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なぜカンボジアPKOの日本人文民警察官は職場放棄したのか

前回までの記事の続きです。

1993年4月8日、UNTACのボランティアの日本人、中田厚仁が殺害されます。大阪大学法学部卒業で外資コンサルタント会社に就職が決まっていたエリートで、1年間の休職を願い出て、カンボジアで国連ボランティアとして働いている中での襲撃事件でした。わずか25才です。中田は、カンボジアPKOの日本人文民警察官の多くと顔見知りになっていました。残念ながら、事件から27年たった現在も、真相は藪の中で、犯人も捕まっていません。

「告白」(旗手啓介著、講談社)では、警察官の高田の死については、真相を徹底的に追及していますが、同じ時期にカンボジアで亡くなった中田の死についての真相追及は全くしていません。

さらに4月14日、文民警察官の平林が車の運転中に襲撃され、こめかみと背中に自動小銃を突き付けられる事件が発生します。幸いにも、財布や車を奪われただけで、平林は無事でした。この平林襲撃事件の後から、隊長の山崎は日本人文民警察官の撤収をカンボジアの警察官たちに明言し始めます。

4月16日に山崎が仲間の警察官たちに出した連絡です。

カンボジア総選挙に向けて治安状況が悪化していくならば、カンボジアの国民が平和を望まない以上、自らを危険にさらしてまで日本人文民警察官が国連の理想にお付き合いする必要性はないと思っています」

私はこれを読んで、「こんな考え方の奴は絶対に国連に送るべきではなかった」と強く思いました。「カンボジア国民が平和を望まない」とは、カンボジア国民同士が殺し合いをして、あるいは内戦をして、助けようとするUNTACの連中まで殺害している現状を指しています。

当時のカンボジアが平和でなかったのは間違いなく事実ですし、停戦合意も守られていなかったのも事実です。しかし、だからこそ、カンボジアに平和を構築しようと世界各国が協力して助けていたのです。ポル・ポト派など一部のカンボジア人が停戦合意をしていないからといって、カンボジア人全体として平和を望まないわけがありません。いえ、極論すれば、ポル・ポト派の兵士だって、カンボジアの平和を望んでいたはずです。

隊長の山崎が言ったせいかもしれませんが、「カンボジア人が平和を望んでいない」という表現は、「告白」の警察官に散見されます。一体、彼らはどういう社会観を持っているのでしょうか。大多数のカンボジア人が平和を望んでいないと本気で考えていたのでしょうか。

重要な視点なのでまた書きますが、カンボジアPKOの最大の目的は、カンボジアでの平和の構築です。そのためにUNTAC管理下で、カンボジアで民主選挙を実施します。この最大の目的を、あろうことか、山崎はほとんど忘れています。「告白」を読む限り、山崎は日本の警察の名誉のために、カンボジアPKOを引き受けています。次に考えているのは、日本国家としての名誉です。カンボジアの平和の構築という、本来PKOの全員が共有していなければいけない最大の目標は、山崎にとって、二の次、三の次だったようです。

そんな目的意識だからこそ、「俺たちはなんのためにカンボジアにいるんだ」とか「文民警察の役割とはなんなのか」という小さい問題で混乱してしまうのです。

「告白」を読んでいて、私が日本人として一番情けなかったのは、最初から最後までカンボジア人に対する差別が満ち溢れていることです。どう読んでも、カンボジア人の命を軽視しています。日本人文民警察官は全員、間違いなく著者も、カンボジア人の命と日本人の命を同等と見ていません。

私も発展途上国には何度も行っているので、そういった視点になってしまう気持ちは、理解できなくはありません。しかし、事件直後の感情的な文章ならともかく、23年後の出版物で、ここまであからさまに書くのは、道徳的に許されないでしょう。もし自分がカンボジア人で、ここまでカンボジア人を見下した本を読んだらどう感じるか、考えられなかったのでしょうか。

山崎は国際社会で貢献できるような社会観を持っておらず、他の文民警察官も持っておらず、もちろん「告白」の著者も持っておらず、カンボジア人差別に気づかなかった読者も持っていないのでしょう。こんな社会観、国際感覚だから、未だに日本はその経済力に対して低い国際貢献しかできないのではないでしょうか。

4月19日、山崎はその日の記者会見で「7月13日の任務満了を待たずに帰国する事態も想定している」と発表する、と日本の警察庁に連絡します。警察庁からは「撤収という言葉を記者会見で使うことは絶対に許可しない」と命令が来て、山崎もその命令に従います。

4月29日に、ある警察官が「自分たちの1割が死んだら、隊長として残り全員で帰国の決定をしなければなりませんね」と酒の勢いで口にすると、山崎は「同僚の死を簡単に口にするな!」と激昂して、どんぶりを投げつけ、顔にケガをさせたそうです。この期に及んでも、山崎は日本人警察官の死の可能性を考えることすら忌避していました。「カンボジアの現状なら、日本人警察官に一人や二人の死傷者が出ることは覚悟しておかないといけない」あるいは「他の国の警察官も死傷者が出ているのに、日本人警察官が少し死んだくらいで、全員が撤収したら、日本の不名誉になる。なにより、カンボジア国民のためにならない。『日本人警察官1割くらいの死でもUNTACが撤収を決めない限り、カンボジアの平和のために仕事をやり抜こう』とここは言うべきだろう」とは考えられなかったようです。

山崎がここまで平常心を失くしていたのは、前回の記事に書いたように、閑職に追いやられて、ろくに情報も得られなくなっていたことも理由です。プライドの高い日本のキャリア警察官が「国の命令で逮捕できないんだ」と言って、他国の警察官から呆れられ、左遷されて、まともな仕事を回されなくなっていたのです。しかし、日本警察全体の名誉がかかるこんな状況であれば、くだらないプライドを捨てて、「日本政府もバカだなあ」と思うくらいの強かさを持つべきでした。

5月4日、山崎がなによりも恐れていた事件が起きます。日本人文民警察官を含む一団がポル・ポト派と思われる集団に襲撃され、日本人警察官の高田が死亡したのです。

これで正気を完全に失った山崎は、日本人文民警察官全員に「帰国する。これは隊長命令である」と伝えます。日本人文民警察官のほとんどは「今更、敵前逃亡できるわけがない」と思っていたので、困惑したそうです。

ほぼ同じころ、高田の死の情報を確認した日本の宮沢総理大臣は記者団に対して、「停戦合意は崩れておらず、撤退はしない」と明言していました。

高田死亡の翌日、山崎は高田の遺体とともに遺族の待つバンコクに向かいます。その夜、カンボジア文民警察全体のリーダーであるルースが、駐カンボジア日本大使の今川に次のように猛抗議していました。

「山崎が勝手に無許可でバンコクへ行ってしまった。さらに、日本人文民警察官が職務放棄して、プノンペンに集結しようとしていることは、UNTACとして大変重大な事案である」

上記のように、山崎は撤収指示を出していたので、プノンペン近辺の州で任務についていた日本人文民警察官は、プノンペンの山崎のオフィスに集まっていました。それを見た他国の文民警察官は「日本人は同僚の死でパニックに陥った」と思ったのです。

5月6日、高田と同じ班であり、襲撃を生き延びた6名はUNTACと日本政府に許可をとって、なんとか国境を越えて、タイに逃れていました。しかし、高田の班を統括する立場の新任の文民警官(日本人ではない)が「私は許可していない。職場離脱だ」とUNTAC本部に報告したため、6名は逃亡者の烙印を押されてしまいます。その6名のリーダーである川野邊は、日本の総理府事務局の次長から、プノンペンに行って、文民警察本部長のルースに謝罪するように命令されますが、断固拒否します。川野邊は次のような暴言を吐いたそうです。

「あいつはルースではなく、『ルーズ』だ! 記者団の前で、これまでの私たちの置かれた惨状と私たちの報告や要請を放置してきたUNTACの文民警察本部の実態を逆に告発するので、そのつもりでいてほしい」

「私たちがとった行動は、すべて日本政府の許可をとっている。謝罪するなら日本政府がすべきである。それを私に押し付けるなら、私たちは本当の逃亡者になる」

「明日は、UN車両をホテルに預けずに、300キロ逃走して、バンコク日本大使館の中に乗り入れる。そして記者団に、日本政府の指示でやったと発表する。これなら、車両を強奪して、立派な逃亡者だ。そして日本政府は共同正犯になる」

「大使館の施設内は日本国である。この中にUN車両を乗り入れたら、どうなるかお分かりと思う。入れまいと阻止したら、もっと大きな問題になる」

「これは脅しではない。私が、これから本気でする行動の告知である」

「もうこれ以上、あんたの声は聴きたくない。二度と私に電話をかけないでくれ」

川野邊は後に手術が必要なほどの銃創を受けており、丸三日間、ろくに寝ていませんでした。実際に発した言葉は、もっと乱暴で、汚かったそうです。

その後、タイの日本大使館の書記官から川野邊に「事態は好転した。なにも心配しないで、大使館に来てくれ。ただし、UN車両だけは、そこに置いてきてくれ」との連絡があり、川野邊はその通りにします。

しかし、UNTACの文民警察本部は、川野邊たち6名を逃亡者と見なしたままでした。ルースは山崎に「日本の警察は職場放棄した。これが日本の警察か? 今回の一連の日本文民警察および日本政府の動きは、初めての日本警察のPKO参加の意義を台無しにした」とまで言います。

もっとも、この事件の直前には、イタリア、アルジェリアハンガリー文民警察官が職場放棄してプノンペンまで来て、文民警察本部長のルースに直訴する事件も起きていました。一部は任地に戻りましたが、帰任しなかった警察官は帰国処分となっています。

UNTACは川野邊班の日本人文民警察官に、健康に問題がなければ、再び同じ任地に戻れ、と強く要求してきました。一方、これ以上の犠牲者の出せない日本政府は、帰任を頑として認めません。プノンペンに戻った川野邊班の「健康な」4人は、日本の自衛隊の医師に「事件のショックにより抑うつ状態にあり、40日間の休養が必要」との診断を受けます。ルースは日本人同士の談合の結果だと判断して、ドイツ軍の野戦病院で診察を受けるように指示します。しかし、言葉の障壁が大きかったので、ドイツの医師は自衛隊医師の診断を追認する形となります。職場放棄など、あいつぐ文民警察官の反乱をもてあましていたルースは、この診断を受けて、川野邊班の4名を帰国処分、つまりクビにします。

バンコクの病院で治療を受けていた川野邊たち2人もプノンペンの川野邊班の4人と同じ便で日本に戻り、関東管区警察学校学生寮に隔離されます。カンボジア文民警察官全員が帰国する7月まで、そこから出られず、外部との接触も禁止されていました。川野邊のような人物がマスコミに余計なことを話さないようにするためです。

この記事のタイトルである「なぜカンボジアPKOの日本人文民警察官は職場放棄したのか」についてですが、その答えは「告白」を読むだけでは分かりません。というより、「告白」を読むだけだと、「日本人文民警察官は職場放棄などしていない。UNTACの文民警察本部が勘違いしていただけ」になります。しかし、もし本当に勘違いなら、隊長の山崎や日本政府は強硬に訂正していたはずですが、そんなことは書かれていません。なお、「告白」が徹頭徹尾、日本人文民警察官寄りであることは間違いありません。

カンボジアPKOの最大の失敗」に続きます。