「日本は集団の和を大切にするのに対して、西洋は個人主義である」ということはよく言われます。私も同様のことをブログに書いたように思います。この個人主義という言葉は自己中心のような語感があり、誤解を生みやすいと私は考えます。
教養のある西洋人と話していると、「西洋人は自己中心的というより、世界全体のことを考えている」と感じます。考えるだけでなく、NGOや国際関係で実際に行動してもいます。一方で、日本人は世界全体ではなく、自分が属している組織に忠誠心を誓っています。学校、会社、家族、部活などです。西洋人は家族への愛情は深いものの、学校や会社に日本人ほどの忠誠心はありません。日本人が愛着を持つ学校や会社といった小さい枠組みよりも、教養ある西洋人は地球規模の視野で常に考えているように私は思いました。
だから、一見、西洋人は学校や会社や組織のために動かないように思えるかもしれませんが、それは集団を軽んじているのではなく、もっと大きい集団を重視しているからです。学校のルール、会社のルール、組織の暗黙のルール、国家のルールよりも、人類普遍の価値観を重視していたりします。
確かに、西洋人は日本人と違い、みんなで決めた結論が、個人の結論よりも優先するとは考えていません。多数決が民主主義との考えも、日本人ほど持っていません。ナチスが民主選挙で第一党になったように、大衆が破滅的に間違うこともあると知っているからかもしれません。だから、相手がどんなに偉い人だろうと、どんなに称賛を集める人だろうと、大衆だろうと、国家だろうと、西洋人は自分の信じる意見は主張します。また、その主張自体に同意しなくても、主張する行為そのものは尊重されます。それが西洋の個人主義です。
だからといって、個人のワガママに多数が従うわけでは決してありません。その逆で、個人の主張を通したら、社会全体で見て不利益が多かったら、たとえ個人の人権を侵害することになっても、その主張は当然退けられます。個人の基本的人権は尊重されますが、あくまで他の人の基本的人権を侵害しない範囲です。両者がせめぎ合う場合は、社会全体の良心に基づいて、妥当な結論を求めます。
西洋人は「カナダ人だから」「男だから」「女子校出身だから」「弁護士だから」「20代だから」といった考え方を忌み嫌います。それは固定観念(stigma)を生みやすいからだと思いますが、別の観点からすれば、そんな小さい枠組みに当てはめられることを嫌っていたからかもしれません。そうではなく、「人間だから」という広い視野をいつも持っていたように私は思います。