未来社会の道しるべ

新しい社会を切り開く視点の提供

近代病院は医者ではなく看護師により創られた

ナイチンゲールは資本主義勃興期のイギリス家庭に生まれました。貧富の差が極限まで広がっていた時代の上流階級であり、名前のフローレンスはイタリアの都市「フィレンツェ」のことです。両親が2年間の新婚旅行中にフィレンツェナイチンゲールを産んだことが由来です。そんなことが可能なくらいお金持ちなのに、両親は事実上、働いていませんでした。

ナイチンゲールには姉がいますが、この姉は社交界で「どの男がどれくらい金持ちか」しか興味のない女性だったようです。慈善活動を通じて貧民に同情するようなナイチンゲールと姉は意見がほとんど合いませんでした。

ナイチンゲールが子どもだった頃、看護師は現在のように立派な職業として認識されていません。能力の低い女性が仕方なく就く卑しい仕事でした。看護師の労働環境は劣悪でしたが、看護師の人間性も劣悪でした。

だからナイチンゲールが「看護師になりたい」と言い出して、家族全員が猛反対したのは無理もなかったでしょう。とりわけ、妹のいい子ぶりに日ごろから頭にきていたナイチンゲールの姉は精神が極度にかき乱され、寝込んでしまったそうです。それでも、ナイチンゲールの決意は変わらず、根負けした父はドイツでの看護師活動を許しました。そこで現実の厳しさを知って諦めることを父は期待していたようですが、実際はその逆で、ナイチンゲールは看護の重要性を確信し、ロンドンの病院で看護師として働くことになります。

当時、病院は病気を治すところというより、病人を見捨てるための場所でした。一度入院したら退院することはほとんどなく、死ぬまで病室にいるのが一般的だったようです。まだ感染症の原因が細菌やウイルスと特定されていない時代なので、病人は厄介払いするかのように病院に送られました。お金持ちは医師に往診に来てもらって、病院にかかることはほとんどありませんでした。

病院の衛生状況も、今の基準でいえば醜悪としか言いようのないものでした。ベッドのシーツや病院服は患者が死ぬまで変えません。病室の掃除はしませんし、空気の入れ替えもしません。一般人より栄養が必要なはずの患者に、一般人以下の粗末な食事しか与えません。看護師が患者の食事を介助することはなく、食事を患者の目の前に置くだけで、患者が食べていなければ、看護師はそれをそのまま下げます。患者と看護師が話すことも、基本的にありません。

ナイチンゲールはそれを根底から変えます。後にナイチンゲールが提唱した「患者をよく観察すること、患者の環境衛生を整えること、患者の精神面のケアをすること」はこの時、その土台ができていたようです。実際、この改革により病院環境は見違えるように改善し、病気の治癒率も上がり、イギリス中でナイチンゲールの看護活動は評判になりました。

それを知った陸軍大臣は、当時勃発していたクリミア戦争の後方病院の看護をナイチンゲールに依頼しました。その病院では死者が続出しており、世論の非難が沸騰して、大臣は頭を抱えていたからです。ナイチンゲールは自ら選抜した38名の看護師だけで、数千人の患者のいる兵舎病院に赴任しました。

ナイチンゲールは便所掃除を手始めに、徹底的な衛生環境の改善を行います。患者の体を洗い、病室に光を入れ、清潔な水を使用し、栄養のある食事を摂ってもらうようにしました。栄養のある食事を用意することは、当然のことながらお金がなければできませんが、上流階級のコネを使って、実現させたようです。さらに、患者の精神面のケアを忘れず、全ての患者と会話するように努めました。

ナイチンゲールの看護改革には、現地の軍上層部から強い抵抗を受けます。軍上層部にとって、戦場でケガした落第者たちに、前線で戦っている勇敢な兵士以上に手厚い保護を与えるなど、許せないことでした。このままでは、軽いケガでもして病院送りになった方がマシと考える者が出てきて、軍紀が緩むと考えたわけです(実際そう考える兵士はいたでしょう)。ナイチンゲールは看護の激務で体力を消耗すると同時に、軍上層部との対立で精神を消耗していったようです。それでも、ナイチンゲールは自身の看護理念を実践し続け、結果、兵舎病院の死亡率は42%から2%と劇的に減少しました。

この革命的な成果は、イギリス本国はもちろん、世界中に喧伝されました。病院での衛生状況の改善、患者の精神面でのケアが、病気療養にいかに有効かを世界中が知ったようです。この瞬間に近代病院が誕生したと言っても過言ではないでしょう。以後、世界中にナイチンゲール流の看護を取り入れた病院が設立されていきます。病院は病人を見捨てるための施設ではなく、病気を治して復帰するための現在のような施設になりました。

ナイチンゲールは、クリミア戦争で1日1200人もの傷病兵に8時間連続で膝をついて包帯を巻き続けたり、毎晩数千人の患者を見回ったりした過労がたたって、その後の人生のほとんどを病床で生活することになります。しかし、その後も看護師の育成と地位向上に精力を傾け、現在、看護師を卑しい仕事だとみなす者は誰もいなくなりました。

 

※注意 上ではナイチンゲールだけが近代病院の創始者のように書いていますが、そのような認識は世界中のどこにもありません。ナイチンゲールが近代病院を形作る上で大きな役割を果たしたことは確かだと私は考えていますが、ナイチンゲールがいなくてもいずれ近代病院が確立されていったことも確かだと私は考えています。また、クリミア戦争での兵舎病院での死亡率は、ナイチンゲールの到着後、急上昇していたことが後に判明しています。ナイチンゲールが不衛生なままの兵舎病院に兵士を多く送ってくるように要請して、感染症が蔓延してしまったからです。この後、兵舎病院で死亡率が激減したのは、看護師たちによる衛生環境改善よりも、病院工事による患者すし詰め状況改善と汚水処理状況改善の影響が大きかった、というのが現在の通説です。さらに、ナイチンゲールが長年信奉した病因瘴気説は、ナイチンゲールの生存中に科学的に完全に否定されています。

マザー・テレサの日本人へのメッセージ

マザー・テレサというと、若い世代には歴史上の人物でしかないでしょう。生まれたのは1910年でオスマン帝国と聞くと、なおさらのはずです。

テレサはその地方では裕福な家で育ち、幸せに満ちた子ども時代を過ごしていたようです。敬虔なカトリック教徒であった彼女は世界の不幸な人のために生きたいと考え、21才の時からインドの修道院で働いています。しかし、修道院で上流階級のキリスト教徒ばかり相手していた彼女は、これで本当に不幸な人を救っていることになるのか、と疑問を感じ続けていました。

ついに1948年、テレサ修道院の外に出て、当時インド最大の都市であったコルカタの貧民のために活動することを決めます。この決意を聞いた同僚の修道女たちは、スラムのひどい状況を知っているものの、単なる修道女のテレサが一体なにをしたいのか、なにをできるのか、よく分からなかったそうです。

テレサがスラムで行った活動は、大まかに二つだけです。一つは、青空教育です。浮浪児たちに無料の教育活動を行っていました。もう一つは、浮浪者たちに笑顔で話しかけることです。彼女は物質的豊よりも精神的豊かさ、身体状態よりも精神状態を常に重視していました。どんなに貧しい人でも、どんなに身体が病気に蝕まれていても、精神的な豊かさを得ることはできると信じていたのです。不幸で見捨てられている浮浪者たちの心を少しでも救いたいと、テレサたちは毎日多くの浮浪者に笑顔で声をかけ続けました。

テレサが精神面を重視したことが最もよく分かる活動が「死を待つ人々の家」です。これは医学的に絶対に助からないと分かった人たちを看取る施設です。経済的な観点からいえば、このような人たちにお金や労力を注ぎ込むのは必ずしも有益ではありません。しかし、そんな見捨てられた人だからこそ、私たちが心を救わなければならない、とテレサは考えていたのです。

テレサの活動は順調に進んだわけではありません。ヒンドゥー教が多数派のインドでは、キリスト教徒のテレサの博愛行動は、どうしても布教活動の一環として見られましたし、事実、その側面はありました。しかし、相手の宗教を問わず、また無理な改宗をさせることもなく、教育活動や心の救済をする姿勢にインドの人たちもテレサの活動を次第に受け入れるようになっていきます。

そのうちにテレサが設立した「神の愛の宣教者会」の活動は、世界的にも知られるようになります。1965年にはカトリック教会から、ベネズエラでも活動してほしい、とお願いされました。テレサはインド以外での活動を全く考えていなかったようですが、実際にベネズエラに行って、見捨てられた浮浪者たちを見ると、「確かにこの人たちを救わなければならない」と考えを改め、ベネズエラにも神の愛の宣教者会を設立します。

ノーベル平和賞を受賞したテレサはさらに有名になっていき、1981年には講演を依頼されて、日本にも来ます。テレサは講演目的で日本に来たのですが、滞在中に神の愛の宣教者会を日本にも設立することを決めます。どうしてテレサは世界第2位の経済大国になっていた日本に、インドの貧民のためだった修道院を作ったのでしょうか。

それは東京や大阪で、インドのコルカタ同様に不幸で打ちひしがれている浮浪者たちを見たからです。物質的にも精神的にも恵まれた日本人たちが、そんな浮浪者たちを見ていながら、無視して通り過ぎていたからです。

「どうして日本人たちは不幸な同胞たちを見捨てているのでしょうか。日本は物質的に豊かになったとしても、精神的に豊かになったと言えるのでしょうか」

私がこの言葉を知ったのは、発言後20年以上経過した時で、既にマザー・テレサは亡くなっていましたが、強い衝撃を受けました。私も浮浪者たちを無視している多くの日本人の一人だったからです。また、そのことに疑問を感じたこともないに等しかったからです。

よく考えてみれば、いくら私が貧しいと言っても、浮浪者一人くらいを養うことはできます。ワンルームマンションでも、工夫すればあと一人くらい眠れる場所は作れますし、食料だって一人分くらいは用意できるでしょう。毎日、笑顔で語りかけることだってできます。間違いなくできるのに、していません。「私が日本の最も嫌いなところ」で書いたように、「人間は皆同じ」だと私は考えています。同じ社会にいる以上、私が浮浪者として見捨てられていた可能性はあり、誰かが浮浪者として見捨てられている責任の少しは私にもあります。社会道徳的に明らかに私は救うべきだし、物理的に金銭的に救える能力もあるのに、救っていないのです。

上のマザー・テレサの言葉を知って、私の道徳観は変わりました。だからといって、私が浮浪者を自分の家に住まわせているわけではありませんし、毎日笑顔で浮浪者に話しかけるようになったわけでもありません。そんな自分の生き方が、人として最も大切な道徳に欠けているところがある、と常に自覚するようになったのです。もちろん、今この瞬間もそう思い続けています。「どうして不幸な人を見捨てているのに、平気で暮らしているのか?」と私が無視してきた数えきれない不幸な人たちに問われたとして、私は言い訳など全くできず、謝罪の言葉を述べるしかない、と肝に銘じています。

抽選制民主主義

代議制民主主義の国では、国民が民主的な投票によって代表者を選び、その代表者たちが国民の守るべき法律を定め、税金をどう徴収するかを決め、税金をどう使うかを決めます。

これは合理的に思えるのですが、なぜこの政治形態が上手くいかないのでしょうか。国民が選んだ代議士の政治に、どうして国民が不満を持つのでしょうか。

その大きな理由の一つに「民主選挙で決まる人」と「適切な政治判断ができる人」が一致していないことがあるでしょう。国民から選ばれるためには、当然、自己アピールが得意な人でなければなりません。口下手な人はまず選ばれませんし、外見の悪い人だって選ばれにくいでしょう。しかし、自己アピールの上手さや外見の良さは、適切な政治判断ができることと直接の関係はありません。

では、選挙以外のどのような方法で「適切な政治判断ができる人」を決めればいいのでしょうか。一つには、試験で決める方法があるはずです。民主政治の行政と立法は、官僚と代議士によって運営されていて、特に日本では官僚の権力が強いそうですが、官僚は主に試験によって選抜されています。試験による選抜は、どのような試験で判定するか、今のような若者だけの採用でいいのかなどの問題はあるものの、妥当な方法だと私は考えています。

もう一つの方法として、抽選があるでしょう。「投票価値試験の公平性 」で示したような簡単な試験を全有権者に課して、その試験で一定点数以上の結果を出した者から抽選で代議士を決める方法です。

なお、抽選で決まった代議士の個人名は明かされません。任期中に下した決断に対して、代議士が責任をとらされることもありません。マスコミ発表は「23名の議員の提案により、十分な所得のある高齢者の医療保険料の全額自己負担が審議されました」「議員Aが○○の提案をし、議員Bの××の質問に△△と答えています」となり、特定の議員名が出されることはありません。

このような抽選制民主主義を採用すれば、次のようなメリットがあるはずです。

1、代議士に2期連続でなれなくなるので、権力の固定による腐敗が防げる

2、代議士が特定されないので、代議士への利益供与を防げる(当然ながら、偶然特定したとしても、代議士への利益供与は厳しく罰せられます)

3、選挙活動費が節約できる

4、一部の政治エリートのためだけでなく、一般人のための政治が行われやすくなる

ところで、現在の日本では地方自治体に首長がいます。首長まで抽選で決めると、あまりに不適切な人物が選ばれた場合の弊害が大きくなります。首長のような一人代表者まで抽選制を適用するのは避けるべきでしょう。それ以外にも、今すぐ思いつくだけで以下のようなデメリットが抽選制にはあります。

1、議会の公開度が下がる(議会の映像にはモザイクがかかり、音声も変更処理されます。議事録の発表者は全て匿名になります)

2、政治の専門家でない者が政治を動かすことになる

3、有権者が信頼していない者が有権者に強制力を持つことになる

4、政治では判断が重要であるが、全ての判断は完璧ではない。その不完全な判断を有権者に適切に発表して、信頼してもらうことの方が重要な場合もあるが、特定の人が発表できないので、適切な発表ができにくくなる

他にもデメリットはあるでしょうが、十分に洗練された抽選制民主主義なら、少なくとも現状の日本の代議制民主主義より、遥かに優秀な制度になれると私は確信しています。(ただし、代議制民主主義のままでも、現状よりも優秀な政治制度は作れるとも思っています。その一つの改革案を「投票価値試験」に書いています)

幸せな人を尊重し、不幸な人を虐げる国

どんな時代のどんな社会でも、幸せな人はより幸せになりやすく、不幸な人はより不幸になりやすいです。それを是正するため、自由や平等を尊重する民主主義国家が誕生したのでしょうが、完全ではありません。

幸せな人は幸せになりやすく、不幸な人は不幸になりやすい国ほど、民主主義のレベルが低いと、私は自身の海外経験から考えています。この意味で、日本はまだまだ幸せな人のためだけにある国で、民主主義以前の階級社会のようにも思えます。「カナダ人の寛容性と生産性の相関関係」に挙げた例を読めば、カナダと比較すれば日本は、幸せな人を尊重し、不幸な人を虐げる国であると理解してもらえるのではないでしょうか。

ところで、冒頭の「どんな時代のどんな社会でも、幸せな人はより幸せになりやすく、不幸な人はより不幸になりやすい」は、私にとって当たり前のことなので断定させてもらっています。こう考えていない、あるいは、これに気づいていない日本人が多いこと自体が問題でしょう。だから、ここであえて記しています。

ブラック企業でもこれだけは我慢できない

私がブラック企業にいた頃、同じ現場で毎日パワハラに耐えている同僚が「他の叱責は仕方ないにしても、そう言われることだけは我慢ならない」と口を揃えていた不満があります。上司からの次のような叱責です。

「ここでダメだったら、どこいっても同じだからな」

「こんなんじゃ、他でもやっていけないぞ」

私も同様のことを言われて、「それだけは言っていけないだろう!」と思ったことが何度もあります。毎日、理不尽な叱責に耐えているのは、あくまで会社内で雇用関係にあるからです。その関係さえなければ、社会全体での個人と個人の関係になれば、こんな性格の破綻した上司の言うことなど、黙って聞いているわけがありません。無視するか、頭にきていれば怒鳴り返しています。

だから、あくまで会社内で「ダメだ」「バカか」「無能だ」と言われるのなら、それは耐えるしかないかもしれません。しかし、「会社外でもダメだ」などと叱責することは、人として絶対に許されません。そんなことを言う権利が、法の下の平等憲法で保障されている日本で、パワハラを行うような基本的人権を無視した上司に存在するわけがありません。

これは当たり前のことですが、多くの日本人上司はそのことを本当に忘れています。だから、ここに記しておきます。

新卒一括採用の功罪

私はこちらのブログで何度もカナダの自由と平等を称賛してきました。しかし、人生の重要な分岐点である就職について、カナダは自由でも平等でもありません。

カナダで就職を目指そうとする複数の日本人およびカナダ人から聞いた言葉ですが、カナダでは「なにができるかではなく、誰を知っているかによって(by not what you do but who you know)」就職が決まるそうです。市の就職相談会に行くと、公務員が「就職したければ、頼りになる知人を作ることだ」と明言しいて、仰天したという日本人に会ったこともあります。カナダではコネ就職が一般なのです。

私の知る限り、日本のような新卒一括採用システムがある外国は韓国だけです。カナダではインターンシップ経験から就職する例を除けば(アメリカの一流企業に入るにはこれが一般的みたいです)、学生は在学中に就職活動をしません。卒業してから、就職活動を始めます。そうなると、卒業後に希望する求人がすぐ見つかるとは限らないので、とりあえず妥協できる範囲の仕事に就きます。そのうちに、より条件のいい仕事の求人を見つけるとすぐに応募して、採用されたら転職します。転職は労働者の権利なので、使用者が理不尽な引き留めをすることもありません。だから、転職が多くなります。

一方、日本は新卒就職時にあらゆる企業、あらゆる職種の求人に応募できます。他の外国なら普通に遭遇する「希望する職種がなかなか求人をしてくれない」状況にはなりませんし、採用されれば「卒後にしばらく無職の期間がある」状況にもなりません。これだけでも十分な社会利益があるのですが、それ以上の大きな社会利益は「新卒一括採用だとコネ就職が難しくなる」ことでしょう。実際には新卒一括採用でもコネ就職はあるらしいのですが、不特定の大人数から選ぶ以上、明らかな経歴と能力差があるのにコネで採用するのは確実に難しくなるはずです。少なくとも日本の公務員が「新卒一括採用ではコネが重要だ」などと広言することは許されないでしょう。それくらい新卒一括採用は平等に近いシステムだと私は思っています。

ただし、日本の新卒一括採用システムだと、ほぼ全ての職種の選択肢を示して決めている以上、採用された者がすぐに辞めることは認められません。だから、日本で転職の文化は根付かないままです。新卒採用を逃すと、就職口は激減します。

また、日本で就労条件のいい企業への求人が卒業前に全て提示されるので、わざわざ自分で起業する必要はありません。よほどのことがない限り、起業するよりも就職した方が、成功率×収入の期待値が高いからです。新卒一括採用は、間違いなく、日本で若者の起業を少なくしています。

「若者と労働(濱口桂一朗著、中央公論新社)」では、「日本の企業の人事担当者は、自分たちが毎日やっている人事や、賃金管理の仕事がどのような原理原則のもとに行われているかを理解していない」と断定しています。他の多くの日本の習慣と同様、新卒一括採用も、経済合理性を検証されることなく、伝統的になんとなく続いてきたようです。だからこそ、新卒一括採用の功罪については、日本人全員が意識して知っておくべきでしょう。「日本はなぜ再チャレンジが難しいのか」「日本ではどうして起業する者が少ないのか」といった問題の答えに、「新卒一括採用システムの浸透」がすぐに挙がらなかったら、本質を見誤っていると考えていいでしょう。

理由が分からないことは問題なのか

前回の記事の最後で、「医学では、統計による根拠はメカニズムによる根拠に勝る」ことを示しただけで、文部科学省批判までしているのは論理の飛躍があるので、捕捉しておきます。

身の回りのことで、理由を説明できることはどれくらいあるでしょうか。電車がどうして動いているか、そのメカニズムを完全に理解している人はいますか。電車の部品が何千、何万あって、それらがどう有機的に結びついて、どこが故障したら、どんな問題が起こるのか、完全に理解している人はいますか。あるいは、携帯電話はどうですか。どうして携帯電話で友だちといつでも会話できるんですか。テレビや洗濯機や冷蔵庫の仕組みは知っていますか。知らないと使ってはいけないんでしょうか。だとしたら、超高齢社会が進む一方の日本は大変です。

本来答えのあるべき自然科学の領域でさえそうなのですから、政治や社会の問題になれば、なおさら誰もが納得のできる理由はありません。伝統でなんとなく続いている習慣が多い日本なら、とりわけそうでしょう。周りに同じ意見の人ばかり集まっている国で、国語や社会でも模範解答のある問題のテストを受けてきたので、そんな当たり前のことすら忘れてしまったのでしょうか。

世の中のほぼ全ての自然事象は、どうしても説明できない部分を必ず含んでいます。たとえば、ニュートンの力学方程式は地上だけなく天上の運動も同じ法則でとらえた画期的な発見ですが、なぜそんな方程式で全ての物体の運動が成り立っているかは説明できませんでした。それを解明するには、アインシュタインの重力方程式の発見まで待たなければなりません。その重力方程式にしても、なぜそんな方程式で宇宙が成り立っているかは説明できません。当たり前です。しかし、こんな自然科学の公理を理解しないまま一流大学を卒業している日本人は多いのかもしれません。

もし多くの日本人が「AIは理由を説明できないことが問題」とだけ考えていたら、それは日本人全体の知性の低さを示しており、明らかに文部科学省に責任があります。

医学的根拠で最も重要なのは確率的妥当性である

ノーベル賞受賞者山中伸弥と将棋の羽生善治の対談動画あります。

www.youtube.com

この動画の25分以降に、羽生が「AIは確率的にこちらが正しいと言っているだけで、その理由の説明がない。医療のような世界で、理由がよく分からないのでは、命を預けられないと思う」と全く医学を理解していない疑問を口にしています。

朝日新聞で村瀬将棋部記者が「AIの問題点は理由を説明できないところだ」と何度も何度も同じ記事を書いています。10年近くもAIと将棋について考えてきたはずなのに、この程度の浅い見解を繰り返し書くだけで、一流新聞社にいられることの方が、私としてはAI問題よりよほど疑問です(朝日新聞記者への皮肉はこちらの記事に書いています)。

「医学的根拠とは何か (津田敏秀著、岩波新書)」にもある通り、医学的根拠には直感派とメカニズム(機能)派と数量化派があります。それらはお互いに補完しあえる根拠ですが、最優先されるのは数量化、つまりは確率的妥当性になると20世紀の後半には結論が出ています。特に薬物療法については、そのメカニズムが完全に分かっているものなど皆無といっていいでしょう。

日本の医学会では有名な話ですが、20年ほど前、認知症薬として脳の血流をよくする薬がありました。認知症の人は脳の血流が下がっているので、血流がよくなれば脳が活発になるとメカニズムとして推論したわけです。その薬は爆発的に日本で売れていましたが、統計的根拠が医学で重視される普通の国では全く売れませんでした。平たく言えば、日本以外の国ではそもそも薬として認められませんでした。その異常さに、さすがの日本の医学会も反省して、再度、二重盲検法を用いて、脳の血流をよくする薬が認知症に効くかを調べました。既に二十種類以上も脳の血流促進薬が認知症薬として販売されていましたが、それらは全て、一つの例外もなく、効果がないと判定されています。

一方で、世界的に売れた認知症薬のコリンエステラーゼ阻害薬は日本で発明されたのですが、コリンエステラーゼ阻害薬が認知症に効くメカニズムを正確に説明できる医者は世界中に一人もいません。せいぜい、「認知症患者は脳内アセチルコリン濃度が低いから、アセチルコリン濃度を上昇させると認知症の進行を遅らせる効果がある」くらいでしょう。しかし、その論理だと「脳の血流をよくする薬がどうして認知症に効かないのか」と問われると、説明できないはずです。

このように全ての薬はそのメカニズムが完全には分かっていません。そもそも、人間の体内のタンパク質は10万個程度あると推定されていますが、その相互作用はほとんど分かっていません。つまりは、なぜ人間が生きているのかすら、医学はあまり解明できていないのです。だから、当然、体内に入った薬が体内でどう相互作用を起こすかなど完全に分かるわけがありません。

しかし、統計的に結論を出すことはできます。全員に効かないかもしれないが、8割の人に効く薬であれば、使うべきでしょう。なにもしなければ5年以内に80%の人が死ぬが、ある薬で5年以内に死ぬ人が40%まで減らせるなら、その薬を使うべきでしょう。このように確率的に考えた方が、現代の医学には有効なのです。

それでも「統計的には効果があるとしても、そのメカニズムを説明できなければ納得できない」と考えるのでしょうか。「理論的には効くはずだが、統計的には効果の認められない薬」を使った方がいいと思うのでしょうか。もし多くの日本人がそう思っているなら、日本人の自然科学観は決定的な欠陥があると断定していいでしょう。高卒棋士の羽生はともかく、一流新聞社まで「理由を説明できないのはAIの欠点だ」と(一度だけならまだしも)何度も全国記事で堂々と主張しているのは、日本の恥だと文部科学省には考えてもらいたいです。

人として大切なところが欠けている

私が小学生の頃です。タチの悪い友だちが得意気にこんなことを言っていました。

友だち「知っているか? アメリカでは銃で人を撃っても、『撃たれそうになったから撃った』と言えば罪にならないんだぜ」

私(バカ言うな。そんなことあるわけないだろう)

そんな言い訳が通用したら、無法国家です。世界最高の民主主義国のアメリカで起こるはずがありません。そう信じていました。

しかし、1992年、愛知県の少年が留学先のアメリカで射殺された事件が起きます。銃はもちろん武器すら持っていない少年です。「『動くな』と言ったのに、動いたから撃った」と被告は裁判で主張すると、陪審員の全会一致で無罪となりました。

私(嘘だろう!)

衝撃を受けたのは私だけでなく、当時、このニュースは日本で大きく扱われました。銃を撃って、人を殺して、全会一致の無罪判決が出るなど、日本ではありえない、いえ、まともな国家なら想像もできないはずです。小学校時代の友だちの妄想だと思った言葉は、事実だったのです。

その後、私はカナダで暮らす機会があり、カナダ人やアメリカ人と銃規制の議論をしたことは何度もあります。アメリカ人は「自分の身を自分で守るのは人間として当然の権利だ」、「合衆国憲法にも銃を持つ権利が認められている」などと主張してきます。それに対して、私は必ず上記の話をします。それでも納得しない相手には、私はこう言っていました。

私「率直に言わせてもらうが、『撃たれそうになったから撃った』という言い訳が通用する国家を認める人は、どんな理屈で正当化しようとも、人として大切なところが欠けているとしか僕には思えない」

PISA現象のおかしさ

若い世代には通じないでしょうが、10年ほど前、日本には「PISAショック」という言葉がありました。「国際的な学力テストのPISAで日本の成績が下がったショック」を意味しています。PISAショックは、当時導入されていたゆとり教育批判の根拠にもなりました。一方で注目された「教育先進国」がフィンランドでした。日本のPISA順位が下降していた2003年や2006年、フィンランドが成績上位だったからです。当時マスコミがやたらとフィンランド教育を称賛したので、今でも20代以上の多くの日本人が「フィンランド=教育国」の印象を持っているかもしれません。

しかし、wikipediaで過去のPISA成績一覧を見てもらえば分かる通り、PISA史上で飛びぬけて優秀だったのは上海です。2009年と2012年で2位以下を突き放しています。客観的に判断して、上海のぶっちぎりの成績の前では、フィンランドなど霞んでしまいます。当然、今度は「上海に学べ!」と日本のマスコミは、フィンランドの時以上に騒がなければならないはずです。

しかし、そんな声は全くと言っていいほど聞かれませんでした。日本で、フィンランドの教育本は今でも出版されていますが、上海の教育本など見つけるのさえ難しいでしょう。そのダントツだった上海は2015年のPISAで「中国」と一括して計算されるようになると、大幅に偏差値を下げています。この事実を知る日本人は少ないはずです。いつの間にか、日本のマスコミが揃ってPISAの順位に騒がなくなったからです。

明らかに、この一連のPISA注目度の上昇と衰退は、大きな問題があります。最低でも、日本のマスコミや教育関係者は次のような検証はするべきです。

フィンランドPISA成績はなぜ下がったのか

フィンランドの教育は日本に導入可能だったのか(日本が参考にするだけでなく、直接見習うべきだったのか)

・どうして上海はPISAで抜群の成績を叩き出したのか。

フィンランドが注目されて上海が注目されなかったいびつさに、どうして疑問の声が上がらなかったのか。

・どうして2012年の上海と2015年の中国で成績が大きく違うのか。

・どうして日本のマスコミはPISAに関心を失っていったのか。

今まで日本のマスコミが(あるいは日本人が)こんな重要な教育問題を無視してきた反省も含めて、検証してほしいです。

五蘊盛苦

五蘊盛苦という仏教用語を知る人は少ないでしょう。四苦八苦の一つで、「自分の容姿と自分の性格が自分の思い通りにならない苦しみ」という言葉です。「キレイになりたい」と思ってもなれない苦しみ、「明るくなりたい」と思ってもなれない苦しみはどんな人でも感じます。

一党独裁を批判された中国人の反論」で、私は中国人に謙虚さを求めましたが、日本人に謙虚さを求めていません。「日本人は中国人より謙虚なのだから、中国人こそ謙虚になるべきだ」との思い上がりがあったのです。現実の日中関係を見ていると、どちらも謙虚ではなく、子どものように意地の張り合いをしています。そんな場合に譲歩するべきなのは、普通、より成熟した方でしょう。この場合なら、日本です。私はその逆を要求しているわけで、明らかにいびつです。私のような者に外交を語る資格はないのかもしれません。

さらに私は「なぜ日本人は討論下手なのか」の記事で、日本人の人間観や倫理観が劣っているから建設的な議論ができない、だから日本人と議論するのは嫌だ、と上から目線で批判しています。しかし、相手が劣った人間観や倫理観を持っているなら、分かりやすく諭してあげればいいだけです。そんな説得能力がない以上、相手の人間観や倫理観が劣っていると批判する正当性は私にないでしょう。

相手から自分の意見を感情的に批判されたとき、こちらは感情的にならずに理性的に諭せるような性格になりたい、と私はずっと思っています。しかし、どんなに頭で分かっていても、「バカにつられてバカになってしまうなんて、バカな奴の言い訳だ」といくら考えていても、感情を抑えることができません。過去あるいは現在の精神的な余裕がないのです。

私は「今の自分でいい」「どんなに頑張っても自分は自分でしかない」などと思ったことは、この10年間以上、一度もありません。いつも「自分は最低だ」「自分は変わらなければいけない」と強く思って生きています。それくらい自分はダメだからです。

しかし、人間は「口下手な人」から「話上手な人」などとそう簡単に変われません。大抵の人は、一生変わらないでしょう。それでも、10年、20年と長い期間で見れば、必死で変わろうとした人と、自分を肯定してきた人では、大きな違いになる、と私は信じています。だから、私は自分の人間観や倫理観を相手に正しく伝えられる性格になるよう、今も努力し続けています。

なぜ日本人は討論下手なのか

建設的な議論が成り立つには、お互いに社会観、人間観、倫理観、洞察力などがある程度の水準以上でなければならない、と私は考えています。ほとんどの日本人はその水準に達していないように私は思っています。日本人集団だと意見がほぼ一致している時だけ口論にならずに深い話ができますが、実際は同調しあっているだけで、建設的な議論では全くありません。意見や視点が違う人とは、「言い争いになる」あるいは「一方が言ってもう一方が聞くだけになっている」のどちらかです。新しい視点を知り、新しい概念に到達し、お互いに知的に満足することなど、まずありません。

私は知性の高い西洋人と議論するのは好きですが、日本人と議論するのが嫌いです。

その具体的な経験や、そのような考えに至った経緯はこちらのブログのいくつかの記事に書いています。読んでもらえると光栄です。

(あまりに傲岸不遜な記事なので、その反省文を次の「五蘊盛苦」の記事に書きます)

「あらゆる思想の正誤は絶対的に決められない」とは絶対的に決められない

あらゆる思想は、正しいか間違っているかを絶対的に決めることはできません。正しいか間違っているかは人間の価値観で判定されるものであり、価値観である以上、自然科学のような絶対的な答えは存在しません。誰もが知っている当たり前のことです。私の社会観でも最も大きい柱になっています。

一方で、全ての思想に優劣の順序を決められないとも限らない、と思っています。例えば、あらゆる倫理観は絶対的に間違っていると言えないしょうが、社会的に好ましくない倫理観は存在しますし、他の倫理観と比較した場合に劣る倫理観も存在すると思っています。人間社会は完全に無秩序な集団ではありません。人間が集団としての習性を見出せる以上、人類普遍の社会を安定させるためのルールは存在し、それを見つけ出し、作り出すことはできると思っています。

その観点からいえば、日本人の倫理観は西洋人の倫理観と比べて劣ると私は見なしています。「エリート階級で比べると、日本人の倫理観は西洋人の倫理観より劣っているかもしれない。だが、平均的な日本人の倫理観は、西洋人の倫理観と比べると、優秀なはずだ」と思っている日本人は多いかもしれませんが、それは誤解と断定します。

「学力」や「性格」については、「上位は日本が西洋に負けても、平均では日本が西洋に勝っている」分野ですが、内面(倫理観含む)においては、上位集団はもちろん、全体の平均でも日本は西洋に負けます。アメリカと東欧と南欧を除けば、多くの西洋人の倫理観は日本人の倫理観より優秀です。

これについて、次の記事でも触れます。

いじめを語る会を作るべきである

ある年齢以下の日本人なら、学校などで「戦争体験を語る会」に参加させられたことはあるでしょう。戦争体験者(空襲被害者や原爆被害者)の講演を聞く会です。そんな風に「戦争を語る会」があるなら、私は「いじめを語る会」があってもいいと思います。

私のいじめの記事を読むと、今の20代以下の世代は「日本中の全ての学校が荒れていたわけではないだろう。大げさすぎる」と思うかもしれません。確かに、私立中高一貫校まで荒れていませんでしたが、日本中の若者に不良文化が蔓延していたのは紛れもない事実です。中高生の暴力事件なんて、どんな田舎でもありました。昭和一桁世代(昭和元年~昭和9年までに生まれた世代)が全員戦争を経験しているように、1980年代と1990年代に少年少女時代を送った人は全員がいじめと不良問題を身近に経験している、と断定していいと私は考えます。

オタク文化隆盛の今からは想像もできないかもしれませんが、1990年前後、多くの若者向けマンガやドラマには不良少年少女が出てきました。しかも、不良たちは必ずしも悪役として登場していたわけではありません。1990年前後にデビューした若手テレビタレントは、お笑い系だろうと、歌手系だろうと、ほぼ例外なく元不良か現不良でした。少なくとも、そんな噂は立っていましたし、テレビやラジオで堂々と「シンナー吸ったことありますよ」「ムカついたんで、袋叩きにしました」「スカしてたんで、犯っちゃいました(強姦しました)」と自慢していました。公の電波を通じた犯罪告白ですが、以前の記事に書いたように、いじめ問題に限らず、少年少女犯罪だと警察はほとんど動かなかったのです。1980年代から1990年代、文部省がいじめの実数を正確に把握していないのと同様、警察も少年少女犯罪を正確に把握していませんでした。

嘘だと思うなら、近くにいる30代、40代の先生にでも聞いてください。当時の日本にいた若者なら知らない人がいないほど、不良文化は日本中に浸透していました。今でも、その世代の元不良の大衆小説家がベストセラーを何冊も書いていたりします。本を読めば、暴力や恐怖による威圧を肯定して、やたらとヤクザが出てくるので、反省していない、と怒りがこみあげてきます。

しかし、現在の若者は少年少女の非行問題を知らないし、その悲惨さを想像できないと思います。「いかにそれが非道であったか」「被害者がどれだけ身体的、精神的に苦しんだか」を伝えていく価値は十分にあるはずです。非行問題やいじめ問題は、現在も程度が軽くなったとはいえ、戦争よりも遥かに身近で発生しています。元不良のテレビタレントは今も普通に活躍していて、場合によっては「ヤンキー文化を復活させよう」などと懐かしむ愚か者たちまでいます。それが社会道徳的にいかに許されないか、なにも知らない若者たちに伝えていくべきだと私は考えます。

いじめ問題の教訓をパワハラ撲滅に活かすべきである

パワハラを漏らさず把握し、撲滅に専念する公的機関を新設すべきである」に述べた提案の実現は容易でないでしょう。その方法を実行するためには、新規の法律と予算が国会審議にて可決されなければなりません。多くの国民が上記の提案に賛同して、それを実現する政治家を選ぶ必要があります。しかし、日本は未だにパワハラを容認する者たちが少なくないと思います。それは使用者に限りません。労働者にも、あるいは労働者こそ保守的なパワハラ社会を認めているように感じます。

大量の労働者を採用して、薄給で過重労働させ、使い潰すブラック企業という言葉があります。過重労働を長期間続けられる者は限られます。仕事が十分にできない労働者には上司から厳しい叱責が、退職に追い込まれるまで、浴びせられます(パワハラが行われます)。我慢できずに辞める者が続出しますが、すぐに新しい労働者を補充するので、企業としては安価な商品を提供できます。使い捨てられた労働者としては、たまったものではありません。大した技能も身に着けられないまま、体力と精神力と人生の貴重な期間を消耗しただけに終わります。給与は低く抑えられているので、ブラック企業の従業員が多いほど日本の生産性は低くなります。

問題だらけにもかかわらず、過去にブラック企業大賞を受賞した企業は一流の誰もが知る名前が並んでいます。その経営者がカリスマとして称賛されている企業も少なくありません。パワハラが横行しているはずの企業の従業員たちが、パワハラではなく情熱のこもった指導だと、上司たちに本気で同調していることもあります。辞めていった者たちは根性なしと批判されていたりもします。それはまるで、いじめがあった時にいじめられた者の欠点をあげつらう、いじめた者やいじめの傍観者たちのようだと、皆が早く気づくべきです。

私の案の中でも、パワハラを行う者に解雇や停職の処分まで認める部分には反対が大きいに違いありません。他の従業員たちは耐えている、嫌になった者は去って他の会社で働けばいいだけだ、との意見もあるでしょう。もちろん、不満を持つ者が会社を辞める自由は認められるべきです。しかし、あえて公的に訴えてまでその職場に残りたい人がいるのに、パワハラ加害者ではなく被害者を解雇する処分が社会的に妥当だとは思えません。たとえば加害者に数日間の停職を命じて、被害者の気持ちを想像して反省する期間を与えたら、加害者が合理的に指導するようになり、職場の雰囲気が一気に改善することもあるはずです。全てのケースで訴えられた者を解雇や停職させるべきではありませんが、パワハラ撲滅のためには、そういった強い権限をパワハラ対処公的機関に認めるべきと考えます。

いじめ問題について国が始めて調査をして、取り組み出したのは、東京都中野区中2生自殺事件のあった1985年度からです。その後もいじめによる悲劇のニュースは途切れることがなく、2011年の滋賀県大津市中2生自殺事件が起こって、ようやく2013年にいじめ防止対策推進法が成立しました。国、地方公共団体、学校、教職員、保護者の全てにいじめ防止対策の責任があること、いじめた者を別の教室で学習させたり、出席停止させたりできることが法律に明記されました。

このいじめ対策の進捗具合からすると、日本からパワハラを撲滅させるには長い年月を要するのかもしれません。しかし、どんなに時間がかかっても、社会全体での精神的ストレスを激減させ、かつ、国の経済規模を増大させると理解して、諦めずにパワハラ撲滅を実現まで不断に訴えていくべきです。