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なぜ福田孝行は不謹慎な手紙を書いたのか

前回までの記事の続きです。

光市母子殺害事件の犯人の福田は前回の記事に書いたような不謹慎な手紙を、一審公判中の1999年11月から一審で無期懲役判決が出た後の2000年6月までに書いています。この手紙の送付相手のAは、1999年9月に山口刑務所の拘置所で福田と知り合います。Aが執行猶予の判決を得て、出所した後も文通は続きました。

Aが出所して、しばらくたった頃、Aの自宅に刑事2名が訪ねてきて、「最近どうだ」「ちゃんと仕事しているか」といった世間話をした後、本題が切り出されます。「ところでお前、福田と文通しとるのう。検察側から要望がきとる。一点の真実でいいから、判断材料がほしい。本当に公正な裁判が行われるために、出してくれ」

「福田君を殺して何になる」(増田美智子著、インシデンツ)の著者の増田にAはこう言ったそうです。

「刑事たちは『犯人を死刑にするために』なんて言いません。僕は子どもの頃から警察と折衝してきましたから、警察のもの言いはだいたい分かっています。『建前だな』と思いました。刑事たちは福田くんからの手紙を絶対に持って帰るという感じでした。僕は当時、執行猶予中で、断ればどんな微罪をふっかけられて逮捕されるか分からない。逮捕されれば執行猶予は取り消され、刑務所送りです。断れませんでした」

Aはこうして福田の手紙を提出したものの、それが福田にとって不利な証拠になると予想していなかったと増田に語ったそうです。「(公正な裁判のためは)建前と思いました」という上の発言と、合致しません。

手紙については警察にもマスコミにも見せないと福田と固く約束していたにもかかわらず、Aは警察だけでなく週刊新潮にも福田の手紙を渡してしまいます。Aはそれについて増田に「あんなふうに極端な記述だけ抜き出して報道されるとは考えていませんでした。すごく後悔しています」と述べています。週刊新潮に福田の手紙を売った理由は、その当時、Aは一番の親友を交通事故で亡くして、「なんの罪もないオレの親友が死んで、2人も殺している福田はなぜ生きているのか」と考えたからだそうです。これも上記の「不利な証拠になると予想していなかった」との発言と矛盾します。蛇足ですが、子どもの頃から警察の世話になっていたAの親友が「なんの罪もない」はずがない、と私は推測します。

一方で、2000年12月14日号の週刊新潮でAは「私は出所後、(遺族の)本村さんが出した『天国からのラブレター』という本を読み、強く心を動かされました。無機質な新聞報道では分からない被害者の姿を初めて知ったんです。本の最後で弥生さんの育児日記が未完で終わっているのはあまりに悲しすぎる。私は、彼(福田のこと)にとって有利か不利かではなく、彼の真実の姿を知ることが裁判で必要ではないか、と思って手紙の公開を決意したんです。私が彼の友人として望むことは、ただ一つ。彼に公正な裁判を受けてもらいたかったんです」「彼は拘置所に入ったことを後悔しているが、事件のことは反省していません。そもそも反省という概念が頭にないのかもしれません。彼にとって、あの事件はあくまでいくつかの偶然が重なった結果にすぎず、『運が悪かった』という他ないのでしょう」と言っていることになっています。週刊新潮でのAの発言は、9割以上、ライターの作文でしょう。

2008年の差戻控訴審で死刑判決が出た時、Aは「すごくショック」を受けて、すぐに提出した手紙の返却を求めて、最高裁に押収物の仮返還請求を行ったが、最高裁には却下されているそうです。

Aは増田にこう述べています。

「犯罪者同士なら、自分を大きく見せるためにワルぶって話すこともあります。それを『反省していない』と糾弾するのは、本当にひどい目に遭ったことがない人だからだと思います」

「本当にひどい目に遭ったことがない人」は「拘置所に入ったことがない人」に置き換えるべきだと私は思います。それはともかく、福田の手紙が「相手から来た手紙に触発されて不謹慎な表現がとられている面もある」という判断は、二審でもされています。

「なぜ君は絶望と闘えたのか」(門田隆将著、新潮文庫)では、この露悪的な手紙を「偽りのない福田のありのままの心情」と書いており、多くの大衆は今でもこの手紙こそ福田の「本音」だと考えているでしょう。それについてここで議論しませんが、福田はAへの手紙で「オレは他人に牙をむけたおろかな鬼であり、悪魔である」「今では自分の両手が憎いよ」と福田なりの反省の言葉を書いていたのも事実です。

また、そもそも福田とAの手紙の内容のほとんどは「テレビゲームの話題や拘置生活の苦痛、家族のことや下ネタなど、他愛もない話題」でした。次のように、福田が虚勢を張っているだけの内容もありました。

「俺はよくケンカして逃げもしたし、ボコリもした。Aもそういったぐあいだろー。シンナーにせっとう、むめんに、ケンカ、ゆすり、いっぱいある」

福田の同級生からの情報だと、福田は地元のヤンキーにからまれることはあっても、進んで暴力を振るう勇気はなかったそうです。この手紙を受け取ったAも虚勢であることを見抜いて、こう言っています。

「福田くんは本当に幼い。手紙のなかでは『ワルだった』みたいに書いていましたが、それはないと感じていました。ケンカもかっぱらいもしたことはないと思います。ヤンキーの世界は上下関係がすごく厳しいものなのに、福田くんは年上の僕に対して最初からタメだったし、本当にワルで計算ずくなら、被害弁償や謝罪の手紙が量刑を左右することも知っています。でも福田くんは、遺族に謝罪の手紙を書かなかった」

Aが福田に送っていた手紙の内容は、出所後に出会った女性への恋心や、自家小説などでした。しかし、2人の手紙のやりとりが途絶える少し前、つまりAが福田の手紙を検事に渡すと約束した時から、事件について極端な記述が増え始めます。たとえば、一審の無期懲役判決を不服として、検事が控訴した後のAの手紙です。

「クソ検事! 控訴する意味が分かってんのか! もしかすると人が三人も死ぬかもしれんのだぞ! 国が人を殺すのは殺人となんら変わりはない。ただの合法的殺人だ! オイコラ! クサレ看守ども、この世間知らずの分際で偉そうにしてんじゃねえ! タカ(福田のこと)になんかしやがったら、お前の顔でオナニーしてやる!

クサレ被害者は、お前に死んでほしいらしい。TVで涙を流しながら熱く語っていた。いまだ人が死ぬ事がどういうことか分かってないらしい。アホだ。アホの極地だ」

「オレが思うに、オマエは始めから殺そうと思って人を殺したわけじゃない。オメコしたのは最悪だが、第一回の女殺しはイケないとしても第二回目の赤ちゃん殺しに罪はない。そりゃ1回人殺せば、ついでに他の人も殺したくなるわ。それを残虐非道と言うのがおかしい」

もしあなたがこんな手紙に返信を書いたとしたら、福田の不謹慎な手紙のようになってしまいませんか。

2000年5月にAはこんな手紙も送っています。

「オレは殺人、異常性欲、自殺小説ばかり書いているヘンタイだが、ぜひとも生の声で殺人の体験を聞きたい。障害に関しては本当なら前科十犯ぐらいあるオレだが、人なんか殺したことねえ、ちんけな犯罪者だ。ぜひともタカの体験が聞きたい」

この手紙が露悪的な返信を挑発していないと判断する人がいたら、日本語を一から勉強し直すべきです。

福田とAの手紙を全て読んだ増田は、当然、「福田から不利になる言質をとるために煽りたて、返ってきた手紙を嬉々として検察に提出していた」疑いをAに向けました。Aは「確かに検察に手紙を提出しはじめたあとで、福田くんへの手紙のなかで本村洋さんの批判を書くようになりました。福田くんが本村さんのことを悪く書いたりしないだろうと思ったからで、決して煽りたてたつもりはありません。僕が手紙に書く内容を、警察や検察に指示されたわけでもありません」と言ったそうです。

100人いたら100人、こんな言葉は信じられないでしょう。増田も納得できなかったので、改めて手紙でAに質しました。

「正直に言うと、そんなふうに友人を試すようなことをするものだろうかと、どうしても解せません。福田くんは今でもかなり他人の影響を受けやすい性格だと思われますから、当時は今以上に他人に媚びるところがあったのではないでしょうか。そんな彼に本村さんへの批判を書けば、それに呼応する返事が返ってくるだろうと予測がつきそうな気がします。検察に『こう書け』と言われて手紙を書いたことはないとのことですが、Aさんが無意識のうちに検察が求めているような手紙を書いてしまったということはありませんか? 何度も同じ検察官に会うわけですから、親近感もわいてくるでしょうし、検察官の言外の意図をくみ取るということもありそうに思うのですが、いかがでしょうか?」

この手紙を読んだAは怒り心頭に達します。Aの父から電話で次のように警告されました。

「そうとうカチンときたみたいで、今日も一緒に外に出たら橋の欄干をすごい剣幕で蹴ってるんです。今後は一切接触しないでください。息子は障害(高次脳機能障害)を負ってから、気持ちを抑えることが難しくなってしまった。私が心配するのは、増田さんが息子にボコボコにされることです」

Aが怒ったのは、増田の指摘が図星だったからなのかもしれませんが、真相は分かりません。どちらにせよ、この程度の手紙で理性を失って増田をボコボコにしたくなる時点で、Aは障害を負う前から、気持ちを抑えるのが難しかったと私は推測します。また、あんな非人道的な手紙を送っていることからも、福田だけでなくAも罰せられるべきだと私は考えます。私に言わせれば、福田よりもAこそ極刑がふさわしいです。

話はさらに逸れますが、収監者同士の私語は禁止されているものの、実際は刑務官の目を盗んで会話ができており、だからこそ、福田とAは知り合いとなっています。さらには、このように収監者同士が、収監中に手紙のやりとりまでしています。ワル同士が交流しても、よりワルになるだけでしょうから、こんな交流は一切禁止すべきでしょう。

話を戻します。「なぜ君は絶望と闘えたのか」にも、福田の不謹慎な手紙は「凄まじい検事の執念」によって裁判に出てきたと書かれています。この本によると、福田の不謹慎な手紙の内容は本村にとって驚くほどのものではなかったそうです。むしろ、「実際にそんな手紙が存在し、法廷に証拠として出てきたことが驚きだった」と書かれています。単なる言葉の綾かもしれませんが、「法廷に証拠として出てきた」ことだけでなく、「実際にそんな手紙が存在」したことまで、驚いたのでしょうか。もしそうなら、検事の執念によって、福田の不謹慎な手紙が「存在」してくれた、つまり、やはり検事は福田に不謹慎な手紙を書かせるようにAに示唆したということでしょうか。

仮にそうでなかったとしても、Aが検察と接触してから、Aが遺族の本村を批判し始めたのは事実であり、その露悪的な手紙に呼応して、福田が不謹慎な手紙を書いたのも事実です。この流れを考えれば、検察による証拠捏造の疑いを持たれても仕方ありません。まして、この不謹慎な手紙が「死刑にするほど福田の極悪性を示す」と断定するには、飛躍があります。だからこそ、この手紙の評価について徹底して議論した二審でも、「相手から来た手紙に触発されて不謹慎な表現がとられている面もある。公判で被告の供述や態度を合わせて考えると、時折は悔悟の気持ちを抱いていると認められる」として、無期懲役になったのでしょう。

にもかかわらず、3年後、最高裁は、無期懲役を覆して、死刑が妥当と判断します。前回の記事に書いた通り、その3年間、福田への厳罰を求める声は高まる一方で、その世論が福田の死刑を事実上決めています。その世論が形成された理由は、遺族の本村の地道な活動と、福田の手紙のごく一部の「不謹慎な表現」に対する強い反感です。その世論を形成した大多数の一般人は、福田の不謹慎な表現がAの挑発的な手紙によって書かれたことを知りませんし、Aが検察に接触してから挑発的な手紙を書くようになったなど、夢にも思っていません。

この一連の記事の冒頭「光市母子殺害事件での罵倒報道批判」にも書いたように、私は福田を(死刑はともかく)極刑にすることに賛成します。ただし、表層的な世論によって死刑になってしまったこの裁判は大反対です。もちろん裁判では「世論によって」無期懲役から死刑になったと言っていませんし、言うはずもありません。最高裁が示した理由は「犯罪の(強姦の)計画性があったこと」と「反省が十分でないこと」です。しかし、「光市母子殺害事件の一審・二審の弁護人の罪」に示したように、強姦の計画性があったと考えるには無理があります。そうだとしたなら、「反省が十分でないこと」が唯一の理由になりますが、一審・二審の頃と比べて、特に2004年にキリスト教教誨師と交流するようになってから、福田が反省を深めていたことは、ほぼ全員が認めています。一審・二審の頃より反省を深めていたのに、「反省が十分でない」として一審・二審の判決を覆すのは、理屈に合っていません。やはり、どう考えても、表層的な世論によって、福田を死刑にしています。

これでは衆愚裁判です。この後、一般人が陪審員として重大刑事事件に加わり、結果として重罰化が促進されましたが、当然でしょう。

次の記事で、福田の人物像について論じます。