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学歴社会嫌いな私が学歴好きになった理由

私は二度大学を卒業していますが、一度目の大学受験では、二流大学に合格したのに、わざわざ偏差値の低い三流大学に進学しました。

「人を学歴で評価すべきではない。その人の真の知性、内面で評価するべきである」

そんな理念を元にした価値のある決断だと、当時は信じ切っていました。全くもって若気の至りで、この決断が私の人生を大きく狂わせることになります。三流大学に進学したのに、二流大学並みの就職や待遇を得たいのなら、通常の二流大学生以上に、能力と意思が高くなければいけません。自惚れていた私はそのくらいの能力と意思はある、特に意思は必ずある、と思い込んでいました。現実は、私にその能力と意思はなく、特に意思は完全に挫かれました。

精神を病んだ私は新卒一括採用を完全に見逃して、「シューカツ」が「就職活動」の略であることすら知らないまま卒業しました。そんな私が気づいたら、ブラック企業で何年も働いていたのは不思議でないでしょう。自分のバカさ加減に呆れます。

ただし、振り返れば後悔しかない若者時代を送ったからこそ、見えてきたこともあります。学歴の高い人は学歴が低い人より、知性が高く、また性格がよく、さらに内面が優れていることです。もちろん例外は多くありますが、概ね、学歴、知性、性格、内面には正の相関関係があるように思います。特に、私のように知性を重視する人間には、低学歴の人との交流が相当なストレスになることは間違いありません。後にこんなブログを作る奴なので、高校卒業するまでには、それくらい分かっておくべきだったのです。

学歴社会が定着し、その採用方針で日本が繁栄してきたのですから、学歴で人を評価する制度はある程度有効だった、と今の私は確信しています。西洋では学歴を評価基準にする必要は全くないのかもしれませんが、日本だったら学歴を評価基準にする社会的妥当性はあったはずです。

ただし、日本では若い人ほど学歴で人を評価しなくなってきているように思います。これは採用活動だけでなく、世間一般の評価基準でもそうです。若い世代は学歴以外のなにで人を評価するようになったかというと、コミュニケーション能力です。このコミュニケーション能力は、偏差値で客観的に比較できる学歴よりも、遥かに恣意的な判断で決まります。日本でのコミュニケーション能力とは、話し方がうまくて、礼儀作法が身についている、といったものでしょう。私に言わせれば、それは外見の一部であり、見せかけです。知性につながる学歴を重視する方が社会道徳的にまだ適切のはずです。学歴に対してコミュニケーション能力の重要性が高まったことは、日本社会が失われた20年から脱却できない原因の一つだ、と私は考えています。

「人を学歴で評価すべきではない。真の知性や内面で評価するべきである」という理念を今でも私は持っています。しかし、真の知性や内面を判断できる日本人は極めて稀でしょう。それなら、コミュニケーション能力より学歴を重視した方が日本社会としてマシだ、と私は考えるようになっています。