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福田孝行と門田隆将の死刑観の違い

前回までの記事の続きです。

「福田君を殺して何になる」(増田美智子著、インシデンツ)で、福田自身は次のような刑罰を提案しています。

「たとえば、『無期懲役+死刑』とか。(仮釈放がない)終身刑もあってもいい。拘置所の間は労役がないけど、まずは刑務所に入って働いて、その働きを見て、死刑にするかどうかを決めてもいいんじゃないかと思う。あるいは、懲役刑を終えても、まだ足りないと思うならさらに懲役年数を長くするとか」

裁判で定まった懲役刑を終えても、さらに長くする案は傾聴に値すると考えます。特に、光市母子殺害事件では、理性的には認めがたい「強姦の計画性」を、福田を死刑にしたいがためだけに、認めてしまっています。そこまでしなくても、素直に「強姦の計画性」は認めらないとして、場合によっては殺人罪ではなく傷害致死罪として、懲役15年でも懲役中の態度によって、さらに延長して事実上の終身刑にすればいいと考えます。

これは福田の件に限りません。どんな犯罪の刑罰に対しても懲役刑の延長は適用されるべきと私は考えます。たとえ懲役1年であったとしても、延長を繰り返して、50年以上懲役となり、事実上の終身刑になることもあっていいと私は考えます。

懲役刑の期間は原則、犯罪の種類によって決まっています。一方、懲罰の最大の目的、あるいは最高の結果は更生であるはずです。しかし、更生にいたるまでの期間は、個人差が大きすぎて、犯罪の種類では決まりません。だから、どんな犯罪であれ、懲役の実刑を受けた者は、更生されたと認められない限り、社会に出すべきでないと私は考えます。

もちろん、こうなると、なにをもって更生したと考えるのかなどの問題は出てきます。懲役年数を伸ばす権限を刑務所職員に与えると、「アブグレイブ刑務所における捕虜虐待」のような事件が多発する可能性は高いです。社会で最も人権を軽視されている受刑者の人権がさらに軽視されることがないよう、十分な監視機構は必要不可欠です。また、懲役時に更生を促すために、刑務所の抜本的な改革、制度や職員や設備を大きく変える必要は出てきます。

懲役延長が濫用されないように、あるいは受刑者が社会に出ていいか判断するために、懲役刑を延長すべきかどうか、どれくらいの期間の延長なのかの裁判が改めてあっていいと思います。裁判までいかなくても、本人や被害関係者や第三者も含めた釈放決定議論機関はあっていいはずです。

「付属池田小事件はどうすれば防げたか」の記事に書くように、附属池田小事件で心神喪失者等医療観察法が成立しましたが、これは原因が正しく捉えられていないために対策が的外れになった代表例だと私は考えています。医療観察法が以前からあれば付属池田小事件は起きなかった、と関係者の誰も考えていないはずです。むしろ、上記のように懲役刑の延長制度があれば、誰がどう考えても更生していない宅間守のような人物は事実上の終身刑になっていたはずで、そうであるなら付属池田小事件も起きませんでした。

話を光市母子殺害事件に戻します。「なぜ君は絶望と闘えたのか」(門田隆将著、新潮文庫)の著者の門田は一貫して死刑賛成論者です。「人を殺めた人間がその命で罪を償うという当たり前のこと」とまで書いています。もしそうなら、第二次大戦中の日本人は中国人を筆頭にアジア全体で1千万から2千万人も殺しています。第二次大戦で日本人は多く見積もっても400万人しか死んでいないので、門田の理論なら、あと6百万人から1千6百万人も日本人は死ななければならなくなります。アジア人の処罰感情を満たすために、その時の日本人をそれほど大量に死刑にすることが正義だと門田は考えているのでしょうか。私は処罰感情による大量死刑が正義だと全く思いません。死刑にするよりも、反省し、謝罪し、生きて償うべきだと考えています。

門田の本では、「死刑存置派の最大の論客となった」本村洋が2002年1月の日本テレビスーパーテレビ情報最前線」の企画で、アメリカの死刑囚と対談した話が載っています。最も真摯に反省している(ように見える)死刑囚と本村が対話し、本村は「あなたが、すごく事件に対して真摯に反省していることを感じます」と述べています。

それでも「人を殺した人間は、どれだけ更生しても死刑という罰を受けるべきだ、という本村の考えに変わりはない」そうです。その理由として、この本で何度も書かれていることが「死刑があるからこそ、犯罪者は罪と向き合える」というものであるので、呆れてしまいます。

この主張は科学的に間違っています。死刑を受けたからこそ、犯罪者が真摯に反省できるなど、通常ありません。事実はその正反対で「加害者なのに心は被害者」のように、ほとんどの死刑囚は自分の判決に納得できていません。「反省していた犯罪者を開き直らせた検察の不正義」に書いたように、死刑になったからこそ、反省しないと堂々と宣言する者までいます。ほとんどの被告は判決前までは情状酌量を求めて、反省の態度を示すでしょうが、死刑判決となると、自身の主張が受け入れらなかったことに納得できず、反省の態度など示さなくなるはずです。

ここで議論しても仕方ないので、死刑になったからこそ反省できた死刑囚が何割いるのか、統計をとってください。主観的評価でも客観的評価でも構いません。すぐに結論は明らかになるでしょう。

この例にあるように、門田の思考は「福田は死刑にすべき」という復讐心(門田は事件前に被害者となんの関わりもないので、復讐心を抱く時点で筋違いなのですが)が異常に強く、理性を放棄しすぎています。新供述が旧供述より事実に近いことは理性的に明らかなのに、「ドラえもん」「魔界転生」「母胎回帰ストーリー」などの荒唐無稽な言説にまどわされて、いまだに福田が嘘を並べたと信じ切っています。だからこそ、この犯罪の本質が見えず、福田の本性も見えず、福田と面会したら、福田が真摯に反省していることを「厳然たる事実」と述べ(何度も書いていますが、私は福田が十分に反省しているとは考えません)、あっさり福田の味方のような言動をして、「簡単に犯人の味方になってしまった被害者側のジャーナリスト」と私ごときに批判されたりするのです。

私に言わせれば、門田は人間観も社会観も浅すぎます。こんな奴に犯罪報道する正当性はないと考えます。