「恋愛相手がたまたま既婚者だっただけだ。その恋愛感情を社会的事情で抑制するのは不自然だ。それに、関係者ならまだしも、赤の他人が不倫を批判すべきでない」 不倫を容認する人がよく用いる理屈です。確かに、不倫に限らず全ての恋愛は、関係者にとってすら、正しいか間違っているかの判断はつきません。まして、赤の他人が正しいか間違っているかを判断するのは不適切です。
しかし、不倫は外形だけで、法律的に批判される不法行為です。不倫が完全に許されるなら、そもそも結婚制度なんてなくていいでしょう。「結婚制度が社会に必要な理由」に書いたように、結婚制度がなくなれば、一番困るのは子どもです。しかし、子育てに関しては、父親に養育費さえ払ってもらえれば問題ない、という反論もあるかもしれません。それでも明らかな問題が生じることを次に示します。
結婚制度がなくなれば、事実上、一夫多妻、一妻多夫が容認されます。それこそ平安時代のような「古臭い性道徳」の社会になります。モテる奴はさらにモテて、モテない奴はいつでも捨てられ、失恋の苦しみを経験し続けることになります。だから、結婚は弱者を救う制度なのです。「美しくなくなったから、収入が少なくなったから、別れる(離婚)」が自由に認められたら、社会に不幸が蔓延します。
恋愛のない一生、浮気で裏切られる一生を送りたい人間などいないはずです。かりにあなたがそんな人生だとして耐えられますか。経済は自由が基本ですが、税金や規制は必要なように、恋愛も自由が基本ですが、結婚制度(自由恋愛の規制)は必要です。どんな社会であれ脱税が道徳に反するように、どんな社会であれ不倫が道徳に反するのは必然です。
「部長、その恋愛はセクハラです!」(牟田和恵著、集英社新書)の著者は、このように「結婚制度がなぜあらゆる社会に存在するか」まで考えてから、不倫を容認しているのでしょうか。このブログは大阪大学(牟田の勤務先)からもアクセスされているようなので、ぜひ誰か聞いてほしいです。