前回の記事の続きです。
「令和の虎」の神回「成田悠輔」で、成田は自身の著作「22世紀の資本主義 やがてお金は絶滅する」(成田悠輔著、文春新書)でも述べた理論を主張し続けます。私自身は、この本を読んでおらず、番組を観て衝撃を受けたので、すぐに発注して、まだ届いていないところです。
本を読めば、また感想が変わるのかもしれませんが、成田の説は19世紀の産業革命勃興期、人類史上最悪の富の格差が生まれた時代に、マルクスを含めた多くの思想家がたどった思考と同様です。いえ、19世紀に限らず、有史以来、私程度には知性のある多くの知識人が必ず深く広く洞察した思考体系(イデオロギー)です。もちろん、私も14才くらいの頃から、ずっと考えています。一番時間をかけて考えていたのは18才から22才くらいだったと思います。
自由経済にすると、必ず富の不公平な偏在が起きます。それを是正するため、公地公民や(金融業を卑しいとみなす)キリスト教や共産主義が歴史に、ほぼ必然的に生まれています。しかし、公地公民は貴族が荘園(私有地)をなし崩し的に増やして事実上消滅したように、金融業を忌避したキリスト教が社会を支配した中世ヨーロッパが暗黒期と呼ばれるように、世界中の共産主義が失敗しているように、平等経済は必ずうまくいきません。
なぜでしょうか?
それも世界中の知識人が考えてきました。いろいろ言われますが、だいたい次の言葉に集約されるでしょう。
(結果が平等なら、人間はどうしてもさぼってしまう。理論上、自分が平均より楽した方が得だから)
結果の平等は、人間を怠惰にさせるんですよね。結局、「人は自分のためにしか生きられない」ので、理論上、「できるだけ楽をする」が自分に有利な生き方なのですから、そう生きるに決まっています。もちろん、「情けは人のためならず」(私の最も好きな日本の言葉)なので、平等社会だからといって、あからさまにサボって生きるわけではありませんよ。そんなことしたら、他の人たちから嫌われて、経済的に損はしなくても、精神的に損しますから。だけど、どれだけ必死に働いても、自分の得にならないのですから、どうしても楽しようと人間はします。それが理論上も賢い生き方だからです。
だから、社会に自由競争は必要なんですよ。いえ、もう少し正確に言います。結果の不平等も必要なんですよ。
実際のところ、結果の不平等があれば、人間は自然と競争します。富の不平等さえあれば、自由競争でなくても、莫大な富を得る方法は、なにかしらありますよ。たとえば、王族でなければ莫大な富が得られない身分制の封建社会なら、自由競争なんてない、と現代なら考えますよね。でも、女性だったら後宮に入って王族と親戚になる方法がありましたよ。男でも、娘を後宮に入れて、外戚として出世する必勝法が世界中にあったじゃないですか。日本の平城京(奈良)と平安京(京都)を実質的に支配した藤原氏なんて、もろ外戚じゃないですか。いや、もちろん、後宮に入れる女性の身分が限られるので、外戚になれるのはごく一部の貴族に限られる、という制限はありましたけどね。
でも、今だって貴族社会と同じく、親で人生のほとんどが決まりますよね。だから、「親ガチャ」という流行語があります。親に恵まれた幸運な妻なら、子どもたちを一方的に連れ去って、親に恵まれなかった不幸な夫相手に、婚姻費用まで請求できるんですよ。「法律上の結婚必勝法・男編」と「法律上の結婚必勝法・女編」に書いた通り、「婚姻費用は満額請求できます」と、裁判所のお墨付きまで得られます。
だいたい、今の自由経済社会は、本当に自由経済ですか。意思と能力さえあれば、誰でも自由経済に参加できるんですか。違いますよね。
資本主義社会の根本的な矛盾の一つに、自由競争が「平等」でも「道徳的」でもないことがあります。たとえば、現在、フジテレビ買収を目指しているらしい村上ファンドと、競争できる日本人なんて、何人いますか? このブログを読む人の中には村上世彰と同等の知性を持つ人も多くいて、倫理観にいたっては村上世彰より遥かに高い人なんて、いくらでもいることは私も知っています。でも、私同様、村上世彰とのフジテレビ買収競争に加われませんよね。そんなお金がありませんから。
だから、資本主義は自由競争と言いながら、自由(他からの束縛を受けず、自分の思うままにふるまえること)では全然ないんですよ。(もともと理系の私は言葉遊びを嫌うのですが、ここでは止むをえず言葉の意味にこだわります)本来の自由には平等や道徳の意味も含んでいます。資本主義の自由競争は、自由の平等面(誰もが等しく競争に参加できる)や道徳面(人が社会の一員として守るべき規範)が損なわれているのです。その人の知性や倫理観とは関係なく、単にお金のあるなしで、制限されています。これは資本主義社会が悪徳を産む大きな原因の一つです。
だから、資本主義社会が好ましく運営されるためには、自由競争が理想の自由競争、具体的には「自由平等道徳競争」になるべきです。あるいは、ならなけばいけません。
1995年のIT革命以後、アメリカが日本よりも一人当たりのGDPで遥かに上回っている理由の大きな一つは、アメリカの自由競争が、日本の自由競争より、遥かに平等で道徳的だったからだ、と私は考えています。
世界一の大金持ちになったビル・ゲイツは一番いい例でしょう。彼はそのお金のほとんどを「ビル&メリンダ・ゲイツ財団」に費やしています。つまり、教育・貧困・保健の水準の改善などに尽力しています。
また、1994年から13年連続でゲイツに次ぐ世界第二位のお金持ち、ウォーレン・バフェットはその天才的な投資により、アメリカの富を確実かつ健全に増加させています。さらに、ゲイツ同様、バフェットも個人財産のほとんどを慈善事業に寄付しています。
これらアメリカの大富豪に匹敵する高い倫理観の持ち主が、日本の大富豪に一人でもいたのでしょうか。「昭和の亡霊とその崇拝者が滅亡するのはいつの日か」で嘆いたような、ろくでもない大富豪ばかりです。日本の大富豪が全員ろくでもないとは言いませんし、ろくでもないと切り捨てるだけだと誤解になる大富豪がいることも知っています。しかし、それらを全て考慮しても、ゲイツやバフェットの知性や倫理観と比べると、日本の大富豪は全員、足元にも及ばないはずです。
だから、特に冷戦後の日本の自由競争が、アメリカ並みに平等で道徳的であれば、今の日本はアメリカと同等の豊かさになっていたはずです。アメリカのように、日本で意思と能力さえあれば、どんな競争でも自由に参加できていれば、意思と能力のある者に資産家が適切に投資していれば、現在のアメリカと日本の一人の当たりのGDPは同等だったと私は推測します。
このブログを開始する10年くらい前から、私は「国家の富は国民の道徳と教養によって決まる」と考えていて、今もそれは全く変わっていませんし、間違っている証拠もいまだ見つけていません。だから、他のより豊かな西洋先進国のように、日本が道徳や教養を適切に評価する国であったら、アメリカ、オランダ、フィンランドのように日本も豊かになっていたはずです。物質的にも精神的にも。しかし、「私の努力や真面目さを評価してくれたのは日本人よりカナダ人でした」。
テーマが壮大であるため、私の書いている内容も漠然してきました。「では、どんな政治体制なら、理想の社会(道徳や知性が正当に評価される社会)になるのか」については、「原則自由で、適切に規制する」が答えになるでしょう。もう少し長く説明すると、「自由が原則だけど、自由経済だと教養も道徳もない奴が大金持ちになる弊害が出るから、そういったことは規制する」になります。だから、今の民主主義社会でいいんですよ。
いや、ぶっちゃけ言えば、民主主義社会でなく独裁社会でも、「教養と道徳が正当に評価」されていれば、国民全員が豊かになっていくんですけどね。シンガポールやルワンダのように。ただし、スターリンやヒトラーを筆頭に、世界史上に残る悲劇を生んだのは、例外なく独裁者です。だから、独裁者の存在を許さない民主主義社会が間違っているわけではありません。
余談ですが、完全な自由恋愛も自由経済と同様な問題が発生することは7年前の「結婚のない社会の弊害」と4年前の「一夫多妻を禁止するのは大多数の男性のためである」に私は書いています。
これらの考察を前提に、ようやく、成田悠輔の主張する「未来は、お金のいらない社会になるのか。また、それは理想社会なのか」を論じますが、長くなったので、次の記事にします。