未来社会の道しるべ

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いじめは絶対悪である

私が外国人に、どうして日本でいじめが社会問題となったかを説明するときに、1994年の愛知県大河内くん自殺事件を次のように語っていました。

私「いじめが日本で絶対悪と認識されるようになった事件がある。中学2年生の少年が同級生から暴力を受けて、お金まで要求されるようになった。少年はお金がないと言ったが、いじめる奴らは納得せず、親からお金を盗むように強要した。少年はこっそり親の財布からお金を盗み続け、その金額は1万ドル以上に及んだ」

外国人「1万ドル!」

私「当然、親もお金が減っていることに気づいた」

外国人「Of course!」

私「親は学校にいじめをなんとかしてくれ、と要求したが、学校側は『強要されたからといって、お金を盗んだのはお前だから、お前の責任だ』と、いじめを受けている子に反省文を書かせた。親にも助けてもらえない、先生にも助けてもらえない、自分でもどうしようもできない。少年は14才で自殺した」

外国人は、これで絶句します。

大河内くん自殺事件は、当時、中高生以上の年齢だったなら、今でも覚えている人は多いでしょう。100万円という金額が注目されて、私もそれを特に記憶していましたが、こちらのHPにあるように、いじめの実情は金額以上に悲惨です。

この事件がマスコミで騒がれたので、文部省もようやく動きました。まず、いじめの定義が次のように変わりました。

①自分より弱い者に対して一方的に、②身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、③相手が深刻な苦痛を感じているもの。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。なお、個々の行為がいじめに当たるか否かの判断を表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うこと

この赤文字部分は画期的だったと私は思っています。

今だったら信じられない人もいるでしょうが、大河内くん自殺事件までは、いじめが起きた時、いじめる側といじめられる側を対等に並べて判断していました。

「そもそも、なんでいじめが起きたんですか?」「なるほど。客観的にいって、いじめられた生徒はそんな欠点がありますね」「いじめられる側にも問題があったのではないでしょうか

こんな議論が保護者たちの間で普通に起こっていました。当時の日本人の道徳観は、その程度でした。ご存知のように、今でもその程度の道徳観しか持っていない日本人は腐るほどいます。

しかし、大河内くん自殺事件を考察して、そんな道徳観ではいじめ問題はいつまでも解決できない、と文部省も気づきました。1994年12月16日の文部省通知で「弱い者をいじめることは人間として絶対に許されない」と強い言葉で否定しました。そこまで断言していいのか、という疑問は今でも持つ人がいますが、実際のいじめ事件の悲惨さを調べ続けた人なら、「人間として絶対に許されない」ことは分かるはずです。もしそれでも納得できない人たちは、基本的人権を尊重する日本国憲法や世界人権宣言の範囲外にいるので、どこかの孤島にでも一人残らず集め、心ゆくまで殺し合いさせてください。冗談ではなく、本気で、私はそう主張します。