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なぜ光市母子殺害事件裁判は死刑となったのか

前回までの記事の続きです。

「なぜ僕は『悪魔』と呼ばれた少年を助けようとしたのか」(今枝仁著、扶桑社)によると、1999年4月の光市母子殺害事件に、当初、マスコミはほとんど注目していませんでした。18才の少年が23才の若い女性を殺害した後、死姦し、娘の生後11ヶ月の赤ちゃんが殺された事件です。まだ日本中に非行少年が溢れていた当時には、それほど珍しくない少年犯罪だったのだろう、と私も考えます。刑事事件になっていない殺人、自殺に追い込まれた事実上の殺人も含めると、非行少年・少女による複数名殺害事件など、1999年の1年間だけでも10件はあったと私は推測します。最悪だった1990年前後なら、不良グループによる複数名殺害事件は年間100件以上あったと推測します。

いじめ問題の始まり」の1986年のイジメ自殺以前、あるいはそれ以後もしばらく、いじめによって自殺があっても、「イジメられていたと知られると本人の恥だから」「確かな証拠もないため穏便に処理した方がいい」といった理由で、自殺原因は不明とすることが一般的でした。ひどい場合には「自殺するほど本人が意思の弱い人物だと思われたくないから」といった理由で、そもそも自殺とせず、事故死として処理されていました。嘘だと思うのなら、自殺の死体検案書を作成していた警察関係者に聞いてみてください。

光市母子殺害事件が注目されるようになったのは2000年3月の一審判決後、遺族である本村洋が「司法に絶望しました。早く被告を社会に出してほしい。私がこの手で殺します」と法治国家を否定するような発言をしてからです。この後も、本村はマスコミで積極的に発言していきます。

それでも光市母子殺害事件の認知度は極めて低く、まだWikipediaにも載っていませんでした。注目度が一気に上がったのは、2000年秋頃から週刊新潮が福田の不謹慎な手紙を報道してからです。

この手紙の裁判での証拠採用については、当然、弁護側が激しく抵抗しました。「本人が裁判に証拠として用いられることを承知しないまま出し」ており、「通信の秘密を侵す証拠採用は憲法違反の可能性がある」からです。

週刊新潮が福田の不謹慎な手紙を公表した理由は、その内容があまりに道徳に反していたこと、換言すれば低俗な大衆が好みそうであったことが一番でしょう。通信の秘密を侵しても公表した理由は、「反省していないどころか、被害者や被害者遺族を愚弄する福田を死刑にしなくていいのか」という大義名分ができたからと推測します。つまり、この大義のためなら、通信の秘密を侵しても許されると週刊新潮は判断したはずです。実際、この件で週刊新潮を批判する者は皆無に等しいです。

福田の不謹慎な手紙の内容は読む者すべてに義憤を掻き立てました。特に問題となった言葉を抜粋します。

「終始笑うは悪なのが今の世だ。ヤクザはツラで逃げ、馬鹿(ジャンキー)は精神病で逃げ、私は環境のせいにして逃げるのだよ、アケチ君」(福田は父から日常的に暴力を振るわれる環境で育ってきた)

「無期はほぼキマリ、7年そこそこに地上に芽を出す」(この時、「天国からのラブレター」(本村洋、本村弥生著、新潮社)に書かれていた「少年法では、無期懲役判決でも7年で仮出獄される」との間違った情報を福田は信じていました。現実には、無期懲役の少年がわずか7年で仮出獄されることなどありえません)

「犬がある日かわいい犬と出会った。・・・そのまま『やっちゃった』・・・これは罪でしょうか」

「2番目のぎせい者が出るかも」

「福田君を殺して何になる」(増田美智子著、インシデンツ)の著者は、この手紙報道によって光市母子殺害事件を知ったそうです。週刊新潮は「ヘドの出るほど身勝手で救いがたい内容」とまで罵倒していますが、私も同感です。

この手紙が裁判で証拠採用されなかったら、福田の死刑判決がなかったのは確実でしょう。いえ、この手紙を証拠採用した二審でも無期懲役だったので、この手紙の内容だけでは、福田の死刑判決には不十分だったようです。それでは、福田の死刑判決にあとなにが必要だったかといえば、世論の死刑を求める声だった、と私は推定しています。

検察が上告して、検察側と弁護側の書類を受け取った2002年12月から2005年12月まで3年間、最高裁はなにもしませんでした。通常、上告の判断は1年もかからないので、これは異例です。「光市事件裁判を考える」(現代人文社編集部著、現代人文社)で、最高裁が3年間も放っておいて、弁護側に3ヶ月間しか検討できない公判(弁論)期日を突然伝えるという「30年弁護士をやっていて聞いたことがない」暴挙に、弁護団の一人が憤っています。

その3年間になにが起こったのでしょうか。遺族の本村の熱心な活動にますます拍車がかかっていました。本村は犯罪被害者の気持ちを語るため、仕事の都合がつく限り、全国のどんな場所でも足を運んで、集会で語っていました。最初は小さな集会が多かったようですが、やがて多くの人が詰めかけるようになっていきます。2003年7月8日には、全国犯罪被害者の会を代表して、首相官邸で小泉総理と対談しています。その小泉総理の号令により、2004年12月には犯罪被害者等基本法が成立し、2005年には犯罪被害者等基本計画が策定されます。

司法がこの動きに無関心だったはずがありません。ついに2005年12月、最高裁は弁論期日を決めて、世間をアッと言わせます。死刑判決に対する上告審を除いて最高裁で弁論が行われる場合、控訴審の判決が覆る場合が多かったからです。つまり、この時点で、福田を死刑にすべきだと最高裁は判断していました。

上で「世間をアッと言わせた」と書きましたが、その時点でもwikipediaに「光市母子殺害事件」の項目はまだありませんでした。その項目ができたのは2006年6月、最高裁が二審の無期懲役判決を破棄した頃になります。

時間軸を戻します。福田を死刑にする上で、不謹慎な手紙は不可欠な要素でした。その判決のカギを握る手紙が検察の罠によって書かれた疑いがあることを、どれくらいの人が知っているでしょうか。

次の記事に続きます。