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日本が負けるに違いない太平洋戦争を始めた本質的理由、あるいは日本が第二次大戦で負けた本質的原因

ポツダム宣言受託で日本が無条件降伏した時、中国に105万の支那派遣軍関東軍を除く中国派遣軍)がいました。一部の例外を除けば、日中戦争で日本は楽勝だったので、終戦時点でも、支那派遣軍のほとんどの兵士は「日本が勝っている」と信じて疑っていません。

だから、「無条件降伏」という噂が流れた時、やっと蒋介石が無条件降伏した、と喜んだ兵士が少なからずいたそうです。しかし、時間がたつうちに「無条件降伏したのは日本らしい」と分かり、事情がよく呑み込めなかったと言われています。大本営発表でしか全体の戦況を知らされていなかった末端の兵隊たちだったので、この反応はご愛敬とも考えられます。

しかし、支那派遣軍総司令官の奥村寧次までが日本降伏の知らせを受けても、「屈辱的平和は……断じて承服できない。支那派遣軍100万の精鋭健在のまま敗戦の重慶軍(中国軍のこと)に無条件降伏するが如きは、いかなる場合にも絶対承服できない」と東京に電報を打ったのは、どう考えればいいでしょうか。日中戦争をもてあまし、米英との新しい戦争で決着をつけようとして太平洋戦争を始めた時点で、日中戦争の帰結は米英両国との戦争の勝敗に左右されるという大戦略の基本を、支那派遣軍の総司令官が忘れていたのです。

もしかして、支那派遣軍汪兆銘政権(日本が南京につくった傀儡政権)が中国で自活できる可能性が少しでもあると考えていたのでしょうか。もし「その可能性はゼロでない」と思っていたら、それこそ狂気です。

とはいえ、関東軍の中にも、「日本政府が万一降伏したとしても、満州国で自活する」と本気で考えていた日本軍人がいたようです。もちろん、ポツダム宣言受諾数日前にソ連軍の猛攻を受けてから、そんなことが可能だと考える人は満州に皆無になりました。

満州事変やそれにつづく北支工作、そして日中戦争の全過程を通じて、世界情勢下での自国の状況について日本は全く把握できていませんでした。支那派遣軍のトンチンカンぶりも最期を飾るのにふさわしかったのかもしれません。

第一次大戦後のヨーロッパにおける民族自決の潮流は、日本をふくむ帝国主義国家に蚕食されていた中国や、数百年前から欧米諸国によって植民地とされていたアジア各地にも、まんべんなく浸透しつつありました。たんに軍事力に秀でているからといって、適当な理由をでっち上げて他国を侵略し、自国のために他国を利用する時代は、完全に過ぎ去っていました。それが日露戦争までと決定的に異なる国際環境でした。

世界各地の植民地でも、エリート層からつぎつぎに民族独立の要求をつきつけられたので、欧米諸国は一歩ずつ譲歩していました。アジアのフィリピンでも、インドでも、インドネシアでも。だからこそ、日露戦争の時は、日本の朝鮮支配とアメリカのフィリピン支配を相互に認め合うとした「桂タフト協定」に同意したアメリカも、ワシントン会議で中国主権の尊重をおりこんだ9ヶ国条約を結んで日本を牽制したのです。

日露戦争から満州事変までは26年です。その間、中国や植民地側の人たちの自由や平等意識は明らかに向上していました。もはや帝国主義政策はとるべきでないことを欧米諸国は肝に銘じていました。しかし、日本はそういった世界の思想潮流に全く気づいていませんでした。

本来であれば、1915年の「対華二十一ヶ条の要求」を発した際の欧米諸国からの強い反発、なによりも中国自身がそれをむりやり認めさせられた日を「国恥記念日」として記憶しようとしたことから、日本は世界の思想の変化に気づき始めるべきでした。日本が当事者である1919年の韓国での三一独立運動、中国での五四運動などから、普通であれば、韓国人や中国人の自由や平等意識の向上に日本は気づくはずでした。あるいは、理想主義的な国際連盟規約に多くの国が賛同した時、1922年にワシントン海軍軍縮条約が結ばれた時、上記のように欧米諸国が植民地政策を少しずつ放棄している時、中国人や韓国人の自由や平等意識が向上している時に、日本は世界の思想潮流に気づかなければなりませんでした。しかし、いまだ欧米諸国が広大な植民地を持っている事実の方に日本は注目してしまい、帝国主義政策が絶対に許されない時代になっていることに、上から下までのほぼ全ての日本人が気づいていませんでした。

満州事変から太平洋戦争開始までの10年間、政策を大転換する機会は何度もありました。しかし、政治家や軍人の上層部は「このままでは日本が滅んでしまうかもしれない」と考えていながら、上記のような国際感覚だったので、政策を大転換することはできませんでした。もちろん、大転換すれば、日本は多くの領土を手放さなければならなかったでしょう。中国や満州は言うに及ばず、韓国や台湾もいずれ独立させなければならなかったはずです。つまりは、戦争してもしなくても、今とほぼ変わらない領土になっていたに違いありません。だから、いかに国民を納得させて、領土をうまく縮小させるかに、政府や軍部の役割があったのです。しかし、結局、誰もそれに気づかないまま、日本は負けるに違いない戦争に訴えました。

戦場の将兵は、ひたすら国家の正義を信じて戦い、将兵を送り出した家族・学校・職場・地域も日本の正義を信じて支えました。しかし、その正義がかなりゆがんだ正義であった、と日本人が悟るには「降伏という衝撃」と「戦前や戦中に隠されていた事実を直視すること」と「自由と平等意識の向上」と「世界全体の中で日本を客観視すること」が必要でした。この中でも「自由と平等意識の向上」が十分にできていない日本人にとっては、第二次大戦中の日本人が信じた正義を、今でも擁護すべきと考えてしまうのではないでしょうか。また、「世界全体の中で日本を客観視すること」ができていない日本人が多いのなら、日本は第二次大戦と同様の失敗を繰り返すことになるかもしれません。

 

※注:この記事の多くは、別の著者の記事からの引用です。昔、私はその記事を読んで、「第二次大戦で日本が負けた理由について、これほど本質を突いている意見は知らない」と思いました。それから約20年たっても、その考えはほとんど変わらなかったので、その記事を使わせていただきました。

コロナを制圧するためにも、全国民の位置情報をネット公開すべきである

私のように、新型コロナを2類感染症から5類感染症に変えて、インフルエンザ同等に対応するのが一番だと考えている日本人は、ごく少数でしょう。一方で、中国や台湾やシンガポールのように、徹底した隔離・規制によって、新型コロナをゼロにすべき、と考えている日本人も、ごく少数なのでしょう。「全く規制なし」も嫌で、「短期間の徹底した規制」も嫌で、「長期間の緩やかな規制」が日本人にとって、最も受け入れやすいのかもしれません。

本日の朝日新聞の「耕論」の「生存か自由か 選べぬ日本」の記事は、現状のコロナ対策の本質を突いた意見だったと思います。コロナ禍に対してアジア各国は生存を優先し、プライヴァシーも人権も抑圧して、欧米と比べると、コロナをうまく制圧しています。一方、欧米各国は自由を優先し、新型コロナの死者を続出させています。日本はそれらの中間をとっています。

なお、私は「無規制」を主張しているので、欧米各国よりも自由を優先しています。より正確には、コロナ禍で亡くなる人はほとんど高齢者なので、これまでの生活様式を規制するほどではない、と考えています。

それにしても、コロナで振り回される毎日が1年以上続いていると、私も含めて、多くの方がコロナ疲れをしていることでしょう。いまだに「コロナを減らすために、接触歴のない無症状の人にもPCR検査すべきだ」と言っている人がいると知って、「福島産の米が全例放射線モニタリング検査して、世界で最も厳しい基準を通っているのに、福島産米を捨てて、より危険な産地の米を食っている」人がいると知った時と、似たようなショックを受けています。なぜ科学的に正しい情報が広まらないのでしょうか。

本日の朝日新聞の「耕論」は日本の公的新型コロナウイルス接触確認アプリ(COCOA)の通知漏れ事件を踏まえての記事です。COCOAはただでさえ利用者が20%程度と少ないのに、見事に致命的な不具合を起こしてくれて、IT後進国ニッポンの面目躍如といったところでしょうか。

上の記事では「生存か自由か」と対立させていますが、アジア各国、特に中国や台湾でコロナを制圧できたのは、自由を制限しただけではありません。あまり注目されていませんが、携帯電話のGPS機能を使って感染者の移動範囲を徹底して特定したことも、自由の制限と同等か、それ以上にコロナ制圧に重要でした。記事によると、現在、中国ではスマホに「健康コード」というアプリをダウンロードしていないと、電車にも乗れないそうです。個人の位置情報の活用なしで、コロナを制圧できた国などありません。また、コロナ制圧に向けて、自由の制限を最小限にするためにも、IT機器の活用は不可欠です。

日本が世界最高のAI国家になる方法」に書いた通り、私は5年ほど前から、日本人全員の位置情報をネットで公開し、日本人全員の金銭情報をネットで公開すれば、日本が世界最高のIT先進国になるだけでなく、日本人全体の幸福にも繋がると確信しています。

コロナを制圧するためにも、国民全員に位置情報発信機をつければいいと考えます。そうすれば、新型コロナを最も効率的に制圧できます。

上記の通り、コロナ禍については「無規制」が一番だと私は考えています。しかし、それができず、長期間ダラダラと自由を制限し、皆が不満を持つくらいなら、短期間徹底的に感染者の自由を制限することが次善の策だと私は考えます。もちろん、位置情報の公開で、プライヴァシーは侵害されますが、それを上回るメリットがある、と私は確信しています。

今の日本で医療崩壊が起こっていると本気で信じている日本人が多くいます(10年後の日本人へ)

日本で医療崩壊が起こるのは「欧米先進国と違って、日本の病床数の大多数を占める民間病院がコロナ患者を受け入れていないから」という説が今月号の文芸春秋に載って、多くの人がその説を引用しています。こんな議論が起こっていること自体、私には不思議というか、滑稽でしかありません。以下にその理由を書きます。

確かに、ヨーロッパだと病院はほとんど公的機関なので、政府が一気にコロナ病床を増やしたり、コロナが収束した時にコロナ病床を減らしたりするのは簡単です。しかし、アメリカも日本同様、病院の多くは民間企業であるのに、コロナ病床を一気に増やせているので、民間病院が多いことだけが問題ではないでしょう。

では、なぜ日本はコロナ病床を他国のように一気に増やさないのでしょうか。

その答えは単純で「コロナ病床を急増させる必要がない」からです。「軽症のコロナ病床を一気に増やすと、コロナより死亡率が高い疾患のための病床が減るので、デメリットが大きい。さらに、重症のコロナ病床は全国的に不足していない」からです。こちらのNHK情報によると、1/20の時点で、コロナ重症者の病床で100%を越えているのは東京だけです。東京はすぐ近くに神奈川や埼玉や千葉があるので、そちらのコロナ重症者用の病床を使わせてもらえばいいだけです。また、東京は日本で医療資源が最も豊富でもあるため、実際はコロナ重症者用にできる病床がまだまだあるので(だから100%を越えられている)、その辺りは現場で適切に処理してもらえばいいでしょう。

それに第3波のコロナ感染者が第1波や第2波と比べると急増しているからといって、よく言われるように、欧米と比べると微々たるものです。コロナ重症者まで東京で毎日数百人単位で増えているわけではないので、コロナ病床を欧米のように一気に2倍も増やす必要はありませんし、増やすべきでもありません。

そもそもの議論です。「日本で医療崩壊が起きそうだ、あるいは、既に起きている」と多くの日本人は本気で信じているのでしょうか。私はコロナ軽症者用病床もコロナ重症者用病床も多くある大病院に今勤務しているのですが、医療がひっ迫している雰囲気は感じません。ICUが使いづらくなったので、手術が延期している影響(ICU病床は他から送られてきたコロナ重症患者さんに使われているため、手術後にICUに入室しなければならない人は手術ができなくなっている)、救急車の搬入を断っている影響があるくらいでしょうか。しかし、実際に手術延期となる症例を見ていると、「そもそもこんな手術をするべきなのか」と、どうしても疑問に感じてしまいます。術後にICUに入るくらいなので、もともと持病が複数あったり、ADL(日常生活動作)がかなり低下したりする高齢者になります。「そんな人にこんな大掛かりな手術して、わずかにADLを上げるほどの価値があるのだろか」と考えてしまう症例ばかりなのです。もちろん、手術を延期できるくらいなので、その手術をしなかったからといって、患者さんがすぐ死ぬわけでもありません。

医療崩壊しそうだ」とか「医療崩壊している」と言っている人やマスコミにまず聞きたいのですが、その「医療崩壊」の定義はなんでしょうか。それを定義してくれない限り、話が進みません。救急車の搬送先がなかなか決まらないことでしょうか。それで死者が全体として増えなくても、医療崩壊なのでしょうか。新型コロナの自宅待機患者が病院に搬送されず亡くなったケースがあるからでしょうか。市中肺炎でも自宅で急変して亡くなるケースはありますが、それとの比較もせずに医療崩壊なのでしょうか。医療者の負担が増しているという声があるからでしょうか。負担が増した医療者は何人いて、どれくらい仕事量が増えているかを明確にしていないのに、医療崩壊なのでしょうか。

福祉先進国・北欧は幻想である」にも書いた通り、日本は世界一医療が手厚い国です。同時に、過剰医療も世界一になってしまっています。現在の日本で、コロナ禍のせいで、これまでの手厚い医療ができなくなっているのは事実です。だからとって、日本で本当に必要な医療が、マスコミでいちいち取り上げるほど、減ってる事実はない、と確信します。毎年増加していた日本の死者数が2020年には減少に転じることが確実視されています。もちろん、最大の理由は「新型コロナ対策が市中肺炎対策にもなって、肺炎死者数が減少した」からです。ただし、それを考慮しても、他の疾患の死者数が激増しなかったのは事実です。

だから、「新型コロナ患者数が少なくて、医療資源も世界一の日本が医療崩壊しそうなのは〇〇だからだ」は根本的に論点がおかしくて、正しくは「新型コロナ患者数が少なくて、医療資源も世界一の日本は、当然、医療崩壊していない」になります。日本が医療崩壊していたら、他の国はもっと医療崩壊しています。なぜその発想が浮かばないのか、私には本当に不思議です。私は現在の日本の医療をこのように捉えています。

「もともと世界一手厚かった日本の医療は、コロナ禍のせいで、医療アクセスがやや減ってしまった。しかし、コロナ禍で死者数が減ったことからも、国民全体の健康が損なわれたわけでは全くない。むしろ、医療アクセスが減ったデメリットよりも、過剰医療が減ったメリットが勝るかもしれない。実際、2020年に死亡率は減ったし、医療費も減っている」

日本の農業は問題も答えも分かっているのに、その答えに進めない状態が30年以上続いています

これまでの記事で指摘した日本の農業問題は、このブログを読むような人なら、それほど目新しいものではない、と推測します。「日本は零細農家が多いため、生産性が低すぎる」「日本人の食料品消費のほとんどは加工食品や外食なのに、農家はその需要に応える農作物を作っていない」などの批判は、私も何回読んだか分かりません。少なく見積もって、ウルグアイラウンドのあった30年前からは言われています。日本農業の生産性の低さはその遥か昔から分かりきっていることなので、「農地は集約すべき」「生産過剰なら減反ではなく、輸出に回すべき」と、減反政策がとられる50年前からは提言され続けていることでしょう。

それにもかかわらず、なぜ変われなかったのでしょうか。そういった問題で、必ず悪玉にあげられるのは農協(JA)です。今回の一連の記事で取り上げている「2025年日本の農業ビジネス」(21世紀政策研究所著、講談社現代新書)でも、当然のように農協は批判されています。農協批判が出てこない農業の本は、日本に存在しないのではないか、と私が思ってしまうほど、農協は腐敗しています。

農協批判については、もう書ききれないほどありますが、一つだけ上記の本から例をあげておきます。

日本と農業成熟先進国の農業保護政策の違い」の記事で書いたように、関税で農産物価格を維持するよりも、農家への補助金にした方が、農業の国際競争力や生産性は増します。日本政府もバカではないので、まだコメの食糧管理制度のある数十年前から、そんなことは分かっていました。しかし、その記事で示したように、国内生産量が消費量の50%を上回ると、農家への補助金は関税政策よりも消費者の総負担(PSE)が多くなるので、特に関税収入がなくなる政府は採用したがりません。なにより、生産額の大きいコメに莫大な農家補助金を出すべきではありません。

だから、小規模で生産性の低い兼業農家補助金は低くして、大規模で生産性の高い専業農家補助金を高くする案が、当時の大蔵省から出ていました。これにより生産性の低い農家には退場を促し、生産性の高い農家に農地を集約する目的もありました。しかし、農協からその「選別政策」を強く反対され、兼業農家が大半の農民の票をあてにする与党政治家にも、受け入れられませんでした。

農協にとって、農家補助金を受け入れられなかった最大の理由は、農家への直接補助金は、農協の販売手数料の低下に直結していたからです。

政府が農協を通じて農家からコメを買い入れていた食糧管理制度の時代、「農家が負担する生産費は全て補償する」という考え方から、肥料や農薬、農業機械といった生産資材価格は、政府が買い入れる際の価格、つまり生産者米価に満額盛り込まれていました。農協が農家に生産資材を高く売りつけるという、組合員である農家と利益相反となるような行為を働いても、農家に批判されない仕組みが、生産者米価の算定方式に制度化されていたのです。

この仕組みでは、農協が肥料などの農業資材を農家に高く販売すれば、当然米価も上がります。農協は生産資材販売と米価によって二度販売手数料を稼げます。さらに、食糧管理制度のもとで米価を高くすると、農家にとって闇市場に流す理由が薄れるため、農協を通じて政府に売り渡す量が増えます。つまり、農協のコメ販売手数料収入は価格と量の両方で増加します。直接の農家補助金では、これらの旨みが消えてしまいます。

もちろん、食糧管理制度は1995年、とうの昔に廃止されました。しかし、減反政策は2018年に名目上ようやく廃止されたものの、いまだに日本政府は備蓄米を買っていますし、適正生産量をわざわざ毎年示してくれています。なにより問題なのは、減反の代償であったはずの転作補助金はまだ続いていて、実質上減反政策が存続していることです。

しかも、最近の政策の飼料用米の転作補助金が異常に高いせいで、人間用の米から転作する農家が続出しています。コメ余りのはずの日本でコメの生産量が足りなくなる、というバカみたいな現実が今、本当に起こっています。需要のある安くて質の高い業務用米(もちろん飼料用では代用できません)は以前から不足しているにもかかわらず、です。

話を農協批判に戻します。上記のような「農水省の役人は正気か?」と疑ってしまう補助金政策が実行されるのも、農協からの要望があるから、と推測されます。主食用米の価格は維持したいので、毎年減っている主食用米の消費量に合わせて、主食用米の生産量も減らさなければなりません。しかし、トウモロコシなどの新しい農作物になると、これまでのコメ農家は作り方がよく分かりません。飼料用米なら、主食用米より生産が容易なので、楽に作れます。だから、飼料用米の補助金を増額したのでしょう。

果てしなくバカな話です。「呆れかえって物も言えない」という言葉は、こんな時のためにあるのではないでしょうか。

日本と農業成熟先進国の農業保護政策の違い

海外でも農業保護に税金が使われていることは以前から私は知っていました。「2025年日本の農業ビジネス」(21世紀政策研究所著、講談社現代新書)の著者の一人は、それを知らない日本人が大半だと考えているようです。

PSE(Producer Support Estimate:生産者支持推定量)という指標があります。政府の財政負担によって農家の所得を維持する「納税者負担」の部分(つまり、農家への補助金)と、内外価格差(国内価格と国際価格との差)に生産量をかけた「消費者負担」の部分(つまり、消費者が安い国際価格ではなく、高い国内価格を自国農家に払うことで農家に所得移転している総額)で構成されています。

このPSEの各国の内訳をみると、農協がコメ輸入について理不尽に大反対をしたウルグアイラウンド(それについての記事は既にこちらに書いています)の1986~1988年当時、消費者負担がアメリカ37%、EU86%、日本90%でした。しかし、2013年にはPSEの消費者負担がアメリカ6%、EU15%と6分の1くらいに激減したのに、日本はいまだ78%(年間約3.6兆円)もあります。25年ほどの間に、欧米各国は農業保護政策を「価格支持」から「農家への補助金」へ変えているのです。なぜでしょうか。

それは、国内消費者に安価な農作物を供給すると同時に、農業の国際競争力を確保したいからです。

また、国内生産量が少ない場合、PSEの総額負担は小さくなります。たとえば、日本の小麦の国内生産量は14%なので、下記の図から分かるように、農家への補助金の方が関税保護策よりもPSEの総額は低くなります。

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もちろん、この政策だと農家はどれだけ生産費用が高くなっても生産量を増やせば儲けが増えるので、政府は生産費用の上限の規制は敷きます。この生産単価上限(国内価格)を漸減させて、国内生産量が50%に到達するまでに国内価格をうまく国際価格に一致させれば、理論上、PSEはゼロにできます。減反をする必要もありません。ちなみに、現在の日本の減反は全水田面積の4割で、世界最大の減反率に違いないと上記の本に書かれています。

本では、コメ産業の規制を強く批判しています。減退補助金としてコメ農家に4000億円もの税金を出して、国内生産量を減らしている上に、コメの国際価格と国内価格の差で消費者が払っている総額は6千億円にも達しているからです。なお、日本のコメの市場は2兆円なので、その半額もの費用が費やされている計算です。

公明党の提言によって、食品だけは消費税が8%になりましたが、そんな面倒な政策を実行するくらいなら、コメの関税を撤廃して、農家への補助金政策に変えた方がよほど経済的弱者のためになる、と著者は指摘しています。確かに、コメの関税をなくせば、食品も消費税10%にしても、消費者がコメをより安い価格で買えることは間違いありません。

なお、世界各国のPSEと農業生産額の比率は以下の通りで、案の定、日本は上位集団の一つになっています。この上位集団は「日本の農業は日本のために世界で勝負すべきである」の記事で述べた「低生産性保護型農業」(生産性の低い農家を保護するため消費者に負担を強いている)であることは間違いないでしょう。

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日本のコメですら輸出品目にできる

「日本の農作物に輸出競争力などあるはずない。特にコメは世界一単価が高いので、全くない」と考えている日本人は多いのではないでしょうか。「2025年日本の農業ビジネス」(21世紀政策研究所著、講談社現代新書)を読むまで、私も似たようなことを考えていました。しかし、日本のコメですら輸出競争力があると、この本は示しています。

コメは日本の農作物で最も手厚く保護されてきた品目で、関税率は778%(つまり原価の8倍)であり、全品目のトップです。この数値を見ると、海外産のコメは日本のコメの8分の1の値段で流通しているので、日本のコメは一部の好事家にしか売れないと考えてしまいがちです。しかし、この関税率は1986年~1988年のコメ価格を基準に決められている上、そもそもの計算方法に不明なところが多く、とても現状の価格差に対応した関税にはなっていません。本によると、現在の日本米の単価はアメリカ米の単価の2倍程度の差しかありません。2倍でもまだ大きな差ですが、日本でも既にアメリカの平均単価以下の費用でコメを生産している農家が存在しています。

日本のコメを輸出品目にする第一の方法は、まず規模です。日本には水田面積の小さい零細農家が多すぎて、規模のメリットが発揮できず生産性が低いことは、さすがにこの記事を読む方なら十分知っていると思うので、あまり書きません。

日本のコメを輸出品目にする第二の方法は、技術革新です。たとえば、田植えの省力化です。「田植え」とは、あらかじめビニールハウスで種から育てた苗を、水田に運んで田植え機で植える作業です。田植えに適した時期は限られるので、水田面積を拡大すれば、苗を育てるためのビニールハウスの面積も、田植え機の台数も増やさなければなりません。多くの人はこの「田植え」の常識について疑っていません。しかし、田んぼに種もみを直接植える「乾田直播」という技術が存在しています。さらに、この「直播栽培」と、通常の田植えの「移植栽培」を併用し、直播の田んぼに種を播き、この作業が終わったところで田植えをすれば、作業時期がずらせて、少ない人手や機械で作業が完成します。

また、グレーンドリルという種まき用機械を小麦とコメの直播に使って、コンバインも小麦とコメの両方に使えば、稼働率が高くなるので、コストダウンにつながります。

こういった努力の結果、生産費を4割ほど削減し、労働コストを平均の5分の1まで下げた農家が実際に存在しているようです。

ところで、結局、話が流れたTPPでも、日本は農林水産物の433品目の関税維持を譲ろうとしませんでした。言うまでもなくJA(農協)が大反対したからです。特に「コメ、麦、牛肉・豚肉、乳製品、甘味資源作物などの重要5品目は守る」と国会決議まで行っています。

本によると、5品目のうち、テンサイやサトウキビなどの甘味資源作物は国際競争力に全く欠けて、乳製品も大胆な構造改革が必要なものの、コメは上記のように、方法次第で競争力があると判断され、同じ評価が小麦にもされています。さらに、牛肉・豚肉については、関税が削減されても十分に競争力がある、とされています。

長くなるので、コメ以外については上記の本を参照してください。ともかく、コメ農家の保護にはTPPという国家の大きな経済外交戦略すら左右してしまう事実があるので、日本農業はコメですら輸出品目にできる潜在力があることを多くの日本人は知るべきでしょう。

日本の農家が国内の消費者さえ無視して生産している証拠

日本の農業生産者の大半は、相変わらず農協を通じて卸売市場への出荷を行っています。生産の時に考慮しているのは、卸売市場からスーパーなどの小売店を通じた家庭用の消費です。しかし、下のグラフにある通り、2010年の段階で、消費者の食料品購入の割合は、生鮮食品が27.8%で、加工食品が50.5%、外食が21.7%です。

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上のグラフの通り、今後、女性の社会進出や高齢化が進行する日本では、生鮮食品の消費割合は減少する一方だと推定されています。何十年も前に、生鮮品重視の生産をやめて、食品加工や外食産業向けの生産を開始すべきだったのに、農業界は未だにそれに対応できていません。

極端な例として、加工用トマトの生産があります。自由化以前、カゴメ1社で国産トマト23万トンを仕入れていました。しかし、1972年に自由化されてからは、見事に外国産に置き換わっていき、現在、カゴメ仕入れる生トマト35万トンのうち、国産はジュース用の2万トンだけで、他の33万トンは海外で第一次加工をして日本に輸入しています。とはいえ、トマトについては「トマト缶の黒い真実」(ジャン・バティスト・マレ著、太田出版)という本で、海外産の劣悪な生産環境や不正が明らかにされているので、海外産がどれだけ信用に値するかは疑問もあります。そういった腐敗を防止するための規制は必要でしょう。

日本だけでなく、海外でも食品加工業は農業と同等かそれ以上に大きな産業になっています。しかし、日本は農業だけでなく、食品加工業の生産品もあまり輸出できていません。なぜなら、原料となるコメ、小麦、砂糖、でんぷん、乳製品などは全て高い関税が課せられているので、高い国内価格の原料から生産品を作るしかないためです。これでは海外の安い製品に太刀打ちできません。いえ、日本の食品加工業は、国内市場ですら苦戦しています。外国産の原料製品は高い関税を課しているのに、安い原料から作られる外国産の加工食品には低い関税しか課していないからです。このため、食品加工企業は、上記のカゴメのように、海外に工場を作って、日本に輸入しています。日本で生み出せる加工産業の富を、農家保護規制のせいで、海外に逃しているのです。結果、2013年の食品産業の国内生産額は、1998年との比較で約2割も減少しています。

国内農業が逃している付加価値は、加工食品だけでなく、外食にもあります。2009年の農林水産省の調査によれば、外食産業の食材費のうち、穀物は10%、野菜は9%に過ぎません。では、なにが最も多い品目かというと、やはり加工食品です。しかし、その内訳は国産52%、輸入48%と、輸入が半分近くを占めています。国産の52%であっても、原料は外国産の農作物を使用している可能性が高いので、外食産業向けの農産物市場のほとんどを既に海外に奪われているはずだ、と上記の本では推測しています。

「儲かる農業」(嶋崎秀樹著、竹書房)にもある通り、昨今、成功した農家のほとんどは、市場のニーズに応えて、中食(おにぎり、弁当、総菜などの既成食品)や外食産業向けに量と品質を一定にした生産をしています。しかし、ほとんどの農家は、販売に関心をあまり持たず、生鮮食品向けの生産を続けています。それは消費者にとってだけでなく、生産者、つまり農家自身にとっても利益にならないはずなのに、なぜそんな状況が続いているのでしょうか。それについては「日本の農業は問題も答えも分かっているのに、その答えに進めない状態が30年以上続いています」の記事に書きます。

日本の農業は日本のために世界で勝負すべきである

「2025年日本の農業ビジネス」(21世紀政策研究所著、講談社現代新書)は日本の農業問題を簡潔に指摘している本です。

「農業大国」といえば、広大な土地を持つ国で、大量生産している農業を思い浮かべる日本人は多いでしょう。本が指摘している通り、そのイメージの半分は正しいです。事実、国別の農産物産出高および農産物産出額は、2013年のデータで、1位~4位まで中国、アメリカ、インド、ブラジルという広大な土地を持つ国家が独占しています。農産物産出高および産出額で、日本がこれらの国家を上回ることは、未来永劫ないでしょう。

しかし、国民一人あたりの農産物産出額および農産物輸出額なら、世界の大国と競争できる潜在能力が日本にあると知っている日本人はどれくらいいるでしょうか。以下は、その根拠となる基礎統計です。

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農産物輸出額だと、日本の領土の9分の1しかないオランダが2位です。国民一人あたりの農産物産出額にいたっては、農産物産出高の上位4ヶ国の中で最上位のブラジルですら、11位になります。

世界の農業生産は3タイプに分類できます。

1、「開発途上国型農業」原料農産物を作り、自国民への食糧供給を最優先する

2、「新大陸先進国型農業」経済発展とともに原料穀物の過剰生産に陥り、それを輸出に振り向けることで解決策を見出す

3、「成熟先進国型農業」市場のニーズをとらえた商品開発を行い、食品加工業と連携することで農産物の付加価値を高め、市場開拓する

残念ながら、日本はこの3類型のいずれにも属しません。あえて挙げるなら、次になるでしょうか。

4、「低生産性保護型農業」生産性の低い農家を保護するため消費者に負担を強いている

日本の目指すべき農業が3の「成熟先進国型農業」であることは間違いありません。というより、1と2の道は進めません。では、3の「成熟先進国型農業」のオランダやベルギーは日本とどこが同じで、どこが違うのでしょうか。

まず日本との共通点です。意外なことに、オランダやベルギーでも、生産作物は小麦、牛乳、てんさい、ジャガイモ、大麦などの付加価値の低い原料農作物の生産が中心です。

次に日本との相違点は、日本が「生産者が作りやすい農産物」を作ってきたのに、成熟先進国型農業国は「消費者が求める農産物」を作ってきた点です。上記の本でも嘆かれていることですが、他の産業では当たり前に行われている市場需要の調査を、日本の農家はろくに行わないで、生産者の都合優先で農作物を生産しています。

デンマークのデーニッシュクラウン(豚肉業)とアーラフーズ(乳業)は日本の農協のように、組合員の作った原料に付加価値をつけて全てを売り切ろうとしています。日本と大きく異なるのは、世界中の市場を徹底的に調査している点です。「組合員の作った原料を全て売り切る」ためには、当然、市場の需要に合った原料を作ってもらわなければなりません。組合の市場調査内容はすぐに農家に反映されます。農家がどのような作物を作ればいいかが明瞭に示され、それに対応する飼養技術の研究・開発や農家への技術指導も行われます。つまり、農家は市場の需要に合った原料作物を生産する義務を半ば負わされています。

なお、EUの酪農の生産性自体は、実は日本とさほど変わりません。それでもアーラ―フーズが国際競争力を持っているのは、戦略的な市場開発や商品開発や多角化が成功しているからです。アーラ―フーズが酪農家から買い取る乳価は日本の半値以下です。それにもかかわらず、イギリスの酪農家まで参加しているのは、その巨大な販売網に加わりたいことと、最新技術や情報が得たいからです。

ところで、2の「新大陸先進国型農業」では、しばしば高い生産性の表裏一体となっている環境破壊が問題視されていますが、デンマークでは全く逆です。デンマークでは集約的畜産で環境汚染と動物福祉が悪化したため、1985年から家畜排泄物に関する施肥管理規制が敷かれています。1ヘクタールあたりの窒素施用量の上限が酪農・肉牛の場合は170㎏、養豚・有機畜産の場合は140㎏と設定されているので、農家は家畜の種類、頭数、畜舎のタイプなどから窒素、リン酸、カリの排出量を計算したうえで、家畜から排泄された糞尿を圃場に散布する場合、どのくらいの規模の圃場に散布するのか、窒素を吸収する作物はどういった作付けにするのかなどの詳細な書類を作成し、政府に届け出なければなりません。さらに、妊娠中の母豚を狭い豚舎に寝かせることを禁止し、豚舎内にシャワーシステムを設置するなどの動物福祉でもデンマークは日本以上の厳格な規制を敷いています。それでも、農産物の輸出額は、国内消費額の2倍であり、輸出の内訳で最大の20%を占めるのが豚肉なのです。おそらく、環境と動物福祉規制が農業生産性を高める理由は一つしかありません。そういった規制が厳しい国にも、輸出できる点です。言うまでもなく、環境や動物福祉規制が厳しい国は先進国のため、高い値段でも農作物を買ってくれるので、日本の農産物輸出対象国として理想的です。

余談になりますが、世の中の役に立っているかどうかも分からない「フェアトレード」商品を買っている日本人たちに、そんなことする金と労力があるなら、日本政府に環境や動物福祉重視の農業規制を要求した方が、よほど日本のため、世の中のためになると知らせたいです。

完全な中立などありえない

前回の記事の続きです。

このブログを読む人なら当然知っていることでしょうが、完全な中立などありません。完全な中立を定義することもできません。

だから「政治的には中立です」と断言する人は、私の価値判断からすると、見識が極めて浅いです。まるで「政治とは無関係に私は生きています」と言われたような気分になってしまいます。もちろん、その人の言う「政治」の定義が、世間一般の「政治」と異なっているのだろうとは思います。しかし、「政治と無関係に生きる」は「法律と無関係に生きる」や「他人の力を借りずに生きる」と同義になる可能性があることくらい知っておくべきだ、とは思ってしまいます。

国際的な人道支援でも、政治と無関係なはずがありません。「あやつられる難民」(米川正子著、ちくま書店)でも、政治に無関心なNGOの職員を繰り返し批判しています。政治と完全に関係ない人道支援などありえませんし、現地の政治の知識がないまま国際人道支援するなど、非効率なだけでなく、本で指摘されている通り、有害にさえなりえます。

もちろん、本にもある通り、1991年と2004年の国連総会で、人道支援は公平性、中立性、独立性、人道性の原則に従って提供すべきという決議がなされています。たとえば、国際人道支援をする側が「あなたは虐殺事件を起こした〇〇党の支持者だから援助物資を与えない」と政治差別していたら、明らかに問題です。思想信条は度外視して、まず目の前で苦しんでいる人たちを助けることが本来の人道支援です。

しかし、広い視野で考えれば、たとえ目の前で苦しんでいたとしても、援助物資を与えるべきでない人がいるのも事実です。たとえば、軍人は難民ではないとして、難民キャンプから排除され、支援物資を受けられない原則があります。軍人を援助していたら、紛争が長期化するので、当然です。しかし、現実には軍人と民間人を厳密に区別することなどできません。実際、難民キャンプが軍人の供給元になっている例は枚挙にいとまがありません。これでは、政治的に中立に行っているはずの難民キャンプへの援助が反政府勢力の援助と同義になってしまい、政治的に中立とは言えなくなってしまう矛盾が生じてしまいます。特に難民への人道支援には、こういった問題が常につきまといます。

そうなると訳が分からなくなって、「自国の問題は自国だけで解決してくれ」と国際社会から匙を投げられることも、珍しくありません。

人道支援は政治的に中立であるべきです。その原則は変わりません。しかし、なにが中立であるかを定めるのは難しく、中立であることが正しいとも限りません。そういった矛盾を考慮しながらも人道支援を続けていくためには、ただのバカになるか、極めて質の高いアウフヘーベンされた政治思考を持つしかないのでしょう。前回の記事に書いたように、国際機関で働く人に「ただのバカ」が多く、「極めて質の高いアウフヘーベンされた政治思考を持つ」者が少数いるのは、こんな理由からかもしれません。

国際機関職員はただのバカが多い

以前の記事にも書いたとおり、国連はコネで就職や昇進が決まったりする不公平な組織です。国連、あるいは国際機関には唖然とするほど倫理観や見識の浅い奴がいて、そんな奴がカリスマのように称賛されていたりするので、失望してその世界から去る者もいます。私はその世界に入ってすらいないので、去った者にはならないかもしれませんが、国際機関に失望は何度もしています。

国連が偽善的な運動をよく行っていることは、ある程度、国連に関わったことのある方なら、常識ではないでしょうか。「莫大な予算を使って、こんな運動をしていても、問題はなんら解決しないことくらい、ここにいるエリート(のはずの)連中は知っているだろう」と私も呆れてしまったことが一度ならずあります。

もちろん、「米中首脳はホットラインと軍縮条約を結ぶべきである」に書いた通り、国連がなくなっていい、とまで私は全く思っていません。大きな国際紛争を解決する手段として、国連は極めて重要な機関であることに異論はありません。しかし、小さい問題、特に発展途上国の問題を解決するために、国連もしくは国際機関はあまり機能していないように思います。

その気持ちは「あやつられる難民」(米川正子著、ちくま新書)を読んで、さらに強くなりました。本からの抜粋です。

ルワンダ虐殺の1995年に、ルワンダ国内に154ものNGOがいたが、大手のNGOを除いて、多くが人道支援者というより『即席専門家』だったと言われる。その多くは大学卒業したての若者で、勤務経験も技術も皆無であるのに、現場活動参加に意義があるという考えのもとに来る。援助物資を配布し、キャンプを設営し、写真を撮影しまくり、それをメディアに送って資金援助に役立てようとする。その地域の政治について理解しようとする意欲も関心もない上に、それになるべく突っ込まないように注意する。そして、たとえ支援のプロジェクトが失敗したとしても(その自覚があるかどうかも疑問だが)、その原因を追及せず、自分たちはよいことをしたのだからと身構える」

人道支援者の責任やミスで難民が命を落とすといった罪を犯しても、国連職員が刑事責任の免除を得て活動していること自体、『人道的不処罰』ではないかと思う。『不幸な出来事だった』『ベストを尽くしたけど当時は政治的な混乱の中にあって、仕方なかった』という『言い訳』で終わる」

「残念ながら、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)職員の多くは、難民保護より自身のキャリアを重視していることは事実だ。UNHCRの職員の場合、その対象者である難民が評価するのが妥当だろう。しかし、そのような評価を難民から喜んで受けたいUNHCR職員はいないと私は分かっている。難民という『下』からの評価は、上司の評価と比べると価値がないとみなされ、昇進にも影響しない」

「UNHCR職員のキャリア重視が明白に分かるのは、彼らが組織トップの高等弁務官にペコペコして媚びる姿を見る時だ。現地事務所の代表者は『成功例』の現場のみを高等弁務官に見せ、失敗例や肝心の問題を時おり隠す。そもそも現場の主要な問題点が高等弁務官に伝わらず、局長レベルで留まることがしばしばあった。現地代表の態度や政策に不満のある職員がいる事務所であれば、高等弁務官と職員の会議が設定されることもない。さらに、UNHCRは内部からだけでなく、外部からの批判を受け入れたがらない。それどころか、『我々は厳しい現場で頑張っているのに、批判される覚えはない』と自分たちを擁護しがちだ」

「国際機関間のライバル意識は非常にあり、たとえば、いつ誰がどこで記者会見を開催するかといった些事でもめあうことがある。当然、最初に記者会見を開いて発言すれば、大きな注目を浴びる。難民や避難民の緊急事態中、UNHCRの名で数回報道されると、他の国連機関から『UNHCRの報道官は強引すぎる』と非難されることがあった。大変ばかげたことであるが、こういった国連機関間の争いで、難民と避難民の保護に十分に取り組む時間が減ったのは事実である」

この批判に、冷や汗が出る国際機関職員は少なくないはずです。そして、国際関係機関がこういった批判を受けるべきことを知らない日本人が大半のはずです。

国際機関職員というと立派な人を想像するかもしれませんが、現実は必ずしもそうではありません。むしろ「普通の社会だとうまくやっていけないけど、『現場に行きさえすればいい』国際機関ならなんとかなると思って、活動しているんじゃないだろうか」と思う人の方が、私の実感としては、多いです。日本にいる白人だと「母国ならダメだけど、日本だと白人というだけで特別扱いしてくれるから来たのではないか」と思ってしまう人が多いことと似ているかもしれません。

もちろん、知性の極めて高い国連職員(残念ながら私はただの一人も会っていませんが)、知性の極めて高い日本にいる外国人がいるのも事実です(こちらは何名か会っています)。他の社会と同じく玉石混交ではありますが、学歴の基準と比べると、質の低い人が多すぎる傾向はあるように私は感じています。

次の記事に続きます。

新型コロナウイルスで亡くなった日本の小児はゼロである

タイトルに書いた通り、2020年12月21日までの段階で、新型コロナウイルスで亡くなった20才未満の日本人は一人もいません。こんな重要な情報ですら、マスコミは報道していないので、「コロナ対策のため、今は(この子どもの遊び場)使えないんですよ」と言う人に私が「日本で新型コロナで亡くなった子どもは何人か知っているんですか?」と聞いても、誰も答えられないのでしょう。

私は現在赤ちゃんを育てていて、子どもこそ私の生き甲斐なのですが、新型コロナのせいで、子育てに悪影響を受けています。

 

1、保育園や幼稚園が休校になった

特に今年の4月から5月はほぼ全て休校になっていました。これで予定が狂った日本中の父母の一人が私です。このため「今年の休校期間はどれくらいだったか」が私の幼稚園選択で重要な点になってしまいました。再度、新型コロナ感染が蔓延した時、休校されたら、本当に困りますから。

 

2、キッズスペースが立ち入り禁止になった

今、子育てしていない方は全く気にならないでしょうが、デパートのキッズスペースのほぼ全てが使用禁止になりました。特に無料のキッズスペースは、現在も使用禁止のところが多いです。まだ外の公園で遊ぶには早すぎる赤ちゃんにとって、マットで囲われたキッズスペースは最適の遊び場だったのに、そこが閉鎖されてしまいました。

 

3、みながマスクをしているので、赤ちゃんが相手の発語時の口の形を見えなくなった

相手の発語時の口の形をまねて、赤ちゃんが話し方を覚えていく仮説を知っている私としては、みながマスクをしている状況は恐怖です。マスクのせいで、世界中の赤ちゃんの発語が遅くなっているのではないでしょうか。誰か調べてほしいです。

 

4、子ども関連施設が休止になった

1と関連しますが、保育園や幼稚園以上に休止期間が長かったです。不要不急と判断されているのでしょうか。

これも子育てしていない人にとっては知らないことでしょうが、どこの地域にも、子育て中の親子が集まれる支援拠点があったります。土日は閉まっていることが多いので、平日に働いている私はあまり参加したことがないのですが、私の家の近所の子育て支援拠点は、たまに土日にイベントを開いていることがあったので、そこには参加したりしていました。しかし、土日のイベントは現在に至るまで再開されていません。今年の4月から数ヶ月間、子育て支援拠点そのものがしばらく閉鎖され、再開しても、人数制限されていたり、予約が必要になったりして、不便で仕方ありません。

 

この他にも書いていけば、キリがありません。おそらく、日本中の人、それこそ引きこもり以外の人は全員、大なり小なりコロナ自粛で悪影響を受けていたし、今現在、受けているはずです。

小中高大学校では、対面授業が少なくなって、学力差が大きくなっている問題も出てきています。日本中の何百万人の子どもたちの学力を下げて、ネット以外の遊び場を奪って、ありとあらゆるイベントを中止してまで、日本人の子どもの命を全く奪っていない新型コロナ感染を恐れる理由は、なんなのでしょうか。

前回の記事と同じく自殺者数と比べますが、毎年自殺で亡くなる20才未満の日本人は数百人います。その何百人の若い命を救うため日本人全員が一丸となって「子ども集団生活施設」などを実現させることはなかったのに、なぜ新型コロナの被害を食い止めるために日本中の学校を休校にしたり、対面授業や実習時間を減らしたり、移動を制限したりするのでしょうか。

新型コロナで亡くなった人の過半数は80才以上で、8割は70才以上である

こんな重要な情報をほとんどの日本人が知らないので、あえてタイトルにしました。

日本で新型コロナで亡くなった人の過半数は80代以上です(2020/12/14の国立社会保障・人口問題研究所統計)。70代以上まで含めると、8割を越えます。ちなみに、50才未満はわずか1%です。

ポストコロナは社会でなく医療体制を変えるべきである」での予想のうち、「第二波がきても死者数2000人は越えない」の予想は一応当たりましたが、第三波が来て死者数2000人を軽く越えたので、予想が当たったとも言えなくなってきました。このままいけば、この冬のうちに新型コロナ累計死者数が1万人を越えるかもしれません。

しかし、「ポストコロナは社会でなく医療体制を変えるべきである」の考えは変わりません。一つの大きな根拠はその記事に書いたとおり、「新型コロナよりも肺炎の死者数の方が多いのに、肺炎感染予防のための自粛なんて全くしていなかった」からです。もう一つの大きな根拠は、上記のとおり、ほとんどの死亡者が高齢者であるからです。極論すれば、たとえ日本の新型コロナ感染症死者数が肺炎より遥かに多い年間42万人だったとしても、ほとんどの死亡者が高齢者であるなら、自粛はすべきでない、と私は考えます。特に医療機関が「自粛」までする必要はないでしょう。

新型コロナ感染症を怖がれば怖がるほど、新型コロナ感染症の治療が難しくなってしまいます。現在、新型コロナ感染症で入院すべきとなっても、入院できる病院は限られています。既に他の病気で入院している患者ほど、新型コロナ感染症で亡くなる確率が高い人たちはいないので、ほとんどの病院は新型コロナ感染症患者を受け入れたがりません。厳重に隔離した病棟を持っている病院でしか新型コロナ感染症患者を受け入れないようにしています。また、新型コロナ感染症クラスターが発生したら、新規の外来や入院患者の受け入れはできなくなる上、風評被害が発生して長期の悪影響を受けるので、ほとんどの病院やクリニックは新型コロナ感染症の可能性のある熱発患者ですら、外来診察を嫌がります。

周知のとおり、医療機関に限らず、現在、熱発患者は日本中の全ての学校、全ての会社、全てのお店で、忌避されています。「普通の風邪ですら、安心してかかれなくなった」とぼやく人は、私の周りにたくさんいます。

このブログで何度も主張していることですが、どう考えても、新型コロナ対策はデメリットがメリットを上回っています。

現在、医療従事者の多くは新型コロナの感染を防ぐように知恵を絞っていますが、私の知る限り、私を含む全ての医療従事者は「現状の日本で、感染は防ぎようがない」という結論にたどり着いています。

だとすれば、新型コロナも、これまでの市中肺炎と同じような対応でいいのではないでしょうか。新型コロナ感染症患者を特別に隔離するのはやめて、普通のクリニックの普通の外来で診察して、必要があれば、普通の病院の普通の病室に入院させましょう。熱発者というだけで会社や学校から追い出すのはやめましょう。どうせ正確な感染者数は分からないので、熱発者にやたらと新型コロナのPCR検査させるのもやめましょう。お店に入るたびに体温を測ることも、やめましょう。医療従事者には標準予防措置策(スタンダードプリコーション)を心がけてもらうだけにしましょう。「無症状や軽症でも新型コロナになっている可能性を考えて感染予防策を徹底してください」なんて警告を発するのもやめましょう。

国内旅行の制限は完全にやめましょう。海外旅行でさえ、相手国から拒否されていない限り、日本からの渡航は完全に解禁しましょう。日本への入国だけは、さすがに自由にできませんが、日本以上に感染が抑えられている国、たとえば中国や台湾や韓国などからは入国自由にしましょう。こういった国からの入国者は体温検査すら、不要とします。それ以外の国からの入国者には、体温検査はします。体温が正常で、自覚症状なければ、PCR検査なしで、後は原則、自由に旅行できる、とします。体温検査でひっかかったり、自覚症状があったりすれば、できるだけ早く空港内でPCR検査を実施して、陽性だったら14日間隔離して、場合によっては入院させますが、陰性と判明したら、自由行動とします。現在は、コロナ感染国から日本へ入る場合、日本人であっても、全例PCR検査したあげく、陰性であっても問答無用で14日間隔離しています。そんなバカな政策は今すぐ止めましょう。以上のような開国政策を実行すれば、go toキャンペーンで税金をばらまかなくても、旅行に飢えた世界中の金持ちたちが日本に殺到してくれるでしょう。

もちろん、こうなれば、院内感染は蔓延します。ただの転倒骨折だったのに、入院したせいで新型コロナに感染して亡くなった、なんて人は出てきます。しかし、それは大抵、70才以上の高齢者です。もし毎年42万人が亡くなったとしても(42万の日本人が新型コロナで亡くなる可能性は事実上ゼロだった、と42万人という数値をあげた学者ですら既に言っているようですが、あえてこの数値を使います)、もし上記のように50才未満の死亡者の割合が1%なら4200人です。かりに倍の2%になったとしても8400人です。日本の年間自殺者数は、近年少なくなっていますが、それでも50才未満で8400人以上います。50才未満の自殺者数が毎年1万人いても、多くの日本人はなにもしていなかったのに、新型コロナの死者が数千人程度、50才未満に限れば数十人に過ぎないのに、ここまで日本社会全体を委縮させる理由は、どこにあるのでしょうか。

なお、新型コロナ蔓延で人工呼吸器が足りなくなる問題については、既に「命の選別は間違っているのか」以下の記事に書いています。

新型コロナウイルスで亡くなった日本の小児はゼロである」の記事に続きます。

持続化給付金批判

既に借金だらけの日本にもかかわらず、コロナ禍でばら撒き政策が大盤振る舞いになっています。とりわけ、批判を浴びているのはgo toキャンペーンです。「Go toキャンペーンは税金のばら撒きだけでなく、コロナもばら撒きしている」「コロナ感染対策を訴える一方で、観光産業と外食産業を応援するなど、アクセルとブレーキを同時に踏むようなもの」と批判ばかりされています。確かに、制度設計の杜撰さはひどすぎます。「どんなに急いでいたとしても、先進国の日本で、どうやったらここまで穴だらけの政策になったんだ」と私も何度も思いました。特に事務委託費の異常な高さは嘆息する他ありませんでした。本来ならゼロにすべきものを、ここまで高額にしてしまうのは、官民の癒着もありますが、日本社会のIT化の遅れのせいなのですが、それに気づいている日本人はどれくらいいるでしょうか。

ただし、今回注目したいのはgo toキャンペーンではありません。その批判は他の人がしてくれているからです。税金として無駄になった額からすれば、go toキャンペーンよりも3倍以上注目されるべきなのに、go toキャンペーンの3分の1以下しか注目されていない問題です。

持続化給付金です。Go toキャンペーンの総予算が1兆6794億円ですが、持続化給付金の予算は既に5.3兆円です。持続化給付金は、「コロナ禍で、いずれかの月に収入が前年比で半減以上」に落ち込んでいれば、中小企業で200万円、個人事業主で100万円も受け取れます。

今朝の朝日新聞によると、中小企業庁が把握する日本の中小企業と個人事業主の数は358万、農林水産省が把握する中小企業と個人事業主の数は約130万、合計490万程度のはずなのに、11月23日時点で380万件も給付しています。東京商工リサーチのアンケートによると、収入半減以下になった中小企業の割合は、最も高かった5月ですら、20%だったにもかかわらず、です。

不正受給が横行していることは間違いないでしょう。その不正は徹底して追及すべきです。そのためにこそ、莫大な事務委託費を使ってほしいです。しかし、問題は不正受給だけではないようです。

今朝の朝日新聞には、不正受給が横行していることを考慮しても、この給付件数は高すぎると書かれています。つまり、日本にある中小企業数と個人事業主の総数を、日本政府が把握できていないからこそ、こんなにも給付数が増えている、と朝日新聞は推定しています。無駄な事務処理を国民に要求している世界でも有数な国家のくせに、日本政府は日本の全体像を正しく把握できていないのです。だから、持続化給付金の予算が3度も増額されているのです。正しい統計がないのなら、正しい政策など打てるはずがありません。

以前の記事にも書きましたが、ある組織の統計の質は、その組織全体の質を左右します。1980年代、なにごとにも緻密な日本は統計先進国だったかもしれませんが、現在、日本は統計後進国になっているでしょう。西洋の先進国にもだいたい抜かれているでしょうし、中国、韓国、シンガポールなどのアジアの先進国相手だと周回遅れになっているはずです。

朝日新聞も「ハンコだけ廃止しても、中身を変えなければ、事務処理は軽減しない。これではハンコ業界イジメになってしまう」などとハンコ業界の太鼓持ちみたいな記事を書かずに、「ハンコ廃止は当然徹底して、さらにネットで全ての公的事務処理ができるように改革を進めるべきである」と改革派新聞らしい意見を主張してほしいです。

以前から私が提案している全ての金銭取引の原則ネット公開さえ実行すれば、上記の問題も全て解決するのですが、そのメリットを多くの日本人が理解する日は、私が生きているうちに来るのでしょうか。

カンボジアPKOの最大の失敗

前回までの記事に書いたように、カンボジアPKO文民警察派遣は、失敗だらけでした。これは日本人文民警察官に限らず、どこの国の文民警察官も、まともに活躍できていません。目の前で殺人事件が起きても、文民警察官は見ているだけ、という体たらくで、治安維持など全くできていませんでした。

なぜ3500名もの文民警察官が、現行犯の殺人事件でも傍観者になったかといえば、当初は逮捕権も明確になかったからです。だから、UNTACの明石代表が文民警察官に逮捕・抑留権、事件捜査権を正式に持たせました。しかし、日本政府は「逮捕権の行使にかかわることはPKO協力法案に反する」と日本人文民警察官に逮捕権の行使を認めませんでした。なぜ日本の文民警察官がカンボジアで国連の権限で逮捕権を行使することが、PKO協力法案に「あきらかな違反」なのか、私にはよく分かりません。日本人文民警察官は結局、カンボジアで逮捕権を行使することがなかったせいか、明石による文民警察官の逮捕権行使の許可が治安維持にどの程度有効だったかについては「告白」(旗手啓介著、講談社)で一切触れられていません。

そういったことも含めて、カンボジアPKOの最大の失敗は、検証不足です。

なぜカンボジアPKOの警察派遣は失敗したのか」で、その原因は事前準備不足と書きました。ほとんどの警察官はカンボジアPKOの基礎知識を持っておらず、隊長の山崎からして「カンボジアの平和構築が最大の目標」という認識が薄かったのです。

それくらい、日本は外交音痴だったということでしょう。とはいえ、日本政府がPKOに参加することは始めてで、紛争地での警察活動のイメージも全くなかったので、仕方なかったのかもしれません。

だからこそ、事後検証して、次回に活かすべきでした。次回のPKOでは、事前研修を十分にして、現地の状況やPKOの基礎知識を教えて、最大の目標を全員で共有して、参加するべきでした。それだけでなく、PKO文民警察のシステムについても改善点を要求すべきでした。

しかし、カンボジアPKOで、組織として検証し、公表されているものは、なんと日本に一つもありません。スウェーデンでもオランダでも、カンボジアPKOに関する一定の検証がなされ、当たり前のように報告書が公表されています。スウェーデンは238ページ、オランダでは300ページです。

スウェーデンの報告書によると、「文民警察官の役割が不明確」「カンボジアの構造的な国家機能の空白状態」「UNTACの事前の計画や準備不足」が理由で、文民警察官派遣はおおむね失敗だったと総括しています。

「告白」が放送された2016年、イギリスがイラク戦争参戦に関する検証報告書を公表しています。7年かけて15万点の機密文書を含む政府文書を分析し、政治家や軍人や外交官ら150人を聴取して作成した報告書は6000ページに及びます。そこでは「大量破壊兵器保有しているという欠陥のある情報と評価に基づいてイラク政策は作られた」「イラク武装解除の平和的方策を尽くす前に侵攻に参加した」と厳しく指摘しているそうです。

同じくイラク自衛隊を派遣した日本の外務省の報告書は、なんと4ページです。「大量兵器がなかった事実は厳粛に受け止める」という内容だけです。「そのまま公開した場合には各国との信頼関係を損なう恐れがあるから」という理由で、ほとんど公表されなかったのです。上記のイギリスのイラク報告書が出された2016年、日本政府としてイラク戦争についての再検証は行わないのか、と聞かれた安倍政権は「当時の日本政府の判断は、今日振り返っても妥当性を失うものではない」と言って、再検証を行わないことを決めてしまいます。

このブログで何度も嘆いていることですが、日本は検証を行わない国です。だから、外交でいつも敗者になっています。

カンボジアPKO文民警察派遣は失敗でした。だからこそ、検証して、次は成功するように考えるべきでした。しかし、「失敗したから、(警察官の海外派遣は)もうやめよう」になってしまいました。失敗したことはあれこれ考えたくないのかもしれませんが、そうしてしまうと、失敗は完全に無駄になります。たとえ、警察官の海外派遣をやめるべきとの結論になったとしても、検証は不可欠です。ろくに検証せずに失敗の一言で終わらせてしまっては、なんの教訓も得られません。実際、私のような一介の民間人が「告白」を読んだだけでも、これくらいの教訓は書けます。

私よりも遥かに知性に優れる官僚たちが、「告白」よりも遥かに多くの正しい情報を得られるのなら、この一連の記事より遥かに質の高い教訓を導いて、今後の日本の外交に活かせた、あるいは活かせるはずです。

なぜカンボジアPKOの日本人文民警察官は職場放棄したのか

前回までの記事の続きです。

1993年4月8日、UNTACのボランティアの日本人、中田厚仁が殺害されます。大阪大学法学部卒業で外資コンサルタント会社に就職が決まっていたエリートで、1年間の休職を願い出て、カンボジアで国連ボランティアとして働いている中での襲撃事件でした。わずか25才です。中田は、カンボジアPKOの日本人文民警察官の多くと顔見知りになっていました。残念ながら、事件から27年たった現在も、真相は藪の中で、犯人も捕まっていません。

「告白」(旗手啓介著、講談社)では、警察官の高田の死については、真相を徹底的に追及していますが、同じ時期にカンボジアで亡くなった中田の死についての真相追及は全くしていません。

さらに4月14日、文民警察官の平林が車の運転中に襲撃され、こめかみと背中に自動小銃を突き付けられる事件が発生します。幸いにも、財布や車を奪われただけで、平林は無事でした。この平林襲撃事件の後から、隊長の山崎は日本人文民警察官の撤収をカンボジアの警察官たちに明言し始めます。

4月16日に山崎が仲間の警察官たちに出した連絡です。

カンボジア総選挙に向けて治安状況が悪化していくならば、カンボジアの国民が平和を望まない以上、自らを危険にさらしてまで日本人文民警察官が国連の理想にお付き合いする必要性はないと思っています」

私はこれを読んで、「こんな考え方の奴は絶対に国連に送るべきではなかった」と強く思いました。「カンボジア国民が平和を望まない」とは、カンボジア国民同士が殺し合いをして、あるいは内戦をして、助けようとするUNTACの連中まで殺害している現状を指しています。

当時のカンボジアが平和でなかったのは間違いなく事実ですし、停戦合意も守られていなかったのも事実です。しかし、だからこそ、カンボジアに平和を構築しようと世界各国が協力して助けていたのです。ポル・ポト派など一部のカンボジア人が停戦合意をしていないからといって、カンボジア人全体として平和を望まないわけがありません。いえ、極論すれば、ポル・ポト派の兵士だって、カンボジアの平和を望んでいたはずです。

隊長の山崎が言ったせいかもしれませんが、「カンボジア人が平和を望んでいない」という表現は、「告白」の警察官に散見されます。一体、彼らはどういう社会観を持っているのでしょうか。大多数のカンボジア人が平和を望んでいないと本気で考えていたのでしょうか。

重要な視点なのでまた書きますが、カンボジアPKOの最大の目的は、カンボジアでの平和の構築です。そのためにUNTAC管理下で、カンボジアで民主選挙を実施します。この最大の目的を、あろうことか、山崎はほとんど忘れています。「告白」を読む限り、山崎は日本の警察の名誉のために、カンボジアPKOを引き受けています。次に考えているのは、日本国家としての名誉です。カンボジアの平和の構築という、本来PKOの全員が共有していなければいけない最大の目標は、山崎にとって、二の次、三の次だったようです。

そんな目的意識だからこそ、「俺たちはなんのためにカンボジアにいるんだ」とか「文民警察の役割とはなんなのか」という小さい問題で混乱してしまうのです。

「告白」を読んでいて、私が日本人として一番情けなかったのは、最初から最後までカンボジア人に対する差別が満ち溢れていることです。どう読んでも、カンボジア人の命を軽視しています。日本人文民警察官は全員、間違いなく著者も、カンボジア人の命と日本人の命を同等と見ていません。

私も発展途上国には何度も行っているので、そういった視点になってしまう気持ちは、理解できなくはありません。しかし、事件直後の感情的な文章ならともかく、23年後の出版物で、ここまであからさまに書くのは、道徳的に許されないでしょう。もし自分がカンボジア人で、ここまでカンボジア人を見下した本を読んだらどう感じるか、考えられなかったのでしょうか。

山崎は国際社会で貢献できるような社会観を持っておらず、他の文民警察官も持っておらず、もちろん「告白」の著者も持っておらず、カンボジア人差別に気づかなかった読者も持っていないのでしょう。こんな社会観、国際感覚だから、未だに日本はその経済力に対して低い国際貢献しかできないのではないでしょうか。

4月19日、山崎はその日の記者会見で「7月13日の任務満了を待たずに帰国する事態も想定している」と発表する、と日本の警察庁に連絡します。警察庁からは「撤収という言葉を記者会見で使うことは絶対に許可しない」と命令が来て、山崎もその命令に従います。

4月29日に、ある警察官が「自分たちの1割が死んだら、隊長として残り全員で帰国の決定をしなければなりませんね」と酒の勢いで口にすると、山崎は「同僚の死を簡単に口にするな!」と激昂して、どんぶりを投げつけ、顔にケガをさせたそうです。この期に及んでも、山崎は日本人警察官の死の可能性を考えることすら忌避していました。「カンボジアの現状なら、日本人警察官に一人や二人の死傷者が出ることは覚悟しておかないといけない」あるいは「他の国の警察官も死傷者が出ているのに、日本人警察官が少し死んだくらいで、全員が撤収したら、日本の不名誉になる。なにより、カンボジア国民のためにならない。『日本人警察官1割くらいの死でもUNTACが撤収を決めない限り、カンボジアの平和のために仕事をやり抜こう』とここは言うべきだろう」とは考えられなかったようです。

山崎がここまで平常心を失くしていたのは、前回の記事に書いたように、閑職に追いやられて、ろくに情報も得られなくなっていたことも理由です。プライドの高い日本のキャリア警察官が「国の命令で逮捕できないんだ」と言って、他国の警察官から呆れられ、左遷されて、まともな仕事を回されなくなっていたのです。しかし、日本警察全体の名誉がかかるこんな状況であれば、くだらないプライドを捨てて、「日本政府もバカだなあ」と思うくらいの強かさを持つべきでした。

5月4日、山崎がなによりも恐れていた事件が起きます。日本人文民警察官を含む一団がポル・ポト派と思われる集団に襲撃され、日本人警察官の高田が死亡したのです。

これで正気を完全に失った山崎は、日本人文民警察官全員に「帰国する。これは隊長命令である」と伝えます。日本人文民警察官のほとんどは「今更、敵前逃亡できるわけがない」と思っていたので、困惑したそうです。

ほぼ同じころ、高田の死の情報を確認した日本の宮沢総理大臣は記者団に対して、「停戦合意は崩れておらず、撤退はしない」と明言していました。

高田死亡の翌日、山崎は高田の遺体とともに遺族の待つバンコクに向かいます。その夜、カンボジア文民警察全体のリーダーであるルースが、駐カンボジア日本大使の今川に次のように猛抗議していました。

「山崎が勝手に無許可でバンコクへ行ってしまった。さらに、日本人文民警察官が職務放棄して、プノンペンに集結しようとしていることは、UNTACとして大変重大な事案である」

上記のように、山崎は撤収指示を出していたので、プノンペン近辺の州で任務についていた日本人文民警察官は、プノンペンの山崎のオフィスに集まっていました。それを見た他国の文民警察官は「日本人は同僚の死でパニックに陥った」と思ったのです。

5月6日、高田と同じ班であり、襲撃を生き延びた6名はUNTACと日本政府に許可をとって、なんとか国境を越えて、タイに逃れていました。しかし、高田の班を統括する立場の新任の文民警官(日本人ではない)が「私は許可していない。職場離脱だ」とUNTAC本部に報告したため、6名は逃亡者の烙印を押されてしまいます。その6名のリーダーである川野邊は、日本の総理府事務局の次長から、プノンペンに行って、文民警察本部長のルースに謝罪するように命令されますが、断固拒否します。川野邊は次のような暴言を吐いたそうです。

「あいつはルースではなく、『ルーズ』だ! 記者団の前で、これまでの私たちの置かれた惨状と私たちの報告や要請を放置してきたUNTACの文民警察本部の実態を逆に告発するので、そのつもりでいてほしい」

「私たちがとった行動は、すべて日本政府の許可をとっている。謝罪するなら日本政府がすべきである。それを私に押し付けるなら、私たちは本当の逃亡者になる」

「明日は、UN車両をホテルに預けずに、300キロ逃走して、バンコク日本大使館の中に乗り入れる。そして記者団に、日本政府の指示でやったと発表する。これなら、車両を強奪して、立派な逃亡者だ。そして日本政府は共同正犯になる」

「大使館の施設内は日本国である。この中にUN車両を乗り入れたら、どうなるかお分かりと思う。入れまいと阻止したら、もっと大きな問題になる」

「これは脅しではない。私が、これから本気でする行動の告知である」

「もうこれ以上、あんたの声は聴きたくない。二度と私に電話をかけないでくれ」

川野邊は後に手術が必要なほどの銃創を受けており、丸三日間、ろくに寝ていませんでした。実際に発した言葉は、もっと乱暴で、汚かったそうです。

その後、タイの日本大使館の書記官から川野邊に「事態は好転した。なにも心配しないで、大使館に来てくれ。ただし、UN車両だけは、そこに置いてきてくれ」との連絡があり、川野邊はその通りにします。

しかし、UNTACの文民警察本部は、川野邊たち6名を逃亡者と見なしたままでした。ルースは山崎に「日本の警察は職場放棄した。これが日本の警察か? 今回の一連の日本文民警察および日本政府の動きは、初めての日本警察のPKO参加の意義を台無しにした」とまで言います。

もっとも、この事件の直前には、イタリア、アルジェリアハンガリー文民警察官が職場放棄してプノンペンまで来て、文民警察本部長のルースに直訴する事件も起きていました。一部は任地に戻りましたが、帰任しなかった警察官は帰国処分となっています。

UNTACは川野邊班の日本人文民警察官に、健康に問題がなければ、再び同じ任地に戻れ、と強く要求してきました。一方、これ以上の犠牲者の出せない日本政府は、帰任を頑として認めません。プノンペンに戻った川野邊班の「健康な」4人は、日本の自衛隊の医師に「事件のショックにより抑うつ状態にあり、40日間の休養が必要」との診断を受けます。ルースは日本人同士の談合の結果だと判断して、ドイツ軍の野戦病院で診察を受けるように指示します。しかし、言葉の障壁が大きかったので、ドイツの医師は自衛隊医師の診断を追認する形となります。職場放棄など、あいつぐ文民警察官の反乱をもてあましていたルースは、この診断を受けて、川野邊班の4名を帰国処分、つまりクビにします。

バンコクの病院で治療を受けていた川野邊たち2人もプノンペンの川野邊班の4人と同じ便で日本に戻り、関東管区警察学校学生寮に隔離されます。カンボジア文民警察官全員が帰国する7月まで、そこから出られず、外部との接触も禁止されていました。川野邊のような人物がマスコミに余計なことを話さないようにするためです。

この記事のタイトルである「なぜカンボジアPKOの日本人文民警察官は職場放棄したのか」についてですが、その答えは「告白」を読むだけでは分かりません。というより、「告白」を読むだけだと、「日本人文民警察官は職場放棄などしていない。UNTACの文民警察本部が勘違いしていただけ」になります。しかし、もし本当に勘違いなら、隊長の山崎や日本政府は強硬に訂正していたはずですが、そんなことは書かれていません。なお、「告白」が徹頭徹尾、日本人文民警察官寄りであることは間違いありません。

カンボジアPKOの最大の失敗」に続きます。