未来社会の道しるべ

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セクハラ問題を解決するために

「部長、その恋愛はセクハラです!」(牟田和恵著、集英社新書)にあるように、セクハラと訴えたせいで、関係者全員が不幸になる例は多いようです。牟田は「大ごとにされたくなかったら、セクハラの批判があれば素直に謝罪しましょう」「会社の処分に納得できなかったとしても、裁判に訴えるのはいかがなものか」と持論を展開しており、ついには「痴漢に冤罪があるからといって、セクハラに冤罪があると考えるのは間違いだ」といった極論まで主張しています。これらの主張からすると「セクハラ批判があれば、常にセクハラ被疑者が悪いので、誠心誠意反省して、謝ればいい。セクハラ被疑者が問答無用で謝罪しないから、問題がややこしくなる」と牟田は本気で考えているようです。再度書きますが、こんな浅はかな見識の人が大阪大学教授を務めているのが信じられません。

一方で、牟田は「裁判を受ける権利は憲法で保障された国民の権利ですから、提訴を批判することはもちろんできません」とも書いており、矛盾しています。おそらく、セクハラの事例があった場合、どういった解決法が適切なのか、牟田はセクハラの専門家であるはずなのに、深く考えたことがないのでしょう。

セクハラ事件に限らず、裁判沙汰になると、両者が全面対決になった上、どちらにとっても不幸な結果になっている例は散見されます。以前から、この裁判が抱える欠点について私は疑問に感じているので、いずれ記事にしたいと考えています。

それはともかく、セクハラ事件を両者にとって納得のできる形で解決できる方法、機関は作るべきだと考えます。円満解決できるなら、裁判を通じてでも、通じなくても構いません。

また、牟田は「オフィスにセクハラの種はつきまじ」と不謹慎なことを章のタイトルにまでしていますが、当然ながら、オフィスにセクハラの種がないことが理想です。病気を治すより、そもそも病気にならない努力をすべきように、セクハラが起こって解決するよりも、そもそもセクハラを起こさないことが大切です。

だから、セクハラ問題の啓蒙活動が重要です。上記の本を読んでいると日本のセクハラ専門家の知性に絶望してしまいますが、私がこのブログで示している男女観、恋愛観、結婚観を理解できる教養ある学者が、日本のセクハラ問題の専門家として、啓蒙してくれる時代が早く来てくれることを願っています。