未来社会の道しるべ

新しい社会を切り開く視点の提供

「あらゆる思想の正誤は絶対的に決められない」とは絶対的に決められない

あらゆる思想は、正しいか間違っているかを絶対的に決めることはできません。正しいか間違っているかは人間の価値観で判定されるものであり、価値観である以上、自然科学のような絶対的な答えは存在しません。誰もが知っている当たり前のことです。私の社会観でも最も大きい柱になっています。

一方で、全ての思想に優劣の順序を決められないとも限らない、と思っています。例えば、あらゆる倫理観は絶対的に間違っていると言えないしょうが、社会的に好ましくない倫理観は存在しますし、他の倫理観と比較した場合に劣る倫理観も存在すると思っています。人間社会は完全に無秩序な集団ではありません。人間が集団としての習性を見出せる以上、人類普遍の社会を安定させるためのルールは存在し、それを見つけ出し、作り出すことはできると思っています。

その観点からいえば、日本人の倫理観は西洋人の倫理観と比べて劣ると私は見なしています。「エリート階級で比べると、日本人の倫理観は西洋人の倫理観より劣っているかもしれない。だが、平均的な日本人の倫理観は、西洋人の倫理観と比べると、優秀なはずだ」と思っている日本人は多いかもしれませんが、それは誤解と断定します。

「学力」や「性格」については、「上位は日本が西洋に負けても、平均では日本が西洋に勝っている」分野ですが、内面(倫理観含む)においては、上位集団はもちろん、全体の平均でも日本は西洋に負けます。アメリカと東欧と南欧を除けば、多くの西洋人の倫理観は日本人の倫理観より優秀です。

これについて、次の記事でも触れます。

いじめを語る会を作るべきである

ある年齢以下の日本人なら、学校などで「戦争体験を語る会」に参加させられたことはあるでしょう。戦争体験者(空襲被害者や原爆被害者)の講演を聞く会です。そんな風に「戦争を語る会」があるなら、私は「いじめを語る会」があってもいいと思います。

私のいじめの記事を読むと、今の20代以下の世代は「日本中の全ての学校が荒れていたわけではないだろう。大げさすぎる」と思うかもしれません。確かに、私立中高一貫校まで荒れていませんでしたが、日本中の若者に不良文化が蔓延していたのは紛れもない事実です。中高生の暴力事件なんて、どんな田舎でもありました。昭和一桁世代(昭和元年~昭和9年までに生まれた世代)が全員戦争を経験しているように、1980年代と1990年代に少年少女時代を送った人は全員がいじめと不良問題を身近に経験している、と断定していいと私は考えます。

オタク文化隆盛の今からは想像もできないかもしれませんが、1990年前後、多くの若者向けマンガやドラマには不良少年少女が出てきました。しかも、不良たちは必ずしも悪役として登場していたわけではありません。1990年前後にデビューした若手テレビタレントは、お笑い系だろうと、歌手系だろうと、ほぼ例外なく元不良か現不良でした。少なくとも、そんな噂は立っていましたし、テレビやラジオで堂々と「シンナー吸ったことありますよ」「ムカついたんで、袋叩きにしました」「スカしてたんで、犯っちゃいました(強姦しました)」と自慢していました。公の電波を通じた犯罪告白ですが、以前の記事に書いたように、いじめ問題に限らず、少年少女犯罪だと警察はほとんど動かなかったのです。1980年代から1990年代、文部省がいじめの実数を正確に把握していないのと同様、警察も少年少女犯罪を正確に把握していませんでした。

嘘だと思うなら、近くにいる30代、40代の先生にでも聞いてください。当時の日本にいた若者なら知らない人がいないほど、不良文化は日本中に浸透していました。今でも、その世代の元不良の大衆小説家がベストセラーを何冊も書いていたりします。本を読めば、暴力や恐怖による威圧を肯定して、やたらとヤクザが出てくるので、反省していない、と怒りがこみあげてきます。

しかし、現在の若者は少年少女の非行問題を知らないし、その悲惨さを想像できないと思います。「いかにそれが非道であったか」「被害者がどれだけ身体的、精神的に苦しんだか」を伝えていく価値は十分にあるはずです。非行問題やいじめ問題は、現在も程度が軽くなったとはいえ、戦争よりも遥かに身近で発生しています。元不良のテレビタレントは今も普通に活躍していて、場合によっては「ヤンキー文化を復活させよう」などと懐かしむ愚か者たちまでいます。それが社会道徳的にいかに許されないか、なにも知らない若者たちに伝えていくべきだと私は考えます。

いじめ問題の教訓をパワハラ撲滅に活かすべきである

パワハラを漏らさず把握し、撲滅に専念する公的機関を新設すべきである」に述べた提案の実現は容易でないでしょう。その方法を実行するためには、新規の法律と予算が国会審議にて可決されなければなりません。多くの国民が上記の提案に賛同して、それを実現する政治家を選ぶ必要があります。しかし、日本は未だにパワハラを容認する者たちが少なくないと思います。それは使用者に限りません。労働者にも、あるいは労働者こそ保守的なパワハラ社会を認めているように感じます。

大量の労働者を採用して、薄給で過重労働させ、使い潰すブラック企業という言葉があります。過重労働を長期間続けられる者は限られます。仕事が十分にできない労働者には上司から厳しい叱責が、退職に追い込まれるまで、浴びせられます(パワハラが行われます)。我慢できずに辞める者が続出しますが、すぐに新しい労働者を補充するので、企業としては安価な商品を提供できます。使い捨てられた労働者としては、たまったものではありません。大した技能も身に着けられないまま、体力と精神力と人生の貴重な期間を消耗しただけに終わります。給与は低く抑えられているので、ブラック企業の従業員が多いほど日本の生産性は低くなります。

問題だらけにもかかわらず、過去にブラック企業大賞を受賞した企業は一流の誰もが知る名前が並んでいます。その経営者がカリスマとして称賛されている企業も少なくありません。パワハラが横行しているはずの企業の従業員たちが、パワハラではなく情熱のこもった指導だと、上司たちに本気で同調していることもあります。辞めていった者たちは根性なしと批判されていたりもします。それはまるで、いじめがあった時にいじめられた者の欠点をあげつらう、いじめた者やいじめの傍観者たちのようだと、皆が早く気づくべきです。

私の案の中でも、パワハラを行う者に解雇や停職の処分まで認める部分には反対が大きいに違いありません。他の従業員たちは耐えている、嫌になった者は去って他の会社で働けばいいだけだ、との意見もあるでしょう。もちろん、不満を持つ者が会社を辞める自由は認められるべきです。しかし、あえて公的に訴えてまでその職場に残りたい人がいるのに、パワハラ加害者ではなく被害者を解雇する処分が社会的に妥当だとは思えません。たとえば加害者に数日間の停職を命じて、被害者の気持ちを想像して反省する期間を与えたら、加害者が合理的に指導するようになり、職場の雰囲気が一気に改善することもあるはずです。全てのケースで訴えられた者を解雇や停職させるべきではありませんが、パワハラ撲滅のためには、そういった強い権限をパワハラ対処公的機関に認めるべきと考えます。

いじめ問題について国が始めて調査をして、取り組み出したのは、東京都中野区中2生自殺事件のあった1985年度からです。その後もいじめによる悲劇のニュースは途切れることがなく、2011年の滋賀県大津市中2生自殺事件が起こって、ようやく2013年にいじめ防止対策推進法が成立しました。国、地方公共団体、学校、教職員、保護者の全てにいじめ防止対策の責任があること、いじめた者を別の教室で学習させたり、出席停止させたりできることが法律に明記されました。

このいじめ対策の進捗具合からすると、日本からパワハラを撲滅させるには長い年月を要するのかもしれません。しかし、どんなに時間がかかっても、社会全体での精神的ストレスを激減させ、かつ、国の経済規模を増大させると理解して、諦めずにパワハラ撲滅を実現まで不断に訴えていくべきです。

パワハラ撲滅がもたらす経済効果

パワハラの撲滅に成功すれば、社会に高い寛容性が浸透して、これまで無職だった者も働けると期待されます。生活保護費支給の約3.8兆円も減額できるでしょう(厚生労働省 2015年 生活保護費負担金事業実績報告参照)。

特に若年無業者、いわゆるニートたちの多くは労働に参加できるはずです。内閣府の報告では、30代までのニートは2015年で約75万人もいます(総務省統計局2016年労働力調査参照)。このうち50万人が平均年収300万円で働いたとしたら、GDPが1.5兆円加増されます。

パワハラの撲滅で、障がい者が働ける職場も広がるに違いありません。2013年、744万人の障がい者のうち18~64才の在宅者は332万人です(厚生労働省2013年障害者の就労支援対策の状況参照)。雇用される障がい者は増えているものの2015年で45万人です(厚生労働省2015年障害者雇用状況の集計結果参照)。障がい者は全従業員の2.0%以上雇うように法律で定められていますが、47.2%の企業は守っていません。多くの企業は障がい者を雇用するより、法定雇用率に不足する分の一人当たり5万円の罰金支払いを選択しています。

精神科病院実習の経験から、私は上記の就業可能な障がい者332万人のうち184万人を占める精神障がい者の多くは就業を希望していると知っています。なんら生産的活動をしないままだと、自身の存在価値に疑問を感じ、大抵、精神疾患はさらに悪化していきます。障がい者施設でしか働けない者も一定割合いますが、少なくとも3割程度の精神障がい者は十分な配慮さえあれば一般企業でも働けると推測します。

ニート障がい者たちが職場に受け入れられるなら、それ以上に受け入れられやすい女性や高齢者や外国人たちはもっと働けるようになるでしょう。将来の人口減少で労働力不足が深刻に懸念される日本にとって、パワハラ撲滅による就業者数増加は有効な経済政策になります。

ただし、カナダのように能力に疑問のある人たちを就業に参加させると、日本で身近に接するサービスの質は落ちるでしょう。しかし、各人がそういったサービスに対価を与えることによって、同じ社会で経済活動に加わる者が増えます。自宅で無為に生活する者に公金を支給するより、よほど有意義な支出だと捉えるべきです。また、日本全体の富を増加させるので、大局的な視野からすれば、自身の幸福度を上昇させることを知るべきです。

パワハラを社会から撲滅し、これまで労働参加していなかった多くの者たちを職場に受け入れることができれば、巡り巡って日本人一人ひとりの物質的・精神的豊かさも増していくに違いありません。まさに「情けは人の為ならず」です。

パワハラを漏らさず把握し、撲滅に専念する公的機関を新設すべきである

前回の記事のような問題を生むパワハラ撲滅のため、まず、パワハラの完全把握に向けて、使用者から労働者へのパワハラ報告先の告知義務を提案します。既に雇用している人たちに最低でも毎年1回、新しく雇用する人たちには採用時に、パワハラがあれば相談窓口にただちに連絡するよう、伝える義務を使用者に課します。私自身、いわゆるブラック企業で働いていましたが、パワハラの公的相談窓口が日本にあると知りませんでした。相談窓口の存在を知らなければパワハラにあっても報告の仕様がありません。パートタイマーも含めた全雇用者に相談窓口の存在が必ず伝わるように法律で定めます。雇用契約書に小さい字でパワハラ相談先を書いてあるだけでは伝わりません。見やすく分かりやすいパワハラ防止対策パンフレットを作成して、使用者は全労働者にパワハラ遭遇時の相談先を公的パンフレットと口頭で伝える義務が課されます。

当然、パワハラを相談したことで、社内で不利益を被ることは法律で禁止されます。

社内でパワハラを指摘した者と指摘された者の対立関係の発生まで防ぐことは難しいでしょうが、公的機関が可能な限り長期間介入して、パワハラ指摘者を保護するよう法律で定めます。

職場でのパワハラは学校でのいじめと酷似しています。「いじめは絶対悪である」の記事に書いたように、かつてはいじめ問題について論じると、いじめられる側にも原因があるという意見が保護者会でも平然と主張されていました。しかし、1994年に愛知県西尾市で起こったいじめ自殺事件などの反省から、「いじめは人間として絶対に許されない」との強い認識を持つべきとの声明が文部省から出されることになりました。(文部省1995年いじめの問題の解決のために当面取るべき方策等について参照)

同様に、パワハラは絶対に許されないとの強い認識を全ての人が持つべきです。パワハラの報告があった場合に、個々の行為がパワハラに当たるか否かの判断は、表面的・形式的に行うことなく、被害者の立場で行います。パワハラと認定すれば、刑事や民事上の責任を問うだけでなく、加害者の解雇や停職などの処分を迅速に実行できるように法や行政を整備します。

パワハラを漏らさず発見して、その全てを失くすためには、対応する役人を大幅に増やす必要があるでしょう。現在、パワハラの公的相談窓口は労働局と労働基準監督署の総合労働相談コーナーになります。しかし、労働基準系、職業安定系、雇用均等系などの労働問題を全て扱う労働局の全国職員は2010年度にわずか2941人で、予算は276億円です(厚生労働省 2010年 労働基準監督業務について≪事務・事業説明資料≫参照)。こんな小さな機関が他の数ある職務を遂行しながら、日本中に蔓延するパワハラに対処することなど不可能です。前回の記事で示したように、うつ病や自殺の社会的損失、約2.7兆円の見積もりを考慮すれば、パワハラ撲滅に特化した公的機関を現在の労働局の数倍の規模で新設してもいいはずです。

パワハラの現状と日本の生産性の低さ

 日本の地方労働局に入る苦情のうち、最多の26.0%はいじめや嫌がらせ、いわゆるパワハラ報告です(厚生労働省労働基準局2014年個別労働紛争解決制度実施状況参照)。厚生労働省の2012年調査では、過去3年以内にパワハラを受けた社員は25.3%となっています(職場のパワーハラスメントに関する実態調査報告書参照)。パワハラにより被害者のみならず周りの士気も低下する、と答える社員は70%に達します(中央労働災害防止協会2005年パワーハラスメントの実態に関する調査研究参照)。

 このようなパワハラは少なくとも欧米では一般的でないようです。パワハラという言葉自体が和製英語で、海外では使われていません。アメリカでは「マネージャーが自分たちを尊重している」と感じている社員は79%ですが、日本でそう感じている社員はわずか39%に過ぎません(「日本企業の社員は、なぜこんなにもモチベーションが低いのか」Rochelle Kopp著、クロスメディア・パブリッシング参照)。

パワハラの横行もあり、日本の自殺率は国際的に極めて高く、カナダの約2倍です(WHO 2014 Preventing suicide:A global imperative参照)。日本より自殺率の高い先進国は韓国だけで、その韓国でも上司からの理不尽な横暴はあり、パワハラに相当する言葉が生まれています。(AERA 2014年12月29日―2015年1月5日合併号参照)

2010年の調査によると、63.5%の日本企業にはメンタルヘルスの不調のため1ヶ月以上欠勤している社員が現在います(財団法人労務行政研究所、企業におけるメンタルヘルスの実態と対策参照)。過去にメンタルヘルスの不調で休職した社員がいる企業になると92.7%とほぼ全てとなります。そのうち、全員が完全に職場復帰したと答えた企業は7.9%に過ぎません。

厚生労働省の2010年発表では、自殺やうつ病による社会的損失が1年あたり約2.7兆円となっています(自殺・うつ対策の経済的便益・自殺やうつによる社会的損失参照)。2020年の東京オリンピック予算は2016年12月の発表時点で、1.6兆円~1.8兆円です。これらの通りであれば、自殺とうつ病を救うだけで、毎年オリンピックが開催できて、お釣りまで出ます。

パワハラによって安い賃金にも我慢するせいか、日本の労働者に与えられる最低水準の金銭報酬は少ないです。全国平均の最低賃金は2014年で時給780円ですが(独立行政法人労働政策研究・研修機構 2015 国際労働比較参照)、これはG7で最下位です(OECD Statistics 2016 real minimum wages参照)。また、国別の平均給与に対する最低給与の比が日本は0.34となり、OECD諸国28ヶ国中26位となっています(OECD Statistics 2016 minimum relative to average wages of full-time workers参照)。日本は先進国にもかかわらず非正規雇用者だと低い賃金で働かされて、国内で比較してもわずかな給与しか得られないようです。さらに、雇用者に対する非正規率は日本でこの20年間一貫して増えており、2015年は37.5%に達しています(厚生労働省 2015 「非正規雇用」の現状と課題参照)。

必然的に、非正規だけでなく国全体の統計でも就業者一人あたりの給与あるいは生産性は低くなってきます。2014年のデータを引用すると、日本人の生産性はOECD34国中21位で72,994ドルです(公益財団法人日本生産性本部 2015 日本の生産性の動向参照)。この値はOECD諸国平均の87,155ドルを下回るだけでなく、経済危機で何度もニュースになったギリシアの80,873ドルをも下回ります。アメリカと比べた場合に生産性の低さが際立つのがサービス産業です。2013年の調査だと、非製造業の生産性は対米比53.9%であり、特に飲食・宿泊産業は26.5%と極めて小さい値となっています(経済産業省 2013 通信白書参照)。ただし、日本人によるサービスが悪いため、生産性が低いわけではありません。双方のサービスを知る日本人とアメリカ人に聞くと、下のグラフにあるように、どちらの国民も日本でのサービスの質が高いと答えています(社会経済生産性本部サービス産業生産性協議会 2009 同一サービス分野における品質水準の違いに関する日米比較調査・報告書参照)。

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日本人のサービスの質は高いのに、生産性(給与)になると低くなります。給与についてはともかく、日本と比べて北米のサービスの質が低いのは、私のカナダでの実体験と合致します。カナダでは、待ち行列が長くてもスーパーのレジ係同士が雑談していました。スーツを着ない語学学校教師が机に腰をかけて講義を行っていました。日本では考えられない光景です。

しかし、彼らの給料がそれほど高いはずはありません。彼らは賃金に見合った程度の仕事をこなしおり、非難される謂れはないのです。そんな相手でも質の高いサービスを提供して当たり前と考える日本人の感覚こそ、おかしいのではないでしょうか。そんな感覚を持っていれば、高い要求をされる相手だけでなく、自分自身にとってもストレスになってしまいます。

日本人のhospitality(おもてなし)の質の高さを自慢する人もいますが、それによる被害者がいることも忘れてはいけないと思います。質の高いサービスを受けるには、相応の対価が必要です。安い賃金の者にまで不当に質の高いサービスを要求する日本人の習慣は、日本人の労働参加率を下げ、結果として日本経済全体の足を引っ張っていると考えます。

次の記事からパワハラ撲滅ための方法を提案しますが、日本でパワハラが蔓延している理由の一つに、消費者の不当に高い要求があることは認識しておくべきでしょう。

いじめ防止対策推進法

前回の記事の大津中2いじめ自殺事件をうけて、いじめ防止対策推進法が成立しました。文科省による行政対策だけでなく、ついに立法政策まで進んだのです。

これまで、いじめなのか犯罪なのか曖昧な事件がありましたが、それらを包括して、いじめと定義しています。その中でも重大事案、いじめられている児童生徒の生命又は身体の安全が脅かされているような場合、ただちに警察に通報することが定められています。「子どもの悪ふざけだから」と民事不介入の原則でなにもしてくれなかった警察が出動する義務が生じました。また、「いじめを受けた児童・生徒が安心して教育を受けられるよう、いじめを行った側の児童・生徒は別の教室で授業を受けさせる」と具体的な対策を条文化しています。それまで、いじめを受けた側が登校拒否になるのをほぼ全ての学校は黙認していましたが、それは適切な処置ではなく、いじめを受けた側はそれまで通り登校させて、逆に、いじめた側を他の教室に移すべきだ、と法律で定めたのです。

いじめ防止対策推進法がその通りに実施されれば、いじめ問題は究極まで減少していくでしょう。日本国憲法戦争放棄条項は、第二次大戦で犠牲になった多くの生命の上に成立した人類究極の理想の提示だ、と誇る人がいますが、いじめ防止対策推進法は、それまでの30年間に生じたのべ100万人以上のいじめ被害者の犠牲の上に成り立った金字塔だと私は思います。新聞報道を読む限り、いじめ防止対策推進法は現場でまだ十分に活かされていないようですが、1日でも早くこの理想的な法律が日本中の学校で実施されることを期待しています。

また、いじめ防止対策推進法の理念は、日本に蔓延する類似問題に対応する指針になると私は考えています。特に、大人のいじめとも言えるパワーハラスメントについては、ほぼ同様の法律を定めていいと私は考えています。次の記事から、日本のパワハラ問題について論じていきます。

大津中2いじめ自殺事件

前回の記事の続きです。闇に葬り去られるはずだった大津中2いじめ自殺事件の状況が一変したのは、2012年7月です。既に事件から1年近く経過していたのに、共同通信社の記者が「自殺の練習をさせられていた」情報に、今更ながら「1986年の葬式ごっこ事件」を思い出し、周回遅れのスクープを出してからです。他のマスコミ各社も、大津中2自殺事件の悲惨さ、異常さを次から次へと報道するようになりました。それまで事件を穏便に済ませることを最優先にしていた学校側も、この報道ラッシュを無視することは許されなくなり、再度、記者会見を行います。今でもその時の記者会見はyou tubeなどで観ることができますが、そこでの校長は時にうすら笑いを浮かべ、事件の深刻さを感じているようにはとても見えません。その後の保護者会でも、校長は「こんな騒ぎになったことをお詫びします」と耳を疑うような発言を最初にしました。当然、「騒ぎになったことではなく、まず自殺した少年に詫びるべきでしょう!」と保護者から批判の声があがります。ようやく、保護者会にもまともな道徳観が漂うようになりました。これまで自殺事件の報告を受けても学校同様に全く重視していなかった大津市教育委員たちは、報道が過熱した当初「家庭の問題もあったでしょう」と責任逃れをしていましたが、それが世論の非難に拍車をかけました。ついに、教育長がさいたま市の高校生にハンマーで頭を殴られる事件まで発生しましたが、教育長は加害者を責めることもせず、いじめ事件に不適切な対応があった、と認め、辞任しました。国は学校や市教育委員を「当事者能力を欠く」と判断して、直接文科省の職員を派遣して、さらに警察にも積極的に関与するように言いました。それまで3度も被害届を受理していなかった滋賀県警も、学校と市教育委員に強制捜査をして、暴行、器物損壊、窃盗などの13件を立件しました。社会的制裁は法律的制裁以上に過酷で、今でもいじめに関わった少年たちの実名や顔写真は簡単にネットで調べられますし、その両親の名前や職業まで公開され、引っ越し先もネット上に載っています。

言うまでもなく、1年間もいじめ事実を認識していたのに、ろくに報道しなかったマスコミに正義の味方面をする資格はありません。マスコミに扇動された時だけ、義憤にかられる大衆は抑制されるべきです。また、ハンマーで殴る、ネット上で真偽不明な個人情報が晒されるなどの私的制裁が許されては、法治国家は成り立ちません。そんなことは私も十分承知しています。

しかし、それらを全て考慮しても、この社会的制裁には私にとって、正直、胸がすく思いでした。いじめ事件についての法的制裁は、その非道さ、その凄惨さに対して、あまりに軽すぎます。これまでのいじめをテーマにした私の記事や、いじめ事件の本を10冊以上読んだ方なら、それは納得してもらえるはずです。本来なら、いじめ事件は全て、これくらいの社会的制裁を受ける程度の罪があると私は考えています。問題なのは、マスコミで取り上げられたこの事件だけが、社会的制裁を受けていることです。だから、社会道徳的観点からいえば、いじめ被害者救済法を成立させて、これまで存在した全てのいじめ事件について、加害者たちに適切な社会的処分を行い、被害者たちに償いを行うべきだ、と私は考えています。同様の陰惨ないじめ事件、少年少女非行事件がこれまで無数に存在し、それで死亡した人たちがいること、今でも傷ついている人たちがいること、そして、そんな悲劇を生んだのはいじめを容認や黙認していた社会全体の責任であることは、最低限、認識しなければなりません。

闇に葬り去られたいじめ、非行事件の被害者たち

文科省公表のいじめ件数を見ると、いじめの定義を変えるたびに、いじめ件数が激増して、それから次のいじめ定義の変更までいじめ件数が毎年減少していくサイクルを繰り返しています。こんな文科省のいじめ件数統計があてにならないのは間違いありませんが、1994年以降については、いじめの定義変更まで、いじめ件数が減少しているのは納得できることもあります。統計的な証拠はありませんが、バブル絶頂期の1990年前後がいじめ問題、非行問題の最低最悪の時期で、それ以降、いじめ問題は少しずつ改善してきていると私は推測しているからです。これは文科省による功績だけでなく、警察による暴力団対策も影響しているのでしょう。

いじめ問題が解決に向かっている、さらにいえば「日本は世界で始めて、いじめ問題を解決できる国になるかもしれない」とまで私に思わせたのは、2012年の大津中2いじめ自殺事件です。前回の記事でも紹介した「少年リンチ殺人」(日垣隆著、新潮文庫)を読んでいる私にしてみれば、正直、この事件は大騒ぎするような問題に思えませんでした。「またか」という程度の認識しかなかったのです。しかし、世間の良心は違っていました。

2011年にいじめにより大津市で中2生徒が自殺した後、学校側はいつものように事件を隠蔽しようとしました。事件後の記者会見で校長は「いじめはなかった」と証言しています。実際は、事件前から学校側に保護者は「いじめがある」と報告していましたし、なにより生徒本人が電話で担任教師に訴えていました。事件後の生徒アンケートでも「集団リンチにあっていた」「万引きをさせられていた」「自殺の練習をさせられていた」などの証言が100以上ありました。

学校側はそれら全てを無視しています。それどころか、「いじめと認めたらマスコミで叩かれるから、認めなくてよかった。まずは内部で、いじめで亡くなったと思わないことだ」と教師同士で話し合っていたようです(「大津中2いじめ自殺事件」(共同通信社会部、PHP新書)参照)。加害者、つまり殺人犯の母親にいたっては、「アンケート内容は断片的でアテにならないものだ」と批判ビラを配布しており、保護者会で「軽々しくいじめの烙印を押されて、それで反省していないって。鬼畜なんですか、私の息子は!」と叫んだそうです。

その息子は被害者が自殺した翌日、遅刻して登校し、いじめた子たちとニヤニヤ笑い、死を悼むそぶりも見せず、被害者の机の上にゴミを置いたりして、楽しそうにトランプで遊んでいました(同書参照)。その異常な保護者会で「もちろん、アンタの息子は鬼畜だ! いや、鬼畜以下だ!」と叫び返す親はいなかったようでした。それどころか、この保護者会後、「いじめ前提の指導は必要ない」「冤罪だったらどうするんや」という空気もできて、加害者の少年たちにろくな指導もしなかったそうです。加害者の少年たちは少年院に送られることもなく、警察は被害者遺族からの被害届を3度も受け取り拒否しています。

「少年リンチ殺人」(日垣隆著、新潮文庫)を読めば分かる通り、凶悪ないじめ事件、非行事件がこんな風に闇に葬り去られるのは珍しくありません。1980年~2000年代前半の間、人が死んだ事件だけでも500件はあるでしょう。そのごく一部が世間に知られているに過ぎません。その事実は、現在の30代か40代の日本人は全員死ぬまで覚えておく責任がありますし、社会道徳的観点でいえば、全員がその罪を償う責任があります。

いじめ事件、非行事件の被害者を今からでも救うべきである

大河内くん自殺事件の6年後に、またも愛知県で尋常でない恐喝事件が起きます。大河内くん自殺事件では100万円の恐喝でしたが、なんと5000万円の恐喝事件です。100万円が安く感じてしまうくらい被害額が甚大なのに、大河内くん自殺事件と比べると、5000万円恐喝事件はあまり有名ではありません。私も知ったのは事件後10年がたってからです。

この事件を題材にした「ぼくは奴隷じゃない」(中日新聞社会部編、風媒社)はぜひ読んでもらいたい本です。特に、この本に出てくる加害者の親たちの道徳観のなさ加減に心の底から憤りを感じてほしいです。そして、その親たちや加害者に同情するような文章を書く中日新聞記者たちの道徳観のなさ加減にも憤りを感じてほしいです。いえ、「感じてほしい」ではなく、人間であるなら「感じる」し、「感じなければならない」はずです。こんな親たちや、こんな記者たち、こんな凶悪な少年たちを見逃していた警察や大人たちがいるから、こんな悲惨な事件が起こったのです。このいじめ事件に加担した者たちは言うまでもなく、親たちや先生たちや警察も含めて、全員終身刑にすべきだと私は思ってしまいます。また、1千万円以上も恐喝していた暴走族のリーダーを「あれはワルでも筋の通ったワル」などと称賛し、その息子の恐喝に全く気づかなかっただけでなく、息子の悪友たちを「うちに来た時はみんないい子」と本気で言っていたバカ母を悲劇のヒロインのように書いた当時の中日新聞社会部記者たちは暴力賛成派としか考えられないので、全員最後の一人が死ぬまで、殺し合いさせてください。

あまり知られていない、いじめ事件はこれ以外にもあります。それが一番よく分かるのは「少年リンチ殺人」(日垣隆著、新潮文庫)ではないでしょうか。これはいまだにwikipediaにも載らない、とるに足らない事件かもしれませんが、その凶悪さは上記の書を読めば分かります。その残忍さを自覚していないどころか、認めようともしないバカ親たちは、息子たちの殺人事件の共犯者と考えるべきです。もしこのバカ親たちを罪に問えないのなら、更生施設に送るなどの社会的処分は最低限必要です。

「少年リンチ殺人」にある通り、1997年の1年間だけでも、のべ9637人が少年リンチ事件(障害致死、傷害事件)として検挙されています。検挙された数なので、集団暴行事件が発生しても110番されなかったら、この数に入りません。実数はこの10倍以上あったと確信します。少年リンチ事件、非行事件、いじめ事件で被害者になり、既に死んだ者や、肉体的および精神的に一生消えない傷を抱える者は、現在一体何万人いて、そのうちの何万分の一が適切な補償を受け取っているのでしょうか。原爆被害者や水俣病被害者を熱心に援助する運動は否定しませんが、場合によっては、それら以上の悲劇に見舞われた非行事件の被害者たちにも社会補償を受ける権利は間違いなくあります。被害者たちが生きているうちに、まだ人生を楽しめるうちに、できるだけ早く一人残らず調査し、加害者やその協力者を罰し、あるいは、最低でも加害者やその協力者に金銭面で償わさせて、被害者が救われるような社会制度を築くべきだと、私は本気で提案します。

いじめは絶対悪である

私が外国人に、どうして日本でいじめが社会問題となったかを説明するときに、1994年の愛知県大河内くん自殺事件を次のように語っていました。

私「いじめが日本で絶対悪と認識されるようになった事件がある。中学2年生の少年が同級生から暴力を受けて、お金まで要求されるようになった。少年はお金がないと言ったが、いじめる奴らは納得せず、親からお金を盗むように強要した。少年はこっそり親の財布からお金を盗み続け、その金額は1万ドル以上に及んだ」

外国人「1万ドル!」

私「当然、親もお金が減っていることに気づいた」

外国人「Of course!」

私「親は学校にいじめをなんとかしてくれ、と要求したが、学校側は『強要されたからといって、お金を盗んだのはお前だから、お前の責任だ』と、いじめを受けている子に反省文を書かせた。親にも助けてもらえない、先生にも助けてもらえない、自分でもどうしようもできない。少年は14才で自殺した」

外国人は、これで絶句します。

大河内くん自殺事件は、当時、中高生以上の年齢だったなら、今でも覚えている人は多いでしょう。100万円という金額が注目されて、私もそれを特に記憶していましたが、こちらのHPにあるように、いじめの実情は金額以上に悲惨です。

この事件がマスコミで騒がれたので、文部省もようやく動きました。まず、いじめの定義が次のように変わりました。

①自分より弱い者に対して一方的に、②身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、③相手が深刻な苦痛を感じているもの。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。なお、個々の行為がいじめに当たるか否かの判断を表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うこと

この赤文字部分は画期的だったと私は思っています。

今だったら信じられない人もいるでしょうが、大河内くん自殺事件までは、いじめが起きた時、いじめる側といじめられる側を対等に並べて判断していました。

「そもそも、なんでいじめが起きたんですか?」「なるほど。客観的にいって、いじめられた生徒はそんな欠点がありますね」「いじめられる側にも問題があったのではないでしょうか

こんな議論が保護者たちの間で普通に起こっていました。当時の日本人の道徳観は、その程度でした。ご存知のように、今でもその程度の道徳観しか持っていない日本人は腐るほどいます。

しかし、大河内くん自殺事件を考察して、そんな道徳観ではいじめ問題はいつまでも解決できない、と文部省も気づきました。1994年12月16日の文部省通知で「弱い者をいじめることは人間として絶対に許されない」と強い言葉で否定しました。そこまで断言していいのか、という疑問は今でも持つ人がいますが、実際のいじめ事件の悲惨さを調べ続けた人なら、「人間として絶対に許されない」ことは分かるはずです。もしそれでも納得できない人たちは、基本的人権を尊重する日本国憲法や世界人権宣言の範囲外にいるので、どこかの孤島にでも一人残らず集め、心ゆくまで殺し合いさせてください。冗談ではなく、本気で、私はそう主張します。

いじめ問題の始まり

いじめがマスコミに注目されたのは、1986年の「葬式ごっこ事件」が最初になるでしょう。wikipediaにもある通り、担任教師が、後に自殺する少年の葬式ごっこの寄せ書きを添えていて、自殺後、その行為を生徒たちに口止めするように言っている上、聞き取り調査で自殺した生徒に原因があるかのような発言までしています。精神的ないじめでなく、自殺した生徒に日常的に暴行を犯していた者は複数いて、その容疑で16名が書類送検されたものの、そのうち処分が下された者はたった2名です。しかもその2名も少年院に入ってすらおらず、保護観察されただけです。この事件は今から判定すればいじめ以外のなにものでもないのですが、裁判では最後までいじめと判定されませんでした。こちらのHPにいじめの実情が書かれていますが、それを読んで、まだ加害者の処分や裁判の判決が妥当だと思う人がいたら、その人は人間と絶対に認めるべきではありません。

マスコミがいじめ事件に注目したのは1986年からですが、それ以前より同様のいじめ自殺は全国で多発していました。この事件だけが注目された理由は不明ながら、その前年の1985年に文部省が始めて、いじめ調査したことは多かれ少なかれ影響しているでしょう。当時の1986年、文部省の定めたいじめの定義は次のようになります。

①自分より弱い者に対して一方的に、②身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、③相手が深刻な苦痛を感じているものであって、『学校としてその事実(関係児童生徒、いじめの内容等)を確認しているもの』。なお、起こった場所は学校の内外を問わないものとする。

『学校としてその事実を確認しているもの』はなんの目的で挿入したのでしょうか。社会道徳的に考えれば不要であることは明確です。学校としてその事実を確認していなければいじめにならない、事件にならない、とすれば、当然、いじめの事実を学校として積極的に確認しようとするわけがありません。いじめの事実を確認して学校側がなんの得もないこと、だから学校側がいじめ事件を隠蔽しようとすることを、この条項を定めた「専門家たち」は想像できなかったようです。

国家として文部省がいじめ問題に取り組んだことで、いじめ認知件数は1986年から1993年まで着実に減少していきました(文科省資料参照)……という幻想を文部省官僚は当時本気で信じていたのでしょうか。この時代はバブル絶頂期であり、いじめ問題は最低最悪の状況だったと私は確信しています。東京でコンクリート詰め殺人事件、愛知県で大高緑地公園アベック殺人事件が起こった時代です。日本の少年犯罪史上、これより非道な犯罪を知っている人がいますか? 日本のいじめ問題、少年少女非行問題が最低最悪になっていたのに、文部省は見て見ぬふりをしていたのです。見て見ぬふりをしていたのは当時の文部省だけでなく、当時の中高生、当時の大人、当時の警察たちもそうです。上記の二つの事件は極悪としか言いようのない事件ですが、これは決して例外的な事件ではなく、非道な少年犯罪は当時の日本で蔓延していました。当時の中高生、現在の30代から40代の世代は、それを知らなかった、とは言わせません。この時代、極悪非道な少年犯罪が日常茶飯事だった事実を「いじめ事件、非行事件の被害者を今からでも救うべきである」の記事で指摘します。

いじめ問題を振り返る

いじめ問題が日本で生じたのは日本のバルブ経済期と重なります。バブル期に日本人は多くの違法あるいは合法の罪を犯していますが、その中でも、いじめ問題は最低最悪の罪だと私は考えています。

文科省調査のいじめ件数は全くあてにならないため私の推測になりますが、1980年代から2000年代前半までが、いじめ問題の最悪の期間でしょう。この時代に中高生だった世代、今の30才前後から50代前半の世代は倫理的にも性格的にも思想的にも最悪のいじめ問題、少年少女非行問題を間近に見ていたはずです。特に、この世代で公立中学や偏差値の低い公立高校に通っていた人は、いじめられた者か、いじめていた者か、いじめを傍観していた者のどれかに入るはずなのに、ほとんどの人はそれを忘れたかのように今も生きています。

話は大きくなりますが、幕末維新外交、自由民権運動の失敗、日清日露戦争シベリア出兵、満州事変、日中戦争、第二次大戦、大規模公害、全共闘運動、バブル狂乱など、明治維新以降、日本は過去の失敗を、なに一つ、国民全体でよりよい未来に繋がる総括をしていません。第二次大戦を除けば、総括しようともしていません。いじめ問題もその一つです。問題の期間が終了した、いつの間にか問題がなくなったからといって、過去から学ばないのは愚か者です。上記の明治維新以降の日本の問題について、私は直面した世代に入らないのですが、いじめ問題は実際に遭遇しています。私は現在30代で、いじめられた者に分類されるからです。中学生の頃、私をいじめていた者が少年院に送られなければ、私はとっくの昔に自殺していたと確信します。

一つの大きな問題を深く広く考察することで、それに関する他の多くの問題も見えてきます。私自身がまずは解決すべき世代に入っていることもあり、次の記事からいじめ問題について振り返ります。

学歴社会嫌いな私が学歴好きになった理由

私は二度大学を卒業していますが、一度目の大学受験では、二流大学に合格したのに、わざわざ偏差値の低い三流大学に進学しました。

「人を学歴で評価すべきではない。その人の真の知性、内面で評価するべきである」

そんな理念を元にした価値のある決断だと、当時は信じ切っていました。全くもって若気の至りで、この決断が私の人生を大きく狂わせることになります。三流大学に進学したのに、二流大学並みの就職や待遇を得たいのなら、通常の二流大学生以上に、能力と意思が高くなければいけません。自惚れていた私はそのくらいの能力と意思はある、特に意思は必ずある、と思い込んでいました。現実は、私にその能力と意思はなく、特に意思は完全に挫かれました。

精神を病んだ私は新卒一括採用を完全に見逃して、「シューカツ」が「就職活動」の略であることすら知らないまま卒業しました。そんな私が気づいたら、ブラック企業で何年も働いていたのは不思議でないでしょう。自分のバカさ加減に呆れます。

ただし、振り返れば後悔しかない若者時代を送ったからこそ、見えてきたこともあります。学歴の高い人は学歴が低い人より、知性が高く、また性格がよく、さらに内面が優れていることです。もちろん例外は多くありますが、概ね、学歴、知性、性格、内面には正の相関関係があるように思います。特に、私のように知性を重視する人間には、低学歴の人との交流が相当なストレスになることは間違いありません。後にこんなブログを作る奴なので、高校卒業するまでには、それくらい分かっておくべきだったのです。

学歴社会が定着し、その採用方針で日本が繁栄してきたのですから、学歴で人を評価する制度はある程度有効だった、と今の私は確信しています。西洋では学歴を評価基準にする必要は全くないのかもしれませんが、日本だったら学歴を評価基準にする社会的妥当性はあったはずです。

ただし、日本では若い人ほど学歴で人を評価しなくなってきているように思います。これは採用活動だけでなく、世間一般の評価基準でもそうです。若い世代は学歴以外のなにで人を評価するようになったかというと、コミュニケーション能力です。このコミュニケーション能力は、偏差値で客観的に比較できる学歴よりも、遥かに恣意的な判断で決まります。日本でのコミュニケーション能力とは、話し方がうまくて、礼儀作法が身についている、といったものでしょう。私に言わせれば、それは外見の一部であり、見せかけです。知性につながる学歴を重視する方が社会道徳的にまだ適切のはずです。学歴に対してコミュニケーション能力の重要性が高まったことは、日本社会が失われた20年から脱却できない原因の一つだ、と私は考えています。

「人を学歴で評価すべきではない。真の知性や内面で評価するべきである」という理念を今でも私は持っています。しかし、真の知性や内面を判断できる日本人は極めて稀でしょう。それなら、コミュニケーション能力より学歴を重視した方が日本社会としてマシだ、と私は考えるようになっています。

観念論でなく教育内容に注目すべきである

日本で「基礎学力教育」と「個性尊重教育」のどちらを重視すべきか、という意味のあまりない議論は耐えることがありません。一長一短であり、どちらも極端すぎるのはいけない、などの当たり前の結論にしか到達しないでしょう。そんな抽象的な観念論よりも、現場の教育をより重視すべきです。

日本にも教育についての本は山のようにあります。しかし、私が図書館でいくら調べても、国際的なカリキュラム(教える内容)を詳細に調査し、比較した本を見つけられませんでした。「日本では小2の2学期に九九を習うが、カナダでは九九に相当する内容は〇年で教えるが完璧に覚えさせるのではなく通年での電卓教育に力に入れていて、イギリスでは地区によって違うが平均は×年で、韓国では……」といった内容の本がないのです。私は学者でもなく教育学の専門教育すら受けていないので、単に文献検索する能力がなかっただけかもしれません。国際教育内容を比較した本が日本にあるのなら、ぜひ下のコメント欄に書いて教えていただけると助かります。ただ、もしそんな本が本当にないに等しい状況なら、日本は具体的なカリキュラム(なにを教えるか)について国際比較をろくにしないで、現場の教育の役に立たない観念論ばかりしていたことになるでしょう。

教育内容の違いは、極めて重要です。今より1世代以上前なら、有名中学、有名高校に進学するためには、塾に通うことが必要でした。私は大学に入ってから、ある進学塾のテキストを見て、その内容の素晴らしさに仰天しました。「有名中学、有名高校の入試では、学校に普通に通っていただけでは、まず解けない問題ばかり出していたのか。それを理解できるように、塾ではこんなに体系的な教育が行われているわけだ。入学時にそれほど差がついているなら、有名私立高校生に、公立高校生が負けるのも道理だ」と、中学、高校と一度も塾に通わず、三流大学に入った私は感じました。

話は飛躍しますが、私が最もなりたい職業は国際教育の研究者です。世界中の教育内容、教育方法を調べ尽くして、統計的に最も効果的な教育内容、教育方法を追い求め、未来の世界を担う子どもたちに科学的に求めた最適な教育を提供することです。残念ながら、他の多くの人と同様、私にはなりたい仕事に就く能力と意思力と幸運に恵まれなかったので、違う仕事をしていますが、私を理解してくれる結婚相手と数名の子どもを養うだけの十分な給与があるなら、現状より給与が低くても全く構わないので、国際教育の研究をしたいと今でも本気で思っています。