未来社会の道しるべ

新しい社会を切り開く視点の提供

なぜ福田孝行は「なめないでいただきたい」と言ったのか

前回までの記事の続きです。

光市母子殺害事件裁判での犯人の激怒」での2007年9月20日の裁判は、もともと被害者遺族の意見陳述だけの予定でした。福田の反省の意思を示したい弁護団の要請により、被告人質問も付け加わりました。しかし、福田は検察官の「デタラメな追及(下記の増田の表現)」に激昂してしまいます。これについて、遺族の本村洋は「彼に対して温かい言葉をかける弁護団に対しては真摯に対応しますが、検察官や裁判官の尋問に対しては敵意や不快感をあらわにしますし、とても心から改心している人間とは思えません」と述べ、すぐに大きく報道され、世間の福田の悪印象を増幅させています。私もこの本村の言葉に同意します。

一方で、この激昂を「(福田が)意地と怒りを表明したのは当然だ」とまで擁護しているのが、「福田君を殺して何になる」(増田美智子著、インシデンツ)の著者の増田です。

確かに、福田が検察に恨みを抱く正当性はいくつも存在します。福田が死刑になる最大の契機を作ったのは、福田の不謹慎な手紙ですが、「なぜ福田孝行は不謹慎な手紙を書いたのか」に示したように、この手紙は検察の策謀によって作り上げられた疑いが濃厚です。

A(不謹慎な手紙の送付相手)は福田の死刑にショックを受けて、週刊新潮に不謹慎な手紙を売ったこともすごく後悔していたようです。増田が福田の面会時にAの後悔を伝えると、福田は次のように増田に言ったそうです。

「彼に『そんなに気にすることはないよ』って伝えてほしいです。もともと彼に悪気があってやったこととは思っていないから。あの手紙が出たことで、かえって僕のことを分かってもらえる機会ができたという方が大きい。あれだけバッシングを受けたから、今ここまで成長できました。手紙はバッシングされてもしょうがないものだったし」

不謹慎な手紙はAの挑発に答えて書いてしまったものだと弁護側は裁判で主張しているものの、福田自身はAに恨みを持っておらず、手紙がマスコミに流れたことでさえ、恨んでいないようです。その分、検察へ恨みを集中しているのかもしれません。

「なぜ僕は『悪魔』と呼ばれた少年を助けようとしたのか」(今枝仁著、扶桑社)によると、自分の認識と異なる内容の自白調書が作成された理由として、検察官に「このままいい加減なことを供述していたら、君に死刑を求刑することになる。君を死なせたくない。生きて償いなさい」と言われ、福田が泣き崩れたからのようです。この「生きて償いなさい」は検察官作成の自白調書にも残っているようで、裁判の判決文にも取り上げられています。しかし、毎度のことですが、検察官はその発言を無視し、臆面もなく第一審から死刑を求刑します。増田の本によると、「生きて償いなさい」と言った吉池検事は一審の裁判で「福田は泣いたことはなかった。後悔している様子もなかった」と「嘘」を述べたそうです。

増田の本には、吉池検事に取材した様子が書かれています。

 

――弁護側は「生きて償いなさい」と検事さんに言われたと主張をしていますよね。

「そうですかね。その後の公判は担当してないんで、よく分かりませんけども」

――それで、「生きて償いなさい」と吉池さんに言われたのに、公判では死刑を求刑されたというふうに言ってるんですけど、それってどういうことなのか、ちょっとうかがいたいと思いまして。

「あの、どちらの記者さんですか」

――私、フリーなんですが。

「そうですか。すいません。申し訳ないんですけども、捜査の中身のことについては、ちょっとお話しできないんですけども」

――そうなんですか。「生きて償いなさい」って言ったかどうかっていうのは。

「それも含めて。というか、私もはっきり当時のことを覚えてない部分もありますけど。もう10年前ですので。いずれにしても、ちょっとお答えいたしかねますけども」

 

殺人権を行使する人物の言葉とは、とても思えません。あまりに軽い発言です。不誠実なのはどっちだ、と私は思えます。

ここで「殺人権」という強い言葉は、意図して使っています。門田の本によると、一審の無期懲役の判決後、吉池検事が「たとえ上司が反対しても私は控訴する。百回負けても百一回目をやります」と涙を浮かべながら言って、遺族の方が圧倒されたそうです。その理由は「僕にも、小さな娘がいます」だから、私憤です。しかも、そこまで吉池の感情をたかぶらせた契機は、本村の「早く被告を社会に出してほしい。私がこの手で殺します」という報復殺人宣言です。検察官がこの発言者の本村をたしなめるのではなく、同調して懲罰感情をたぎらせるなど、職業倫理上、許されないはずです。まるでミュンヘン一揆の裁判でヒトラーの自己陶酔的な演説に感動してしまった裁判官のようです。そして、この「凄まじい検察の執念」により、福田の不謹慎な手紙が世に出て、最終的に福田の死刑まで決まっていきます。

そこまで感情がたかぶっていたくせに、8年後には「そうですかね。その後の公判は担当していないんで、よく分かりませんけども」はないでしょう。これも職業倫理、あるいは人類普遍の倫理すら疑われる発言です。福田の極刑に賛成の私でも、こんな奴の策謀によって世に出た手紙で、死刑が決まっていいとは思えません。

増田が福田の激昂を妥当だと主張する理由も、この検察の不正義にあります。これまで人道的に許されない嘘をついて自分を死刑にさせた検察が、またも裁判で嘘をついたのだから、「なめないでいただきたい」と言うのは、当然だという理屈です。

これは十分正当性のある理屈だと私も考えます。白状すれば、福田の立場にいたら、私もこのような検察の侮辱に激昂してしまう恐れはあると思ってしまいます。

ただし、たかがノートに線を引いたかどうかで激昂するとも限らない、とも思います。むしろ、検察が怒鳴ったのを奇貨として「ほら、このように検察は脅迫してきたのです。しかし、実際は検察の勘違いです。私のノートを見てくれますか?」と私が言う可能性もあったと考えます。

やはり公平に考えれば、裁判で激昂した時点で、福田の負けでしょう。福田の暴力性と爆発性がこれにより証明されてしまいました。福田の周囲に知られた性格は臆病者で、自分から暴力は振るわず、まして殺人をするなど考えられないものでした。今回の事件は単に魔が差しただけで、二度とこんな事件を起こすことはない、と主張することもできました。家族も同級生の意見もそれで一致し、福田の暴力性が犯罪時だけであったら、その主張こそ妥当性を持ったのでしょう。しかし、実際には動物虐待歴があり、さらには裁判でも激昂しています。福田の暴力性の爆発は、今後もときどきあるとみなされても仕方ありません。

増田は「それ(裁判での激昂)と反省の深さは別問題である」と主張していますが、暴力性と爆発性こそがこの犯罪の要因であることから、同一問題だと私は考えます。もし別問題であると示すなら、「あの時、私が激昂したのは、これまでの検察官の不正義に対する義憤が積み重なっていたからです。検察官以外に私(福田)が激昂しないことをここで約束します」くらいは、弁護人の言葉でもいいので、裁判で主張すべきでした。

より深く考察すれば、福田が犯罪に至った本質的問題を周囲の者も本人も把握できていなかったからこそ、この裁判での福田の激昂事件が起きたのでしょう。率直に言って、福田の欠点は山のようにあります。だから、漠然と「反省しろ」と福田に言っても、なにを反省すればいいのか、なにを直すべきなのか、福田には伝わりません。次は増田の本からの引用です。

 

マスコミも世論も、福田に「真の反省」を求める。しかし、「真の反省」とはいったい何なのか。福田くんに、人間的な感情を持つことを許さず、ひたすら謝罪の言葉を述べさせることだとしたら、それはだいぶ違うと思う。

 

この文の前に、福田の次のような手紙が紹介されています。

 

ああ、かたっくるしいはなしより、死ぬ前にいっぱい恋がしたかった。好きな女の子に告白したかった。「お前のことがラブリーやねん」って言いたかった。とほほ。こんなことも表むき言えないのかなー、とか思うとせつないっス。

 

この手紙を見て、上記のような感想を持ったとしたら、増田の人間観の浅さに失望します。上記の福田の言葉は当然、「表向きに言え」ません。というより、こんな言葉が頭に浮かぶ時点で、普通なら、福田の反省の浅さに失望するでしょう。せめて表現を変えるべきです。「私にこんなことを発言する正当性が全くないことを承知で言わせてください。死ぬ前に恋がしたかった!」なら、まだ許されるかもしれませんが、上記の言葉なら「真の反省」を求められて、当然です。

福田の強姦殺人罪を犯したのですから、犯罪要因に、暴力性と爆発性があるのは確実であり、他に歪んだ女性観があることも確実です。それらの要因の背景に幼稚性もあり、上記の手紙から福田は幼稚性も矯正できていないと判断されます。これらの暴力性と女性観を直すべきだと気づいた人は、福田の周囲に一人もいなかったのでしょう。

福田の暴力性を示す決定的なエピソードである動物虐待について、誰かが問題の本質に気づき、福田を真摯に反省させるべきでしたし、爆発性についても、事件直後から真摯に反省させるべきでした。たとえ、どんなに検察が挑発しても、感情的に怒鳴り返してはいけない、それは量刑の軽減のためだけではなく、自身の更生のために重要だ、と何回も忠告しておくべきでした。

LGBTはよくてロリコンはダメな理由が分からない」に書いたように、愛情あるいは性欲であっても、矯正しなければならない時はあります。まして、福田は強姦殺人事件を犯しているのです。福田の女性観が歪んでいることは明らかなのですから、それを矯正すべきことは本来、誰でも分かるはずです。福田の「人間的な感情」の全てが許さないわけではありませんが、福田の異性に対する感情は社会的に許されない部分ばかりであり、福田が書いた増田ら女性記者への手紙は、当然、許されません。

この福田の暴力性と歪んだ女性観については、さらに次の記事で考察します。