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医師は法律より正しくあるべき

この記事は私の尊敬する医師の話です。

私が尊敬する医師はほぼ全員、総合診療医です。残念ながら、尊敬する精神科医に会ったことは一度もありません。強いていえば、会ってはいませんが、バザーリアは尊敬しています。

私は医学部時代にプライマリケア連合学会の学生代表を務めたほど、総合診療にのめりこんでいました。その学会を通じて「赤ひげ」「ドクターコトー」「歩く『医は仁術』」などの異名を持つ日本中の素晴らしい医師に100名ほど出会っています。大変貴重な経験で、現在の私の医師としての土台になっています。

今回、紹介する医師は総合診療医ではなく、医系技官です。

医系技官とは厚労省に所属する国家公務員で、医師資格を持つものの、患者の治療は一切していません。医学の専門知識を活かしながら、医療行政に貢献する職業です。

医系技官なので、医師と呼べるかどうかは微妙ではありますが、私が今も尊敬しているのは事実です。

名古屋大学医学部の天使」に書いたように、私は医学生時代に「意識高い系」だったので、「医系技官を知ってもらうための勉強合宿」にも2014年7月19日と20日に参加しました。

東京代々木のオリンピック青少年センターで医系技官たちが主催し、医学生や医師たちが医療行政についてグループワークを中心に勉強します。医系技官の勧誘も兼ねているので、私には今でも「医系技官に応募しませんか?」という勧誘メールが届き続けています。

「小医は病を治す、中医は人を治す、大医は社会を治す」を常に忘れない私にとって、医系技官は魅力ある仕事なのですが、医系技官は一般の医師より給与が低いこともあるので、私が医系技官になる可能性はほぼゼロです。

私が尊敬する医系技官は、その勉強合宿で会った方ではなく、精神科指定医の勉強会で遭遇した方です。精神科指定医は、強制入院をさせるために必要な資格で、学会が管理する専門医と異なり、厚労省が管理する公的資格です。その指定医を取得するためには、2泊3日の厚労省主催の勉強会に参加しなければなりません。

現在の私は指定医を取得していることから、その勉強会には参加しているわけですが、はっきり言って、税金のムダな勉強会です。

指定医を取得しようとする精神科医は、私を含めたほぼ全員、同時期に専門医の取得も目指しています。精神科専門医は、選択式の筆記試験もあります。その筆記試験合格のために十分に取得した専門知識とほぼ同じ内容を、再度、厚労省のキャリア官僚や、大学や公的研究機関の学者たちから3日もかけて、朝から夕方まで講義を聞くのです。

(そんなこと、もう知っているよ。自分の中で常識になっているから)

私もそう思いながら、日本によくある「誰もが不要と思いながら誰もなくせていない儀式」につきあっていました。

その指定医勉強会の1日目か2日目の終わり、この記事の主役である医系技官が事務連絡のために話し出しました。

講演者は1時間から2時間ほどかけて話していましたが、医系技官は事務連絡に過ぎないので、話していた時間は10分もなかったはずです。

その医系技官は、さすが患者診察もしない医師というか、3日間の勉強会で話した人の中で、群を抜いて話し方が下手でした。

はっきり言って、他の講演者も話し方が上手い人なんて、一人もいませんでした。医者だけに分かる例えになりますが、冗談の一つも言えないクソ真面目な基礎医学の教授の講義みたいなものでした。

3日間で立ち代わり聴者を眠りに誘い込み続けた講演者たちと比べても、その医系技官の話し方はひどいものでした。あまりに下手だったので、別の意味で聴者の注意を引くことには成功していました。

その医系技官は外見も変でした。医系技官は初期研修後になれるので、最年少でも26才のはずですが、まるで高校生みたいに幼く見えました。女性でスカートをはいているものの、服装も眼鏡も髪型も、ダサいの一言です。

もともとあがり症なのか、声もうわずっており、どもりもありました。この医系技官に精神科受診を勧めたくなった聴者は一人や二人でなかったはずです。この女性は医系技官になりたくてなったというより、なるしかなかった人だったと今でも私は思っています。東大医学部卒で、研究医に進めるほどの学力もなく、クラブ活動などで知り合った他学部の学生の影響で、厚労省医系技官になった、と勝手に私は推測しています。

そんな医系技官なので、彼女のことを心配気味に私は話を聞いていると、彼女が事務連絡とは別に、こんな話を始めました。

覚せい剤使用した人を見つけても、法律上、医師は通報してはいけません。しかし、その法律を無視して、医師が覚せい剤違反者を警察に通報したことはこれまで何度もあります。そこで、通報された人が法律をもとに医師を訴えたこともあるのですが、最高裁でしりぞけられました。つまり、医師の自由裁量がその法律より優先されたのです。

同じような例として、麻薬取締法があります。麻薬取締法違反者を発見すれば、覚せい剤とは逆で、医師は通報しないといけません。しかし、実際の医療現場では、通報しない医師がほとんどです(その通りで、私も一度も通報したことがありません)。通報しなかったことで、捕まった医師はこれまで一人もいません。つまり、麻薬取締法の医師通報義務は空文化しているのです」

例によって、これも釈迦に説法です。私同様、ほとんどの聴者は聞き流していたはずです。それにしても、事務連絡係にすぎない医系技官が、なぜこんな話をしたのでしょうか。その理由は、彼女の口からすぐに語られました。

「みなさんは、なぜこんな法律上の運用がなされているか、考えたことはありますか。医師であるなら、法律よりも正しい価値判断をしてくれると社会が認めているからです。医師免許にはそれほどの社会的価値と責任があるんです。おそらく私はこれから一生、患者さんを診察することもないでしょうが、医師免許を持っている限り、その責任を忘れないつもりです。これから医師免許よりも、さらに強い人権侵害になりうる指定医の取得を目指すみなさんなら、なおさら忘れてはいけないはずです。それを伝えたかったので、特別にお話をさせていただきました」

話し終わった後も、私は彼女を瞠目して見続けてしまいました。この発言を聞いた私以外の精神科医の感想はどうだったのでしょうか。

恥ずかしながら「なぜ覚せい剤取締法や麻薬取締法の医師通報の件が空文化しているか」など、私は一度も考えたことがありませんでした。専門医試験に合格するためには、理由はともかく「そうなっている事実」を知っていれば十分だったからです。実際、どの専門書にも、その理由までは書かれていなかったように思います。

しかし、よく考えてみれば、その医系技官の言う通りでした。その解釈に彼女が自分で気づいたのか、どこかの判決文に書いてあったのかは知りません。ただし、彼女が緊張して声がうわずってでも、あの場で言ったということは、指定医取得を目指す精神科医の多くは「法律以上に医師判断が優先される理由」を知らない、と彼女は把握していたはずです。

 

素晴らしい医系技官です!

尊敬すべき、尊敬しなければならない医系技官です!

 

よく考えてみれば、その医系技官が「みなさん」と呼びかけた精神科医たちは、全員、彼女より年上だったはずです。医師の世界で、長幼の序は極めて強いのですが、彼女はそんなくだらない価値観にとらわれない正義感を持っていたに違いありません。

私も同じです!

私より年下だろうが、見た目がダサかろうが、話し方が下手だろうが、患者を診ていなかろうが、こんな高い道徳観の前では、全て些細な問題です。

そんな問題を全て無視して、私はその医系技官を尊敬する、と断言できます。

その後の私の人生で、この医系技官と会ったことも、話を聞いたことも一切ありません。そもそも私は名前すら憶えていません。だから、私の人生で、わずか10分しか接触がなかったのですが、それでも私の医師人生が続く限り、彼女の崇高な教えを忘れることはないでしょう。

上記の通り、私には他に尊敬する医師が何名もいるのですが、わずか10分で私の尊敬の念を勝ち得た医師は、この医系技官だけです。もしなんらかの機会に、この医系技官に会った方がいたら、「愛知県にいる一人の精神科医がキミを尊敬しているって」と伝えてもらえると助かります。