未来社会の道しるべ

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天才経営者などいない

東芝の悲劇」(大鹿靖明著、幻冬舎文庫)は素晴らしい本でした。「日本人である前に人間である」に書いたように、ほとんどの日本人ジャーナリストは取材相手に接する間に取材相手に取り込まれて、偏った見解を報道するのが一般的ですが、著者は取材相手を批判的に検証しています。

東芝の歴代社長のうち、西田や佐々木がパワハラ系で論外であったことはどの本でも書かれていますが、在任期間中、ソニーの出井と並んで有能とマスコミにもてはやされた西室がいかに経営で失敗していたかも赤裸々に示しています。もちろん、出井がソニーを傾けたことも周知の事実として扱っています。

同著者は「堕ちた翼ドキュメントJAL倒産」(大鹿靖明著、朝日新聞出版)でも、稲盛和夫礼賛一辺倒の中、稲盛よりも先に「JAL再生タスクフォース」の方が好ましい再生計画を立てていたことを明らかにしています。稲盛が古い価値観で自身への過剰な礼賛を受け入れる経営者だったことは、このブログを読むほどの人なら知っているでしょうが、著者は自身が賞賛している5名のJAL再生タスクフォース(中心人物は富山和彦)についても、「計画を立てただけで実際はなにもしていないのに1ヶ月間で10億円もの報酬を受け取っている」と批判をしているのはさすがです。

なお、「東芝の悲劇」で、「日立の古川、ソニーの中鉢と平井、日本航空の西松、東京電力の清水など、傍流からの抜擢人事は、こと日本の大企業においては成功しない。実力者の腰巾着に過ぎない凡庸・愚鈍の人であり、そもそも将の器ではないのだ」と著者は批判しています。私はこの中の「将の器」という言葉に違和感があります。

この例に限らないのですが、「昔と違って今の日本には名経営者がいなくなった」という言葉はよく見かけます。しかし、これは「昔と違って今の日本企業(あるいは日本経済)は成長の余地がなくなった」が本質を捉えた表現になるはずです。日本に名経営者がいなくなったのは、経営者の能力が昔と比べて落ちたのではないと私は考えています。パナソニック松下幸之助ダイエーの中内㓛などは、典型的な独裁者タイプで、間違っても「将の器」などなかったのですが、日本の高度経済成長の時流に乗ったので、経営的には大成功してしまい、「名経営者」と崇める人が今もいます。ソニー盛田昭夫も日本絶頂期の1990年頃に世界中から「名経営者」と賞賛されましたが、現在の価値観でいえば、相当に保守的であることは、少し調べれば分かるはずです。

東芝と言えば土光敏夫の「再建」が有名で、土光は「名経営者」との認識が現在まで一般的です。そのせいか、土光が会長を務めた第二次臨時行政調査会は「素晴らしい臨調だった」との認識が、朝日新聞にまで載っていました。しかし、これは明らかな間違いで、第二次臨時行政調査会の失敗は土光自身も認めています。1984年までの赤字国債ゼロも、3K赤字(コメ、国鉄、健康保険)の解消も、国鉄赤字以外は、実現されていません。確かに、その後の臨調は形だけ行っているだけにしか見えず、第二臨調ほどの改革は一度も行われていませんが、第二臨調ですら抜本的な改革とはほど遠いものでした。

話を名経営者に戻します。どの時代、どの社会であっても、「名経営者だったから企業が成長したのではなく、企業が成長したから名経営者になれた」が一番実態に近いと私は考えています。さらに書けば、企業が成長したのも、ほとんどは時流に乗ったから、その企業の従業員全体の能力が高かったから、あるいは、単に運がよかったからで、経営者の能力が高いとは限らないと私は考えています。もちろん、これは日本企業に限らず、世界中の名経営者にも言えることです。アップルとマイクロソフトが成長したのは、スティーブ・ジョブズビル・ゲイツが有能だったからだと私は全く思っていません。ジョブズについては既にその性格の問題が伝記で証明されています。アップルやマイクロソフトが成長したのは、主には時流に乗ったから、あるいは、アップルやマイクロソフトの従業員全体の能力が高かったからであり、経営者の能力が高かったからでは必ずしもない、と私は考えています。

「将の器」なるものは将以外の要因で決まってしまう要素が大きく、AさんがB組織の将なら適切でも、C組織の将なら不適切ということもよくあります。まして、普遍的な「将の器」などは存在しません。「将の器」という概念は考える価値があまりないと私は思います。

東芝の例でいえば西室、岡村、西田、佐々木はそれぞれ長所と短所があり、土光と比べて、極端に能力が低かったわけではないと私は考えます。東芝、あるいは日本の電機メーカーが凋落したのは、中国などの新興国が台頭したことが最大の要因です。大規模な解雇か業務転換は必要不可欠だったでしょうが、大規模な解雇は日本の法律上難しく、大規模な業務転換は従業員に多大な負荷をかけ、現実的ではありません。つまり、1990年以降、誰が東芝の経営者であっても、土光が経営者であっても、遠からず経営赤字になるにことがほぼ決まっていました。

もちろん、いずれ赤字になるからといって、ウェスティングハウス原発事業)を6000億円で買収し、2011年の原発事故後も公文書偽造までして原発造設計画を変えなかったことなどについては、東芝の赤字と混迷を増しただけなので、経営責任は問われるべきとは考えます。