未来社会の道しるべ

新しい社会を切り開く視点の提供

簡単に犯人の味方になってしまった被害者側のジャーナリスト

前回の記事の続きです。

「なぜ君は絶望と闘えたのか」(門田隆将著、新潮文庫)の著者の門田は、差戻控訴審で死刑判決が出た翌日に、広島拘置所で福田に面会しています。そこでの面会の記述を引用します。

 

昨日の死刑判決についての思いをまず聞いた。

その瞬間、福田はこう口を開いた。

「胸のつかえが下りました……」

えっ? 一瞬耳を疑った。福田は私に向かって、たしかにそう言ったのである。それは憑きものが落ちたような表情だった。福田はこう続けた。

「僕は(これまで下されていた)無期懲役では軽いと思っていました。終身刑というなら、分かります。無期懲役ではあまりに軽すぎる、と」

意外な言葉だった。

「僕は生きているかぎり、償いを続けたい。僕は(殺した)2人の命を軽く思っていました。でも、今は違います」

――どう違うの?

「被害者が一人でも死刑に値すると思っています」

これは本当に福田なのか。法廷でうわべだけの反省を繰り返してきたあの福田なのか。なぜ、被害者が一人でも死刑に値するの? と私が問う。

「死んだ人間がたとえ一人でも、それは『一人だけ』ではありません。たとえば夕夏ちゃんには、お父さんとお母さんがいる。そして、それぞれにおじいちゃんとおばあちゃんがいる。僕は、それぞれの思い、それぞれの命を奪ってしまったんです。僕が奪った命は夕夏ちゃん一人ではない。多くの人の命を奪ってしまったんです」

福田はそう続けた。

「たとえば、十人の人間を殺した人がいる。二人を殺した人もいたとする。結果は同じ死刑です。では、あとの八人は何ですか。何もないのですか。僕はそうではない、と思う。一人殺しても、僕はいろんな人の命を奪ったのだから死刑に値すると思っています」

――それは君が法廷で言ってきたこと、それに弁護団の意見とは違うね。

(省略)

「弁護方針には、正直いって、よいものも悪いものもある。両方がちりばめられていると思います。結果的に僕は、僕の償いの思いが伝わらなかったのが残念です」

弁護団に対しては、少なからず不満がありそうだった。私が弁護団の責任を聞こうとしたら、福田は逆に、狼少年の話を知っていますか? と私に問うてきた。狼少年? 彼は何が言いたいのか。

「狼が来た、狼が来た、と嘘を言っていて、みんなを驚かせていた少年が、いざ本当に狼が来た時、誰にも信じてもらえず、食べられちゃう話です。僕は、その狼少年です。(差戻控訴審で荒唐無稽と断罪されたが)僕は本当のことを言いました。でも、信じてもらえませんでした。でも、これは僕の責任です」

しかし、あの荒唐無稽な話を、福田本人が本当につくりあげたのだろうか。そこを問うと、明らかに弁護団をかばう様に、彼はこう言った。

「僕は4年前、ある教誨師と出会ってから変わりました。人の命の重さを教えてもらったのです。本当にありがたかったです。その教誨師に(今回の話は弁護団に伝える前に)してありました。弁護団が作り上げたものではありません」

福田はそう語った上で、本村への謝罪を口にした。

「僕は本村さんに、本当にお詫びしたい。(死んだ)二人にも謝りたい。でも、それを本当だと受け取ってもらえない。僕には償いが第一なんです。僕は過去の過ちを何べんでも何百ぺんでもすみませんと、言いたい。それをお伝えしたいんです」

福田は、法廷でのとってつけたような態度とは別人のように必死でそう訴えるのである。

 

文庫版には2008年7月、門田と福田の2度目の面会記録もあります。その時、福田は上告した理由について、「(死刑)判決に不満はありません。検察と裁判所は事実誤認をしているので、今のままでは『堂々と』罪を償う、ということにはなりません。あの(荒唐無稽な)主張をすることに葛藤はありました。でも、そのことを(最高裁で)認めてほしいと思っています」と述べたそうです。

さらに、2010年3月の3度目の面会時、福田は「僕がお祈りする時、弥生さんと夕夏ちゃんの名前を出すことを本村さんは身勝手だと思うかもしれません。もし本村さんがそう思うなら、僕が二人の名前を出してお祈りすることはできません。もし、本村さんにお会いする機会があれば、僕が弥生さんや夕夏ちゃんの名前を口にすることを許してもらえるかどうか、聞いてもらえませんか?」と門田にお願いしたそうです。そして、「本村さんとぜひお会いしたいです。できれば、門田さんと一緒に会いたいです」とも語りました。「法廷での福田とは、やはり別人がそこにいた。会うたびに福田は、成長しているように見えた」とまで門田は福田を表現しています。

2010年7月、4回目の面会時に福田がヒゲをはやしていると、「福田君、なかなかしぶいねえ」とまで門田は思わず口にしたそうです。「日本人である前に人間である」で書いたように、いつの間にか門田は福田の友だちみたいになっています。

少なくとも、私が被害者だったら、あるいは門田のように被害者遺族の側に立っていたら、荒唐無稽な主張は事実と認めても、裁判での爆発性を目の前にした以上、面会時にいくら福田が反省の言葉を述べようと、福田を許すことはありえません。

なぜ外見から内面まで判断してしまうのか」と同じ見解を書きますが、私は外見と内面は分けて人を判断します。というより、人間であるので、分けて判断しなければならないことを知っています。過去も現在も、おそらく未来も、福田は外見なら、自分から暴力を振るえない、振るう勇気もない、気の小さいダメな奴です。福田をよく知る家族も、同級生も、福田自身も、福田が殺人事件を起こすなど予想していませんでした。しかし、内面には暴力性と爆発性と歪んだ女性観があり、それによって悲惨な光市母子殺害事件が起こってしまいます。福田が外見上、いくら反省したとしても、爆発性と暴力性が制御できる明確な根拠がなければ(そんな根拠はなかなか明確に示せないので酷な条件であることは分かっていますが)、福田を許すべきではないと私は考えます。

門田は一貫して遺族の本村洋と付き添っており、遺族側の意見を代弁し、福田の新供述を事実と最後まで頑なに認めなかった奴です。そんな奴が、こうもあっさり、新供述を認めないのに、福田の味方になったことに、憤りを感じます。福田と門田、どっちが被害者を侮辱しているのか、とさえ思います。門田のような人間観の浅い奴の意見を自身の活動記録の一部として出版を許している時点で、本村洋の処罰感情もその程度だったのか、と感じます。私が被害者なら、たとえ10年間支えてくれたとしても、この程度で福田が真に反省していると感じた時点で、門田に激怒しています。場合によっては、絶縁するでしょう。