男性が裁判に訴えるケースをあげています。訴えた男性は既に処分されていて憤懣やる方ありませんし、女性もようやく終わったはずの事件にまた関わるので精神を消耗しますし、組織の責任者も裁判に出席する面倒につきあわなければなりません。こういった裁判では、処分された男性の妻が頑張っている例が少なくないようです。夫の証言にわがことのようにうなずき、相手の女性を蛇蝎のごとく睨みつける妻の姿を著者が目撃したことは二度や三度でないそうです。

それぞれの事件にもよるでしょうが、多くの場合、そのような妻は理性を失っているでしょう。それを「どんなにひどい状況でも夫の味方をする理想の妻」と考える男性もいるかもしれませんが、組織がセクハラと認定して処分した以上、ある程度の落ち度は男性側にもあったはずで、それを完全に無視して「相手の女性を蛇蝎のごとく睨みつける」のは異常です。この妻は自分が相手の女性だったらどういう気持ちになるのか、考えられないようです。

とはいえ、そんな態度をとってしまう妻の気持ちも理解できます。それくらい、性の問題は敏感だからです。たとえば、夫が窃盗事件に関わっていても大して驚かない妻が、セクハラ事件に夫が関わっていると知った途端、正気を失うことはありがちだと思います。場合によっては、殺人事件に関わるよりも、深刻に考える妻だっているでしょう。性の問題が敏感であることを利用して、オレオレ詐欺では「痴漢」という単語を頻繁に使用し、高齢者の理性を失わせるそうです。

そんな要素を性の問題は抱えていると日本人は認識すべきでしょう。同時に、「西洋人は政治や宗教の話が大好きである」でも主張したように、性の問題をあっさり扱えるくらいなら、政治や宗教の話題にも日本人は日常会話でもっと踏み込むべきだ、と私は思います。

女性がどんなにセクシーな服を着ていてもジロジロ見るとセクハラなのか

そんなわけありません。常識で考えてもそうですが、日本はもちろん、世界中の判例でもそうです。現実に世界中の判例を調べていませんが、断定します。そうでないなら、その国の判例は修正されるべきだからです。

こちらのブログで何度も書いているように、人を外見で判断することを道徳的に好ましくないと私は考えています。そんな私でも、外見で人を判断するのが道徳に全く反すると考えているわけではありません。へそ出しの服装で職場にいる女性を見たら、その女性の内面を疑います。イスラム女性の格好を考えれば分かる通り、どんな時代のどんな国でも、女性が露出の多い服を着るのは社会道徳的に好ましくないと判断されています。

確かに、胸元の開いた女性の服装を注意して、セクハラで訴えられた例はあります。しかし、それは「その服装は私の好みだけど、職場に着てくるのはどうかな?」と注意していたりするからです。普通に考えて「その服装は私の好みだけど」は余計でしょう。「弁護士が教えるセクハラ対策ルールブック」(山田秀雄・菅谷貴子著、日本経済新聞出版社)にあるように、単純に「職場にその服装は不適切でしょう」と注意すればよかったのです。

なお、「女性がセクシーな服を着ていたらジロジロ見てもセクハラにならない」と言っても限度があり、常識で考えられないほどジロジロ見たら、セクハラになるかもしれません。「いくら女性の服がセクシーだからといっても、そこまでジロジロ見たなら、見る方が悪い」と一般的に考えられたら、裁判でもそう判断されるでしょう。

誠実な職場恋愛ならセクハラなど気にしなくていい

たとえ上司と部下の関係であっても、誠実な職場恋愛ならセクハラなど気にしなくて構いません。しかし、現実には、本人は誠実な職場恋愛のつもりであっても、セクハラとなった例はあるようです。ただし、私の価値観からいって、これはセクハラと訴えられても仕方ない、というケースばかりです。「仕事に疲れていそうなのでマッサージをしてあげた」「仕事にかこつけて毎日数十通のメールを送っていた」「飲み会で女性に馬乗りになった」「飲み会で男性器を模した料理を食べさせた」などです。

これまでの記事で「部長、その恋愛はセクハラです!」(牟田和恵著、集英社新書)を徹底して批判してきましたが、その本にはいいことも書いています。「セクハラは受け取る側の主観で決まると考えるのは誤解である」と解説していることです。なんでもかんでも女性が嫌だったらセクハラになるわけでは決してありません。「平均的な女性労働者の感じ方」を基準にして決めているのです。上記のような行為が平均的な女性労働者が嫌と感じないわけがありません。そんな行為をする男性はどんどんセクハラで訴えて、職場から消滅させてください。

繰り返します。一般的に真面目な未婚男性なら、たとえ上司と部下の関係であっても、セクハラを恐れて、職場恋愛を躊躇することはありません。もちろん、職場恋愛中の相手、あるいは別れた後の相手の人事評価を客観的にできなくなることはあるでしょう。過去の恋愛相手の人事評価を悪くするだけでなく、良くしても、セクハラになる可能性はありえます。ただし、人事評価が客観的かどうかを判定するのは難しいので、よほど悪質でない限り、セクハラと認定されることはないはずです。

また、セクハラと訴えられた時点で、風評被害が発生すると恐れるかもしれませんが、私の経験からいって、不倫ならともかく、未婚の男女の仲なら心配ありません。当事者でもないのに、恋愛の両者のどっちが正しいか間違っているかを判断するのは不適切と、理性のある社会人なら知っています。もし本当に誠実な恋愛だったなら、大した風評被害にはならないと私は推測します。

ところで、「セクハラはモテない男を罰するものではない 」で、過激な性的冗談でも女性が喜んでいればセクハラにならないが、軽い性的冗談でも女性が嫌がっていればセクハラになる、と私は書きましたが、これは誤解を生むかもしれません。他の男性たちからきわどい性的ジョークにいつも笑って許している女性が、同じ職場のさえない男に軽い性的ジョークを言われると、セクハラと訴えたとしたなら、(その女性の普段の性的ジョークへの態度を証明できれば)まず慰謝料請求は認められないでしょう。これも常識通りです。

間違った恋愛観でもジェンダー学者になれる実例

「部長、その恋愛はセクハラです!」(牟田和恵著、集英社新書)では、「女性ははっきりとノーと言わないのは洋の東西を問わない。だから、女性がノーと言っていないからといって、嫌でないと考えるのは男性の勘違いと判定されても仕方ない」と書いています。「女性がはっきりとノーと言わない」のは事実かもしれませんが、性的なことに関しては正反対で、むしろ「女性ははっきりとイエスと言わない」です。それは経験上、全ての男性が知っていると思います。ロシアのアネクドート(小話)にこんな冗談があります。

「外交官がyesと言ったら、それはmaybeの意味である。外交官がmaybeと言ったら、それはnoの意味である。外交官がnoと言ったら、その人はすでに外交官としては失格である。女性がnoと言ったら、それはmaybeの意味である。女性がmaybeと言ったら、それはyesの意味である。女性がyesと言ったら、その人はすでに女性としては失格である」

私は「恋愛における女性優位の証拠」で、「女性はほとんど全ての男性を拒否するのに、男性はほとんど全ての女性を受け入れる。だから、恋愛では女性優位だ」と主張しました。この仮説には「それは単に男性が女性を基本的に警戒しないが、女性は男性を基本的に警戒することの証明にしかならない。これで恋愛における女性優位とするのは論理が飛躍している」という批判が出てくるでしょう。確かにその通りですが、最低でも、恋愛について女性が男性よりも遥かにnoと返答する証拠にはなるはずです。

だから、「恋愛について女性はノーと言わない」は牟田の明らかな間違いです。水掛け論をしても仕方ないので、実際に「恋愛における女性優位の証拠」に書いた社会実験などをして、統計的に証明してください。

おそらく、恋愛について女性は基本的にノーの返事することは、男性に限らず、女性だって知っているはずです。まさか牟田は恋愛についてノーとなかなか言わないのでしょうか。上記の本を読み限り、とてもそうは思えません。牟田自身がむしろ「イエスとなかなか言わない」性格なのなら、誤解するのは男性の責任にしたいからといって、「恋愛において女性はノーとなかなか言わない」と主張するのはどうなのでしょうか。

結婚のない社会の弊害

「恋愛相手がたまたま既婚者だっただけだ。その恋愛感情を社会的事情で抑制するのは不自然だ。それに、関係者ならまだしも、赤の他人が不倫を批判すべきでない」 不倫を容認する人がよく用いる理屈です。確かに、不倫に限らず全ての恋愛は、関係者にとってすら、正しいか間違っているかの判断はつきません。まして、赤の他人が正しいか間違っているかを判断するのは不適切です。

しかし、不倫は外形だけで、法律的に批判される不法行為です。不倫が完全に許されるなら、そもそも結婚制度なんてなくていいでしょう。「結婚制度が社会に必要な理由」に書いたように、結婚制度がなくなれば、一番困るのは子どもです。しかし、子育てに関しては、父親に養育費さえ払ってもらえれば問題ない、という反論もあるかもしれません。それでも明らかな問題が生じることを次に示します。

結婚制度がなくなれば、事実上、一夫多妻、一妻多夫が容認されます。それこそ平安時代のような「古臭い性道徳」の社会になります。モテる奴はさらにモテて、モテない奴はいつでも捨てられ、失恋の苦しみを経験し続けることになります。だから、結婚は弱者を救う制度なのです。「美しくなくなったから、収入が少なくなったから、別れる(離婚)」が自由に認められたら、社会に不幸が蔓延します。

恋愛のない一生、浮気で裏切られる一生を送りたい人間などいないはずです。かりにあなたがそんな人生だとして耐えられますか。経済は自由が基本ですが、税金や規制は必要なように、恋愛も自由が基本ですが、結婚制度(自由恋愛の規制)は必要です。どんな社会であれ脱税が道徳に反するように、どんな社会であれ不倫が道徳に反するのは必然です。

「部長、その恋愛はセクハラです!」(牟田和恵著、集英社新書)の著者は、このように「結婚制度がなぜあらゆる社会に存在するか」まで考えてから、不倫を容認しているのでしょうか。このブログは大阪大学(牟田の勤務先)からもアクセスされているようなので、ぜひ誰か聞いてほしいです。

こんな本があるからセクハラの誤解が蔓延する

前回の記事にも書きましたが、「部長、その恋愛はセクハラです!」(牟田和恵著、集英社新書)はセクハラの誤解を生みやすい本です。牟田はよりにもよって大阪大学教授のようです。こんな浅い人間観、社会観の人の給料が国費から支払われているのは残念でなりません。

にわかに信じられないかもしれませんが、この本で牟田は「(私は)不倫はよくないとの道徳観念を持っていない」と堂々と主張しています。それどころか「男性側が既婚者なのに部下の女性と性関係を持った不倫だから、教師が学生に手を出したから、けしからんという、古臭い性道徳でセクハラだと非難しているのではありません。『不倫なんて!』という保守的道徳観に凝り固まっているワンマン社長や『清く正しく』が売りのお嬢様大学だとクビになるのかもしれませんが(私は違います)」とまで書いています。牟田にとって、不倫は道徳的に問題ない行動のようで、教師が学生に手を出しても、非難する方がワンマン社長(ユニクロの柳井社長のことか?)のように「古臭い性道徳」に凝り固まっていて、間違っているようです。

なぜ牟田が不倫をそこまで感情的になって容認するのかは、この本で説明されていないので分かりません。牟田自身か、牟田に近い人が実際に教え子と不倫した経験があるからかもしれません。

なんにしろ、牟田は結婚制度がなぜ社会に必要なのか、深く考えたことがあるように思えません。その証拠に、こんな文章も本にはあります。

「筆者の知る業界の大物で、結婚と離婚を何度も繰り返していて、二人目以降は全部教え子、という先生もおられます(尊敬語!)。不倫の関係が破綻するとセクハラに転じがちなことは事実。それを避けるには、トラブルが切迫する前に結婚してしまうというのも手だということでしょう。でもこれは、経済的にも精神的にもタフでないとできないワザ。現在の妻にうまく分かれてもらえる力量も必要なのですから、ほとんど超人的です」

こんな倫理観の人が、男女関係の機微に触れるセクハラ問題の専門家になっていいのでしょうか。結婚と離婚を何度も繰り返す男を「超人的」と称賛しています。なにより疑問なのは、結婚と離婚を繰り返した場合、第一に考えるべき子どもの問題に全く触れていないことです。「結婚制度が社会に必要な理由」にも書いたように、結婚制度がなければ、離婚が自由にできるようになったら、一番困るのは子どものはずです。それを考慮せず、本人の経済と精神状況、妻と別れる力量に注目するなど、理解に苦しみます。

百歩譲って、子どもを無視して、男女関係だけを考えても、結婚制度がなくなって完全に自由恋愛になれば、社会に弊害は生じます。それは税金や規制の全くない自由経済を容認するようなものです。これに気づいていない人が国立大学のジェンダー学者にもいるようなので、次の記事で解説します。

セクハラによって浮気男が罰せられるようになった

「セクハラなんてものがあるから、職場恋愛が難しくなるんじゃないの? だから、未婚率が上がって、少子化が進むんだよな」

これは、私がある職場研修で本当に聞いた言葉です。私の前に座っていた女性が面白そうに笑っていたのも覚えています。私もつい最近まで、この発言と似たような考えを持っていました。

しかし、それは誤解でした。セクハラは誠実な職場恋愛を禁止するものでは決してありません。セクハラが職場恋愛を抑制しているとの誤解が蔓延しているのは、「部長、その恋愛はセクハラです!」(牟田和恵著、集英社新書)といった本があるからでしょう。この本では、次のようなセクハラ裁判例を載せています。

女性の方も熱を上げていた恋愛だったにもかかわらず、女性がふられた後、その恋愛はセクハラだったと訴えたというのです。裁判では二人がやりとりした親しげなメール、女性が男性に贈ったプレゼント、旅行先での仲良しの写真が次から次へと提出されます。客観的に考えて、女性も本気の恋愛をして楽しんでいたのは間違いありません。それにもかかわらず、ふられると、女性にとってそれらの記憶は辛い思い出になるので、結果、セクハラで慰謝料を払わなければならなくなった実例があるようです。

これでは「女性が嫌がればセクハラで、女性が喜んでいればセクハラでない」だけにとどまりません。「女性が喜んでいても、上司と部下の職場恋愛ならダメ」となってしまいます。「ふられてセクハラと訴える意趣返しが許されるのなら、ふられて元の関係に戻ろうとするストーカーがなぜ罰せられるのか!」と反論したくなる男性もいるでしょう。

私も最初にこの話を読んだとき、世の理不尽を嘆いたものですが、「弁護士が教えるセクハラ対策ルールブック」(山田秀雄・菅谷貴子著、日本経済新聞出版社)を読んでから、再度、「部長、その恋愛はセクハラです!」を読み返して、上の事件が有罪となる決定的な理由を知り、納得しました。「熱愛だったが、ふられたので訴える」など、原則、セクハラと認定されません。しかし、セクハラとなる場合もあります。それは、上司の男性が部下の女性をふって、別の部下の女性に乗り換えた場合です!

そんなのダメに決まっています! セクハラ裁判では、「自分と同じようなこと(熱愛後、捨てられ、別の女にうつっていく)が繰り返されるのは耐えられない」と訴えていたのです。それなら、男性が慰謝料請求されて当然と納得できるのではないでしょうか。ちなみに、男性が既婚者であれば、部下の女性と交際して別れた後に、別の部下の女性と交際していなくても、セクハラで慰謝料請求される場合もあります。それも当然でしょう。

こう考えると、セクハラ制度ができたことで、これまで泣き寝入りしていた女性が慰謝料を請求できるようになったのです。これは画期的です。道徳的には間違っているのに、法律的には許されていた浮気男がセクハラで慰謝料請求される時代になったのです。私が「セクハラ禁止法は強者をくじき弱者を許す制度である」と感じたのは、こんなところに根拠があります。

セクハラはモテない男を罰するものではない

つい最近まで、私は次のような勘違いをしていました。

「セクハラは女性の主観によって決まる。全く同じ行為をしても、モテる男がするとOKで、モテない男がするとダメになる。だから、セクハラ禁止法は強者を保護して、弱者を取り締まる悪法である」

この考えが全くの誤解であることを「弁護士が教えるセクハラ対策ルールブック」(山田秀雄・菅谷貴子著、日本経済新聞出版社)より知りました。

セクハラの必須要件は次の三つです。

①性的な嫌がらせであること

②職場で起こっていること

③上の立場の者が加害者で下の立場の者が被害者であること

①、②、③のどれも境界線が曖昧なところはありますし、拡大解釈もされますが、ともかく③があるからこそ、セクハラにより弱者が罰せられない事実があります。実際、よく調べてみると、職場で弱い立場の人がセクハラで訴えられ、慰謝料を請求された実例は見つけられません。

確かに、「全く同じ行為をしても、モテる男がするとOKで、モテない男がするとダメになる」のはセクハラの一面の真実です。「今日の服、おっぱい見えそうだよ。いいねえ」と言っても、女性が喜んでいればセクハラになりませんが、「今日はミニスカートですか」と事実を言っただけでも、女性が嫌がっていればセクハラになります。モテる奴が得をして、モテない奴が損をするのは、残念ながら、この世の常で、セクハラ禁止法(男女雇用機会均等法の中にその条項がある)の有無に関係ありません。

ただし、セクハラ禁止法がその理不尽を助長しているとは思いません。繰り返しますが、たとえ女性が嫌がっていたとしても、職場で名目上も実質上も弱い立場にいる者であれば、セクハラにはなりません。たとえば、職場で美人と人気者の女性に、同じかそれ以下の地位で、いつも一人の男性が腹立ちまぎれに「女を武器にしやがって!」と言っても、セクハラにはなりません。

ただし、名誉棄損で慰謝料請求される可能性はあります。職場で低い地位にいれば、性的な暴言が許されると考えるのは間違っています。その辺りは、常識と合致しているでしょう。

さらに書くと、セクハラがあるからこそ、強者が罰せられている事実があります。「セクハラが強者を罰する」とはどういうことか、次の記事に示します。

養子移民政策

21世紀日本の最大の問題ともいえる少子化の対策として、次の政策を提案します。

「未婚者および少子の既婚者夫婦が一定の年齢になると、外国で産まれた0~3才の子どもを養子として受け入れる義務が生じる」

たとえば、30才までに未婚であると、男女とも強制的に一人の子どもを養子にしなければなりません。既婚者であっても女性が35才までに子どもがいなければ、一人目の外国の子どもを養子にして、女性が40才までに子どもが一人以下なら二人目の外国の子どもを養子にする義務が生じます。なお、医学的な問題で子どもが作れなかったとしても、義務は免除されず、養子を受け入れなければなりません。

21世紀の人口論」の記事のグラフにあるように、人口爆発はアフリカで2100年までは止まらないようなので、主にアフリカの子どもを養子として受け入れるといいでしょう。赤ちゃんから育てていくので、日本人の良さは受け継がれていき、人種差別も消失していくに違いありません。当然ながら、義務化の前に、この養子縁組が円滑に処理できるよう、法律などの整備はします。

なお、世界的に人口減少になる2100年以降は、この政策を完全に実現するのは難しくなっていきます。その頃になれば、養子を受け入れる希望のない者のうち、収入が少ない者から義務を免除される対処などが必要になってくるでしょう。日本人口、地球人口がどれくらいなら持続可能であるかの検討もしていくべきです。

少子化対策として、養子移民政策が提案されなかったのは不思議なほど、有効なように思います。「未婚税と少子税と子ども補助金」よりも、こちらの政策の方をまず推進すべきかもしれません。

21世紀の人口論

日本の少子化を移民で解決しても世界規模での少子化は止められない」の記事で、私は「世界からの移民で日本だけの人口減少を解決するのは視野が狭い。その手法では、いずれ世界規模で発生する人口減少の解決策にはならない」と書いています。それだけを読むと、「世界規模でいえば、人口はもっと減るべきだ。日本に1億人もいるべきでないように、世界に70億人もいるべきでない」という反論は当然出てくるでしょう。「世界に率先して人口減少していく日本は、理想的な人口減少移行社会のシステムを作り、世界に示すべきである。未婚税や少子税などの人権無視政策で、人口を維持させるなどもっての他である」と私の未婚税・少子税案を批判する人もいるかもしれません。

確かに、世界の人口が多すぎるという観点はあるでしょうが、日本だけが人口減少社会を受け入れるのでは意味がない、と私は思います。少なくとも2100年までは、世界人口は増えていくからです。

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「大局的な視野で見て、世界はいずれ人口減少社会を迎えるので、課題先進国の日本は先駆けて理想的な人口減少社会を作るべきだ」との考えは傾聴に値すると思いますが、それを実行するのは100年早いでしょう。それに、移民を受け入れず、有効な少子化対策が実現できないままなら、日本は消滅するまで少子高齢社会のままです。さすがに高齢化率40%を続けたい日本人はいないはずです。

だから、移民政策はあと100年は推進すべきでしょう。これから数十年間に起こる人口減少を食い止めるまで移民を受け入れるのは無理かもしれませんが、日本の理想的な人口規模に近づける手助けにはなるでしょう。

ただし、単純な移民政策は現在の欧米にもある民族対立が日本で発生するに違いありません。それを解決するための新移民政策を次の記事に記します。