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フェミニストだから女性に嫌われる

「母恋い放浪記」(西村滋著、主婦の友社)という著者の少年時代の自伝を読んでいて同情してしまうのは、西村は女性に優しいくせに、女性から嫌われていることです。西村は当時としては偏差値100を越えている、現在でも偏差値70を越えていると思うほど、フェミニストです。
継母や、お世話になっている友人の母の家事を西村は当たり前のように手伝っています。友人の母は帰宅してみると、西村が家事を全て終わらせていて、なにもすることがなかったこともあったようです。
そこまで少年の西村が家事を担ってあげているのに、継母にも友人の母にも全く好かれていない、むしろ嫌われています。
(男のくせに家事なんかして。私の家事に不満があるの?)
当時であれば、家事をする男性に対して、ほとんどの女性はそう感じたはずです。
継母も友人の母も西村に対して「如才ない」と裏で言っていたことが書かれています。
「如才ない」は「気が利いていて手抜かりがない」という意味で、私などは一生に一度も使ったことがない言葉です。約100年前も日常用語でなく、意味がぼかされた言葉だったのでしょう。本来なら誉め言葉のはずが、継母も友人の母も「如才ない」を明らかに西村の批判として使っていて、それを知った西村の傷ついた心情が赤裸々に本で語られています。
西村は戦災孤児を助ける施設でリーダー格の補導員として活躍し、同じ施設で働いていた看護師と結婚しています。その結婚相手について「雨にも負けて風にも負けて」(西村滋著、主婦の友社)にはほぼなにも書かれていないので、その女性が西村の女性に対する優しさや倫理観を理解できたかは分かりません。
ただし、西村の先進的すぎる女性観を理解できる人など、男女問わず、当時はまずいなかったはずです。私の予想では、西村の結婚相手は家事を手伝ってくれる男性を単純に高く評価したから、あるいは「戦災孤児に対する献身的な働きからすれば、彼が優しいことは間違いない。彼の考えはよく理解できないけど、彼を信じて、彼に着いていこう」と、ある意味で家父長的に西村に従ったから、結婚生活もうまくいったのではないか、という気がします。

フェミニストだから女に嫌われることは、今でも珍しくないと断言しておきます。その理由はこれまでの記事に書いてある通りですが、あえて書くなら「女性がそれを望んでいないから」です。